2019年02月12日

小さな畑に何のために投資するのか? (場所を作るため場所のための投資だった―死者も場所に生きる―場所を喪失した現代人)


小さな畑に何のために投資するのか?

(場所を作るため場所のための投資だった―死者も場所に生きる―場所を喪失した現代人)

一体何のために小さな畑のために金を使い労力を使っているのか?
それがわからなかった、ただ単純にこの辺は荒地が多くなったからそれよりはいいとして投資した、援助した
景観的にも何か他でも嫌だからである
でもその畑を維持することは容易ではない、それはこれまで書いてきた
肥料代も本当に高い、土を中和するために酸性化をふせぐために貝殻をつぶしたものとか他に化学肥料をまいたり鶏糞は角田まで行って買ったとかそれだけ投資してもとれるのものはわずかである
鳥に食われたとか盗まれたとか他にも天候に左右されて収穫がない
そういう愚痴を延々と聞かされるだけだったとなる

でも何か無駄だったとは言えない
畑にカンナが咲いたときは大きい花だから映えた、それは景観を作り出したのである
ただ畑でも田んぼでもその景観は人々がその土地とかかわり生業となっていて維持されていたのである
それがなくなると今でも避難区域となったところは草茫々であり荒れ放題になっているからだんそして放射線に汚染された処理場になっているのが目立つだけだとなる
その景観を見たときがっかりするからだ

要するに農業とか漁業とか林業でも第一次産業主体の経済だったら景観は自ずと維持されたのである、第一田畑でも人がかかわらないかぎり荒地と化すからである
だから避難区域になった所や放射線の高い山側ではもう田畑をあきらめたから荒地化している、それも前から子供は後継がない、農業は金にならないとなっていたからそれが原発事故の放射線で汚染されて多額の補償金もらったときこれ幸いと田畑を捨てたからである何かだから補償金で家を建てた人がこの辺では多いのである

農業とかはもともとものすごく苦労が多くて実りが少ないものだったのである
ただ人々はそうする他生きる方法がないからそうしていたのである
それを部外者から外部の人が見ている時景観がいいとかなっていたのである
それは自分自身も農業にたずさわっていないがそうした人たちがいて苦労する人たちがいてその景観もありえたのである
田舎でも別に今はみんな会社員なのである、農業だけで生活している人は一割にもみたないのであ
そういう変化があっても一応田畑は維持されていたのである

ただ農業は過酷でありだからこそ工業化のために日本がは努力して高度成長時代を築いたのである、それは中国でもどこでもそうである、工業化しないと豊かにはなれなかったからである
ただそのために失われたものがある、それが人間の根源的なものに根ざして生活していた農業などが軽く見られそのためにまた景観も失われたのである
都会になるともう場所はない、人間の存在は希薄化してロボットのようになる
それを象徴的に描いたのがキリコのである
そこでは場所を喪失した人間の不安とその存在感の消失を描いている
ただ建物だけの影がその人間に及んでいるだけなのである
高層ビルとかビルの林立する中で人間の存在は消えいりそうになっているのだ
一つの影として根付く場もなく消失してゆく人間の不安を描いている

人間は今物質的欲求のみの追及しかない、それが金の追求となっているが精神的なものとして心としてはもうその存在価値もくなっている
心とはこころはここのことであり場所があって心(こころ)があったからである
場所と不可分に心があったからである
その場所が喪失したとき人間は不安定な根無し草となりただ無機的な物質の建物のみが存在感をまして人間は矮小化されて影となり点となり消失してゆく

逆に場をもって生きた人間は貧しくてもその場から何か世界が拡大してゆく、イメージが広がってゆくのである、それは死んだ人でもその場に生きつづけるのである
死んだ人にも場が必要なのである、だから場も喪失すると死んだ人も先祖もいる場がなくなり幽霊と化して彷徨うことになる  

死者もいる場を必要としているのだ!

農業は場を生きる根源的な人間の営みだった、工業化すると自然と切り離されたものとなり人工的空間に生きることになる
すると人間自体も機械化されたロボットのようになる、流れ作業していたときは自分は本当にロボットだったのである
それでその仕事が嫌になり仕事自体に嫌悪感をもちその後仕事をしなくなった、そういう環境が与えられて旅ばかりするようになったのである

そいつはおかしいじゃねえか、人間は小さな土地をもっていりゃ、その土地はその人間のもの、その人間みていなもんだ
人間が本当にその土地をもっていりゃ、その上を歩くこともできる、それがうまくいかねぇときにゃ悲しむし、雨でもふりゃうれしくなるってわけだ
そしてその土地はその人間と同じものになってそれをもっているとうだけでその人間を実際より大きなものになるのだ
よしんばそれがうまくいかねぇにしても、その土地をもっていることで大きな人間になれるんだ
と土地っていうものはそういうもんだよ
スタインベックー(怒りの葡萄)

人間を偉大にするものはその個人だけでは偉大になれない、その背景となる大きな自然がなければ大きくなりえないのである
人間は木となり山にもなるがその大きな山がなければ人間は卑小なままてのである
この辺では高い大きな山がないということで大きな人間になれないともなっているのだ
山があまりにも貧弱だからである

その場に生きたものはその場に生き続けるのである、それは物語となり絶えず語られたり祭りとなったりして先祖もその場に生きつづけるのである
これは非常に重要な人間の根源的な営みだったのである
そのことを家族がみんな死んで自覚するようになった
家族は家に依然として生きつづけそこで生活した場に継続して生きつづけるのである
だからエジプト文明であの世とはこの世の延長そのものだったのである
生前していたこと麦を栽培したり日常の仕事をそのまま同じようにあの世でもしていたのである

墓も生前の生活の延長なのである、そこは生前の家の復元なのである
召使も葬られていたし動物も葬られていた、家畜でもそうだが古代には動物と密接に交わり生活していたからである、動物が人間の精神化されたものとして見ていたのである
それはまさに場があってこそありえたことなのである
そこで死は断絶されずに継続されていて死者と生者も断続分離されないのである

このことは重要なことである、現代人はあまりにもそうした人間の根源的な精神を心を無視ししてきた、何かそうしたものは不合理であり利益にならないものは金にならないものは無視してきた、そこでどうなったのか?
人間存在の精神的拠り所すら喪失してキリコの絵のような根無し草になってしまったのである
そこに生の意義もなくただがしゃらに物質的欲望の追及しかない、金の追及しかないのである
それを象徴していたのが原発事故で避難した人たちである
それは確かに放射線が高いのだから住めない避難させられたということがある
でもそれだけではない、何か場所にこだわらないもの、金があればどこでも住める
そういう経済合理性だけで生活していたからではなかったかとも思うのである

とにかく腹を満たせばいいや、金があれば一億円あれば困ることがない、何かあれば金がなくては生活できない、そんな何かわからない場所がどうだなど言っても現実は厳しいとなる、そんなことを考慮しているのは極一部のインテリなのだとかもなる
それも言えるにしても何かそこから現代人の喪失感が生まれていることは確かなのである
現実にその小さな畑は金食い虫である、何かと金がかかる、その金がないから要求される
そして最近冷蔵庫が壊れたから十何万のものを買ってさらに金がないと困窮しているからである
それはとりも直さず電気が必要であり電気なしでは生活できない現代を象徴しているのである
場所が必要だと言う前に電気が必要だという現実生活をつきつけられているのである
ただ人間はどんな人にしろどんな時代でも矛盾した生活になりやすい、それが人間の現実だともなる


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キリコの絵

何か建物があっても場所が喪失していて建物が大地に根付いていていない
建物の重厚感がない、一時的に建っているという不安定なものである
建物自体が影のようになっている、建物の意味も喪失しているようである
彫像も何か存在感がない、ただ置物のようにある
人と人が出会ってもそれが深いつながり出会いではない、はかない影と影の出会いのようになっている、このように現代は存在感が建物でもなんでも希薄化している  
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エジプトの墓は家そのものの生活を再現したものである、召使も同じ墓に葬られているし動物も葬られていたからである
日本がでも召使とかでなくても雇い人が一緒に一つの墓地に葬られている
それは墓標だけで名前だけとか粗末なものなのである、ただその家で働いていた人だった
それぞれの家で墓をもてない時代があった、別にそれは江戸時代ではない、戦前でもそういうことがあった
大家族のようにして雇い人も生活していたからそうなった





2019年02月13日

キリコの絵と万葉集の比較 (場所の喪失が空虚さを生んだ、場所と密接に結びついていた万葉集の歌)


キリコの絵と万葉集の比較

(場所の喪失が空虚さを生んだ、場所と密接に結びついていた万葉集の歌)

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キリコの絵

人がいても人がいない
建物だけが残された
彫像だけが残された
あれほどいた人がどこに行ったのか
建物だけがしょうぜんとして残されている
何か魂の抜け殻のように
人々は消えた、どこへ
二人の男女が愛を確かめる
しかしそれもはかない
もともと人と人の出会いはなくなっていた
群衆となりあれほど人がいたのに
人と人の出会いはない
また出会う場がない
魂の抜けた何か無機的な建物
彫像も魂がぬけて置物のように置かれる
それは場所の喪失であり
場所に根付いた継続された歴史の消失
そこには過去も歴史も意味をなさない
そこには空虚のみがある

キリコの絵は現代の精神状況を現したものである、何か建物でも本来の重厚な意味をもたない、それはローマの建築から中世の大聖堂のゴシック建築とかとも違う
そこには精神があった、建築にも精神があった、時代の精神があった
それがないから空虚なのである
また本来あるべき場所がない、その建物が建っている大地もまた何か都会であり大地という感覚がないのである
人はその上ではかない影となっているのである
これはまさに現代文明の建物でも自然でも人間でも象徴している

そこには人間はいなかった!

あれだけの群衆が人間がいたのにその人間はある時いなくなっていた
というよりもともと人間はいなかったからそうなったのである
それはそこに人間が生きる場がなかったからである

万葉集だとなぜそれが貴重なものになっているのか?
それはやはり密接に人間が自然と結びついて生きていたからである
だからどうしても今の感覚では解き明かせないものがあるのはそのためなのである
原始的感性とかがありそれが理解できなくなっているのだ

奥山の磐本菅(いはもとすげ)を根深めて結びし心忘れかねつも 笠女郎(万3-397)

こういう感覚は現代では生まれようがない、恋の歌にしても何かそこに自然と結びついた原始性がある
万葉集は必ず地名が大きな働きをしているのもそのためである
場所から離れてありえないのである、この磐本というのも地名だと解釈している人もいる
  

地名に関して,国」の言葉があてられることがある。吉野の国(巻 1~36) ,隠口の泊瀬の国(巻13~3310) ,隠口の泊瀬小国(巻13~3311) ,押し照る難波の国(巻 6~928) である。住吉については,摂津国風土記逸文に「真住み吉し住吉の国Jとある。春日,巻向,明日香については,国と記す史料はないが,日本書紀綬靖 2年条に「春日県」がみえ,県は固と同じ意味内容の用字と考えられる。
これらの国は,律令国家の地方行政組織である令制国とは違っており,
前述の吉野の国の歌の前段に「天の下に国はしも多にあれどもとある国である。 

玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ神柄かここだ貴き天地日月とともに満りゆかむ神の御面と 継ぎて来る柿本人麻呂
(巻 2~220) 

万葉集の地名
金坂清則報告によせて一一 服部昌之

これは行政的なものとして定められた国ではない、自然発生的に生まれた国の感覚でありこれは無数にあったとなる
廃藩置県ではその自然発生的に生まれ形成された国が消失した
福島県ならまったくなぜ福島なのか?これさえわからないのである
会津が古代から国だったから万葉集に会津嶺の国をさ遠み・・・・という防人に出る人の歌が残っている
会津は明らかに古代から自然発生した国(くに)だったのである
そして万葉集ではいかにその土地土地に根付いて暮らしていたか?  

玉藻よし讃岐の国は国柄か見れども飽かぬ神柄かここだ貴き天地日月とともに満りゆかむ神の御面と 継ぎて来る(巻 2~220) 

この歌に象徴されている、国柄とは自然発生的に形成されたものであり神柄とまでなる、その土地が神聖なものとまでなる
天地日月とともに満りゆかむ神の御面と 継ぎて来る・・・というとき神の御面とまでしているときそれが如実にうかがわれる  
神の御面とはまさに土地土地の地形とか地勢とかでありそれは神が形成した御面としているのである
その土地を代々継ぐのが人間なのである   

万葉集を理解する日本がその土地に根付いて暮らした原始的な感覚を知ることである
それは今になると知り得ようがなくなっているからだ、それは世界的にも起きていることである
近代化工業化は生来あった場所と深く結びついた精神を喪失させたからである
こころとはここの意味であり場所から発生していたからである
ところとはとまるでありとまるとどまる場所がありところとなっていたからである

つまり場所とのアイディンティティなくして人間の存在ありえない、それがなくなったときキリコの絵のように人間存在そのものの消失になったのである



蝋梅 (家に籠り本やインタ−ネットで検索して文章を書いたりするのが老後の幸せ)


蝋梅

(家に籠り本やインタ−ネットで検索して文章を書いたりするのが老後の幸せ)

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まだ雪がふっているね

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これは結構厚かった


蝋梅や古本手にとり籠るかな

蝋梅に雪やこもりぬ年古りて我が楽しみは本を読むこと

蝋梅に春はまだしも寒々と風の唸りてこもりけるかな

本あまた故人残しぬめくりつつ省察深めて冬籠るかな

今日も風唸りつつも大き家に一人籠りて本を読むかな

ずっしりと重たき古本また増えるストーブにより読める幸せ

葉牡丹に万寿菊活け白菊も映えて長くも我が家にあらむ


消寒絶句  清 呉錫麒

礬頭山在屋頭堆
磬口花于水口開   
不遇故人誰共賞   
打氷声裏一舟来

[書き下し]

消寒絶句(しょうかんぜっく)  清 呉錫麒(ごしゃくき)

礬頭(ばんとう)の山は 屋頭(おくとう)に在(あ)りて堆(うずたか)く
磬口(けいこう)の花は 水口(すいこう)に于(おい)て開(ひら)く
故人(こじん)に遇(あ)わずんば 誰と共に賞(しょう)せん
打氷(だひょう)声裏(せいり) 一舟(いっしゅう)来(きた)る

礬頭(ばんとう)の山 家のそばにそびえ
磬口梅(けいこうばい)の花 川のほとりで咲いている
親しい友人と会えないなら いったい誰とこの名画を楽しもうか
(と思って戸外を見やると)氷を打ち割る音が鳴り響き 一艘の舟がやって来た


蝋梅の花は春にしても冬から咲く、だから必ず雪がふったり積もったりする
去年だったかもそうだった、だから冬の花であり春の花だとなる
この漢詩はその感じをうまく表現している
冬だと冬ごもりであり人も来ない、でも春になり凍った川の氷を破って舟が来て遠くから友が来るとなる、これも中国らしい漢詩である
なぜなら川を中心にして中国はあるからだ
川を通じて人は会い別れて行く、大河別離情でありまた出会い遭うことなのである
この感覚は日本にはないのである
この漢詩は蝋梅が咲き春をまちわびているのである
つまり蝋梅が咲いてもなかなか春が来ないということにもなる
最近は今日でも寒い、やはりまだ春は来ていない、ただ後三日くらいで春は来るみたいだ最後の寒さである

そしてこうして寒い時はストーブで一人あたたまり本を読むの適している
外国だったら暖炉である、今の時代のいいのはまた古本を注文した
著者の別な本である、そしてインタ−ネットも今だと関連した文が見つかるから何か知的作業が格段とはかどる時代である
キーワードで調べられるからである、つまり今や誰しも安価に巨大な蔵書でも所有している感覚になるのだ、いちいち図書館に行って調べるのが手間になった
だから介護になってからは家族がみんな死んでから図書館には一二度くらいしか行っていないのである
あとは家事に追われるからゆっくり図書館で調べられないのである
それも隣の街に行かないとできないからめんどうなのである
知的作業をするにはまず家が研究所、基地にならないとできない
ある程度の蔵書もないとできない、それで司馬遼太郎は図書館のような蔵書をもっていたことでもわかる、あれだけのものを書くにそうなったのである

だから地方では知的探求はつくづく不利だった、第一古本は仙台に行かないと買えないしそれでも少ないからである、アマゾンならどんな本でも手に入るとなるから便利である
この恩恵は大きいのである、文系だとまず本を読むことでありそれで事足りるともなるからだ
インタ−ネットだと学者の論文がpdfで読めるのもいい、引用できるからだ
そういうことで地方でも田舎でも知的ハンディを負わなくなったのである
そして気軽にインタ−ネットでプログで日々発信できることも知的作業では効果がある
なぜなら文章を書くことは書きながら考える、創作する
文章を書くことで自らの書きたいことが書けるということがあるからだ
それで様々なことを感想でも評論でも書きやすいのである

今まではこうして気楽に自ら書いたもの発表できない、本となると選ばれた人とか売れるものとか置けない、めんどうなのである
毎日短文でも書くことは楽なのである、本にするとなると長文で編集しなければならないからめんどうになる
こういう点でインタ−ネットの効用は大きかったと思う

葉牡丹と万寿菊は合う、万寿菊は好きな花である、それ字のように長く咲いている
菊も比較的長く咲く、葉牡丹もそうである
生け花の問題は花がすぐにしおれてしまう枯れてしまうことなのである
そうなると取り替えるだけで金がかかる、それで最近はフラワーアレンジメントはしていな、他に金がかかってできないのである、また手間にもなるからだ

とにかく今は田舎の方がこうしてハンディがなくなったことで暮らし安いとなる
そして知的作業にはかえって静かな田舎の方がいいのである
集中できる、混雑した都会だと人混みであり嫌になる
年取ってからさらに介護十年でエネルギーが消耗してそういう混雑した人ごみに行くのが嫌になった、ただ疲れるだけだとなる
そして何か旅する気力もなくなったともなる
だから一日中こもって本を読んだりドラマを見たり文章を書いたりしているのが向いていると思った、そういう環境があることでも余計にそう感じるようになったのである




ビジネスホテル高見内のレストランと高見食堂は別である


ビジネスホテル高見内のレストランと高見食堂は別である

私が前に書いたのはビジネスホテル高見の中にあるレストランであり高見食堂ではない
別に高見食堂がある、南北朝市立病院の脇の道を入った所にある
これはここの食堂とは違い、狭い所である
ここが間違いやすかった、いい食堂を探している人がいる

でも高見食堂はインタ−ネットで見たら人気のようだ
ここには一回も行っていない、ランチ時は混むから行きたくないともなる
一時過ぎたらすいてくるからいいとなるのか?
混むと何かゆっくり食べられない、せかされるので嫌なのである

鹿島区だと最近できたサクマ食堂はラーメンとかもいいし餃子には肉が入っていないけど野菜だけでそれがいいという人がいった
そういうものなのかと自分も思った、何か人によってこれがいいとか悪いとか必ず評判は違ってくる、それは何でもそうである
いいと思う人そうでもていと思う人は必ずいるからだ

結局一回でも実際に行って食べてみないことにはわからないということである
おそらく高見食堂には結構人が入っているみたいだ
意外と高見ホテル内の食堂には人は最近は入っていないのも不思議である
料理は悪くないと思うからである、味噌汁はカニ汁とか出すことがありうまいのである
サシミ定食などもお得なのである
そして広いからゆったりできるのである、混んでいないから雰囲気だとここがいいと思うただラーメンとかはやっていないから高見食堂の方に行くのかもしれない?

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2019年02月14日

原町の高見食堂に行って食べてみた (そこはやはり狭かった)


原町の高見食堂に行って食べてみた

(そこはやはり狭かった)

高見食堂に今日行ってみた、けんちん汁食べるのかと思ったらトン汁だった
どんぶりで出していた、4人くらい忙しく働いていた
中は狭い、一人で入るとカウンターに4人くらいしか座れない
他には四人用であり一人は座りずらい、高見ランチを出していたが
ミックスランチを頼んだ
メンチとアジフライとかぼちゃのコロッケだった、何かそれが大きい
家庭料理的であるから人気があるのか?

ビジネスホテルの高見の料理はいかにもレストラン風なのである
でもあそこは広いしゆったりしてくつろげる
四人座れるところに一人でも座れる
そしてコーヒーも無料なのである

それでなぜあそこは客が入らないのか?一時は外部の人がきて10人くらい入っていた
今は何か5,6人とかしか自分は見ない
料理は悪くない、サシミ定食はおすすめである、千円でもマグロがついているし高いとは言えない、味噌汁は独自のものを出しているからいい
でも人が入らないのはラーメンを出していないからかもしれない
高見食堂は麺類をいろいろ出しているからだ

ともかく何かこうしてレストランとか食堂とかにこだわるのは自分自身外食するからそうなる、自分で料理できないから外食で安くていいものを食べたいとなるからそうなる
そして不思議なのはなぜ外食の方が自分で作ったよりうまく感じるのか?
これも不思議である、雰囲気の作用もあるとなることはありえる
高見食堂では一人ではゆっくり食べられない、カウンターが狭すぎるからだ
ただメニューがいろいろあるから入っているのかもしれない

ところで鹿島区の仮設の食堂のはる食堂は小高で再開すると聞いたが始まったのだろうか聞いたところではしていないという、あそこはラーメンも野菜一杯とかうまいものだったカレーライスが500円ではうまかった、そういう味を覚えたのである
何か自分は年になって味にこだわるようになった
アジをかみしてめ食べているという感じになる

それが意外と脳にもいい、味覚の感覚も大事なのである
味覚は脳を刺激する、すると脳が活性化するのである
それは例えば本を読んでも何か深く味わって読むともにているのである
年をとると深い考察ができるようになるからだ
何か新たに発見するものが多いのである、今まではただ一方に読まされているとんう感じだった
今は必ず自分なりに読んで評価して利用もできる、引用できるからだ

味覚というのはだからこれも他の五感と同じであり脳を刺激して新しいセンスを磨くのである
だからといって贅沢するのではない、別に普通の料理でも味覚を磨くことができる
もし味覚の能力が減退したらそれはかなり老化したともなる
それは健康にとって危険な状態なのである

認知症になると五感が衰退して何も感じなくなる、寒くても寒さを感じなくなったりする味覚でもそうである、感じなくなる、それが危険なのである
感覚がなくなることはやはり脳がもう弱体化している
なぜなら脳で人は感じるのであり体ではないからだ
人間だけが性欲でも快楽でも脳で感じて記憶している
一旦快感として記憶したものはまた快感を覚えたい味わいたいと必ずなるのである
つまり快感の記憶は強烈に脳に刻印されるのである
だから麻薬だとか何か薬でも一端脳が覚えた快感を忘れられないからそれをやめることができなくなるのである

いづれにしろ食を豊かにすることはむずかしい、料理はめんどうである
だから何か外食するからそれでレストランとか食堂にこだわるようになった
でもこの辺ではそれには限度がある、どうしてもたりないからだ
そして外食の弱点は飽きるということである
どんなにいいレストランで食事してもそれが飽きるのである
それでカレーでも毎日違ったもの工夫して出している店が東京であり紹介したことでもわかる、やはり手料理とか家庭料理が必要になるのが料理だったのである

posted by 老鶯 at 13:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2019年02月15日

死者は生きた地に場にいる (死者とともに生きると生も豊かになる)



死者は生きた地に場にいる (死者とともに生きると生も豊かになる)

死者はいづこにありや
死者はその生きた家に地に山にいる
死者の霊はその地を離れず
地とともにある          
その地にその影は大きくなる
死者はその地に持続して生きる
神話となり伝説となり生きる
死者は今貶められず
汚されることなく
威厳もて生者をみつめる
その前に偽ることはできない
死者の前で人は威を正す
その霊は重く軽きにあらず
厳かにその声はひびく
死者がその地に生きて父祖の地となる
その地を受け継ぐものは誰か
正当の跡継ぎは誰か
そは父祖の地を受け継ぎぬ
神の国を御国を受け継ぐのは誰か
それは国と地にかかわらず
天なる父が決める
その契約を破ることはできぬ
天なる父はましまして決める
そのまばゆい神の国は壊すことはできない
人は地を知り天を知る
神はなきにしあらず汝の心を見
死者もまた汝の心を見る
その前に厳粛に偽ることはできない
地から神の国へと生は連続する
そは地で学び神の国へと導かれる

死者はどこにいるのか?これも謎だけど父祖の地というとき父祖が生きた土地のことである、土地と結びついて父祖もいる
土地から離れて父祖もいないとなる、、
その地とは the landでありthe mountainとかなる
日本では死者は山に葬られて死者の霊は山にいて田植えの時期に山からおりてくるというときある村の中での生活の中に死者が生きつづけいるのである

死者はその生きた土地の中に生き続ける、墓とか家でもなくなるがその土地が山でもなくならないからそこで生き続ける
だからその土地から離れて先祖もないとしたらその土地から人々が離れたときどうなるのか?
過疎地域とかでは現実に村が捨てられて社も残っていたが誰もお参りしないのである
それも不気味な光景だった、そこには先祖が捨てられて幽鬼と化しているのである
そこではもう生活が受け継がれないということでそうなった
農業でも跡継ぎがいないというときそこは捨てられる

現実に南相馬市の原町区の大原では街から離れていてそこに住んでいた人は死んで空家が残されている、その人は病院で知り合った人の家だった
隣の大谷(おおがい)村でもそうである
家があったがそこには人は住んでいないかった、街の方に家を建てて住んでいた
この辺で原発事故以後補償金をもらったことで新しく家を建てた人が多い

死者が土に還るというとき農耕民的発想になる、遊牧民はその土地にこだわらない、一時的寄留者なのである、だから一神教は遊牧民から生まれた
この地が終の住処ではない、この世は一時的に寄留する場であり本当のホームは天にある一種の旅人の思想になる、一か所に永遠にとどまることはないのである

ただなんか農耕民とか日本人は先祖に異常にこだわるのはなぜなのか?
死んだら死んだ家族の元に行くという観念が強い
そういう心情があるのが日本人だとなり先祖供養を手厚くするのである
それは先祖が死んでからだんだん日にちがたつと実在から離れて聖化されるということがある、それでいつしか先祖がカミとなるのが世界的共通にある
死ぬと何か日にちがたつと実態から離れたものになるからである
そして神話化され伝説化されてゆく

ただ死んでもその土地の中で生きているという感覚はもつ
だから土地と切り離して先祖がいるという感覚にならないのである
それで日本人の神は日本人の先祖は日本の国土にあるのであり日本という国土から離れて日本人の神は存在しないとなる
でもユダヤ教とかキリスト教とかアラーの神の一神教は国土と一体化していないからその土地の神ではないから世界共通のものとして広がったのである
天に神が存在するとなれば土地に固執することはないからである

ただ死者というのは土地と結びつけて存在を確認する
だから具体的に生きていた家とか土地とかが死者が依然としている場となり盆の死者を迎えるものとしてある、家に死者が還ってくるというのはそういう日本人の心情があって生まれた祭りである
一見仏教のように見えてそれが日本人の土俗的信仰と行事とつながっているのである
仏(ホトケ)自体ホトキであり日本語なのである


本来はほときという器に食物を入れて祀る霊ということで中世の盆の行事から始まったのではないかと思う。

人は亡くなってある年限を過ぎると、後は先祖様またはみたま様となって一つの霊体に融合してしまうものであるという。薩摩の奄美大島諸島では、七島正月の習がある。旧正月の1か月前(新暦の正月前後)に大きな祭りを行うのである。明らかにこれは先祖祭である。「親玉祭」と呼んでいた。

第26節 「親神の社」: 親とは、目上の人を親と呼び、自分の親だけとは限らない。「オヤオヤの魂祭」である。佐渡島の内海地方では正月六日をその親神さんの年夜と称する。奄美大島の七島正月は、家々の先祖祭だけを、表向きから引き離して、温かい土地柄1か月前に繰り上げたのかもしれない。大分県鶴見崎半島では先祖祭を2月1日に行う村がある。正月を外して1か月ずらせたものであろう。 

第27節 「ほとけの正月」: 近畿地方では正月6日を神年越しと呼ぶ人が多かった。この神年越しの神は年神の事で、また家々の先祖であろうと思われる。正月15日を神様の正月、16日をほとけの正月ともいう。おのおの前の日の宵を年越しと呼ぶ。正月16日をもって、先祖を拝む日としている例は極めて多い。南の徳の島でも先祖正月はこの16日である越後東蒲原では16日を「後生はじめ」といっている。子お16日に仏正月の墓参りをする。個人の霊を「ホトケ」と呼んでいたのがまずかった。人は、故人はこの地と縁を切らず、日を決めて子孫の家と往来し家の発展を見たいと思っているという心情をもっている。 

日本人は先祖を大事にしてきた、死者を大事にしてきた、それがこのように土俗的信仰として残された、それは仏教徒は別物である
仏教は個々人がいかに悟るかであり先祖信仰とは関係ないからである
それが近年失われたのは人間の生活が土地に根差す農業でなくなったからである
自然と深く結びついた暮らしがなくなったからそうした民間の土俗習慣を失われたのである、祭りも失われたのである
要するにに日本人は村単位で濃密に密接に暮らしていた歴史がありそこから土地と不可分の生活からいろいろな土俗信仰が生まれたとなる
それは理屈ではない、日本人の心情が村で作られたからである

この地と縁を切らず、日を決めて子孫の家と往来し家の発展を見たいと思っているという心情をもっている。 

ここに如実にその心情が表現されている
逆にその世界観は狭いとなる、遊牧民の世界観は広い空間での営みだから一か所に執着してとどまるということではないから広い世界観に生きていた
その差が大きかったのである、神といっても世界が宇宙がありとなると何か神なのかそういう広い世界観の中で神があるとしたの
はやはり一神教なのである
ただ本当に家族が死ぬとそのことは深刻でありそれで家族から死後も離れたくない家族とまた会いたいというのはこれは別に村があるとかではない、世界的共通した人間の心情なのである
ただ死者がどこにいるかとなるとその思い出の中にいるとなるときどうしても土地と切り離せない、土地の中に死者は生き続けるとなる
記憶される場所があってまた死者も活きてくるとなるからだ
死者の影もその土地の中でかえって大きく映し出される、そういう場がないと死者も活きないのである 

だから都会ではそういう土地がないから死者かイメージしにくい
都会のビルの谷間だとか雑踏だとか工場地帯に死者がいるのかとなるとイメージしにくいのである
そこに現代が近代人が死者に関する祭とか信仰を失った原因があ
それは精神的に貧しい社会にしたのである
死者とのつながりがあり過去があって歴史があって現在の生活がある
そういう連続性がなくなると世界認識も浅薄になる、今だけだということは人間の生活でありえないからである、次々に人が死ぬしその死ぬ人も忘れられて今しかないとなればその世界観も浅薄なものになるからである
そういうことで何か古いものが深く人間の心情に根ざして変わらないから訴えるものが依然として現代でもある
死者をどうするのかということがわからなくなった現代では特にそうなのである

 歌もおわりに近づけば
                                                                         
「死」の意味を目指し,生の次に同様に「死」も受け入れ
「死」を迎え小躍りしつつ
人間の入場となる次第を歌わねばならない
君らをしっかりと結び、君ら離れ離れの多様な生たちよ
山々と岩と流れを
それから北風、それにカシとマツの木立もいっしょに
君と一つの絆に結びわあせねばならない、おお魂よ
ホイットマン(草の葉)

死を喜ぶとまではいかなくてもここでも同じような思想が歌われている
つまり死者も自然と一体化して新しく生まれ次の世代に受け継がれる思想である
人間はやはり死とはなになのか?それは家族の死とか他者の死とかありまた自らの死がある
死の意味を深く探る必要があるのだ
そうするとよりこの世界は意味あるものとなるのである
今の世界は今にすべてが奪われている、死者と結びつかいな、そこで浅薄な世界観とかもの見方になるのである   


家の力、土地の力、歴史の力 (グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)

場所の現象学を読む(場を無視した工業化情報化グローバル社会) (キップリングの詩の訳の解説)

キリコの絵と万葉集の比較 (場所の喪失が空虚さを生んだ、場所と密接に結びついていた万葉集の歌)

震災復興は、なぜ遅れるのか? (明治以降私的所有権など認めすぎた―共同できない地域になっていた)


震災復興は、なぜ遅れるのか?

(明治以降私的所有権など認めすぎた―共同できない地域になっていた)

正規の法定相続人をたどると、この土地だけで地権者の数は100人以上になったといいます。これらの地権者は全国に散らばっており、所在地を突き止めるだけでも困難を極めます。結果として、町は2012年11月にこの土地の取得を断念しました。大槌町だけでなく、こうした所有者不明土地の事例は被災各地で見られたのです。




ここにももう土地が個人所有に分割されて利用すらできなくなっていた
入会権でもそうである、江戸時代は共有したが山が無数の個人の所有に分割された
それで海ですら俺の前の海に権利があるとして補償金を東電に要求していた
そして避難区域になった所はあらゆるものに補償がついた
私道のようなものがありそれは自分に権利があるとして補償を要求した

つまり私的権利を認めすぎた結果として公共心がなくなり公共的なものを優先できない
共同性がかえって明治以降失われたのも逆説である
江戸時代というとかえって何か遅れたものであり明治以降は進んだものとして見ていたが実際はそこにも多くの弊害が生まれたのである

江戸時代はいろいろな見方があるにしろどうしても小さな村で狭い地域で生活するから共同する、それで伝統的なものを大事にする、村に伝えられた祭りとか行事などを大事にする、それは村を持続させるもはのとして必要だったのである
これまで述べてきた先祖がその生活した場に生きているというときもそうである
田植えの時期に山から先祖がおりてきて秋になると山に還るとかの感覚は別に宗教でもないが狭い村の中で共同して生きていたからそういう祭りが生まれた
それは宗教ではない、文化だったのである
そういうものが失われたとき人間の心は不安定になる
死者はどこにいるのかとなるときその死者の居場所もなくなる

ビルの谷間とか煤煙の工場地帯とかに住んでいればそうなる
そして現代人は近代化でそうした精神の不安定にさらされて故郷喪失者になった
戦前まではまだ村というのは維持されていたがもう戦後は消失した
核家族とか会社員となり工場で働き家族はその単位になったからである

前にも考察したがプライベートとは奪うというとき無数の私的所有権が与えられて公共的である共同的である土地も分割されたのである
そして金が唯一の価値となりすべてが金に換算される、それも私的なものとして奪うものしとて所有されることになる
公共的なものが明治以降であれ戦後には特に失われたのである
戦前は国家共同体で一体化したが戦後はそれも否定されて会社企業共同体になったからである

だからこれまでなぜ復興できないのか?
それはこうしたし時代の影響もあるとしてどうにもならないとも書いた
つまり共同体とか一体化していた村がすでにない、すると一致して共同して復興しようとするものがなくなっていた
それより補償金をもらって外で家を建てて家族のことがまず先決だとなったのである
かえって補償金で市町村は分断されたのである

それが何か共同で市町村の安全を守るべき消防所すら建てられないという現実があった
土地は本当に強固な私的所有権で細分化されている
村の共同の土地という感覚もなくなっているのである
それでこれだけ耕作放棄地が増えたというときこれはここだけの特殊な事情だけではない村の生活をみんなで守るという共同体の喪失があったからだとなる
そもそも農業は跡継ぎがいないとか金にならないとかで荒廃していたから全国的にも過疎になったり耕作放棄地が増えている、そこは荒廃してゆく

南相馬市の原町区でもそうである、大原では知っている人の家が空家になっている
息子は跡を継がない、街で家をもって働いている
そして病院に一緒にいたとき猫のことを心配していたのである
隣の村でも息子か娘が街で働いていて補償金で家を建てたとなる
そういう人がまた多いのである
補償金でかえって村が捨てられて町でも村でも捨てられたのである
これは津波の被害地でもそうである
過疎化していたのが一気にさらに過疎化して村や町を捨てて内陸部に移住して帰ってこないのである

だから本当に絆のことを盛んに言われたが第一内部でさえ絆がなくなっていたのに外部で絆、絆と強制されるように言われたというのは本当である
外部の人たちが入ってきたからそれが言われたが内部の絆は喪失していたのである
そういう社会に住んでいたからそうなったとなる
だから結局八年過ぎても復興はできなかったとなる
何か意外と絆がなくなったもろい社会に住んでいたのである
それでグロ−バル化と広域社会化しているからさらに人々は分散して帰らなくなったとなる
posted by 老鶯 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年02月16日

forest in the morning and evening


forest in the morning and evening

morningsunforest1.jpg

forest in the morning

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forest in the evening

forestblue123455.jpg
enlarge

rockrail111.jpg

ソフトで森が一番作り安いのである
同じようでも多少違っている、変化がある
だから一番多く抽象画で作っているのは森なのである

I can make forest easily with one software -
Even if it is the same, it is somewhat different, there is a change
So it is the forest that makes the most abstract paintings


タグ:abstract forest

無人駅の責任問題(自動運転の責任問題に通じている)


無人駅の責任問題(自動運転の責任問題に通じている)

jrres1.jpg

切符の販売や清算、列車の運行等に関する駅業務のご案内はいたしかねます

なぜこのようにわざわざ書いたのか?
また乗客に表示してわざわざこういうことを記しておくのか?

これはJRが責任を明確にして責任をとりたくないからである
それは私が自作した時刻表とかまた案内の紙でも張るなと言われたからである
それはなぜだったのか?

それはもし私がそうしたらそれはJRで許可したことになり苦情とか問い合わせがJRにゆくからそういったのである
別に悪いことをしていない、JRのためにもいいことなのだがJRではそうさせない
それはそこに必ず責任問題が生じるからである

だからなぜわざわざこのことを明記しておくかというとその駅に人を置くのはあくまでも南相馬市と業務のことで相談して契約したのである
そのことは新聞に出ていた

ここに人を置くのはあくまでも高校生の通学者の見守りとしているからだ
そのためにJRは駅の業務のことはかかわらせないようにした

もし駅の業務で委託するとなるとそこに責任が発生する

JRで頼んだのだからJRにも責任があるとなる
そしてこうした大会社になると何か事故とか問題が起きると大きな賠償金を要求されるのでそれを恐れるのである
それは市役所とかでも国とか大きな会社でも賠償金を要求される
それだけの支払い能力があるからだ、アメリカの会社では何百億もの金すら要求されたからである、だからこうなると責任のことに相当に気をつかうことになる
それがこの一文の表記ではなかったか?
また市から委託されたことでnpoの人も駅の業務には責任を持ちませんということになる
そのことで責任を負いませんともなる
市では金を払っているからだ、ただその仕事は高校生の見守りに限定されているのである
でも不思議なのは無人駅でも問題が起きることがある

そしたら誰が責任をとるのか?

例えば子供が無人駅だから勝手に入ってきてホームで遊んだりしたのである
そこで事故が起きたら後誰が責任をとるのか?
その責任はとる人はいないのである
そうしたしらその子供が悪い、親がいたら親の管理責任だとかなるのかもしれない
無人駅にしたのは経費節約のためであり乗客がそのコストを払わないから無人駅にしている、だから乗客にも責任があるとなる
JRではサービスを提供するにしても経営が苦しいのだからその分乗客が自主的に利用してくれとなる

実際に盲人がホームで事故で死んだりした、その時JRに盲人団体が抗議した
今でも無人駅化に反対している
それにもまた問題がある、その盲人に払う手間とかありそれを払うのがJRだけなのか?それは国の福祉問題でありJRだけにその労力を払わされるのでは困るとかなる

ともかくこれは自動運転で一体事故が起きたら誰が責任をとるのか?
そのことで問題になっているがこさとにているのである
ロボットとか機械とかコンピュターのソフトとかいろいろあっても結局責任をとるのは人間なのである
この責任問題から人間が逃れられないようにできているのである

だから悪ふざけで動画をインタ−ネットにアップしたアルバイトの料理担当者が会社の評判を落としたと賠償請求するとかなる、現実に株が下がったとか実害があった
つまりアルバイトでも責任がそこに生じている

そして必ず雇う側でも雇われる側でも責任が生じている
雇ったらその人の責任をもつ、その仕事をやらせる責任をもつ、雇われる側もその責任をもつ、双方に責任をもつ、そういう自覚のもとに契約するのである
だから実際は雇う側も雇うとき慎重にもなる、変な奴を雇って会社に損害与えるようなことになったらまた責任を問われるからである

ともかく常になんらか人間社会は責任がつきまとっていてそれから逃れられないのであるそれで会社とかではその責任を問われることを恐れるからこうして慎重になる
でも無人駅にして責任はないとかにはならないのである
いくら自動化してもそこで何かあったら責任はJRに会社に問われるのである
なんとか責任を逃れるようにしても逃れられないというのが現実なのである

そもそも人間は生まれ時にすでにそれだけでもう責任が問われて生まれてきていたのである
それだからこそ泣いて生まれてくるのだという理屈も成り立つ
そもそも人生そのものの責任からも逃れられないのである
それも死なない限り責任から逃れる術がないのである


2019年02月17日

不正乗車は「運賃3倍」徴収、時代に合っているか (無人駅ではどうなっているのか?)

                
不正乗車は「運賃3倍」徴収、時代に合っているか

(無人駅ではどうなっているのか?)

 今では駅の無人化や省力化が進んでいる。改札口にバーのない入出場を記録するための簡易なICカードリーダーが設置されているだけの駅も増えている。その点では有人駅が多かった時代よりも、監視の目を盗みやすく少額の不正乗車がしやすくなっている面もある。
 乗車券確認が乗客の行動に委ねられることになるのならば、引き換えにその信頼を破壊した場合のペナルティを重くすることで、抑止を図るというのは合理的である。

 東洋経済オンライン

感心するのは無人駅では入り口に乗車券とか入れる箱を設置している
それを定期的に見回りに来て回収する
それを見ているとみんな真面目であり切符を入れている、それには感心する
通り抜けることは簡単だからである
例えばA駅からBCD駅となるときB駅までの切符を買ってD駅は無人駅だからそのまま素通りすればわからないからだ
それはキセル乗車とにている
なんかそんな経験している人は多いのである、それに責任も感じなかった

最近遅きに失したが社会的責任を感じるようになった、人間は社会的責任を感じるには仕事をしてみないとわからない
だから自分の欠点は備わらなかったのは社会性だった
旅ばかりしていては社会性は備わらないのである
だからニートとかの危険性は社会性が備わらないからある所で介護とか何かあると危険になる、対処できなくなるのからだ

要するにここで問題になっているのはサービスを提供する側と提供される側の問題なのである
第一そうだろう、何か食堂に行ってもどこかで買い物するにしろ何でもサービスを提供される側にばかりなっていたら社会のことはわからない
もし仕事しないニートとかなるとそのことがわからないのである

そしてサービスを提供する側には必ず責任が生じる
それで必ずクレームが文句が言われるし責任が問われるのである
でもサービスを受ける側、消費者側になると何も責任を問われないのか?
それが無人駅とかの問題だったのである

サービスを提供する側でもそれ相応の金をもらえないと提供できないのである
千円でいい料理をだしてくれと言ってもそれには限度がある
それはなんでもそうである、金によって提供するサービスには差が生じるからである
JRでは経営上収入がローカル線などでは少なくなっているから駅員を置けないのであるそれが東京でもかえって自動化したのはそれだけ自動化した方が手間が省かれるからだ
そこで経費を節約できるからである
機械化自動化は医療でもAIを利用する時医者不足だから機械に頼るようになるのであるそれはこれからどこでもそうなる
ただもし駅員を乗客側で置けと言うなら今の乗車賃を倍にするとかなる
また不正乗車を見つけたとき多額の金を罰金として払ってもらうとかなる

ここまで考える人は少ないだろう、それはJRという会社が巨大会社だから別に倒産するようなことがないからだと思っている
でもローカル線では経営的にコストとして維持できなくなり廃線になる
それを維持しろといってもできない、サービスされる人が利用しないのだからできないのである、それを維持しろというのは勝手だとなる
それで自治体がかかわり費用を負担するとかしてなんとか維持するとなる

結局現代の資本主義社会は金が責任なのである、もうからなければ金にならなければ維持する責任などないのである
もしJRで駅の高校生の見守り役でなくて駅の業務にかかわらせると切符販売でもさせるとそこに費用の負担が生じるからしないのである
業務委託すればJRで金を払うことになるのだから無人駅にする意味が価値がなくなるからである

要するに現代の社会は金が責任なのである、百円、千円、一万と金によって責任が課せられている、だから何であれ一億円持っている人は一億円の責任が課せられることになる
それをギャンブルとか無駄に使うと責められるのである
だから金のない人は責任はないとなる、だからかえって気楽だともなる
とにかくなんであいつはあんなに金をもっているんだ、その分を社会に尽くしてもらおうとなるからだ
金を与えるということは責任を課されたともなるしそれは雇うことは金で責任を与えることになる、それで悪ふざけで動画をインタ−ネットにアップしアルバイトは賠償金まで請求されることになる
ただそうはいってもなぜアルバイトがそんなことをしたのか?
それは自給とか安いからでありその自給なりの仕事と責任しかないということでそうしたからそんなに責めるべきではないというときもそうなのである
金の多寡によって責任の度合いが決められているのが資本主義社会だからである

いづれにしろ無人駅の問題はサービスを受ける乗客とそれを提供する側の両者に責任がある、責任は何か一方的なことはない、原発事故でも責任は住民にもあったというときもそうである、金欲しいから積極的に誘致したのも事実だからである
だから住民の責任もなにかやとあるが問われる結果になったのである

江戸時代なら政治に庶民は口出すこともできないから責任は全部侍にあったとなり重い責任を課せられていた、それで切腹させられたのである
それで庶民はそういう重い責任を負いたくないから侍になりたくないとなっていたのである、気楽な方がいいとなっていた
でも今の社会はあらゆる人が責任を課せられている社会なのである
それも金によってその責任が問われる明確化されている社会だとなる
何であれ金を多くもらった人はその分の責任が問われる、果たしてくれとなる
金の多寡によって責任の度合いが決められている社会だともなる
とにかくなんらかの責任の自覚をする、それを庶民にも要求される社会である
だから不正乗車を軽く見ることはできないともなる
ローカル線とかげは金を払わないから廃線になる、でも廃線にするなと言うのは無責任だとなるからだ