2019年01月27日

風力発電もソーラーパネルも自然破壊になる (南相馬市の海岸の植樹も無駄だった?)


風力発電もソーラーパネルも自然破壊になる

(南相馬市の海岸の植樹も無駄だった?)

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【武田邦彦】日立撤退、風力発電事業から。
しかしこうなることは最初から分かっていた

津波や原発事故以後この辺の風景は一変した、ただここだけではない風力発電でもソーラーパネルでも景観が変わってしまった
私は何か異常に景観にこだわる、だから八沢浦が元の美しい入江にもどったというときもそうだった、そこが田んぼでもその田んぼより入江になっていたら美しいと常に思っていたのである、イメージしていたのである
それが本当に入江になったときほど驚いたことがない
波が入江になったところ打ち寄せてきらきら太陽に光っていたのである
この辺には入江がないから景観的にはいいものではなかったからだ
その時津波で家がその入江となったところに浮いていたのである
またそこでは人も死んでいたのである
正直それより入江になったことに驚嘆したのであく
それでここで人か死んでいるのにお前は何を喜んでいるのかとコメントがあったのもわかる
何か自分は常に景観を気にしていたのである、景観が壊されるのは嫌だったのである

だからソーラーパネルとかでも風力発電の風車でも嫌なところがある
そして津波で右田の松原もなくなったし家もなくなった
そこにソーラーパネルと風力発電の景観になった
そこに松と木の苗を植えて元の松原とか森の再生を図ったがそれは将来的に無駄ではなかったか?
なぜなら風力発電があると木が正常に成長するのか?
そのことを科学的に調査して判断している科学者がいたのか?
武田邦彦氏は風車は植物の生長に影響するとしている

葉っぱから水が蒸発しなくなるとか下の土がじめじめするとかあるとしている
ここは詳しくわからないがそもそも水力発電でも結局自然を破壊することになった
アスワンダムでも水が流れずに下流から水があがってきて塩害になったとか必ず自然を破壊するからそういう人工物が自然にどういうふうに影響するかを慎重に調査して判断すべきだとしている
太陽光を利用するソーラーパネルでもそれはまず景観に影響しているし人家のすぐ前に作ったら素人でもわかる、光が反射して暑くなったとかなっている
風力発電では鳥がまきこまれたとか自然に確実に影響して破壊する
まずはっきりわかるのはと景観を破壊することである
山の森のなかに突出して風車がある風景は自然の風景ではないし
なにかしら必ず影響するのである

水力発電もそうだったのである、その反省もなかった
ではなぜまた原発と同じようなことをしているのか?
それは政府の政策であり補助金が得られるから業者も積極的に事業したいとなる
政府では自然環境に考慮することなどないという
そもそも現代文明人は景観に無頓着なのである
だからこそ東京のような自然がない人工都市の中で生きていられるのである
そこに森も山も大地もない、人工的空間だからである
そういう所に生きられる人間は何か美的感覚でもなんでも麻痺しているのである
それは別に田舎に普通にいるが田舎の場合は人が景観に無頓着でもどうしても自然の中で生活していたからそのことで自然が守られていた
農業でも漁業でも林業でも自然の中で生きていたから自ずと自然環境も守られていたのである
でも自然と遊離して工業化したとき自然と人間はすでに遊離するようになったのである

そして武田邦彦氏が指摘しているように日本の国土は狭い、森が70パーセントとか森が多く平地が少ないのが致命的なのである
そこで土地が利用できないから山とか森にも風力発電の風車を建てる
それが景観とマッチしないのである
そもそも前から私が指摘していたように技術すら風土とマッチして開発されてきた
砂漠とか平地が多い中東に風車が発明されたとか日本では山が多いからトンネルの技術が発達したとかある
つまり技術でも国々の風土にマッチしたものが生まれる、開発されるのである

だから良くその国の風土にマッチしたものを作らないと自然は破壊される
ではそれが何になるのか?それは私にはわからないにしろ水力発電でもダムでも風力発電でもソーラーパネルでも自然エネルギーとか言っているけど自然を破壊するものなのである

そして景観が破壊されると心にも影響する、風車とかソーラーパネルは人工物であり自然にマッチしない、それは森にも山の斜面とかにもいろんな場所に作られて景観を破壊しているのである
景観だけではない、実際に自然を破壊している
いづれにしろ植樹祭とか天皇が来てこの辺で海岸でしたけどそれも無駄だったとのかとも思う
なぜなら風力発電でありその前にはソーラーパネル工場のようになっているからだ
そしたらどうしてそこで木が正常に成長するのか?
したとしても景観として森にはならない、松原のような景観は永遠に再現できなくなったとなるのだ

だからなぜそういうことを科学者は考えないのか?市の方でも考えないのか?
それも疑問なのである
そこに自然の森にはもうなりえない、見たらわかる
後はソーラーパネルであり前は風車である
そこに自然の木や森が成長するだろうか?
ただその前に風車の々寿命が20年とかだとすると風車自体が使いないものになっているかもしれない、木が成長るには30年でも最低かかるとなるとそうである
何かこれも除染と同じように莫大な費用をかけたけど無駄になるのかと思う
それでも補助金が政府から出るから事業をしたいとなるのもかえって国民にとってもいいものではなかったのである
なぜこういうことをもっと議論して決めないのか?
これも政府の意図がありそれにのった利権構造がありやめられない
それは原発とにていたとなる

結局このしわ寄せは将来ここに生きる人たちに影響する、自然環境をそのまま受け継げないことである
工場地帯のような場所に生きることである
だから右田の松原で暑い時海からの天然の風で涼んでいたときは恵まれていたなとつくづく思う
それは何か牧歌的だった、今はその木陰になるところもないからだ
それは永遠に失われたとなる、なぜならあれだけのソーラーパネルがあるとやはり光の影響で暑くなる
風力発電の風車も影響するから森の再生にはならないからだ
だからここに生きる子供たちはそうした自然環境を受け継いで生きられないから不幸だともなる
それは今の大人たちがそうしたともなる

ただ田舎でも自然景観とかには無頓着なのである、農業とか林業でも漁業でもそれは自然と密接に結びついていたから
自ずと意識しないでも自然環境が景観が維持されていた、破壊されなかったのである
だからヘシオドスのように人間の生活を隠せとなる、人間の生活が自然の中に隠れるようにあるときそこに自然が一番映えていたからである、何度も言うようには飯館村がそういう村だったのである
posted by 老鶯 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳句と短歌) (記憶をたどる旅の不思議)


秋の日本海に沿って自転車の旅をたどる(俳句と短歌)

(記憶をたどる旅の不思議)
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市振に来たるやあわれ秋鴎

出雲崎沖に佐渡島遠きかな旅人よりて秋の日暮れぬ
良寛の行きし杣道我が歩み五合庵なれ生きにしものかも
良寛の五合庵より野積かな秋の夕日の海に映え没る
良寛の五合庵より一本の松によりさり月のあわれも
寺泊出雲崎すぎ日ば暮れむ月のあわれも松によりさる
秋雨のしととふりにき旅人や瞽女(ごぜ)の碑ありてあわれ深まる
直江津に一夜の宿や旅人のはや去りにけり秋のふけゆく
市振に着きしや遠く我が来る秋の陽没りぬ日本海かな
市振の漁港小さくあわれかな烏とまりて秋の日暮れぬ
いづこなれ山間の刈田にテント張り泊まりて去りぬ何を記さむ
雨しとと関所のありて夕べ越ゆ江戸の道のりここより思ふ
この世に生きるは謎や一夜の宿出会いし遊女も記憶なるかな

黒に映ゆ松本城や藤の花
黒に映ゆ松本城や雪の嶺

旅の記憶も30年くらいすぎるとあやふやになる、なぜ日本海を自転車で旅したとてしどうして日本海まで行って帰ってきたのかわからなくなった
第一そこまで自転車で行くとしたら相当に遠い
覚えているのは良寛の五合庵により野積(のづみ)の民宿に泊まり寺泊に来て出雲崎に来て日本海にそい行った
その時秋であり満月がでていた、それは確かに前に記録して短歌にしていたがどこに記録したか不明になった、おそらくワープロに記録していたのだろう
それでワープロから呼び出されなくなり古いワープロを東京まで行って買うほかないとなった
人間はともかく忘れやすいのである、まず旅しても十年などすぐすぎる
すると記憶はあいまいになる


出雲崎側に「お春瞽女之碑」がある
車で走ると気づかず通り過ぎてしまう

昭和22年の冬
出雲崎の門付けの帰り
盲目のお春さんは吹雪に埋もれ帰らぬ人となった


瞽女宿では、そろそろ瞽女の来る頃、布団を干したりして準備をします。暖かい布団や風呂、心づくしの食事、気兼ねなく過ごせる部屋などが用意されます。もちろん、皆無料です。瞽女宿の人だけでなく、村の人も手伝いにきます。村中で瞽女を暖かく迎えてくれるんです。

杉本家の初代親方マセは江戸時代の生まれで幼い時に天然痘にかかって片目が潰れ、顔中にあばたが残り、「お前はその顔ではいいとこへ嫁に行かれん。いっそ瞽女になるか」と父親に諭されて丸山という親方の弟子になりました。




瞽女(ごぜ)というのも目が見えない女性である、とにかく江戸時代は眼病を患う人が多くそういう人がなった仕事である、それは栄養不足でそうなっていたのである
座頭などもそうである、0・8パーセントが眼病を患っていたとかなる
そもそも病気は江戸時代には直せないのである
天然痘もそうである、そうした伝染病も多いから病気を直せずに死ぬ人が多かったのである
でもそういう人に江戸時代の人は情がありなさけをかけていたのである
瞽女(ごぜ)宿まで用意して歓待していたのである
それは芸を楽しむということがあったにしろやはり福祉的なものもあったとなる
ただ座頭などは金貸しで特権が幕府から与えられて大金持ちになっていた人もいた
これも現代でも福祉の名で施設とかもうけている人もいるから同じだと思った
人間のやることは時代が変わっても似ているのである
とにかく瞽女(ごぜ)の碑を見たのは記憶している

それから直江津に一夜泊まったことも記憶している
そしてわからないのは糸魚川まで行って親不知に行って市振に行ったことは記憶しているただ糸魚川を越えて市振に着いたということは地図をみてふりかえりそうだったのかとなる、市振は越後と越中の境であった、そこで関所があった
市振とは振り出すという意味であり境を越えて振り出す振り出しの地としてつけられた
江戸時代は境を越えることは外国に行くとにていたのである

それで芭蕉の句の「一家に遊女もねたり萩と月」は市振で詠まれたのである

今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返し*など云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ*。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し*。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて*、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ*」と、泪を落す

これは遊女だが瞽女ともにているのである
そこに漁港があり船が泊まっていることは覚えていたがそこに松があったことは記憶していない、松は何か人間に見えるのである、松によるというとき人間に寄るという感じになるのだ、だから日本人にとっては松は一番親しいものなのである、松は友にも見えるのである

旅路行く北陸道の松あわれ名残り惜しむや秋の陽没りぬ

こんなふうになる、日本海側の松はまた何か独特の風情があった

自転車の旅だと宿に泊まりにくい、そこでテントは不可欠だった、何か山の方に分け入って刈田の畔のような所でテントを張り寝たことを覚えている
そこがどこかは不明になった、何かを記すにももう記憶をたどるしかない、それもとぎれとぎれになって不明になった

そして市振から富山の方に行ったのか?山の方に向かいそこに関所があった
加賀藩などがその関所を越えたとかある、あそこから江戸へは遠いと思った
ただその関所のことが不明になった、でも記録したものが見つかればまたこの文は編集しなおす

そしてなぜか松本城のことを今日テレビで見て思い出した
松本城からアルプスの雪の嶺が朝に映えていた
あそこには春に行った、秋にも行った、それで思い出して俳句を作った

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黒に映ゆ松本城や藤の花

黒に映ゆ松本城や雪の嶺

あの黒色が独特なのである、山国の城として黒があっているとなる

会津の城ももともと蒲生氏郷が作った七層の黒川城があった、この城は圧巻だった
まさに松本城ににたものだったのである
今の会津城にはあまり魅力を感じない、中は博物館のようにもなっている
それは新しく再建されたから歴史を感じないのである
新しく再建されるとそれは博物館のように見えるからだ
ただ松本城は当時の面影を残している、立地もいいのである

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七層の会津の黒川城

いづれにしろ思い出す旅というのも不思議である、それがインタ−ネットだとしやすいのである、情報がありそれをたどって記憶の旅ができるからだ
ただこれも実地にその場に行っていないかぎり活きたものとならない
そして地図を見ると何か記憶と一致しない、だから地理をわかるのは容易ではないのだ
冬は冬ごもりであり思い出す旅には向いている
じっとしていてストーブにあたたまり思い出す旅をするのである
だから私自身はもう旅に出たくないのである、これだけ旅をすればそうなる
もう飽きるほど旅したからである