2019年02月24日

松川浦の津波はどうだったか? (地形は自ら歩む、自転車で地形を感じる、地図では土地の高低などがわからない)


松川浦の津波はどうだったか?

(地形は自ら歩む、自転車で地形を感じる、地図では土地の高低などがわからない)

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青い線は津波前からあった

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川口神社 鳥居と石碑は流された
でもここは高いから神社は残った
なぜこんなに高い所に作ったのかとなる
それで神社は津波からまねがれたのが多い


この線よりは下だった、もともと青い線は津波の前からあった
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この松が枯れずになぜ残っているのか?
ここまで津波が上がらなかったのか?
塩水をかぶれば枯れているはずだが?

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相馬共同火力発電所がある方でも小泉川の方におしよせた
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この神社の石段まで津波が来たが社のある所には来ていない
だから石段を上り避難すれば助かった
ただここは別に津波の神社ではない
津神社はみんな津波とは関係なかった
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墓地で津波がさえぎられたという不思議

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おそらく今日聞いた墓地の所で両側から津波が来た
そういうふうに一方方向でない、地形により津波は変化する
ある所で渦巻いたというから空恐ろしいものだった

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○の所が墓地である
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この墓地で津波がとまったというのも不思議である
そんな効果が墓石にあったのかとなる


松川浦のホテルが津波に襲われた映像は衝撃的だった
松川大橋の下を津波がおしよせた
今日行ってみると川口神社は高い所にあったが鳥居とか石碑が流された
そこに立つとホテルが見えた、そこは低い場所だった
坂道になっていた
これも不思議なのだがなぜ川口神社もあんなに高い岩の上にあったのか?
あそこまでは津波がとても届かなかった
低い場所には津波が襲い被害が大きかったのだ
ホテルに青い線があったがあれは津波の前にもあった
youtubeの動画の映像に映っていた
あの線よりは下だったのだろう

津神社(つのみつ)でもそこの神社がある所までは津波は来なかった
でも石段までは来ていたのである
道を津波が上っていったのである
ただ津神社の境内に入れば助かった

それからぐるとまわって船越行く所に墓地がありそこで偶然そこに住んでいる人に聞いた

「あの墓地の所で津波が止まったんです」
「ええ、あの墓地で止まったんですか」
「ええ、向こう側は被害があったんです」
「あの墓地でね、そんなことがあったんだ」
「そして右側からも尾浜の方から津波が来たんです
それから原釜の方からも津波が来たんです
両側かから来たんです、それは恐ろしものでした」
「両側から来たんですか、それは恐ろしいですね」
「避難所に逃げたのですがその途中で津波に襲われた人がいるんです」
「そういう人もいたようです、逃げるにも津波は早いからぎりぎりだったった」

津波は逃げる途中で確かにさらわれて死んだ人も多い、車でもそうだった、逃げきれなかったのである、それは車が渋滞とかなって逃げ切れなかったのである
一刻を争う時車は障害物にもなったのである
あの墓地の近くの船越観音も高い場所にあり津波から残ったのか
錨堂などがあった、とにかく原釜の被害が大きかった

ただ相馬共同火力発電所は海に近くそれなりに津波も襲ってきたのだから被害が大きくても良かったがそれほどでないとも聞いた
原町の火力発電所は海に面して突き出た所にありもろに津波に襲われて被害が大きかったそこで私は原町の火力発電所から煙が出たのを見た
火事になったのである、原町火力発電所の被害は甚大だったのである

 当時、発電所には社員やPRセンターを訪れた家族ら約1100人がいた。全員が1号機のタービン室に避難したが、津波で建屋1階が浸水し丸1日孤立したという。
 貯炭棟といった施設や変圧器などの電子機器は全て水浸し。石炭を運ぶベルトコンベヤーは壊れ、揚炭機2機は大きく傾いた。その南側には石炭船が座礁している。

ここもは被害は大きかったが原町火力よりは早く復旧したのである、原町火力は被害がやはりこちらより大きいから復旧が遅れた
いづれにしろ津波から8年になるがだんだん忘れるということがある、他からも忘れられるということがある
ただ今になると冷静に見れるので再検討した
それにしてもあんなに海に近いのに原釜の松が枯れていない不思議がある
原釜の家の被害は甚大であり壊滅状態だった、今は高台になったいる
それから大きなタンクはガスタンクでありここが供給基地となり今も大きな工事をしている
ここはだからもともと人数として多く働く場だったがガス関係でまた働く場が増えたとなる

今回松川浦全体を回りわかったことは

地理は地形は歩くか自転車かで踏査しないとわからない、地図を見てもわからない
土地の高低が地図を見てもわからない

これをつくづく感じた、人間の五感に優るものはない、地形を地勢を知るには自らの足で歩み感じるほかないのである
今回の新しい電動自転車は役にたつ、機動力があるからだ、すいすい坂でも行けるからである
すると地形もわかりやすくなるのである

そして錯覚したのが松川浦では結構高台に家があり松川浦が全滅のようにテレビでは見えたがそうでもなかった
低い場所の被害が大きかったのだ
テレビはやはり錯覚をもたらす、実際に知るにはその現場を自ら歩み五感で知ることである
テレビの画面からだけでは錯覚を生むのである
とても立体的な地理をテレビの画面からだけでは知りえないからである
のである
これはどこでも津波の教訓だったのである

低い場所は津波には弱かったのである
だから低地に家を建てるのは海に面していたら危険だったのである
ただ高台は不便だから低地に家を建てるようになったのである
もともとは最初は高台に人は住んでいたのである
そのために古い神社はたいだい高台にある
その高台に人家もあったとなる
posted by 老鶯 at 22:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた (その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)


私の父は双葉の新山の酒屋で丁稚で働いていた

(その記念の皿を割ったー終活は大きな負担だ)

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これは今の双葉郡の新山だけで元は長塚町だった

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歴史という時、相馬藩の歴史とかまた大きくは国の歴史がある
人間が一番興味があるのは自分が育った家の歴史なのである
だから自分のルーツに興味をもつ人が多いのはそのためである
それで郷土史は祖父母からおじいちゃんやおばあちゃんから聞く話からはじまると書いたおじいちゃんとかおばあちゃんはどうしてもその家の語り部になるからだ
何か必ず伝えるものがあるからだ
そこにはただ負の歴史がある、語りたくないものがあるのですべてを語りたくないし
隠したいものがあるしプライバシーにもふれるから他人の家のことをとやかく語りにくい面があるのだ
それで一軒一軒の家が郷土史として歴史なのだけどわからないのである

ただ家族がみんな死んで自分の家に残ったのは自分一人である
すると私自身に課せられたものがある、それを残す作業をしている
終活というとき物の整理になるが実際はそれだけではない
親や祖父母の残したものは物が残ったとしても精神的なもの、モノでは語られないものが多いからである、つまりモノがあったとしてもそのモノにまとわりついたストリーが思い出があるから簡単に捨てられないのである
モノとは単なる物ではない、その残されたモノにはこれまで生きた思い出がしみついているからだ、親が死んだときだからそういうものを整理するとき捨てていいかどうか悩むのがわかる

そういう自分だってもういつ死ぬかわからない、それで自分自身の終活もある
それが重なるのが高齢化社会なのである
まず家の物を整理する作業が大変なのである、だから放っておくとゴミ屋敷になることがわかる、何か整理することが相当なエネルギーを必要とすることがわかったからだ
それで毎日整理しているのだけど整理できないのである
それは知的作業としても今まで書いたものを詩などが膨大にあっても整理できないのである
そして家事をするにもしやすいように整理整頓しているがこれもまた苦労なのである
毎日家事をすることや整理の仕事や料理でもしないなるとそうしたことに追われている
そしてつくづく人間はいろいろなことに頭が回らないということである
それで冷蔵庫でも良く見ていないと同じものを買っていた
認知症になるとそういうことが多いが度々開けて見ていなと何があるかわからなくなっているのだ

この皿を割ったのはそこにあったことを忘れていた、棚にあったがそこから落ちた
それで割ったのだがその時はじめてこの文字を書いてあることに気づいた
磐城国新山」とあった、磐城国というとき磐城大田とか原町の隣の駅にあるように
磐城国にこの辺はなっていたのだ、それは明治以降そうだった
それで葛尾村(かつろう)にも磐城落合とか地名が残っているのだ
そして浪江とかは今でもいわきナンバーなのである、つまり磐城国を受け継いでいるのである
ここで私の父親は葛尾村からこの酒屋で丁稚奉公に出て働いた、そして暖簾分けして鹿島の地に移ったのである
それは聞いていたのだがあまり意識しなかったが家族がみんな死んだ結果意識するようになった
今でも大きな酒屋が双葉には残っている、富沢酒造店であり煙突も高いので営業していたのである
その辺の近くに私の父親が勤めた酒屋があった、でもそれは倒産してなくなったのであるそれは戦前のことであった、そして父の娘である姉はそこに銀行があったとか言っていたその当時おそらく銀行はどこにもない、めずらしいものだったのである

とにかくこうして残されたものが物語ーストリーがある、それが歴史である
モノがあったとしてもそこには必ず物語がつきまとっている
そういうものが一軒一軒の家に残されている、そして蔵のある家などで何か探していると偶然に遠い過去のことが資料として出てきたりする、それが貴重な郷土史になったりするのである

いづれにしろこの終活は時間がかかる、それは物を整理するというだけではない、そこには物語とか精神的なものが付随しているからである
それを受け継ぐことをどうするのか?
それは国家的なものでもそうである、戦争で300百万人死んだという時もそうである
一体そうした死者をどうするのか?どう扱うのかとが大問題になっているからだ
それは70年過ぎても解決しないからである
後世のものがそうした歴史の負の遺産であれプラスの遺産であれ引き継ぐことになるからだ、それで姉が従軍看護婦として四年間シンガポールの隣のジョホールバルで地獄の苦しみを受けて生還した
そのことを死ぬ直前まで語って死んだ、認知症になってもそのことが一番印象的だったから忘れなかったのである

それで失敗したのが認知症になっても島根県の戦友がいてその人からもらった手作りのバッグを肌身離さずもっていたのである、そして連絡が絶えてしまった
その時死んだことを連絡すればいいと今になって思った
すでに死んで8年もすぎた、今になって気づいたのである
なぜなら認知症になったことでふりまわされ次に母の介護とか津波原発事故とかで何か余裕をもってふりかえることもできなくなっていたからだ

ただインタ−ネットのプログとかこうした個人的なものを書き残すには向いている
そうでないと公にされないから普通は個々人の家の歴史はわからない
伝えられないのである、またプライバシーがあるから伝えにくい面がある
でも歴史として郷土史として残す価値はある
つまりどうしてその家が郷土で成り立ちまた繁栄したりしたのかという物語がわかるからだ、何か繁栄するにはそれなりの理由があるからである
もちろん母の実家は父が警察署長になったとしてもその後機織り工場経営で失敗して一家離散になったとかそこには残される歴史でも負の部分が多いし親戚ともめたので今は私は墓参りもしない、そういうふうにいくら家の歴史でも負の部分が大きいと語りたくないとなってしまうのである
ただこの負の部分が必ず家にはある、だからあまり一軒一軒の家でもその家のことは語りたくないとなる、だからあるその土地の家が語られるときやはりその土地で何かしら貢献した家だとなる

posted by 老鶯 at 09:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)