2019年02月20日

春寒し(風流は寒きものなり)


春寒し(風流は寒きものなり)


我が一人大き家に住み春寒し

ふるさとに貧しき女春寒し

春寒したずねて帰る女あわれ

食器洗う男やもめや春寒し 

我が家の長き争いやみにしもなどか淋しき春寒しかな 


(風流は寒きものなり)ー斎藤緑雨  

これも逆説である、今日は曇っていて雨はふらないがふりそうであり春寒しにぴったりの天候である
何か最近天候不順で温暖化とか騒ぎ天気が変則的になっている
今日は季節的には雨水だとか春寒しにあっている
この寒さはまた冬の凍るような寒さとは違ったものである
何か日本人はそうして微妙な季節の変化に対して敏感でありセンスがある
おそらく百姓だってまだ春だけど寒いなということが季語になったのである

それで(風流寒きものなり)ー斎藤緑雨 という言葉が生まれた、ただこの寒さは秋でも寒いし冬の寒さでもある、まず江戸時代でも明治以降でも戦前でも戦後でも十年くらいは炭だったから寒いとなる、私の家は最初はトタン屋根で雨漏りする家だった
風も隙間風びゅうびゅう入ってくる、今の家の弱点は古い家だから隙間風が入るのが弱点である

ただ寒いということにも風流を感じるのは人間だからである、日本人は季節の移り変わりで共感する、それが文化となる、あいさつも天候のことだからである
この文学と俳句でも短歌でもなにか効用があるとしたら春寒いとか自分の場合一人でありそれが何かかえって風流になる、一人だと感じることが多くなるからだ
大家族でにぎやかだと淋しいとかも寒いとすらなくなるかもしれない
人のぬくもりであたたかく感じるからである

ともかく家族が死んでからんとした大きな家に一人いるのも寒々とすることがある
一人暮らしの老人が増えているけどこれも問題である
ただなぜ一人暮らしになるのか?人間は夫婦でも親子でもみんなうまくいかない
何かもめるのである、それで家に来る見守りの女性は息子と別々に暮らすようになった
だからこそこんなに一人暮らしが増えている、一人暮らしは経済的ではない
電気水道でも一人だと何人かで暮らすと同じようにかかるからである
でも現代はそういうところが贅沢なのである

私の家族は特殊で長い間60年も一緒にいて争っていた、最後死ぬときも一人が認知症になり悲劇的結末になった、60年も一緒にいれば争わなくてもいいと思うがこれも女性の業なのである、人間は一人の男をめぐり争うのが業なのである
「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム」これを毎日見ている
このように延々と女の争いが戦いが繰り広げられる
そこに権力もからんでいるが女性は王の寵愛を受ければ権力も同時に手に入るからそうなる、これも何か寒々とする
あれば作り話である、でもそれが全く創作したものかというとそうではない、現実にそういうこととにたことがあり作られたのである

貧しい人がいたとしてそれに同情するのもまた自ら困ることになる
なぜならその女性は今度は病気で入院したとかなりそうなるとこちらが世話役なのかとなってしまう、現実に今はただ金を無心に来るだけであり何もしない
全部家事は自分一人でするほかない

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される

船の棹は、川底を棒で突いて、舟を進めていきます。棹を強く突けば突くだけ、
早く進む事が出来る。
元々、(情という)流れがある所に、更に情でもって棹を突けば、どうしようもなく
流れてしまって、舟がコントロールできない状態になってしまう、

こういう意味だった、貧乏な人がいる、それに同情するのはいいがそうなるとそれもきりがなくなるのである
そうしていくらでも金でも要求される、もう本当にコントロールできなくなる
どこかで非情にならざるをえなくなるのだ、この世には貧乏な人でも山ほどいるし病気の人も山ほどいるし障害者もそうである
とするとそういう人に同情するのはいい、かわらなければいい、直接かかわるとまた違ってくる
金でもなんでも与えることになり自らの生活も脅かされるようになるからだ
それで情に流されることも危険なのである、誰でも同情することは悪いことではないしそうあるべきだがそれも切りなくなるから困るのである
手伝いとして働くのではない自分自身が手伝いにもなってしまっているからだ

ともかく文学とかの効用は貧乏でもあるというときかえって貧乏とか寒いとかの方が風流があるというときそれは何か人間には足りないものが必ずありそれを補うものとしてある宗教にもそういう面がある
人間はどんなに裕福でもまた便利でもそれで満たされるとはならない
かえってあばら家にも月が出て美しいとなる、自然の美は貧富とは必ずしも関係ないのである、自然の美は無償であり無料なのである
金持ちの家に太陽が照り月が輝くとかならない、あばら家にも同じように太陽の光はさすし月も星も輝くからである
そういう点で人間は平等だともなる、自然によって人間は飾られている
それは再三言っているけど東京のような一番繁栄した場所に美がない、それは自然がないからであうる、江戸時代ならあったが今の東京にはそれがないからである

いづれにしろ季節の変化を書くのは俳句とか短歌が向いている
日々変化しているからである、だからこのプログはそうして表現するには向いているのだ俳句とか短歌でも普通は雑誌でも月間だからその日その日の感想を書くことはできないからだ
ただ逆に読む方になるとなかなかいろいろあって調べるのもめんどうだとかなる
ただyoutubeでも個人のメデアになったことが大きな変化だったのである
だから限りなく表現できるのである、制限されないからである
即座に書いてすぐに読むことができるからだ
それで私は膨大なものを書いてきたのである






新幹線春の俳句


新幹線春の俳句

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みちのくへ春風切って新幹線

春光にたちまち過ぎる新幹線

みちのくの芽吹きや早し新幹線

タンポポや一挙に遠くへ新幹線
                           
I go away by Shinkasen
at a stretch in the distance
dandelions bloom

北上の春の流れや新幹線

春の灯や街はいづこやはや過ぎぬ

みちのくの春の山々新幹線   

新幹線おりてローカル残る雪


新幹線に乗るとか景色を見るとかは新しい体験である
技術の進歩は新しい体験をもたらす
今回買った電動自転車でもそうだった
これだけは自分にとって本当にいいものだった
まず走りが全然違うのである、だからこれなら体力がなくても遠くに行けると思った
それで原町までも楽に行けるようになった
自転車にいろいろのったけどこれは別格だったのだ

新幹線で青森から弘前まで行った、それは二三年前のことである
だから記憶としては鮮明であるだいたい30年前とかまでに普通なっているからだ
そうなると思い出すとしても鮮明にはならないからだ

ともかく新幹線は早い、景色もゆっくり見ていられない
でも新幹線の体験はやはり異次元の体験なのである
一挙に遠くへ行ってしまう、そこでタンポポが咲いていたなとかわずかに見えた

それから新青森から弘前の方にローカル線に乗り換えた、その時は暑いくらいの気候だった、それでも青森の山に入ると雪が残っていたのである
そこから山を分け入り弘前についたのである

新幹線は飛行機よりはいい、まだ外の景色も見れる、これがリニアになったら外の景色すら見えずただ飛行機のように移動するだけだとなる
飛行機というのはつまらない、景色が見れないからである

ただ最近気づいた、仙台空港から大阪に行くのは飛行機の方がいい
電車で直通で今は行けるからだ、ただ大阪京都は外人が多いから行きたくない
泊まるホテルを確保するにも大変だからである
正直今は旅をしたくない、それでも今度買った自転車では春になったので遠くへ行ってみたいとなる

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