2019年02月06日

南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は (栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)


南相馬市原町区の大谷(おおがい)村の由来は

(栃窪に大谷の姓の人は移動したのか?)

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福島県南相馬市の地名だけで「谷」が付く地名が21か所あります。
その内、「はんがい(半谷)」を含めた「がい」と、関東・東北で大方読まれている「や」が拮抗しています。
この場合の「かい/がい」読みは、「狭間/皆/甲斐/貝(かい)」や「峡/交/開/改/垣(がい)」と相関する意味があるようです。

1.「がい」が付く…11か所

まめがい(大豆谷)、うるがい(潤谷)、みみがい(耳谷)、みずがい(水谷)、はんがい(半谷)、ふじがい(藤谷)、おおがい(大谷)、みずがいさく(水谷迫)、かろうがい(家老谷)、つるがい(鶴谷)、つつみがい(堤谷)
2.「や」が付く…10か所
おや(小谷)、いちのや(市ノ谷)、こやつ(小谷津)、やちか(谷地加)、つしまやち(対馬谷地)、こつしまやち(小対馬谷地)、とよごやち(豊後谷地)、みやち(見谷地)、かなやさく(金谷迫)、ひるやち(昼谷地)

熊谷の場合は、もともと「くま(熊)+がい/がえ(谷)」であったものが、時代が下って関東・東北で主流の「や」読みが混じりだし、少なくとも明治6年の熊谷県において、
その後の鉄道駅など地名が異分析呼称として、「くま(熊)+が(格助詞の連体格用法)+や(谷)」となっていったと思われます。


これもなんかわかりにくいけど地形とかその土地が最初人が入らな自然状態をさしているのだろう、たいがいそういうのが多いからである
薔薇坂という地名は八木沢峠の入り口であり名も薔薇なのか?
それは茨(いばら)のたとだった、茨城(いばらき)もそうである
最初の原子の自然状態を地名にしている、薔薇をあてたことによりわかりにくくなったのである、だから漢字を当てているからそれから類推すると地名は間違いやすいから注意すべきなのである

ではなぜ南相馬市地域にガイとつく地名が多いのだろうか?半谷(はんがい)となると姓であり小高では有名な人である、地名が姓となった
ガイは萱(かや)にも通じているし谷地(やち)にも通じている、湿地帯とか萱が茂っているとかである、そういう状態の所が日本がに多いからそうなった

ここの地名の謎は石神村内に大谷村があり独立していない、だから野馬追にも出る武家の出がいない、つまりここは比較的新しい土地である
新しく開墾された土地だとなる、そして新田川の両岸でありそこから山間の狭隘な地域に入るいい場所ではない、だからここで会った人の家は前が森で高くなっていて日影の場所で日当たりが悪いからいい場所ではなかったからだ
そういう場所はあとから入ってきた人が住むことになる
その土地で良い場所は古くから人が住んだ場所だとなく、前田という地名はその土地の草分けてが住んだ村の中心になっていることが多いからだ

ただこの大谷村の謎は野馬追に出る武家もいない、戸数も20戸くらいと少ない
それでてぜ栃窪村に大谷(おおがい)姓の人がいるのなぜだろうか?
それは一族を形成した

姓の由来は地名にありその地名を元にして分派した
だから栃窪村があるとして他の村に出ると私は栃窪村の出身だから栃窪と名乗る
でも栃窪村にいたときはわざわざ栃窪という姓を名乗らないのである
だからその土地の村の地名を姓にしている人はいないのである
外に出たとき私は…村の出身ということで村の名前を姓としている
それは深野とか岡和田でもいろいろある

ただ遠くから移住した場合はその土地のこと村のことはわからなくなる
ここでは相馬氏などがそうである、千葉県とか鎌倉とかから移住した武家がいるからだ
でも千葉氏となると千葉県であり千葉一族の出だとなる
なぜこの大谷にこだわるかというと自分の家で関係していたことがあったからである
その人も死んだし関係した人も死んだ、でも大谷家は栃窪で一族を形成していた

そもそも人の移動は常にある、狭い地域内でもある、特に開墾されていない原野が多い時はそうである、土地を求めて人は移動する
それで越中など移民が飢饉で三分の一も人口が減った所に命がけで移民したのは土地が得られるからだった、その土地も相馬藩内ではいい土地ではなかった
すでにいい土地は古くから住んでいる人が所有していたからである
だから狭隘の土地とかが与えられたのである

この大谷(おおがい)村について推測して書いたが間違っているかもしれない
記録したものとか調べていないからである
図書館にはもう5年とか行っていない、家事とかに追われてゆっくり調べられないからだだから肝心なことで誤っているかもしれないが一応関心があったので書いた
インタ−ネットで調べられるから郷土史研究でもできるともなる
図書館は調べるのがめんどうなのである、その場所に行かねばならないしいちいちコピーするのもめんどうなのである
だからこういうものは暇でないとできないと思った
その暇がなくなったのである

こういうとき墓地を調べるといい、狭い狭隘の所に墓地があったからだ、そこで何かわかる、ただ今回は国見山に登らねばならなかったので調べられなかった
posted by 老鶯 at 17:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2019年02月07日

グロ−バル化は国内でもそうである (東京一極集中で地方から富が吸い上げられる―会社の社長は東京に住んでいる)


グロ−バル化は国内でもそうである

(東京一極集中で地方から富が吸い上げられる―会社の社長は東京に住んでいる)

 グローバル経済とは何なのか?これを客観的に見て理解できるかとなるとむずかしい
今どんな時代を生きているのか意外と生きていてもわからないことがあるのだ
江戸時代に生きていた人がどんな時代に生きていたのかわからない
それは時代を比較しにくいからそうなる
こんなに外国と交わり生きている時代はない、でも江戸時代は狭い地域で藩とかの単位で生活していた、規模が小さいから何かいろいろなことが見える社会であり互いの関係も見える社会に生きていた
そういうことで何かいろいろなことを別に特別な勉強しなくてもいい社会である
かえって人間同士も互いに通じ合う社会である
もちろん必ず負の面はあるが今のように互いの関係がわからない社会ではない
それは狭い社会で生活していたからである

身の回りにあるもので生活していた、燃料は炭だとすれば山で木材から炭を作っていてそれを利用するとなると近くの山で木を切って炭にしている目に見えるから何もむずかしい勉強などいらないのである
水でも井戸からとるとかわかりやすい、そして何より遠くのものは物でも人でも滅多に入ってこない、制限されている
だから遠くから運んでくるものもわずかだから身の回りにあるもので間に合わせていたからその生活もわかりやすいのである
経済の動きが手にとるようにわかるのである

竹を利用して竹細工があり籠屋がありとか手仕事の社会でもある、その材料はみな近くでとれたものなのである、外国からも藩の外からも入ってこないのである
そういう社会になると別に学問として学ぶ必要はない、経済の勉強すらいらない、その社会で生活していればむずかしい経済学など勉強しなくても学問がなくてもわかることだからである、だから生活の中で生きる術を身につけていたのである

現代社会では日本ですら広域的に密接にかかわる社会である
モノ、ヒトが自由に出入りする社会である
それで単純な疑問として南相馬市鹿島区に東北サッシがあタニコウがあり友伸エンジニアがある、これは鹿島区では大きな会社であるから働く人も多い
でもみんな社長は東京の方なのである
鹿島区でも相馬地域に住んでいない、なぜなら時々電車で視察には来る
その時社員が迎えるから知っている

つまり社長は地方に会社が支社があっても住んでいないのである
こういうことが今は多いと思う、社長は東京の方に住んでいて地方に会社があっても工場があっても地元には住んでいない、するとどうなるのか?
その富は社長がいる東京に使われるとかなる
東京に富が集中するシステムになっているのだ
そして東京に住んでいる限りどんな贅沢していても地方ではわからない
東京では一か月二百万の家賃とかのマンションに住んでいる人が普通にある
会社の社長が多いからである、経営者はそれなりの金が入ってくるからである
そういう生活は田舎ではイメージできないのである

そして社長は経営者は地方に視察に時々来ても住んでいないのだからその地方の田舎に住んでいる人についてもその地方の生活がどういう状態にあるのかも理解しないでもいいとなる
なぜなら社長でも地方の田舎に住んでいたら自分が生活する場だから何か社長となれば関与することがありその住んでいる場所を良くしようと自ずとなるからである
でも住んでいない限りそういうことにはならないのである
時々社長として視察して後は東京に帰ってゆくだけだとなる
そういうことが何かグロ−バル社会では普通なのである
グローバルとなると日本に住んでいないでアメリカに社長が住んでいるともなる
すると日本はただ金儲けの対象であり日本に住んでいないのだから日本からは金が入ればいいともなってしまうのである

そういうことが原発事故にもなる原因を作っていたのである
なぜなら東電の幹部は社長でもフクシマ原発のある大熊とか双葉とか浪江でも周辺に住んでいないからである、確かに社員で住んでいた人はいた
だが幹部クラスになると住んでいないのである
その住んでいないことはその場所に無関心になる、東京から離れたところで安全だとかただそこで収益をあげて東京で贅沢していればいいとなる
原発に対する危険性も感じなくなるのである
もし原発の近くに住んでいればそうはならない、素人より放射線の危険とか知っているからである 

現実に東電の社員で住んでいた人は爆発の時山の方に逃げたが東電の社員は海側の街の方にもどった方がいいと行って引き返したのである
山側の津島は放射線量が一番くらい高い地域になっていたからだ
つまりそこに住んでいる人は自分が被害に会うからみんなに支持できたのである
東京の東電本部からは何の指示もなかったのである
そして吉田所長と東京の幹部とは意思疎通ができなくなっていた
それも事故現場にいないしもともと離れて支持していたからそうなったのである

だからグロ−バル社会とはこういうことになりやすいのである
それは国内でもそうである、社長は地方で会社や工場を経営してもその市町村を良くしようというものにならない、それはそこに住んでいないからである
グロ−バル経済になると世界が一つに結ばれるというのは幻想である
世界をばらばらにするのである
グロ−バル経済はただ金だけがやりとりする無政府状態なのである
人間が人間同士わりあえる範囲は広ければ広いほどわかりえなくなる
無関心になる、それだけ広くなるともう相手のことなど理解できないからである
グロ−バル社会とは経済だけが突出した無政府状態であり無法にもなっているのだ
そこで通用するのは金しかない
金があればどこの国に行っても最高級のホテルに泊まれるとなる
人は世界でも金だけが価値として見られるのである

江戸時代だったら身近な人たちと密接にかかわり生活していたから金だけの社会ではない要するにその地域で貢献する人はみんなわかっているからその人が認められていたとなるその社会的に共通に認知された認められた人が力をもっている、それは金だけではない、身分とか社会的な貢献度合いによって決まっていたとなる
現代では誰でもいい、第一遠くから来る人だからその人となりなどわからない
ただ見かけとか金でその人の価値を判断するだけなのである
金さえあれば殿様待遇になるのである

グローバル経済はそうして人間的なヒューマンなものを排除して成り立つ
金を唯一の価値としている、人間と人間がわかりあうなど関係ないのである
そういう社会は異常だともなる、つまり経済だけの金だけが通用する無政府状態の社会なのである
そして世界が市場になるのだからある一部の人に巨万の富が集まる
それは中国の皇帝と同じなのである

だからグロ−バル社会は何か世界が交流していいものだとしてきたがそれは世界でも格差社会になりその富は極一部の人に集まるシステムなのである
そして世界を支配するのはFRBなのか政府でもないとなる
金の流れのシステムを握っている人たちだとなる
その人たちによって世界は牛耳られている
それは陰謀論にもなるがでもドルが世界を支配しているという時そういうシステムがあるそれでアメリカは基軸貨幣としてのドルの支配権をゆずらないのである
それにも綻びをきたしてきた

基本的世界は国家なしではありえない、国家以上の共同体はできていない
グローバルの経済だけを追求する社会はそこは誰もモラルでもなんでも統制できない無政府状態になっている
ただ金のやりとりだけがあり人間的なものは排除されるのである
つまり人間が社会を作りえるのは共同体を作りえるのは本当は江戸時代の藩のような範囲である
それ以上巨大化すると統制ができないものとなる

そして世界で何が起きたか?グローバル化した結果世界大戦で第一次第二次世界大戦で3000万人とか死んだと信じられないものとなる
それはナチスのファシズムも産むのも当然だとなる
人間が人間的に治められる範囲には限界があるからだ
その血脈を通じる場所が限られた場所なのである
それはグロ−バル化ははるかに逸脱しているからもう統制するものもない無政府状態になって金だけが突出して力をもつ世界になる
もう世界の株式市場でも機能不全になる、それが恐慌とかなり破綻する
それが自然災害のようにやってくるように見えるのはもう世界経済など知りえる人はいない、原発でも吉田所長すら復水器のことを知らなかったのである
もう世界市場のことを知りえる人はいないのである
だから突然リーマンショックのようにクラッシュする、破綻するのが運命なのである

2019年02月08日

代悲白頭翁(5)劉希夷を読む(その激しい変化の無常に共感)


代悲白頭翁(5)劉希夷を読む(その激しい変化の無常に共感)



代悲白頭翁ー劉希夷

(白頭を悲しむ翁に代って)

洛陽城東桃李花洛陽城東 桃李の花、 
飛來飛去落誰家  飛び来たり飛び去って誰が家にか落つ。 
洛陽女兒惜顏色洛陽の女児 顔色を惜しみ、 
行逢落花長歎息  行々落花に逢うて長歎息す。 
今年花落顏色改今年 花落ちて顔色改まり、 
明年花開復誰在  明年 花開いて復(ま)た誰か在る。 
已見松柏摧爲薪已(すで)に見る 松柏の摧(くだ)かれて薪と為るを、 
更聞桑田變成海更に聞く 桑田の変じて海と成るを。 
古人無復洛城東  古人 洛城の東に復(かえ)る無く、 
今人還對落花風今人 還(ま)た落花の風に対す。 
年年歳歳花相似  年年歳歳 花相似たり、 
歳歳年年人不同  歳歳年年 人同じからず。 
寄言全盛紅顏子言を寄す 全盛の紅顔の子(こ)、 
應憐半死白頭翁  応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁

(口語訳)
洛陽の城東に咲き乱れる桃や李(すもも)の花は、風の吹くままに飛び散って、どこの家に落ちてゆくのか。
洛陽の乙女たちは、わが容色のうつろいやすさを思い、みちみち落花を眺めて深いため息をつく。
今年、花が散って春が逝くとともに、人の容色もしだいに衰える。来年花開く頃には誰がなお生きていることか。
常緑を謳われる松や柏も切り倒されて薪となるのを現に見たし、青々とした桑畑もいつしか海に変わってしまうことも話に聞いている。
昔、この洛陽の東で花の散るのを嘆じた人ももう二度と帰っては来ないし、今の人もまた花を吹き散らす風に向かって嘆いているのだ。
年ごとに咲く花は変わらぬが、年ごとに花見る人は変わってゆく。
今を盛りの紅顔の若者たちよ、どうかこの半ば死にかけた白髪の老人を憐れと思っておくれ。   

此翁白頭眞可憐此の翁 白頭 真に憐れむ可し、
伊昔紅顏美少年  伊(こ)れ昔は紅顔の美少年。
公子王孫芳樹下  公子王孫 芳樹の下、
清歌妙舞落花前清歌妙舞す 落花の前。
光祿池臺開錦繍  光禄の池台 錦繍を開き、
將軍樓閣畫神仙将軍の楼閣 神仙を画く。
一朝臥病無相識 一朝病に臥して相識(そうしき)無く、
三春行樂在誰邊三春の行楽 誰が辺りにか在る。
宛転蛾眉能幾時  宛転(えんてん)たる蛾眉(がび) 能(よ)く幾時ぞ、
須臾鶴髪亂如絲須臾(しゅゆ)にして鶴髪(かくはつ) 乱れて糸の如し。
但看古來歌舞地  但(た)だ看る 古来歌舞の地、
惟有黄昏鳥雀悲惟(た)だ黄昏 鳥雀の悲しむ有るのみ。

(口語訳)
なるほどこの老いぼれの白髪頭はまことに憐れむべきものだが、これでも昔は紅顔の美少年だったのだ。
貴公子たちとともに花かおる樹のもとにうちつどい、散る花の前で清やかに歌い、品よく舞って遊んだものだ。
音にきく漢の光禄勳王根の、錦をくりひろげたような池殿や、大将軍梁冀の館の、神仙を画いた楼閣のそれもかくやと思うばかりの、贅を尽くした宴席にも列なったものだ。
しかしいったん病の床に臥してからは、もはやひとりの友もなく、あの春の日の行楽はどこへ行ってしまったことやら。
思えば眉うるわしい時期がどれほど続くというのか。たちまちにして乱れた糸のような白髪頭になってしまうのだ。
見よ、かつて歌舞を楽しんだ場所も、今はただ夕暮れ時に小鳥たちが悲しくさえずっているばかりではないか。

本当にこの漢詩のようなことをここ十年で経験した
それはまわりでもそうだった、一身上でも家族でもそうだった、家族はみんな死んだ
その突然の変化に驚愕した、体も機敏に動き活発であり頭がいいと自慢していた姉も認知症になり無惨に死んだ、銀行から金もおろせなくなった
そんなことがあるのか?それが現実だった、最後は悔しかったのか「俺は優秀だった」と言って死んだ、実際は馬鹿になって死んだともなる
この変化はあまりにも極端だったのである

一朝臥病無相識 一朝病に臥して相識(そうしき)無く

姉は外交的な女性であり友達も多くいたが認知症になり話すこともままならず誰も訪ねることがなくなった、それもあまりにも悲しいことだった
人間は病気になったりすると人はよりつかない、何か困窮している家にはよりつかない
私の場合はただ弱者化したことで責められるだけだった
そして自分自身も病気になっていたのである
人間は非情であり無常であり無情である

それが家族だけではない、この回りで起きたこともそうだった、津波であれ原発事故であれこんなことがありえるのか?村や町までなくなる、一瞬にしてゴーストタウンになる
そんなことがありうるのか?
津波では村ごと何もなくなった、それは恐るべきことだった
津波の恐ろしさは一切何もなくなることだった、家も村自体もなくなった

更聞桑田變成海更に聞く 桑田の変じて海と成るを

まさにこれだったのである、これほどの変化があることに驚愕した
本当に桑田が田畑が海になったのである、これも信じられない光景だった

歳歳年年人不同  歳歳年年 人同じからず。 
寄言全盛紅顏子言を寄す 全盛の紅顔の子(こ)、 
應憐半死白頭翁  応(まさ)に憐れむべし 半死の白頭翁

人も同じではない、親戚関係も全部切れた、もともとなかったからそうなったのだが親戚関係でも一時的であり家族関係すら無常だった、家族でも一旦死ぬと去る者は日々に疎しとなってしまう、これはどうにもならない、そして新しい人がそこにいる
若い人でも次々に出て代が変わる、そうんう変化が人生でありそれは世界共通なのである
人間の普遍的真理なのである

そしてたちまち人間は老いる、すでに青春は遠いことであり女性も男性も老いている
爺婆になる、老いは急激にやってくるというのも本当である
そこでただ愕然とするだけである
これほど人間は変化するものなのか?それは今だけではない人の世とはこういうものだったからこういう漢詩が生まれた、それが人間の無常の世界だったのである
ここで起きたこと自分自身に起きたことにはただ茫然とするほかなかったのである
この世が無常だということを身をもって経験したのである

最近漢詩を作ろうとしたができない、これもやはり何か手ほどきが必要なのだろう
漢詩はやはり詩語の意味を汲み取ることが大事になる、これも簡単にはできない
古意となるときなるほどなと思った、何か歴史ある所には古意があるからだ、意味があるからだ
そうして詩語を深く読み取れば漢詩の理解に通じる、ただ日本語化した漢字と中国の漢字の意味は違っている、それで漢詩を作ることが難しいのである

劉希夷という名に

「原則として名は与えられるもので、字は自分で選ぶ。 では、何故、字をつけるのかと言えば、同姓同名が日本より多いからである 中国人の姓は五百か六百くらいしかない。同姓同名の人が多くなるのは当然だろう。」
と書いている。
東夷・西戎・南蛮・北狄という言葉があることからも分かるように、「夷」(えびす、えみし)という文字は、 差別用語だ。それに、「希」という字を被せて「希夷」。 これは、名前に適さない字、例えば、病、死、苦、醜などあるが、その中から使った例として、 漢代の将軍「去病」(病を去る)があるが、それと同じように、「希夷」(薄いえびす)としたのだろうか。

日本がでも蝦夷がいて蘇我蝦夷(えみし)の名の人がいた、だからそういう感覚で名付けたものとなる
それから三春というとき三春という町があるがこれも中国に由来する漢詩からとった名なのである 
 春季の3か月。初春・仲春・晩春とあり確かにその間に三春は枝垂桜から他の桜でも町が桜色に染まるからである
つまり日本は中国文化の影響が強く漢字を今も使っているのだからもっと漢字について知るべきだとなる
日本が今江戸時代とか国風文化に還る時代でありそれと同時にまた中国文化を漢字でも理解を再度深める時代にもなる
欧米一辺倒の時代は終わりつつある、中国が何なのか日本人はわからなくなっているのである
何かそこにはマイナスのイメージしかない、経済的に発展した中国を見てもいい評価をしていないのである
それは共産主義国家ということでなじめないからである
また戦争がありそれで相互の理解が深まらないのである

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貨幣の歴史、金の背後にあるもの (政治軍事力であり民間銀行の金融支配?)


貨幣の歴史、金の背後にあるもの

(政治軍事力であり民間銀行の金融支配?)

 前2世紀(共和政期)のローマ社会は、単独統治者、つまり独裁者の登場を登場を強く恐れた。市民集会が行われるローマ中心部の広場から、許可なく建てられた人物像が撤去されたほどである。したがって、貨幣に自己の肖像を描出することも独裁への意欲ありと見なされ、不人気につながることから忌避されたと考えられる。英雄神や、すでに亡くなった祖先は独裁者になる心配がないので許容された(しかし祖先の肖像は駄目)。、共和政時代のローマ人って面白い。

 比佐篤『貨幣が語るローマ帝国史:権力と図像の千年』(中公新書)

オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム ...の連続テレビ放送見ていてエジプトの支配をまかせられた人物が自らの肖像を貨幣に彫ったものを流通させた
それは自分自身が支配者でありその地の王だということになった
それでオスマン帝国の真の王のスレイマンが討伐を命じて殺された

貨幣とは何かとかその謎は歴史的に解明しないかぎりこれもわからない
貨幣にはただ交換するための手段として便宜的にあるのではなく政治と深く関係していたのである
だからローマでは単独統治者が出れば他の政治家がそれを嫌うから自己の肖像を彫ることは独裁者になる、統治者になるということで嫌われたのである
貨幣は紙幣でもそれが経済的要因だけで生まれているのではない
政治的力が反映して生まれている、政治の力が作用している
ヤップ島の石の貨幣というのも別にそれは交換できない、経済的意味がないにしろ威信財でありそれを所有しているだけで力をあるものとして認定されていたからである

政治の力が経済にも反映するしそれで貨幣とか紙幣にも反映する、世界の通貨でもなぜドルがアフリカの果てまで通用しているのか?
なぜドルでしか石油が売買できないのか?それは政治的な力関係でそうなっている
アメリカのドルが世界の共通の貨幣になっているときアメリカが世界を支配しているとなる、だからアメリカはドルを世界基軸通貨として金融の面で世界を支配できるからこのドル支配に抵抗するものをたたくことになる

それが中国だったのである、カザフスタンで石油がとれるとしてその売買はドルでしかできないとなればそうである、それで中国はブロックチェーンを利用してドルでなくて取引しようとした、そのことは良くわからないにしろドルだけで石油を売買することに逆らったのである
そうなるとアメリカに敵対するものとなり中国に関税かけるとか圧力をかける
世界を支配する手段は軍事力もあるがグロ−バル化すると金融も大きな柱になる

そしてこの金融を握っているのはその国ではなくアメリカさえ紙幣の発行権がなくFRBという民間の銀行だというときこれも現代のグロ−バル資本主義のシステムの謎を解く大きな問題なのである
それでアメリカの政府で紙幣を発行しようとしたリンカーンからケネディから歴代の大統領が暗殺されたというのも紙幣を発行することドルを発行することがどれだけ重要な意味を力をもっているかわかる
現代のグロ−バル経済を支配しているのは金融であり民間の銀行だともなる
その背後になにながあるのか?それが常に陰謀論になっている
それは国家のように表に出てこないからである

金融の仕組みがわかりにくいからそうなる、つまりグロ−バル経済というのはそうしてわからない仕組みになっているから陰で操作して巨万の富が世界から吸い上げられるとなる
そして不思議なのはアメリカ自体が極端な格差社会になっている、それも数パーセントの人にアメリカの富の半分が吸い上げられている
だからアメリカという国は何なのだろうとなる
アメリカを支配しているのはアメリカ国民ではない、裏で操作しているFRBとか民間巨大銀行なのかとなる、もしそうした富がアメリカ国民に回っていけばアメリカ国民を富ませるものだから格差社会にならないから不満も起きないのである
それだけの格差があればアメリカ国民自体がそういう社会を糾弾するようになる

なぜグロ−バル経済とかが批判されるのか?そして今対立軸は本当は右か左とかではなくグローバリストとナショナリストの対立である、トランプはナショナリストでありグロ−バリストではないからウオール街から反発された
それはとりもなおさず今の金融を支配するのはアメリカの政府ではない、アメリカ国民でもない、数パーセントの金融を支配するものたちだとなるからだ

グロ−バル化経済は世界市場の自由な競争であり公平というのではない
明らかに世界市場を操作して極一部の人たちに富を集めるシステムなのである
だから株式市場が公平のように見えてそうではない、そんなところに株でも投資信託でも素人は儲けられないシステムになっているのだ
第一地銀などは弱小の銀行でありそういうグロ−バル化の中ではやがて排除されてつぶれてゆく銀行である、もう現実そうなっている
地銀などはとてもグロ−バル化市場に参入できないのである
そんなところで競いば金を失うだけでありまたそこに預ける人も金を失う
地銀の役割はそういうことになかった、地元の会社とか地元に金を回して貢献するということに成り立ちがあったからだ

現代の問題を追求する時やはり常に歴史的に追求することが要求される
そうすると見えてくるものがあるからだ、いくらグロ−バルでも複雑でも歴史的に解明してゆくとわかるということがある
紙幣は政治的軍事的でもその優劣によって価値が決まる支配されるということである
アメリカに中国が軍事でも金融でもハイテクでもITでも通信分野でも対等になりさらにアメリカを凌駕するとなるとアメリカの敵国にもなる
政治のバランスが崩れドルに価値がなくなる、ドルの支配ができなくなる
それよりアメリカ自体がそのドルの発行権がない、グロ−バル経済を支配するのは金融でありFRBがドルの発行権をもって世界を支配するとなる

そして紙幣が実は負債であり銀行が金を貸したものが紙幣として金として流通しているのだとすると経済のシステムは借金から成り立っているともなる
借金させることにより個々人でも国すら支配できる
借金の怖さは個々人でもモラルを消失させることである
たいがいの犯罪が借金が原因になるのもそのためである
借金に追い込まれた人間はもうなんでもするようになる、殺人までする
だから借金しているとその人は怪しいとまでなる
それは江戸時代からあった、遊女に売られたのは借金のためである
借金した人はなんとか借金を返したいとしてなんでもする
もう人を人ともみなくなる、そういう人と出会ったのが自分であり最悪だったとなる
悪くすると保険金殺人のようにさえなっていたから恐怖である

人間は借金によって悪魔に変貌する!

これは国単位でも借金させて国家すら支配する、それで中国の一帯一路計画でも借金させてそれに従わせようとして反発されたのである
借金によって言うことを聞かせる、それが金融支配でもある
中国もまたアメリカと同じなのである、大国は帝国そうして支配する
要するにグロ−バル経済に公平な市場の取引とかはないのである
もし本当に自由競争の原理が経済に働くならそれは理想である
かえって世界市場化グロ−バル化は富が数パーセントの人たちに集まるように極端な不公平を生むというよりそういうふうに仕組まれたものであり当然だったとなる
それは意図して作り上げられたものなのである

ともかく現代起きている問題はグロ−バル化にありそれを解明しない限りわからない
国家をなくす国家がない世界もありえない、そうなるとまさにグロ−バル化社会の完成になるのがそこには政府もなにもない、無政府状態でありモラルもない、金だけが唯一の価値となり荒廃する、現実世界がすでにそうなっているのである
何かネパールでは今だに日本の円からすると十分の一だとかいうのも変である
それで日本に出稼ぎにくる、そんな極端な差があること自体が世界がグロ−バル化して
モノでもヒトでも自由に出入りできる社会になっているからそうなる
実際はそんなに差があることが異常なのである
そうなれば富める国へ人が流出する、そこで移民問題が生じるのである
それは極端な金の格差からそうなっているのである

貨幣の紙幣の通貨の謎は世界的に通用するということ自体ありえないことだった
国と国になればそれは自由な貿易でも簡単にはできない、金が貨幣が紙幣が万能にならない、その国と歴史があり価値観も違っているからである
だから世界市場化して金によってそれもドルによってすべての価値が計られるということはアメリカによって支配され計られることにもなる
つまりドルの背後には政治力があり軍事力の優位があって力をもっているのである
そういうものが崩れるとドルも通用しなくなるのである
だから中国の台頭で起きていることはアメリカの驚異となり危機となっている
アメリカ一国支配が終わりつつあるということである 

そして歴史的にみれば地銀の成り立ちでも江戸時代の頼母子講とかに還ることが求められているかもしれない
グロ−バル化で地銀が投資信託とか株式に参入するのは本意ではないからだ
そうすれば結局地方の富すらグロ−バル経済市場の中に組み入れられて奪われる
グロ−バル化市場経済で地方にでも金が回って貢献すれば別だがそういうことはない
第一もう何に投資ているのか、そこで何意味があるのかなど皆目わからないからだ
そういう社会ではどうしても陰謀論がはやることになる
それは世界経済がどう動いているのかわからない、遂にAIの方が優秀だから銀行員とか証券マンなどいらないとなっていることでもわかる、意味も価値も何もない、無政府状態でありそこで金が暴力的に力を発揮するのがグロ−バル化経済なのである

だから陰謀論者は常に言っている、戦争すら金によって金融を支配する者によって起こされたとか言う
それは戦争というものでも武器を売ったりもうかるから利益をあげるから戦争がしかけられたのだとも言う
戦争が起こる原因も不可解だからである
もう人死ぬとしても何でも金儲ければいいとかしかない世界だとするとそうなる
戦争させて金融支配者がもうかって笑っているとなるとそれは悪魔的でありサタンだともなる
なぜ20世紀は戦争の時代であり何千万もの人間が死んだ、それはどうしてなのだろうとなる
局地的な戦争があってこれまでも歴史的に死んでいたけどこんな数の人間が死ぬということは歴史上ありえなかったからである
その原因は何だったのかとなると何か明確ではないのである
そこには深い闇があるだけだとなっているからである

2019年02月09日

JRの業務委託の駅員が不正


JRの業務委託の駅員が不正

福岡市交通局は8日、市営地下鉄の駅構内に乗客が捨てた1日乗車券を駅員4人が拾い集め、不正使用していたと発表した。手口を教えあったり、拾った券を融通しあったりして、昨年4月から今年1月にかけて計118枚を帰宅する際に使ったという。

 4人は、交通局が業務委託したJR九州子会社「JR九州サービスサポート」の50〜60代の男性契約社員。福岡空港駅に勤務し、乗客の案内などを担当していた。会社の調べに「交通費を浮かせようと思った」などと話しているという。

こういうこともあるんだな、無人駅では切符を捨てる人がいる
それは入り口に切符を入れる箱があるがそれがわからないことがあるからだ
初めての人はわかりにくいのである
そこには別に切符でなくても金も運賃も入れられるのである
でも運賃がぴったりでないと多くても少なくても困るのである
それで無人駅から乗った人に自分がちょうど小銭があったのでぴったりにして払わせた
その箱は原町駅の人が見回りにきて回収しているのである

この事件は業務委託しているからJRで頼んでいるから金も払っている
今鹿島駅に朝9時頃と3時半から7時ころまでいる人は業務委託されていないのだ
ただ通学の高校生の見守り役なのである
それはNPOが市から委託されてしている、だから市の方から金が払われているのだ

ただここで問題なのは業務委託して金までもらっている駅員となっている人が不正を働いたことである、これで思ったことは乗客は真面目だと見た
無人駅から乗ったとか別に誰も見ていないのだからそのまま通り抜けてもわからないからだ、真面目にみんな駅員がいなくてもごまかさないのである
何か律儀だなと見た、それには感心したから今回の駅員が不正することがそれも業務委託されて金までもらっている人が不正をしたということが対象的にそれが悪いものに見えた
なぜならそもそも駅員が不正したら乗客だって不正して当然だとなってしまうからであるこれは官僚でもなんでも上に立つものが不正したら下の者も不正してもいいということにもなる
駅員が不正していたら乗客も不正してもいいとなるからだ

無人駅化しているのは乗客が不正しないモラルがあるということで成り立っている
無人販売でもそうである、それは客を信用しているからできる
無人駅なら別に通り過ぎてもわからないからだ
そこにあまり悪いという感覚がなくなるのである

でも鉄道を利用する人が地方だと少ないから鉄道を維持することに金がかかるからJRでは無人駅にしているのである、すると客も鉄道を利用する人もそういう自覚が必要だとなる無人駅だからといって運賃を払わなくてもいいということではないのである
ただでは鉄道を維持しなければならないとかそういう自覚を持つ人は少ないだろう
現実に廃線寸前のローカル線でも別に車は利用しても鉄道はあえて利用しないからである
いづれにしろ業務委託することはJRで金を払うのだから責任が生じる
私はボランティアでありわずかの時間しか駅にいない、だから何の責任もないのである
つまり金をもらうことは責任がそのことで生じているのである
金をもらわないボランティアは責任はないのである
また責任あることはしないとなる、それがボランティアなのかもしれない
だから気楽であるが金も与えられないしその仕事すら認められないのである

いづれにしろ仕事という時サービスを提供するものと提供される者がいる
意外と提供される者は提供する者のの心がわからないのである
それは自分自身が一方的にサービスを提供される方だったからそうだった
サービスを提供する者の心を知るには自分もそうして仕事をしてみないとわからないとなる、サービスを提供する方の気持ちもその仕事をしてみればわかるとなるからだ
だからキリストが仕える者になりなさいというときそのことだったともなる
食料だって作る人の苦労をしらなければそのありがたみもわからないのである
だから消費者が王様だというのはおかしいのである
生産者がサービスする方が偉いともなる、それは金に関係なくそうなのかもしれない
何も提供しないものは実際は何も得られない、そうなるのが人間関係だともなる




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精神的に体でも障害者と化す老人 (一人暮らしになって起きた悲惨な実例)


精神的に体でも障害者と化す老人

(一人暮らしになって起きた悲惨な実例)

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週刊現代2月16日号

Cさんの代わりに買い物したり、ディサ―ビスに向かう際に手助けしてくれるなど何かと身の回りを世話してくれていた知人に、お金を持ち逃げされた
Cさんはその人を信頼して、部屋の鍵を渡していたほどだったのですが全部で3000万円ほど金を盗まれてしまったのです
その結果体調を崩し入院した
(長寿大国日本と下流老人ー森太)

●精神の知的弱者化(認知症などの増加)

●体力の弱体化病気化

●絆が壊れる弱体化(一人暮らしの増加)

このように老人は弱体化する原因がある、これに金のあるなしでも弱体化する
何かしら夫婦でもどちらかが死んだりすると途端に弱者化して支えるものがなくなり弱体化する
弱体化すると非情な競争社会の中で援助がなくなる、かえってその弱者化したことにつけこまれる
そういう経験を自分がしてきた、ただそうしてつけこんできた相手もまた借金とか金のないことで追い詰められていた弱者化した人たちだったのである
そこで弱者同士のぎりぎりのせめぎ合いとなる
でも病気になったりしたらもう弱者は言いなりになってしまうしどうにもならない
だから3000万も盗まれたがその犯人もわからなくなる

なんらか寄ってくる人も困窮しているからそうなる
金に余裕がないからそうなる、そして金に余裕がある人は寄ってこないしヘルパーとか介護とか嫌な仕事はしないのである
金持ちの人がそんな仕事をしない、何か金に追い詰められて困っている人が嫌な仕事でもするのである
だから家に入ってくる人は危険になる
この人は妻が死んで家族の絆が失われて一人暮らしになってどん底に落ちたのである
夫婦でもどちらかが死ぬと介護になったり追い詰められるのである

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週刊現代2月16日号

こんなこともあったのか、ヤクルトを配達する人は定期的に来るから頼んだとなる
老人で70くらいで目が悪くなる人が多い、その人は80歳で白内障の手術を受けた
今も仙台に通ってもう片目を手術する、仙台にはいい医者がいるからだ
糖尿病の食事療法をしているので手術も危険なので仙台の医者に通っている
もう一人の女性も目が悪く視力が衰えて細かい字が見えない老眼なのである
そんな人が来ても実際は役にたたない、仕事にならないのだ
助けにもならない、こっちが助けているだけなのである
他にも緑内障の女性も知っている、何かしら60以降は病気になる人が多いのである

そして一人暮らしにてる人も多い
その一人暮らしが危険なのである、一人暮らしになると頼る人がいない
そこで非情化した社会ではそういう弱者は餌食になりやすいのである
動物でも弱ったものが襲われ食べられるのとにている
つまり弱者化すると襲い安いからである
それは人間ても同じなのである

老人になって目が見えなくなるのと元から目が見えない人には相当差がある
老人になって目が見えなくなるとそういう暮らしをしていないからもう一人でも生活はできない状態だがその人は3年も一人で生活していたのである
それは相当に過酷だったとなる

一人暮らしは金があっても一旦こうして病気になったりすると弱者化して非情化社会の餌食になりやすい、それは自分もそうだったからそのことを延々と書いてきた
一切同情はない、ただ金が欲しいというだけである
それはもう現代社会は相手を金にしか見えなくなっている
そして貧困化しているから金だけを目当てに近づいてくるだけになる
そこで弱者は食い物にされるのである

これから一人暮らしの人は増えてくる、夫婦であっても一方が病気になると介護になったりすると弱者化する、そしてどちらかが死ぬと一人暮らしになりこういう危険な状態になる
そういう人は別に子供がいても頼れないとかも増えている、子供自体が生活が楽でないからそうなる
だから高齢化社会とはとても今やぎりぎり生活している人も多い、下流老人が本当に多い第一4,5万くらいしか年金をもらえない人も結構いるからだ
それでぎりぎりになっているのだ

この高齢化は日本だけの問題ではない、中国が一番深刻化してくる、数が多いし日本のような福祉もないのに急激に膨大な数が高齢化してゆく
現実に老人の自殺が増えている、儒教の国でも子供は親を敬わないとか大家族制がなくなりめんどうみれないとなっている、これは世界で共通した問題なのである
長寿でもこうして何かのきっかけで長生きが地獄と化してゆく
それは自分が体験したことであり恐怖だとなる、特に一人暮らしで身寄りがないとかなると夫婦でも一方が死んだりするとこのように悲惨な状態になる
ただどうしても老人は病気になりやすいからそうなる確率が高くなるのだ

そして知的な面でも認知症になると銀行から金が下せないとか全くの知的障害者になり悲惨なことになる、その時いくら金あってもその金を狙われるだけでありどうにもならなくなる
その時も同情は他人はしないのである
そして認知症にならなくても何か時代についていけなくなる、知的にもいろいろ書類でも銀行のことでもわかりにくくなるのだ
投資信託などすすめられたばあちゃんが一千万損しても銀行員を信じていたように古い時代の固定観念があり支配されて時代についていけなくなる

それは自分でもそうして失敗した、地銀は昔のように信頼できるものだと思っていたからである、そういうものでも常に変わっているからついていけなくなるのだ
ただ知的な面ではこれまで学んだものが実ることはある
それはその特定の分野のことでありあらゆる分野に通じることはできない
だから銀行で投資信託などすすめられただまされやすいのである
毎月分配型は利子が毎月入るのかと錯覚していたからである
それは元金から引かれていたのである

いづれにしろ高齢化社会の問題はますます70以上とかでも増えるし75歳以上になるとまた病気になりやすい、そこで団塊の世代の数が多いから負担しきれなくなることが予想されている
なぜ78歳の人が介護状態になり青森に送られたのか?
施設があっても働く人がいないのである、青森だと仕事もないから引き受けたとなる
東京でも高齢化した団地とか問題になる、一番東京が人手不足とかになり数が多いから問題になる、悲惨な老人がこれから続出することは間違いない

だから長寿社会の暗黒面も大きいから地獄の高齢化社会に突入する恐怖になる
さらにその下の世代は年金がもらえないとか過酷になることが予想されている
何かそれに備えるにしても備えようがないのである
あらゆるものが満たされる人などいないからである、金があっても助ける家族がないとか人の絆がないとかまた金がないということでも苦しむ人が多いからである
何かで人間はたりないものがあり弱者化するのだが老人は余計にそうなりやすいのである



2019年02月10日

家の力、土地の力、歴史の力 (グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)


家の力、土地の力、歴史の力

(グローバル化に対立するもの、ナショナルな力)

家には何か育むものがある
その家を建てその家を作った
両親がいて祖父母がいる
その人たちの苦労がしみこんでいる
その人たちの誇りが家にある
死んでもその人たちは生きむとす
先祖が両親がその家を支える
家には力がある
家には料理でもそれなりの味があった
土地土地には力がある
それは先祖が苦労しして作り上げたもの
土地土地にはその土地特有の味がある匂いがある
その風土の中で住んだ作られた味がある
国はそれぞれの力がある
その国土と風土に育まれた力がある
人間は今だけを生きているのではない
営々と受け継がれたものを生きる
歴史的存在でありそこに力の源がある
もしそういうものを無くすと力を失う
その国の力も喪失する
ナショナルとはネティブとはその風土と先祖に育まれたもの
貨幣で一様化平均化して計れないものの価値
人間の基盤はそこにあり力の源泉がそこにある

何か家族がみんな死んだ結果、死者のこと生きている時より考えるようになった
人間の根源的アイディンティティはやはり家族にあり土地にあるというとき故郷にもなるし大きくはその民族であり国にある
ただその家にしてもヨ−ロッパ的な家の感覚と日本人の家の感覚とかは違う
日本人だと言えと言う時、建物だけではない、人と一体化して分離していない
イエはハウスではない、ハウスとホームが一体化したものである
英語だとハウス〈建物〉とホーム(家族)は明確に分離している
ハウスには重みがない、ホームには重みがある、ホームとは建物の家のことではない
家族がいる場所とか自分のアイディンティティとなる場だともなる
それは遊牧民的な生活から生まれたともなる
遊牧民はハウスがない、一時的なテントだからである
でも農耕民族は家を建てることはその土地に定着して代々暮らすことでありそこに家の重みが生まれた

もともと人間は家族があって両親がいて生れ育つのだから家が基本的アイディンティティとして育つ、国家も実際は大きな有力な家が国家となった、まさに日本では国とは家なのである、ヨ−ロッパでもハウスブルク家とかロシアのロマノフ王朝とか家が基本にありその家が拡大したのが国家なのであり帝国にもなる
日本がでは平氏源氏でもそうである、その有力な家がどうして生まれたのかとなれば農業を基本にする生活だと土地から生まれたとなる
だからヨ−ロッパの貴族では大地主になっていることでもわかる
それは共通したものがあり封建国家とは土地を基礎にした社会だったからである

ナショナルなものとは何かとなればもともとは家であり地域的なものである
ネティブが起源である、ネティブランドなのである
生まれ育った土地のことになる、人間の生活はそうして世界共通なものが必ずある
なぜ近代に明治以降でも世界が第一次第二次世界大戦で何千万人もの人間が死んだのか?その原因は何だったのか?
それは民族主義があり民族が国家になり対立が激化したともなる
それで民族主義が否定されるようになった、ナチスとかが生まれたのはそのためだったというのもある
民族主義とはナショナリズムとは家から発している、家から発してその土地土地から発する人間の根源的な営みがあって生まれたものだから否定できない強いものがある
言葉でもそうでありもしネティブなものを否定すれば人間はどこにアイディンティティでを求めるのかとなるからだ

ただ家という時家族という時、その家だけを重んじるととなると他者の家とは対立的になり遂には争いとなる、それが国と国の争いに発展したともなる
なぜなら平氏と源氏の争いでもそうだからである、そこで天皇は日本人の大先祖だというとき天皇には姓はないのである、それは平氏に属すれば平氏の味方はなり公平でなくなるからそうなった、天皇は日本がを統べる者として公平な存在でなければならないからである 
                                        
でも南北朝とか明治維新でも薩摩長州に味方したように公平というわけにはならなかったから熾烈な内戦となったのである
つまり家族とは他者の家族とは排他的になる
民族でもそうである、そのためにグロ−バル化とはそういう排他的なものをなくすためにイデオロギーとかをもちだした、フランス革命でもそうである
貴族の特権を家の特権を廃止するために「自由、平等、博愛」の思想をかかげたのであるそれは民族とか人種とか国家の制限を受けない、普遍的なものとして普及させるためである、宗教となるとまたキリスト教でありイスラム教であり対立するから実は博愛とはキリスト教的な愛とも違う、キリスト教を否定するところの博愛だとなる
今でいう人権主義だとなる、ヒューマニズム思想だとなる

グロ−バル化とは常に歴史的にあった、今だけではない人類が始まって以来あったともなる、それはより大きな共同体を目指す運動だからである
ローマ帝国でもそうだしそのために法によって平等に支配する、統治したとなる
そこに民族の優劣などで差別したら大きな共同体は作れないからである
近代に起きた共産主義でもそういう大きな共同体を目指すものとしての運動だった
なぜなら「万国の労働者よち、団結せよ」というときそうである
それはその国とか出自とか人種とか関係ない、万国の労働者ということしかないからである
それからアメリカでも民主主義とうときも様々な民族が移民してできた国なのだからそこにネティブなものナショナルなものは否定されて大きな共同体として成り立つ
そうなると一つのイデオロギーが必要になりアメリカが成立したとなる
そもそもキリスト教国家共同体とかでもイスラム共同体でもそうした民族の枠を越えたものとしてイデオロギーで大きな共同体を歴史的に形成してきたのである

ただ人間の根源的アイディンティティは家とか育った土地とか民族にある
これは否定できないほど強いものでありそれを否定することは自らのアイディンティティの喪失になり自己の存在の意味も喪失する
グロ−バル経済とは何なのか?
それはイスラム教であれキリスト教であれ仏教であれフランス革命の自由平等博愛の思想でもない、何かイデオロギーではない、かえってマルキシズム、共産主義イデオロギーだという人もいる
経済至上主義であり世界市場化でありそこには自由平等博愛があるようでない
過酷な経済原理市場の原理が成り立つだけである
世界市場化して巨万の富を得る人がいるが世界で数パ―セントの人たちが富を収奪する仕組みだとなる
共産主義には一応平等という思想はあったがこれも中国のように極端な格差社会となったように理想は実現していない
共産主義の失敗は何であったのか?

それは人間社会が形成された歴史を無視したためなのである
ある地域に金持ちがいたとして富裕な人がいたとしてその家がどうして富裕になったのかそれはそれなりにその家が努力したとか代々積み重ねたものがあり富裕になった、財産を築いたとなる、そしてその土地で富裕になったことは周りに影響してくる
やはりその富が回りに巡ってくる、その家だけに富はとどまらないからである
それは世界的に言える、ある国が富めば発展すれば隣の国に影響して隣の国も豊かになるそれはアジアで日本が最初豊かになったが韓国に中国にも波及したことでわかる
だから歴史的に富でも積み重ねられて作られてきたのだからそれを否定することは根源的人間の営みを否定することになるから問題なのであり成功しなかったのである

そもそも経済だけの世界市場化など成り立ち得ようがなかったのである
それは極一部のものに富が収奪されるシステムだった
だからアメリカでさえグロ−バル化の結果格差が天文学的になっている
数パーセントの者にアメリカの富は収奪されて後は貧困にあえぐようになったのである
それは共産主義の中国でも同じだったのである
それも富の収奪が共産党幹部によって行われたからである
平等も博愛もなにもない、ただ経済と市場の論理だけの非情な世界になったのである





会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩) {会津の風土と歴史の独自性)

  
会津(旅の思い出俳句十句ー秋から冬―会津の雪の詩)

{会津の風土と歴史の独自性)


晩秋や古町温泉に我がひたる                    

奥会津山を萱覆い暮らしかな

我が踏みぬ落葉の深く会津かな

木も古りて落葉を踏みて社かな

城離れ刈田に残る虫の声

曲屋になお暮らしや蕎麦の花

曲屋に洗濯物や秋深む

雪深く我が踏む後に雪のふる

誰が眠る墓所に雪積む会津かな

                
(喜多方)

蔵の梁太しも雪や蔵古りぬ


大川の清流広くひびきつつ秋のすがしも会津の朝かな  

夜に雪明けても夕べ雪ふりぬ家にこもりて太し柱かな  

凍てる雪また雪ふりて閉ざされぬ会津の冬の長くもあるかな

会津なれ山間深く積もる雪家々ここに暮らしつづきぬ 

  

会津の雪

会津にふる雪や
おやみなくしんしんと
会津の雪を我がふみ
会津の雪の深しも
聳ゆる峰の黙しつつ
雪に埋もれし会津かも
会津の酒、会津塗り、
会津の心の鶴ガ城
会津の焼き物、会津の土産
どっしりとした蔵の家々
薪を積んだ曲屋
その歴史を刻む城下町 
なべて会津の色にそまりぬ
広らかに清く川の流れひびき
会津の水の清らかさ
道の辺の古き碑に墓
会津の雪に埋もれ眠りぬ
ひそまる奥の一部落
何か語らむただ雪に埋もれぬ
深々と雪に埋もれぬ
さらにしんしんと心に深く
雪にまた雪はふり積もりぬ
女の白き肌、情深きも
餅のようなねばりも
会津の雪のごとしかも
雪の暮らしの奥会津
人はそれぞれに土地の手形を持つ
その土地土地の色に染まる
はるかな嶺に雪は残りて
黄金色の花は咲くかも
まことの美しき花はここに咲くかも
それ故に深々と神の庭は雪に閉ざしぬ
会津の峰々高く吹雪うなり
不浄の人の入るを拒みぬ
その吹雪く猛威の中に
神は棲みたまいぬ
おやみなく会津の雪はふりにけり
心浄める会津の雪かも
しんしんとしんしんと・・・
ああ 会津の人の心にいつも
その雪のふり積もり
静かな眠りにつく・・・・
敗れしも無念もまた美しく
会津の雪に埋もれぬ
その会津に入る猪苗代湖
その心鎮める湖の碧い色
たちまちここも一面の雪
ま白し雪に染められぬ
不浄のものの来るを拒むがごとく
しかり会津を踏みにじるものの
その醜き血に飢えたる無謀よ
その心はこの浄よらかな雪に消され
今また邪なる者の来るをはばみぬ
波は静かに打ちひびきつつ
松は昔の国の境の街道に枝を垂れぬ
かなたその節操厳しく会津の城は
昔を偲び雪に映えつつ暮れぬ
その山間の民の暮らしもあわれ
朝美しく紅葉は清き流れに散り
今ひっそりと一部落雪に埋もれぬ
時にごうごうと吹雪くや
一部落身を寄せ合うごとく
会津の長き冬にひそみ耐ゆるも
そして春はまだしも
なお浄らかに残さる雪
その残さる雪に城内の松
城の白い壁に松は映え
忠節の証しと松は古りて立ち
会津の山々の囲み閉ざす
崇高なる峻厳なる独立の峰を仰ぎ
志操を高く山国の城そ守りぬ
女とてその心は変らじも
節は曲げぬ節は曲げぬ
「なよたけの風にまかする身ながらも
たわまぬ節はありとこそ聞け」
その心意気城とともにありぬ
君主とともに城に仕えて果てぬ
ああ 会津の春はまだしも
浄らかに雪は残されぬ
会津の人の心に常にその雪がある
純白の雪の覆っている
心の中に雪がふる
心の中に雪がふる
罪を浄めるごとに
しんしんとしんしんと
その中に醜きものはさらに醜く
一時浮かびては消える
悪はそこに耐えがたく退散する
会津の春はまだしも
浄らかに雪は残されぬ
雪解けてその峰高く
純潔の花の咲きなむ  
会津の風土に昇華される心
雪の結晶のごとくに美を極め
生き死にの場として潔く
その風土の中に命を献げる
・・・・・・・・・




今日は朝は雪はやんでいたが午後からふった、また寒いから降るのかと思ったらすぐにやんでしまった
この辺はやはりそんなに雪がふりつづかいのである
まず会津とか新潟とか東北でも雪がふりつづく所がある
そういうふうに毎日雪がふっていたらどんな気持ちになるのだろうか?
何か暗くなってしまうだろう、だから風土が心に影響するのである
この辺は浜通りでありいつも海が見えるということで心に影響する、開かれた明るい感じになる
ただ津波の甚大な被害ありそれもまた心に影響してくる、津波の恐ろしさを心底知ったからである
だから今回の津波で海がすべていいとはならい、恐ろしいものがあると知ったのである

会津という時、東北の万葉の歌で唯一国(くに)として歌われている
つまり会津だけが一国であり国だったのである
他の歌にはそういうものはない、みちのくの真野の草原(かやはら)の歌にしてもおそらく地名であり大和王権が早くから支配した一地点であり拠点だった、それはあくまでも点としての存在である
でも会津は違っていたのである  

会津 嶺の国をさ遠み逢わなはば偲びにせもと紐結ばさね」

国をさとあり明確に国(くに)だったのである、それは広い国だったのである、第一会津の地名の起こりからして古いのである

第10代天皇である崇神天皇の時代に、大和朝廷の支配領域を拡大するために全国に4人の将軍(四道将軍)が派遣されました。
その中で北陸に派遣されたのがオホビコノ命、関東・東北方面に派遣されたのがタケヌナカハワケでした。二人は親子でもあったのですが、二人が各地方の平定後に落ち合った場所が会津だったそうです

こういう古い由来がある、そして大塚山古墳から三角縁神獣鏡である、これは東北でもここにしか発見されていない
それはここが大和王権とも西の有力な豪族と関係していた証拠である、それは吉備と同型だから吉備と関係していた
それは大和王権が成立する前は吉備は大きな国だったからである
そして真野の草原(かやはら)は笠女郎(かさのいらつめ)が歌ったものだがこの女性は吉備の沙弥万世を父親としていたのである
だから双方が吉備国とは関係していたとなる
つまり古代から会津は大きな国として西の有力豪族にも認められていた、それは大和王権が成立する前からでもそうなっていたのである

そして会津というのがなぜ一つの国として意識するのか?それはその国が風土と一体化しているからである
典型的日本の山国なのである、千メートル以上の山々がひしめきあっているからだ
だからこれだけ山があるということをこの前登った国見山でも520メートルでありこの辺にはそれ以上高い山がないから山についてわからないのである、そもそも千メートル以上の山ひしめきあいそして本当にその山々が奥深いのである
山国の風土がありそこに長い年月で育まれた歴史がある
福島県とあるとしても会津は別格なのである、そこには会津のアイディンティティが形成された
そういうふうにアイディンティティが風土と一体となり形成される場所はなかなかない
中通りだとそういうものを感じない、会津は広いし山国ということでそこは大きな国として古代からあるのはその地理と地勢とかにある、だから会津で感じるものは他とは違ったものになる
深い落葉を踏みまた深い雪を踏むとき会津は奥深い山国でありそれを感じるのである
他ではそういうことを感じないからだ
国とは人工的な国家ではない、風土と歴史が一体化したのが国なのである、私はここで生きて死ぬのだ、ここの会津の土となるのだという感覚は会津だったら生まれるとなる
会津には福島県でも東北でも感じない、一つの国として生きて死ぬというものをもっているのである
それは長野県とかにもあるがそれがわかりにくい、会津は福島県内にあるから実感できるのである

ともかく雪の世界はわかりにくい、でも昨日今日は雪国的になっていた、ただすでに雪は溶けていた
でも寒々として凍った雪にまた雪が一時でもふったからである
ただここではそうした雪国の感じはすぐにおわる、雪という時風花の雪なのである
会津の詩は前に書いたものだがそうしてふりかえるとまたこれは良かったなと我ながら思う
これも忘れていたことがあったからだ
そうして今まで創作したり手直ししたり付け加えたりまた新たに作ったりと作業をしている
それは終わりなきものとなっているのだ

それにしてもどうして古町温泉に来て湯に入ったのか?その方角もわからなくなった
もともと会津は方角がわからなくなる、それは山がひしめいて山々に閉ざされているからわかりずらいのである
どうして古町温泉に行ったのかも思い出せないのである
それが茨城県と那須方面に通じてそこまで自転車でいった覚えがあるが定かではない
どういう経路を通じて行ったのかからなくなったのである

ともかく会津の雪の詩のようにまさに会津とはこういう場所であり場の力がありそれは理屈ではない
それがいいとか悪いとかではない、そういう場の力風土の中でそういう精神が育まれたのである
だから会津は一つの国として独自のものを持ちそれが外からでもそう認識される
でも中通りとか浜通りでは何かそうした風土と一体化したものは明確ではないのである
やはり30万石という大きさにもあった、それだけの大藩だったからこそ明治維新で薩摩長州が敵として征伐するとなったのである
会津の感覚はだから伊達政宗とか伊達藩とかとも違ったものであり何か東北的なものを象徴していたともなる







2019年02月11日

場所の現象学を読む(場を無視した工業化情報化グローバル社会) (キップリングの詩の訳の解説)


場所の現象学を読む(場を無視した工業化情報化グローバル社会)

(キップリングの詩の訳の解説)

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I am the land of their fathers
In me the virture stays
I will bring back my children
after certain days


我は彼らが父祖の国
我が内に力ぞ宿る
我が子らを連れて帰らむ
月日充ちなば

彼らが頭上、新たに買いし
古き立木の枝の間に
我は秘呪を織りなして
彼らが膝に惹きよせむ

夕暮れの煙の香り
夜の間の雨の匂い
時と日と春秋と
彼らの霊を整へ

すべて我が八千歳の
意味をば説き明かし
彼らが胸を知恵もて満たし
彼らが眼をば涙に満たさむ

キプリング

この本は古くなって焼けたようになり半分がはがれて本にならなくなった
これはどこで買ったのか、おそらく神田とか水道橋かもしれない、その頃古本を手に入れることはむずかしかった
でもそんなに東京には行けなかった、旅の帰りに寄って買ったのかもしれない
本は30年でもたつとはがれたりしてくる
この本はもう本というのではない、読むことがむずかしくなっている
本もこうしして保存できなくなる
50年が限度でありそれ以上になると再販するとかしないと読めなくなる
何かそういう本も多いのである
まず本を出して50年後に貴重だとなるものは少ないだろう
ただ時流的なものは読まれなくなるがこうして深いものは特に詩などは後世の人にも読まれる
それは極少数でも読む人がいるのである
その価値を認める人がいるのである
だからこういう価値あるものは本はデジタル化して残すといいかもしれない
デジタル化すると劣化しないからである

この本を読んで内容もそうだが感心したのは翻訳である
この英詩を訳した人は相当に詩を理解する素養をもっていた
まずこんなふうに翻訳できることは詩を深く理解しないとできない
この日本語訳自体何か詩を創作した感じになる
英語が深く知らなくても何かこの日本語訳で深い意味をくみとることができる
今何か日本人自体が日本語に通じない、そういう能力が劣化している
詩となるとやはり相当な日本語とか漢語とか詩語とかに通じないと鑑賞も創作もできないその能力がかえって明治時代とかから比べると劣ってきている
英語に親しむ度合いが増えても肝心の日本語とか漢語とかの表現力が衰えているからだ

この詩は相当に深い意味が背景にある
これは前に書いた


この文の続きである、それでこの詩に興味をもった

矛盾しているのはこの人はイギリスの貴族であり大きな館に住んでいた
そしてアジアでも前のビルマとかにも軍人として遠征しているのである
そこで

我は彼らが父祖の国 
我が内に力ぞ宿る 

父祖というとき家の力とか土地の力とか歴史の力に呼応するものがある
でも矛盾しているのは外国に行ったら外国には外国の土地があり先祖がいる
そうしたら父祖の国であるイギリスとはまた別な世界になるからその先祖をもちこんでも受け入れられないとなるのだ
それはグロ−バル化しにくいものなのである
その育った国でしか成り立たないものなのである

でも日本の戦争でも天皇をもちだしたときそうなっていたのである
天皇が日本人の大先祖であり連綿としてつづいてきた
それを韓国とか中国とかアジア全般に持ち込んでも通用しないのである
その土地土地には先祖がいるからである
イギリスの王様の先祖はアジア諸国の先祖ではないからである
ただその国内でアイディンティティ化するなら問題ないし共感するのである

古き立木の枝の間に
我は秘呪を織りなして

この表現も何か詩的に深いものがある、イギリスというと古い国だからそうなる
秘呪とは秘術となるのだろう、何かその土地にある霊的なものを地霊とかの表現かもしれない

夕暮れの煙の香り
夜の間の雨の匂い
時と日と春秋と
彼らの霊を整へ 

日々暮らしいる場にはそれぞれの何か特有の雰囲気があり風土がある
それはなかなかわかりにくいのである、ちょっと旅しただけではわかりにくい
それで(会津の雪)という詩で会津独特の風土から生まれたものを表現したのである
そういう風土の影響を必ず人間は受けるからである
そこで一つのアイディンティティが形成される、その場独特のアイディンティティが形成される、それを霊を心を精神を整えるとなる
その場その場にはか必ずその場から発するものエネルギーでも感じる
神社は場所と深く関係して建てられているからそこでパワースポットとして訪ねる人がいるのもわかる

人間生活の刻印によって明確にされた一つの「場所」は生き物のように有機的思えるに違いない、一軒の家が地表上に占めている場所、つまり現実の空間におけるその位置は
その家がとりこわされて取り払われても同じ場所のままである
しかし建築家によって創造された場所は幻影なのである‐ランガーの建築学的場所の議論より

ここまで場所の重要性を説いている、つまり土地こそその場こそ人間の根源的な意味をもたらすものであり建築は家は幻想だとまでしているからだ
「場所の現象学」エドワ―ド・レルフでは場所の意味を深く追及しているから一読すべきである

場所の永続性あるいは場所の外見と精神における連続性というものが存在する
ある特定の場所のアイディンティティは多くの外的変化を受けても持続することができるなぜならそこには内的な潜在力のようなもの、すなわち「内なる神」があるからだ

しかし場所も人間のかかわりコミットメントでその場所も活きてくる

多くの儀式や慣習や神話はその新制で不変の意義によってたけでなく人ひとと彼らの場所と関係の持続性を再確認することによっても場所の愛着を強化する意図となる
儀式や神話がその意義を失い人々が深くかかわることをふめるときその場所自体が変化しやすくうつろいやすいものになる
(場所の現象学)

グロ−バル社会とか広域社会は経済一辺倒の価値しか認めないからすべて金で計られるのである、そうした場所との不可分のつながり絆とかも金の方が価値あるとなりこの辺では原発事故で避難者が一億円補償金もらったら即座に外に出てしまって家を建てたとかなるしかしその時その土地であれ先祖であれアイディンティティは奪われたのである
そして一からまたアイディンティティを築くほかていから金銭的には物質的にはいいが精神的には相当に負担になるのである

根付くことに飢え、根付くことを求め、所属感や、私のもの、あなたのもの、我々のものとして認める場所のために闘争することは、全く私たちの人間性の一部である
それは政治的なものではない、人間の根源的欲求なのである

ある場所に根付くことはそこから世界を見る安全地帯を確保して、また物事の秩序の中に自分自身の立場をしっかり把握し、どこか特定の深い精神的心理的な愛着をもつことである
(場所の現象学)

こういうことを私は詩で書いたように求めてきたことである、人間には確かに遊牧民的なまた風のように鳥のように自由に移動したい、何もにも縛られたくない、土地にも縛られたくないという欲求も強い、それとと同時に植物的な大地にしっかり根をはって定着して安心したいということがあるのだ

現代の問題はマスメデアでも情報社会だけど場所と関連して理解できないのである
マスメデアはその受け手が直接に経験できない場所に単純化され選択されたアイディンティティを都合よく与えて、偽りの場所の偽りの世界を作り上げようとしている
(場所の現象学)

ともかくこの本は深く読む必要がある、事件でも実は場所と深く関係している
だからこそtake placeなのである
そして良く私が郷土史研究で地域のある場で人と話すときそこで少しでもそこに住む人と語ると語ることが活きてくると思った、話がはずむのである
それはなぜなのか?それはその場の力だったのである
抽象的言語空間ではない、そこに具体的なものとして森があり土地があり日ざしがあり影ありそこにそこだけの土地のたたずまいがある、それはその土地に立たない限り感じないのである
だから家でもその家のことを知るにはその家の中に入り庭を見て辺りをみて話を聞けば家のこともわかる
でもそれはなかなかできないことである、でも家は場所と関係していることは確かなのである

原町区の大谷(おおがい)村で語った人は杉の葉を集めていたしその家を見ると薪にするのか切られた木材があった、そしてここは日影で嫌だとかいうとき本当にそういう場所だった、前は森であり日が当たらないのである
実際はその人は街に移り住んでそこには住んでいなかったのである
大谷(おおがい)という場で人の話を聞く語る時それが活きるのはやはり場の影響だったのである
テレビを見ても旅の番組を見ても場の力をとか影響は受けないのである
それはあくまでも四角の狭い箱からしか見えないものだからである
その場の雰囲気を感じることはできないのである、そこにテレビでも映像でも写真でも視覚的なものから錯覚を受けるのである
それでイラク戦争の時油だらけの海鳥が写されたがそれはほんの一部のことであり実際はそうではなかったのである、やらせの映像だったのである
やらせではなくても映像は動画でも何か錯覚を作り出しやすいのである

いづれにしろこの詩は場の神秘性を表現した詩なのである、芸術は場と深く関係したものである、音楽すらベ―トベンの音楽を理解するにはドイツの地を踏まないと鑑賞できないというのもそうである、その場と密接に結びついて芸術は成っているからだ
フランス絵画から印象派が生まれたのはフランスの明るい光がある風景からである
ドイツの雨とか霧が多い風土から生まれ得ようがないからだ
ドイツから音楽とか哲学が生まれる土壌だったのである

現代に衰退したものがこの場の力なのである、東京になればもう場の力はない
都会だとどこにいてもビルがあり家が密集して場の力は感じない
田舎だと隣でも場が違うとその場の影響を受ける、違った雰囲気になるのだ
だからいつも同じようでもそれぞれの場は違ったものでありその場の影響を受けるのである、だからまた土地の表面だけをただ早く早く通りすぎる車だと場の力を影響を受けないただそこは高速道路のようにベルトコンベアーのように機械が流れてゆく感じになる
場の影響を受けない、感じないことはただ物体が機械が空間を移動しているだけなのである、そこでは浅薄な体験しかできない、一番旅してもその土地の独自性を感じるには歩くことだとなる、だから江戸時代の人は歩いていたからその場所場所を肌で五感で感じてその場所から受けるもの神秘的なものを感じたのである
芭蕉が今のように車で旅したら何も感じなかったろう、あれほど感じたのは場所を感じたのはやはり歩いたからだとなる

場所とのコミトメントを喪失した人間はアイディンティティをもつ場がない
それで何事浅薄になる、自分の立つ場所がないからunderstandできないとなっている
マスコミとか映像とか動画とか文字情報でもあふれても何か深くアイディンティティ化して理解できないのである
いくらグロ−バル化しても世界のことを理解できるかとなると表面的でありかえって偽りの情報にまどわされ翻弄されるのはやはりその場のことを体で知ることができないからである
工業化すると車の部品をどこで生産しても同じである、世界中でどこでも同じである、となると工場は安い賃金を求めて移動する
人はただそこで機械のように働かされる、でも農業だと漁業とか林業でも一次産業だと必ずその場と密接な関係があって生まれた生業だからそうはいかない、工業化がグロ−バル化を推進したのである
いくら情報化社会といってもそこに人間の限界がありグロ−バル化には限度がありそれで世界を理解するというよりむしろ誤解が多くなりそこでまた衝突して戦争にもなるのである
人間を理解するときそもそもその場所のことを住んでいる場所のことを理解しないとできないからである

駅で遠くから来た人と話すときやはり最初にどこに住んでいるからをみる
するとその地理的位置のことを地図上ではなち自分の経験から推察する
私の場合は全国を隈なく旅したし外国もある程度したからそこで推察するのである
とても地図を見ただけではその場所のことはわからないからである