2019年01月19日

グロ−バルリストとナショナリストの戦い (思想価値観世界観の転換の時代))


 グロ−バルリストとナショナリストの戦い

 (思想価値観世界観の転換の時代)

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国際主義(グローバリスト)とは、「共産主義」「社会主義」「左翼リベラル思想」「ネオコン(新保守主義)」「新自由主義(ネオリベ)」・・・、様々な形があります。
これらの共通項は、国家の価値や民族の価値、それらのナショナリズムを否定して世界を統一すること(ワンワールド)、つまり世界政府を樹立することです。

民営化が容易になり市場経済化が進むと、外資(アメリカ資本)が民営化された現地企業を買収することが容易になり、グローバル化が達成されたことになるのです。
これが、民主化→民営化→グローバル化という三段階のレジーム・チェンジ方式なのです。


人間とは今生きている時代がどういう時代なのかわからない、その時代に生きている者が一番わかっているようでわからない
それがグロ−バル社会になると世界を知らねばならないから余計にわからなくなる
第一社会というものは大きなものだから人間はその大きな社会に時代の雰囲気にのまれる例えば日本の戦争であれナチスであれその時代に生まれたらやはりその時代にそまる
戦争は否定されないしむしろ称賛されて高揚されていたとなる
一時代が終わると冷めた見方になる、その時代では熱中していたのである

だから今の時代をみるとき歴史的見方が必要になる、過去の時代の対比で現代をみる
江戸時代に生きていればそれはできない、外国も知らないから江戸時代で生きている人は対比できるものがないから今生きている時代を知らないとなる
現代になって戦争のことをとやかく言うがそれは戦争が終って70年過ぎたから覚めてふりかえり見ているのである

現代とはグロ−バル社会である、でもそれがどういう社会なのか見えている人はいない
なぜなら日本でも世界中でもグロ−バル化しているからである
それは全部が赤色にそまっている時一点だけ白色になっていると同じになる
それは赤色に染められるのである
だからグロ−バル社会に生きていればその色一色に染められるのである
それは共産主義でもグロ−バルというときもそうである
その価値観に染められそれ以外は排除されるのである
中国などではもう強制的にそうなっているからその価値観から思想強制されているのである

ただ世界はグロ−バル化が資本主義でもゆきづまっているしその弊害が大きくなったのである、そこで移民問題やらなにやらいろいろいと問題が噴出している
資本主義にしても金融資本主義とかに変貌している、そして富が世界の富が数パーセントの人たちに吸い上げられている格差社会になった
それは世界でもそうであり資本主義の本場のアメリカでもそうである
それでナショナリストのトランプ大統領が生まれたのである
それはウオール街のグローバリストに対抗するものとなったからである
ただグロ−バリストというときなかなかこれがわかりにくいのである
それはグロ−バル化の中で一色に染められているからそれ以外の見方ができなくなっているのである
現実に金の力が世界を支配してそれが実行力をもっていることでそうなる
だから世界の果てまで血眼になって金を求めている
ドルでもアフリカの果てまでドルをくれと子供まで要求している、ドルは世界の通貨でありアメリカが世界を支配しているとなるからだ

まずだから大事なことはグロ−バル化とは何なのか?これを理解することなのである
それがむずかしいのである、客観的に見ることがむずかしいのである
ただそういう時代の変化が起きている、ナショナリストのトランプ大統領が生まれのはそのためである、貧富の格差がアメリカで起きているのもそうである
アメリカの富は数パーセントが50パーセントを握っている異常事態なのである
そういう社会がもう成り立つのかということである
もう崩壊前夜であり革命前夜なのである

ただこのグロ−バル化が何なのか?それを理解しないかぎりこれに対抗できない
それは例えば時代時代の色に染められるからである、戦争の時は戦争一色に染められる
あらゆるものが戦争一色になっているときそれを客観的冷静に見るのは不可能だとなるからだ
それは今でも自由社会でも例えばカルト教団に入っていればそうなる
その団体での見方が思想洗脳されて一色になる、ただ言論の自由があれば批判する人もいるから客観的に見ることができるのである、でも洗脳された集団は強固でありそれを否定するのである、そして創価などでも数が多いとなるとそれに誰も逆らうことができなくなる、つまり数が増えると創価一色になりえることもありえたのである
他にもカルト教団がありその色に一色にそまる

でもグロ−バル化とかグロ−バリストとかなるとそれはもう社会全体世界全体がその中で生きているのだからそれがわからないということである
だからまずグロ−バル化とは何なのか?グローバリストとは何なのか理解することが先決だとなる
ただこれは本当にむずかしい作業なのである、それは金が世界を支配していて実行力をもっているから簡単に否定できないのである
みんな世界中の人が思っていることは金が欲しい、金があればすべて解決すると思っていることでもわかる、そして金の中でもドルが欲しいということでもわかる
金があればすべてがこの世の物が得られとまでなる強力なものになっているからである
それは世界中どこでもそうである、アフリカの果てまでそうである
それから逃れることができないことでもわかる
すべては金なりの世界になっているのである、それから脱する道があるのか?
それがいかに容易でないかわかる、つまりなにやかにやと理想論を言っても金が実質的に絶大な権力となり実行力があり支配するからである
世界中の人が金の前にひざまづくのである、マモンの神にひざまづくからである
第一金がなければ今日食べるものが得られないという人が世界中で田舎でもいるからである、そしたらそんな人はグロ−バル化がどうだこうだとか言っていられないのである
今日の食べる金が欲しいというだけになっているからである

ともかくこのグロ−バル化とかの問題は簡単に解明できない、変革するのも容易ではないただそれも転換期に来ているから自壊するとか何か大きな変化がきている
世界でも来ている、それがナショナリストの運動が盛んになってきていることでもわかるアメリカ自体がトランプ大統領になっことでそれを証明しているのである

基本的なグローバリストとナショナリストの対抗軸を列挙した

グローバリスト     ナショナリスト

中央集権ー地方分権

外需中心ー内需中心

グロ−バル金融資本主義ー内需地域資本主義

大企業型多国籍企業型経済成長主義ー国土生態系によるコスモスの形成

マスコミ(マスメデア)−インタ−ネット(分散型メデア)

物質追求ー精神性の追求(国風文化など文化の追求)

こういう対比が主にありそれを追求してゆく、そして新しい思想的世界観価値観を現実の社会にでも実践してゆく、でもまずグロ−バル社会とは何か理解しないとできないことなのである

この本は参考になるから読んで参考にすべき

ポスト大企業の世界(貨幣中心の市場経済から人間中心の社会へ)−デビット・コーテン


abstract painting (go to the north in winter)


abstract painting (go to the north in winter)

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2019年01月20日

冬日没る(石の構図ーstone composition)


冬日没る(石の構図ーstone composition)

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景に石重なりて冬日没る

冬日没る重なる石の重さかな

石を組む庭に冬芽を我が見つく

故郷の名もなき墓や冬の暮

誰が眠る枯野に墓地やまた来たる

また一つ江戸時代の碑冬の暮

冬深む我が家にすみぬ蜘蛛一匹

ストーブに猫と我かな籠りけり

金沢や松の古きや冬桜

compositionの意味

 The combining of distinct parts or elements to form a whole.
The manner in which such parts are combined or related.
 General makeup: the changing composition of the electorate.
The result or product of composing; a mixture or compound.
 Arrangement of artistic parts so as to form a unified whole.

この写真は庭作りしている会社かもしれない、ここは人家ではないからだ
そしてこの庭の石組には決まりがある
石木配置の仕方があるがそれに習っている
だからこの石の組み方は日本の伝統を現している
平らな石が心を落ち着かせる、平坦でありそれが安定させる
二つの石は重なり一体化している
これは無造作に置いたのではなく計算して置いた石なのである
これは相馬市の山上の方にあった

今日は風がないので原町の方を回ってきた
そこで冬桜が深野に咲いていたようだ、冬桜はそんに見ない、それは桃色の花だった
でもこれは冬桜ではなかったようだ
冬桜10月桜ともいうから一月には咲かない、金沢の兼六園の冬桜は見た
有名である、金沢は情緒ある場所である
だから冬でも兼六園などはひっそりとしていい、ただ今は外人が多いからまず泊まること自体難儀するだろう、それで日本人がゆっくり観光しにくくなったのである
仙台からバスで行ったことがある、電車で行くと遠回りになるし金がかかるからだ
なんか旅行は飽きるほどしたけど意外と今になると行けないものだと思った
旅するにもエネルギーが必要だったのである
それが介護とか家族がみんな死んでなくなったともなる
こうして旅を思い出してまた俳句で短歌でも詩にでもしたりしているのが仕事である

必ず墓地にはよる、それくらしか見るものがないからだ
ただ石ころが置いてあるような墓もある
全部に名がない、そういうものも多い
それを犬猫の墓なのかとも見た
でも人の墓だろう、しかし名もないと犬猫にもなってしまう
まず人間は死んだら忘れられるのが早いのである
名もなく埋もれる墓は無数にある

ストーブで猫とあたたまっている、広い家に猫と自分だけである
小さな蜘蛛をみかけた、何か足なのか手なのかにょろにょろ動かす蜘蛛である
これはきれいな蜘蛛の巣は作らない、虫のように見える
でもなんかこの蜘蛛が自分の家に生きていることも不思議である
生き物はなんでも不思議なのである




冬の詩と漢詩の鑑賞 (現代文明は自然と調和しないから醜い)


冬の詩と漢詩の鑑賞

(現代文明は自然と調和しないから醜い)

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冬の林の小鳥

かそけくも疎林の中を
枝移り軽やかに飛ぶ
美しき羽根を見せつつ
その声の冬の林にひびき
汚点も残さず消える
無駄なきシンプルな自然の姿
優雅に現れて林に消える
後に残された寂寥とした枯木林
そはまたゆくりなく現れて消える
後腐れなく冬の簡素な林の中に

simple gentle elegance

そは一物も身につけず自然に融和する  

疎林幽鳥 
簡素無心
森閑美声
玄冬深々

古松(こしょう)般若(はんにゃを)談じ、幽鳥真如を弄ろうす。

古松 … 生えてから長い年月を経た松。
般若 … 真理を見抜く智慧。悟りの智慧。
古松談般若 … 大正蔵所収『人天眼目』では「古松搖般若」に作る。
幽鳥 … 山奥の深い所にすむ鳥。
真如 … 絶対不変の真理。仏性

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 冬樹一本

一本の木が立っている
何も身につけず
寒風にさらされて
その姿にうたれる
人間はいろいろ飾りすぎた
余計なものを作りすぎた
何も身につけず
一本芯の通った姿
その率直なるもの
その強さその堅さ
緊縮されたもの
無駄なく引き締まった姿
一本筋を通して天に伸びる
大地に強く根を張り
天に真っすぐに伸びる
そこに不純なものはない
自然に不純なものはない


the simplist tree 

straight up in the clear sky

the keen one 

the consistent stand point

the beauty with no waste

strength and strict    

the extreme purified form

the strongly rooted earth  



この漢詩と私の詩は共通している、 「門開孤樹直」とは冬樹一本に通じる、ただ漢詩ではその樹の内面性を追求していない
漢詩にたらないものが自然の事物の内面性の追求である、それはヨ−ロッパの詩ではリルケなど事物の内面性を追求した
ただ詩には世界でも共通したものがあるから理解できる、言葉の相違があってもやはり詩でも科学でも共通したものとして人間に理解できる

現代はグロ−バル化しているから芸術でも学問でも科学でも技術でもグロ−バル化する、それは別に悪いことではない
芸術などは学問でもグロ−バル化しても世界に被害を与えないのである
被害を与えるのは経済のグロ−バル化なのである、世界で極端な貧富の差があり為替の差がありそれが歪みをもたらしているのだ

自然をどうとらえるのか?前回にも書いた庭の石でもそうである、ここには無駄がない、その無駄のなさが心打つのである
その反面として人間はあまりにも飾りすぎ無駄が多すぎるのである、その証拠が膨大なゴミを出すことなのである
ゴミの山になる、自然には無駄なものが一切ないのである
自然に完全に融合して無駄がないのである

冬日さし組まれる石に無駄のなし

simple building stones no waste
with wintry sunny light

この石の庭作りは禅に通じている、石と砂しかない庭はシンプルであり清浄の極みになっている、そして禅僧の務めはただ日々庭を清めることなのである、つまり無駄なことをしないことが禅宗の極意なのである
そして仏像などの偶像を拝まない、装飾を華美にしない、単純にして明快にする
それはイスラム教の一神教ににているのだ、キリスト教装飾性があるからだ、黄金にでも飾られるからである
そこに仏教にもいろいろあるが禅宗にひかれるのである、雲水とかでもそうである

つまり文明はあまりにも装飾が過多になり無駄が多すぎるのである、膨大な無駄なものに浪費されているのである
だから労働すら膨大な過剰になり無駄が多いのである、労働過剰になりかえって自然は破壊されたのである
それは老子が2000年前に警告していたことでありもう頂点に達して限界になっている
ものがありすぎるともう人間はそれを物でも道具でも情報でも何でも処理できなくなる
それで断捨離が流行になるのもわかる、私自身も毎日買い物に追われる、何でこんなに買うものがあるのかと思う
毎日が買う生活なのである、料理もほとんど買うものでまかなっている
するとやはり金はかかる、でも手間が省かれれるから他のことをなんとかしている、プログでも書いているのである
家事は全部自分一人でしているからである

人間は今生活そのものを見直す時代になった、高度成長時代からバブル崩壊と物質の追求だった、これからは精神の追及なのである
原発事故もそうした現代のあくなく欲、物質追求の警告となったのである
これまで何度も書いてきたようにこの辺の人を見ても金、金、金しかない、金にとりつかれている
借金して家を建てる人も普通に多い、そして高価なマイカーに乗りたいとなる、さらに事業した人は自分を成功者と認めさせるために事業に失敗しても借金して自分は成功しているみせて借金を要求してくるのも怖い、それだけ欲望がむきだしになり制御がなくなっているのである、そういうふうに限りなく欲望追及てしてゆくと他人から奪ってでも欲望をみたそうとするし殺ししてまでも欲望をみたそうとする、そういう被害にあったからもう現代文明の人間は野獣と化しているのだ

日本人は礼節あって どうだこうだ礼賛してももうそれはない、ただ金を求めて他者を蹴落としてでもとにかく自分の欲望をみたすことしかない、ブラックになるともう他者はその欲望を満たす道具でしかない、人間とは見ていないのである
それは大会社でも銀行でもそうなっているのだ、医者でも患者はいらない薬でも飲ませるとかどこでもそうなのである
金のためにはそうして過剰になり無駄が多すぎるのである
そういうお前も金は欲しいだろうと言われればそうである、でも金を何に使うか問題なのである
私の場合今は自分だけに使っていない、金を与えている、別にそれほど金がなくても与えているのである

とにかくマイホーム、マイカーしかない、マイビレッジ、マイタウン、マイシティはない
ただ自分のマイホームとマイカーしかないのである
だから原発避難区域でマイカーで故郷を出てマイホームをいち早く外に補償金で建てたのである
つまりマイカーは外に出る道具でありマイホームは仮の住まいにすぎないものともなっていたのである、だからマイビレッジでありマイタウンであれマイシティなどの復興とか関係なくなっていた、なぜなら実際に復興に尽力したのは外部の人たちだったからである
これも現代文明の矛盾がここには極端に露骨に現れたのである
このことを批判したらきりがなくなる

だからとにかく現代の文明を見直す作業しなければもうもたない限界にきているのだ
それはあらゆるところでそうなっている、パンが贅沢だなどとは言わない
ただ欲望が限度を越えて増大してゆく、それはもう限界なのである
そして文明人は醜いのは装飾過剰となり無駄なものが多すぎるからなのだ
自然のものは鳥でもなんでもシンプルであり無駄なものがないからなのである
そこに美があり自然と融合したとき調和したときこそこの世に美はある
都会には自然がないから醜いものがそこにむきだしになっているのだ
それでヘシオドスの人間の暮らしを隠すことが自然と調和することだったのである






2019年01月21日

2019新年の漢詩もどき (今年の祈りの詩ー霊前菊花)


 2019新年の漢詩もどき

 (今年の祈りの詩ー霊前菊花)
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霊前菊花

白菊黄菊
清雅典雅
正月千両
霊前奉献
積善家生
長子継富
身心正者
弥栄和楽
満月皓皓
災厄無祈

これは別に漢詩ではない、日本的漢詩になる、漢字文化だから漢字の言葉の意味するものを日本人は会得している
でも難しくて作れないのでただ漢字を並べるのである
でも何か意味は通じているかもしれない、その意味を汲み取ってもらうほかない
漢詩ではないからだ

まだ正月だということでこの漢詩もどきを今年の祈り願いとして書いた
家族というのは死んでもやはり家に継続しているのである
積善の家というとき自分の家がすべてそうとはならないがそういう面はあったが負の面もあった、家はすべていいものとしてはありえないのである
影の部分を必ずもっているのである

つくづく家族がみんな死んでから家と死んだ家族を意識するようになった
ただ家を継ぐの遅かったのである、なぜなら自分すら死が近い年だからである
現代は百歳人生になるとすると親が90とか生きるのが普通となると家を継ぐのが本当に遅くなる、そのマイナスは新陳代謝できないことである
次の代の人がしたいことができないことになる
それは少子高齢化でどこでも起きているのである

ともかく今年はこの漢詩もどきのようにあってほしいとなる
災難がつづきすぎたからである
それは自分の場合は人間関係でもそうでありいろいろそのことで書いてきたけど辛いことばかりだったからである

今日はは満月だった、何か幸先がいいかもしれない、厄落としというのは必要なのだろう
これからは平和がつづいて欲しいというのが切実な願いなのである

2019年01月22日

投資の失敗の原因 (地銀でも利益を上げられず余裕がなく追いつめられていたから)

投資の失敗の原因

(地銀でも利益を上げられず余裕がなく追いつめられていたから)

なぜ投資が失敗したのか?
これも結果論だがふりかえればまず自分自身が投資の経験もないし知識もなかった
それでなぜ投資したのか?銀行の投資信託の誘いにのったのか?
それは利子がゼロとか銀行を地銀を信用していたことであった

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この人も親しまれていた人だったが地銀もこれとにていたのである

最近テレビで見たのが干し柿の会社に投資した人がいたがその会社は倒産した
この何か干し柿とにていたのが地銀だったのである
何か地元に根付いて一軒一軒回って営業して対面的に信用を築いてきたのが銀行であり特に地銀だったのである
干し柿というとき何か素朴な地域的なものを感じるからである
そういう会社はごまかさないだろうと思うからである
地銀もそれとにていたのである
だから一千万でも投資信託に投資させられたばあちゃんが損しても地銀の人を信用していたのである

ただ時代は常に変わってゆく、その変わり目にきたとき失敗した
地銀は第一苦しい、銀行自体が投資先がないとかAIとかで変革を迫られて大手の銀行は大量にリストラされる時代になっていた
銀行はもともと利子がゼロにゼロ金利になっていた
銀行はもう金を貸してその金でもうけて利益を出してくれ会社がない
だから高度成長時代のように利子がつかなくなった

そして銀行自体が余裕がないし追い詰められていた
なんとか他益を出させねばならないと投資信託をはじめたのである
それは金融庁で最近許可したからである
投資信託は銀行にとってた最高にいい商品なのである
まず契約して売れば絶対に銀行は損しない、株の値上がり値下がりともなんの関係もない確実に手数料が入る銀行にとっては最高にいい商品なのである
でも客にとってはいいものではない、手数料が高いし損することも普通にある
そして投資信託を理解できない複雑な仕組みになっている
月ごとにもうけが分配されるというのも嘘である、実際は元金からひかれていたりする
それも詐欺的なのである

別に株でも投資信託でも銀行で扱ったりそれが悪いこととはならない、なぜなら資本主義社会ではそうなっているからである、もし悪いとすれば資本主義が悪いとなってしまうからである、投資して利益を出すことが資本主義だからである
ただそのやり方が悪かったのである、詐欺的だったのである

「私は金融のプロですからまかせてください、私は東京の株式市場で働いたことがあります」
「銀行は金融のプロだからまかせていいのか、私は忙しいしいちいち株のことを見ていられない、だからまかせるほかない」

それで失敗したのがカナダ国債を買ったのは石油がカナダでとれていたからである
そういうことも知らなかった、最初は分配金が定期的に月ごとに確かに入っていた
でも急激に石油の値段が下がりこれはかなりの損失になった
次にUSーREITはトランプになり円安になり売って得したみたいだ

一番の失敗はリーマンショック以来もっていた株を丁度元にもどって上がっている時
J=REITにその金を回したことである、それから回転売買もしていた
銀行では一か所に置くよりそれを別に買ったり売ったりすると銀行の収入になるからだ
そして営業の人はノルマを課せられているから回転売買とか何か自分が成績を上げることしか考えていない
銀行自体が今や追い詰められている、余裕もないから詐欺的商品でもすすめる
収入先がなくなっているからだ
だからこうして追い詰められているとか余裕のない人間とか会社でもかかわると危険になる

結局これまで書いてきたように自分自身が介護や病気になったとき来た人たちは泥棒とか事業に失敗して借金に追われている人とかそういう余裕もない人だった
地銀もそうなっていたのである
それが自分自身をさらに不幸にしたのである

でもふりかえるとなぜ地銀がそうなったのか?
それは余裕がない、収入源がない、それで投資信託でもうけを出そうとする
でも地銀などには証券の知識は素人並みなのである
ただ株でも証券でも分散投資していればそれなりにリスクは逃れられるのである

国債
リート

とかに分散していれば安全度は高まるのである

それを銀行員が自ら破って自分のノルマの成績をあげるために株があがっているのに今度はJ-REITに回した、それも損していた
ふりかえれば株が元にもどったときそのままにしていればかなり上がった
そして上がった時売っていてJ-REITに回せばそれほどの損失にはならなかった
J-REITも損しているがそれほどでもなかったからだ
そうしたら地銀でも営業の人でも責めることはなかった
ただこれも結果論なのである、自分の自己責任もある

結局自分のところに来た人が悪かったからこうなったのかともなる
いい人が来ればいい結果にもなる、悪い人がくれば悪い結果になる
ただ銀行の場合は人といっても背後に会社の責任もある
だから銀行だからと信用できないとなっていた時代の変化を知らなかったからだともなる何か老人になると時代の変化についていけなくなる、それでだまされたり損することが多くなる

結局投資などしないでもっていた株をそのままにしていれば結構もうけになっていたのである、それも結果論だった
余裕がないとか追い詰められている人は会社でも危険である
手段を選ばなくなくなる、今日食べるものがないという人に出会ったら数万の金欲しさに殺されることもある、そういうふうに追い詰められた人間と出会うことは危険になるのだそれが地銀がそうなっていたことに気づかなかったのである

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2019年01月23日

投資は何の価値があり意味があるのかわからない (金は使ったとき価値がわかる)


投資は何の価値があり意味があるのかわからない

(金は使ったとき価値がわかる)


投資に何の価値があり意味があるのかわからなかった
カナダの国債を買ってなんの意味があるのか?
株を買って何の意味があるのか価値があるのかわからない
現代の資本主義は投資に何か価値とか意味を見いだせない

ただ利益があがることに価値がある

それ意外のことはわからない、そして現代の資本主義では金を使う時その価値が一般人でもわかる  

具体的には

●仙台の「優 創建」でユニットバスを100万で作ってもらった

●小高の大工さんに庭を作ってもらった

●ヤマハのjpy-xrを買ってその乗り心地に感動した  



仙台の優 創建に作ってもらったユニットバスは本当に得だった
まず古いタイル張りの風呂を壊すことから大変な作業だったしその後でも仕事を見ていたら大変だった、浴槽でも高いと見えたし全体で百万では本当に安い
なぜならガス会社では200百万かかるといっていたし地元だと300万以上かかっていた、なぜならその人は何もわからない、あっせんした大工さんは修理を頼んでも直っていなかったからである

次に小高の大工さんは優秀であり庭作りもできたしいろいろその他仕事ができた
だからこれも得したとなる、その後小高と補償金などでももめて頼まなくなった
でもその小高の大工さんは仕事ができる人だったのである

それから感動したのはヤマハのjpy-xrだった、これは今までのアシスト自転車とは違うものだった、走りが違う、バイクのように自動的に走るような快感があった
エンジン部分が進歩したのである、こんなに違うものかと驚き感動した
今までの倍速で軽く走れるからである

このように現代の資本主義はまず投資してもそれが利益があがれば得したとなるだけであり金を使ってみない限り金の価値も意味もわからないのだ
だから銀行があるとして地銀などでどういうふうに金を使っているのか?
どこに投資して地元の会社を育たているのか?
金を集めてその金をどう使っているのか?
地元に何かその金で貢献しているのか?それを見ると金をあづけてその金を運用して地元の経済でも活性化して貢献していると実感する

それは例えれば大金持ちがいたとしてその大金持ちが何に金を使うかをみる
ただ100億とか200億の収入のあった芸能人やプロのスポーツで金儲ける人などがいてもそれは豪邸を建てたとか何か自己満足で浪費して終わってそれで破産しているというのもその人が金を社会のために使いなかったからである
もしその金を有効に使う能力があったなら社会に貢献もできてそんな破産するような状態にならなかったからである

つまり金をどういうふうに使うかでその人がみれる、会社でも見れるとなる
いくら金をもうけてもその使い方が悪ければ知らなけれればそういう人に金をもたせても社会のためにならないとなる
それは銀行に言えるのである、銀行を大金持ちに例えればわかりやすくなるからである
そこには巨万の金が貯えられている、その金は庶民から集めたものなのである
ではその金を何に使うのだろうか?
今は利子などゼロである、貯金した人には利子として還元されないなのである
その金は貯金した人のものである、もし利益をあげないとしてたら預けた人は何のためにあづけているのだろう?
銀行は利益をあげられないのだからただ銀行は貸金庫なのか?
現実に貸金庫をしているからそれだけの用なのかとなる
銀行に金をあづけても利子はつかない、そして投資信託などをすすめられて損するだけだとなる、そうなると銀行は必要ないとまでなる

現代の資本主義はグロ−バルだからまず投資したとしてその金がどう動きどういう価値があり意味があるのかもわからないのだ
もし例え損したとしてもその投資することでそれが価値があり意味があるなら必ずしも損したとはならないからだ、それがグロ−バル経済では全くわからないのである
わからないからこそそこに不正があってもわからない
極一部の数パーセントの人たちに世界の富が金が吸い上げられている
ただ投資しても庶民には金は回ってこないのである
要するにグロ−バル経済では巨大なギャンブル場と同じようになっている
とても庶民がそこでもうけることはむずかしいから一般の人は手を引いているのである

投資信託などは毎月分配型とあってもそうはならない、それはだます手法だったのである何か月ごとに月給のように入ってくると錯覚させるからである
つまり投資というのは株でもそうだが極一部の人しか理解できないものなのである
グロ−バル経済になれば特にそうなる
ただ現代資本主義の価値を理解できるのは金を使う時なのである
株でも投資でも利益あげればその金を使うことでその価値と意味がわかる
その投資がどうしてもうけて価値が意味があるかはわからないのである
銀行ではだからいかがわしいものにも世界で投資している、武器とか何か環境破壊する会社にも投資している、だからやめさせるべきだということもわかる
投資には必ずも価値と意味があるものとは限らないのである
それでも金を使う時は具体的にその価値と意味を見出すのが現代の資本主義なのである

最初はウエバーのように資本主義がキャスト教から修道院から発したときは働くことが神に奉仕することでありまた社会に奉仕するということではじまった
そうして蓄えられた資本を消費する使うということに価値と意味を見出していなかったのである、それが逆になったのである
金を使うことでしかその価値と意味を実感できないのである
だからグロ−バル経済には何か見えないが大きな不正の温床になり世界の数パーセントの人が富をもつ異常なものとなったのである
それはグロ−バル経済は見えない理解できないものだからである
世界を市場化して公正のように見えてもそうではない

だから地銀などというと地元に密着して地元に金を流して投資して地元に貢献するものとして金を使う、投資するという使命で成り立っていると見ていた
地元の企業を育てて地元に貢献するのが地銀の使命であり貯金でも利子がつかなくてもそういう貢献をすれば納得することがある
そういうものが見えないし地銀でも利益をあげられないから投資信託などを売りつけ手数料商売をするようになったのである
すると地銀は社会にとって地元にとっても不要のものだとなる
だから金をあづけても地元のために使うわけでもないとなるからだ
つまり金があっても有効に使えるのか、それは個人でも会社でも銀行でも同じだったのである

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素人は一般人は投資ではカモだったのである
もうからない仕組みになっていてギャンブルと同じ
胴元がもうかるだけだった


posted by 老鶯 at 10:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

南相馬市鹿島区さくらホールにドクターヘリ来る(3時頃) (交通事故負傷者をのせて福島医大に15分)


南相馬市鹿島区さくらホールにドクターヘリ来る(3時頃)

(交通事故負傷者をのせて福島医大に15分)
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ドクターヘリが桜田山の上を旋廻

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交通事故負傷者をのせる
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浮上
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福島医大へ

キクチスーパーにいたら突然救急車がサイレンを鳴らして来た
それが桜田山の方に上った
するとヘリコプターが飛んできた
それはドクターヘリだった、それで桜田山に上りさくらホールに行くとドクターヘリが着陸していた

そこで運ばれたのは交通事故の負傷者だった
近くによると危険だと離れた
福島医大まで15分で行くというから早い
ドクターヘリは南相馬市だと最近できた脳卒中センターのビルの上にでも着陸できる
やはり速さが勝負になるとヘリコプターは威力を発揮すると見た
ヘリコプターの威力は速さにあった
福島医大まで緊急でもにあうからだ
中には緊急時の備えがあり患者をみれる、酸素も吸入できるとかなっている

ドクターヘリは実際は時々来ている、そのことを報告している人もいる
ただ今回自分が見たのは初めてだったのである
ヘリコプターの音がするときドクターヘリだということがある
ヘリコプターはあまり見ないものだから恰好いいと思った
ドクターヘリは緊急の時は頼もしいとなる

posted by 老鶯 at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

元トラック運転手が言う (車を運転する人は運転できない自転車の人を見下している)


元トラック運転手が言う

(車を運転する人は運転できない自転車の人を見下している)

その人は大型トラックの運転手だった、そういう人と良く会う
考えてみるとそういう人は仕事で東京を行ったり来たりしている
仕事の場が地元というわけではない、だから意外と地元で仕事したという感じがないのかもしれない、広域社会になるとそうなる人が多いのである
地元だけで生活している人は意外と今は少ないのである
第一農業とかに従事している人は一割にも満たないからである

その人は車を持っている人は車のない自転車を利用している人を見下しているという
運転もできない、免許もとれない劣った人だとしている
確かに身分証明書だって免許証が一番認められている
だいたい車が運転できないと仕事にもつけない、役所でも免許がないと就職できなとかなっている、そういう時代である

そして奇妙なことはなぜその人とは話すようになったのか?
それはその人が車に乗れなくなって自転車に乗るようになったからである
その人は足を悪くしてアクセルを踏み間違えるとか車を運転できなくなったからである
それで自転車に乗っているから自転車の話になって話せるとなったのである
それは前からであった、自転車に乗っている人とは話しが合うのである
自転車を通じて話せるとなるからだ、車だとそうはいかないのである
だから良く自転車に乗っている人とは私は話すのである

最近同級生が脳梗塞になりそれで自転車で散歩するので土手で出会い話すようになった
その人は車は運転できる、川子のパークゴルフ場に今日いたので話した
あそこまでは車で行ったのだろう、道具もあるからそうだろう
私の新しい自転車のことで話したのである
私は良くゴルフするわけではないがあそこは見晴らしがいいので自転車でたちよるのである、自転車で一周するのである

ともかく車に乗っている人が車に乗れない人を見下しているというのはわかる
何か欠陥があって車に乗れないのだろうとなるからだ
でもそれではスマホとかパソンコでインタ−ネットができない人を見下すということもある
60以上になるとインタ−ネットできない知らない人も多いからである
そうするとそういう人は若い人に見下されるともなる
でも車だけは老人でも多数が乗っているから違うものとなる
第一車が運転できないと結婚できないとか男としての立場がないともなる
女性すらみんな運転できるからである、女性に運転してもらとなると男の価値でも下がるとなる、男性が運転して女性をエスコートする、守るということで男としてのプライドが保てるとなるからだ

人間は歴史的に見てもそういうことは常にあったのである
何か道具とかをもつものと技術をもつものと持たないもので差別されるとか常にあった
それは国でもそうだろう、なぜ中国はあんなに技術的にも最低の国だったのにアメリカで通信分野で同等になり追い越すとまでなると中国人は優れている凄いなと見るからだ
技術の優劣によって人間の優劣も国の優劣も決まるとなるからだ

ただ老人になり車も乗れなくなったりするとどうなるのか?
その人はもう人間失格だとすら価値ないものだとすらなる
もし車が乗ることに価値あるとしたらそれがなくなればそうなりやすい
現実にそうなっている人が足を悪くして車に乗れなく自転車に乗るようになった人なのである
自分自身にしてもパソコンができるからプログなどで毎日発信できる
パソコンができないと何もできないとまでなる
第一いちいち雑誌のように出すとなると大変な作業になるからだ
もうそれは一個人で不可能なのである
インタ−ネットだったら気軽に無料でできるからしているのである

でも奇妙なのは別に例えば絵画でも文章でも詩でも作品でもインタ−ネットでなくてもパソコンを通じなくても発表できる、文章だったら本にしてでもできる
本当は絵画でも文でも作品でもその内容が問題なのである
内容によって優劣が決まるのでありパソコンでも道具にすぎないのである
ところが人間は道具によって優劣が決まってしまう
それは戦争でもそうである、核兵器をもつ国が強いとか優秀だとかなる

ただ車を持っている人が運転できる人が運転できない自転車に乗る人を一段低い劣ったものとして見ているというのも変だと思う
人間の優劣がそれで決められるのか?人間の優劣は道具をもつものとの差だったのか?
それは時代でも石器時代から鉄の時代になったとき歴史が大きく変わったように人間の歴史そのものがそうだったともなる
鉄の時代になったとき石器しか使えない人は原始人であり野蛮人にもなったからである
でも何が野蛮なのか文明人なのかもわからない

なぜならその道具をもって機械でもって大量殺戮してきた文明人が優秀なのかとなるからだ、それこそ野蛮人だったともなるからだ
だから道具とか機械とか知能でもAIとか進歩するけどそれを利用している人が優秀なのかとなるとわからない
つまり殺人兵器にも使えるし実際に使っている、人間はいくら技術が進歩してもかえって大量殺戮時代になったのが現代だったのである

道具とか機械でも一歩使用を誤ると取り返しのつかないことになる
この辺の原発事故がそうだった、自然環境が汚染されてとりかえしのつかない状態になった、一歩誤れば技術の進歩でも大きな災いをもたらすのである
今日も現実に交通事故の負傷者がドクターヘリで運ばれた
交通事故は毎日のように起きている、そしてドクターヘリなら車より超高速の時速200キロで福島医大まで運ばれたからこれも技術の進歩が成した
でも交通事故は本当に毎日のように起きている
車があるために事故は絶対に減らせないのである
ただ将来自動運転になれば減らせるのか?そうなったと違った局面を迎えるのか?

ともかく高齢化社会だなとつくづくち感じる、そういう人たちが増える時やはり交通の問題が起きてくる、車だけには頼れない、車が乗れなくなると弱者化されるからだ
すると鉄道とか自転車が見直されるのである
そもそもE-BIKEはヨ−ロッパで老人が体力がなくなっても自転車で楽しめる利用できるものとして作られたことでもわかる
ヨ−ロッパとかアメリカでは速度制限がないから30キロ以上で走ってもいいしバイクとして使っていたからである
つまり高齢化社会というのはそういう側面もあり社会自体を変えるものにもなる
それは必ずしも悪いものとはならない、今まで見逃されていたものが再び別な形で復活するかもしれない、それが鉄道でも自転車でも見直す契機になり車だけではないものの利用によって何か人間的なものを取り戻すということもありうると思ったのである

2019年01月24日

原発避難者を江戸時代と比較してみる (藩の外に出れなかった農民の絆)


原発避難者を江戸時代と比較してみる

(藩の外に出れなかった農民の絆)


時代劇で殿様が病気のために病気にさせられて家老が実権を握り藩を私物化する
過酷な年貢を課して農民からちしぼりとる
それに耐えかねて村の衆のためにと村の一人が直訴して死ぬ
その時庄屋とか名主も農民側に立ち戦う人となり死んだ人もいる
つまりそういう義民が

磔茂左衛門
(はりつけもざえもん)
(?―1682/86?)

義民の祭祀・顕彰―寛延三義民を事例に(福島県伊達の義民)
file:///C:/Users/yuichi/Downloads/1881-0187-2017-13-57.pdf

義民は非業の死を遂げたのでカミとして祭られる、地蔵としても祭られた
明治以降は自由民権運動が起こり義民が注目された

時代劇だと「村の衆のために」と犠牲になった、それを村民が死んだ後祭りカミとされるようになった
ではなぜこういうことがありえたのか?
それは当時の社会的状況が反映していたのである、何か事件でもその時代の社会的状況が影響している、芸術でも時代を見ないとわからないというときもそうである

江戸時代は移動の自由がない、藩から外に出れない、出ると殺されるということにもなるそれで相馬藩が飢饉のとき越中からの移民は藩を脱出するのに命がけだった
そねの物語が今にも伝えられている
つまりどんなに苦しくても不条理なことがあっても藩から村から出れない社会だったのである
そうなると年貢で苦しめられてもその村から出れないからそういう義民が生まれた

現代と比べるとこの辺の原発事故でなぜ村でも町でも避難区域にされてあっというまにゴーストタウンになったのか?
もちろん放射能の影響でそうなったといえばそれまでである
それ以上に現代は広域社会でありグロ−バル社会であり自由に行き来できる社会である
だから避難した先が淡路島だとか四国だとか日本全国に散らばったのである
嫁がそういう遠くの出身であることが当たり前になっている社会だったからである
江戸時代なら婚姻は近くの人である、戦前くらいでも近くの人が多い
広域社会というのは金さえあればどこに住んでいいという社会なのである

だから原発事故で避難したときその人たちが一番先に考えたのは村や町や市のことではない、まず自分のことであり自分の家族のことであった
だから多額の補償金をもらったときいち早く外に土地を買い家を建てた人が多い
その人は賢いとされた、なぜなら土地が後で高くなったからである
だからこんなに即断して故郷でも捨てるという判断ができたのはやはり時代なのである
土地に執着しない、みんな農民の時代とは違う、土地に縛られていないのである
だから逆に村であれ町であれ人の絆は希薄化ししていたのである 
つまりマイホームマイカーの時代である、マイカーとはどこにでも自由に移動する道具でありマイホームは自分の家族のことでありその家族とともにどこにでも移動するということで全国に散らばったのである
ただ家族と言ってもまた核家族化しているから親は老人は故郷に残されたのである
家族でも大家族ではないから家族の絆も夫婦とか子までの家族なのである

その矛盾として外部の人、遠くの人が助けるという矛盾が起きたのである
南相馬市でも補償金で分断された、内部は補償金でもめて絆はなかった
第一6年とか過ぎて東京からわざわざ仮設に住んでいた小高の人の引っ越しを手伝いに来ているというのも矛盾だったのである
何も近くの人に頼めばできたし補償金もらっているのだからそれで近くの人がやってくれる、頼むこともできた、引っ越しするだけでも必ずそのための金が政府から東電から出ていたのである、あらゆるもののに補償金がつけられていた、仏壇から何から何まで補償金をもらっていたからである 

ともかく震災以後、絆、絆とか盛んに言われたが内部の絆はなくなっいた
補償金でいがみ合いにもなったのが現実だった
ただではそれで原発避難民を特別なものとして非難することはできない
そういう時代に社会状況の中にみんな住んでいるからここだけに起きることではない
他でも一端こういうことが起きれば同じことが起きる
広域社会では金さえあればどこに住んでもいい、故郷であれその土地から逃れられない江戸時代とは違うのである
でも江戸時代だと義民が生まれたが今回の原発事故の避難民からそういう人は生まれないそれも時代であり非難することはできない、人間はみんな時代の子だからである
ただそのために村であれ町でも市でも絆はない社会である
だから逆に人の絆とか土地の絆とかもないから意外と村でも町でも市でも簡単にばらばらになり崩壊する社会に住んでいるのだとも自覚したのである
それがいい悪いとかではなくそういう社会に住んでいるということなのである



posted by 老鶯 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連