2019年01月10日

車社会と鉄道の相違の考察 (マイホームとかマイカーの時代へ)


車社会と鉄道の相違の考察

(マイホームとかマイカーの時代へ)

自家用自動車を「マイカー」という言葉で呼んでいるがこの言葉ほど自動車に対する日本社会のとらえ方を象徴したものはない
他人にどのような迷惑を及ぼそうと自らの利益だけを追う
飽くことをことを知らない物質的欲望がそのままこの「マイカー」という言葉にあらわされている
「自動車の社会的費用」宇沢弘文

戦前と戦後を比べると何が変わったのか?
戦後十年から二十年はまだ車が普及していない、だからその時それほど車の影響はなかったし主要な交通機関は鉄道とかバスだった、特に鉄道が国鉄だったから鉄道が輸送の中心だった

車の問題は社会全体も人間そのものの人格すら変えてしまったほどに影響が大きかったのである、街路が消滅して街の活気が失われた、車の問題は車一台がしめる面積が意外と気づかないかもしれない大きいのである
だから駐車場が必要でありその面積を確保するのが問題になる
駅前にはそうした面積を確保できないのである
車は駐車する場所の確保に一番困っているからである
すでに日本全体でも土地の面積は道路と駐車場で二十パーセント以上占められているのである
だから車は今までの街の中に商店が密集して駐車できないことが一番問題になり郊外の大型店に移り街は寂びれてしまった、シャッター通りになったのである

車は歩行者や自転車からすると常に危険なものだが車にとってみると自転車とか歩行者は目障りになる、突然横切ったりするからである
それで自転車で行くと必ず自分はどなられることが多い
自転車は脇を通り車の邪魔をするなということである、それより歩行者とか自転車は邪魔だとなっているのだ、自転車専用道路は日本にはほとんどないからである
歩道を行くのだがそこは段差が必ずあって走りにくいのである
だからマウンテンバイク型のがいいとなる

車が社会そのものも変えたしそれだけではない人間の人格まで影響したのである
「キレル」人間を大量生産したからである、老人がキレルというけど車を運転する人はみんな突然後ろからスピードを出して目障りな歩行者や自転車をどなりつけて猛スピートで走り去ってゆく、キレルのが車なのである
機械が社会を変えただけではない、人間の人格まで変えたことが深刻な問題なのである
ただ便利なものとして何でも日本人は受け入れたのである
技術の危険性は原発でもそうだが考慮していないのである
便利ならいいとなっているからだ

実際人格を変えるということは本当に危険だし住みにくくなる、人間同士の関係もギスギスする、そこにはもう人間としての情は通わなくなる
第一車に乗っている人は歩行者のように歩かないからその人すら認識できないのである
ただ通り過ぎてふっとばしってゆくだけである
そこには人間と人間の情が通わないのである
例えば馬とか牛とかに農業で仕事でじかに接していると相手も動物だから情が通うのである、だから馬には名前をつけて人間のように呼ぶ、それは今はペットになっている
つまり情がない社会でペットはその代償となっている

車の問題はいろいろあるがやはり戦後の社会そのものを人間の人格まで変えてしまったのである、それは確かに世界共通の現象なのである
このマイカーということとマイホームというのも共通している
その私的な所有と空間の私的な占有とマイ・・・となるとき他者を排除するものとなる
それは公共性が喪失したものとなる
プライベートとかもそうである、プライベートは奪うとういことであり、本来共有のものを奪うとういことなのである
明治からでも私的所有過度に認めて山が入会権として共有だったのにそれも無数に分割されていちいち私有している所有者の許可が必要となり山を共同で管理するできなくなったのである

戦前は異常に国家優先の社会だった、でもそれは公共的なものとして全体としての共同の意識をもっていた、それが過剰になっていた
でも戦後は逆に私的なものだけを追求するようになったのである
そこに共有するとか共同するとか公共的なものを追求することが喪失した
そして金だけを求めてマイ・・・となり他者とか公共的なものとか全体とかへの意識が希薄化したのである、それは明治から私的所有を過度に認めてからもそうなっていた
でも国家という共同意識はありそれが過度になって戦争にまでなったということはある
それが極端に戦後は私的なものを追求するようになったのである

マイホームとか核家族とかでもそうだった、マイホームに象徴されるのは自分の家族のみの利益を求める世界である、核家族となるとまさに家族でも夫婦単位の家族であり昔のように大家族ではない、国家というものを極端に戦争に負けて否定するようになったのである、だから日本では愛国心も薄れただ自分だけの私的な利益だけを追求して家族でもマイホームという核家族単位の幸福を追求してきたのである
それは他者を車のように排除してマイカーでありマイホームになったのである
日本がではつくづく戦後は公共的なもの大きな共同体的なもの価値は追求されなかったのである

こういうことがこの辺で起きた原発事故でもあった、簡単に町でも村でも避難区域になりゴートタウンになった
それはそうさせられたとしても何かこんな簡単にそこに長年住んでいた町や村が崩壊するのかということが信じられなかった
それも結局私的所有とかマイホームマイカーの時代になったからなのかとも思う
自分の家族さえ良ければいいとかマイカーとなるとマイカーを家にしている人もいるからそのままマイカーで補償金をもらえば他に移ればいいともなるからだ、市町村に住んでいてもそのつながりは希薄になっていたのである
市町村全体のことを考える人はいない、ただマイホームマイカーなのである、他は知らないとなっていたともなるからだ


鉄道にはひかれる原因はそうしたものが失われたからである
鉄道には車両の中でも共有する空間であり車のように排除する空間ではない、みんなで共有するものとしてある
駅でもそこは広場的な出会いと別れの共有して情を通う場を提供しているのである
高速道路のSAにはそういうことがないのは車だと直接家まで行くから家で出会いと別れがあるから他人は関係なくなるのである
駅だとそこで共有の空間であり他人も一緒にそこでかかわるのである
だから一緒に見送ったり出迎えたりしているのである

人間というのが社会というのが機械とか技術によってどれだけ変わるかを考慮していないそれが人格まで変えてしまうとういことが考慮していない
でも便利なものはやめられない、その便利さによって恩恵も大きいからである
ただ人格まで影響すると人間は無情なロボットだらけになってしまったのかともなる
つまり無情非情化した人間となりそういう人たちの中で暮らすことは地獄だともなる
現実に今の人に情はなくなる、そうなると病院とか介護とかの分野では情が大事になるけど人間はロボットのように処理される
だから病院とか介護施設とかは怖いなと経験してつくづく思ったのである

宗教とかはもともと情の世界を人間の根本としてとらえてきた、愛とか慈悲とかそうだろう、でもこうして機械技術が発展すると情のない人間にとりかこまれて生活することになる、そして金が突出して力をもつ世界となり人間を人間とみない、金になるかならないかしか付き合う判断がないのである
それで自分が介護とか病気になり苦しんでいる時一切同情がない
ただこいつから弱っているから金をとればいいしかなくなっていたのである

確かに便利さでは格段に進歩したのだが人格とか人間の情という面では衰退した
江戸時代は逆に技術がないから病気になったら直す術もなくあきらめていた
ただみんな他人でも長屋に住んでいたら家族のようにして情をかけたのである
だから現代は確かに機械や技術の進歩で病気も直せるし栄養もとれる
ただ逆に情がない社会になっている
それで江戸時代が今に比べると全部悪いとはならないのである
技術がない社会としても情で補っていたのである

そして私自身は情がある社会がいいともなる、情ある人に看取られて死んだら幸福だとなる、病院は情がないからみんな嫌がるのである、確かに技術は進歩しているが情はないのである、医者にも看護師にも希薄である
だから時代時代でいい面と悪い面がでてくるとつくづく思う
それで江戸時代がすべて悪いとはならないのである
現代は江戸時代のいい点が失われたからこそ江戸時代を良く見えるということである

花の映える飯館村(詩) (原発事故で一番被害を受けた無惨になった村)


花の映える飯館村(詩)

(原発事故で一番被害を受けた無惨になった村)



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広々と各々庭のあり
夏の日に花は映えぬ
とりどりに小さな花々も
明るく大きな花も伸びやかに咲く
秋の日は芙蓉がゆったりと咲く
時の流れはゆるやかに花々は
それぞれの色と形もて
存分に与えらた個性を示す
天より神はその花を見る
そこにつつましい暮らしがある
山菜を食べるまでいな暮らしがある
もうとこちらで牛が鳴き
あちらで牛がもうと鳴く
森に囲まれ小鳥の鳴く声のひびく
その音色は澄んでひびきわたる
それぞれの家は森に囲まれている
人々の家も暮らしも隠されし村
ただ花が日がな映えて咲く村
花と花は争わず互いに認め合い咲く
道の辺の一本の木に秋の日のさして
かなた安達太良の山に陽は没りぬ
秋の蝉ここに静かに鳴きひびき生を終える
その命はここに尽きて幸いなりと・・・
今悲しもその村は荒れ人は去りにき
ただ残れる一本の木に我はよる
村人のここに還る日を待ちにつつ
墓に眠る先祖もまた帰るのを待っている
美しき村よ蘇えれ!
安住の地を回復せよ
そこに人は心身ともに養われるべし



飯館村の不思議は何か南相馬市方面から行くと標高が高いのである、だから自転車だと坂を上るのに苦労した
歩くほかないのである、電動自転車だと楽ではあったがそれでも坂がきついのである
ここに花の詩を書いたけど何か不思議なのだけど飯館村では花が自然のままに咲いているという感じになる
またここでは書いていないけど草むら深く咲く野の花がありそれはまだ誰の目にもふれていないという高山植物のようにな感じになっていた、なぜ花が映えるのか?

それは高原であり森につつまれていて人家も森に隠されている、するとそこで目立つの花になるのである
一軒一軒が広い庭があるし森につつまれているからである、人影もまばらであり自然の中に隠された感じになる
すると人の暮らしを隠せというヘシオドスの言うことがわかる
都会のように人の暮らしがむきだしになり人と家で埋め尽くされた所がどれだけ醜くなっているか比べれば一目瞭然だからである

ただ人の暮らしを隠せというとき飯館村だってそうである、そこに住んでいる人たちも実際はどこでもそうだが醜いのである
田舎の人間が素朴だという時代はとっくに終わっているし前からでも田舎の人間は田舎の人間特有のいやらしさがある
もうそれで嫌にもなるのである、しつこく蛇のようにからみつき噂にした干渉したりするからである
人間はどこでもそうなのである、ただ飯館村はそうした人でも暮らしでも隠されているからただその村の人と関係しないと花だけでも見て帰っていたからそこがこのように見えたのである  

いづれにしろ飯館村は悲惨であり愕然とする、田んぼの土ははがされむきだしになり放射性物質のフレコンバックがいたるところに積まれている
だからあんなに土をはぎとったのは問題だった、除染にしても何かやり方があった、だから下の土と入れ替えるということもそうだったなと思う、たが科学的知識がないからわからない
でもあまりにも無惨の景観になってしまったのである

そして事故後は補償金で村は二分されたのは南相馬市と同じである、前のまでいな村とで一体になるということはない
その補償金が大着すぎたからまたそうなったのである、までいな暮らしより一億円もらって外で新しい家を建てて豊かな暮らしをした方がいいとなったのである、それだけ今は金の力が大きいのである
もしそんな金をもらわなっかたらやむをえないとして質素でもまでいな暮らしで満足する他なかったからである
その時外から来る人は一時的にいるとしたらいい村だとして帰ってゆくのである

でもそこに住んでいる人には不満が大きいのである、スーパーが小さいのがあったとしても貧弱だった
歯医者もなにもないのである、馬券売り場を作ったがそこでもめた、娯楽がないからそうなった
パチンコ屋もなかったからだ、ただ飯館村は原発とは関係ない村だと思っていた
それでも原発で働いていた人がいたということは意外だった
それだけ原発は金になるからそうなったのである

いづれにしろ花が映えるというとき庭が広々としているからそうなった、そして贅沢なのは一軒一軒森につつまれていたからである
それは都会のごみごみした密集した家と比べればわかる、そこにどんな豪邸を建ててもそれが豊かだとは言えない
だからこういう原発と関係のなかった村を破壊した罪が一番大きかったとなる
極端に言えば東京などは価値がないからなくなってもいい、でもこういう自然の中にある村は神がよしとして天から見ていた
そこに天から神の眼は注がれていたのである
だから原発事故の罪の重さはまさに飯館村にその罪の重さを示したのである


posted by 老鶯 at 14:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村