2019年02月17日

20万入りのサイフを落とした! (これもつくづく不運ー金運がない自分)


20万入りのサイフを落とした!

(これもつくづく不運ー金運がない自分

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これまで着ていなかったものでありこの裏ポケットから財布が落ちたらしい
それしか考えられない、すぐに気付けばよかったが家事で忙しくすぐに金を
別な所に保管しなかったのでもう探せなくなったのである

これはポケットというものではない、何かわからないがとりつけたものだった
両側があいていたからである



こうなったのは朝にカードで金を下ろしにコンビニに行った、そこで20万おろした
そのサイフを穴のあいた内ポケットに入れたためだった
今日あたたかいからうすいジャンパーにして中にこのチョッキを着た
それが不運だったのである
それも用心しすぎた結果である、チャックがないポケットだと落ちたりすると思って内ポケットがあるからそこに入れた
それはポケットというものでもなかった
半分あいているポケットだったのである
これは利用していない、今回はじめて着たようなものだった
普通にジャンパーにサイフを入れていればこうはならなかった

これは探しようがなかった、帰ってきてすぐに気づけばよかったが家事でいつも忙しいのでそれを忘れていたのである
まず落とすとは思ってもみなかったからだ
これは本当に不運としかいいようがない
私は金運がないとつくづく思った
金運があったのは姉であり母にも父にもなかった
今頃もし姉がいなかったから私の家は貧乏だし自分も貧乏だった

なぜなら父は酒屋だったがその酒屋もつぶれたりそれから母の実家も事業に失敗して一家離散になったりもう一軒も会社が倒産して悲惨にその両親の跡を継いだ息子夫婦は死んだそれからまた父方の親戚とまでならないにしてもやはり事業に失敗した
それで借金をかかえていて苦しんでいたから自分の家が苦しい時助けることはできない
何かこうして金運とか事業運とかてない家系なのである
ただ姉は違っていた、金運があるし事業も成功するような人だったのである

だからこそ遺産を残したのだがそれで自分にも金運がないのだが金運があったとなる
ただ自分自身にはつくづく金運がない、遺産を受け継いでもそれが減るばかりだった
大金をタンス預金をして盗まれたとか銀行に投資信託で失敗したとか何かその後金は出てゆくばかりだった
それも自分の運命だったと思う
こんなふうにしてサイフを落とすというのもよくよく不運だったのである
不注意というものではない、内ポケットがあいたものだったということなど予想もしなかったのである、それもたまたま着たこともないものを着たのだから不運だった
これは不注意とはいうよりは不運としか言いようがない
こういうことは人生である、これはどうにもならない不可抗力の運命がある
そもそもそうだろ、人間のそれぞれの運命をみればもう若い内に死ぬ人もいる、事故で死ぬ人もいる、すでにもう同級生の一割は死んでいる、重い病気になる人もいる
津波で死んだ人もいる、つまりこれらはただ不運なのである
そうとしか考えようがないものである

財産がf0rtuneというとき運命ともなっているからである
何らかの運が作用しているのであり人間一個人の力でまず財産は作れない
それは時代にもよる、高度成長の時代だったらいくらでも財産を作れる時代だった
貯金でも7パーセントとかの利子がつく時代があったからだ
それはただ時代の幸運だったのである、いつの時代に生まれか生まれないかでも運不運がある、どの親に生まれかでもそこに最初から運不運がある
それこそ生まれたときから運不運があり将来も決められていたともなる
今や銀行にあづけても投資信託などをすすめられて利益はとられるだけである
この相違も大きかった

いづれにしろタンス預金で大失敗したしまたキャッシュでも失敗したから現金を持ち歩くこと自体危険だからキャッシュレスの方がいい
それは老人にはめんどうでも必死に覚えようとすれば覚えられる
それが安全とわかればそうできる、ただ今の状態がつづいているのは別にたいして不便を感じないからである、ただ安全面からするとキャッシュレスの方がいいとなる

とにかく親が介護になり病気になり死んでも何か自分には不運が続いているのである
もともと幸運だったのだから不運なのではないがそういう不運が今になって続出しているそれもカルマだったとなる、不運というのではなく自分のもったカルマだったとなる
こんなふうにしてサイフを落とすということはありえないことだからである
よほどの不運であり不可抗力だったと思うからである
まずこの金は帰ってこないと思う、前は忘れた所がわかりスーパーとかでとっておいてくれたから良かった、でもその時はたいして金は入っていなかった
今度は大きな金だったかちショックだったがこれもカルマだったのである
小さい金ではないということがやはりカルマとして現れたのである
金になんかカルマが関係していることは間違いないのである
何か金を出てゆくカルマがあったとなるのだ

結局ある程度の年になればもう生きていることが得だとも考えるようになる
なぜなら同年でも死んだ人が増えればそうなる
ああ、まだ自分は生きていたな、幸運だったとなる
20万なくしたにしても命はあまだあるとか考える、まだ金もあるとかなる
これもショックだったが不運はどうにもならない、防ぎようがないからあきらめる他ないのである
posted by 天華 at 17:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年02月18日

高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界 (老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)


高齢化社会の商売は芥川龍之介の羅生門の世界

(老人が食い物にされまたそれに罪悪感を感じない―変わらない人間のエゴ)

芥川龍之介(羅生門)

何か最近会った人は遺品整理会社の人が福島市から来たり近くでも家事手伝いとか老人の話し相手とかの家政婦斡旋の仕事をはじめた若い人がいる
銀行では金をもっている老人に必ず手数料でももうける投資信託を売りつける
もともと介護でも老人が増えてそのサービスが増えていた
地方ではそういう仕事が増えていた、若い人がそういう所で職を見つけていた
第一私の駅前が葬儀屋になっていることでもわかる
そこはもともと農協のスーパーだったことがある、それが葬儀屋になった
そさは死ぬ人が増えてゆくから商売になるからである

それが芥川龍之介の羅生門ににていると思った
羅生門には次々に死体が運ばれる、火葬にもされない、死体が捨てられる場所になっていた、そこで死人から髪の毛をぬいている老婆がいた
それで鬘を作るためだった、それを見ていた通りがかりの人がそれを見て嫌悪した
その老婆の言い訳はこの死人たちはあくどいことをしていた人たちだからかまわないと言ってしていた
そしたら通りがかりの人にその老婆の着ているものをはがされて裸にされた
こういう人間の醜い姿を芋粥とか蜘蛛の糸とかで小説にした
それを今になりなるほどと理解した

その描写はまさに現代の高齢化社会を表現していたのである
次々に死体が運ばれるという時まさに団塊の世代がそうなってゆく
それは自分でもそうである、そこで老人向きの商売が増えるのである
つまり人間の醜さは死体からも金目になるものでも役にたつものでもはぎとるのである
そういう輩が普通であり人間は生きている時からそうなのである

自治体が運営する火葬場からでる仏さんの残骨灰を、廃棄物業者の間で奪い合いになっています。この灰のなかには、人骨などと同時に金、銀、プラチナなどの貴金属も交じっているからです。

少し前まで、これらよごれビジネスは、金にはなるけれど多くが手を出さない嫌われるビジネスでした。それが、今では脚光を浴びるビジネスへと姿を変えています。

大きな目でみますと、現在のわが国は過去にため込んだ資金や資産などを、掘り返すビジネスが脚光を浴びています。想像している以上に、この国のパイは小さくなっている気がします。


このようにまさに羅生門と同じなのである、ナチスでもガス室で殺された人たちから死体から金歯をとったということがあるから世界でも共通している
人間の欲は世界共通なのである、宗教が違っても同じである
キリスト教徒がみんな聖人でもなんでもない、欲深い人たちだからカトリックでは免罪符などを売りつけたのもそのためである
つまり死者でも金儲けになる、それは一見供養しているようでも仏教でも日本では戒名商売とかある、それは免罪符ともにているのである
そんなことで何か成仏するわけでもないからだ

そもそも人間はどう人間を見ているのか?
人間にとって他者は何なのか?
他者は金でしかないのである、またその人をどうみているかというとただその人はどうでもいい、その人のもっている金と財産だけを見ているのである
その価値はわかるがその人が芸術家だとしてもそれを理解しないものには絵でも何の価値もないからである、その人の持っている価値が万人にわかるのは金であり財産である
家とか土地でも目をつけている、そういう自分もそうだから羅生門の老婆と同じなのである 

老婆に髪の毛をぬかれた人たちもあくどい人たちでありそうされたもかまわないとかなるその老婆もまたそういっていたが身ぐるみはがれて裸にされた
「蜘蛛の糸」でも人を蹴落としてでも自分だけは助かろうと地獄から這い上がろうとしていた、つまり人間とはそういう醜いものだということを描写した作品なのである
それはシューペンハウエルの人間の醜さを哲学的に解説した生きんとする意志と認識する幸福を説いたのと同じである
人間の欲、エゴはこのように隠されているかそれを生々しく赤裸々にするときこうなる
現実そういう私も世界を経験した 

金にむらがるだけであり自分自身が介護と病気で苦しんでいても関係ないのである
それは相手もまた金に追い詰められているから余計にそうなったのである
人間は人間の真実を見るべきである
それは自らも欲があり他者とは金と財産とからしか見ていないのだ
それがまず地獄を作りだすのである
人間はハエエナともにている、死体に群がるのである、金と財産に群がるのである
その醜さを嫌というほど今になって体験したのである
それでこの小説を理解したのである
この世はまさにこうした人間の欲の醜さが現れた地獄なのである
国と国の争いでも美名があるにしてもやはり利益が関係している
食うか食われるかとなる弱肉強食の世界での闘争だったともなる

人間は仮面をかぶっている動物と変わりないのである、それも善人のように見させるから偽善になるから悪質なのである、一皮むけば欲は共通にあり否定できない
そこに地獄が生まれるのである、だから死人から金目のものもをはぐということは戦国時代でも行われていた
死人などはどうでもいい、金目のもの残された髪の毛であれ金歯とかダイヤモンドとか金目のものにこそ価値があるということを如実に表現したのである
それは今の現実社会と同じであり人間の様相は時代が変わっても変わらないのである
こんなに科学が技術が発達した社会でも変わらないのである
そもそも高齢化社会で老人は早く死ねと毎日のように若い人が叫んでいる
老人の金は欲しいが財産は欲しいが早く死んでくれということである
それはあまりにも多すぎるからそうなるのである

そして人間のはかない欲を描写したのが「芋粥」である、食い意地というのもなくならない、それもなにか母がある仙台の有名な最中を食べてみたいといったときそうだった
そういう欲は誰にでもある、それも何かはかないものとして小説にしたのである
人間の欲というのはそれだけ別に古代からでも変わらないのである
そこでこの社会でもこれだけ科学技術社会になっても変わらない
その科学技術を利用して欲を満たそうとすることに変わったともなる

人間の欲とエゴは人間である限り消えないからである
この欲とエゴが消滅したとき天国が来るともなる、現実にはそうはならないのである
だから人間社会はイデオロギーがなんであれ変わることはない
資本主義だろうが社会主義だろうが変わらないことを証明された
ただ自らの欲を達成することになり極一部の人がその富を独占するのはそのためである
もし人間にそんなに欲がないなら分けているはずだからである
そして若い人たちを見ていると同じことの繰り返しをしている
同じような犯罪を犯している、ただ手口が変わったとかにすぎない
やはり欲があるからそういう問題が同じように起きているのである


結局芥川龍之介が何か人間のこうした欲とエゴに絶望して自殺したのかとなる
このことを私も身をもって経験した、こんなに人間は醜いものなのか?
ただ人間は実は他者は死体であり何も見えない、見えているのはその人が身につけている金目のものでありそれ以外ないのである
それは普通のことである、自分だって他者は何だろうとというときそういう眼で見る
つまり人間とは動物と変わりないのである
ただ動物の欲は単純だけど腹が満たされればいいのだが人間の欲は複雑だからこのように赤裸々に見えないだけなのである
善人のようにすら見えるからである、でも善人も一皮むけば同じ欲の塊りであるという話なのである

そもそも老人は見栄えも良くないから愛しずらい、なんでこいつ生きているんだという嫌悪感を普通にもつ、小説では具体的に死体だから悪臭を放っているからそっとするものとなるが老人だってもう死にかけると死体のようにすら見えるからもしれないからだ
親なら別だがとても他人である老人を愛すことはむずかしいと思う
ただ介護する人でも金をもらえるから仕方なくしているというのが多いだろう
それを批判はできない、それはみんな同じだからである
ただ人間はみんなこうして醜いものだということを知れば体験すればこの世は地獄に生きているということもわかる、だからこの世にいたくない去ること死ぬことがかえっていいことにもなるのである 

この世の地獄にしがみついていること自体異常だともなってしまうからである
ただこの世には地獄があってもやはり天国を連想されるものがある
それは自然の美とかでありそれは天国をイメージさせるものであり救いなのである
ただ人間はその美の世界に住むのにふさわしくないとなるのである
たからこそこの世の欲は滅びるというとき世界は神によって滅ぼされるというとき欲が滅ぼされるのである、人間の欲は限りないからである
それを露骨にしたのが中国の歴史でもあった、それはあまりにも凄まじいものとしてあった、ただ世界共通として人間のは変わりないから同じことを繰り返しているのである

ただこうした商売は別に需要があるから成り立つのでありそれがこうした小説の世界のことではない、人間一般の醜さを表現したものである
だからここは誤解しないようにしてもらいたい、それはそれなりの仕事であり需要があるからである
でもなんか灰になったあとから金目の金属類を取り出すというとき気持ち悪いとはなるかもしれない
そこに死者の霊がついていたりする、何か人が身に着けていたものとか人が住んでいた家には人の霊がまたついているとかなる
だから何か気持ち悪くならないのかともなる、でせそれよりも利益が優先するということなのであるそれが人間社会なのである

サイフは見つかりました (お騒がせしました)


サイフは見つかりました

(お騒がせしました)

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台所にサイフが置いてあった、てっきり穴のあいたチョッキに入れたからそこから落ちたと疑いもなく思った
なぜそうなったのか?
それは8時に起きてコンビニに行っておろした、その後の記憶が抜け落ちていたのである
8時から11時まで記憶がぬけおちていた
そしてコンビニをでてどういう径路で行ったのか思い出せなかった
普通は思い出すのである

それはなぜか?

これは前からそうであった、私は毎日家事に追われているしその他ずっと家の整理をしているがそれも未だにできていない
一番の問題は台所を一人でしていることなのである
手伝いさんは今はなにもしない、ただ見守りとか話相手とかなっている
それは三日に一回くらいしかこない、前から何もしていなかったからだ
それでも一人では困るからと余分な金を払っていたのである

まず家事でも台所は料理の用意はつくづく大変なのである
それで妻が認知症になって家事をできない夫が施設にあづけたというのもわかる
家事とは相当に経験をつまないとできない
特に料理は本当にできない、それより買うことも種類が多い、それで何がどこにあるのかわからない、最近わかったことはスーパーで売っている魚でも冷凍しておくと長持ちするから便利だと思った
生協を頼んだのは簡単にオカズができて料理をそのまま食べれると見たからである
そういうものではなかった、たいがいスーパーで売っているものだったのでやめた
とにかく冷蔵庫に何があるのかすら何回も見てないと記憶できないのである
それで料理する時だけ見ていると買って置いたものも忘れるのである
料理は料理専門に担当しないとできないということなのである

今回は認知症となっていた、なぜなら直前の記憶が完全に抜け落ちるのが認知症の記憶障害だからである
なぜこのことが私に起きたのか?それは私は家事だけでも大変なのにいろいろなことをししている、プログに文章や写真をアップするだけでも手間でありそれより頭を使うから
家事とか料理の方に頭が使えないのである
つくづく人間のできる範囲は限られている
例えば冷蔵庫に何があるのかいつも見ていないと記憶できないで忘れるのである
それは別な方に頭を使い気をとられるからである
そういうことは何度も前から経験しているからである

これは本当に認知症と同じだった、こういうことは正常な人でもある
ただ認知症の場合はそこで激情的な人は盗んだとなり家の者を責めるのが違っていた
ただ完全に自分の場合もこの時間の間に何をしたか記憶がぬけおちていた
全く思い出せなかったのである
ただコンビニに行く前に食べたものは覚えていたのである
その後炬燵に寝転んでいた
しかし全く台所にサイフを置いたことを思い出せない、サイフはなくし安いことは確かである

要するに私の場合は家事でもなんでもすべて一人でありやることが多すぎるのである
だから暇なく何かをしていなければならない、そこで全部に頭が回らなくなるのである
今までは家事でも料理でも全部家族がやってくれた
それは本当に贅沢なことだったのである、それが全部自分の負担になったときもう全部に頭が回らない状態になっていた、それは介護になってからもずっとそうである
そういう状態に同情する人など一人もいないのである
人間のやれる範囲は限られている、そんなに何でもやれる人はいないのである
そういうことを考慮してほしいともなる

ただやはり自分の金のカルマだと思ったがそうではなかった、そのカルマは消化された
これまで書いたように金も大金を盗まれたとか様々な苦しみを経てきてそれが解消されたとなる、ただまだまだつづいているのかと思ったらそうではなかったようだ
今年はこんなことで幸先悪いと思ったがそうでもないようだ

とにかくこういう事情なのでお騒がせしましたが私の事情を考慮してください



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春満月(夕べ原町へ)


春満月(夕べ原町へ)


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二日前だったかこの池は凍り付いていた
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川子の急な坂道

春の月耕す畑を照らしなむ

春の月しげく通いぬ原町へ   

春満月桜井古墳に二人の主

川子なる池の凍りてすぐに立つ樅の数本に墓地のありしも

ホームにて遠くの人と話しつつ春の日穏やか今日も駅に来ぬ

萱浜の(かいはま)のなお津波の傷あれや春満月にいやされむかな

古(いにしえ)に船の来たりて船着きや春満月の照らしけるかな

市庭と古の人や商いぬ春満月の海よりいでぬ


今日も忙しかった、それはサイフなくしたとか騒いだのと今度はゆうちょの通帳がなくなっていた
これもめいどうになったがサイフが出て来たのでなんとかなった
とにかく通帳でもいろいろあるとわからなくなるのである
今日は銀行とゆうちょにより次に駅による、駅には毎日行っている
ただその時間は20分くらいなのである、だからこそ寄れる、そうでないと他のことができなくなる
毎日プログを書くことが課せられているからだ

川子の坂の道はかなりの急坂だけど今度の電動自転車はすいすい上るから楽である
この自転車だけには感心する、走りが自転車よりバイクという感じになるからだ
とにかく昨日一昨日とかまでは冬だった、一昨日はまだ厳しい冬だった
それで川子の池は凍り付いていた
そこには樅の木があり合っていた、そして坂を上る脇に墓地がある
短歌も写生なのである、ここでは別に何も飾るものがない、見たままを短歌にしただけだからである
だからこそその厳しい姿がかえって映し出されているのである
芸術の基本は何であれ写生であり写実なのである

萱浜(かいはま)に春の満月が出ていた、津波の後に海が近くに望まれるようになった
それまでは松原とかにさえぎられて見えなかったのである
津波の後に景観が変わったのである
でも何かまだ津波の傷跡は残る、8年過ぎても依然として津波の傷跡は残る
いかにその被害が深く大きかったかを物語っているのだ
だからいつになったらこうした傷跡も過去のもものになるのか?
まず数十年とかかかる、十年でもたりない20年とか30年とか過ぎてようやく過去となるのかもしれない
それほどに津波の被害は大きすぎたのである

ビジネスホテルの高見で焼魚を食べた、あそこはホテルに泊まる人の食事を出していた
ホテルの外の人は二人だった、でもあそこは広いしゆったりしているから私は好きである
味噌汁でもアサリ貝の味噌汁で気にいった、カニの味噌汁も出す、大きな鍋で作るからおいしいのである
なぜあそこにあまりホテル以外の人が入らないのかわからないのである

桜井古墳には二人の主が木棺に収められていた、これも不思議なのだがこの辺の有力者であり王がいて二人を祭る古墳だったとなる、それは前からいた先住民と後から来た征服者が一緒に祭られてともなる
そこで手を結び平和がもたらされた地域だったのかともなる
そうなると春満月がふさわしいとなるのだ

満月は塩アの平安時代なのかその前なのか船着とか一庭とある地名がありそこまで海だった、船が来ていたというがなかなかそれが資料が残っていないのでリアルに感じられない、ただ津波は船着きの前まで来ていたからそこでリアルに感じるようになったのである
その考察を次にしてみる

万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を自らの短歌を創作して再考察 (やはり真野の草原は地名説とするのが有力)


万葉集の真野の草原(かやはら)の歌を自らの短歌を創作して再考察 

(やはり真野の草原は地名説とするのが有力)

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ここには古い石碑もあるがこれは寺があったときのものである
大同のものは残っていない、ただ言い伝えだけが残されたのである



古(いにしえ)に船の来たりて船着きや春満月の照らしけるかな

市庭と古の人や商いぬ春満月の海よりいでぬ 


今日は春満月がでていた、昨日はまだ厳しい寒さだっからなごんだ
そして原町からの帰りに六号線を通るが今回の津波でそこは本当に海になった
実際に烏浜の港から六号線に船が流れてきたのにも驚いた
そして塩崎には船着と市庭という地名がある
その船着の前まで本当に津波が来て海になっていたのである
実際に古代にはそこまで海が入りこんでいて船が来ていたのである
それで大内には曾賀船(田)という地名があり船がさかのぼるということでつけられた地名とされる、海だったがそこは田になって地名が残った
それはまるで地名の化石地名である
大内から頻繁に船が来るのを見たからそういう名前をつけた
それを立証するのか?
800年代の御堂が大内にあった、そんな古い御堂があるのか?それも発見だった

薬師堂 寺域にあり、平地堂方二間、縁日7月8日、伝えに曰く、大同二丁亥年創建、
本尊聖徳太子製作仏胎

大同二年(丁亥)807−808となるとそんなに古いものなのか?
それは訪ねてみたが本当に古い感じになる、寺の領域にあったが寺はなくなっていた
土地の人が薬師堂として祭っていた


坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時代でもあることに注目し、両者が混ざりあっているのではないかと言う(遠野物語24話)。

 大同とは大和朝廷が東北を侵攻した時期全体をいうのではないかともいわれている。
東北地方に田村麻呂創建と伝えられる寺社が多いのは、「化外の地」東北を経営するために政治的な意図によって歴史が作りかえられたのだろうか。


坂上田村麻呂の建立とされる寺社や奉納したとされる寺社伝説はゆかりの深い東北の岩手県、宮城県、福島県を中心に残されている。また彼が通過したと考えられる茨城県、長野県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県にも残されている。しかし、田村麻呂が直接行ったとは考えられない山形県、秋田県、青森県さらに西日本の和歌山県や岡山県にも伝説が残る。特に多くの伝説が残されているのは福島県田村地方であり、生誕伝説から地名伝説そして寺社伝説に至るまで約80種類(うち30種類は寺社伝説)を数える。次に多いのが宮城県で約40種類(うち25種類は寺社伝説)の伝説が残されている。


三春は田村市である、坂上田村麻呂に由来している、そこから真野の地は遠くはないのである、大同年間に坂上田村麻呂の活躍があり伝説化したのである

いづれにしろ

陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを (笠女郎)

この歌は真野の草原(かやはら)とするとき誤解が大きくなる
萱(かや)が茂っている真野となればそれは秋から冬に季節が限定されるのである
もし地名なら私が歌にしたように四季に歌われる場所となる
春でも夏でもいいのである、だから何か草原(かやはら)で限定するとおかしくなる
船着とか市庭という場は船が着いて商いがあったにぎやかな場だったのである
するとそういう場にただ萱原が茂っている場所とするのはそぐわないのである

もう一つの石巻説になるとこれは遠いのである、まさに辺境そのものである
そんな所に萱原という地名があるにしてもそこがなぜ笠女郎が歌ったのだろうかとなる

●真野の草原を萱原とする説

●真野の草原を地名とする説

この二つに分ける時大きな差が生まれるのである
これを私が単価したように地名なら港だとすると船は春にも入ってくるから満月の時にも船は来ていたとかなりイメージすると何かそこが栄えていた遠い昔が偲ばれるのである
でも草原をただ萱原が茂っている原野のようにイメージすると春とは無関係になるからだ
これは笠女郎が大伴家持を慕って歌ったものである
どんな遠い所に行っても私はあなたのことはわすれませんよということである
そしてみちのくの真野の草原は地名であり遠い場所として奈良の都の人たちに知られていたとなる
それは春にもふさわしい場だとなるのである
でも草原が萱原としてしかイメージしないとそれは何か春とは無縁な淋しい場になるからだ
だからこれをどちらにするかは大きな問題なのである

いづれにしろ大内にこれだけ古い堂があるということは一つの証明である、大同年間に坂上田村麻呂がかかわりこの辺にも来て御堂が祭られた、もしかしたら蝦夷を撃ったため原住民を殺したためにそれを慰霊するために祭ったのかもしれない
そういうのも東北に多いからだ、その最たるものが奈良の大仏だったのである
大和王権が日本国を征服して一つの国としたときあの大きな大仏が作られた、鎮護国家の仏として作られたからだ
それは地方でもみちのくでも建てられたとなる
海老村ははエヒであり蝦夷のことであったからだ

とにかく地名は本当に化石のように古い、船着の手前まで津波が来たということでそれを証明したのである
市庭はそれより奥にある、そうした位置関係もやはりそこに市が開かれたという現実を証明している
あまりにも海に近いのでは危険にもなるからだ
当時は防波堤など作れないからである、そこは船が着く場所でありそこから離れて市が開かれた
それにしても入江がこれだけ奥まで入っていたことに驚くし津波で現実化したことにも驚いた
その時この辺は本当に美しい入江となっていたし塩崎(しおのさき)というのもまさに海に面していたからである
ただ真野の草原を笠女郎が歌ったのは750年とかの説がありそうなると大内の薬師堂は800年になるから新しいともなる
ただここが入江だったのは平安時代辺りまでだろう、だから750年にも真野の草原があり地名として知られていたのかとなる
するとそれより前にも知られていたとなる
浪江の棚塩から出たのはツノガノアラシト系統であり一番古い

津(ツノ) 神社


(宇多郷) 尾浜3 原釜1
(北郷)烏崎
(中郷)堤谷 金沢、萱浜、小浜、泉
(小高郷)角部内 
(北標葉郷)棚塩

これがツノガノアラシト系であり棚塩は700年だとすると一番古いからだ

結局真野の草原の謎は尽きない、でもどうしても私は地名説をとるのである、地名だとしたら別に萱原ではない、萱が茂っていたと限定されないから春の歌にもできるのである、そういうふうに二つの説で変わってしまうのである
だからこそどちらにするかが問題であり解決しないと後の人もイメージできないとなっているのである









posted by 天華 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年02月19日

悪質な駅のトイレの落書き (これは夜にしていると犯人は知るのはむずかしい)


悪質な駅のトイレの落書き

(これは夜にしていると犯人は知るのはむずかしい)

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駅のトイレにこれだけの落書きをしていた、これはひどい、悪質である
このトイレはJRが管理しているのではない
市で運営してるトイレなのである
それで毎日障害者施設のあさがおの人が来て掃除している
ぴかぴかに磨いているのである
その金は市から出ている

これは別に無人駅だから落書きされたともならない
なぜなら他でもコンビニとかでも夜に落書きされているというからだ
ただ空家とかはされやい、無人駅でもあまり人の出入りがないとされやすい
でもこれは無人駅だからというのではない
夜に落書きされたらわからないからだ

ただ無人駅でもカメラ4台があり監視しているがトイレにはない
駅だけにあるとなると誰かはわからない
この苦情は市の方にゆき、また警察に連絡するとかなるかもしれない
ただ毎朝あさがおの人が掃除しているからこれも掃除して落とすことになる
その時なんらか市の方の係に連絡することになるかもしれない
これは悪質である
別にこれは空家だとか関係ない、コンビニでも夜にされているとういからどうにもならないとなる


「BSP CLOTHING」というYoutuberは、オーストラリアを拠点に活動するグラフィティアーティストだ。

Facebookには衣料品ブランドと紹介されているが、これまでにオーストラリア、タイ、ドイツ、フランスなど様々な場所で落書きを行っている模様

落書きは、他人が見ていない時間や場所で行われる卑劣な行為です。犯人である当人たちは面白半分でも、落書きをされた側の個人の住宅や店舗にとっては深刻な被害です。消すために多額の費用や時間を要する場合もあることから、すぐには対応できない状況もあります。落書きは、人に不快感を与えたり、まちの美観を損ねるだけでなく大きな犯罪へとつながる危険性も潜んでいます。

【参考】刑法 第261条(器物損壊等)→3年以下の懲役又は30万円以下の罰金若しくは科料
【参考】軽犯罪法第1条第33号→拘留又は科料

落書きは結構罪が重いのかもしれない、実際に悪質であり後の処理にも手間になる
それより公共の場でされると目立つから困る、通りでもそうである
でも世界でも全国でも落書きは多い、

ただここでMEMORY 20の意味がなになのか?
20歳のことなのか?
これは外国人なのか?、その辺は謎である、外国人も多くなり落書きしているというからだ、外国人の落書きは大胆なのである

これは無人駅だからといって起きた事件でもないが何か人がいないとこういうことをされやすいのである

秋田、青森両県のJRの無人駅8駅で25日以降、駅名標などに落書きされているのが相次いで見つかり、JR東日本秋田支社からの被害届を受けた両県警が建造物損壊の疑いで捜査を始めた。

 落書きされていたのは、羽越線の折渡(秋田県由利本荘市)、奥羽線の前山(同県北秋田市)、糠沢(同)、下川沿(同県大館市)、五能線の艫作(へなし、青森県深浦町)、追良瀬(同)、驫木(とどろき、同)、陸奥柳田(同)の各駅。いずれも駅員は常駐していない。

こうなりやすいことが無人駅にはある、つまり管理している人がいないからだ
勝手にホームにも入れるしそれでJRの人が点検に来ていたとき勝手に入るなと言われたけど普通は管理する人がいないのだから自由に出入りできるのである
だから無人駅人が管理しない家でも土地でも荒らされてもどうにもならないのである

2019年02月20日

新幹線春の俳句


新幹線春の俳句

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みちのくへ春風切って新幹線

春光にたちまち過ぎる新幹線

みちのくの芽吹きや早し新幹線

タンポポや一挙に遠くへ新幹線
                           
I go away by Shinkasen
at a stretch in the distance
dandelions bloom

北上の春の流れや新幹線

春の灯や街はいづこやはや過ぎぬ

みちのくの春の山々新幹線   

新幹線おりてローカル残る雪


新幹線に乗るとか景色を見るとかは新しい体験である
技術の進歩は新しい体験をもたらす
今回買った電動自転車でもそうだった
これだけは自分にとって本当にいいものだった
まず走りが全然違うのである、だからこれなら体力がなくても遠くに行けると思った
それで原町までも楽に行けるようになった
自転車にいろいろのったけどこれは別格だったのだ

新幹線で青森から弘前まで行った、それは二三年前のことである
だから記憶としては鮮明であるだいたい30年前とかまでに普通なっているからだ
そうなると思い出すとしても鮮明にはならないからだ

ともかく新幹線は早い、景色もゆっくり見ていられない
でも新幹線の体験はやはり異次元の体験なのである
一挙に遠くへ行ってしまう、そこでタンポポが咲いていたなとかわずかに見えた

それから新青森から弘前の方にローカル線に乗り換えた、その時は暑いくらいの気候だった、それでも青森の山に入ると雪が残っていたのである
そこから山を分け入り弘前についたのである

新幹線は飛行機よりはいい、まだ外の景色も見れる、これがリニアになったら外の景色すら見えずただ飛行機のように移動するだけだとなる
飛行機というのはつまらない、景色が見れないからである

ただ最近気づいた、仙台空港から大阪に行くのは飛行機の方がいい
電車で直通で今は行けるからだ、ただ大阪京都は外人が多いから行きたくない
泊まるホテルを確保するにも大変だからである
正直今は旅をしたくない、それでも今度買った自転車では春になったので遠くへ行ってみたいとなる

タグ:新幹線俳句

春寒し(風流は寒きものなり)


春寒し(風流は寒きものなり)


我が一人大き家に住み春寒し

ふるさとに貧しき女春寒し

春寒したずねて帰る女あわれ

食器洗う男やもめや春寒し 

我が家の長き争いやみにしもなどか淋しき春寒しかな 


(風流は寒きものなり)ー斎藤緑雨  

これも逆説である、今日は曇っていて雨はふらないがふりそうであり春寒しにぴったりの天候である
何か最近天候不順で温暖化とか騒ぎ天気が変則的になっている
今日は季節的には雨水だとか春寒しにあっている
この寒さはまた冬の凍るような寒さとは違ったものである
何か日本人はそうして微妙な季節の変化に対して敏感でありセンスがある
おそらく百姓だってまだ春だけど寒いなということが季語になったのである

それで(風流寒きものなり)ー斎藤緑雨 という言葉が生まれた、ただこの寒さは秋でも寒いし冬の寒さでもある、まず江戸時代でも明治以降でも戦前でも戦後でも十年くらいは炭だったから寒いとなる、私の家は最初はトタン屋根で雨漏りする家だった
風も隙間風びゅうびゅう入ってくる、今の家の弱点は古い家だから隙間風が入るのが弱点である

ただ寒いということにも風流を感じるのは人間だからである、日本人は季節の移り変わりで共感する、それが文化となる、あいさつも天候のことだからである
この文学と俳句でも短歌でもなにか効用があるとしたら春寒いとか自分の場合一人でありそれが何かかえって風流になる、一人だと感じることが多くなるからだ
大家族でにぎやかだと淋しいとかも寒いとすらなくなるかもしれない
人のぬくもりであたたかく感じるからである

ともかく家族が死んでからんとした大きな家に一人いるのも寒々とすることがある
一人暮らしの老人が増えているけどこれも問題である
ただなぜ一人暮らしになるのか?人間は夫婦でも親子でもみんなうまくいかない
何かもめるのである、それで家に来る見守りの女性は息子と別々に暮らすようになった
だからこそこんなに一人暮らしが増えている、一人暮らしは経済的ではない
電気水道でも一人だと何人かで暮らすと同じようにかかるからである
でも現代はそういうところが贅沢なのである

私の家族は特殊で長い間60年も一緒にいて争っていた、最後死ぬときも一人が認知症になり悲劇的結末になった、60年も一緒にいれば争わなくてもいいと思うがこれも女性の業なのである、人間は一人の男をめぐり争うのが業なのである
「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム」これを毎日見ている
このように延々と女の争いが戦いが繰り広げられる
そこに権力もからんでいるが女性は王の寵愛を受ければ権力も同時に手に入るからそうなる、これも何か寒々とする
あれば作り話である、でもそれが全く創作したものかというとそうではない、現実にそういうこととにたことがあり作られたのである

貧しい人がいたとしてそれに同情するのもまた自ら困ることになる
なぜならその女性は今度は病気で入院したとかなりそうなるとこちらが世話役なのかとなってしまう、現実に今はただ金を無心に来るだけであり何もしない
全部家事は自分一人でするほかない

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される

船の棹は、川底を棒で突いて、舟を進めていきます。棹を強く突けば突くだけ、
早く進む事が出来る。
元々、(情という)流れがある所に、更に情でもって棹を突けば、どうしようもなく
流れてしまって、舟がコントロールできない状態になってしまう、

こういう意味だった、貧乏な人がいる、それに同情するのはいいがそうなるとそれもきりがなくなるのである
そうしていくらでも金でも要求される、もう本当にコントロールできなくなる
どこかで非情にならざるをえなくなるのだ、この世には貧乏な人でも山ほどいるし病気の人も山ほどいるし障害者もそうである
とするとそういう人に同情するのはいい、かわらなければいい、直接かかわるとまた違ってくる
金でもなんでも与えることになり自らの生活も脅かされるようになるからだ
それで情に流されることも危険なのである、誰でも同情することは悪いことではないしそうあるべきだがそれも切りなくなるから困るのである
手伝いとして働くのではない自分自身が手伝いにもなってしまっているからだ

ともかく文学とかの効用は貧乏でもあるというときかえって貧乏とか寒いとかの方が風流があるというときそれは何か人間には足りないものが必ずありそれを補うものとしてある宗教にもそういう面がある
人間はどんなに裕福でもまた便利でもそれで満たされるとはならない
かえってあばら家にも月が出て美しいとなる、自然の美は貧富とは必ずしも関係ないのである、自然の美は無償であり無料なのである
金持ちの家に太陽が照り月が輝くとかならない、あばら家にも同じように太陽の光はさすし月も星も輝くからである
そういう点で人間は平等だともなる、自然によって人間は飾られている
それは再三言っているけど東京のような一番繁栄した場所に美がない、それは自然がないからであうる、江戸時代ならあったが今の東京にはそれがないからである

いづれにしろ季節の変化を書くのは俳句とか短歌が向いている
日々変化しているからである、だからこのプログはそうして表現するには向いているのだ俳句とか短歌でも普通は雑誌でも月間だからその日その日の感想を書くことはできないからだ
ただ逆に読む方になるとなかなかいろいろあって調べるのもめんどうだとかなる
ただyoutubeでも個人のメデアになったことが大きな変化だったのである
だから限りなく表現できるのである、制限されないからである
即座に書いてすぐに読むことができるからだ
それで私は膨大なものを書いてきたのである






2019年02月21日

固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?


固定観念と思い込みと先入観に陥りやすいのはなぜ?

リンゴは赤い

リンゴは赤いというのは頭に変えられないものとしてインプットされている
でも赤くない青いリンゴでも黄色のリンゴでも実際はある
でもリンゴは赤いということを頭の中で変えられない
それはななぜか?

それは経験でそうなったのである、絶えず赤いリンゴ食べてきた結果そうなった
たまたま青いリンゴとか黄色のリンゴでも食べた見たとしてもその確率は非常に低いからそれが固定観念を作り出すのである

それならば「固定観念」など無くしてしまえば、もっと自由な発想でいられる、と思いますよね?ところが、年齢とともに積み上がり、さらには無くせないのが「固定観念」の難しいところです。なぜなら、それは今までの経験や教育によって積み上げられて作られているからです。

老人の場合は今まで経験したことから判断することが多い、だから頑固になる融通性がなくなる、それはどうしても人間は経験したことが判断の基になっているからである
それはささいなことでもそうである

自分自身が気づいたことは駅から大阪に仙台の空港から飛行機で行ける
それなら時間もかからないし運賃も安くなる
それは駅でそういう人にあったから知っていた                

ところが自分自身の経験では一回も飛行機で大阪に行っていない

電車でしか行っていないから飛行機で行けば簡単に行けるということを聞いて知っていても大阪は遠いななかなか行けないなと思い込んでいたのである
要するに人間の自分が経験したことを基にして判断している
結果的に経験といってもあらゆることを経験できない、社会のほんの一部しか人は経験できない、また知識でもほんの一部しか身につかないから固定観念をもちそれを破ることができないのである

それはあらゆるところに起きる、最近地銀に投資をまかせた、地銀は信用できると思っていたからだ、しかし地銀は証券とか投資のこと株でも投資信託のことは全くの素人だったのである、でも地銀は信用できるという経験からそう思ったのである
現実におばあちゃんが地銀を信用して投資信託を買わされて一千万損ししても依然として地銀を信用していたのである
老人になるとそうして銀行とか地銀でも直接顔合わせて信用できるものとして長年経験しているからそうなったのである

老人は今まで経験したことで判断する、津波でもこの辺ではそうした経験をしている人はない、400年前に大きな津波が来たということは誰も知らなかった
すると老人は津波は来ないという固定観念があり逃げずに死んだ人が多いのである
経験から判断するからそうなるのである
すると経験しないことには対応できないのである

ところが人間の一生は短い、400年単位とかで起きることになるとそれを経験した人がいない、だから対処できなくなる
そして人はそれぞれの経験で判断するけどそれも限られているから新しい事態が起きたら対処できないのである

ただ仙台から沖縄には飛行機で行った、それは沖縄は電車で行ける場所でないから飛行機で行こうとなっていたのである                                              

だから今の時代に大阪に飛行機で一回でも行く体験していたらこうはならなかった

仙台空港までは直通の電車が出ているからだ、それは士っていたけど大阪まで一回も飛行機で行っていないということが未だに大阪には簡単には行けないと思い込んでいたのである

いづれにしろこの固定観念とか先入観とか思い込みはささいなことでも常にある
それで失敗しているのである、これは老人には多いにしろみんなに起きていることである成功体験からぬけられずに失敗したとかいろいろこの固定観念とか先入観で失敗する
それはもう人間の宿命である
そして常に時代は変わる、それも技術でも急速に変わりそれに追いつけない、体験できない、経験しないからわからなくなる

科学の歴史でも技術の歴史でもこうした固定観念を打ち破る歴史だった、コペルニクス展開とかもそうである、地球が動いているということはありえないことだった
飛行機で空を飛べることはありえないことだったが実現した
人間は固定観念にとらわれると失敗する
信長でも最初は奇襲で勝ったがその後はその戦法をとらなかった
常に臨機応変に対処したのである、成功体験にとらわれなかったのである

でも実際に固定観念とか先入観を打ち破ることは本当にむずかしい
単純なことでもそうである
この辺だと太陽が海から山に沈むのだからそればかり毎日見ていたらそれが固定観念になる、でも山から太陽が昇り海に沈むのも日本海だとか普通にあるし山から昇り山に沈むことも普通にある、でもその感覚が理解できないのは地理でもそこに長年住んでいると固定観念化しているからである
だから旅するとその変化が新鮮な体験となるのである
まず方向が例えば飯館とか山に囲まれているとわからなくなるのである
近くでもそうなのである、それで地理を理解することが一番むずかしいのである
それはそうした旅して実際に体験しないとわからないからである
地図を見てもわからないのである

地理の固定観念というときまず日本からしか日本は地理を見ない、でも大陸側から日本を見れば違ったものになる、そういう視点で地図を作った本もある
それは視点を変えると世界は違ったものに見えるからである
地理もだから固定観念化してそれで世界を見誤るのである
なぜなら世界地図を見ただけでは地理はわからないからである
実際に路査すればわかるが世界となると広いからそれができないかち人間の視野は現代でもこれだけ情報社会になっても狭いから判断を誤る

テレビの画面から地理はかわならいし世界もわからない、その映像も誤解が多いのであるそれはその地理の一部分しかパーツしか写さないからである
その周りの状況とか全部を映すことはできないからである
それでイラク戦争の時油まみれの海鳥だけを映していたが周りの状況は写されずそれがイラクが悪いとなったのである
テレビとは映像で誤解を与えるものなのである、映像だと真実だと見るからである
でもそれも幻想だとしているのもわかる
真実は何か事実はなにかもテレビの小さい四角の画面からは判断できないのである
でも映像のインパクトが大きいから映像によって固定観念化されるのである

いづれにしろ人間にとってこの固定観念とか思い込みとか先入観はささいなことでも常にあり判断を間違うのである、それが人間の弱点なのである
だからAIでもかえって人間より判断で間違えないという時、それは膨大な情報を処理しているからなのだ、人間はほんの一部しか情報を得ることができないし理解できないからである、するとその判断が誤るとなるのである
だから固定観念から先入観から思い込みから脱することが大きな問題になる
特に老人はこれまでの人生で経験したことで判断する
それが時代に乗り遅れ判断を誤るのである
時代が急速に変わる時はどうしても追いつけなくなくなるのである

津波は地形による影響が甚大だった (前にさえぎるものがあると被害はすくなかった)


津波は地形による影響が甚大だった

(前にさえぎるものがあると被害はすくなかった)

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枯れた一葉松

萱浜には墓地だけが残った、それも墓は新しくしたものだけだった
古い墓はない、ここには江戸時代の墓もあった

それから遠くの高台の老人施設まで被害があり老人が死んだのも前にさえぎるものがないから
津波の勢いが弱まらなかったからである

南相馬市原町区の介護老人保健施設「ヨッシーランド」は東日本大震災で津波に襲われ、
36人が死亡、1人が行方不明になった。

鹿島区八沢浦の場合
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前に丘があり津波は弱められた

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金沢と北泉の被害が凄まじかった
それは前にさえぎるものがないからまともに津波が襲ったからである
坂でも勢いよく駆け上るように津波が押し寄せたのである

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今日はあたたかいので萱浜から北泉から金沢を回った
一葉松は枯れたので市の方で新しく苗を植えたとかさし木したのか植樹祭をしたという
それでもそこにあのような立派な松になるには百年かかるとかなる
だからそんな松を見るのはもうなかなかできないし先の先である
そうなるとあの松がなくなることは惜しかったなと改めて思う

その近くで松の木を切って仕事している人がいたので聞いた

「ここは被害があったのですか?ここまで津波が来たのですか、床上まで来ましたか」
「床下まで来たよ」
「それは良かったですね、被害が少なくて」
「あの新田川の河口の丘があり被害が少なかったんだよ」
「あの丘ですか、なるほどあれで津波がさえぎられて弱まった」
「でもここから向こう側新田川沿いでは被害が大きかった」
「あそこでは6人くらい死んで家は全部流されたよ」
「それは私も知っています、そこに住んでいた人から連絡ありましたから」

床上か床下かと聞いたのは私の家の近くでも海から3キロ離れても床上になり意外と被害が大きかったからだ、床上になるとどろをかぶるからそのあとかたづけが大変になったからだ、水害でも床上と床下では相当な差があるのだ

とにかく津波の被害が大きくなったのは前になにもない、さえぎるものがない場所で壊滅的な被害があった
それを象徴していたのが石巻なのである
海岸に家が密集していた、そこを通った時なんでこんなに家があるんだと見ていた
それは実際は本当に怖いことだった、津波の恰好の餌食になる場として提供されていたのである
それは相馬市の原釜(はらがま)とかでもそうである
海に接してそこは海水浴場になっているけど家が低い場所に密集していたのである
もしその後ろ津神社(つのみつ)神社の高台の所あれば助かった
そこまで津波が来なかったからだ
低い場所の所は津波で根こそぎやられたのである

まず津波を考慮しないで住宅地を広げすぎたのである、それを今からふりかえると恐ろしいことだったのである、津波に対する警戒心がまるでなかったのである
それは仙台でも同じであり住宅地が海岸沿いに拡大していた
そこに地震が起きて津波が来るとか警告したらその学者に業者が怒ったとかある
売れくなくなる、地価が下がるからそう言ったのである

津波には地形を考慮せよ、その差で被害が大きく変わる

八沢浦でもそうだった、すぐ前が海なのだが丘が前にありその家では裏が山になっているからそんな近くでも津波を見て裏山に逃げて助かったのである

本当に津波は地形によってその被害が大きく左右される

でもそのことを考慮した街作りとかしていなかった、だから海岸沿いに密集して建てた家は根こそぎ津波の被害で村ごと消滅したのである
それも本当に恐ろしいことだった
ただ今になるとなぜ津波に対する警戒心がなくなっていたのか?
それは人間は400年に一度とか来る津波には備えられなかった
みんな忘れていた、それで忘れたころに大災害が来たのである
人間の弱点は経験しないことは理解できない、また何事忘れやすいのである
人間はすぐに死んだりすると忘れられるように次々に起こることで大きなことでも忘れてしまうのである
だから記録して伝えることが大事になるのだけどそれが文書とかになるとなかなかリアルに感じないのである、伝承があったとしてもそれもまた語り継ぐとなるとなかなかできない、だから津波は来ないという固定観念が形成されたのである

いづれにしろ津波は地形を地勢を見ることである
その地形の差で被害の強弱が生まれた、新地の火力発電所は原町の火力発電所のように海に突き出ていないから引っ込んだ所にあったというだけで被害が大きくなかったのであるだからちょっとした地形の差が大きかった

そして不思議なのは八沢浦でも旭化成とかの工場が海岸に接してあったが丘の上にあった原町の新田川の河口でもそうである、丘の上に工場のようなものがあった
結果として被害がなかった、でもなぜそんな所に建てたのか?
そこは田んぼではなく地価が安かったからだろう
田んぼの所は工場にしにくいからである、それで逆に助かったともなる

ともかく日本は災害が多い、土砂崩れとかも多い、山国だからそうなる
そういう地形を見ることは本当に大事である
だからその地形の危険な所に地名から判断するということもある
それより今なら地図でも地形を見ることができるからそこで危険な場所を判断する
ただそうなるとどこも危険があるのが日本だから家を建てる所がなくなるとまでなる
ただ明らかなことはなぜ神社が被害がすくなかったのか?
それは神社は古いから高台にあったからである
古い家はだから津波の被害にあわないことが多かったのである
相馬市の松川浦の原釜とか平地に家が密集したのは新しいのである
ただ鹿島区の海老とか烏崎は古い、だから何らか400年前の慶長津波の被害があったかもしれないが記録に残されていなかったのである

津波から8年になるのがまだ津波の傷痕は消えない、それだけ被害が大きすぎたのである
それが癒されないのである、ただこの津波の被害の教訓を忘れてはいけない
地形が良く知って住むべきだったということである
そして津波を防ぐ効果的な方法は海の前に台地を作ることだったのである
するとそこを波が越えたとしても津波の勢いが弱まるから被害が少なくなるのである
それだけ津波で心すべきことだったのである  

 八沢浦と磯部の地形と神社 (津波との関係は・・・)

posted by 天華 at 17:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処