2019年02月01日

モノが売れないモノ余りの時代でも売れるもの (オーダーメイドになり個々人の要望に応じるものーDIYの時代に)


 モノが売れないモノ余りの時代でも売れるもの

 (オーダーメイドになり個々人の要望に応じるものーDIYの時代に)
  
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柱と柱の間に棚がどうしても必要だった、ここは手作りする他ないものだった


物がない時代は終わった、物があふれていてなんとか買ってくださいという時代である
少子高齢化で家でも土地でも金でもあまってくる
何か今まで売れるものが売れなくなる、規格品が売れなくなる
それでオーダーメイドが売れるものとなるがそれがむずかしい
個々のニーズにあったものを提供するとなると手間になるし必ずしも金にもならないからだ

今私はいろいろ家を整理している、それが本が多くて家が傾くほどになった
それは二階が書斎になっていたからである
でも本の整理は意外とむずかしい、買ったのだ積ん読になっていた
半分以上はそうである、それで半分とか本を捨てたがまたアマゾンで古本とか安い本を買うようになった、それは安いからである
そしてわかったことは知的作業にもビッグデーターが必要なのである
多読が必要なのである、精読するものがあるにしてもやはり何か新しい見解を発表するには様々な研究があり本がありそれらを参考にして引用して編集すると訴える効果が大きくなる、つまり知識は膨大だということである

だから本を買っても読んでいなかったのである、ただ本を買ったということで知識が身についたような錯覚に陥っていたのである
この家には本が一万もあるのかとなるとその人が知識があると思うがそうでもない
なぜなら本はいくらでも買うことができるが理解して自分のものにすることが容易ではないからだ、ただそれなりに量があればいろいろな見方を知るからよりデーブなものになる
本棚にしても窓際にただ棚を作っただけで本棚になった、それは簡単だったが部屋に合わせる必要がありそれは自分しかできないものだった、手作りが必要になったのである
必ず部屋を使いやすくするに整理するのはその人自身にしかできない
規格品ではできない、なぜならその人なりが望むものがありみんな違っているからであるだから整理とかは確かにそうした家具でも本棚でも売っているがそれだけではたりないのである、つまり自由に本棚でもその人なりの必要に応じて手作りする必要があった
それは日曜大工でもなんとかできるものだと見た
ただ板を切るのが大変なので電動のこぎりの安いのアマゾンで注文した

本当は家作りでもそこにその人なりの好みのものを作れればいいとなる
何か家作りでも庭作りでも出来合いの物ではなくその人なりに手を加えるものができてくる、そして家というのはそこに住む人が子供なら成長するし親が死んだりするし変化するするとその変化に見合ったものが必要になる、リホームが必要になる
だから家というのは建て売りのように規格品を買うと後で直せなくなるから問題になる
その人なりに整理したりその人なりに変化させて使用することが必要になる
人間は何でも一定して変わらないものはない、変化の中を生きているのである

老人になると断捨離が必要になる、この仕事も意外と大変なのである
簡単になんでも捨てられない、本でもそうである、ほとんど読まなくなったものでも今読んでみるとこんなことが書いてあったのかと発見する
最近はそうしてし深く読めるから自分の文脈の中で引用できるようになった
だから本の批評に向いていると思った
その要旨でもさっと読めばわかる、本にはやはりその人の経験したことがその人が仕事した分野の蘊蓄(うんちく)が集積されているのである 

本でも家でもそうだが整理が大事である、でも家を整理するのは手間である
でもそれは他の人にはできない、その人の人生がありその人の貯えてききものがありその整理になるからだ、だから親でも子供が残されたものを整理するときは大変になる
そこには人生の思いでが詰まっているからつまらないものでも大事になる場合があるからだ

とにかく両親と言える人も死んで残されたのは自分一人になったがその整理も大変になるだからいくら整理しても整理しても整理がつかないのである
一番困っているのが本なのである、本はがさばるから困るのである
そして本は内容があり良質なものが多いからなかなか捨てられないのである
とにかく最後に人生の総決算がある、それが様々なものの整理なのである
限りなく整理するものがある、今までホームページに書いたものがありプログに書いたものでも整理がありこれも膨大になるからそれをしているだけで時間がとられるのである

いづれにしろ人間は規格品だけではたりなくなる、いくらAIが発達しても人間の手作り感覚でするものがありそれは機械でもAIでもできないのである
そうして手作り感覚なものが今は望まれている、オーダーメイドなものが望まれている
それはどうしても売っているものではない場合がある
だから材料の板とか買うにしても後は自分で手作りする必要がある
それはさほど難しいというものでもないが手間になる

それを楽しみにしている人もいる、ともかく今の時代はいくらモノ余りでも売れないとなっていてもやはり時代によって必要なものは売れるとなるか
安い電動のこぎりはこの辺では売っていなかったのでアマゾンで買ったのである
そういうDIYの要望が高くなるとその道具とか材料が売れるようになるかもしれない、
それは出来合いの物ではなくDIYを助けるものである
規格品とか出来合いのものの需要は減ってゆく、オーダーメイドでありその家とか部屋とかその人の望むものが違ってくるからそうなる
それは衣服関係でもそうであり料理すら毎日カレーを違ったものを出している店が小さな店でも繁盛している、でもそうなるとその個々人の要望に応えるのは容易ではないでも規格品では売れない時代なのである

情報でもインタ−ネットになったとき個々人の要望に応じるものも検索している、テレビだと何百万の人の関心あるのしか伝えない、それで商売としてマスコミは成り立っていた、それはもうインタ−ネット時代にスマホ時代になるとない
膨大な情報にアクセスできるがテレビのように何百万人に答えるものではないのである
テレビでもyoutubeが無数にありそこは意外と芸能人ではない、その人独特の持ち場があり経験があり仕事がありそれを語るからかえってためになる、勉強になるとなっているのだ
そういう時代の変化があり規格品は情報でも見られなくなる、多様な情報を取捨選択するそして自分なり編集して見たり読んだりするとなる、だからビッグデーターはインタ−ネットでも本にもある、本の方が良質なものがありまだ必要である
それでアマゾンでかえって買う本が増えたのである
ただ長い本になると読むのが辛い、二三時間で読める文庫本なら多読できるのである
そして精読しない、何か自分の必要とする文を情報を拾い読みして活用するのである



なぜ駅の見守りは鉄道運行の業務はしないのか? (それはJRで責任をとりたくないから?AIは機械は責任はとらない)


なぜ駅の見守りは鉄道運行の業務はしないのか?

(それはJRで責任をとりたくないから?AIは機械は責任はとらない

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切符の販売や清算、列車の運行等に関する駅業務のご案内はいたしかねます

なぜこういう取り決めにしたのだろうか?

JRでは責任をもちたくないから

おそらくここを一番肝要なものとして決めた
それはなぜかというと私自身が時刻表とかバスの案内とか乗り継ぎの案内を置いたり貼った時、禁止されたからである

ではなぜ禁止されたのか?

それはJRで許可したということはJRの責任になる、何かとJRに問い合わせが来るからである

許可した会社に責任がある

とにかくなんでも契約がめんどうになり複雑になりわかりにくいのは何かあった時の責任を逃れるためなのである
何かあると必ず責任が問われるからそれを怖がっているのである

でもここでは

JRで見守り役を置くことを許可した
でも鉄道の運行とか鉄道関係の業務にはかかわらない
こういう契約で市で頼んだNPOに委託したとなる
これは例えば政府で東電に原発を作ることを許可した
だから政府にも責任があるというのと同じである
なぜなら許可したりしない権限は政府にあったからである

それで不思議なのは駅を無人化して自動化するとそこには駅員がいない
今いるのは高校の通学生などの見守り役であり駅員ではない、駅の業務にはたずさわらないとしているからだ

つまりこれも変だなと思った、責任をとりたくないのはわかる

では駅を無人化したら責任をとらなくてもいいのか?

何かあったらそこに駅員がいないのだから自己責任にされる
JRでは自動化して乗客に困らないようにしました
後は何かあったらそれはJRの責任ではない、自己責任ですよ
これも奇妙だなと思った

つまり機械化自動化するとそこに責任者はいないのである
機械やロボットや自動化したコンピュターが責任をとることはないのである
機械やロボットやITでもコンピュターでも責任はとらないのである
ここが人間と機械やコンピュターの相違だった
何かあれば故障したら責任とるのはコンピュターではない人間なのである
責任をとれるのは人間しかいないからである

だからJRで駅を全自動化して機械化して経費を節約するのはわかる
でもそのことでその責任は実は乗客の自己責任になったのである
例えば勝手にホームに入れるが事故が起きたりしたらその責任はJRにはないとなるのだ
これは何か変でではないか?

現実に無人駅から無人駅に乗った人が支払いに困ったがでもそれを教える人もいない
駅員がいないからだ、ただインターホンで聞くことはできる
でも分からない人は聞くこともできない、初めての人はわかりにくいからである
第一常に仙台行きと原町行のホームさえわからないから良く聞かれるからである
張り紙しているのだけど聞かれるのである

要するに全自動化して人は置かないということはJRで責任をまねがれて自己責任にするということではないか?

そこに責任をとる人間はいない、機械とかコンピュターとかAIでも責任はとらないからだ
これはこれからの時代を示唆している、何でも自動化するがそこに人間がしないとなると事故がおきたら誰が責任をとるのか?
機械はもともととらない、コンピュターもとらない、AIだってとらない
それで自動運転でそこが問題になったのである

何か人間には社会には常に責任問題がつきまとっているのである
それだからこそJRでこれほど責任をさけている

でもそもそも全自動化して無人駅化していることこそ無責任だ!

そこに人を置かないことが危険にもなるし責任をもたないというのも変なのである
ただ駅員を置かないということにはJRの言い分もある金がかかるから置かないのであるまた見守りの人との契約もJRで鉄道の業務に切符の販売でも委託すると金がかかるから頼まないのである
経営的に人を雇いないからそうなっているのである
それは利用者にも責任があるともなる、利用する人が少ないならどうにもならない
利用者が責任をとってくださいとなる
無人化しないと鉄道の経営はできないからそうしているとなるからだ

なんかこんなことまで考えるのもめんどうだと普通はなる
これは何か事故があったりすると法律問題になりこうした理屈で争うということにもなるなんか自分は理屈が好きだったから今になると法律を学べば良かったと思う

とにかく社会は責任問題にうるさいのである
正式に雇われない人には賃金の不払いが日常的にある、ちょっと飲み屋で手伝ってくれとか頼まれた人に賃金が払われない、また前も半年も働いても賃金がもらえなかったとかある
それは正式に契約しないで働いているからなのだ
だから明らかに働く方にも責任があるともなる、働いた分をちょんと払わないなら訴えるとか何か対抗策が必要になるしそういうところでは働かない方がいいともなるからである

無人駅では運賃を払わなくてもわからない、それは各自の自己責任にしているのである
JRでは鉄道の経営が苦しいからそうしている
つまり自己責任というのはJRにだけあるのではない、利用者側にもある
鉄道を利用したいなら自己責任でしてください、駅員を置くことはできないですけど支払いをしてくださいとなる
だから消費者に責任がないようでもある雇う人や雇われる人の関係でもどっちも責任があるとなる
要するに人間社会には人間には責任が必ずつきまとっているのである
それをむずかしくいえば宗教的になるとカルマだとなる  

いづれにしろ無人駅がこんなにいろいろな問題が生まれるとは思っていなかった
これは明らかに未来の問題なのである、なぜならしきりにAI化機械化自動化とか現実的に言われている時代である

でもAIが判断したとしてもAIは責任はとらない、機械もコンピュターもとらない
責任をとるのは人間なのである

このことは肝に命ずるべきである

2019年02月02日

原発事故でも自己責任はどこまであったのか? (専門家した複雑な社会ですべて自己責任をとれるのか?)


原発事故でも自己責任はどこまであったのか?

(専門家した複雑な社会ですべて自己責任をとれるのか?)


人間はそもそも責任を生まれたときから必ず課せられている存在だった
それで生れたときないて生まれてくるのは責任を課せられて生まれるから泣いて生まれてくるという人もいた
確かに人間はまず誰も責任から逃れられない、責任はまたカルマなのである

でも現代のような複雑な専門化した社会でどこまで自己責任をとれるだろうか?

原発(東電、政府)−住民
銀行ー顧客
医者ー患者
生産者ー消費者

こういう構図はあったとして原発になると原子力のことなど説明されても一般の人は住民はわからないのである
安全だと言えば安全になる、その中で大きな力をもつものは科学者とか技術である
一見ここでは表に出ないがそうした専門家が現代を牛耳っているというのもわかる
もし科学者でも技術者でも完全な安全などないということを言えば住民でも警戒する
でも科学者が技術者がお墨付きを与えれば信用する

その信用は政府とか官僚から来ているのだろうか?

それは違っていた、保安院などは飾りであり何も原子力について知らなかったからである原子力になるとむずかしすぎるから東電でしか知らないものだったのである
東電でも政府にお墨付きを与えられて原発を作ったのである
住民に責任があるとしてもではどこまで責任をとるのかとなるとむずかしい
そもそも原発は住民自体がかかわることができないから自己責任をとるにもとれないのである                                        

原子力に核について知らないものは立ち入るな何も言うな!

これで終わりだったのである、情報開示もなにもないのである
ただ現実に新潟県の巻町では原発を建てさせなかったことがあり住民が全部責任がないということではない、拒否はできたのである
もっと危機感をもって原発のことを素人なり知ることもできたとなるから自己責任があったとなる

結局住民は金に目をくらんで積極的に誘致した

だから自己責任があるとなる

これは地銀でも同じだったのである

まず株式のことなど世界情勢がからみわからない
そして外国でも国内でもリートは月々分配型だから何か利子が月ごとにつく感じになる
それでだまされるのである、それは元金から引かれていたのである
その投資信託の仕組みは複雑でわかりえようがないのである

それで地銀の営業マンが私はプロですからまかせてください

そう言われたのでまかしたのである
となると責任は本当は地銀にある
でも地銀は銀行は一切責任はとらない、投資信託を売った時点で手数料が入りまたその後も継続して入り売る時すら銀行に金が手数料として入る銀行にとっては願ったりかなったりなものだったのである

ただでは顧客に自分に責任がないかというとあった
何も知らないで専門家と思った地銀に一切まかしたからである
それは原発とにていたのである
違っていたのは地銀は支店長が来て証券のことなどわからないと言っていたから素人だったことである、何の知識もなかったのである      

それでプロですからまかせてくださいと言えるのか?

そして失敗したら損したらいくらでもいい訳がある、株が上がったり下がったりする原因はいろいろだからである、だから銀行の責任ではないとなる
ただそれで下がっても責任は一切取らない、手数料だけは確実にもらいますよというおいしい商売なのである

責任の一切は顧客にある!

そうなると顧客でも全部を知らないからといってまかすのは危険だったのである
原子力は皆目わからないにしてもなんとか証券とかは教えられればわかるということもあった
株なら上がったり下がったりするから下がったら上がったら売るというだけでありそれは自己責任でできるからである
でも投資信託は仕組みが複雑だからそういうことがしにくいのである
だからリーマンショクの時半分に下がった株を回復してそれからうなぎのぼりに上がったのである
でも地銀ではその株を売って投資信託に回したのである
確か損はしなかったがそのままにしていれば相当にもうかっていたから責任を問うことはなかったのである
そして分散投資はわからないにしろ投資の基本としてある
国債とリートと株とかに分散していればリスクを避けられることがあった
それも地銀ではノルマを果たすために株が上がっていたのに投資信託のリートに回して損させたのである

でも責任は一切とらない、手数料だけはいただきます

銀行がすすめるのは顧客がもうけるとかなんとか関係ないのである
今はやりの適当な商品を売りつけ手数料をもらうことしか頭にないのである
第一投資信託の数は多いから本当にもうけている人はそういう中から選んでもうけているでも素人にはそういう商品はわからないのである

いづれにしろ何かという責任が問題になる、そして責任をまねがれないのが人間なのである、その責任はもし本当に責任を果たすべき人でなくても回ってくる
誰かが必ず責任をとらされるのである
東電の幹部でも責任がないから責任をとらないにしても住民は故郷に住めなくなったとか重大な被害を受けた、環境も破壊されたてとりかえしがつかないとなった

例えば責任という時別に責任がない人でも責任をとらされる、そういうことは犯罪である暴力団の抗争で流れ弾にあたったとか何かもめごとがありそのとばっちりを受けるとか常にある、それは当事者だけではすまされない、誰かにとばっちりがゆく
関係ない人でも責任がとらされることがある
原発だって実際は栃木県とか広範囲に被害があった
それもとばっちりなのだか国民自体にも責任があったからである
原発は危険だから国民が反対して阻止すればそういうことがなかったとなるからだ
だから国民にも責任があったとなる
その責任は莫大な事故処理に国民の予算が使われたことでもわかる

つまり責任というのは何か全体に及んでくる、一部分にとどまらないのである
無人駅のことの責任でも書いたがJRに責任があるが乗客側にも鉄道を利用するとなると責任が生じていたのである
経営が苦しいから駅員を置かないの利用者側にも責任があるとなる
鉄道をもっと快適に利便性を高めろというときそうなら乗客でもっと乗って金を払いとなるのである
駅員を置かないのは無人駅にするのは経営上やむをえないとなる
後は乗客の自己責任で乗ってくれとなったのである

サービスを提供するものと受ける側でも責任が生じていたのである
もっといいサービスを受けたいというならそれなりの金を払いとなるからだ
金は金額の多寡はやとり一番わかりやすい責任なのである
千円と一万でサービスを受けるのは物でもやはり差があって当然だからである
1000円には1000円の責任しかない、その物の価値はそれしかない
千円だからまずいとか壊れたとかなってもそうんなものだとなるからだ
つまり金銭の多寡が責任の大小にもなるのである

posted by 老鶯 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

Ice Planet(train go in the iced valley )


Ice Planet(train go in the iced valley )

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 a train come out
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fight in the vally


これは単純だけど抽象画としていいものもしれない
複雑なものだけがいいとは限らない
これも結局他人の写真を切り取ったりして変形してできたのである

偶然に鳥がこのようになったから谷を抽象画にしたとなる
ここには何か複雑なものはない、単純だから訴えるものがあるともなる

ただ谷間の空を青にできないことが残念だとなる
私には絵の才能が全くないから青にすることができないのである
でも誰かが絵の才能ある人が青にすることはできる
つまり私が他人の写真を変形しているようにできる

This is simple, but it may be good as an abstract painting
Only complicated things are not always good
After all, this was also made by cutting out a picture of another person and transforming it

It happens that the bird has become like this and therefore it becomes the abstract picture of the valley
There is nothing complicated here, there are things that appeal because it is simple

It is regrettable that we can not make the sky of the valley blue
I can not turn blue because I do not have any talent for painting
But someone can have a talented person with a painting blue
In other words, I can make my photos deformed by other






2019年02月03日

従軍看護婦となった姉への召集令状 (マレーシアのジョホールバルへ4年間の従軍へ)

              
従軍看護婦となった姉への召集令状

(マレーシアのジョホールバルへ4年間の従軍へ)

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小林カツ

召集令状には「一銭五厘」という俗称もあるが、これは応召者が本籍地から離れて住んでいる場合、実家から郵便で令状が届いた旨の連絡がされていたことにちなむもの、とされている。
しかし実際には、通知を受け取ってから部隊へ出頭しなければならない日時までの時間的余裕があまりないのが一般的なため、電報などで知らされることが多かったという。
令状の表面には「応召者の氏名」「配属される部隊名」「部隊へ出頭しなければならない日時」が、裏面には「この令状の提示により、部隊所在地までの交通費が割引になること」「天災や伝染病の流行による交通遮断などで、期日までに部隊へ出頭できなくなったときの連絡先」「応召者の心得」などの備考や注意事項が記されていた。


通知を受け取ってから部隊へ出頭しなければならない日時までの時間的余裕があまりないのが一般的なため、電報などで知らされることが多かったという

これは召集令状というより電報で知らされたのである、カタカナで召集令状とあり福島支部とあり赤十字の支部なのである
これは陸軍の命令であり三陸会というのに所属していた

とにかく急なことでありそれでとまどうとか考える余地もなく戦地の地獄に連れていかれたのだ、何か悪いことは何でも急に予告なもなく来るのが多いのである
ベ―トベンの運命のうよにである
その時父と母でも別れを惜しむという時間とか余裕さえないものだった
それはみんなそうである、赤紙一枚来たらすぐ戦地に行かされたのである

今日奇妙だった戸棚を開いたら姉の母の遺影が出て来た
姉の母は私の母ではない、私の母は姉の母が死んで後妻に来たのである
姉の母は姉が戦地に四年間行っている間に死んだのである
そして姉が帰った時死んでいた
それで墓を掘り出してその母の顔を見たという、まだ顔でもそのままだったとか言っていた、それほど日にちがたっていなかったのか?
その頃は土葬だったとなる
姉は父にたって頼み埋められ死体を墓から掘り出したのである
これも悲劇だった、つまり急に召集令状の電報が来てすぐに戦地に行かされてそれが遂のこの世の別れとなってしまったのである
人間は何か思わず最後の別れとなることも多いのである
戦争の時はみんなそうなることが多かったのである

姉の母は新地の出でありそのことはわかるが後は一切わからない
ただ不思議なのは戸棚の奥に姉の母の遺影が残っていたことである
姉の母のことを知っている人はいるだろうか?
親戚ににいたがその人との縁も切れたし今では姉の墓参りとかに来る人もいない
なんらか死んだりしているし縁がみんな切れてしまったのである
親戚なども代が変わると疎遠になり縁が切れるものだった
私の家にはそもそも親戚がいない家庭だった
母の実家の縁も切れた、だから残っている親戚関係はいないのである
こんなに親戚家系などもいづれ切れてしまうのである
これも無常である

戦争のことは親の代が実際に戦争を経験していればその子はその話を聞くがその孫となると伝えられたことを聞くから何か別なものになる、実感がさらになくなるのである
戦争というのは経験しない限り理解しにくいものなのである
人と人が殺し合う世界は実感しにくいからである
だから孫に今度は祖父母の戦争経験を伝えてもさらに理解しにくくなる

ただ戦争の経験が実際はあまりにも重いものだったのである
それで姉はひどい認知症になったけど死ぬ一か月前まで戦争のことを話ししていた
その前にも千回話を聞いたので嫌になっていた
でもそれだけ青春が戦争だったということで忘れ々ことができないものだったのである
青春時代のことはなかなか忘れられないことが平和の時代でもあるからだ
貴重な青春時代を戦争に費やされたのだからそうなる
姉はあねご肌であり体育系でありはきはきしていて頭の回転も速い
太っていたけど動くの機敏であり大の男も恐れなかった
かえって大の男が恐れていたのである
それだけ気丈夫だから家を支えたとなる、ただ何か死んでから訪ねる人もないということは淋しいとなる
ともかく人間は死ぬと急速に忘れられるのである
そんな人いたのとなってしまうのが普通なのである

家というのは今整理しているけど何かそうしたものが出てくる
それは記録として思い出として残されたものなのでみんな捨てるわけにはいかない
これば貴重な資料だとなり家にとっても大事だとなる
そして姉の母のことは忘れていた
それが戸棚を開けたら奥にその遺影があったのである
これも不思議だともなるがやはり家にはそうした記録だけでない現実に家にはそうした家に思いがあり残っているとなる

何か思いが家に残っている、私の家の墓には父と姉と母と父の前の母と後妻に来た兄が埋まっている
兄は不幸にも交通事故で41歳とかで死んだ
母の実家に埋めたがその骨もなくなっていた、それで私の家の墓の隣に墓標を建てて供養している、そこには骨は埋まっていない
私は恵まれたが兄は恵まれなかった、それで墓標をたてて自分が一人供養している
娘がいるとしても何か関心がないのである
何かひどいめにあったから恨んでさえいるのである
ともかく家には何か必ず負の面がある、それはどこにでもある

私は今毎日整理が仕事である、家の整理というのは簡単にできない
終活といってもなかなか終わらないのである
それはやはり家にはそれぞれに家で暮らした歳月が長いからそれを次の代でもすべて終わりにすることはなかなかできない
それで何か残っているとそこから死んだ人を思い出すのである
特に古い家だと蔵がありそこに何代も前のものが残っている
それで先祖のことをふりかえるのである
それぞれの家自体が二代でも歴史になっているのである 

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我が家にありしも忘らるその遺影い出きて思ふ家の歴史を

時にして忘らる死者のその霊の浮かびて思ふ冬のくれかな

思うは面うになる、面と顔と関係していたのである、遺影がそうだったのである
この女性は新地の人でありでも戦前になるともう実家もわからないし誰も知らないとなった
もう時がこうして過ぎればみんな忘れられてゆくだけである
墓さえ捨てられる時代だから最後に記憶するものもなくなんてゆくのである




posted by 老鶯 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

常磐高速のSAは日曜日でもすいていた (小高の若い人が働いていた)


常磐高速のSAは日曜日でもすいていた

(小高の若い人が働いていた)

鹿島のSAで小高の若い人が働いていた、あそこでは30人くらい働いているだろう
掃除する人だけで10人くらいとかきいた
土曜日とか日曜日に行くと車が一杯だった、食堂も一杯だった
今日見たら閑散としている、めずらしいと見た
正月に外出したから今はまだ寒いし雪もふったから外出しないのだろうと言った
それからどきうししても常磐高速は二車線なのでつかえるから利用しにくいと言っていたそれで東北道を利用する人が多い

それはわかる、もともと東北道の方が新幹線でもなんでも東北に来るには利用しているからだ、どうしてしも東北に遠くから来る人は浜通りは少ないのである
そして外国人が多いというのも昨今の事情である
確かに時々外国人をみかける、ベトナム人が多いというとき福島県はベトナムと友好関係を結んでいるからだともいうのもわかる
ベトナム人は今は中国人より多くなっているのだ
でも私が見た限りでそんなに外国人が多いとは見えなかった
ただその人は毎日そこに勤務しているのだから自分よりは詳しいのである

ここはいつも混んでいるとかいうとあまり混むと宮城県の方でもっと客を集めたくなるとかいう、亘理の鳥の海がSAになっている、鹿島のSAが混むのは途中が遠いからここによりやすいとか言う
そういう地理的条件でそうなっている
福島県と宮城県が客をひきこむために争うというのもまたあるのかと思った

高速のSAには私は良く行くようになった、やはり食堂があることと休む場所があるためである、時々催し物もあるのがいい
今日は駅前の鈴木食堂で弁当を出していた、それは今までにないものだった
鶏肉の弁当で500円は安かった、それから粟饅頭を買った
これも駅前の大岩食堂で出しているものなのである
これでわかるように駅前では商売にならない、人が集まらないからである
だからパークゴルフ場でも蕎麦とかうどんを鈴木食堂で出している
あそこも老人が集まる、だから商売になる

ただSAの問題はほとんど街の方に来る人がいない、一時的に休憩して去ってゆく
駅の場合は街と直結しているから違っている、街を歩いたり利用するのである
ただ鹿島神社の火伏祭りを見に来たと伊達の人が言っていたが特別案内するものがない
小池の古墳を見に来た人はいた

駅とSAには交互に行っているがやはり食堂とかが中にあり休む場あるのとないの差は大きい、それは街中にあるとしても駅にまた駅前にあるのがいい
でも大岩商店とか鈴木食堂があっても鉄道で来た人は鈴木食堂は聞かれたことがあったがあとはほとんど関心がない、でも駅に休んでいると何かこの辺で休む場所とか食べる場所とかお土産売る場所ありませんとは聞かれたことがある
ただその数も少ないから商売にならない、だからSAに置いたのである

小高の若い人が働いていたので小高がどういう状態なのか聞きたかったがわからなかったでも老人が鹿島の病院に親の介護に来ている人とかもう一人やはり親の介護している人に出会ったし新聞にも仮設に住んで親の介護している人とか知った
つまり介護している人が老人だから多いのである
そしたら親を介護した後その介護した人が今度は介護される方になる
そういう老人ばかりの町が成り立つのかという疑問である
シルバータウンが成り立つのかという疑問である
働く場もないからここで働いていたともなる
別に今までも小高の人は原町でも他でも働いていたから特別なことではない
でも小高で働く場があればいいとなる


先日一時帰宅した際に全線開通した常盤自動車道を走ってみた。それほど混み合ってはいなかったが、いわきインターチェンジから北は片側一車線。一台でも遅い車がいれば、全体がそのペースで走らなくてはならない。追い越し車線はたまにしかなくその区間も短い。

この高速道路の特徴は避難区域の中でも最も規制が厳しい「帰還困難区域」の中を通ることだ。富岡インターチェンジを過ぎるとすぐに「帰還困難区域」に入る。次の浪江インターチェンジまではサービスエリアもパーキングエリアもなく通過するだけ。トイレは「ならはパーキングエリア」から「南相馬鹿島サービスエリア」まで50キロもないので要注意だ。楢葉から浪江にかけて9箇所の放射線モニターが設置されてリアルタイムで線量をデジタル表示している。大熊町を通過するところで最高値が毎時5.7μSV。他はずっと低く毎時1〜3μSV程度だった。意外にも居住制限区域の楢葉町で毎時4μSVを超す表示が出た。

日本エネルギー会議

http://www.enercon.jp/%E6%9C%AA%E5%

88%86%E9%A1%9E/8957/

こういう事情があったので鹿島のSAは混んでいた




意味と価値を追求していない投資 (除染に使った何兆円もの無駄?)


意味と価値を追求していない投資

(除染に使った何兆円もの無駄?)

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明るしや畑に人無くカンナかな
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投資とは何なのか?そもそせこれもわからなものだった、私が投資したのはその投資の意味とか関係ない、ただ金を増やしたいからした
銀行でも利子がつないとかですすめられたからである
私は投資のことは経験もないし何も知らなかったのである
そして銀行も知らなかったから私と同じだったのである
銀行で考えたことは投資信託をすすめて確実に手数料をとることしかない
顧客のために利益をあげることなどあまり関心がなかった
だから株が上がっていたのに投資信託にその株を売って手数料をとったのである
結果的にそのリートも損していたのである 

投資についてその事業がどうのこうのとかわからない
ただそこで利益をあげてもらい金を増やすことだった
でも本来の投資は違っている、確かに利益をあげることが絶対であり利益があがらないとしたらそんなものに投資して金を使っても無駄だとな
そんなことしたら銀行でも成り立たないからそんな人には貸さないのである
その事業は社会にとって有益でも利益ならなければ銀行は絶対に貸さないし
また担保がないと貸さないのである

ところが何かこの辺で起きたことは金の使い方で無駄があったなと思う
除染に何兆円も使った、本当にこれが有益だったのか?
それが科学者でないからわからないけど除染は本当に効果あるものだったのだろうか?
その額があまりにも桁外れだったからそんなに湯水のように金を使っていいのかとも思った、だからその金を補償金に回せばいいと言った人の気持ちもわかる
それもまた問題があり有効な使い方かどうかはわからない
でもその金は本当に地元にとって有効に働いたのだろうか?
結局ゼネコンとか大手の大企業に金が流れただけではないか?
国民の金が無駄に使われたのではないかという疑問が残った

それで私自身が投資しているのは小さな畑で野菜を作る人である
そのために肥料とか種代とか一年に十万も払った
こんなに肥料代にかかるのかと驚いた、鶏糞だ貝殻をつぶしたものをまくとか他に化学肥料とかもまく、それでもらったのは大根一本とかでありほとんど何ももらっていない
まずとれないのである
ただそこにカンナが咲いたのであれは大きな花なので荒地にしているよりはいいなと見たこの辺では原発事故以後荒地になっているのが多いからだ
畑をやめた人が多いのである
それは見た感じが嫌なのである、荒れた感じになるからだ
だから花でもそうして映えていれば気持ちいいなとなる

だから私が投資した金はただ損したのかとなるとそうでもない、それは花が映えたことで荒地になっいるよりは環境的にいいとなる
でもそれでは金には全くならないし腹のたしにもならない、それなりに野菜はとれてその人は助かっている、でもまともにとれるということはない
ただそこへの投資は利益をあげないが無駄だとは言えない
でも除染に何兆もかけたものが本当にすべて有効なのかとなれば疑問なのでる
10万と何兆円の差も天文学的になる、だからそれだけの金をかけるとしたら本当に除染が効果的でありもう放射能を心配することがないなければ効果があったとは言えない
でも実際は除染はそれだけの金をかけてもそれが精神的な慰めなのかとも思った
放射性物質をとりのぞくことは本当に容易でないし不可能に近いものともみたからである
それで小高でも浪江でも避難区域になったところは田んぼは荒れて草茫々の荒地になっている、それを見たらそこに住むことも嫌になるだろう
そこに住んでいる人もほとんど老人というのも何か淋しいとなる
だから金を投資するにしても莫大な金でもそれが無駄になることもある
金の使い方がやはり大事だとなる
だから投資というのは本来その意味を知り投資するものの価値を知る人がすべきだとなるただグロ−バル社会では投資は全く投資するものが何なのか理解できないのである
それで銀行にあずけた金が環境を破壊する会社にも投資されたり武器を作る会社とかにも投資される、それは利益を生むから見返りがあるからそうしている

ともかく金をどう使うのか、投資するのか?それもこの辺で問われた
私の見解ではもう田んぼでもつづけるのは回復するのは無理だからお花畑にすればいいともなる、荒地にしているよりはいいとなる
これはあくまでも私のまさにお花畑な思考にもなる
ただ荒地にしておくよりは花を植えて育ててきれいにしていれば地元で暮らす人でも外から来る人でも荒地になっているよりはいいとなる
だからそのために金を使っても無駄ではない
第一何兆円もの金を使って除染してもその金は大手のゼネコンに流れただけだとなるからだ、それは東京に住む者の懐に入っただけだともなる

この辺で問われたのは何兆円とか何か莫大な金が補償金でも入ったがそれが有効に使われたとも思えないのである、補償金のために一体感は失われたとかもあり深刻なものになった
投資するという時そもそものその投資するもの金を使う意味とか価値を追求していないからである
ただ利益が上がることを第一にしてその他は一切考えないことが問題になるからだ
それで利益があがったとしても世界的な環境破壊する多国籍企業がもうけたりしているからだ、武器会社がもうけたりしているからだ
それでグロ−バル経済を批判することもわかるのである

現代の資本主義は利益は追求ているがその投資するものの意味とか価値は追及していない利益をあげないものは無価値であり無駄であるとなっている
でも利益があげなくても荒地がお花畑になったりしたらそこに住む人にとっても外から来る人にとってもいいことなのである
この町は花一杯で気持ちいいなまた来てみようとかなるのである
それは明らかに価値を生んでいるし利益だってうむ、なぜなら外からでも訪ねる人があれば何かしら買い物したり効果が生まれるからである
だから資本主義の社会でグロ−バル経済で銀行は批判される
銀行はその投資するものへの意味とか価値を追求していないからである
ただ無条件に利益をあげるものが価値あるものとして投資するだけだとなる
そもそも地銀とかでも震災の被害があり復興のために何か考えているのか?
そういうことも見えないのである

これは政府でもそうである、除染だけに何兆円もの金を使いゼネコンに流したのである
それは復興になったかとなると疑問であるし補償金だってそうである
だから投資とは何なのか?今のグロ−バル経済ではそれはもう不可解である
投資した意味と価値など関係ないのである
ただ利益があがれば価値があったとなるだけである、それが環境破壊になっても武器会社に投資してもその他そういうことはグロ−バル化するとわかりにくいからである
そのわかりにくいことも問題なのである
何兆円使ってもなんち効果がないということもあるのかとも思った
一千億円でも使ってお花畑とか庭園でも造った方がいいかのかとも思った
なぜならもう田んぼを回復できないし米はいくらでも外から入ってくる
ブランド米が入ってくる時代である
そうしたら米に田んぼにこだわるよりお花畑にした方がいいとなるからだ
ただこれはあくまで一つの例であり否定されるのもわかる
でも何か金の使い方が間違っていて復興にならなかったことは言えるしみんな感じているのである

それは私の見解だけどオリンピックも今の時代に意味とか価値はないと思っている
景気刺激になるとかいうけど日本にとって東京オリンピックは戦後復興で意味があったし国民もそういう気分で開いたから意味と価値を認識していたのである
私はオリンピック自体が無意味に思う、商業主義であり必要ないものとなっている、時代が変わったからである
百メートル競走で一秒にもならない速さを競ってなんの意味があるのだろうか?
ただ勝つことだけをメダルをとることだけを追求して何の意味があり価値があることなのか?
それで世界の平和に貢献することもない、結局大国はやはり争いその間でシリア難民とか生まれているし平和になるわけでもないのである
要するに意味と価値を追求することこそ大事でありただ金儲けだけの社会は荒廃してゆく
それは政府でもそうだし大企業でもそうだし銀行でもそうである
そうなると暗黒を作りだしているだけだとなる
世界の国々でもやはり意味と価値を追求することが平和でももたらすことになる
グロ−バル経済にはそういうことがない、無政府状態の市場原理でありただ利益があがればいいというだけなのである
それが世界を精神的にも荒廃させている、モラルもなにもないただ金をだけを追求する無政府状態なのである
posted by 老鶯 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2019年02月04日

強風で18時頃まで全運休 (二人がバスで原町まで行けたのは幸運―バスの時刻表作る)


強風で18時頃まで全運休

(二人がバスで原町まで行けたのは幸運―バスの時刻表作る)

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一人が3時前に駅に来た、原町駅に行くと言った
電車は運休なのでバスがあると言ったら一人で歩いて行った
その人は幸運だった、ちょうど3時21分の原町駅前行があった

案内したら一人がバス停で待っていた
3時21分は原町回りの飯館行きである、それで原町駅行きが三便増えた
それを時刻表に作った

原町までタクシーで行くと4000円はとられる、風の時電車は困る
今回は幸運だった、飯館経由の福島市行に乗れたからだ
こういうときはバスが必要なのだが少なすぎる
それでも三便増えたということで乗れたのである

2019年02月05日

春望国見山 (深野から大谷(おおがい)から国見山を上る)


春望国見山 (深野から大谷(おおがい)から国見山を上る)

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鹿島の寺内からも見えた二つ山

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親子石という感じ
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春の日に二つ山見ゆ鹿島より

春日さし石五つここに落ち着く

春の日に海を望みて国見山

春日の国見山に映え我が登る  

春日さし根づきし石や国見山

見上げれば春星満ちて希望かな


大谷村戸数少なく春来しも空家となりし家一間り

国見山去年(こぞ)の落葉を踏みにつつ一歩一歩と我が登るかな

国見山今登る人無く我一人去年の落葉を踏みて下りぬ


国見山春望

洋々大海開
国見山頂上
早梅山居咲
南相馬市住
春光温和日
和平合一願

新しい電動自転車で原町の深野のユッサによりそれから隣の大谷(おおがい)村によった新田川を渡った隣だった
深野(ふこうの)とか大原は常に意識しているけど大谷村はあまり意識しない所だった
もともと戸数が少ない20数軒だという、大原とか深野は戸数が50軒以上と多いのである、だから大谷村は深野村か大原村かと思っていた
ただ大谷(おおがい)というのはこの姓は栃窪村にその姓の人がいる
大谷氏は一族であり栃窪村に多い、小さな村だと一つの姓に属することが多い
だから大谷という姓が栃窪に多いということは大谷村から移住した人の子孫なのかとなるそういうことは確かに日本では多いからである
姓の元をたどれば村の名前になるからである

その大谷村から細い道を分け入り高倉村に出て国見山に上った、自転車で上り後は歩いて上った、標高は520メートルとかあった
鹿狼山(かろうさん)は429メートルだからこれより高かったのだ
遠くから見えやすいのは鹿狼山であり目立つ山である
だから国見山がそれより高いということが意外だったのである
この辺の風景でものたりないのが高い山がないことである
ただ国見山という名は全国的に多い

大和(やまと)には、群山(むらやま)あれど、とりよろふ、天(あめ)の香具山(かぐやま)、登り立ち、国見(くにみ)をすれば、国原(くにはら)は、煙(けぶり)立ち立つ、海原(うなはら)は、鴎(かまめ)立ち立つ、うまし国ぞ、蜻蛉島(あきづしま)、大和の国は

国を見渡しながら「大和の国はすばらしい国である」と詠うことによって言霊の力で大自然の神々に語り掛け、実際にそのような国になるように祈っているわけです

国見は、春、山や岡など高いところに登って四方を見渡し、その年の穀
物が豊かであるように予祝する儀礼。そこでは、国を賞める歌をうたい、その実現を期待した。本来は民間の行事であったが、天皇の政治的行事としても行われるようになったらしい。

これは天皇の歌であり天皇は国を統べるものでありだからこそ国見の行事があり国の平和と繁栄を祈るのが天皇役目であり天皇は司祭でもあった、短歌はそうした呪術的なものがあった、単なる風流とは違っていたのである
本当にこの辺では津波原発事故で大被害を受けた、それで補償金で分断されたとかいろいろあったからこの願いも切実なのである

漢詩もどきでも書いたがこれが願いなのである、和平合一することが願いなのである
いづれしろ国見は春にふさわしい行事だった、ここの国見山は原町を中心にして小高と鹿島まで見える
でも相馬市とか浪江町は圏外になっているから南相馬市の国見山になっているのである

ともかく新しい電動自転車だと行動範囲が広がった、国見山に上るのは結構大変だった
でもそこまで行くのが楽だから登れた、倍速で軽く走れるから楽なのである
やはり春になると遠くに行きたくなるのである



国見山は通行止めになってる、でも鉄の棒で封鎖していたが入り口は倒されていた
一台車が入ってきていた、あそこ7マイクロとか放射線量が高かった、今はどうないるかわからない







2019年02月06日

大谷(おおがい)村の人と話する (そこには住んでなくて街に住んでいたー増える空家)


大谷(おおがい)村の人と話する

(そこには住んでなくて街に住んでいたー増える空家)

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大谷村はなじみがない、それは戸数が20個とか少ないからである
大原から新田川を渡った所が大谷村である
土地も広い所ではない、山間の中にも入っていくから広い土地ではない
だから戸数が少ない、深野(ふこうの)とか大原は平坦な土地が広いから戸数が多い

その人は山よりの森に接していてた、それでその人はここは暗くて日当たりが悪いと言っていた、場所が悪い土地なのである、とすると後から入って来た人かもしれない
後から入ってきた人は条件の悪い所に入ったからである
いい場所古くから住んでいた人である、家自体も何か古い感じはなく立派なものではなかった

その老人はすぎっぱを集めていた、これは昔は風呂に使っていた、昔はなんでも自給自足だからそういうものを使っていた
その人はその家に住んでいると思ったが住んでいない、空家だったのである
その人は息子か娘が知らないが孫もいて街で家族とともに住んでいる
ただ近いからこうして見にきている
こういうふうに時々空家でも見に来ている人は完全な空家とは言えない
遠くからでも全く放置されないで時々見にきている家は完全な空家ではない

完全な空家とはまさに時々も見にこない、完全に捨てられた家なのである
おそらく誰の家かもわからなくなっているのかもしれない、その家は荒れ果てて幽霊屋敷のようになっている
そういう家は不気味である、それが大原にあった、もう長い間そこには人が来ていない
でも壊すわけでもなく放置されているから幽霊屋敷なのである

この辺では震災以後原町の市街から離れた大原とかここの大谷とかでももう農業ができないから街の方に移り住んだ人が多いかもしれない
なぜなら大原とかこの辺は放射線量が高かったから長く小高のように避難区域になっていたからだ、それで仮設に住んでいたのである
石神でも放射線量が市街より高いから補償金が高かった
それで旧式の家から新築した人を知っている、それは補償金が入ったからである
でも実際はローンだから金持ちというわけではない、ただ補償金が入って頭金とかになるから新築の家を建てることができたのである
その家も農家だけど田んぼがあっても委託していて農業は全くしていないのである

そもそも大原でも知っている人がいたがそこは古い農家でも一人で暮らしていた
病院で一緒になったので大原のことを良く聞かされた
息子は役所に勤めていてその家には住んでいなかったのである
だから病院で猫のことを心配していたのである
一人で大原の家に住んでいたのである
第一もう農業の跡継ぎがいないというのは全国的であり田畑をしても生活できないからこそ耕作放棄地が全国で多い
この辺は原発事故後に極端にその傾向が強くなったのである
それは補償金をもらったことでもう農業をやめたのである
それはもともと続けるような状態になっていなかったからである

昔なら自給自足だからすぎっぱ〈杉の葉)とかも燃料として利用していた
そういうものを集め集めて風呂をたいていた、自分の子供の時もそういう経験があるからだ、新聞紙とかバターとか木材の切れ端とかを利用して風呂をたくことをさせられていたのである
今はそういう回りにあるものを使わないからゴミと化しているのだ
そして農業自体がもう金にならないと誰も跡継ぎがいなくなっていた
それは震災前からそうだっのだが原発事故で補償金などを多くもらった人は余計にそうなったのである

そこから国見山に登り片倉村の方に出たら溜池の除染をしていた、まだしていたのかと思う、溜池を除染しても後からまた放射性物質が森から流れてくるから無駄のように思う
片倉村は全部荒地化していた、田畑をしている人はいない
後は放射性物質を貯蔵する場だけが目立った、何かあういうものを見ると嫌になる

例えば春になると春田という俳句の季語がある、これから田んぼが春になり田植えするという感じになる、それが全くない、つまり生活が失われたのである
それで風流もなにもなくなる、春でも荒涼としたものになる
でもそもそも何か農業は常に金にならないということで跡継ぎもいなくなっていたのだから別に原発事故に関係なく将来的そういう荒地化することが予想されていたのである
ただ原発事故でそれが極端に早くなり現実化したともなる
                         
ともかくこの辺では新しい家が本当に多く建った、その数は本当に多い
それは補償金で建てられたとなる
ただこうして街から離れた所は田畑は荒地となり空家が増えやがて消滅の危機に瀕する
それは過疎化した村で全国的に起きていることである
ただこの辺では極端なものとして先取りして現実化しているのである
とにかく農業となると小さな畑をするにしも肥料代とか種代とか道具を買うとか金がかかりすぎるのである、だから後継ぐものもいなくなる
すると田園風景がなくなり荒地と空家の風景になってしまうのである

そこには風流とかもなくなくなる景観もなくなる
なぜなら景観とは長い間にそこに住む人によって生業があって作られてきたからである
それがなくなるときソーラーパネルとかになってしまう
土地を活かす方法がないからそうなるのである
それで田園の風景は消失するのである
それは別にその場に住んでなくても他から来て嫌な感じになる
都会の人がそうした田園風景を求めるけどなくなっているからである
それもまた矛盾である、そうさせたのは都会化したりグロ−バル経済になったりと時代の変化でそうなったからである


posted by 老鶯 at 10:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連