2019年01月12日

2019謹賀新年(霊前に献ぐ花)


2019謹賀新年(霊前に献ぐ花)

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姉が死んでから8年、母が死んでから3年すぎた、月日が過ぎるのは早い
ただ不思議なのは死んでからも家族は家族であり60年間一緒にいた記憶は消えない
むしろ人間の不思議は何か?

人間は死んでから本当の力を発揮する

これを何か家族が死んで感じているのである
人間は死んだら終わりだとか思っていた、動物なら死んで終わりである
人間は逆である、人間は死んでから本当の力を発揮する
むしろいきている内は人間の価値はわからないのだ
評価もできない、今有名でもそれもうたかたのように消えるからである
死んでからいつまでもなんであれ話題にされる人は本当に価値ある人なのである
それは別に有名人とか偉人でなくてもそうである

人間は死んでからその本当の価値を知るのである
そもそもなぜキリストが死んでも2000年過ぎても忘れられないのか?
そのことだけでもわかる、キリストが死んだときこそその後に最も力を発揮したのである
でも死んですぐに忘れ去られるのはその人に何かしら残すものがなかったからだともなるそれは巨万の財産を残したとしても必ずしもそれで後世に影響を与えるとはならない
私的なことを延々と語るのもなんだがやはり自分の家を築いたのは姉と母であり
そこに功績があり今の自分があるとなるから語るのである
それは金銭的な面だけではない、自分を支えてくれた人だったとなるからだ

それで紅白の餅を献げ花を挿したのである

葉牡丹に白菊黄菊千両や新年祝う霊前なるかな

最近フラワーアレンジメントはしていない、その余裕がないのである、家事に追われるのである、だから今になると自分のように恵まれた人はいなかったなとつくづく思う
その恵まれすぎた結果として塗炭の苦しみを受けたのである
全部家のことでもしなければならなくったからである
花の不思議は花は争うことがないどんな花でも一つの壺に争わず映えるのである
かえってその個性を互いに際立たせるのである
花は調和している、自然も調和している、コスモスを形成する
ただ人間だけが不調和な存在なのである
いろいろ努力しても常に不調和になるのである、科学技術でも調和ある世界は乱されるのである、だから人間の努力とは何なのかとなる 

キリストが言うように

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった

これは人間の労働を否定しているのである、人間は労働を賛美しすぎるのである
労働はケースバイケースで必要である、でもそれを全面的に肯定はできないのである
結局膨大なの労働の結果として生まれたの何なのか?
東京の怪物都市だったともなるからだ、そこに全く美がないからである

人間の力は決して個人からだけでは発揮できない
そこには様々な力が加えられて付加されて力を発揮する

●神の力
●土地の力
●家の力

この三つは明確である、他にもあるとしてもこれはわかりやすいのである
この三つの力があって個人でも力を発揮できるのである

人間はつくづく経験してみないとわからないのである
人間が家族が死ぬということはどういうことなのか?
それが家族がみんな死んで自覚できたのである
かえって死んでから家族の意味とか先祖の意味とかを理解できるようになる
生きている内はそういうものが頭で考えているだけであり実感しないからである

今年はどういう年になるのか?
何か自分自身も回復してきたとかなるし回りはどうなのか?
震災以後8年だから回復してもいいが実際はしていない、結局回復は復興は長い目で見ないとできない、それだけ被害は大きすぎたからである


冬日没る(大原の二つ峰)


冬日没る(大原の二つ峰)

                      
イノシシの猛進するや年明けぬ

冬日没る大原に見ゆ二つ峰

一本のすぐなる松の隠されて今日我がよりて冬の日暮れぬ

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実際に見たのとは違う、もっと明確に二つの峰が高く見えるのである
やはり写真と現物は違うのである

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林の中にあった一本の松
これもこんなふうではなかった、もっと太い松だった

人間と自然の関係は何なのか?それは自然があるとしてそれを人間化することなのであるだから名前をつけること自体人間化したものなのである
名前がないとそれは自然のままだとなる

human identified mountain

human identified tree

human identified stone

とかなる、それで真野川上流の隠された石を老子石と名付けたのである
名付けることはまた意味をもたせることなのである

ただまだどこでも名前が付けられない山がいくらでもある、それはそこで生活している人でも認識していないのである
だから時代が変わりそこに生きる人がいてまた新しく自然が identifiedされるのである
そういう作業をしてきたのが自分だったとなる

要するにこの二つ峰に人間を見ているのである、人間を投影しているのである
それは夫婦に見えたり兄弟姉妹に見えたり祖父母に見えたりしてそういう名前がつく
人間化した山になるのである

これはtwined mountains でありtwined peaceともなる
それは常に人間には争いがある、だからこうして二つの峰が一体化している
夫婦でも離婚とか家族でも争いがある二つの峰が一体化して平和がある
それが自分自身の家族にも言えたからここに自分自身の感情が投影されてアイディンティティ化されているのである

大津皇子の遺体が二上山に移し葬られる時、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が哀しみ悼んで詠んだ歌が2首ある。

うつそみの 人にある我れや明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我が見む

@「現世の人である私は、明日から二上山をわが弟の君であると見て偲ぶだろう」

この山は見れば大きい山はいかにも姉であり小さい山は弟に見えるのである

はるけくも飛鳥に来たり二上山我が望みて秋の陽没りぬ

これは確かに飛鳥から見えたのである、結構奈良では目立つ山だったのである
あの時は名古屋から奈良まで自転車で行ったから遠かった
ただあの山は飛鳥からも見えたのである

寺内から深野の方向に行く所の山道をマウンテンバイクで上った
そしたらイノシシがものすごい勢いで走った、二頭いた
小型ではあった、丸森は大きなイノシシを見た、あれは怖かった
丸森辺りだと森が深いからあのような大きなイノシシがいるのかとなる

とにかくイノシシ年であり年男になっているのが自分である
だから最後の猛進の年になるのか?正直旅行とかはしたくなくなった
疲れるのである、近間ならいいが遠くとか人ごみに入るから嫌になる
やはり老後は旅より家でゆっくりしたいとなる、だから老後は家が大事になると思った
家が過ごしやすいとか田舎いいとなる

ただこの辺の山は土とるためにいたるところ山が削られているのである
それが景観を悪くしているのである、それだけの工事がこの辺であったためである
それからソーラーパネルも増えすぎたのである
ただマウンテンバイクで行けるところが近間であると面白いとはなる
飯館にはそうした道がありバイクで行けるとかあったから行ってもいいが疲れるとなる
ただ今度の電動のマウンテンバイクでは行動範囲が広がったことは確かである