2018年12月25日

冬深む(マウンテンバイクで近くを走る)


冬深む(マウンテンバイクで近くを走る)

kakiyashiroooo1.jpg

これは木守柿とは言えない、冬に木守柿とは二三個残っている柿である
この社は橲原の子安神社である

誰が守る社一つに木守柿

でこぼこの悪路を進み冬の草

悪しき道北風唸り押し進む

立目石ここに標しと冬深む

変わらざれ地に契りや冬深む

一羽見ゆ枯木林に四十雀

深野なるユッサに休む冬の暮

餌ねらう隙なき姿ノスリかな


玄関に風の唸りて舞い上がり木の葉の散るや向かいの人死ぬ


今日はマウンテンバイクで橲原(じさばら)から大原から深野(フコウノ)を回り帰ってきた
今度買ったヤマハのYPJ=XRで行動範囲が広がった、悪路でも行けるし舗装道路でもすいすい行ける、マウンテンバイクだから悪路に強い、悪路を走るとまた見えないものが見えたりする、橲原の田んぼの真ん中に立ったらあそこは森だったということがはっきりわかるただ今田んぼは荒地になっている

立目石は目印の石となる、何かこうして変わらないものに惹かれるようになった
動かいなということ変わらないということが価値がある
それはあまりにも一身上でも周りでも変わりすぎたからである
この石は変わらずにここにあるなというだけで何か安心するとなる

認知症の人は変わることに弱い、どこがどうだかも地理的にもわからなくなる
人でも今まで長くいた人は認識できる、わかるがずっと会っていないと自分の子供ですらわからなくなるのである
それは人間は去る者は日々に疎しになってしまうからである

向かいの知っている人も突然死んだ、それも驚きだった
玄関に風がうなり木の葉が舞い上がり散る、まさにそんな感じてまた一つの命が消えたのである

契る(ちぎる)というとき人と人ではなくその土地と契るということがある
人間は土地があって自然があって人間だということもある
人間の存在は自然とかその土地とかから離れてあたえないのである
そうでなければ人間の存在のアイディンティティは喪失してしまうのである


生協はやめたースーパーでほとんど売っているものだった (鹿島区には弁当屋がないので困る)


 生協はやめたースーパーでほとんど売っているものだった

 (鹿島区には弁当屋がないので困る)

生協は配達される度に200円プラスになる、そしてたいかいスーパーで売っていた
ニラの餃子のようなものを売っていたしナンもカレー付きで売っていた
スーパーを良く見ていないからわからなかった、そういうことが本当に多いのだ
どこに何があるから種類が多すぎてわからないのである
いがい生協で配達されるものはスーパーで売っていたのである
ただ時々郷土料理とか売っていないものは出していた
菓子類はスーパーとかに売ってないものが多かった
それは贅沢品だったのである、自分は菓子は食べない、その代わり果物を食べているからだ、糖分をとりすぎるから菓子は買わない
すると買うものを選ぶのが苦労になる、何も買わないと悪いような気もするからだ
でも配達料は200円は来るたびにとられている

それよりオカズになるように写真に出していたのは料理したものでありその素材だけ売っている、すると料理が手間になるのである
そこがパンフレットの写真を見て違っていたのである
試しにやってみてはということでやってみた
とにかく料理には一番困っている、簡単なことでも自分には簡単ではない
いろいろ料理はそろえるものが多くてめんどうなのである
料理に凝ったら他のことはできなくなる

結局生協では弁当を一週間に一回配達するがそれが良かったのかと思う
それはそのまま料理しないで食べることができるからだ
それは一週間ごとに違っているからだ
400円くらいだから安いご飯の量が少ないから足す必要がある
でも一応オカズは変わるからスーパーで売っていないものだからいいとふりかえり思ったでも一週間に一回ではたりないしそれだけにつづけるのも金がかかる

ただそれで弁当の配達をしているのをインタ−ネットで見たことがあり聞いてみたがそれをしているのは相馬市までだった、南相馬市には弁当の配達を定期的にしている所はなかったのである
それから今になって気づいた、鹿島区には弁当屋がないのである
前はあつみ屋があった、そこでは震災以後仮設で食堂を出していて何か野菜とかけんちん汁のようなものを出していた、だからいいいと思っていたがそれも三年前とかにやめた
ラーメンが主なはる食堂もやめて小高に移った、そこではご飯ものを出していた
カレーがうまかった

テレビで外食産業がつぶれているという、それでカレーでも毎日変わったものを出している所がはやっているというのもわかる
外食は飽きるのである、同じものだから飽きるのである
それでぜいたくになっているからつづかないとなる
でも毎日変わったものを出すということは作る方が苦労になる
それも大変だなと思う
スーパーの弁当は本当に同じものがほとんどでありこれも飽きるのである

原町辺りだと新しい海鮮どんぶり屋が500円で売っているのができたり何かいろいろ外食するのには便利である
鹿島区は弁当屋すらなくなっていたのである
それは需要がないからどうにもならないのである
相馬市まで宮城県の弁当屋が配達しているのはそこまで需要があるということでしいてる需要がないことには商売も成りたたないのである

ただ一軒残った自転車屋はそれなりに需要がまだあり成り立っている
それも需要がなくなればやめる、商売にならないからやめるとなり不便になる
そうなると町では不便になるがみんな車をもっているから原町で修理してもらうとはなるここは都市部の原町が近いからそっちは便利になるが隣の鹿島区は便利にならない
それは需要がないからである、そして別に車をもっている人は原町まで行けばいいとなるから今は人口の集中する都市の周辺は不便になってくるのである

弁当屋でもあってほしいと思ってもそもそも需要がなければ誰もやらない、損してまではやらないのである、でも何か必要なものがありそれがないと困る人はいる
それは自由競争の時代では考慮されない、需要のあるところに便利なものはできてその周辺部は不便になる、それは車社会であり広域社会だからそうなっているのである
地域でも人が集まる場所と集まらない場所があり差が生まれる
便利な所はより便利になり不便な所はより不便になる広域社会の矛盾があるのだ


タグ:生協 弁当屋
posted by 老鶯 at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月26日

日本の地理の基本 (関ケ原を境として東西に分かれる―琵琶湖の地理)


日本の地理の基本

(関ケ原を境として東西に分かれる―琵琶湖の地理)

日本地理東西.jpg

fuwanoseki1.jpg

sekigaharayuki123.jpg

関が原で東(あづま)と西に分かれる、これは気候的にもそうである
関ケ原は寒く春でもいつも雪が残っていた、でも関ケ原から近江に出ると春らしくなる
関が原を越えて近江に出ると気候的にも景色も違ってくる
そこは地理的境界線でもあったがまた歴史的境界線でもあった
つまり地理的境界線と歴史的境界線は一致していることがある
ローマ帝国はライン河ではばまれてゲルマン人の世界でありそこは地理的境界線でありまた歴史的境界線となった
そして今でもドイツ人はローマ帝国内に入らないことで文化的後進性があるというとき劣等感をもっているというときそうなのかと思う
ライン河をはさんで明確に気候的にも歴史的にも差が明確なのである

日本でも東はあづまであり明確に関が原が境界線なのである
東は関が原から東であり西と別れる、東はあづまであり歴史的にも違った世界である
日本のはじまりは縄文人が多く住んだ東(あづま)にあった
それが渡来人とかがおしよせて弥生時代がはじまり西が中心になったのである
だから壬申の乱でも

(わが大王の)きこしめす 背面(そともの国)の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮かりみやに 天降りいまして 天の下治めたまひ 食おす国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御軍士みいくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和やはせと 奉まつろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任よさしたまへば 大御身に 太刀取り佩はかし 大御手に 弓取り持たし 御軍士みいくさを 率あどもひたまひ 

背面(そともの国)とは後ろの背面の国となるのが東(あづま)である
ただそれは西から見た時そうなったのである
不破山が関ケ原に関がありそこを境として東西が分かれ国も分かれて戦ったとなる
その歴史は家康の関ケ原の戦いへと継続されていたのである
秀吉は西を勢力下にしたが家康は東だったからである
信長は名古屋であり近江に近く京都に近い位置にった、その地の利で天下をとったともなる、地の利が働いたのである、武田信玄には地の利がなかったのである  

ただ吾妻とはまさに我が妻であり東国の人が吾が愛しい妻を置いてきたからその方向が恋しいとして吾妻になったという、ヤマトタケルでもオトタチバナヒメを亡くした場所でそれが恋しとなり吾妻はやとなったとここで指摘している
これは方向感覚から生まれたものではない、人間が生き別れになるとかの人間の関係から生まれたものであり方向感覚からではない
それだけ吾妻という言葉は方向感覚で小野妹子が外国に国を示すのとは違っていて生々しいものだともなる、庶民感覚から生まれた言葉だともなる

ともかく歴史と地理は一体である、地歴である、だから地理が基本としてわからないと歴史もわからない、その地理には気候も関係しているそれぞれの土地に風土がある
今日テレビで天気予報で後に三日で寒気が来て雪がふると報道していた
その地図を見たら雪になる所は越前から関ケ原に伸びていた
なるほどあそこが雪になる、それから鳥取とか島根も雪になる
雪になる地域はあの辺なのである

それで不思議だったのは琵琶湖の湖西にいて関ケ原の方から太陽が昇ったときだった
方向感覚がわからなくなりここが西となっていたのは東から見て西になるからである
その後ろは比良の山である、西となるとき太陽が沈む方向だから淋しい感じになるのだ
ただ山からも日本では太陽が昇るから方向がわかりにくくなるのだ
私の住んでいる所は大平洋から陽が昇り山に沈むからそういう感覚でいると常に旅して山国に入ると違和感がある

地理が明確に境界線として意識するのはむずかしい、江戸時代は関所がありそれで境界線を意識させられたが今は境界線はなくなった
ただ地理的に宮城県と山形県は面白山がありそのトンネルが長くそれをぬけると山寺であり山形県になる、そこは春でも雪が残っているから関ケ原とにている
平坦な地だと境界線は意識しにくいのである
風土とというとき気候も違う、陽が昇る沈む方向もそうだが風も感じることが風土を知ることになる、この風は旅しても感じることができなかった
風はそこに長く住んでいないとわからない、太平洋から春になると東風が吹いてくる
北風と交互に吹いてくる、それで不運だったのは原発が爆発したのは3月11日でありその時東風が吹いて飯館村や福島市まで吹いて放射性物質を運んで汚染されたのである
でも海岸側は北風が吹くから海に放射性物質が流れて放射線量は低かったのである
ここでも風が影響して不運な結果になったのである

ともかく東西の関係は世界地理でも基本にある、東がオリエントになり西はヨ−ロッパになる、陽の沈む方向が西であり昇る方向が東である
西洋文明と東洋文明に分かれるのが基本にある、ただアジアは東なのだがイスラエルも東にありアジアなのである、だからここが混同しやすいのである
「日出ずる処の天子、書を、日没する処の天子にいたす」という小野妹子が遣隋使として言ったというとき隋の天子が怒ったというのも陽の沈む方向はさびれた感じになるからである
ヨ−ロッパでも西でありもともと後進国だった、イスラムの世界が先進国だった
でもやがてヨ−ロッパが先進国となる

明石城春の夕日に染まりつつ難波に暇なく船の行き来す

明石城に岡山県の方に陽が沈んでゆくのも不思議だったがふりかえると西の方向でありそれが鳥取とか島根の方向になり日本海になる、そこも雪がふると警告していた
そして韓国では日本海を東海といういう時、陽が昇る方向だからそうなった
日本だと陽が沈む方向になる、だから日本の大使が韓国の天子に遣隋使と同じように
「日出ずる処の天子、書を、日没する処の天子にいたす」と言ったら失礼になるのである
とにかく地理をしるというときその地理と歴史が一体化している
それで岐阜県があるとすると長野県の隣である、でも長野県は関東寄りだとしている
愛知県と岐阜県は東(あづま)でも西よりになり方言でも関西弁的なものが入ってきているともなるかもしれない。
ただ明確に岐阜県と長野県の境界線がわからないのである、つま明治以降の県単位での地理の把握だけでははわからない、江戸時代からの藩ごとの歴史を知る必要もある
それがベースになっているからである

いづれにしろ琵琶湖の湖西というときそこは何か淋しい感じになっていた、そこは大阪や京都に近いのだが淋しい感じになる、そして琵琶湖でも雪がふる地域は日本海に越前とかに近い方向である、その辺はあまり人も訪ねない秘境ともなっている
ただそこには行ったことがない、ただ家の作りも越前地方と似たものとなり文化が違ってくる、相馬藩と三春藩では家の作りが違っていたという時もそうである
江戸時代は藩ごとに生活していたから文化も違っていたのである

比良の山やまかぜ寒きからさきの鳰(にほ)の水うみ月ぞこほれる 実朝

何かこれは鎌倉時代だったら本当に淋しく月せ凍れるとなっていた
今はそれほどにはならない、繁華な水商売の地域もありそういう時代とは違っていても
何か湖西は淋しい感じになるのである
現代の感覚では淋しいという感覚が消失する、どこも騒がしいとなるからだ
鎌倉時代を想像したらそれこそ淋しい場所などいくらでもあった
ただ近江となると京都に近いのだからやはりそこが東北などとは違っていたのである

天皇(すめらぎ)の跡を守ると鳰(にほ)の湖(うみ)波し静かに冬の日暮れぬ

琵琶湖が鳰(にほ)の湖(うみ)とするとき感じが違ってくるのも不思議である
鳰(にほ)とはカイツブリであり渡り鳥だから冬の季語になるのか?
菅浦はそういう隠れ里ととしてある場所にふさわしいとなる
ただここには行っていないから想像だけになるからそういう俳句でも短歌でもいいものにはならないのである
ただここは湖西ではない、陽は湖面に反射して比良の山の方に沈むのである
それが何とも言えぬ美をかもしだす場だとなるとイメージするのである

2018年12月27日

琵琶湖周辺の秋の短歌十首 (近江は地理が琵琶湖中心でわかりやすい)


琵琶湖周辺の秋の短歌十首  

(近江は地理が琵琶湖中心でわかりやすい) 

biwakomap11112233.jpg

クリック拡大(はっきり見える)

housekofun1.jpg
高島の家形古墳

biwakomano1.jpg

iroribb1.jpg

さざなみの志賀の都も一時や消えてはかなき秋のくれかな

天皇も二つに分かれ争いぬくりかえしたる歴史の跡かな

争そいば誰か泣きにし人のあり争いやまぬカルマなりしも

堅田なる浮御堂かな松に寄り鴎群れ飛ぶ秋のくれかも

芦枯れて真野の岸辺や寺古りて誰か眠らむ鴎飛びさる

高島や家型古墳この地にそ根付き離れじ秋のくれかな

多賀大社古りにしものや我がたずぬ近江の秋や神々も古る

多賀大社伊勢より古しももうでしや月の光りて夜もけにけり

塩津にそ一時止まる電車かな枯木の駅に家のともしも

天皇の跡を守ると銀杏散る四足門に閉ざす村かな

閉ざされし村にありしと囲炉裏古り何を語らひ冬籠るかも


近江がいいのは琵琶湖があるためである、琵琶湖を中心にして地理もわかりやすいのである
まず山に囲まれたところは方角がわかりにくいのだ、一番わかりにくかったのはあいづである、ここは山々が重なり方角がわからない、なぜ東山温泉ときそこがなぜ東になっているのかわからないのである
それは京都でもそうである、京都はさらにわかりにくい、大都市だし山に囲まれていてわかりにくいのである、琵琶湖は近江は地理がわかりやすい
観光でも琵琶湖を周遊すればいいとなるからだ

ただ私は菅浦とか長浜方面には行っていない、そこが欠けている
でも近江は何回か行っている、春にも秋にも夏にも行っている
近江はやはり自然が豊かでありその中に遺跡などがあるからいいのである
多賀大社は伊勢より古いのである
そんな所までつくづく行っていたなとふりかえる

最初は30代のころ関西と東北を行き来していたのである
それで桜前線の短歌の連作のように桜を関西で見て京都で見てまた帰りみちのくで桜を見るとか桜前線をたどって見ていた、遂には稚内でも桜が6月に咲いたのを見た
それだけ旅していた結局30代以後は度に費やされたとなる
最初は鉄道の旅であり全国ほとんど隈なくのった、次に40代になり自転車旅行だった
次に50代で海外旅行でありそうなことしているうち60になって終わったとなる
こんなふうにして生きられたのも自分の家庭環境でそうなった
別に旅していてもとがめられることもない、かえってすすめられていたのである
今ならニートなど働かない人が普通にいるが団塊の世代ではまれだったからである

旅をりかえるとインタ−ネットができたことは便利である、必ず写真付きでどこでも紹介しているからである、菅浦に行っていなくても写真で紹介していた
それは晩秋であり四足門に銀杏が散っていたのを見て短歌にした

高島の家形古墳はどっしりとして貫禄がある、そこにも私は行ったがこの古墳は見なかった、何か見るべきものを見ないことが一人旅ではあるのが問題である
ここに訪れたのは私の住んでいる地区に真野の草原(かやはら)の万葉の歌が残っていて真野という地区に前方後円墳かありそこに金銅双魚佩が発掘された
これは一大発見だった、東北ではこうしたものが発見されていないからである
だから万葉の真野の草原(かやはら)という歌との関係がとりざたされたのである
なんらか奈良の大和王権によっていち早くここが拠点となった場所だったのである

なんかNHKの放送で菅浦のことを放送していた、そこに囲炉裏があり冬籠りにはいい場所だと見た、あそこは周りを山に閉ざされていて海に面している秘境なのである
でも天皇が一時住んだとか京都に近いから歴史が古いのである
多賀大社でも伊勢より古いのである    


著作権について

囲炉裏の写真はNHKの白洲が愛した近江とかの番組からとった、これも著作権違反になるのか?
何かインタ−ネット時代の著作権というのはわからない、どうしても引用がリンクとかでも多くなる
写真でもそうなのである、だからいちいち許可とるとなるめんどうだろう
創作的には一部利用していいのかともなる、でも一回だけ著作権で文句を言われたが言われないとそのまま使うことになる別に営利目的ではない、広告も出していないから収入はゼロなのだからかまわないのかその辺がわからないのである



漁業権が外国企業に売られる? (地元の漁業権は原発事故を起こした東電に売られていた)


漁業権が外国企業に売られる?

(地元の漁業権は原発事故を起こした東電に売られていた)

政府は6日、漁業権を地元の漁協や漁業者に優先的に割り当てる規定を廃止する水産改革関連法案を閣議決定した。養殖業への新規参入促進が狙いで、約70年ぶりの漁業制度の抜本的見直しとなる。臨時国会での成立を目指す。公布から2年以内に施行する。

 漁業法を改正し、漁業を営む権利である漁業権を都道府県が付与する際の優先順位の規定を廃止する。既存の漁業者が漁場を有効に利用している場合には優先的な扱いを続ける。
 公共の資産である海が売られる。新自由主義政策で漁業権が投資商品になり、大手外国企業も参入して買い占められ、魚の自給率が低下していく(堤未果『日本が売られる』) 

 <漁業権開放>漁村の資源管理が混乱 生活基盤が崩壊する 「お友達」便宜供与の実態(日刊ゲンダイ)
  
そもそも漁業権は法律的にどうなっているのかわからない、都道府県のもの自治体のものとしてあったのか?
不思議なのはこの辺では原発事故でわかったことは漁業権が東電に売られていたことである
そもでわからないことは東電で事故を起こしても漁業権を売ったとしたらそれを放射性物質で汚染されても文句言えるのだろうか?

漁業法を改正し、漁業を営む権利である漁業権を都道府県が付与する際の優先順位の規定を廃止する。既存の漁業者が漁場を有効に利用している場合には優先的な扱いを続ける

漁業権を都道府県が付与する

そうなのか?すると漁業権を付与するのは県にあったのか?

県→漁業権付与→東電に漁業権を売る→多額の補償金をもらう      

海が汚染されたことで東電と交渉→さらに補償金を増やしてもらえる

これも前から指摘してきたけど矛盾しているとなる
漁業権を与えたり売ったりできることが本来できるものかと疑問を呈している人がいた
それは釣りで楽しむ人だった、そういう人は漁業権がないから漁業組合に金をはらって釣りさせてもらっているからである
それで不満で言っていたのである

原発事故が起きるまで漁業も苦しいなと見ていたが実際はそうではなかった
原発事故前からも原発御殿が建っていたので関係ない人はうらやましがっていたのである原発は漁業組合の許可がないと建てられない、もして反対したら建てられないのである
でも東電に漁業権を売ったのである

既存の漁業者が漁場を有効に利用している場合には優先的な扱いを続ける

漁業権はそもそも東電に売るために与えられていない、とすると県でも自治体でも漁業権を売ることは許可されないはずである
県と自治体のものでありこの趣旨にそって保有できる権利なのである

漁業権を売ることは法律違反だった?

漁業組合でも県でも自治体でもそれを許可したことは法律違反だった?

このことを問題にしている人はほとんどないのも不思議である
なぜこれを言うかというと原発事故事故の被害が大きいからそうなった
誰に責任があるのかとも問われた
その裁判も行われて幹部が有罪にされたからである

そして今また漁業権が自由に外国人にも売買されるというのは何なのだろうか?

それは怖いことではないか?外国人に漁業権が売買されればどうなるのか?
原発でも建て安くなるという、なぜならそれを取得して売れば多額の補償金がもらえるからである
これも怖いことだなと思った,それに対して文句言うこともできない、権利を売り渡すのだからそうなる            

そもそも県とか自治体がなぜ東電に漁業権を売り渡したとき許可したのだろうか?

その辺の事情とか法律も明確化されていないのである

海は誰のものなのか?

土地は誰のものなのか?

これは私的に所有できるものなのだろうか?それは大きな疑問なのである
それは江戸時代にはなかったことであり山でも入会権があり共同所有で管理していたからである
明治になって過度に私的所有が認められて山は無数に分割されて公共的な安全工事も簡単にできなくなった、分割されているからいちいち所有者の許可が必要になったからである
海すら原発事故後に自分の前の海には権利があるとして主張したりした人がいた
避難区域では道も私道として自分のものだと主張して補償金を実際にもらった人がいた
それから猪苗代湖の湖畔の土地も所有者がいてバンガローなどを建てていた
そして自分が自転車で誤った侵入したら怒られたのである
なぜ湖の岸とか海でもプライベートビーチにできるものなのか?
その弊害が明治以降どこでも起きたのである、私的権利を主張してそれを認めすぎたのである

プライベートとは奪うという語源がありまさにそうなったのである、土地でも海でも山でも私的権利を主張されて公共的なものとしてあったのが所有されたものか私的に奪われて分割されたのである
第一海とか土地でも山でも分割できないものとしてある
だから私的所有になじまないのである、それは漁業者が海で生活しているのだから所有する権利があるというのはわかる、しかしそれは東電に売るものとしての権利ではなかったのである
だからどうして県とか自治体とかで許可したのか?
それとももともと漁業権者のもの組合のものだったのだろうか?
この辺の法律的なことがわからない
日本の資産が水でも水道でも民営化して外国企業にも売られるというのも危機であるというのもそうである
こういうことに意外と関心がない、水道も実際は運営するのに金がかかり政府では外国でもまかせてしまおうとしている
水でも公共的要素が大きなものでありそれでこれは日本の危機だとして指摘した本を出した人がいるのも理解できる






posted by 老鶯 at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年12月28日

「おしん」の再放送を見る (明治大正戦前戦後十年の庶民の生活は江戸時代の継続だった)


「おしん」の再放送を見る

(明治大正戦前戦後十年の庶民の生活は江戸時代の継続だった)

komoriii1.jpg

letterstudy1.jpg

学校に子守りして行ったが学校で学べなかった
奉公先で字を正式に覚えたのである



「おしん」の再放送を見た、これも古なった

『おしん』は、1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日まで放送されていた日本のNHK連続テレビ小説第31作。

これは34年前である、その時の俳優も若かったなとつくづく見る、その一人はもう70代で死んでいる、30代だと若いなと見る、女性は20代である
このドラマほど人気になったものはない、外国でも放送されるようになった

おしんは山形県の最上川沿いを舞台にしている、山形県は雪が深い、それがわかるのは仙台から面白山のトンネルを春にぬけるといつも雪が残っていることである
山形県と宮城県の境はここでは明確なのである
トンネルを抜けると雪国だったとなる、山形県は最上川がありそれが道となり酒田に通じている、そして酒田から大阪とに北前船で米が運ばれた道でありベニバナが運ばれた道である、それで山形市内には市が開かれた日にちの地名が多い
それだけベニバナなどが主に売られた市がたち最上川経由で運ばれたからだとなる
三日七日十日市とかあり常に市が開かれていたのである、それだけ取引が盛んだったということである

このくおしんを見てなつかしいなと見たのはこのドラマの内容が心に訴えるものがあったそれは私の父親が明治生まれであり双葉の新山で酒屋の丁稚奉公に出ていたからである
そして暖簾分けして今の土地に住んだのである
そして私もその跡を継いで住んでいるからである
丁稚奉公とは明治以降でも江戸時代と同じく普通にあった、子供の時から丁稚奉公に出された、松下幸之助すらそうだったのである
そこが学びの修行の場だったのである、学校でもあったのだ

それでなぜ私の父親が良く筆で字を書いたのかということを疑問に思っていた
どこで字を覚えたのかと疑問だった、それがおしんのドラマを見てわかった
おしんも字がわからなかった、それで奉公先で子守りさせられて学校にも行った
子守りしながら学校に通っていて嫌われた
それで学校には行かなくなったが何か字を教える人がいたり字を読むものがあり読んだりして字を覚えた、その後は奉公先で字を教えられた
そのことで子守りさせられた大正生まれの女性が子守りして学校に行けなかったと聞いたでも小説を読んで覚えたということを聞いたのでそういうことだったのかとこのドラマをまた見てわかった
丁稚奉公の先は教育の場だったのである、私の父親も丁稚奉公先で字を覚えたのである

つまり明治に代わっても庶民の生活は変わらなかった、丁稚奉公とは江戸時代からあったからである、そして明治になっても庶民の生活そのものはさほど変わらなかった
竈で米をたき炭を使い水は東京でも江戸水を使っていた、水道がなかったのである
私の世代は子供の頃、同じ生活をしていから実感がある
ただこのドラマを見て感じたのは死んだ父親や母親のことを家族をふりかえるようで懐かしく思ったのである

過去をふりかえるとき祖父母までは話に聞いても生々しいのである
でも江戸時代になると遠くなるから実感がなくなる
でもこのおしんのドラマでも東京に出たおしんが大正時代でも脚気になっていた
白米を食べられたのはいいのだが脚気になった、それは江戸患いと言われたものでありこれも明治から大正へと継続されていたのである
江戸時代の継続が明治大正戦前戦後の十年間くらいまで普通にあったのだ
ということは庶民レベルだと江戸時代と変わらない生活をしていたのである
違ったのは確かに学校ができたことだがそれでもみんな大正時代まで学校にも通いなかったのである、それは貧乏のためにそうなっていたのである


髪結いでもそうである、日本髪に師匠についておしんが働いたが、洋風の髪型に変わった時期である、そういう変化があったが日本髪はまだ基本としてあった
それからその頃米が経済の基本としてありおしんは米五俵ひきかえに奉公に出されたのである、それは江戸時代と同じなのである、米が貨幣だったのである
そのことを母が製糸工場の女工だったので米十俵とか賃金の代わりにもらって親に喜ばれたとか聞いた、その頃も米が貨幣代わりだったのである
小作と地主の話もこれは生々しいものとして残っている
そのことが当時の最大の農民の問題だったのである、格差の問題でありそれは地主と小作と明確に分かれていたからわかりやすかったのである
現代も格差社会になったという時複雑で何が格差を作り出しているのかわかりにくいのである

いづれにしろ親の人生は生々しいものとして子供に伝えられる、それで祖父母から聞いた話が郷土史になると書いてきた、それは生々しいものだからである
ただ戦争とかなると日常から離れているからわかりにくくなるのである
普通の生活ならわかるが戦争はとても経験した人でないとわからないのである
この辺では津波とか原発事故のことは延々と語られる、それは一時代が終わった時冷静に回想されるのである
その時起きた渦中にいると何か冷静に回想できないのである、あとでこうだったのかとわかる、それは歴史でもそうでありこうして親のことから昔を回想して歴史をふりかえる
こういうことはやはり老人に向いている
何か経験したことを実感しとて語れるからである、そのことで現代を見ると違ったものとして見えるのである
posted by 老鶯 at 11:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

外食産業がチェーン店もは時代のニーズに合わなくなった (手作り感や人間味が求められているー時代で変わる商売)


外食産業がチェーン店もは時代のニーズに合わなくなった

(手作り感や人間味が求められているー時代で変わる商売)

restrannccc1133.jpg


単純に言えば、家族でやってる3ちゃん企業は固定費や人件費がかからんのです。
店員が10人いたら、売り上げがあろうとなかろうと10人分の人件費は払わなくてはなりません。
大企業では本社などのスタッフ部門の給料も売り上げから捻出する必要がありますが、3ちゃん企業はもちろん本社は自宅なので、会社としてもオペレーションコストは不要です。

田舎の小さな店は、地縁血縁の固定客がいますので、細く長い経営が成り立っています。
大型チェーン店は一見の客が多いので、よほど味やサービスが良くないと長続きしません。


食事はめんどうだから外食するのが一人暮らしだといい、でもそれがチェーン店でもファミレスでも何か定量化されて決まりきっていて飽きる
それで毎回カレーでも違ったものを出している小さな店が繁盛しているのもわかる
しかしこうなると出す方も大変になる、決まったものを出している方が楽だからである
手間もかからない、機械的に作ればいいとなる
何かチェーン店は流れ作業のようにして食事を出している感じになる
客も流れ作業のように処理している、相手にするのは個々人ではない
数であり一人一人のニーズには答えられないからそっけないともなる

だからかえってこじんまりとした飲み屋とか食堂でも見直される
要するにそこにはチェーン店にはない魅力がかえってあるとなる
どうしても料理は定番化してくるから飽きる
そして何か変なのは自分は田楽が好きなのだがそういうものは出していない
あと鍋物を出していない、そういうのは自分で手間で作るほかない
どうしても料理を楽しみたっかたら手作りになるのだ

今何かあらゆるものが時代の変わり目に来ている
それは外食産業だけではない、マスを相手にしたもの大衆を相手にした定量化したものに飽きている、同じものを大量に供給することも時代的には合わなくなっている

そもそも情報産業すらそうなっている
みんなテレビの芸能人のばか騒ぎにはうんざりしている
テレビ自体が視聴率をとるために大衆を相手にしてそういう番組作りになったがそれも限界にきている、だからもう若い人は見ないのである
新聞だって見ないのである、キーワードで何でも調べるという時それはその人のそれぞれのニーズから調べているのである

新しい自転車を買ったらその備品を買うのが意外と多かった、ベルを新しくとりつけたとかサドルの痛くならないを買ったとかいろいろあった
それはアマゾンでぴったりしたものがあった、ただベルは一つは千円で買うの失敗した
それは今回買ったもののようにブザーのように音が大きく出なかったからである
それはキーワードを間違えたからそうなったのである
どういうキーワードを入れるかがいい買い物をすることになる
それからその人にあった情報もキーワードから導かれるからキーワード検索はインタ−ネットに向いている
テレビは一方的におしつけるメデアだからである

現代は何でも大組織になり経済が動く政治でも動く、だから大衆をマスを相手にしてきたマスコミ二ケーションだった、宗教さえそうだった
数を集めることが第一でありその人がどんな人かなど全く考えない
要するに一票になりそれで勢力をもって社会に影響するためにある
悟りだとか何か求道などとは関係ない世界である
ただ大衆相手に数を増やすことが第一でありそれで社会に影響力を権力を誇示するだけなのである

何か時代が変わる時がある、その変わり目に来ている
大衆相手マスを相手にするのは終わった、大量規格品の生産も物が豊富なのだから飽きられる、みんな同じだとしたら価値がないのである
そういうマスを大衆相手のものは終わってゆく
だから外食をするにも何かそこに一人一人に気を配ってくれるものを望んでいる
それでかえって小さな飲み屋がつぶれないでやっていけるというのも逆説である
それよりそういう小さなものでも見直されるものがあったとなる 

ファミレスとかチェーン店は高度成長時代とかその後の時代にあったものだった
家族で贅沢する場であり晴れの場を演出するものだった、それあ安価でできたということで全国に普及したのである
それも時代のニーズにあっていたのである
でも今はまたニーズが変わったのである、高齢化社会とかまたシングルが多いとかニーズが変わった、このニーズにあわなければ商売も成り立たないのである
ただそのニーズに合わせるにしても毎日カレーのメニューを変えることは容易ではない
でも時代のニーズに答えないと適応しないと商売もできなくなる
つまり社会も同じままに進行しない、必ず変化があり変化を望むのである

これからの時代は小さなもの、個人個人の好みに合わせるとか何か今までとは違った価値観が生まれる、すでにインタ−ネットなどではそうなっている
それは大衆相手ではないからである
だからマスを相手にしているマスコミとかはもう終焉に向かっている
それぞれの要望がありそれを基に情報も検索して探しているからである

これからの時代は逆に東京一極集中はなくなってゆく
地方に人は分散してローカルなものの中でそれぞれに合った生き方をする
つまり大量生産マスを相手にした社会は終わりになる
それは文化の時代にもなく、大量規格生産では文化ではないからである
ただ自分の場合は料理は手間がかかりすぎるからしたくない
簡単にすませたいのである、それで外食に行くからこんなことを考えるようになったのである

posted by 老鶯 at 18:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月29日

失敗した原発事故後の政策と処理 (飯館村に移り住んだ田中氏の指摘)


失敗した原発事故後の政策と処理

(飯館村に移り住んだ田中俊一氏の指摘)

iidatemurara1.jpg

文芸春秋に2018−4月号で意見を述べていた

●早期に避難解除すべきだった

●除染は表土をはぐのではなく下の土を入れ替えるべきだった

●放射性物質は各自治体が管理処分場を作るべき

主な意見はこういうものだった、早期に避難解除すべきだったというのは別に飯館村でも双葉とか大熊を除いてはそうだった
避難生活が5年以上になった結果若い人たちは他で生活するようになり仕事も他で持ち子供の学校にも入り別な暮らしになってしまった
他の土地で生活基盤をもつようになったら帰れなくなったのである
そして大家族で住んでいた人たちもみんなばらばらになったのである

そもそも小高などは海岸部は放射線量が低かったから避難させる必要はなかったのである0・5マイクロシーベルとであり浪江すら海岸部は街中でもそんなものだった
でも双葉に入ると7マイクロになっていたのである
つまり明確にブルームとなって雲のような塊りとなって飯館村の方に流れたからである
でも浪江でも全部を避難させるとかさらに長く避難させたことが失敗だった
30キロで強引に区切ってそこに生活しているものを全く無視して避難させたのである

除染に何兆円もかける必要もなかった、田中氏は放射性物質は各自治体で処理すべきだというとき運ぶと金がかかるからその金が外部のものに使われからだという
そのことは原発事故周辺ではゼネコンだとか暴力団関係者が来たとか地元の復興のために役たたなかったのである

表土は下の土と入れ替えるべきだったというのもわかる
飯館村に行けばわかる、田畑の表土はけずられ無惨な状態になった、荒廃したものとなった

放射性物質が付着した土をとりのぞくために、田んぼの表土を無闇にはぎとってしまったのです、土建業者に頼ってブルドザーではぎとったため重機が踏んだ土は硬くなってしまい水田として再生するのは容易でくなったのです

まさにその土地のことを良く考慮しないで検討しないでブルドザーで表土をはぎとる
津波の被害地では高台を作って住民を住まわせようとしても住む人がなく街が成り立たない復興できないというのも同じなのである
強引にその土地のことを人たちを考慮しないでブルドザーを入れて一方的に工事をする
それが権力をもつものの怖さである、早く復興するというのも必要だがこれだけの災害だと簡単にはいかない、時間がかけてやるということも必要だったのである
だからすぐには原爆のように被害がないのだから中核メンバーでも放射線の被害が少ない老人でも残るべきだったとなる、それを全員を避難させたり強引なやり方で自治体ずたずたにされたのである

そして多額の補償金を出したがかえってそれでそこに住んでいる人たちが分断されたのである、30キロで区切った結果原町でも深野(ふこうの)では牛を飼っている人が不満を盛んに言っていた、30キロで区切られるとそこで補償金の差が格段に違ったものとなるからだ
ただ一時飯館村で放射性物質を入れたフレコンバッグが雨で流れだした
するとその放射性物質が南相馬市にも流れてくる
土地はつながっているから飯館村だけの問題ではないからここは疑問である

このことはずっと私自身も書いてきた、避難させなくていい人たちを避難させた
避難解除を早くすべきだったのにしなかった
その間に避難者はギャンブルとかに興じて働く気もなくなり遊び人と化してもう補償金で暮らすことしか考えなくなった、特に老人はそうなった
早く避難解除して帰らせて復興のために働くべきだったのである

そして避難生活が仮設生活が長くなりそれが心まで荒廃させたのである
町を復興させるより補償金をもらうことしかなくなったのである
もし2年くらいで解除されていればまた違っていたのである
なぜなら農業は三年していないともうできなくなる、体が動かなくなると二人の経験者が同じことを言っていたからである、だからせいぜい二年が限度だったのである
それが5年以上になったもう復興できなくさせたのである
政府の失策が町でも村でも崩壊させたのである
それは原発そのものがそうだったのが事故処理でもそうだったのである

例えば被爆するとうときものすごく怖いものとして爆発したとき感じた
原子爆弾のように感じたからその時の判断が誤ったのである
被爆といってもすぐに広島のように人が焼けただれて死ぬようなことはなかったのである
確かに爆発したとき20マイクロと高かった、それも浜通りでは双葉大熊以外では0・2とか0・5くらいまでしかならなかったのである
それでも年に一ミリシーベルを主張して避難すべきだという学者がいた
それもわかるにしても現実生活がありそれを一挙に崩壊させることが間違っていたのである 

確かにその影響が10年後とか20年後とかさらに長く放射能の影響がある、ガンにもなるとかいうのはわかる、それでもそれは先のことだから科学者にもわからないことなのである町や村を崩壊させたらもともこうもない、だからまず町でも村でも維持するために残る人たちがいて良かった
例えば老人は放射能とあまり関係ないから避難しないで町や村を維持すべく働くべきだったともなる、現実に飯館村の人が老人には関係ない今までのように山菜まで食べていたのである、一律にみんな避難させたことが失敗だったのである

ともかくこの辺は津波もあったが原発事故が重なり家族もばらばらになったとか補償金では心が分断されたとかもう若い人は避難区域だったところには帰ってこないとか自治体をずたずたにされたのである
そしてその後の政府の復興政策もずさんであり良く検討もしないで成された
緊急性があり30キロで区切り全員避難させた、それも大失敗だったのである
それは政府だけではない、自治体自体もそうだったのである
何の手も打たない、ただ30キロで区切られて政府の言いなりになるだけだったのである
ただここでは政府と自治体の意志疎通ができていなかったことが問題になった
なぜなら桜井市長が左寄りの運動家で自民党に政権が変わった時意思疎通ができないとかなりうまく対処できなかったとも言われる
結局個人的にも日ごろの意思疎通がうまくいっていないと緊急の時対処できないのである
そのことを一番示していたのが事故の時吉田所長と東京の東電幹部がテレビ会議をしても意思疎通できなくなっていた、吉田所長は現場の監督であるから自分の意見を言ったが東京に住んでいる人たちと意思疎通できなくなっていたのである
いくら通信が発達しても離れているとそうなりやすいのである
だから原発は東京に作るべきというのは正論だったのである

そこなら近いし安全を監視する都民がいて東電の本社で四六時中監視できるからである
それができなかったのは一千万の都民が反対するからである
安全神話を作るくらいだからそれだけ安全なら都民を説得して原発を作るべきだったのである、それできないなら福島までもってきて作るべきではなかった
だからこれは都民の問題でもあった、福島に都民が電気の必要のためにおしつけたとなるからだ

そのために原発周辺はずたずたにされたのである
それは津波の被害地域でも政府の復興政策は失敗したと指摘する人もいる
何かそこの住民と密接に話し合わないで一方に決めたのである
そこに住んでいる人たちの言い分を良く聞かないで復興事業を開始した
でも土地を整備して嵩上げてしても人が住まないということにもなったのである
そこに住んでいる住民の意志は無視されていた、十分な話し合いもなく政府が強権的に政策を実行したためである
そして自治体側ても政府のなすままであり何か有効な対策をたてることもできなかったのである
ただ緊急の時はえてして付け焼刃のようなことをする、じっくり互いに話し合い検討できないからである、だからこそ政府は実行力があり権力があるのだからその上に立つ人により下も影響されて甚大な被害になるのである

saftynnnn1.jpg


posted by 老鶯 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

民主主義が機能しなかった (津波原発事故をふりかえる)


民主主義が機能しなかった

(津波原発事故をふりかえる)

saftynnnn1.jpg

この図のように民主主義とは情報を開示する、提示する
それをとにかく原発でもわからないなりにしてもらう
最初から安全ありきで安全神話を押し付けさせられたら
そこにはもう住民の意志がないのだから否定しているのだから
民主主義はない、民が主になることはないのである
それは独裁政治なのである

その情報によって住民が決めるとなれば民主主義である
でもそうなると住民に責任がある
責任は必ずこの世の中人間は必ずとらされるのである
もし本人がとらされなくても誰かがその責任を負わされる
それはカルマとにているのだ、他人のカルマの責任をとらされている人が普通にいるからだ

今回の原発事故は政府や東電が官僚や科学者が強固な「安全神話」作って責任は住民がとらされたのである、住民がもし情報開示されて住民の意志が反映されれば今度は住民の責任になる
それは戦争でも同じである、独裁政治のように一方的に政府の権力で強権で戦争するとなるとその責任は誰にあるのか?
住民には情報は開示されていない、日本は神の国だから勝利するとかを理由にしている
それは安全神話と同じなのである、絶対に事故は起こらない、絶対に神の国だから勝利するとなってしまうからである
そこにもう住民の意志もなにもない、神の意志があったとなってしまう

だから情報開示と話し合いとか討論とか選挙とかで住民の意志を決めるのが民主主義である、それがすべて正しいとかにはならない、その手続きが大事なのである
手続きを踏んで決める、独裁政治にはもう手続きも何もない、独裁者によって決められるとなるからだ

ただ肝心なのは住民も民衆も理解していないのはそうして決められたことは住民の意志とされ責任は住民にあり為政者にはないともなる、議員もあなた達が選んだ人だから投票した人たちの責任だとなる
ともかく情報開示と議論とかそうした手順があり住民が決めるのが民主主義である
でもその結果責任は住民にある、為政者にはない
でも今回の原発事故ではその手続きでも議論もなされない住民の意志もないものとして作られた、なぜなら政府の強権で実行されたからである
そして情報は「安全神話」を形成したからそれで何も言うなとなっていたのである
だからこそ住民には責任はないとなる
ただ民主主義で言論の自由はあるのだからそれを怠ったとは言えるのである

原発では情報を提供することもなかった、マスコミもしていない、巨額の宣伝費がマスコミにばらまかれたからである、マスコミも情報を伝達する役目があったのだが全くしていなかった、ただ宣伝費をもらっていればいいとなっていたのである
情報開示しないとなぜそれが民主主義ではないのか?
それは判断しようがないからである、いくら原発のことはわからないにしてもそういう判断材料すら提供されないとしたらどうにもならないからである

それで銀行でも同じだった、投資信託についての説明がたりないのである
私はプロですから証券取引所に勤めていましたからまかせてくださいと言って勝手に株が上がっていたのにリートの方に回して損したのである
それは任せた方が悪いというのもある、でもその人はプロでありまかせてくださいというからまかしたのである
医者だってプロなのだからやはりまかせる、命をあずけるとなる
なんでもわからないし時間をさせないからまかせたのである
でもそれが間違っていたのである
地銀などは証券でも投資信託でも何もわからない、素人と何にもかわらないのである
かえって危険だったのは分散投資していれば良かったのにそれを言っていたのに自ら守らなかった、それはノルマを課せられているから自分の成績を上げるために株が回復して上がっていたのにリートに回したのである
基本的な投資のルールを自ら守らなかったのである

これも別に情報を提示して説明してそれで客に判断させれば客に責任がある
それがプロですから全部まかせてくださいと言っていたからまかせたのである
「私たちは投資のプロではありません、投資のことを説明しますからそれで納得したら投資してください」と言えば納得する
その責任は判断するのは客自身になる、でも損しても責任はその時客にある

ともかく原発事故で政府主導は強権的であり独裁と変わりなかったのである
そのために甚大な被害を受けた、その後の処理でもずたずたにされたのである
それはますで住民の意向とかも聞かない、住民との意思疎通ができていない
そこに住んでいる人の意向と違ったものをブルドザーで一方的に飯館村の田んぼを荒らして土を硬くして回復させなくした
だから津波や原発事故では民主主義がなかった、そもそも民主主義がもともとなかったからこうなったともなる
住民側でも責任が課せられている、一番被害を受けるのはそこに住んでいる当事者だという自覚がたりなかったのである
それはその後の事故後の避難などでもそうだったのである
いく30キロでも区切られても何か南相馬市だったら対策があっていいのだがなかった
そしてずるずると5年以上も仮設暮らしになり復興手きなくさせたのである

iidatemurara1.jpg

posted by 老鶯 at 15:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

駅と高速のSAの違い (駅は会い別れる公共の場)


駅と高速のSAの違い

(駅は会い別れる公共の場
                            

今日も見ゆ保線の人や年暮れぬ

三人ほど帰省を待ちぬ年末の駅や我もともに待ちにけるかな


今日は年末だから三人ほど帰省の人をまっている人がいた
一人は浮田であり離れていても歩いてきた?
車で来たのではない、それでタクシーで帰るために呼んだ
携帯ももっていない、でも待っている時間に来なかった
それでタクシーにのって家に帰った

帰省の人は今頃だったらある、それで自分も一緒になり待っていたとなる
前にもそうして迎えに来たり送ったする人がいて一緒に見送ったりもした
それが無人駅だとしやすいのである、なぜなら駅員がいないから出入りが自由だからである
ヨ−ロッパの鉄道はみんなホームに自由に出入りできる
自転車も載せる車両があり直接ホームにでてそのつま載せることができる
あれができたら自転車で遠くに行くのも楽である
折りたたんだり袋に入れることもないからである
それが日本でできないのが残念なのである

ここで高速のSAと駅の違いに気づいた
高速のSAは人を出迎えたり送ったりしない
なぜなのか?
車だと直接家まで行ってしまうからである
出会いと別れは家にある、車はこうして閉ざされた他者を排除するものにもなる

なぜなら駅だと一緒に見送ったり出迎えたりできるが車は家に直接行くことができるからそういうことがないということに気づいた
この差も大きい、駅というのはそれだけ人間の出会いとか別れを公共的な場で演出していたのである

ただ私は駅をそんなふうに見ていなかった
機能的なものとして見ていただけである
でも何か家族が死んで待っている人もいなくなった、それで今度は自分自身が迎えたり見送ったりしているともなる
でも別にそういう人もいないのである

ともかく駅が鉄道がなぜ車と違うのか?それは鉄道は長い歴史のなかで人間の出会いとか別れとかまた何か人間的なものが情でもしみこんでいるからである
それが車との大きな違いだったのである
だから鉄道がなくなるということはそうして人間の出会いや別れなど情がしみこんだ場がなくなるから淋しいとなる
どうしてもバスとか車とかにはそういうものを感じないからである

今日も保線の人たちがきていた、毎日のように見かける、それが仕事なのである
駅にかかわったというのも何か不思議である
それはただ無人駅になったから偶然にそうなったのである
そして毎日寄るにしても30分いればいい方である
だから後は自分の創作とかプログとか本を読むとかできるのである
もう一時間だと長くなる
なぜなら家事に時間をとられるからである、全部自分一人でしているからである
だから暇なく何かをしているのが強いられているのが自分である
これだけの仕事をこなすのは大変なのことである
それも介護をしなくていいからやれたとなる