2018年12月16日

吉野の短歌連作十首 (短歌も俳句も写生が基本、実地にその場を踏まないと実感できない)

     
吉野の短歌連作十首

(短歌も俳句も写生が基本、実地にその場を踏まないと実感できない)

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 (吉野の花)

春に来て冬に来たりぬ吉野山あわれ深まる籠る人かな

散りやまぬ花の尽きぬや吉野山一陣の風花さらに散る

山に陽のかがよい今盛り花に染まりぬ吉野山かな

吉野山は花に染まりぬその色やまただずねてそ色を深めぬ

吉野山下りてあわれ枯木かな夕月いでて我が去りにけり

(西行庵)

吉野山何を残さむ落葉踏み山の間に月西行庵かな

西行庵残せるもののなきにしを山の間に月我が見て去りぬ

奥山の紅葉の下に細径や清水の湧きぬ泉に通ふ

清水飲み人の通ふや赤々と紅葉し奥の山の庵かな

(吉野宮)

修験者の吉野の古りぬもの寂びて山々深く秋の峰かな

吉野にそ都のありと秋深む流れとどろき天皇(すめらぎ)ましぬ

天皇を神と崇めぬその昔たぎつ流れや巌のそそりぬ

吉野川流れて遠く我が旅路行方も知らになりゆくならむ

冬深む光巌天皇そのみ跡たずぬ人ありその人も死ぬ

我が町に南朝の裔(すえ)只野なる姓をとどめて祭り司る 


●まず地理を知れ、実地にその場を踏め実感しろ

俳句が写生としたのは子規だった、でも短歌も写生が基本だとしたのもそうである
それはなぜなのか?
例えば一度も実際に見たことがないとかその場に立たないとかなるとどうしてもイメージの世界になる
するとそこに実際とは違うものをイメージするのである
地理のことを常に書いてきたけどそれは地理がわからないと歴史でもなんでも政治のことでも理解できないからである

外国でも一度その場を踏んだものはいくら学者でもその土地を国を知るとなる
だから今は庶民でも若者でも外国に普通に行ったり暮らしているから外国に詳しくなっているのだ、それは時代でそうなっているのである
だから外国をリアルに知っている人が多いのである
本を読んで知っているのではないから外国に行っていない住んでいない学者より知っているともなるのだ                                                  

私の場合は最初は奈良とか京都とか吉野にも回っていた、だから吉野にも二回か三回行っている、ところがそれが30年前とか40年前とかになっている
するとどうなるのか?
プログでばホームページでも書いてきたようにいかに思い出して書くかとなる
でもそれだけ年数がたつと記憶に残らなくなる、思い出せなくなる
それでわからなくなったのは確かに吉野山に行った記憶がある
それも自転車で行った記憶がある、でもどういう経路で自転車で行ったのかわからない
ただ確かに自転車で急な山道を登ったことは確かなのである
その記憶が明確ではなくなったのである

ただふりかえると私は本当に旅をしていたと思う
関西でも一か月くらいふらついて回っていたような気もする
ではなぜ今その旅をふりかえり短歌とか俳句にできるのか?
それはやはり実際にその場を踏んで見ているということである
それで記憶に残りふりかえり短歌を作る
それは全くその場を踏まないでイメージしているのとは違っているのだ
そのことで俳句でも短歌でも写生だというときその場を踏み実写する
イメージの世界で作らないから俳句でも短歌でも訴えるものがでてくる
                                            
●生駒山にも自分は登っていた

記憶が定かでないにしろ一回でもその場を踏んだことの意味はふりかえると大きかったのである

妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ吾《あ》が来る
  〜作者未詳(遣新羅使) 『万葉集』 巻15-3590  
  
  雲ふかきみ山のあらしさえさえて生駒の嶽に霰ふるらし(実朝)
  
 600メートルというと高い山ではないがやはり鎌倉時代とかなると今の世界とはまるで違っている、
家でビルで埋め尽くされるような大阪ではない、広い田野が広がっていたのだ、そこで600メートルでも高い山なのである
 この辺で一番高い山は鹿狼山(がろう)山だが400メートルくらいしかない
それでも阿武隈山脈には高い山がないから目立つ、目印になる
そして登山すると結構高いとなる、上れば太平洋が一望できる
そこで実際に生駒山でも上ってみると実感する
私はケーブルでも一回生駒山に上ったからこの実朝の歌が実感できるのである
霰ふるらしとなっているから実際は実朝生駒山に上っていない、でも生駒山を実際に見ている、ただのイメージで作った短歌ではないのである
                            
●西行庵にも行ったがその場を踏まないと実感できない

西行庵を訪ねたときも不思議だった、
こんなところに人が住めるのか暮らしていけるのか?
どうして食料を調達したのか山の奥で人家もないとしたらそうなる
ただ清水は近くに湧いていたから水は飲めるし使いるが食料をどうしたのかとか
人との交わりがっあたのかとみるとそこは修験者が修行する場であり
そういう人たちがいて交流があり食料も調達できたとなる
ただそこに西行が実際住んだかどうかは疑問であり証拠はないのである
西行が吉野に修験者と交じり修行したことは確かなのである
吉野の周辺では600メートルから1500メートル級の山がある、
1500あれば相当に高いが600メートル級だとそんなに高くはないとなる
ただそれでも鹿狼山りは高いのである
この辺のものたりさは高い山がないから何か気持ちがひきしまらないのである
山が平凡すぎるのである

関西でいいのは自然も歴史と一体化していることである
そこには日本の国造りがはじまったところであり早い時期から歴史の最前線であり舞台となっていたのである、
その歴史はだから古い、そもそも相馬地方だと歴史的人物が明確なのは鎌倉時代以降だからである
関西になるとその前からありそれだけ古さが違っている
そして歴史が刻まれたものとして自然も見るから一層味わい深いものになる
カナダの山よりペルーの山が違っていて美しかったというときカナダにはそうした歴史がないからである、
アメリカにもない、すると自然でも見え方が違ってくるのである
歴史があるところは人間と自然が一体化するのである  

●光巌天皇に注目した死亡した都築詠一氏

それから南北朝の時代では光巌天皇のことが注目された
それは都築詠一氏が光巌天皇に光をあてたことで私自身も注目したのである
でも残念なことにその都築詠一氏も死んだのである
インタ−ネットだけで知る人であり本も出していない、だから知らない人が多い
でも文学に造詣が深かった、評論家だった
極端な右であったが戦争賛美論者でもあったが文学に造詣が深いので感心して毎日プログを読んでいたのである

冬深む光巌天皇そのみ跡たずぬ人ありその人も死ぬ

本当に死んだということは重いことになる、なかなか光巌天皇を注目してその跡をたずねて行く人はまれである、ただ最後にその人に思い入れがあり訪ねてその後に死んだのである、光巌天皇と一緒に眠りたいとまでなっていた人なのかともふりかえる

吉野の魅力は人間の歴史と自然が織りなすものがありそれでそれがただの山ではないものになり魅了するのであり語られ続けるのである
この辺の霊山も南朝ゆかりの山でありそれはただの山ではないから違っているのである

ともかく吉野は色々に語られる場所である、この辺と歴史的に通じているのは後醍醐天皇が南朝を開いた場所でありその南朝と縁が深いのが福島県の霊山である
ここに霊山城があり東北の南朝の城となったからである、それは10年くらいだったが炎上して滅びた、その時逃れたのが今の南相馬市の鹿島区の先祖ともなっているからであるそれで只野氏のことを書いたけどその人も霊山から逃れた人だったのである
そして鹿島区には本当に只野という姓が集中しているのだ、50人くらいいるのだ
その只野氏は郡山の多田野村から霊山に来たものである、先祖は多田野村にある
鹿島区の真野の日吉神社には落ち延びて来た時の衣装をまとって踊る祭リか残されているそれで吉野の南朝とここも歴史的つながりを感じるのである

●万葉集の吉野宮の天皇の歌

俳句や短歌は実写が基本である、だから地理を知らなければ地形でも知らなければ歴史でも文学でも何でもわからないのである、実感できないからである
実感が大事だという時、どこでも何でも同じなのである
農業していない人が農業のことを語れないし、他でも実際に経験していないことを語れないし聞いてもわからないことがある
そこで相手に話を合わせられないのである、だから外から来た人でもその土地の地理を知っていないと話を合わせられないのである、地理とか気候がわからないからである

吉野町から川を上ると宮滝があり菜摘とかありそこが吉野宮となっていたこともどうしなのだろうとなるが古代の感覚は違っていた、自然に畏れを感じていてそれが天皇と一体化していたのである 

山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも 柿本朝臣人麻呂


天皇(すめらぎ)を神と崇めぬその昔たぎつ流れや巌のそそりぬ(自作)

湯原王、芳野にて作る歌一首

 吉野なる 夏実(菜摘)の河の 川淀に 鴨そ鳴くなる 山陰にして

この歌でもそうである、ただたぎつ流れとかどこにでもある、川淀に、山蔭というときあそこの場を踏んでないと実感しにくい、こんなに山間なのかとなるからだ
影になりすい場所なのである、川淀とかは淀むというときこれも自然のことではない、人間の心が淀んでいる何か悩み苦しんでいるとかとみる
そういう背景をから自然をみる、人間の心情が自然に反映されるからそこにただ自然だけではない人間をみるということにもなる
それを実感するにもまずはその場を踏むことなのである

夕明かり葛城山の遠きよりさせる吉野の花のもとかな(与謝野晶子)

葛城山から陽がさしていたのか?これも地理がわからないと理解できないのである

大峰や吉野の奥の花の果 曽良

この句は吉野の大きさ懐深さを句にした名句である、吉野は山が重なり深いからである

●半生を旅に彷徨いつづけていた自分

それにしてもふりかえると自分ほどあちらこちら旅して彷徨っていたなとなる
外国までそうだったのである、ただ外国は50過ぎてだから遅かった
そこでパリの東駅で安宿を探していたから日本の旅のつづきだったのである 
こうして旅できたのは家を守る家族がいたからだった
自由に旅させてくれた家族がいたからだった、その家族もみんな死んだとき痛切にそのことを感じたのである、まずこんなふうに生きられるということはなかなかない
今はただニートとか普通にいる、団塊の世代は貧乏から始まったからあらゆるものに欲望が深かった、会社の企業戦士になったのもやはりそれだけ貧乏から脱して豊かになりたいということがそうさせたともなる

でもその時みんな企業戦士になる必要はなかったかのである
みんなサラリーマンになる必要もなかったのである
ただ自分のような社会からはずれた人は極々まれであった
それが今になるとAIで仕事が職業がなくなるからみんなアーティストになる
そんなことを言っているのはなんなのだとなる
これまで日本人はただ働くことだけだったからである
それを否定できるのか?それも時代だとなる
時代が変わると価値観も変わるからである、自分のように旅ばかりしていたらそんな人は社会にとって認めない、
それが逆になっているのが信じられないとまたなるのである