2018年12月19日

冬椿(津波の後の家の跡の祠) (年末で整理に追われるが整理できない)


冬椿(津波の後の家の跡の祠)

(年末で整理に追われるが整理できない)

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冬椿木立囲みて祠かな

冬の森静まり亡き冬の鳥

大石に冬日さし家の落ち着きぬ

年の暮様々な整理に追わるかな


朝静か庭に一二枚木の葉散る石の黙して下の部屋かな

津波跡祠残りて家の跡木立囲みて冬のめぐりぬ

津波跡住む人なしも椿咲く枯野の中の家の跡かな


枯野に木立が残り祠があり椿が咲いていた
ここに家があったということをなお示している
津波も8年になろうとすると何か残っているものも少なくなる
ここだげは依然として残っている
それもなんとかここに家があったということを示している

大石に冬の日がさすとき家も落ち着くとはなる
庭がいい大きな石がある家はやはり落ち着く
石もいつも見ている石とたまにみる石とは違う
石と人間は一体化してくる

家事でもやることが多い、家事に凝ったらそれだけで時間がとられる、特に料理にこったらそれだけで時間がとられる、それも無駄ではないが料理は時間がかかりすぎる
人間はそんなにいろいろなことに頭がまわらない
料理するとなるとその料理の材料をそろえるだけで大変になる
そうすると他のことができなくなるのだ
今は家事は全部自分一人でしている、すると家事だけで時間がかなりとられる
ただ外食はこの辺ではあきる、決まりきっているからあきる
それでテレビで毎日献立の違うカレーをだしているとか料理が毎日違うものを出す
それなら飽きないので繁盛している、でも出す方になるとさらに手間と苦労になる

本の整理にも苦労している、本は読む気力がないとなっていたが何か参考にするためにかえって前より買っている、そしてまた本がたまって困るとなる
本が古本でも安いから買う、高いのほとんど買わない、でも本というのは読んだのだが読んでいない、本を読みこなせていないのである
本を読むということは対話でありあくまでも自分自身のものをもっていてそれで思想なり創作を深めてゆくものだった
ただ一方的に読んでいても何も身についていなかったのである
だから本を読むということは相当な実力がないと読めない
今は本を評価できる、だから評論に向いていると思った
つまり本が何を語るのか作家が何を語りたいのか要旨をつかめるからである

とにかく物をもちすぎるとこれも困る、整理するものが多すぎる
着るものでもそうだし本でもそうだし道具類でもそうだしいろいろありすぎるとどこに何があるかもわからなくなる
そしてインタ−ネットのホームページも整理できない、プログも整理したいのだができない
意外とここがめんどうだと思った、膨大な量になっているから整理自体が大きな仕事になってしまったのである
でも何かインタ−ネットだと何かでウィルスとか何か突然の故障で消えるということで不安になる
だから本にして整理したいのだがこれもまたさらちにむずかしくなっている
本当に死ぬまで整理が仕事にもなる

いろいなことをしていることでそうなる、そもそも家事を一人でするにもそこから整理なのである
まず買うものが多すぎるからだ、生協に入ったらさらに買うものがふえて整理ができなくなる
それであったものを忘れ腐れせることが良くあるのだ
わかったことは冷蔵庫でも食料でも種類が多いから常に見ている必要があるのだ
それができないから忘れて腐らせたり利用しないままになっていたりする
それは他のことでもいつも目をとめて使っているものは忘れない
でも人間一人でやることには限度があるなと思った

2018年12月20日

本の読み方 (本は長すぎるから抜粋して読むー自分の課題を解決するために読む))


本の読み方

(本は長すぎるから抜粋して読むー自分の課題を解決するために読む))


ブログを例に見ていきたいのですが、引用してきた文章がメインで、自分の文章がほとんどないという場合、もはや「引用」とはいえないと評価されてもやむをえないですよね。ちゃんと自分のコンテンツをより分かり易くするためとか、自分の意見を補足するために「引用」は使いましょうということです

これは著作権のルールだけど別に本を読むときもそうなのである
本を読むということは自分の文脈で読む、自分自身のテーマがあり課題がありそのために本を利用するという時本を読んだことになる
相手の心を読むというときもそうである、私は本をずいぶん買って読んだと思っていたがそうではなかった、確かに赤線とかで大事な所に線を引いているのだが読んでいるのだがそれを忘れていた、ええ、こんな文を読んでいたのとなる
本を読んだということは自分なりに解釈して自分なりのテーマがありそれで自分なりの見解を出すために読むのである

そしたて本の問題は長すぎることである、一冊の本でも厚い、内容があると厚くなる
すると全部を把握することはむずかしくなる
厚い本は読みにくいし全体を理解することがむずかしくなる
若い内はただ自分なりに読んでいるのではない、いくら内容があっても読めないのであるだから読んだと思っていても読んでいなかったのである
今なら本の要旨を読むことができる、これはだいたいこういうことを言っているのだとさーと読んでかる、そして重要な部分を抜粋して引用して自分なりの論を展開できるのである

そして本の問題は長いことなのである、長い本は長い本をはよみこなすことが容易ではない、一冊の本を読みこなすことが時間的にも労力的にも負担になるのである
だから本として書くということは容易ではない、まとめることが容易ではない
なぜこんなに自分自身がインタ−ネットとかプログで書けたかというとその日その日のことを書いているからである
今日の分を書くから書ける、でもこれが本にしようとするとめんどうになるのである
インタ−ネットだともともと長い文は嫌われていた
レスポンスが主な会話形式だからそうなった、そしてもともと中味のあることを会話してはいない、パソコン通信の時は相手に通じているかどうかもわからないからまず通じたかどうか確かめることが優先されたからそうなった

でも次にインタ−ネットだといくらでも書ける時代になった、でも長すぎる文は嫌われるそれで意外と学者が出しているpdfの小論文は役にたつ、自分のテーマを追求するとき役に立つ、それはやはり専門家が書いているからである
そしてプログだとそれなりの長さで書けるから内容の濃いものも出せるのである
それも日々書くということでそれも積もり積もって膨大な量となるのである
でもそれを本にしようとするとめんどうになる
ただ本は内容が濃いものが多いから参考になる、でも自ら本にしようとすると長いからめんどうになるのである

そして自分の不利だったのはそもそも自分の追求している本が手に入らなかったことだった、地理と歴史に興味がある時、海と陸をテーマにした本があった、それをテーマにした本が結構でているから有名なの一冊高いけど今回は買った
例えば世界史でもなぜヨ−ロッパが興隆したのか世界の覇権国になったのか?
こういうテーマをもつ、すると古代ではペルシャがギリシャに負けたのは海での戦いで船での戦いで敗れた、ペルシャ帝国は陸の帝国だった
そしてロシアも陸の帝国であり常に海に出る港を求めていた
それが黒海でありそこでクリミヤが大事となり今でもヨ−ロッパ勢と争っている
シリアでもそこが地中海の港であり海に出るところでそこを手放したくないということでシリアの内戦とかisisとの戦いにもかかわってアメリカとも争うとなる

ヨ−ロッパが覇権国になったのはポルトガルでもスペインでもイギリスでも海に出たからである、フランスとドイツは陸の帝国だった、中国も陸の帝国でありだからこそ東シナ海を制覇して港を軍事基地を建設する
それでアメリカと対決するようになる、海を制覇しないと覇権国にはなれないからであるそれは歴史が語っているのである
こういうテーマをもち興味があるからその方面の本を読もうとする
するとその時本を読んだことになるのである                                        

明確な目的意識がありそうなると本は血肉となる、ただなんとなくだらだら読んでいても読んだとはならなかったのである
そして無駄な本を読みすぎたということもある、熱心に読むべき本を読んでいなかった
本というのはいつの時代でも量が多かったのである

いづれにしろ本を整理するだけで多すぎるからめんどうになる、本はがさばるから困る
二階に書斎があり置いたが家が傾くとまでなっていた
本はそれだけ重いのである、書棚から本が落ちて死んだ人も外国でいたとかある
確かに地震で重い本が落ちてあたったらそうなる
本の問題はがさばり重いことなのである、インタ−ネットのように電子化するといくらでも貯蔵できる
ただ本には本の良さがある、読みやすいとか記憶に残るとかはある
インタ−ネットは調べるのにはいいのである

ともかく本だけではない、自分の物を自分のオリジナルをもたないと本をも読めない
それは絵画でもそうである、鑑賞はできるにしても自分で絵を描けるのと描けないのでは雲泥の差が生まれる、それで自分で抽象画をパソコンのソフトで作った時自分で感動したことでもわかる、全く絵を描けないのに描けたという感動である
これが絵と言えるかどうかはわからないにしてもそうだった
それは音楽でも楽器を一つでも演奏できるのとできないのではまた音楽に親しむことで雲泥の差が生まれる、一時電子楽器で試してみてそれも感動したことでもわかる
全く自分は音痴であり音楽に興味があるとしても聞くだけだったからである

だから本でもこれと同じなのである、ただ何か読む方で積極的に働きかけてそこから自分なりの論を展開してゆくために読むとき活きてくるのである
そうてないと何ら読んだことにならなかったのである


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冬の森の鳥(詩) (自然と調和する時美しい―自転車も調和する)


冬の森の鳥(詩)

(自然と調和する時美しい―自転車も調和する)

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a bird is peaching out keenly in the cold air

the running byecicle against north winds


鳴きひびく森鎮まりて冬の鳥

寒鳥の鳴くや走りて風唸る

寒き駅帰省の人や分かれけり


ヤマハのypj-xcは優れものである、それがなぜなのか?
バイクに近いということである、前のアシストはバイクにはならない
なにかやはり自転車であり自転車の領域をぬけだしていない
それでなにか30万とか新しいものを出してもづとろこしいという感じになる
今度のドライブユニットがエンジン部分が前のとはかなり違って新しものである
新しい技術になり快適にすすむ、なにか自転車をこぐというより自走している感じになるのだ

それで今日も原町に北風が強く吹いて唸っていたがそれでも馬力がありすいすい進むから行けた、今までだとなかなかこうはすいすい進まない
だからこれはバイクに近い、車体も大きいから何かバイクに乗った感じになる
ただ自分はバイクはにはのれない、ここで俳句とか作るとなるとやはり自然を感じないとできないからである
風を感じたり景色を感じるにはバイクだと早すぎるのである
とても景色を見て走れないのである

車だとまた季節感がなくなる、車の中はいつも心地よい空間であり寒いともは感じなくなる、風を感じないから季節感もなくなる
車を乗っていないから私はわからないにしても何か風をさえぎり季節を感じなくさせるのである

今度の自転車は今までのとは違う、倍速になり軽いし安定感が大きいからある
これなら遠くへも行けると思った、北風を受けても走れる
すると行動範囲が広がる、道が悪い所でも行けるから自分にとってはいい
それで道の悪い所に入り森があった
そこで一羽の鳥が鳴いていて感じるものがあり詩にした



鳴きひびく森鎮まりて冬の鳥


冬の森の鳥

誰もいない
何も聞こえない
・・・・と思ったら
静まる森に
一羽冬の鳥が鳴く
その声が森にしみいるように
ひびきてまた森は静まる
その声は森の奥深くまでひびく
そして森はまた静まってゆく
沈黙の中に音がひびく
そしてまた沈黙する
それは騒音ではない
森と調和した神の奏でる音楽である
ここに雑音を出すな
その災いの口を閉じよ!
その声は森にしみいる
自然と調和したときなべて美しい
それは絵であり音楽となる
神はそこに妙なる楽を奏でる


これは近くの土をとって道が悪い所を上ったら森があり鳥が鳴いていたので作った
俳句や短歌から自分の場合は詩に発展する
自然と調和するときそれは絵であり音楽なのである
人間社会は自然と調和しないからいくら都会でも繁栄したとしても醜い限りになるのだ
東京などがどうして人間の成果となるのだろうか?
いくらそこで経済だけを指標としているだけである
ただそこで技術開発する人がいて今回のように優れた自転車を作ればそれは田舎でも反映される、技術の恩恵に自分でも欲することができたとはなる



2018年まで自分自身に起きたことをふりかえる? (2019年以降は経済の悪化で日本が乱れるー でも自分にとってはいい年になる?)


2018年まで自分自身に起きたことをふりかえる?

(2019年以降は経済の悪化で日本が乱れるー
でも自分にとってはいい年になる?)


そもそも自分自身に起きたことそして回りで起きたことは何なのだろうとふりかえる

●津波(大自然災害)
●原発事故(大科学技術災害)
●介護(認知症に親二人の介護)
●自らの病気(入院二回に手術一回
●盗難の災難
●借金している人から責めら脅迫される
●投資信託の失敗(地銀の勧誘のため)

このことをプログで10年間書き続けてきた、なせこんなことが自分に起きたのかとか本当に思う、それは自分だけではない、周りでも起きたことである
ただそれに自分の一身上の問題があり悪いことが二重に三重にも重なったのである
本当に自分の病気は辛かった、身体障害者のようになり一人だから助ける者もいない
金銭的には余裕があったがその金をねらってきただけである
親戚でも別に親戚とも言えないから事業に失敗した人だから自分の家ががたがたになったとき金を得るために脅迫してきたのである
借金した人の怖いのはモラルを失うということである
自分自身のことで精一杯であり相手のことなど考えられないのである

自分に起きたこことはまさに津波の惨状とにていた、そういう信じられない地獄が現実化した、それは津波の結果ではない、人間がすでに金、金、金でモラルを失っていた
みんな金を求めるだけで野獣と化していたのである
それで相手が弱者になると金や財産を奪うことしか考えない
それが自分の病気のときに介護の時に家ががたがたになったとき財産を奪うと金を要求する好機となる、それはまさに弱った動物が最初に餌食になるのとにていたのである
弱肉強食の世界を身をもって体験したのである

そして小高の人たち仮設に大勢入ったけどもそれも異様なことだった
その人たちは突然おしかけたけどそして外部からかわいそうだとして毎日のようにボランティアが炊き出しとかいろいろ援助しにきた
しかし自分も塗炭の苦しみにあったが誰も同情しない、ただその弱ったことをいいことに責められるだけだったのである
そしてその原発避難者は何をしていたかというと毎日パチンコでありギャンブルに興じていたのである
家に来た親戚の人は借金してパチンコ屋で働いていたのも異常である
自分は苦しんでいてもそっちの方でで金を得るために奴隷のように働いていたのである

何かこれはなんなのだったと思う、まさにこれは自分だけではないもう末世が来た、世の終わりが来たのかとも本当に思った
ただ南相馬市は補償金で分断された、小高の人たちはこんなことういうと怒る
俺たちはかわいそうなのだ、なぜ鹿島の人は金のことばかり言うのかとなる
それは当然であり鹿島の人は情もなにもないのか?
そうして南相馬市は心が一致しないから復興もしにくいとなったのである
それは原町区ともうまくいかないとなったのである
それも元を正せば金の問題だったとなる
ただこれは自分のカルマだった、何か自分が楽しすぎた結果としてこんな悲惨なことになったのである、だから周りの責任ではなく自分自身のカルマだったのである
カルマはいづれ必ず苦しみとなって現れるのである
だから他者を自分は恨まない、それぞれのカルマが苦しみとなって現れるのである

2019年がどうなるのか?それは明るい面は見えてこない、すでに物価があがっている消費税もあがる、すると年金暮らしの老人は苦しくなる、老後破産とか下流老人が問題になったけどそれはますます深刻化してゆく
なぜ知っている人が青森の施設に移されるのかとなれば青森では女性の職がない介護関係で職にありつくためだという、前から青森は出稼ぎの県だったからである
今度は人手不足がどこでも深刻化している、この影響も大きい
この辺では施設で空き部屋が多いというしかし働く人がいないのである
介護士が不足している、それは福島県全体でそうなのである
建物があってもそこで働く人が確保できないのである

日本はこれから経済的に窮迫化してゆく、それが余裕ある人には関係ないように見えても関係してくくる、それは自分自身が証明している
金のない窮迫した人間は襲ってくるということである、だから金持ちは日本に住めなくなる、海外の余裕ある金持ち住むのにいい場所に移住した方がいいとまでなる
自分は金持ちでもない、その暮らしは普通であり贅沢などしていない
もともと自分は旅行しても贅沢な旅など一度もしたことがないのである
海外旅行でも50歳でバックパッカーだったからである

いづれにしろ2019年以降は経済が悪化する、株も下がる、アベノミックスなど見せかけであり日本の経済は悪化している、それがさらに高齢化とか団塊の世代の2025年問題、75歳以上になると病気と介護が増えてくるからそれが全国民の負担になってくる
つまり福祉や医療費が膨大になってくるのだ
なぜ知っている人は仙台に行きまた東京の病院にいて1週間もいて金がまたなくなった要求される、その人は薬も飲んでいる、そんなに金を使っていたらどうなるのか?
それを自分に要求されてももう払えないのである
医療費、福祉の費用はもう国でも負担しきれなくなるのだ

するともう介護は在宅でやれとか税金ではやれないから家族でなんとかしろとなり今や家族全員で何か地域でもみんなで共同してやれとかなる
まず医者にかかると病院と施設は設備から人件費から金をかけすぎているからだ
もうそんなこと成り立たなくなる
愛が慈悲がというだそれは余裕があるときそういえるのである
そしてそれに甘えすぎるのである、ただ俺は苦しいんだから弱者なのだから保護すべきしかない、弱者は要求するだけでありそれに答えないとお前には情がないのか冷たいとされる、そういう社会も問題なのである

平均寿命でも余命から計算すると90歳が平均になるという、つまり60歳生きたら90歳まで生きるとなる、それだけ年金はもう払えない、だから年金も減らされる
実質的に物価が上がり消費税もあがるからかなり目減りするのである
するとぎりぎりで生活する老人が増えてくる、もう手厚い福祉はできない
生活保護でも減らされる、家族で助け合いとなる、また地域とか老人同士で助け合いとかなる、自分はそうさせられている、なぜなら家族もなく一人だから援助しなければならない人が必要だとなりそうなった

2019年以後は明るいものが見えない、オリンピックも一時的なものでありかえってその後は日本は衰退の一途をたどるとされている、それよりオリッピックなどするべきなではなかった、オリッピックをしたかっのは電通とかそれで利益をえる人たちだけだともいうのもわかる、オリッピックには今はなんの意義も見いだせないからである
そのオリッピックでもうけるのは電通だとかマスコミだとかそれで利権にあづえる人ただけだともされる、第一国民の総意でオリッピックは招致されたのではない
高度成長で日本がオリッピック開いた時とはあまりにも時代が違っているからだ

ともかく悪いことしか見えてこないが奇妙だが自分にはとってはいい方向に向かっている介護でも終わり余裕ができた病気でも快復したからまた前のように活動できる
それでヤマハの新しいマウンテンバイクは技術的に進歩したものでこれならまた遠くへ行けると思った、これによって行動範囲が広がる
それは自分にとって大きいし大きな喜びをもたらしたのである
それはバイクであり自走する感じになるから前のアシスト自転車とは次元の違うものだったからである
それで自分にとって来年は明るい年になる
だから日本全体とかなると暗いことしかみえないのだが自分にとってはそうはならない

そして自分は亥(いのしし)年でありまた猪突猛進してゆくにふさわしいともなる
つまり自分にとって10年は凶運でりどうにもならない10年間だったのである
それで相当に消耗してしまった、だから旅する気力もなくなっていたのである
でも新しい自転車も買って来年は年であるが最後の活動ができると思った
だから自分にとっては来年は明るい年である
ただ日本全体とか世界を見ると不穏なものがありいいとはならない
それが個人的にも影響してくるから明るいものにならないのである
いくら自分がいいとして回りが借金だらけとか窮迫していると実際に自分が襲われたように安閑とはしていられないからである
そういうことで日本には明るい未来が見えないのである
ただ自分にとっては最後の力をふりしぼって活動する年にはなる

posted by 老鶯 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年12月21日

カルマは公正に配分される (原発事故も同じだった)




自分がいろいろと苦しみ意識したのは意識させられたのはカルマでるある
そもそもカルマといっても苦しみがないと意識されないのである
カルマは苦しみとなったとき意識される
それが原発事故と関係があるのか?
やっぱりここにあった
何かカルマが公正に配分されたことである

双葉と大熊とか原発で一番恩恵を得た地域は一番被害があった、住めなくなった
その隣の浪江町も悲惨であり人が帰らないし崩壊した感じになる
その隣の小高は浪江よりましでもやはり帰ったのはほとんど老人であり被害が大きかったつまり原発があった場所から距離に比例して被害の大小があった

そして小高は東北電力で原発を建てる工事をはじめようとしていたとき事故が起きた
それを知っている人は意外に少なかった、私自身も知らなかった
小高に原発できたら原町でも相馬市でも30キロ以内になるから危機感をもってもいいはずだが知らない人が多かったのである
その危機感を伝えるものもマスコミでもいなかったのである
ただ原発を作るかどうかは小高町だったら小高町だけで決められるという恐ろしさを自覚した      

例えば極端になると双葉と大熊の土地の所有者が東電にその土地を売りあとは漁業組合から漁業権を買えばできたのである
現実にそうなっていた、そして県の許可が得れば作れたというからあまりにも誰も原発に恐怖感もなにももっていなかったのである
小高の腕のいい大工さんでも小高は景気が良くなるよ、原発が建つからなと喜んでいたのである、その人も全く利益のことしか考えていない、これはみんなこの辺の人はそうだったのである

そして県庁のある福島市など30キロからはずっとはずれているから関係ないと思っていた自分も30キロからはずれているから遠いから関係ないと思っていたのである
でも福島市はこの辺より放射線量が高かったのである、郡山市とか白河市まで影響したのである、これもカルマだったなとつくづく思う
県庁で知事が勝手に双葉大熊の土地所有者から土地を買い原発の許可を与えたということである、その責任は重く結果的にカルマがそこにも重く配分されたのである
そして補償金はもらえないから余計にそうだったとなる
ただ飯館村は例外でありとばっちりを受けた
事故とか事件があると必ず関係ない人でもとばっちりを受けるからだ
だからカルマは一人の人間だけにとどまらない、周りにとばっちりがゆく、それで回りも苦しむのである
ただその分補償金は高くもらえたからそれでかえって喜んでいる人たちもいた
被害がカルマの苦しみがあったが今回は30キロ内は補償金もらえたということでカルマが軽くされた
でも南相馬市などは30キロで区切られてその心は分断されて復興しにくくなったのである

カルマは家族でも必ず配分される、一人にとどまらない、誰かが借金で苦しむ、病気で苦しむ、何かで苦しむと家族全員が苦しむ、一人にとどまらないのである
親戚でもそのカルマが回ってくるから怖いのである
それは苦しみとなって現れないと意識されないのである
でも原発事故でカルマは公正に配分されたともみる
ただ今回は補償金がありそれでそまカルマは軽くされたことは確かである
でもこれから原発のリスクがこれだけ大きいことを知った、それを知っていて原発を誘致するとなくとそれだけの覚悟が必要になる、補償金はもうこんなには払えないとなる
それであまりにも原発の安全にコストがかかりすぎると外国への輸出は日本では中止したのである

ともかく家族の介護で苦しんだ自分のことを書いた、これも自分一人が良くされたから
カルマが自分一人にのしかかり自分一人が四苦八苦して援助されることもなかった
それもまたカルマだった、双葉大熊はそれだけのカルマを作っていたからまたそこはもう住めなくなったともなる
カルマは公正に配分されるともなった、だから何らか苦しみとなった時人はカルマを自覚する、でも苦しみがないと自覚しないのである
でもいつか必ずカルマは現れる、なぜこんなに苦しむのだろうという時やはりその人のカルマが現れたためである、それは必ずいつか現れる、おそらく人類の罪もいづれカルマとなって現れというとき滅びるというときもそうなのだろう
カルマが積もり積もって最後に滅びるほかなくなるということである

posted by 老鶯 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

撮り鉄、乗り鉄、描き鉄・・・・ 〈思い出の駅の物語)


撮り鉄、乗り鉄、描き鉄・・・・

〈思い出の駅の物語)

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NHKのおはよう福島で放送していたのは描き鉄であった
駅の絵を鉛筆で描いていた、女川駅とか新地駅は津波で流されたが新しくなる前の駅を描いていた
鹿島駅でもよく撮り鉄がくる、そこでなんで行き先の案内板を写真に撮ってゆくのか?
これを東京からわざわざ撮りにきた人が今日いた
若い人である、前にもこの案内板は撮りに来た人がいた
そして駅舎とこの鹿島駅という表示を取ってゆく
これはと撮り鉄では人気なのである
相当に古いものだかららしい。

それでNHKのおはよう福島で描き鉄の鉄道の駅とかの展覧会を地下道でしていた
駅には確かにいろいろな思い入れがある人がいる

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だからこれはわかる、私自身は撮り鉄ではない、乗り鉄である、乗るのを楽しむ
それで日本の路線は私鉄をのぞいてほとんど乗ったのである
鉄道は絵になる、風景になる、自然とマッチするのが自転車と同じように魅力があるのである、それより鉄道は歴史が古いから何か駅でもそこには人間の情がしみこんでいるのである

それぞれの物語があるというとき駅で良くあうのは東京から実家に帰省する人である

「もう私の父親は92歳ですよ、もういつ死ぬかわかりません、私は高校出て東京に憧れて出たんです」
「自分も東京に憧れて出た口です、ただ大学で遊んだだけだから集団就職とはあまりにも違ったものでした、中卒の集団就職の人たちは苦労しましたから・・・・」

この女性の世代は高校出た人である、だから60代になるのだろう
団塊の世代は中卒が三分の一いたのである
高卒までこの土地にいた人ととは良くあう、集団就職で中卒で東京に行ったという人とは意外と会っていないのである
その時は東京に憧れるというとき女性でもそうであり東京は特別な憧れの都会だったのである、だから田舎を脱出して東京に行きたいというという人が多かったのである

田舎なる駅舎の寒し一時を話して別る東京にさる女(ひと)

良く駅ではぽつんと待っている人がいる、駅は誰いなくて淋しいわとか地元の女性が一人待っていた、そうやはり感じていたのである
駅は出会いと別れの場所でありそれは歴史が明治から始まっているから古いのである
だから何か人間の情が駅にはしみこんでいるのだ

そして不思議に駅で別れてあの人は東京に去った、その去る余韻があり東京でどういう暮らしをしているのかなとも想像する、去ってもその人のことを思うのである
別にその女性にはじめてあった人であってもそうなのである

2018年12月22日

グローバル社会広域社会の弊害 (地方の衰退の大きな原因になっている―津波や原発事故の原因にも)


 グローバル社会広域社会の弊害

 (地方の衰退の大きな原因になっている―津波や原発事故の原因にも)


 グロ−バル社会になるとそれが地方とか田舎とは関係ないとかみているが実際は地方の方が影響が大きすぎたのである
まずモノが自由に世界から入ってきてどうなったのか?
地方はそれで衰退した、なぜなら木材を例にすれば外材でまかなうようになったとき日本は森林が多いがただ無用のものとなりそれで山で暮らす人の仕事も収入もなくなった
木材は大きな資源であり家を建てるにも木材でありエネルギーも炭だから木材なしではありえない社会だった
それが実は戦争の原因になっていたのだ、入会権の争いが木材を争うことが戦国時代にまでなったという説がある
この辺では飯館村でも木材をめぐる争いがあり丸森は木材資源が豊富だから米沢藩と伊達藩と相馬藩の三つ巴の争いがあったことは有名である
それだけ木材は今の石油のように重要な資源だったからそうなった
でもグロ−バル社会になると木材は外材になりエネルギーは石油になるとなれば地元の資源は活かせないのである
その影響はあまりにも大きかったのである

食料にしてもそうである、あらゆるものが外国から国内からもいくらで入ってくる
そうすると地元でとれるものに関心もなくなる
食料は地元からとれるのではない、米だっていくらでも全国でとれる
するとスーパーに行けば別に地元のものを食べない、うまい米を買ってしまうのである
そこで起きることは何なのか?
地元でも地方でも田舎でも意外と農業とか第一次産業に無関心になる
もし外部から食料でも何でも入ってこないとなると地元のものでまかなうとなると例え農業にたずさわらない、農民でなくても関心をもつ、なぜなら日々の食料が自分の住んでいる所で供給されなかったから死んでしまうからである
戦前まではそうした自給自足的生活が基本にあった
だからこそ自然の恵みに感謝していたのである
そういう祭りさえ消失したのは別に地元で食料が得られなくても外国からでも全国からいくらでも食料は入ってくるというなかで実際に日々生活しているからである

ではそこで起きたことは何なのか?
東京とかでは地方とか田舎は非効率的であり無駄だとかになる、地方交付税は東京に住んでいる人が払っている、そんな地方や田舎はいらない、特に限界集落などはインフラに金がかかるだけであり潰すべきであるとなる
食料は外国からいくらでたも入ってくるとなっているからそうなる
現実に日本では一番食料の自給率が世界で低いのである
日本で大事なのはトヨタのような車を世界に売ることでありそうして外貨を稼げばいくらでも世界から食料でも買えるとなっている
だから地方とか田舎は経済的に無駄だとなってしまうのである

そしてそうなると何が大事なのか?
金だとなる、金があれば外部からいくらでも世界から物も買えるとなるからだ
つまり外部に頼る時金が重要なものとなってくる
江戸時代辺りだとまだ地元で生産されるもので暮らしているから金はそれほど大事にはならない、土地をもって食料を生産していれば食べてはいけるとはなるからだ
グロ−バル経済になると金が異常なほど重要になる、外部から世界から入ってくるものを得るのには金になるからだ
その金を産みだすのはなにかとなると日本では工業製品とか車とかなりそれが国家を支えるものだとなる、江戸時代は米経済だから米が一番重要なものだった
米を中心に経済が回っていたがグロ−バル経済では世界に売れる物を作ることが食料でも得ることになる

何かこういうことはグロ−バル経済は意識しないがその中にどんな辺鄙な地域でもその中に組み込まれて生活しているのである
そしてグロ−バル経済の影響をもっとも受けたのは地方であり田舎だったのである
地方とか田舎の価値が極端に低下したのである
その弊害は原発事故にも現れたのである
なぜなら漁業組合がなぜ東電に漁業権を売り渡したのか?
それは漁業でも農業でも林業でもグロ−バル化で衰退して跡継ぎもいないと金にならないということで衰退した
すると原発で金になるのがいい、補償金でももらえるのがいいとなったのである
現実に漁業組合とか船主では原発事故前も豊富な補償金をもらい原発御殿が建っていたとかうらやましがられていたし事故後も立派な邸宅を建てていたのである
つまり補償金でこれからも困ることがないからである

ここに象徴されているようにグロ−バル経済では金が異常なほど重要になる
そのためには原発のリスクなど考えなくなっていたし地方に暮らす人でも漁業とか農業とか林業とか第一次産業を軽んじる、第一それに従事する人は一割にもみたないからであるするとどうなるのか?地方でも田舎でも自然との関係でも希薄化する
それで一匹の魚を軽んじた結果として津波をが起きたということが伝説に残っている
その土地の実りとか自然に感謝しないのである
むしろ原発とか今なら今度はソーラーパネルとかそうした科学技術こそ富をもたらすものだとなってしまう、自然ではない科学技術こそ恵みをもたらすとなると神の如くなるのが科学技術者である、その人たちは実際に現代の神官になっている
神様のごとくなっている、今一番尊敬されているのが医者であることでもわかる
でも科学技術者でも一挙に原発事故でその権威を地位を失ったのである

私は何か景観というのも異常に気にしている、ただ田舎でも景観からしか見ていない
そこで食料をとれるとか見ていなかった、だから自分自身も実は田舎の農業とか林業とか漁業でも無関心だったのである、そういう景観を作っていたのは実際に米を作るとか野菜を作るとか魚をとるとかの暮らしがあて景観もあったのである
だから極端なのは八沢浦が津波で入り江なにったときそこで死んだ人がいるのにその景観を見て喜んでいたのでしかられたというのも当然だったのである
つまり自分自身が本当に八沢浦で米を作っていたのにそこに価値を置いていなかったのである
だからあそこが入り江だったらどれほど美しかったろうといつもイメージしていたのである
それが現実になった時ほど驚いたことはないから奇跡だと見た
そこで実際に米を作っていることなど無関心だった、米などいくらでもどこでもとれるし入ってくるという感覚になっているし地元の米を食べる訳ではないからである
もし地元でとれる米でしか生活できないとなれば違っていたのである
それは自分自身の生死にもかかわってくるからである
自分にとっては地元でとれる米より景観の方を大事にして見ていたのである
だからソーラーパネルなどは景観を壊すから嫌だと見ているのである

いづれにしろ田舎に地方に住んでいても意外とその土地のことについて無関心になっているのが現実なのである
まずいくらでも食料が世界からでも入ってくるとなると地元で苦労してとれたものに感謝もしない、それを作る農民でも軽んじることになる
日本全国で見ても一番大事なのは車でも外国に売れることになり外貨を稼ぎ食料を外国から買うということになるからだ、ただそれは今までは電機製品が外国に売れていたときはできる、外国に売るものがなくなってくると日本は苦しくなり現実になっているのであるそして日本は貧困化している、でもこういうグロ−バル化社会というのは本来の生活からすればありえない異常なことでもあった
だからこそ津波とか原発事故でも起きた原因にもなっていた
それはあまりにれ科学技術とかグロ−バル化経済に傾きすぎた結果だったのである

何か変なんだけど

津波跡ブロッコリー畑や冬の暮

今日を見ゆ田舎に冬菜暮らしかな

こんな俳句を作るとき、津波の跡にもブロッコリーを作っている、自分も毎日食べているここで作っていたのかとなるのが一応田舎である
でもまたこのブロッコリーでも外国産のものを安いから買っていいるときがある
それがまた現代なのである、、メキシコ産のとかあるからだ
そんなに遠くから入ってくるのでも今は不思議で何でもない、普通である
でもそれだけ地元とというのも直接的につながらないものとなる
地元のことを軽んじることになる、盛んに絆のことを言われたがその絆も外部との絆が意識されたが内部では補償金で金でももめて争い絆がなくなったことでも同じである
内部での絆はかえって金で分断されたのもグロ−バル広域社会が影響していたのである
いい面もあるが外部からの協力を得られることもあったが内部ではそうした絆すらなくなっていたのである、それはそういう日常グロ−バル広域社会に生きていたからそれがそういう結果を必然的に産んだとなっていたのである


2018年12月23日

Venice's coat of arms


Venice's coat of arms


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forest and river and lake

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グローバル広域市場経済だけでは成り立たない社会 (一軒だけの自転車屋に無料で中古の自転車を提供する訳)


 グローバル広域市場経済だけでは成り立たない社会

 (一軒だけの自転車屋に無料で中古の自転車を提供する訳)


 グローバル広域の経済の矛盾は意外と身近にあったことに気づいた
そもそもブロッコリー畑が近くにあった、ではそのブロッコリーを必ずしも地元で買って食べているとは限らない、なぜなら外国産のものメキシコ産のものでも入ってくる
アスパラガスなどでもそうである
すると価格が安い方を買ったりしている、地元だからそれを買わねばならないと強制はされないからなんでもそうなる、この辺は米は放射性物質の汚染で飼料米になったから食べる米とはなっていない
でも今までも地元産の米をみんな食べているわけではないのである
外国産は食べないにしても全国の米が入ってきていいものを各自自由に選んで食べている日本全国が市場化しているからである、そこじ自由競争している

でも私の町には地区には自転車屋一軒しかない、それもなくなると自転車屋が一軒もなくなる
その自転車屋についていろいろクレームをつける人がいる
それでわざわざ隣の街まで行って自転車を修理したりしている人がいる
確かにそういう面があるにしてもも一軒だけになった自転車屋がなくなると困るなと思う奇妙なのはそこで駅前の活性化とか話していた、それは自転車屋が駅前にあるからそうなった
駅前の活性化というけど一軒の自転車屋がなくなったちさらにさびれる
現実駅前に空き家があり廃墟化していたりとさびれている
どうしても駅中心の街作りにはならなくなったからである

それでその自転車屋には中古になった自転車を無料でくれた、それは結構いい値段で売れた、まるもうけとなっていたからだ
今回もヤマハの電動自転車のロードを使いなかったので処分しようとした
それは25万とかしていいものであるが原町にもっていったら4万もしない
安いなとなり売るの躊躇している、そしてもう一台12万で買った電動自転車がある
これは普通に今でも使えるいいものである
それも売ったら一万もしないかもしれない、そうなるとそんな値段で売っても自分の住んでいる町に自転車屋があった方がいいとなる
なくなったら不便になり自分が困るからである

そういうことは他でも普通にこれだけ広域社会になればある
仙台から来たのがユニットバスを100万で作ってもらったのは本当に安かったのだ
工事するだけで相当な手間だったからである
それでガス屋に聞いたら200万かかるという、これを地元の知り合いの人に頼んだら軽く300万以上になる、そもそもそれできる人ではなかったからだ
現実にその知り合いの人を通じて修理を頼んだらその大工さんは修理できていなかったからである
でも仙台の人に仕事を頼んだら地元で仕事している人は困るとなるのである
ただこの辺で何百軒も家を建った感じだがその仕事をしたのは外部の人がほとんである
大きな会社の人たちが請け負って建てたのである
それだけの大量の家を建てることなど人もいないからできなかったのである

ただ地元を活性化するというときそうした広域経済の市場化がすべていいとはならない
常磐高速とかができて仙台からも仕事に来るようになった仙台ではまた復興工事の仕事はなくなったからそうなったのである
そういうふうに広域化市場化経済グロ−バル経済ですべて従うということが地域にとってさらに地域の地域にとっていいものかとなるとそうはならない
南相馬市では人口が多い原町は前から良かったが補償金でも恵まれたが鹿島区は少なくて不満だった
それで自転車屋が一軒だけになりそれがなくなるとさらに駅前でもここに住むことが不便になると思った

そんなこと今はただ物は高く売ればいいし安く買えればいいとかなって考えない
でも奇妙だが自転車の人と駅前の活性化のことを話し合ったりしていたのが自分でもあったとに気づいた
そもそもそうなるとその自転車屋を維持するにはもうけてもらった方がいいとなる
一つの電動自転車は売っても一万にならないからだ
でもそれを買う人がいる、するとまるもうけになるからだ
その自転車屋は無料でしか引き受けない、そんなに余裕がないとも見ているからだ
だからすべて市場原理だけではこの社会は公正なようでそうではないと思った
通信販売でもそうである、イオンとかでもそうである
その収入は必ずしも地元に分配されない、中央の会社に東京に吸い上げられることが多いのである、そして地方は疲弊して衰退している、シャッター通りになったのである

ただそうはいってもまたそうした広域市場経済をすべて否定するわけにはいかない
地域には地方にはどうしても売っていないものがある
通販でしか買えないものがある、本などは全くそうなった、田舎にいても本ならボタン一つで古本でもなんでも手に入るから便利なのである
そこで知識が広げることができる、これだけは便利だと思った
古本などは東京の古本屋街までいかないと買えないものがいちらでもあったからである

ただすべてが市場化原理に従うことはできないのである
確かに地域で市を開いているがそこでは競争が働かないからスーパーよな相当に高くなるものがある、ただトマトが一個500円とかで売っていたと聞いた
それは特別のトマトであり買う人は買っているとなる、でも普通はそんな高いものは買わないのである
要するに地域だけになると物でも高くなるしいいものが提供されるとは限らないのであるそこに競争原理が働かないからである
でもその地域で地域の地域で暮らすということは市場原理だけでは成り立たないことがある、それがかえってその場所に暮らすには不便にしてしまうのである
だから今度も金にはならないが一軒だけの自転車屋に無料で中古品を提供することに決めたのである

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損しているようで得しているともなる、住んでいる町が不便になったら自分自身が困るからである
もしかしたらこういうことが血の通った経済になるのかもしれない
グロ−バル経済で株で投資しても何かそれが血の通ったものとはならない
金がどういうふうに活きるのかわからないからである
ただもうけたら使い方で血の通ったものとなることは言える


2018年12月24日

白鳥に冬の満月


 白鳥に冬の満月      
                                                
                        
津波跡ブロッコリー畑や冬の暮

今日を見ゆ田舎に冬菜暮らしかな


白鳥の連なり飛びて夕空に鳴く声ひびき余韻残りぬ

この墓地にまた来たりけり何語る落葉に埋もれ夕暮れにけり

大きなる冬の満月いでにけり姉をし待たむ我が帰るかな     

大きなる冬の満月冬至かな災いもなく今年も終わらむ


日下石の方に行った、その高台の墓地からは松川浦とか海が一望できる
あそこには前にも行った、そしたら白鳥が連なり飛んでゆくのが見えた
その鳴き声がひびき木霊した、いかにも冬である、陽は山に沈んでゆく
それから新しく買ったマウンテンバイクで道の悪い所を行く
今度の道が悪くても縦横に行ける、ここも高台であり道が悪い所だったが軽く行ける

このヤマハの電動マウンテンバイクで行動範囲が広がった
人間は現代は特に機械の影響がどこでも大きい
そもそも現代の特徴は科学技術の社会になった、だから科学技術がなんでもパソコンでもスマホでもそうなように影響が大きいのである

そして道の悪い所の近道を帰ってきた、そしたら森に大きな満月が出ていた
一昨日は冬至だった
その大きな満月を見たとき姉を思い出す、姉は太っていて大らかな女性だった
その姉と60年もいたからどうしても今は死んでいないし家には誰も待っていないのだが
いつも外に出て帰ってくると待っているような気がする
笑って待っているような気がする、それが不思議なのである
やはとり60年も一緒にいたということが影響していたのである
それだけ長く一緒にいるとなかなか死んでもその存在が簡単に消えるということはなかったのである

白鳥があのように連なり飛んでいるのは気持ちがいい、やはり十羽くらい連なると見応えがある、今年も終わりだが今年は災いはなかった
災いつづきだから災いもないことでいい年だったとなる
体力的にも回復した面はある、ただやはり自転車に乗ると腰が痛くなったりするから年だとは思う、体力があったら遠くへ行くとなるがなかなかできないのである