2018年12月14日

福島市から来た遺品整理の会社の人と会う (ひとものがたりの会社である)


 福島市から来た遺品整理の会社の人と会う

 (ひとものがたりの会社である)


 今日駅であったのは遺品整理をする「ひとものがたり」という会社だった
 遺品整理というとテレビで話題になった
 それが福島市にあったのが意外だった
 仕事するために駅まできていた
 そして駅に着いた人を車に乗せて去った
 斎藤商店の車も来ていた
 それは廃品処理の会社であり自分も行ったことがある
 市で委託して廃品を処理している

 時代によって仕事が生まれる、老人が増えるとまた一人暮らしとかが増えるとこういう仕事が生まれる、田舎だと親戚がいて孤独死などはあまりないと思うが孤立した一人暮らしが増えている
 それは自分自身がそうだったのである
 ゴミ屋敷清掃なども請け負っている
 人間一人が死ぬということはめんどうなのである
 いろいろな処理があるからだ
 それで死者が増えれば高齢化でまた時代で一人暮らしが増えるとこんな商売も生れる

 第一駅前が葬儀屋になっていることでもわかる、もともとはそこは駅前の農協のスーパーだったのである、その時は駅前にまだ人が集まっていたからそうなった
 農協の仕事でも今や介護とか葬儀とかなっている

 何か駅前に葬儀屋があるのはあまりいい感じがしない
 それが何か暗くしているという感じにもなる
 しかし時代でありどうにもならない、少子高齢化でそうなっているのだ
 ただ新地駅前は温泉ができるとか施設もできる
 大きなビルも建設しているからあそこでは駅中心に人が集まる
 山下駅でも駅前にキクチスーパーができたから前とは違って人が駅に集まる

 原町駅は前に立派な図書館ができたが今になるとそれは失敗だったともなる
 やはり人が集まるもの、スーパーなどができると良かったのである
 駅からイオンス―パーに行くのが遠いからである
 前はヨークベニマルがあったがなくなったのも駅に人が集まらないとなる

 ともかく駅は意外と人が交差する場であり活きた情報を得る場でもあった
 こういうことは常磐高速ではできない、話しかけることもできないからである
 どういう人が来ているのかわからないのである
 駅では人が少ないから話かけることができる
 だから世の中の流れをここで知る、活きた今の情報を知る場だということを知った
 インタ−ネットとかスマホだけではわからないことがある
 別にインタ−ネットで調べれば出ていたが直接そういう人に接して話を聞くのとはまた違うからだ

2018年12月15日

相馬藩内の花の短歌 (狭い地域でもそれぞれ個性がある


相馬藩内の花の短歌  

(狭い地域でもそれぞれ個性がある

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相馬市の城跡あわれ藤の花夕闇の中に灯のともるかも

真野川の岸を歩めば草深く月見草咲き夕暮れにけり

原町の線路にそいてひまわりや電車の音の昼にひびきぬ

飯館にソバナの花のあまたかな草深くして家々静まる

飯館に芙蓉の花のおおらかに咲きて隠さる家々なるかな

小高の城跡に立ち海望む紅梅しだれ古りにけるかな

なみなみと青々とのぞむ海村上城跡かもめ飛びゆく

海望み船の行くかな山により桜の咲きて風に散るかな

相馬焼ここに伝えて柿なりぬ大堀の里ありしときかな

高瀬川激ち流れて春の日やさらに上へとのぼりゆくかな

高瀬川そそりし岩や紅葉して色の一際赤くなりしも


その場所にあった花がある、ただこれは外から来ただけではわからない、ある場所に長く住んでいないとわからないものがある
相馬市と原町の区別がつきにくいが相馬市は城下町であり何かしんみりとしているのである
入母屋作りに公共の建物が統一しているのも城下町作りとしては良かった
ただそれに反対する人もいた

相馬市が藤の花だというときあそこに古い藤の木がありそこにたたずむとやがて街が暮れて静かに灯がともる、それがなんともいいのである
それは相馬市がそれほど繁華でない街だからそうなっているのだ
相馬市の街は駅前通りがあっても駅前から発展したのではない
城のある所から街作りしたからそのままなのである
原町は街道が街としてあっても駅前通りが発展した
それは原町が機関区になっていて物資を運んだからである
原町は新しい街として明治以降作られたのである
だからひまわりが似合っているとなる
原町の線路の脇に高い大きなひまわりが咲いていた、今は咲いていたが今は咲いていないともかく相馬市と原町の感覚は相当に違っているのだ

次に小高だと相馬氏が最初に城を築いたところであり枝垂れ桜が咲いていた
そこから海が見えたのである、意外と海が近いのである
この辺では海が近くても海が見えない、でもちょっと高台に立つと海が見えるのである
小高は海が近かった、津波が駅のすぐそばまで来たことには驚いた
その下の水道官から駅を越えて津波によって泥が運ばれたのである

そのことでもともとは駅前は海でありそこには中世に鎌倉時代辺りに港があり蔵院とかがあって相当な船が出入りしていたのだ
そこは港だったのである、それほど海が近い所だったのである
だからそこが海になった時驚いた、それは八沢浦でもそうでありそこも港があった
中世から船運があったのはそうした入り江があったからである
それが失われてわからなかったが津波でその入り江が再現されたのである

相馬藩内でもそれぞれに土地の特徴がある、そこに変化があってあきないとなる
浪江になると前は高瀬川の上流に大堀があり相馬焼の陶工の村があった
そこは高瀬川渓谷に入る所であり場所が良かった
それは原発事故で失われた、それも大きな痛手だった
浪江はほとんど人が住んでいないから悲惨である
ただ別に高瀬川がなくなったということではない
以前としてそこは風光明媚な所なのである

飯館村は森に包まれた静かな隠された村だった
それが原発事故で人が住まない土地になった
田んぼの表土がけずられて無惨である、あとは放射性物質の廃棄場がいたるところにある草野はソーラーパネルが敷き詰められて変わり果てた
素朴な村という感じもなくなった、それより人が住んでいないのである
飯館村の特徴は一軒一軒が離れてあり森につつまれてあった
そこは広いから牛を飼うには良かった、放牧できるからである
今何軒かはじめている、牛の餌は買えばいいとなるから意外と農業よりはいいのかもしれない、農業となると土に頼るから土が汚染されたらどうにもならないからである

人間は場所が変わると心も変わる、飯館村に行ったときは特に変わる
何か花まで草深く咲き純なものが自然のままに隠されて人知れず咲いているとなる
ただ残念なのは原発事故前に大倉から入り峠を越えた所に人の手が入らない森がありそこに清流が流れていた、そこは神秘な場所であり秘境だった
それが道ができて喪失した、秘境というのは今でもある
それはなかなか外から来てはわからていのである、丸森にもあった、そこに行くには道が悪いから簡単には行けない、そこを行ったら道に迷い深い森から出れなくなった恐怖を味わった、それだけ丸森は森が深いのである、飯館も70パーセントが森なのである

それが放射性物質で汚染されたからどうにもならない
ただ森は森として依然としてある、ただこの森に放射性物質が循環して消えないから困るのである
もし森とかでも色が変わったりしたり枯れたりしたらそのショックが大きくもう住めないとなっていたことは確かである、水でも汚れたりしたら住めない
以前として水は澄んでいる、でも魚は放射能で汚染されているのである
それが放射能被害の不思議なのところだった

いづれにしろこの辺は元の状態にもどらない、それは三陸とか他でも津波の被害にあった所は復興していない、それだけ甚大な被害だったのである
8年になろうとしていても復興はしていないのである

畑にカリウムをまいてセシウムが減った (個人的に畑で野菜を作る老人)


畑にカリウムをまいてセシウムが減った

(個人的に畑で野菜を作る老人)


稲作に多量のカリウムを投入すればセシウムが入らないから
効果的も子どもの理科の実験程度の知恵に過ぎない。
毎年同じ事を次は私費で継続出来ますかと問ったら誰も出来ないだろう。
今の国の米価では作っても赤字。

カリウムがセシウム吸収を抑制するのは事実だが、
だからといってセシウムが消えるわけではなく必ず作物に吸収されてゆく



駅であった畑で野菜を作っている老人が女性であるがしきりにカリウムを畑にまいてセシウムが減ったと言っていた
その女性は大阪に娘がいて作った野菜を送るのだが放射能のことでいらないと言われたので放射線のことを講習会などで勉強したという
確かにカリウムは効果があってセシウムの放射線量が減っている
でもそれにもいろいろな意見があり何が効果的なのかわからないし実験中なのである
ただ放射線量が減ったことは確かだから効果があったとなる
それはセシウムの放射線量だげである

ここのサイトの説明で大根でも上半部は放射線量が高く下半分は低くい
それで表土を削る除染をした、今でもそのために飯館村では表土が削られた無惨な状態になっているのである
表土には栄養分がありそれで回復しないのである
何か花でも肥料をやらないと栄養分がなくなり花が咲かなくなる
それは野菜でも米でも同じだとなる

放射線量は部落単位だとか計って市場に出している、でも個人的にしている人は計ってはいない、知っている人は放射線のことを何も知らない、心配もしていない
ただ地元の野菜売り場には出していない
なんでも常磐高速の売り場に地元の野菜を置くようになったら六号線の売り場は売れなくなったという
それもわかる、あそこは人の出入りが本当に多いからである
そしてお土産でも品物が多いから買い物にはいいとなるからだ

その人は農業について結構詳しい、誰かに指導されたのかと聞いたらテレビを見たりと独学だという、その人は牛糞を発酵させて肥料にしている

牛の糞による堆肥と言うと何だか臭いが気になりそうですが、牛糞堆肥は臭いはほとんどありません。これは発酵という過程を経ていることによります。牛糞堆肥を作るのは一般的には3か月から6か月ほどという長い期間が必要になります。


知っている人は角田まで鶏糞を買いに行っている、それは臭いのが難点である
その人は農業に詳しいようでそうでもなかった
農業は奥が深い、実験の繰り返しでなんとかコツがわかる
つまりもこれも長年の経験でしか会得できないのである
何か私は化学とかなるとまた苦手である、ただ農業には興味がある
でも実際に野菜などを作ったことはない、花は庭に植えていたがなぜかた土が悪いのか
一年くらいで花も咲かなくなるのである
花の手入れだけでも手間なのである
家事から何からあらゆることはできない、ただ人の話を聞くにも少しでも経験していると話を合わせられるのである

いづれにしろ放射線量を減らすとしてもやっかいである
何が本当に鉱かるのかわからないということである、農業に詳しい学者すらわからない、なぜなら実験中だからそうなる、この辺は放射線量を調べる実験場にもなったのである

ともかく飯館村でも野菜を作って孫にくれようとしたらいらないと言われたとありそれは悲しいとなる、それで今日聞いた女性も娘にその孫にも食べさせてやりたいだできない
それでなんとか放射線量を減らす勉強していたのである
この農業の被害も原発事故ではあまりにも大きいものだったのである

posted by 老鶯 at 15:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

母の命日〈冬紅葉忌ー三周忌)


母の命日〈冬紅葉忌ー三周忌)

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冬紅葉小菊をさしぬ命日に

ふさわしき母の命日師走かな

掃除して母の命日冬紅葉

忙しく母の命日過ぎにけり


干し柿を母の命日にささげけり貧しき昔の暮らし思いぬ

朝静か庭に一二枚木の葉散る石の黙して下の部屋かな


母の命日が15日だと思っていたが12日であり過ぎていた
それをプログで調べてわかった、人間は本当に忘れやすい
だからプログは記録しておくので後で役に立つ
こんなこと書いていたのかと自分の書いていたことも忘れているからだ

母は大正生まれでその一生は苦労の連続だったし不運だった
たいだい戦前生まれとかなると苦労している、貧乏である
だから何か趣味などがない人も多い、ただ働く働かせられたとなる
それで趣味もなかった、何か利益になることしか金になることしか価値がないとしていただから一円の金にこだわって金を使っていない
その金も盗まれたが認知症になり笑っていたのも不思議だとなる

百歳まで生きたのが不思議である、体は細いし体力もないのによく生きられたと思う
なぜ百歳まで生きたのですかと聞かれると「無理をしなかったからです」と答えた
そもそも母は無理ができない体力がないからできないのだ
それは自分とにている、体力がないから無理ができないのである
体力がある人は無理ができるのである
ただ長生きとなると体力がある人が長生きとはならない、無理がたたって早死にの場合がある、だから体力と長生きは必ずしも関係していないのである

ともかく家事を93歳ころまでしていた、一時90度に体が曲がったがそれでも手押し車をおして買い物したり普通に生活できたし料理もしていたのである
その体が曲がった時相当に悲観して自殺しようとしたりした
それでもその後は体が曲がっても普通に生活できたのである
それも介護されるのではなく家事を普通にしていたのである

人間死ぬとその後いろいろ死んだ人のことを回想する、回想する時その人だけではないその時代とかも回想する、一つの身近な活きた歴史を回想する
だから郷土史は祖父母から聞くことから親から聞くことからはじまると書いたのである
それが一番身近で在りそれがそもそも歴史となったのである
その後に残された人が死んだ人のストリーをヒストリーをたどるからである

何かいろいろ語ることがあるが姉のことでも一緒に供養のために本でも冊子でも作ろうとしているがなかなか手間でできないのである
このインタ−ネットとかプログはその時々書いているから書けるのである
これを本にまとめようとするとき手間になるのである
家事を全部しているとなかなか他のこともしにくいのである

母の好物は干し柿であったがこれくらいしか戦前だと果物でも食べていないからそうなった、でも戦後は食べ物では贅沢したのである
戦後十年くらいで死んだ人は贅沢はできなかった
父は最後にサシミを食いたいといって死んだ、でも病気で食べれなかったのである
今は貧乏人でも食べる物は贅沢しているのである

母にふさわしいのは冬紅葉である、それで冬紅葉忌にしたのである

JR仙台病院で癌検査に行く人 (この辺は仙台の病院に行く人が多い)


JR仙台病院で癌検査に行く人

(この辺は仙台の病院に行く人が多い)


JRの仙台の病院に癌検査に行くという、これはJRの専用ではない、一般の人も利用できる、農協ともにている、鹿島の厚生病院は農協の出資でできた
デイサービスの施設でもそうである、農協の組合員は優遇されることがある
農協では介護事業と葬儀事業をしている

仙台の病院に行く人は多いなと最近思った、知り合いの人は糖尿病があり白内障の手術をした、めんどうだから仙台の病院で手術をしてもらうことになった
それだけいい医者がいるということなのだろう

知っている女性は腰が悪いと仙台に行きまたその医者の案内で東京に行った
いい写真がとれる機械があるとかで行った
そして二回目は何か腰を楽にするものをつけるためにそれを取りにまた行った
その人は金がないのでまた自分が援助を強いられた

ともかく仙台に行く人は多い、病気はこの辺では困る、いい医者がそんなにいない
だからむずかしい病気になると福島の医大でありあとは仙台になるのだ
仙台からも医者が診にきているからだ
癌などはめんどうだからそうなる、設備も必要だからである

脳の詳細な写真をとれる機械は福島市と郡山に二台しかないとされる
この辺で認知症の脳の写真をとったが何もわからないものだった

でも三万とられた!

それは写真をとっても何もわからないのに金をとるために写真をとっただけである
一割負担だとすると写真をとるだけで30万するからである
その収入が大きい、こうして医療費用は膨大な無駄がある
最近無駄な薬を出さないと政府でも抑制しているのも当然だとなる
それが税金としてはねかえってきて国民の負担となるからだ
でも病院とか医師は機械に金がかかるとなればどうしても金をとらねばやっていけないから無駄でも金をとることをする
そして実際に新しいいいき機械がないと患者も来ないとか大きな都市では競争も激しいからである

その女性とは結構いろいろ話した、別にはじめてあった人である
畑のことを話したので興味をもった、それを書いた
駅は意外とナマの情報を得られる所だと思った
人間はまず自分の住んでいる場所について街でも身近なことを知らないのである
何するにしてもまず知ることなのである
相手のことでも相手を知らなければ理解しえないからである

ただそういう相手をしるとか市町村のことを知るというのは結構むずかしいのである
近くだからわかるようでわからない、人の動向も住んでいる土地のことがわかならいのである、その知らないことからいろいろな問題が起きてくる
その最たるものが津波や原発事故だったのである

もっと土地のことを知っていれば津波でもある程度さけられて被害が少なくななった可能性があった、原発事故でも地元の人がもっと知る努力をしていればこうはならなかった
ただ原発の場合は立ち入ることも聞くこともできないから知らされないのだからどうにもならなかったのである
現代複雑な社会であり知ることが知識が膨大であり多すぎるから処理しきれないのであるそして迷路に陥ってゆく、小さな一万の町に住んでいてもその土地のことでも人のことでもいろいろとわからないのである

そして知らないことが致命的なものとなる
それが津波であれ原発事故であれ甚大な被害に通じるから知らないことが怖いのである

2018年12月16日

吉野の短歌連作十首 (短歌も俳句も写生が基本、実地にその場を踏まないと実感できない)

     
吉野の短歌連作十首

(短歌も俳句も写生が基本、実地にその場を踏まないと実感できない)

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 (吉野の花)

春に来て冬に来たりぬ吉野山あわれ深まる籠る人かな

散りやまぬ花の尽きぬや吉野山一陣の風花さらに散る

山に陽のかがよい今盛り花に染まりぬ吉野山かな

吉野山は花に染まりぬその色やまただずねてそ色を深めぬ

吉野山下りてあわれ枯木かな夕月いでて我が去りにけり

(西行庵)

吉野山何を残さむ落葉踏み山の間に月西行庵かな

西行庵残せるもののなきにしを山の間に月我が見て去りぬ

奥山の紅葉の下に細径や清水の湧きぬ泉に通ふ

清水飲み人の通ふや赤々と紅葉し奥の山の庵かな

(吉野宮)

修験者の吉野の古りぬもの寂びて山々深く秋の峰かな

吉野にそ都のありと秋深む流れとどろき天皇(すめらぎ)ましぬ

天皇を神と崇めぬその昔たぎつ流れや巌のそそりぬ

吉野川流れて遠く我が旅路行方も知らになりゆくならむ

冬深む光巌天皇そのみ跡たずぬ人ありその人も死ぬ

我が町に南朝の裔(すえ)只野なる姓をとどめて祭り司る 


●まず地理を知れ、実地にその場を踏め実感しろ

俳句が写生としたのは子規だった、でも短歌も写生が基本だとしたのもそうである
それはなぜなのか?
例えば一度も実際に見たことがないとかその場に立たないとかなるとどうしてもイメージの世界になる
するとそこに実際とは違うものをイメージするのである
地理のことを常に書いてきたけどそれは地理がわからないと歴史でもなんでも政治のことでも理解できないからである

外国でも一度その場を踏んだものはいくら学者でもその土地を国を知るとなる
だから今は庶民でも若者でも外国に普通に行ったり暮らしているから外国に詳しくなっているのだ、それは時代でそうなっているのである
だから外国をリアルに知っている人が多いのである
本を読んで知っているのではないから外国に行っていない住んでいない学者より知っているともなるのだ                                                  

私の場合は最初は奈良とか京都とか吉野にも回っていた、だから吉野にも二回か三回行っている、ところがそれが30年前とか40年前とかになっている
するとどうなるのか?
プログでばホームページでも書いてきたようにいかに思い出して書くかとなる
でもそれだけ年数がたつと記憶に残らなくなる、思い出せなくなる
それでわからなくなったのは確かに吉野山に行った記憶がある
それも自転車で行った記憶がある、でもどういう経路で自転車で行ったのかわからない
ただ確かに自転車で急な山道を登ったことは確かなのである
その記憶が明確ではなくなったのである

ただふりかえると私は本当に旅をしていたと思う
関西でも一か月くらいふらついて回っていたような気もする
ではなぜ今その旅をふりかえり短歌とか俳句にできるのか?
それはやはり実際にその場を踏んで見ているということである
それで記憶に残りふりかえり短歌を作る
それは全くその場を踏まないでイメージしているのとは違っているのだ
そのことで俳句でも短歌でも写生だというときその場を踏み実写する
イメージの世界で作らないから俳句でも短歌でも訴えるものがでてくる
                                            
●生駒山にも自分は登っていた

記憶が定かでないにしろ一回でもその場を踏んだことの意味はふりかえると大きかったのである

妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ吾《あ》が来る
  〜作者未詳(遣新羅使) 『万葉集』 巻15-3590  
  
  雲ふかきみ山のあらしさえさえて生駒の嶽に霰ふるらし(実朝)
  
 600メートルというと高い山ではないがやはり鎌倉時代とかなると今の世界とはまるで違っている、
家でビルで埋め尽くされるような大阪ではない、広い田野が広がっていたのだ、そこで600メートルでも高い山なのである
 この辺で一番高い山は鹿狼山(がろう)山だが400メートルくらいしかない
それでも阿武隈山脈には高い山がないから目立つ、目印になる
そして登山すると結構高いとなる、上れば太平洋が一望できる
そこで実際に生駒山でも上ってみると実感する
私はケーブルでも一回生駒山に上ったからこの実朝の歌が実感できるのである
霰ふるらしとなっているから実際は実朝生駒山に上っていない、でも生駒山を実際に見ている、ただのイメージで作った短歌ではないのである
                            
●西行庵にも行ったがその場を踏まないと実感できない

西行庵を訪ねたときも不思議だった、
こんなところに人が住めるのか暮らしていけるのか?
どうして食料を調達したのか山の奥で人家もないとしたらそうなる
ただ清水は近くに湧いていたから水は飲めるし使いるが食料をどうしたのかとか
人との交わりがっあたのかとみるとそこは修験者が修行する場であり
そういう人たちがいて交流があり食料も調達できたとなる
ただそこに西行が実際住んだかどうかは疑問であり証拠はないのである
西行が吉野に修験者と交じり修行したことは確かなのである
吉野の周辺では600メートルから1500メートル級の山がある、
1500あれば相当に高いが600メートル級だとそんなに高くはないとなる
ただそれでも鹿狼山りは高いのである
この辺のものたりさは高い山がないから何か気持ちがひきしまらないのである
山が平凡すぎるのである

関西でいいのは自然も歴史と一体化していることである
そこには日本の国造りがはじまったところであり早い時期から歴史の最前線であり舞台となっていたのである、
その歴史はだから古い、そもそも相馬地方だと歴史的人物が明確なのは鎌倉時代以降だからである
関西になるとその前からありそれだけ古さが違っている
そして歴史が刻まれたものとして自然も見るから一層味わい深いものになる
カナダの山よりペルーの山が違っていて美しかったというときカナダにはそうした歴史がないからである、
アメリカにもない、すると自然でも見え方が違ってくるのである
歴史があるところは人間と自然が一体化するのである  

●光巌天皇に注目した死亡した都築詠一氏

それから南北朝の時代では光巌天皇のことが注目された
それは都築詠一氏が光巌天皇に光をあてたことで私自身も注目したのである
でも残念なことにその都築詠一氏も死んだのである
インタ−ネットだけで知る人であり本も出していない、だから知らない人が多い
でも文学に造詣が深かった、評論家だった
極端な右であったが戦争賛美論者でもあったが文学に造詣が深いので感心して毎日プログを読んでいたのである

冬深む光巌天皇そのみ跡たずぬ人ありその人も死ぬ

本当に死んだということは重いことになる、なかなか光巌天皇を注目してその跡をたずねて行く人はまれである、ただ最後にその人に思い入れがあり訪ねてその後に死んだのである、光巌天皇と一緒に眠りたいとまでなっていた人なのかともふりかえる

吉野の魅力は人間の歴史と自然が織りなすものがありそれでそれがただの山ではないものになり魅了するのであり語られ続けるのである
この辺の霊山も南朝ゆかりの山でありそれはただの山ではないから違っているのである

ともかく吉野は色々に語られる場所である、この辺と歴史的に通じているのは後醍醐天皇が南朝を開いた場所でありその南朝と縁が深いのが福島県の霊山である
ここに霊山城があり東北の南朝の城となったからである、それは10年くらいだったが炎上して滅びた、その時逃れたのが今の南相馬市の鹿島区の先祖ともなっているからであるそれで只野氏のことを書いたけどその人も霊山から逃れた人だったのである
そして鹿島区には本当に只野という姓が集中しているのだ、50人くらいいるのだ
その只野氏は郡山の多田野村から霊山に来たものである、先祖は多田野村にある
鹿島区の真野の日吉神社には落ち延びて来た時の衣装をまとって踊る祭リか残されているそれで吉野の南朝とここも歴史的つながりを感じるのである

●万葉集の吉野宮の天皇の歌

俳句や短歌は実写が基本である、だから地理を知らなければ地形でも知らなければ歴史でも文学でも何でもわからないのである、実感できないからである
実感が大事だという時、どこでも何でも同じなのである
農業していない人が農業のことを語れないし、他でも実際に経験していないことを語れないし聞いてもわからないことがある
そこで相手に話を合わせられないのである、だから外から来た人でもその土地の地理を知っていないと話を合わせられないのである、地理とか気候がわからないからである

吉野町から川を上ると宮滝があり菜摘とかありそこが吉野宮となっていたこともどうしなのだろうとなるが古代の感覚は違っていた、自然に畏れを感じていてそれが天皇と一体化していたのである 

山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも 柿本朝臣人麻呂


天皇(すめらぎ)を神と崇めぬその昔たぎつ流れや巌のそそりぬ(自作)

湯原王、芳野にて作る歌一首

 吉野なる 夏実(菜摘)の河の 川淀に 鴨そ鳴くなる 山陰にして

この歌でもそうである、ただたぎつ流れとかどこにでもある、川淀に、山蔭というときあそこの場を踏んでないと実感しにくい、こんなに山間なのかとなるからだ
影になりすい場所なのである、川淀とかは淀むというときこれも自然のことではない、人間の心が淀んでいる何か悩み苦しんでいるとかとみる
そういう背景をから自然をみる、人間の心情が自然に反映されるからそこにただ自然だけではない人間をみるということにもなる
それを実感するにもまずはその場を踏むことなのである

夕明かり葛城山の遠きよりさせる吉野の花のもとかな(与謝野晶子)

葛城山から陽がさしていたのか?これも地理がわからないと理解できないのである

大峰や吉野の奥の花の果 曽良

この句は吉野の大きさ懐深さを句にした名句である、吉野は山が重なり深いからである

●半生を旅に彷徨いつづけていた自分

それにしてもふりかえると自分ほどあちらこちら旅して彷徨っていたなとなる
外国までそうだったのである、ただ外国は50過ぎてだから遅かった
そこでパリの東駅で安宿を探していたから日本の旅のつづきだったのである 
こうして旅できたのは家を守る家族がいたからだった
自由に旅させてくれた家族がいたからだった、その家族もみんな死んだとき痛切にそのことを感じたのである、まずこんなふうに生きられるということはなかなかない
今はただニートとか普通にいる、団塊の世代は貧乏から始まったからあらゆるものに欲望が深かった、会社の企業戦士になったのもやはりそれだけ貧乏から脱して豊かになりたいということがそうさせたともなる

でもその時みんな企業戦士になる必要はなかったかのである
みんなサラリーマンになる必要もなかったのである
ただ自分のような社会からはずれた人は極々まれであった
それが今になるとAIで仕事が職業がなくなるからみんなアーティストになる
そんなことを言っているのはなんなのだとなる
これまで日本人はただ働くことだけだったからである
それを否定できるのか?それも時代だとなる
時代が変わると価値観も変わるからである、自分のように旅ばかりしていたらそんな人は社会にとって認めない、
それが逆になっているのが信じられないとまたなるのである







2018年12月17日

最高級品のe-bike-ヤマハのYPJ-XC (バイクのように自走する、次元の違った走りだ!)


最高級品のe-bike-ヤマハのYPJ-XC

(バイクのように自走する、次元の違った走りだ!)

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これは38万では高いと思った、ちょうど外国旅行で節約したドルが25万とか残っていたので交換して買った
何しろ外国旅行ではまともな食事をしなかった、ヨ−ロッパではできない
レストランは特別な所だし大衆食堂のような所は地元の人でないと利用できない
日本で安い食事をどこでもできるから楽だろう、水道の水だって飲めるから無料になる

ホテルでもユースホステルとか年配の人も普通に利用している、ヨ−ロッパには安いホテルが多い、その辺は楽であった
そういうことで思った以上金を使わなかった、中国には二回行ったがそこも安かった
でも今なら都市部だと日本と変わりなくなっているという
変われば変わるものである

これを買うことを決断したのはエンジン部分がヨ−ロッパで早い時期からブームになったものであり優れものなのである
それは今までの電気のエンジン部分となるドライブユニットがこれまでのアシストとは違う格段上の性能をもっている

それは乗ってみてはっきりわかった、自転車自体はタイヤが27・5インチで大きいのだが全体に一回り大きいのだが軽く感じるのである
それで電気をオフにしても走れるものである
軽く走ることが今までのとは違う、今までのアシストはまだこのドライブユニットではないから軽く走らないのである、まず軽く走り今までの二倍速になる

これはバイクに近い

何か自走している感じになる、つまりバイクに乗っている感じになる
確かにペダルを踏むのだがその踏むのも軽いから自走している感じになる
これは今までのと次元が違う、本当に自転車というよりバイクなのである
そしてバッテリーもスタンダードでも140キロとか行くしそれでも軽いのである
だから予備のバッテリー必要ないのである、バッテリーを切れても十分に継続して走れるのも強みである
だからこれは本当は長距離に向いていた、残念なのは荷台がない、スタンドすらつけられない、マウンテンバイクだからそうなっている

これに乗ったら体力もなくなり長距離は無理だなと最近感じていたがこれなら長距離も行けると思った
体が意外と疲れないのである、ロードは体を曲げるから疲れるし使いないものだった
それを売ろうとしたら3万にくらいしかならないから何にもならなかった
これは乗っていて楽なのである
なぜなら自走している感じになるからである
だからバイクに乗っている感じになる、20キロは軽くでる、制限されて24キロになるがそれで常時20キロが出ると早い、坂でもすいすい上る

この自転車は機動力がある、人間の身体能力拡張した感じになる
これならまた遠くに行けるなと実感した
今までのロードでも疲れるし長距離は行けないと思っていたからだ
これは意外と軽く走るから疲れないのである

これによって身体能力が回復した

弱ったからだが体力が回復した感じになった、機械によって人間の弱った能力が体力でも回復することは感動的だとなる
つまり老化にはこうした機械でもできると身体能力を補充して増幅できるとういことである
だから老人は消費できないと書いてきたけど使いこなせないと書いてきたけど
老人でもこうしたものは体力を回復さけるものだと知った
そうすれば老人でも消費するのである
そもそもヨ−ロッパではこのe-bikeは体力のない老人用に開発されたのである
これは別に道の悪い悪路を行くものではない、普通の道路でも力を発揮している
もちろん悪路にもタイヤが太いしhighより馬力がでるエクストラでも走れる
だからマウンテンバイクといっても老人に適さないものではない

とにかく新しい技術が開発されるとその影響が大きい
これをヨ−ロッパでも売り出して競争している、できる技術改良したから売りこむことができる
それなりに軽い走りだと思っていても一段上のものができるその走りが重いと感じてしまうのである
今まで出た新品でもそうである、その差はドライブユニットの差だったのである
ここが最新式のものになると全然違った走りになるのである
でもそれをあ装着したのは日本ではこのヤマハだけだと思う
だからこれは高いがそれだけの価値あるものだった


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higher and higher mountains

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evening forest

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2018年12月18日

原発事故が起きた原因 (グローバル経済が深く関係していたー田舎でも農業などに無関心だった)


原発事故が起きた原因

(グローバル経済が深く関係していたー田舎でも農業などに無関心だった)

原発事故がなぜ起きたかというと私自身がしきりに農業が大事とか農業もしていないのに語った
ところが農業でも林業でも漁業でもグローバルの影響が大きかった
江戸時代は完全な自給自足社会である
村という狭い範囲でほとんど自給する生活である
エネルギーは炭であり家建てるにも近くの森の木を利用して屋根は茅葺だから萱を材料としていた、外から遠くからまして外国から運んでくることなどなかった
それはできなかったのである
グロ−バル経済になったのは輸送力が飛行機でもなんでも格段に進歩したからである
文明の発展は輸送力と比例するのである

文明とか大きなこととは関係ないようでも関係している
輸送力がますと地元で生産されるものに無関心になる
もし自給自足の村のような社会が基本としてあれば身近なものに一番関心をもつ
それは生活にじかにひびくからである、食べ物でも身近なものでまにあわせいたら
もしそれがとれないとすると別に農業していなとしても遠くから運ばれないのだから
危機になるしそういうことを学者でなくても肌で感じていたのである

それで最近私自身も気づいた、例えばどこの田舎でも今は農業とか林業とか漁業でも関心が薄いのである、それはなぜなきるか?
食料でも木材でも他の物資でも常に外部から外国からでも入ってくるからである
それでむしろ中東の石油の値段とか常に気にすることになる
他でも外国のことをこれだけ気にする時代はないのである
外国という時何か文化的なものとかではなく直接の生活にかかわことなのである
石油がなかったらもうおしまいだとなるのもそうである
もし炭で生活していたらそうはならないからである
中東で何があろうと関係ないとなっていたのである

それは国内の生活でもそうである、別に地元で米をとれなくても他でとれるからまかなえる、今は外国でも米を生産しているから輸入できるとかなる
そうなるとどうなるのか?地元の農業とか第一次産業に無関心になるのだ
農業している人は別だがその周りの人も関心がないのである
私の場合、農業をいつも生産の観点ではなく自然に調和したものとして景観として見ているきるである、田んぼでも自然のように見ていて俳句とか短歌とかを作っているのであるそれで極端化したのは八沢浦が津波で元の美しい入り江にもどったということを写真で紹介したとき反応があった
地元の人はそこで死んだ人などがいておしかりを受けた、それも当然だったのである

なぜそういうことが起きたのか?
つまり農業をただ景観とか美的なものとかからしか見ていない
そこから食料が米でも調達されるとして見ていなかったのである
なぜなら今でもそうだろう、米などいくらでも入ってくる
それもうまい米がいくらでも外から遠くから入ってくるから必ずしも地元の米を食べる必要もないからだ、現実にそういう人が多いのである
田舎に住んでも農業に関心がないという人が多いのである
農業のことを知らないのである、これが地元でとれたもので生活している時代なら命にかかわるから無関心ではいられないのである

例えば前は栃窪でとれた米は水がきれいだからうまいとか言って知り合いがいて買っていた、でも今はスーパーでいろいろなうまい米があるから買っている
この辺では原発事故以後は飼料米として売っているだけである
これが原発事故と何の関係があるのか?
それは依然としてこの辺で米がとれなくても外から買えばいいとか汚染されても食料でも買えばいいとかなる、でももし自給自足の生活をしていたらこうはならなかった
もし外部から米でも買うことができないから死ぬほかないからである
そういう生活と今のグロ−バル経済の社会とはあまりにも違っていたのである
田舎でもそれは確かにまわりは田んぼでもその田んぼに関心が薄れていたのである

ところが農業は自然と密接に関係していた、その最も関係していたのが水が汚染されたことである、水は別に農業しなくても日々必要なものだから誰でも困ったのである
また一時この辺では放射能汚染で石油でも入らなくなり車が利用できなくなったとか窮地に追い込まれたのもそうである、それが外部に頼る経済だからそうなっていたのである
田舎に住んでいても農業とか林業とか漁業に関心ある人はそれに直接たずさわる人たちはあっても他ない
そして直接たずさわる人たちも農業でも漁業でも林業でもグロ−バル化して広域化経済になりやめたいとかなり後継者がいないとかなり関心がない、重要なものとして見ていないのである、第一次産業にたずさわるのは一割もいなとかなっている
農業でも田舎でもいない、90パーセントは会社員なのである
だから漁業より原発で補償金をもらった方がいいとなっていたのである

そういう時代に原発事故が起きたのである、それは大きな文明とかグロ−バル社会か影響していたのである、その結果として原発事故が起きたともなる
なぜなら地元で生活する物資でもほとんど外部頼り遠くから運ばれるという時当然そうなる、石油がなければ農業すらできない、ハウスで栽培して石油を使っているからである
つまり石油文明であり石油なしでは社会が成り立たないとなればそうなる
その延長として電気も同じなのである、だからこそ原発が大事だとなる
グロ−バル経済と広域社会の矛盾が原発事故にも現れていたのである
そうした文明を見直すことも必要になったのである
ただそれはそういう社会になっていてそれが当たり前になっているとき本当にむずかしいなぜなら炭で生活する時代にはもどれないからである
でもなぜ原発事故が起きたのかということを考えるとあまりにも足元のことに無関心になっていた、させられていたとなる

原発が地元にどういう影響をもたらすか真剣に考えない、もし自給自足の生活をしていたらもし放射能に汚染されたらもうここでは食料も調達できなくなり住めなくなるとなれば真剣に考えたのである、それが田舎に住んでいても無関心になっていたさせられていたのである、原発事故はそういうことを気づかさせた
それは実は農業だけではないグロ−バル経済は様々なことで田舎でも影響しているし全般に影響している、都会だったら過疎地とか田舎など必要ないとなる
別に食料は外国から買えばいいとなるからだ、そういう社会だからそういう考えになる
だから地方は重んじられなくなったのである、最大の価値は車とか工業製品になったのである
それがやがて都会にもはねかえってゆく、原発事故では実際は東京まで放射能で汚染されたし遠くでも栃木県などの方が放射線量が高いということもあったし東京の飲み水も上流のダムが汚染されたからである


posted by 老鶯 at 08:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

中国の覇権は海の征服と通信の世界 (それは七つの海を支配したイギリスでも電信が大きな力となっていた)


中国の覇権は海の征服と通信の世界

(それは七つの海を支配したイギリスでも電信が大きな力となっていた)

イギリス史家ヘッドリクは,電信を「見えざる武器」だといった。あまり歴史の表面には現れな
いが,おそらく電信こそ,イギリスが覇権をにぎることができた最大の武器であった

1857年に初の電信に成功し,19世紀末には,イギリスの電信ネットワークは,オランダ,ドイツ,
オーストリア,サンクトペテルブルクにまで及んだ。さらに1866年には,大西洋を横断する海底通
信ケーブルが敷設された。


どうして世界の覇権を握れるのか?
意外と注目されていないのが電信である、だからこの時代からすでに電信は大きな力はなっていたのだ
世界の歴史をみれば空間を征服するとなると距離を征服するとなると物理的に距離を縮めるほかない、その労力は甚大なものになる
最初は馬とかで距離を縮める、それでアジアの平原の民が馬で距離を縮めることで空間の征服に成功する、それがジンギスカンのモンゴル帝国であった
馬によって空間をせばめ距離を縮める、そういうことは人間は有史以来してきた
空間を征服することは大航海時代で頂点に達した
その時新しい世界史がはじまり新たな次元の世界が生まれた、陸は馬だが海は帆船だった陸は始皇帝の兵馬俑軍団のように騎馬隊なのである
馬によって空間を征服して距離を縮める、それで日本ですら騎馬民族征服説が話題になったのである、モンゴル帝国は騎馬民族の日本の征服を目指したが海にはばまれて失敗した
なぜ通信とかが大事になるのか?それは情報をいかにいち早く伝えるかが戦争でも生死を分けることに勝敗を決することになるからだ

では情報をどうして伝えるのか?
江戸時代をみればわかる、飛脚であり江戸から大阪まで走りつづけてようやく手紙が書類が届くからである、距離を縮めることがいかに生死を分けるか、経済的利益を得るかが決まるからである
それで北前船ではいち早く大阪の情報が伝わっておおもうけしたということがっあった
北前船は物だけではない、情報を伝えていたのである 

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情報というのは常に人間生活にとって大事なのもであった

エウクレス(Eukles)なる兵士が完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り、「我ら勝てり」とエウアンゲリオン(良い知らせ)を告げて絶命したというこれをもとに第1回近代オリンピックでは、アテナイ-マラトン間の走行競技が行われた。

それは飛脚ともにていた
信長は明智光秀に討たれたときも秀吉が奇跡の中国大返しでもそうである

家康が畿内にいる間に何が起こってもおかしくないことを事前に察知していて、もし何かが起これば、その情報をできるだけ早く伝える指令を出していたのではないだろうか

情報を伝えることはそれだけ大事だからそうなったのである
ローマ帝国でもすべての道はローマに通じるというときもそうである
その道とは物資を流通させるだけでない情報を流通させるものでもあった
それで距離を縮めること空間を征服することが大帝国を作ることになる
でもローマから首都から離れると地方では必ず反乱を起こす、地方は遠くなり中央の意志が伝えにくくなり地方を独自に支配しようとする軍人がローマでも現れたし最近見た「オスマン帝国外伝 〜愛と欲望のハレム〜」でもエジプトに派遣されたて軍の司令官が支配者となり独自にその国の王のようになりそれを密告されて中央政権からつぶされたのである
その軍司令官は自分の貨幣まで発行していたのである
こういうことはローマ帝国でもあった
日本でも満州国の軍人が中央の言うことを聞かないで勝手に戦争に突入したとかあり中央から歯止めがきかなくなり中国に深入りして大敗北になったということが言われる

イギリス南西部のサマセットで2010年に発見されたローマ時代の硬貨およそ5万枚の一部。 

その中にはカラウシウスが鋳造させたとみられる800枚近い硬貨も含まれている。カラウシウスは海賊掃討を任されたローマの艦隊司令官だったが、紀元286年に反乱を起こしブリタニア皇帝を僭称した。7年にわたりこの地を支配したが、自軍内の反乱で暗殺された

これはオスマン帝国でもあったからこういうことが起こりやすいということである

中国がなぜ今世界の覇権国となりアメリカと対立するようにくなったのか?
それは陸の帝国から海の帝国へまた電信の世界、今では無線の世界でITを通じて世界の覇権国になることを目論むからアメリカの覇権と対立するようになった
海を制するものは世界を制するということで南シナに港を軍事施設を作りアメリカと対立したことでわかる、海と通信の世界で覇権を握ることで対立する
それは日本とアメリカの戦争も海を支配することで太平洋戦争が起きたこととにている
だからつくづく歴史は繰り返すとなる、イギリスのしたことを中国は今度はするようになったのである 
雌雄を決するのは海と通信の世界だということがやはり世界史でもそうだったとなるからだ


posted by 老鶯 at 22:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層