2018年12月07日

仙台の師走の一日 (どこも後継者不足で日本が終わる)


仙台の師走の一日

(どこも後継者不足で日本が終わる)

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会津塗りー刷毛の跡がある

師走の仙台に行って街を歩いてきた、今日は用事があった
ドルを円に換えることである、このドルも10年以上前に残っていたものだった
それからトラベラーチェッカーズもそうである、アメリカエキスプレスのものだから信用があった
調べてみたが交換できた、20万円くらいあった
実際はこの交換は損している、なぜなら円安のとき交換していたからである
紙幣は機械で検査した、一ドル紙幣だけが交換できないものだったから良かった
10年以上前のものであり古くなっていたからである
なんでもそこで世界の紙幣が交換できるので余ったものを交換しよう

駅前のトラベルックスはドルを交換するとレートが悪い
それで三井住友銀行で交換した、109円だった
トラベルックスでは100円になる、こういうふうに差がある
だから外国でも場所によって差があるから損している
電話で事前に聞いていったからできた
ともかく海外旅行も十年以上と化していない、日本国内の旅もしてもいないから旅する感覚を忘れるともなる、ただ一応新しいパスポートは申請してもっている
でもこれも使用するかどうかわからない、なかなか海外となると行くのが苦しくなった
国内さえそうだから海外になるとハードルが高くなるようになった

次に自転車を見に行こうとしたが場所がわからずできなかった
何かタイヤが普通のタイヤの何倍もある太いのに乗っている人がいた
聞いてみたら20万したという、私はヤマハの電動自転車を買おうとしていた
それは38万する、電動のマウテンバイクである
でもそのタイヤがこんなに太いとしたそれでどうなるのか?
これは山道を悪路にはいいにしても普通の道路走るにはどうかなと見た
その太いのに驚くからである
自転車は乗ってみないとわからないから困るのである
自分にはロードは向いていなかったからだ
高いから失敗すると大損になるから困る
アメリカのトレックのはボッシュ制の電動を使っている、これは馬力がある
30ボルトとかなりこれはヨーロッパで開発されて人気になった
そもそもe-bikeは体力のない老人用に開発されたのである

仙台と食べ物がいろいろあるからいい、この前は山形の芋煮を食べたし今度は宮城の豚汁を食べた、こうしていろいろ食べられれば楽である
ともかく一人暮らしで困るのは食事なのである、用意するのがめんどうなのである
皿だしてそろえるのもめんどうである、人間いろいろなことをできないのである
だから一人暮らしは外食がいいのだが仙台のようにいろいろなメニューがこの辺ではないのである、それで不便なのである
でも仙台にいたら贅沢できるから金がかかってこまるとなるのである
ともかく料理はめんどうすぎる、そこに時間をかけていたら何もできなくなってしまう

帰りは駅前で店を出しているので会津塗りのお椀を買った
その売る人が言うには跡継ぎがいなくて困ったと言っていた

ここもそうなのか?

漆塗りは縄文時代からあったとか古い、子供の時前の家が漆塗り屋だった
そこで仕事を見ていた、何回も何回も塗りをするから根気もいるし手間がかかるのであるだから大量生産はできない、一つ一つ手作りになるから売るとなると高くなのである
農業も跡継ぎがいない、近くの畑でも借りて畑で野菜を作っていた人が死んだ
そこも荒地になる、隣は車に乗せられて這って畑でやらん作りしてしいたが力尽きて
やめた、その後は草ぼうぼうになり隣でも困る

何かどこでも人手不足で困っている、それで外国人に働いてもらおうとなる
そもそも日本は人手不足というとき日本国自体がそうして崩壊しつつあるのではないかとも思う
人手不足ということは民族の力が衰退しているからなのかもしれない、弱体化しているからかなのかもしれない、日本が戦争に負けたとき不思議なのだが民族の力は弱体化しなかった
戦後団塊の世代が大量に生まれたからである、それで高度成長となったのである
その反作用として少子高齢化になり日本の国力が衰退しているのかとなる
この後継者不足は実際は相当深刻なものであり日本の国力の衰退となる
そうすると他国からの侵略を受けやすいのである
例えば耕作放棄地とか空地とかが多くなると中国の人に買われたりする
特に北海道ではそうなっている、ただ放置しておくより金にした方がいいとなるからだ
それで空地とか耕作放棄地はソーラーパネルにもなる、すると景観が破壊されたりする

例えば駅でも無人化すると変なのだけど取り仕切る者がないから勝手にする人がでてくるそれが自分だった、JRの社員とか駅長から嫌われているからである
勝手に自分たちの仕事の中に入ってくるなり嫌われている
でも無人駅だからこそそういう人もでてくる
それは悪いことをしているのではない、誰もいないからそれを補うことをしている
そうして無人化することは何か勝手にそこを自由にする人が出てもどうしようもないことがある、誰もいないから管理していないから勝手にされるのである
そもそも空地にしている人はただ土地をもっているだけで利用していないのだから土地があっても活かせないのだから所有する権利すらないともなるのだ
それは空き家でもそうだし土地でもそうである、そういうことがこれから少子高齢化で増大してくるのだ、それは800万軒の空き家が生まれるとか空恐ろしいものなのである

いづれにしろ日本はどうなるのか?人手不足で会社が継続できないとか伝統も維持できないとかもう日本が終わりなのかとも思う
国力が衰退すると必ず他者が他国が侵入してくる
それはそこに人がいないと土地でも放置されているとそうなりやすいのである
誰かが勝手にしてもそれをとめることができなくなる
むしろ耕作放棄地なら誰かが勝手にそこを畑にしても文句言えないとなるのだ
それは土地を活かしているからである、ただ土地をもっていても放棄しているのだから誰かが活かして使ってもらった方がいいとなるからだ




posted by 老鶯 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年12月08日

師走の仙台を歩く(短歌十首)


師走の仙台を歩く(短歌十首)

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みちのくの駅々に散る紅葉かな

木の葉舞う人入り乱れ仙台へ  

仙台の路地のいくつも師走かな


仙台に人入り乱れ木の葉舞う人せわしき行き来師走となりぬ

仙台の銀杏の古りぬ通りかななお散り残る黄金(きん)の葉見ゆ 

二本の(ふたもと)の銀杏の木立にけりホテルの前や冬となりにき

仙台の通りを行けばはなやげる銀杏散りてハイヒールに行く

仙台の喫茶店に入り今買いし本読む銀杏散りにき

民芸店路地にありしも灯のともり冬の夜ここに入り見るかな

仙台の並木道行き師走かな人それぞれや思い交差しぬ

仙台の路地を曲がりてまた曲がり短き日のはや暮れにけり

冬の夜の仙台の街のともしびを電車より見つつ帰りけるかな

みちのくの駅々とまるともしびのあわれや冬の夜帰りけるかな


仙台には東北では街の情緒がある、それはせこの辺では原町市とか相馬市とは違う大きな都会の情緒である、ただ東京とかなると大きすぎるから情緒もなくなる
街歩きで楽しいとなると仙台くらいの規模がないとない
この辺では仙台とか盛岡になる

そして最近家事をして料理などして気づいたことは人間は豊かになると器にこる
ただ食べるだけではない、器にこる、いろいろな器を茶碗でも装飾でもこる
それで茶の湯が生まれた、人間はただ腹が減ったからとがつがつ腹を満たすというのではない、人間は豊かになれば文化を生きることになるのである

現代はいろいろなもの物やインフラは整備された、ハードが整備されたからソフトの時代文化の時代になったのである
そして別にこうした茶碗とかでも高いものは買う必要がない、種類をそろえると楽しめることがわかった

フラワーアレンジメントをして壺などでガラスのも通販で買ったが別に高いものではなかったからだ、ただ種類をそろえると楽しめるのである
だからこうした趣味でも必ずしも金がかかるというわけではないのである

仙台だといろいろな店を見て回り楽しむことができる、店とは見せるからきているからである、本も買ったが今はほとんど通販である
でも今買ったばかりの本を喫茶店で読むのは記憶に残ったりする
書店でも古本屋でも実際に見るとこんな本があったのかと気づいて買ったりする
ただ本は高すぎるから今はほとんど古本とか通販でしか買わない
高いものは買わないでもそれだけで十分になっているからだ

前は一週間に一回仙台で本を買ったいた、今になると本がこんなに多いのかと驚く
前もそうだったがアマゾンとかで買えるようになってその多さに驚く
それだけ知識の量が膨大なのである
それで田舎では知識を吸収する面では不利だった、そもそも本が読めないと新しい知見も得られないからである
今は膨大な本を読んで何か編集するように読んでいる
インタ−ネットでもそうだが編集することで新しい創作になっているのだ

介護十年で仙台でさえゆっくりと行けず楽しむ余裕さえなくなったいた
それをふりかえると介護の負担は人間的生活すら奪ってしまうと思った
余裕がなくなってしまうのである、その負担が大きすぎるのである
今回はようやくゆっくりと仙台を楽しめたなとなる
何か十年前の状態に戻ったという感じになる
そしてまだ仙台に行けるなと喜びを感じてもいる
下手すると死んでいたかもしれないからである









職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない (地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


職人の仕事が失われてゆく、後継者もはいない

(地方を活かす文化が再び求められているのだが・・・)


「福島県地域おこし協力隊」を募集します。

福島県には、国見町のあんぽ柿、会津美里町の会津本郷焼、須賀川市の牡丹、西会津町の会津張り子など、多くの伝統産業が地域に息づいています。
 これらは、地域の風土、気候に根ざし、歴史を紡ぎながら独自の産業として 受け継がれてきた「宝」であり、「地域住民の誇り」です。
  
  
 南北朝時代、時の武将「斯波兼頼」が山形市で地盤を築き、以降職人の町が発展した際には150を超える職人屋敷がありました。
現在、伝統を受け継いだ職人さんは急激に減り、桶樽や竹細工など残念ながら埋没してしまった技術もあります。和傘や漆器、鋸や特技木工は特に事業の承継が急務な状態です。



職人の仕事がなぜあったのか?
そもそも戦前から江戸時代は地元密着の経済だったからである
地元にあるもので生産して消費する傾向があった、外部から入るのではなく外部に頼るのものでもない、自給自足が原則だった
それはそもそも農業に従事する人が8割だったというとき当然そうなっていた
その土地に根ざした生活が基本になるからである


このテレビ放送は面白かった、室町時代にこの土地で飢饉があったがこの芋だけはとれて助かったとその家に伝えられているのも古い歴史がある、室町時代となると残っているものが東北では少ない、それが農家に伝わっていたということで興味をもった
そんな言い伝えが山の一軒の家に残っていることの驚きである
飢饉は崔さんあり山の人たちが買えって山に食料があり助かったとかも伝えられている
また米だけを作っていることで飢饉になり苦しんだとかある、土地にはそもそも米だけではない多様な食料を作っていたからである、米は伊達藩では江戸に売る商品作物化して飢饉になり食べるもものがなくなって死んだとも伝えられるからである
これは現代ではグローバル経済でコーヒーだけを作っていた所でもそうしていろいろものを食料として作らないからコーヒーが売れないとそうなっていたのである

何か私はこうしてその土地に根ざしたものがあるとき関心をもつ、そこに歴史があり土地に密着したものがありそれが人間の本来の生活だったともみるからである
だからそこにこうして物語がある、会津でも木地師の物語が伝説が残っているのはそのためである

そもそも職人とは今のように特殊な人たち、芸術家のようなものではない、ただ日々の生活に必要なものを手作りで作っていた人たちである
それを民芸としたのは近代になってからである、竹細工とかあれば竹で籠などを作っていた、そういう人が近くにいた、籠屋とかいたのを知っている
竹を削り竹を編んで籠を作っていたのである、漆屋も近くにいた
そこでは何度も何度も塗りをしていたのを見ているから一個の製品を作るのが手間なのである、それは職人はみんなそうである、石屋とかもあり近くで石を一つ一つ鉄の道具でたたき削っていたのである、墓一つ作るのに手間だったのである、手作業だからである
それがなんでも機械化した、墓の戒名でもなんでも人の手で彫るのではない機械でしているから楽なのである

だから団塊の世代は戦後生まれであり戦後十年は江戸時代の継続だったからある程度江戸時代をイメージできるのである、高度成長時代になったとき急速に変化したのである
だから職人の世界というのをこの世代は親が職人だったりするからまだ理解できる
私の父親が酒屋の丁稚だったということでその丁稚のことで時代劇を見た
暖簾分けして一人前になる物語でありそれが何か身近に感じたのもそのためである
第一自分の家がその暖簾分けした家だったからである
すると江戸時代からの継続があり江戸時代に興味をもつのである

確かに職人の世界は喪失した、陶芸以外は厳しい、陶芸はまだまだ需要がある
そしてお土産品にはいいのである、その土地独特のものとして室町時代からでも継続しているのがあるからだ、相馬焼は大堀焼は古いから他に技術が伝播された
職人の手仕事の世界には今の物とは道具と製品は人間味があり人間臭いのである
そこにだから物語が生まれ伝えられる
今の大量生産の製品にはそうした人間味がない、人間が作ったというより機械でロボットで大量生産した画一化されたものとしてある
それぞれに個性とか土地の匂いとか文化はないのである
どこでも文化が喪失したのである、なぜなら文化とはもともとcultivate-cultureから来ているからだ
その土地を耕すということが文化なのである、甚五右ヱ門芋とかがまさに文化なのであるその土地の名のついた練馬大根とかもあり他にもある
それが特産品となりその土地のものとして伝えられてきたのである
だから江戸時代の方が食べるものでもその土地のものからとれたものが出されたから味わい深いとなる、郷土料理は別に特別なものではない、その土地でとれたもので工夫して作られていたのである

ともかく今盛んに文化の時代になるというとき大量画一生産からその土地のものを作り出すべきだというときそれは戦前まではあった、それが失われたとき一体その土地独特のものを作り出すことは容易ではなくなる、また同じようなものを作っても伝統が活きるとはならない、伝統でも新しいものが加わらないと商品化しにくいのである
地域おこしのむずかしさはやはりそうした伝統が消失してきたときそれでは新しものを簡単には作れないのである

ただあくまでも日用品として生活の中で日々使われることで道具でも物でも活きる
芸術品のように鑑賞品となるだけでは活きてこないのである
そこがまさに現代の民芸の問題である、それは日用品として使うものではない、特殊ものとして見られるからである
つまり今は職人の仕事は芸術家のような仕事に見られているのである
でも現実には手間がかかり高価になったりして何か実用品より芸術品のように見られているのである、それでここも跡継ぎがいないというとき金にならないといことでそうなる

それでも現代は大量生産の品物とか道具に飽きている、だから茶の湯のようにお椀とかその作法とかにこるようになり芸術化する
実用と機能性重視からお椀を手に取りそのお椀をしげしげとながめくろいだ時間を過ごすようになる、茶碗でもコーヒーカップでも色の違ったものとか変えて気分転換するとかなる、そういう時代にもなっている
ただあくまで日常的に日用品として使うことで道具でも物でも活きてくる
その基本は変わらないからそこで新しいものを作る必要が生まれる
会津漆器のお椀でもレンジで使用できるものを作っていたとかなる

ともかく何か土地の物語が文化が失われたのが現代でありそれを回復しようとするが現実はその基本としての生活に使用されないから回復するのがむずかしいし後継者も育たないのである
職人に弟子入りして苦労するというのも何か現代では向いていないのである
だから職人芸というものも工場での製品作りにあったがそれもコンピュターに伝承させるとかなっているのである
それでもデザインとかは本当に抽象画をパソコンのソフトで作ってみて多様だからそういう装飾性をくわえることは新しい技術で変えることができる
そもそもartは技術き意味だったからである

posted by 老鶯 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年12月09日

ベニスの紋章(Venice's coat of arms)ーabstract painting about venice


ベニスの紋章(Venice's coat of arms)ーabstract painting about venice

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Islamic Palace


ベニスは商業の都市として栄えたが今は芸術の都市である
一時はオスマン帝国に支配されていた
そこでベニスの大使が豪華な衣服を来てオスマン帝国の首都のイスタンブールを訪問する
その帽子も形が面白い

この抽象画はこのドラマを見てイメージした
花模様はカンナににている、カンナは大きな花だからである
ベニスは世界で一番不思議な港である
あのような都市は世界でも他にはないから魅了される

Venice flourished as a commercial city, but now it is a city of art
At one time was dominated by the Ottoman Empire
So the ambassador of Venice came luxurious clothes and visited Istanbul, the capital of the Ottoman Empire
The shape of the hat is also interesting

This abstract picture looked at this drama and imaged it
The flower pattern is in Kanna because Kanna is a big flower
Venice is the most marvelous port in the world
Such a city is attracted because there are no other cities in the world




Islamic Palace

2018年12月10日

アメリカの国の成り立ちをホイットマンから読む(短歌十首) (日本は時間軸に生き外国は空間に生きる)


アメリカの国の成り立ちをホイットマンから読む(短歌十首)

(日本は時間軸に生き外国は空間に生きる)


アメリカの空広々と大なり冬の夕焼け赤々と染む
アメリカの建国いかにリンカーンの丸太小屋や冬の日暮れぬ
大いなる太古の巌層をなし大森林や凍てつきにけり
アメリカの国土広しも長々と冬夕焼けの赤々と染む
アメリカの国土の広しも冬夕焼け赤々と消えず心に残りぬ
アメリカの大陸走る凍てつくや貨物列車の長々と行く
西部なり原始の磐のそそりたち冬の月いで明るさ増しぬ
アメリカの大地に根付きインディアン住みしもあわれ昔を語る
アメリカを希望の地として渡り来ぬ夢のふくらむ大陸なるかな
アメリカの冬の夜ふけぬアムトラック誰か一人おりプリンス駅かな



とても書ききれない
詩にも言葉にもできない
新大陸の万物が人々の営みが
一人の詩人、ホイトッマンにおしよせる
その万物に人々に意味を与えようとした
多くの死者にも、名もなき人々にも
アメリカに国王はいない、貴族はいない
アメリカは血筋ではない、自力で這いあがる国
一人一人その土地を拓いて主となった
その自ら開いた土地を守るのは銃であった
その荒野に警官はいない
荒々しい原始の巌が屹立する
彼らは何を頼りとしてたのか
聖書一巻たずさえ信仰なのか
彼らに古いヨ−ロッパの教会は大聖堂はない
その歴史もない、粗末な教会を建てる
リンカーンは粗末な丸太小屋からはじまる
黒人は奴隷として連れて来られる
白人の下で働かされる
しかしその黒人も建国とともに古い
アメリカに様々な国の人が人種が押し寄せる
アメリカ合衆国はいかにして成りしか
それは壮大な実験場なり
今も移民が押し寄せる
アメリカの産みの苦しみは今も続いている
アメリカの土地はその広い土地
その資源、石油、そして機械工場産業
巨大技術が大陸に適応する
莫大な富を産み出すも
アメリカの歴史はまだ古層とならぬ
原始の山塊が岩山が砂漠に横たわる
なお国は新しく産みの苦しみにある
人種や言葉が混交して分断の危機にある
アメリカの国土はまだアイデンティティ化されていない
広大な原始の大地がまだ広がっている


まず国を理解するとなると容易ではない、地理の理解に始まるがそれ自体が中国でもアメリカでもあまりにも広大すぎるのである
日本の感覚では理解できない広さである、空まで広いと感じる
それで日本は時間軸に生き他の国は空間に生きるというときなるほどと思った
日本は狭いからその狭い中で工夫して生きる、時間軸というとき狭い中で何か時間的に集積してゆく狭い土地で生きる術を身につけてゆく、それは土地が制限されているからである

だから日本には空間を生きるより時間を活きるとなるのかもしれない。狭い中で歴史の積み重ねがあり工夫して生きるとなる
茶の湯などの文化も狭い国に生きることから生まれた芸術である
俳句とか短歌でもそうである、俳句などこれほど短い詩は世界で存在しないからである、それは日本の風土にあったものだから生まれたのである
それでグランドキャニオンを前にして俳句とか短歌など作れるのかとなる、その差に愕然とした、そこは地球なのかと火星なのか別な惑星に来た感じになったからである
その時言葉を失う、とても一句詠むかという気分にもなれない、それほどスケールが大きすぎたのである

外国が大陸国家になると空間を生きるというのはその広さを知ればわかる、無限に広がる大地が空がある
すると遊牧民などは無限の大地とか草原とか砂漠がありそこを移動してゆく、移動する生活である
特定の場所にこだわり生きる訳ではないからこれまた理解しにくいのである、一つの場所に日本の村のような所に生きるのではない
それで日本では一つの狭い場所からぬけられないから村八部が制裁になる、それは重いものとなる、そこで暮らすことが辛くなるからだ、そしていじめが日本ではどこでも普通にある
北海道には広いからいじめがないというときそうなのかともなる

日本の感覚は狭すぎるのである、大陸国家だと空間を生きるというときその住んでいる場所が暮らしにくいとしたら移動すればいいのである、するとその広大な土地に新しい世界が開けるとなる
空間を征服することが生きることになる、世界史をみてもそうである、空間が拡大してゆくことが新しい世界を見ることであり開けることなのである
日本でも明治維新で北海道がフロンティアになったことでもわかる
まだ開かれていない土地があったからそうなる、アイヌが住んでいたとしてもそれはアメリカのインディアンとにていてやはり広大な開かれていない土地があったから移住できたのである

遊牧民の空間感覚は農民のように土地に定着するものと根本的に違っているのだ、その世界観も違ってくる、都市は遊牧民が作ったというとき遊牧民は自ずと移動するから商業民族になる
するとオワシス都市があるようにその中継点として都市が生まれる
空間を結ぶものとして都市が生まれる、オワシス都市を結ぶものとして都市が生まれたとなる
農業からは都市は生まれにくいともなる、農業は移動しないからである、都市は商業都市であり物資の流通や人が行き交う場所に発展して作られるからである
そして空間を生きるという時大陸国家では河が重要な役割を担う
それは道路と同じであり遠くを結ぶものとしてある
広い空間の離れた地点と地点を結ぶものとしてある
河は運河ともなり現実に道路と同じなのである

資本主義というときcapitlismでありcapitalとは頭のことである
それは羊の頭だともなる、羊とともに移動して生活するのが遊牧民である、そこから資本主義が生まれたという説もある

(英語: capital)の語源は、ラテン語で「頭」の意味を持つ「caput」で、12世紀から13世紀にかけて動産を意味するようになり、更に「資本家」や「資本主義」との言葉が派生した「資本家」(英語: capitalist)との用語は、17世紀に「資本の所有者」との意味で使用されるようになった


ここで説明されているように頭には資本という意味もある、日本の株もかぶら(頭)からきているから共通しているのかとなる

大陸国家から資本主義とかグローバル社会が生まれたことは確かである
イスラム世界は遊牧民から生まれた、一神教は遊牧民から生まれた
それは農民から生まれたのではない、一定した土地をもたない遊牧民の宗教なのである
だから空間を生きる遊牧民がやがて地中海に進出するフェニキア人の祖先だったとかとも言われる、アーリア人というのも遊牧民でありヨ−ロッパは遊牧民を祖先とするともなる
ただローマとのなると先祖は農民であり農業国家として発展したのである

大航海時代というときも空間を生きる遊牧民の末裔が開いたとなる
航海は未知の世界でありその知られざる世界を発見することだからである、それは大きな冒険であり死ぬ人もそのために普通にいた
アメリカに船で渡った人たちも死んでいる
今は移民でもやはり命がけで死んでいる、ただ今の移民はそこが豊かだからそこに住みたいと移動する
それもやはり過去にもありローマ帝国があったところにいろいろな蛮族が押し寄せたという時ヨ−ロッパの歴史にもそういうことがあった、文明国を目指して蛮族が移動したのである
つまり大陸では空間の移動が大規模に起きる、それで歴史が変わる
日本ではそういうことがなかった、海に囲まれていてなかった
ただ秀吉が朝鮮半島を遠征したことはあったくらいである
それ以上広がらないのはやはり海に囲まれていて大規模な移動ができないからである、そのことでモンゴルも大挙押し寄せたが海にはばまれて日本は征服できなかったのである

いづれにしろホイットマンの詩が理解しにくいのはその広大なアメリカを詩っているからなのだ

押韻も、古典も、外国の宮廷に漂う香料も、屋内の書庫もわたしは歌わず
私の歌う香気とは、例えばメインの松林、それともイリノイ大草原の息づかい、それにバージニア、ジョージア、テネシーの、それともテキサスの台地、フロリダの湿地帯から
それともサギネイ河の黒い流れ、ヒューロン湖の広く青い湖面から
漂いよせるさわやかな空気、
そしてイエローストーンの風景やヨセミテの描写
それに底流を成す低いつぶやき、すべてにくまなくゆきわたる
不変の調べ、世界の二つの大海から終わりなくひびきつづける
あの波立ち騒ぐ海鳴りも歌うつもりだ

これだけの広大なのアメリカが開けたしそれを詩にするとなるとあまりにもスケールが大きすぎるからそれを日本では理解しにくくなる、日本ではこうした詩が生まれようがない
それはそうした背景の風土がないからである
日本は最果ての土地にひかれるというけど島国だからすぐに最果てになってしまうのである

そして大陸国家が遊牧民から始まって空間を生きるというときなぜかアメリカ人が西へ西へと進出する拡大してゆくというときそういうふうにそもそもが空間の拡大征服を生きるのが遊牧民だったからだとなる、そういう性質というか文化をもつ人たちだったからだとなる

アムトラックでアメリカを旅した、それでもロサンゼルスとかからシカゴまでとか行ったのはアメリカの一部なのである
とてもその広大さを理解することはできない
テキサスとなればさらに広くメキシコに接する土地となる
砂漠もあるからその広さに空間に生きているというのはわかる
その広大な土地の感覚から世界を見るからアメリカを理解するのがむずかしい、日本はその土地に制約されたものとなる
だからこうして遊牧民とか空間を生きる世界から生まれたという資本主義というのは日本にはあっていないのである
グローバル経済もあっていないのである
そういう世界に適合できないのである、そこに文化や歴史の相違があり溝があり適合できないのである

大陸国家では常に空間を生きるから摩擦が戦争が生まれる
ともかく激しく対立してそれでそのあとに調和を産みだす、理解し合うとなりルールが法律が生まれる
それで外国では自分の主張をいい喧嘩もいとわないとなる
そこで互いの合意点を探るとなる
日本だと争うことをそもそも嫌う、それは狭い土地で村とかで生活して離れられないからである
だからなるべく穏便にすませる、事をあらだてないとなる
いい点としては敵味方塚のように敵まで手厚く葬る

東北では明治維新の戦争でも薩摩長州軍でも官軍でも敵味方塚として葬っているのである、それを中国人が見たらありえないとしている、中国では墓まで暴いて敵を罰するからである
それだけ大陸は空間を生きる、その争奪戦が過酷になる
民族同士が熾烈な戦いになる、負けたものは奴隷にされる
そういう過酷な世界なのが大陸国家だったともなる
日本は歴史でも異民族との争いがないから敵味方塚がありえたのである、同じ日本人じゃないかとなり通じ合うからそうなる
腹でわかるとかなる、でも外国ではそうはいかない、わかるように説明しなければならないのである、そこでルールが大事になり法律が生まれたのである




2018年12月11日

原町区の深野の人が東京の方に牛売りに行く (30キロで区切られて補償金が少なかったことの不満を言う)


原町区の深野の人が東京の方に牛売りに行く

(30キロで区切られて補償金が少なかったことの不満を言う)

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駅で今日朝に会った人は深野の人だった、東京の方に牛売りに行くという
東京の方で大きな牛を売る市が開かれる、そこでセリで売るから値段は決まっていないという、肉質で値段が決まるという
その人は小規模に牛を飼っている人である
深野に大きな牛舎があったから大規模にしている所もあった
それを震災以後放射能被害でやめていた
その人はつづけていたのである

それで不満だったのは30キロで区切られて原町区と同じようにもらえなかったという
その不満をしきりに言っていた
ええ、そうなのか?深野は原町区であり同じようにもらっていたというより
例えば石神とか放射線量が高かったから街内よりもらった人がいた
その人は新しく家を建てた、おそらく資金ができて建てたとなる
ただローンも組んでいるからそれほど余裕あるという人ではなかった

それにしてもなぜ深野ですら同じように補償金を払わなかったのか?
それは本当に不公平である、それは他でも30キロで区切られるとその内と外ではその差が大きすぎたのである
それでもめるようになった、それは政府で放射線量の度合いで補償金の額を決めたわけではないからである
ただ30キロで区切りその圏外は補償金を払わないとしたのである
そのことで市町村が分断されたのである

それに対して市町村で対策できなかった、それで補償金が金が恨みとなって市町村が分断された
30キロ圏で区切られた結果、それは鹿島区の塩ア辺りで女の人が子供も争っていじめになっているとか補償金がもらえないので苦しいとないて訴えていたのである
ここだけではない、前の都路村とかでもそうして区切られてもめていた
放射線量は全く変わらないのに差別されたからである

牛を売るという時飯館村でも被害が大きくやめた人が多い、でもその人が言うには補償金を多くもらった人は大きないい機械を買ったという、それでうらやましがっていた
それだけもらった人はもらったのである
飯館村では補償金の額が多いからと外に出て立派な家建てて帰ってこないとか言う
それで飯館村では残る人と残らない人に分断された
出ていく人は補償金をもらって外で暮らしたいとなったのである

これで何がおかしくしたのか?

政府で30キロ内で補償金を払う払わないを決めた

それにたいして自治体では何の対策もしなかった

そして分断された

南相馬市だと合併したのだから平等にするべきだった、少なくとも何らかの対策が必要だった、例えば鹿島区は半年で医療費とかの無料とかは打ち切られた
それで不満をもっている人がいる、原町区は今でも無料とかともいう
長く補償されていたし高速もずっと今まで無料である
やっと鹿島区は市長が変わり高速が無料になったのである
それで前の桜井市長に不満を言う人が多いのである、ただ原町区の人にとってはそういうことはない、鹿島区の三倍もらっしいるし他にも補償がつづいていたからである

とにかくこの補償金ではもめた、理不尽だったのである
そのことが今でも尾をひいている、それで協力しづらくなり復興が進まないということもある
いくら政府で決めてもそれを自治体の都合とかありそのまま受け入れることは問題だったそれは原発そのものが政府主導であり逆らえない構造になっていたと秘密にされていたとか前の左藤知事が言っていた、それでプルサーマルのことで抗議してそれがきっかけで政府ににらまれて別な件で逮捕されたという説もある
政府は権力をもっているから一方的に決めてしまう

それに自治体が対抗できないのである、そのことで復興が進まない原因にもなる
原発事故では政府の対応とかが厳しく問われたがその責任は誰もとっていない
また自治体の対応も問われたがこれも何の対策もなくただ分断されて協力できないようにしたのである
そこには議員でも何の働きもなかった、現実に鹿島区の議員が仮設の小高の人を応援して票を入れてくれと頼みにきたのである
南相馬市になったのだからそれも仕方ないがそれにしてもその議員にしろ鹿島区の不満を考えないのである
ともかく政府と自治体の関係が問われたことは確かである
ただ国の方が政府が権力をもっているから自治体でも逆らえないということが原発事故の原因にもなっていたのである、原発は国が推進するものであり強力な国の権力で推し進められたものだからそうなった、事故以後そうだったのである

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常磐高速の鹿島のSAのイルミネーションがいい


常磐高速の鹿島のSAのイルミネーションがいい 

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鹿島の駅は去年と同じイルミネーションである
なかなか年毎に変えるのは予算とかまたは手間でできないのだろう
鹿島のSAは道路公団とかかかわってしたのかきれいにできている
通り抜けができる所がいい、他でも今の時期はいろいろ見れる

馬をあしらったのは相馬らしいとなる
常磐高速ではとにかく人が集まるから何かしらイベントするのに向いている
何かを売るというときもやはり人が集まらないと売れないのである

2018年12月12日

小山田にある道標と道引地蔵 高速道路と忘れられた道標(詩)


小山田にある道標と道引地蔵

高速道路と忘れられた道標(詩

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上真野へー小山田ー岡和田

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馬坂神道ができて古道がある、馬坂新道は高速道路と似ていたのである


道の辻にひっそりと
枯草に隠され道標があった
その字をなんとか読む
東 岡和田
西 上真野
これはすぐ近くだ
昔は近くを示す道標がある
それは今はどこでも忘れられている
それはなぜなのか?
車がひっきりなしに行く道に忘れられている
そういう道の辺には必ず馬頭観世音の碑がある
昔は馬で荷を運んでいたからである
昔は歩いていたからである
それでこんな身近な所にも道標がある
もう今はこの道標を見る人はいない
なぜならその前を高速道路も走っている
新道が古道になる
時代は急速に変わった
遠くから車がひっきりなしに来る
近くは忘れられている
その視線は遠く遠くへと高速のように伸びている
その上に道引地蔵が祭られている
何か不明の石をおく祠がある
そこにまだ生きていた赤とんぼが一羽飛んでくる
今冬の日がここにさしてしばし休む
近くに隠町(かくれまち)という地名がある
何か私はここで休みたくなった、眠りたくなった
山眠る時期だが高速でも車はひっきりなしに行き交う
休むことなく行き交う
世の中は常に変化である
そしてここに地蔵と道標が忘れられている
枯草におおわれ忘れられている  


最近よく常磐線のSAに行く、それほど遠い場所でないから行ける、遠いとなかなか行けない、そこはいつでも自転車で行ける場所である
でも昼食をとるには行けない
そこまで行くのに遠いと疲れるからである、だから近くでないと昼食は行きにくい
昼食も手ごろな値段のがこの辺にはない、1000円だと高いとかなる
だからたまにしか行かない

なぜか最近SAに行くようになったら小山田を通る、すると小山田を意識するようになるのも不思議である
やはり頻繁に行く所を人は意識するようになる
だから新しい人が集まる場所ができることは過去もそこの歴史なども意識することになるのだ
人間とはそういうものだと気づいた、昔の遺跡でもそれは今の生活からかけ離れた所にあると意識しないのである
日々に行く所を意識するのである

だから桜井古墳は街中にあり意識する、そこは公園にもなっていて日常的に意志する
小山田で今回なぜここに道標があるのか、草に埋もれてあったのか?
すぐに上真野であり岡和田であるからこんなところに道標が今なら必要はない
ただ道標はどこにでもある、例えは横手にも栃窪へと印した小さな道標がある
それはあまりにも小さいので気づかない、線路がある道で横手古墳があるところである
それに注意する人は今はなくなる

道標はたいがい明治以降である、江戸時代のがあればこの辺では貴重である
なぜこういう場所に道標があるのか?
それは昔は馬で行くか徒歩で行くしか移動の手段がない
ただ岡和田から上真野に行くとしたらみんな地元だったら知っている
道を知っているからあえて道標が必要だったのかとなる
遠くから知らない人が来るなら道標を見るがここに住んでいる人なら道標がなくてもわかる、ただそう見るのは今の時代から見ているからである
やはり必要だったからここに置かれたとなる
ただどこでも道標は多いのである、やはり目印として欠かせないものだったのである

ともかくあそこは常磐高速が通りその下に隠町とあるのも奇妙である
頻繁に車の通る下にあるからだ、そこに生きていた人がこれを見たら驚くだろう
道標とかは確かに遠くを示すのならわかる、旅では必ず分かれ道があり必要だからである右と左に道が分かれていたら間違えたらとんでもないことになる
歩いてゆくのだから簡単に引き返せなくなるからだ
ただ今は歩く旅がどういうものなのかわからなくなっている
分去(わかれさり)という地名が多い、それはそこで分かれてもう会うことがないということにもなった、今なら会う気があれば距離に関係なく会えるからである

分去(わかれさり)永遠に別れし人もがなここに木の葉の舞い散りにけり

車社会になるとどうしても人間的なものが失われる、そこに人と人の出会いがない
車は閉ざされた空間なのである、だから誰がいるのかもわからないのだ
旅したとしても車の人が泊まっていて誰がいるのかわからない、話もしないからだ
そこは閉ざされた空間なのである、道連れの旅などもないのである

街道を旅している人を見たら歩いているから出会いと別れがある
後姿をいつまでも見ている、やがてその姿が消えてゆく、そこに時間があり人間的なものが生まれる、車だったら一瞬にして消える、だからキレル時代なのである
バイクでもそうである、早すぎるのである

いづれちしろあそこで坂があり高台に上ったら道引地蔵というのがあった
あとなにかわからないが石が小さな祠に飾ってあった、何かそれはわからない
そこで休んでいたらまだ赤とんぼが一羽とんでいた
赤とんぼが地蔵にとまるとかなると何か江戸時代の雰囲気になる
地蔵だって昔はなんらかそこに生活する人に欠かせないものであり活きていたのである
人々がお祈りしていたからである

ともかくなにかあそこでは不思議な気分になった
近くでも発見されないものがいくらでもある、昔は忘れられているからである
人間そのものが死ぬと急速に忘れられる
それで昔も忘れられてしまうのである、そこだってひっきりなしに車が通る、その道標など誰も見る人もいないのである
高速道路を行く人となるとそれこそこの土地のことは関係なくなる
ただ道路を走る機械が行くというだけになる
SAに休んだとしてもそれはその町のことを何か知るということもないのである

2018年12月13日

明治維新で日本だけが工業化できた謎 (識字率の高さとか教育の結果なのか?)


明治維新で日本だけが工業化できた謎

(識字率の高さとか教育の結果なのか?)

明治当初の就学率は男子43%、女子10%と推計するデータもある。さらに、開国以降、日本の輸出を担ったのは生糸であるが、その生産は慶長元和(1596年〜1623年)から正徳享保(1711年〜1740年)のころまでの約100年の間に生産量が4倍増となるなど、問屋制家内工業を主体として定着しており、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていた
改正小学校令(1907年)で6年と定められ、そのころまでに小学校への就学率はほぼ100%近くにまで高まった


1902年明治35年116歳
1912年明治45年
1912    大正元年106歳

まず工業化という前に識字率が上がらないことにはどうにもならない、工業化の前提として読み書きができなければできない
その読み書きが江戸時代にすでに寺子屋などがありできる人が多かったという
でも現実は読み書きは侍階級ではできていたが庶民は別である
農民で読み書きできる人は少なかったのではないか?
識字率が高い、読み書きできる、文字があることが文明を作る、だから楔形文字とかエジプトのヒエログリフなどで文字が神聖化されたし中国では漢字が発明されたときも神聖なものにされた、日本が奈良時代に中国から漢字を取り入れたとき唐の文明文化を取り入れて国家を形成した、だから読み書きができることが文明化できる基本になる

明治維新でもそうだった、外国語を訳すとき大和言葉だけでは訳せないのである
新しく入って来た概念を現す言葉を作れないのである
それで漢字で造語したのである、それが中国にも逆輸出されたとなる
つまり漢字にはそれだけ造語能力があるということなのだ
大和言葉にはないのである、新しい概念はカタカナにするほかないからである
それも明治維新に成功した理由だとなる

言葉がなぜ基本になるのかというと技術的なことでも言葉を通じて取り入れることが最初にあるからである、物だけではな言葉を通じて新しいものが入ってくるからである
それで翻訳するのでも日本人は苦労した、杉田玄白らの(解体新書)などがそうである
それはあらゆるものでそうだった、つまり明治維新という時、侍の吉田松陰とか西郷隆盛とかの英雄が話題になるがその底辺でも何か明治維新を成功させるものが働いた
上を改革しても庶民レベルでも何かそれだけの改革をさせるものがなければできないと思うからだ、そういう下地がないとできないからだ

だから何かがその下地としてあったからできたとなる、ただ工業化というとき籠で人を運んでいるようなのを見ていると急速に鉄道になったということの変化は大きかった
最初鉄道が使われたのは人を運ぶというより物資を運ぶことだった、常磐炭田ができて石炭を東京に運ぶために常磐線ができたともなる、それはどこでもそうだった
その後に人を運ぶことが主となったのである
イギリスで産業革命が成功したのはエネルギー源として石炭が豊富にあったからだとされる、そこに技術改革があり成功した、何か下地となるものがあって成功する
何もない所から何も生まれないともなるからだ

だから確かに日本の教育が読み書きができる人が多かったからそれが下地となり明治維新が工業化をいち早くできたというのは大きな原因だということが言える
でも最近わかったことは私の父親が葛尾村から酒屋に丁稚奉公に出て双葉の前の長塚村の新山で働いていたということを書いた
私の父親は良く筆で字を書いていたのである、明治生まれでありどこで字を覚えたのか?どうも学校ではない、それがなぞのだが字を覚える場所はまた寺子屋だけではない、葛尾村に寺子屋があったとは思えないのである

それで最近読んだ本の中に丁稚奉公で字を学んだことが書いてあったので納得した

「相模屋の丁稚たちは店の営業を終えた後、番頭の忠兵衛が師匠役でいわゆる読み書き算盤を教わっているというのです、しかし下女の自分は教えてもらえない、丁稚たちが字を教えてもらっているのをみるとうらやましくてしかたがないとそれを聞いてほろりとしましたね」〈不便でステキな江戸の町ー永井義男)

下女は字を教えてもらえなっかた、丁稚は仕事上字を読み書きできないと仕事にならないから覚えさせられた、私の家には父の通い帳が残っていた
とにかくよく筆で字を書いていたのである、そして死ぬときも最後に記念として将棋盤に私の名前を書いてくれたのである
人間にとってやはり基本は読み書き算盤なのである、それが高等になって算盤が数学とかになってゆく、算盤ができて工業化しえたともなるのだ

この本では当時子守りが普通にいてみんな年長の女性は子守りしていた
それで子守りのために学校に行けないという人を知っている
それで何かその女性は小説を読んで字を覚えたとか言っていた
その女性はまともに学校には行っていないのである
それから明治生まれの人で字を読み書きできない人がいた、その人は人に頼むのだがそれで引け目を感じていた
私の母は生まれだったけど字は書けていたのである
尋常小学校出であったが読み書きソロバンはできていたのである

とにかく日本人は教育熱心だったということは確かだろう、それが工業化に成功した要因だったということもわかる
ただ明治になっても大正になってもみんなが読み書きできていたわけではなかったのである

いづれにしろ明治維新というとき英雄が出たからといってそれだけではとても成しえない社会全般の根本的な改革だからそうなった、それができたことの大きな要因に日本人が読み書きソロバンができたことにあったともなる
そして漢字の役割も大きかった、それは奈良時代と同じである
ただ英語にしても江戸時代にすでにオランダ語ができる人がいたし医学の面でも西洋医学に触れていたから明治維新後も取り入れやすかったということはある、下地があったからである、おそらく江戸時代は何か遅れた社会のように見えてもそうでもなかった
ただどうしても駕籠のようなもので人を運んでいたとかそんなに技術が遅れている国で近代化工業化できたことが不思議に見えるのである
時代劇はリアリティがないということは確かである
子守りの女性が映らないのはありえない、そこらじゅう子守りしていた
それはその役をする女性がやはり子供だからできないとしている
小学生の女の子に赤ん坊をおんぶさせることができないからだという。
時代劇は本当の江戸時代のリアリティを映していないのである

江戸時代を知ることはやはりこれも積み重ねなのである、でもそうした経験がないものは本を読んでもピンとこないのである
私の世代は団塊の世代は子供の時

江戸時代を経験している        

水道もない、井戸水を街内ではもらって生活していたとか、電気は裸電球一つだったとか電気製品は他に一つもないとか燃料は炭だったとか本当に江戸時代だったのである
だからその時の経験は貴重だったなと今では思う
どうしてもあまりにも今は便利すぎてそういう生活がイメージできなくなったからである炭だと暖房しても相当に寒い、エアコンとか電気炬燵とも違うからである
人間は人の話を聞いても戦争のことなど経験した人しかわからない
いくら話を聞いてもその悲惨さを理解できないのである
それはリアルな体験がないからそうなる、江戸時代をイメージするとき一応親とかから昔のことを聞いているからまだ団塊の世代くらいは理解できるのである

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子守りしながら学校に行く
ただこの時は教室に入っていない
みんなが学校に行けたわけではなかった

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2018年12月14日

冬の暮(故郷俳句十句) (景観は歴史的に長い時間で作られたものだから貴重だか意識されなかった)


冬の暮(故郷俳句十句)

(景観は歴史的に長い時間で作られたものだから貴重だか意識されなかった)


隣り合い住みて長しも冬紅葉

点々と農家の古りぬ冬き暮

質実な暮らしつづきぬ冬の暮

松ありぬ一軒一軒や冬の暮

なお立ちぬ家の跡に松冬の暮

老木のここに朽ちなむ冬の菊

陽の没るや冬田に農家五本松

一本の木のここに動かず冬の暮

天明の碑近くにあれや冬の暮

なお空家大原にあり冬の暮

大原に凍み大根や農家古る

干し柿に紙漉きの里水清し

小山田に忘らる道標冬の暮

街道の祠に松や冬の暮

代々や相馬六万石冬の暮 

景観を見る時それが当たり前の風景に見ている、田んぼに点々と農家があることなど田舎では当たり前の風景だから気にも留めない
でもその景観というのは人間のくらしとともに作られてきたものだった
そもそも田んぼの景観は米を作る暮らしがあり作られてきた
農家があるということはそこに暮らしていける実り生業があったからである

そして人間とは長くそこに住んでいないとその土地のことがわからない
長く住むというとき田舎だったら農家だったら何代もつづいて生活している
そこに農家の重みが生まれている、それで農家の人が三代つづかないと仲間に入れないというのもそれは人間の関係でも長い時間の中で作られるからである
つまり歴史的に重みが生まれのは長い時間そこにありつづけたからである

そういう景観が失われたことは大損失だったが第一そういう風景は当たり前のものとして見ていたから貴重だとも思わなかったのである
むしろ農家などはもう農業だけで暮らしている人はまれになった
だから親が農業をやりたくないのだから子供でもやらないとなったのである

ただ景観というのは当たり前にあったものではない、それは長い時間の中で作られてきたのである、そこに人間の営みが暮らしがあり生業があった
景観は簡単に作れないものだった、でも人は景観を大事にしない
景観は努力しないでもそこにあるものとみているからである

結局価値というのが何かというとき人間は全体の価値を見ない、木を見て森を見ないのである
それが津波とかで右田の松原が根こそぎなくなるとか原発避難区域で町ごと人が消えて
空家と化して田んぼが草ぼうぼうとなりその跡にソーラーパネルとかになりまるで変り景観が失われた
それはイメージできないものだった、景観はやはり田舎だったら田んぼがあり畑があり森がありとか変わらないものだと思っていたからである
ただ右田の松原などは人工的な松原であったから根こそぎ消失した

原発訴訟で生業を返せというときこうした代々つづいたものが消失したことの損失であるそれは取り返せないものとなった時その貴重さに気づいた
やはり人間の営みは代々つづいていると歴史があると重みが生まれる
それは一代では築かれないものである
そして何か農家を見ると質実だなと感じる、そういう風景がまた人間の心に知らず影響しているのである

都会ではビルの谷間に生活していればそれも心に影響してくる
都会の人がみんな疲れた顔になるのは当然なのである
田舎だと大地に根を張った木のように強化される、ただそうはいっても今は田舎でも実際は勤めているのは会社であり専業農家はまれである
農業だけで生活している人はまれなのである
田んぼの中に家があるから農業で暮らしているとはならない
ただ風景がそういうふうに見えるだけなのである

でももし戦前とか江戸時代にその風景を見たら感動するだろう
石神とかでは紙漉きをしていた、そういう暮らしがあったことが心にしみるものとなる
紙漉きは冬にするから厳しいのである、でもそういう暮らしがあることがその景観が心にしみるものとなる
今でも大根を干していたり干し柿を見ると冬の暮らしを感じる
都会ではもうそういう風景はないしどこも都会的になっている
田舎でも一見農家のように見えてもそうでもない、ただ蔵があると古い家であり農家だったのかとか見る、でもその蔵は農家として仕事するためのものでもないし飾りのように今はあるだけなのである

ともかく家とかその土地に重みが生まれのはやはり何代とかつづいて暮らしているとそうなる
それで自分の家は二代だから重みが生まれない、それでも自分は二代目だということで一応重みが生まれる、それじ死んだ親のことを書いたのである
明日は母の命日である、母は大正生まれであり干し柿が好きだったということはそれくらいしか食べるものがなかったから好物になったのである
今は干し柿など子供でも食べないだろう、いろいろ果物がありすぎるからである

でも江戸時代に憧れる惹かれるのは素朴で質実なものがあったからだとなる
ただそれはイメージの世界になっているからであり現実はまるで違った貧乏の苦しみを生きていたとなるのである
田舎の冬はとにかくいい、都会は季節感がないのである、だから俳句なども季語も活きてこないのである

故郷の大地に根付き
静かに長くもあれな
樹々は隣り合い黙して
そこに落ち着き根を張る
そこに自ずと連帯が生まれる
ともにここにある
ともに長くここにある故の
深い絆が自ずと生まれる

こういうことになる、そういう田舎の生活を奪ったのが原発だったのである
ただ地元の人でも金を第一にしていた、強欲になっていた
家でも車でもなんでも欲しい欲しいとなっていた
借金しても豪華な家を建てて車でもいい車を買い、とにかく現代では欲が限りなく増大するのである、もう切がなくなる
そして故郷にすら住めなくなったのである
そもそもその土地に故郷でも住むということが最低条件である
住めないということは最悪なのである

ただ人間は当たり前にあることを意識しないのである
それを失ってみてはじめて意識するのである
それで生業を返せと東電とか政府に訴訟を起こしているがそもそもその生業を大事にしていたかというとそうではない、ただ金が欲しいということで原発を誘致して
その後も補償金をもっとよこせと金しかなくなった
そして補償金を一億円でももらったら故郷を出て外に家を建てて帰ってこなくなったのである、それも勝手だなとも思う
それだから確かにその損失を理解できるのだがそこに暮らしている人はそういう田舎の暮らしを別に大事にしていなかったのである
むしろ都会的な贅沢な暮らしを求めていたのである
それはどこでも同じだとなるが何かこの辺ではそういうことが実際にあり意識させられたのである