2018年11月20日

人間は必ず経験を経て教訓を残す (泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)


人間は必ず経験を経て教訓を残す

(泥棒が残した教訓‐欲をおさえろ)

人間は長い間に経験を積み重ねてきた、その経験から諺や教訓が生まれた
三国志などでも戦争の中で教訓が生まれた
それは生きるか死ぬかの経験の中で生まれた教訓なのである
最近そうした諺で教訓でも重い意味があると思った
それはなぜか?それは実人生とか経験の中で生まれていたからである
頭の中でイメージして作ったものではない、事実の経験から生まれたから重みがあるし継続されてそれせ今の社会でも活きているのである
それは地域や時代を越えて普遍的真理ともなる

人間とは科学技術がどれほど進歩しても変わらないのである
様々な欲が根本的に変わらないとしたらやはり科学技術がいくら進歩しても悪がなくならないのである
その人間の業は人間の欲が滅びるまで継続されるのである
若い世代でもやはり同じように犯罪が生まれる、若気の至りでも犯罪になる
そういうことは変わらないのである
それは江戸時代にもあったし現代でも違っているようでも同じなのである
つまり人間の欲が消えないからそうなっているのである

だから私自身が経験したことも不思議だった
泥棒が残す教訓ともあるものだと思った

「その人はある家に入った、そこには…円の金があった、しかしその金はその人にとって目にしたこともいような大きな金だった、その人は貧乏暮らしをつづけていたからであるそれでその金の半分を盗んだ、それでも大きな金だった」

こういう話になるけどなぜこれが教訓になったのか?

半分だけ盗んだということでその人は奇妙だけど救われたとなる
なぜなら全部盗んだとすると裁判沙汰になったりしたかもしれないからだ
盗まれた人は大きな金でもあきらめたからである
それは半分だけ盗まれたとういことで一応まだ余裕があるから訴えることもなかったのである

その盗まれた人にはあきらめたということで恨まないということで互いに何か極端になれば殺し合うとかまでにはならなかった、しかしそうでなければ極端になればそうなったしそういう事件も多いことでわかる
友達に何万とか貸して返さないからと恨みになり事件が起きたりしているからである

ここで何が教訓なのか?

欲をおさえろ!欲を減らせ!

それが災いとかから逃れ徳を積むことになる
人間は欲をおさえられない、欲は限りなく増大してとめられないのである
そこに必ず災いが起きてくるということである
だからどの宗教でも欲をおさえろと説いている、宗教はそういうものである
でもカルト宗教となると欲を限りなく増大させる
煩悩即菩提とかなんとか勝手に解釈して強い煩悩があった方がいいとも説いている
そうしなければ欲をおさえろというとき誰も従わないからである

すべての災いと事件と問題の大半は欲をおさえられないことから起きている
もしこのように欲をおさえれば事件は起きない
それは盗まれた人と盗んだ人双方に言えたなとふりかえる
双方ともに泥棒は大きな金でも半分に盗むのをおさえた
盗まれた方は大きな金でもあきらめた、そこに共に欲をおさえたということである
何か奇妙だけどふりかえるとそうなったのである

原発事故でもそうである、補償金でもめで分断された、それはどっちもどっちだったかもしれない、この経験と同じかもしれない
第一そもそも原発事故も人間の欲と関係してたのである
原発は金になるから誘致した、金になればなんでもいいということで誘致したのである
そこに災いを生まれたのである
金になるなら危険など構わないのである、その欲は限りなく増大してゆく
漁業組合で船主などでは補償金で原発御殿が建つとかなっていた
人間の欲の故に原発が作られたともなるのだ

でも人間の欲をおさえるのが一番むずかしい、それをやめろとか言うとその土地にすら生きていけなくなる、なぜならみんな豊かな贅沢な生活をしたいからである
だから原発には反対できなかったのである

でもなぜ人間は宗教が生まれたのかとなるやはり仏教でもキリスト教でもなんでも欲をおさえるということを説いたのである
資本主義のはじまりも宗教的なものキリスト教の修道院からはじまったというときもそうである
それは欲をおさえて働き神に奉仕する、そこで資本が富が蓄積されて配分されるということだったのである
今の強欲資本主義とはまるで違ったものだったのである
今のグローバル資本主義とか株の世界とは違ったものである、もうここにはモラルは消失しているからである
だから自分自身が株で欲を増大させて失敗したから株も投資も人間の欲がからんでいるから怖いものとなる
別に働いて利益を得ることは悪いことではない、でも何か株とか投資は常に一攫千金とか目指すギャンブルの要素があった
それがモラルにかなった経済活動とは思えないものだった、だから何か資本主義自体がもう維持できない状態になっている
格差が極端になっているから限界になっているのだ

欲がなぜ怖いのか?

それは必ず災いをもたらすからである、人間から災いが消えないのはなぜか?
それは欲があるからだとなる
国の争いでも石油で戦争になったりする、石油というのは絶対に必要だとなりそれのために戦争になる、では石油なしで人間は生きていけないのか?
実際はここ百年ばかりが石油を使用している
それまでは人類は石油を利用していないのである
すると石油なしで生活しえないということはないのである

人間が欲をおさえることが本当に災いを避けさせるとか平和をもたらすということを真剣に思わないのである
例えばもし日本の戦争が石油が入らなくなり戦争になった良くいう
でも別に石油がなくても炭でも薪でも暖房できるのである
ある程度の電気は石油なしでも供給できるのである
そんなことで戦争して人間の命が300百万人も死ぬよりはいいとなる

人間はそもそも欲を真剣におさえることをしないできない

結果的に欲はかぎりなく増大してゆく、借金してまで家がほしい車が欲しい、欲しい、欲しいとなり制限できなくなる
何かを欲を制限することが災いから逃れ平和をもたらすということを考えない
それは真剣に欲がもたらす災いを考慮していないからそうなっているのだ
私自身が経験したことでも双方で殺人事件にまで発展することはありえた
普通にそういう事件は起きているからだ
でも双方に欲をおさえたから何の事件にもならなかったし災いから逃れたのである

そんな殺人事件にならなかったのは奇妙なことだが互いに欲をおさえたことによっていたのである
そういうことは国同士の貿易でも起きてくる、貿易戦争になるのも戦争の原因である
どちらも利益のためにゆずれなくなり戦争になる
それは国同士でも欲をおさえられないからである
自国の欲をおさえられないからそうなる
だから欲をおさえるということが互いに必要なのだけどできなくなり戦争になる

日本でも貧乏になったとか、格差社会になるのはなぜか?
それは金持ちがいても自分たちだけが贅沢したい欲を満たしたいということでそうなる
別に配分すればそうはならないのである、それは金持ちはさらに金を欲しい減らしたくないとなる、それは人間の心理である、増やしたとしても減らしたくないのである
それは自分でも同じだった、自分だって欲をおさえられないのである

平和というのはこうして欲をおさえないかぎり生まれない
剣をもつものは剣で滅びるという時もそうである
人間は何かを断つ捨てるということを真剣に実行しないかぎり互いの平和はない
なぜこの世から災いが争乱が絶えないのか?
それは欲が消えないからである、それで遂に欲でこの世が滅びるというのも理解できる
要するにこの世が滅びないためには欲をおさえろとなるのだ
でもどうしてもおさえられないから滅びるのがこの世なのである

人間の一生は本当にはかない、青春などあっというまにすぎさる
そしてみんな老人になり見る影もなくなる、ただ無常を感じるだけである
もう家族もみんな死んだとか津波原発事故でこの辺は無情だった
私自身も本当にこの世の無常を知った、人間はこの世に束の間生きるだけである
そして消えてゆくだけだとなる
何を成そうが何を得ようが人間の一生ははかない、だから人間の欲もやがては消えてゆく認知症になった母が一円にこだわって使わない母が大金を盗まれて笑っていたのも不思議である、つまりに欲がなくなってそうなったのである
金のことがわからなくなってそうなったのである
その姿を見て不思議だった、最後に欲もなにもなくなったとなる
要するに人間の欲が消えたとき平和が訪れたとなるのか
もしでも正気だったら狂気のようになり騒ぎ殺し合いまでにもなりうるからだ

別に石油がなくても原発がなくても車がなくても生きられる、現実に人類の歴史でここ百年くらいが異常にそうしたものに頼ることになった
それまではそれがなくても生活できていたからである
石油がなくなっても車がなくなっても電気でも今まではなかったのだからそれで世の中は滅びるということはない、むしろ欲で滅びるのが人間なのである
だから欲をおさえるということがいかに大事な教訓であるかそれは宗教が生まれたのである、それは結局実行されていない、科学技術が現代の宗教というときそれは欲と深く関係しているのである、人間の様々な欲が科学技術で実現するとみんな本当に思っているからである、だから科学技術は危険にもなり災いにもなる

なぜなら人間の限りない欲望を実現するものとなるからだ
それで原発でも危険でも作られたからである、結果的に事故となり故郷にすら住めなくなったからだ、科学技術は災いを生むのである
それは科学的精神とかとサイエンスとかと違って人間の欲を実現するものとして魔術的なものとして追求されているからである
何か科学技術は全面的いいものとして肯定されるが果たしてそうなのか?
原発事故の結果をみればわかる、もう故郷にすら住めなくなったからである

2018年11月21日

晩菊ー北風唸る家(詩)


晩菊ー北風唸る家(詩)

  
  晩菊や色とりどりには映えにけり
  
  晩菊や落ち着きて死ぬ場の欲しも
  
  我が家に一人残りて日向ぼこ
  
  
  北風のうなり誰住むや家の跡に松一本のここに動かず
  
北風唸る家  

木の葉が一二枚
ぽったりと家の中に
また貧しき人が来る
再び北風が今日吹き
我が家にうなる
この家にも悲しみと苦しみが
憎しみといがみあいと争いも
そして笑いと楽しさが
一家団欒があった
しかしそれも昔となりぬ
今は誰もいない一人
この家は父と母と姉が残したもの
私には幸いを与えしもの
家族はみんな死んだ
私が一人この家に残る
二階の広い廊下で一人日向ぼっこ
私には幸いが与えられた
北風が唸っても
この家はなお残り住む
私は一人この家に安らぎ守る
家にはなお家族がいるかもしれぬ
私を見守りつつまた思い出の場所として
・・・・・・・・・・
  

人間は最後は思い出だけになってしまう、死んで何が残るかとなると思い出なのである
でも思い出といっても何か形になっていないと思い出せないとなる
だから老人は思い出に生きるというとき、その思い出の場所が家であったり故郷だったりする
だから原発事故で避難しても老人は故郷に帰り家に帰りたいとなる
また老人ホームに入った人でも家に帰りたいというとき実は家族があった所に帰りたいとなる、でもその家族が実はなくなっているのである

なんか家というのはただの建物ではない、そこは思い出がつまった場所なのである
それでなかなかそこにある喪のでも思い出があるから捨てられないということがある
終活とか言われるけど全部の物を捨てることはしにくい、何か思い出がしみついているものがあるからだ
ものはものがつくとかものは単なるものではない、物心とかあり物と心は日本では一体化している、分離しないのである

家は物ではあるが何か物だけではない、そこに人間が60年とか住んでいれば人間が住んだ生活した思い出がつまった場所なのである
そこに家の不思議がある

ただ家族でも家でも必ずしもそこがいいとは限らないのである
親にひどいめにあった人は墓参りする気すらない、いい思い出がない人もいるからだ
私の場合は過分に親から幸いを与えられたのである
だから死んでからも親が姉が私に与えて残してくれた家になお住むことでまた幸いを感じているのだ
今まではそういうことを思わなったが死ぬと人間は本当に見方が変わる
死んでその人の価値とかを見直す、残されたものでもそうである
だからこうして家族がみんな死んでも残された家にいることが幸せだとなる

ではもしこの家を賃貸して住んだとしてもこういうことは感じない
ただ家賃を払う家である、ただ家が広くて便利でいいなとかはなる
でもそこに自分のように思い出をかみしめるとかにはならない
ただ広い家でいいなとは感じる
だから家というのは家族にしかわからないものがある

それで不思議なのは近くにある誰が住んだ家なのかわからなくなった所である
そこには松一本が残っていて北風が唸る、冬の日がさして残っている
それはがなんとも不思議なのである
家がなくなってもなお松が残っている、その松はその家の標しのように残っている
そこに家族も家もなくなったがそこに家があったということ家族がいたということを受け継いでいるか感じになる
それは自然の中の木ではない、松ではないからである
何か松は人間に見えるのである、あまり高くもない人間より高いにしても人間のように見えるからである、だから松は人間のように短歌にも残されているのである

晩菊というとき何か今や落ち着いて死ぬ場があればとなる、最近そういうついの住処をどうするのかとかそうした老人を問題にした番組が多い
人生百年をどう生きるかとかどこで死ぬかなどが問題になる
それだけ老人が多いから老人について話題になる
やはり落ち着いて死ぬ場所となると故郷であったり家族であったりする
そういう場が奪われた原発避難区域は悲惨だったとなる
金もらったとしてもそうである、そういう精神的損害は償いようがないからだ
でも限りなく賠償を要求することは許されないのである
だから原発事故で失ったものは大きいのだけどそれを外部の人とかあまり感じないのである、賠償金もらったからいいじゃないかともなる

北風が唸ったときどうしても姉が認知症が発症したことを思い出す
その時から自分のこの家での苦しみがはじまったからである
その時はまさに厳しい北風が我が家に唸り吹いたのである
それからプログで書いたきたように地獄を経験したのである

でもそれが終わるとこの家で一人残り思い出の場としてありつづける
それは結局自分は過分に家族に良くされたからである
そうでなければそんなに家族でも親でも思わないからである

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冬の蝶(家の価値は思い出が残っていること―母の介護の思い出)


冬の蝶(家の価値は思い出が残っていること―母の介護の思い出)


厨なる曇り硝子に冬の蝶


晩菊のとりどり咲きて一所あたたかき冬の日のさし安らぐ

60年母の厨(くりや)にありにしを我も立ちつつ冬に入るかな

冬の月部屋をのぞきぬこの部屋に母を介護しぬ思い出なるかな   


家族がみんな死んでから何か不思議である、何か姉が認知症になってから不思議なことがつづく、家族がみんな死んでから不思議がつづく
人間はやはり他人が経験するのと自分自身が経験することは違うのである
家族だったみんな違っているからである

母はおとなしい女性であり裏方だった、母の一生は不幸だった、実家でも父親が事業に失敗して母親が病気になり継母が家に入ってきて苦労した
継母にいじめられたのである、子供の時でも不幸だったのである
結局やはり両親でもこのように子供を幸福にするとはならないのである
つまり両親に家族に恵まれないと本当に損だと思った

その後も東京で結婚したが夫が事故で死んだ、そして後妻に来たのが自分の家だがここでも幸福とはならなかった
女中のように使われただけだとなっていた、それを見ているからわかる
ただ母のことをあまり思ったことはない
死んでから不思議だけど母のことを思うようになった
人間は死んでからこうして思うことがある

今は厨に台所にいつも自分が立っている、すると何か母はそうして60年とかこの家にいて厨にいた、食事を出していたのである
そのことが何か自分が介護して食事を出したりまた死んでからも家事を料理をしている
厨に死んでからもずっと立っている
それで母を思うようになった、母は目立たない女性だったけど60年の歳月は長い
そうして日々食事を出していてくれたのである
生きている時は何も感謝の気持ちもなかったのである
自分自身が厨に立ち家事をして料理するようになって感じたのである

女性の仕事は家事でも目立たない、だから父親のように評価されない
でも縁の下の力持ちとして女性はある
ただ苦労が多かったからそうなるとどうしても歪んだ性格になる
母はそういう面があった、一切何か楽しむことがない、ただ働くことであり庭を作った時そんなものいらないとか強情に言っていたのである
そして庭に豆をまいたりしていた、食料にするためである
何かそうして苦労しすぎていこじになっていたのである
人間はあまりに苦労が多いと心も歪んでくる
でもそれほど母は歪んだものとはならなかった
忍耐強い女性だった、でも母は社会性がないから一人ではとても家を維持できなかった
自分の家の場合は特殊だが姉と母がいて家が保てたのである

だから特殊な家族だったとなる
ともかく家というのはやはりこうして死んでも死んだ人が存在しつづけることがある
なぜなら60年とか家に長くいたからである
家と人間が一体化しているのである、それで嫁とは女であり家であり一体化したものなのである、女性の場合は家事だけをする女性も前は多かったから余計にそうなっていた
それで死んでも家にありつづける、他ではその人が死んだらありつづける場は少ないだろう
男だったら会社にいるのが長いとしても死んでもそこにありつづけるということはないだろう、どこでも退職したりしたら時間がたつとともに忘れられる
でも長く働いた場なのだから退職したりして一切会社との関係が切れるのは淋しいとなる退職しても一緒に働いた人がそこにいたということを記憶されればなお会社で生きているともなるがそういうのはまれだろう

厨は曇り硝子であり外が見えない、でも朝に蝶が飛ぶのを見た
まさに母は冬の蝶だった、夏の蝶ではない、ひっそりと生きてひっそりと死んだ
ただ眠るように死にたいとはいつも言っていた
その願いだけはかなえらたようだ、ただ病院に入院して一か月で死んだ
死ぬ瞬間はわからなかった、病院に来たとき死んでいたのである

でも母は病院で死ぬ前の一週間前くらいまでポータブルトイレを利用していた
オムツをすることもなく死んだのである、オムツをしたのは病院での一か月だけだったのである、だから介護するにも死ぬにも楽だったとなる
苦労の人生だったが最後は楽だったなと思う
まず介護するにしてもオムツとかなると過酷になる
そうなると自分はルーズでありさらに苦しい状態に追い込まれた

それでも今になるとそうして介護して良かったとか思い出になるのも不思議である
早く死んでくれとも思っていたが人間は死ぬとみんな後悔している
もっと良くしてやれば後悔する
それは死んだらもう二度と会えないからである
ただ死者は思い出のなかで生きているだけになる
その思い出も介護で冷たくされたとかなるとなかなか思い出すのも後悔するから嫌になるそこに介護のむずかしい問題がある、介護と死は連続しているからである

いづれにしろ人は死ぬとその一生をたどることになる
家族だったら身近だからその一生をたどる、すると死んだ人がよみがえってくるのだ
死者はどこにあるのかととういと実際は墓とかにはいない、人間は死ぬと灰となりなにもなくなる
でもこうして残された人が思い出したり語ったりすると生きてくる
こうして死んだ人の一生をたどったり家でここにいたなとか思う時なお死者は生きているのである

母はなほ面影として我が家にたたずむものや北風唸る

面影として残るとしてもその場がないと面影として浮かばないのである
それが女性の場合は母の場合は家にあったとなる
恋とは乞う(こう)から来ているという、つまり恋とは必ずしも男女間の恋愛ではない
死者をこうことが一番深刻なのである
なぜなら人は死んだら永遠に会えないからである
そしたらもう一度会いたいと思うようになる、それが恋(こいーこう)だったのである
このことが一番切実だからそうなったのである




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2018年11月22日

南米などカトリック地帯がなぜ停滞しているのか? (ホンジュラスの移民騒動の深層)


南米などカトリック地帯がなぜ停滞しているのか?

(ホンジュラスの移民騒動の深層)


ホンジュラスとかでもそこはマヤ文明が起きたところであり古い場所である
ただなぜメキシコでもインカ帝国があったところでも南米は停滞しているのか?
その原因の主要なものに宗教があるということも考えられる
南米はスペインに侵略して植民地化された、簡単にマヤもインカも崩壊した
黄金をすべてやるからと王は懇願したが無惨に殺戮された
その殺戮したスペインは強盗団だったとされる
その黄金を略奪してスペインが一時的には栄えたのである
でもそれは長続きしなかった

何か宗教と文明発展の因果関係があるのか?

プロテスタント国がカトリック国やギリシャ正教国の債務問題に奮闘しているのを見るとある国民の働き方、貯金の仕方、消費の仕方などは彼らの属する宗派の影響を受けるという説が、改めて説得力を持ってくる。
カトリック教会は「勤労と蓄財は罪」だと説明しましたが、こうした教えを公然と否定したのが、ドイツのルターとスイスのカルヴァンです。いわゆる宗教改革ですね。彼らの教えを信じる新しいキリスト教徒を総称してプロテスタント(新教徒)といいます。

ギリシャに加えて、ポルトガル、イタリア、アイルランド、スペインも巨額の財政赤字を抱えていることが明らかになっています。
これら5カ国の頭文字をとってPIIGS(ピッグズ)と呼びます。
「イタリアは昔、ローマ帝国があんなにすごかったのに、今はなんでダメなの?」

中南米に乗り込んでいったのは、スペイン人とポルトガル人。つまりカトリック教徒だったのです。


カトリックが蓄財を禁止して教会に寄付することが救いになるとか免罪符とか配布して教会が金儲け組織になった、それが社会全体に影響してカトリックの国が軒並みヨ−ロッパでも中南米でも停滞している
宗教がそれほど影響を及ぼすのかとなるとまた疑問があるが文明を宗教で分けるのが普通である、イスラム教の文明、キリスト教の文明、仏教の文明・・・とか大別される
ただキリスト教は三つに分かれている
カトリックとプロテスタントロシア正教でありギリシャ政教から発展したのがロシア正教である
この中でもプロテスタントが普及した所が世界の主導役になり発展している
アジアでもフィリンピンはカトリックであり工業化できない発展できない

ただこのカトリックに共通しているのが比較的暑い南国地帯なのである
南国地帯にはもともと勤勉の思想がおこりにくい、なぜなら暑くて働けないのである
でもバナナがいつも目の前にぶらさがっているとか食べることはできるから暑いからあえて働かないということがある、そのためにカトリックの宗教思想がマッチして受け入れられたともなる、人間は気候の影響を受けるのである
なぜならプロテスタンとはドイツとかイギリスとか寒い国から起こったからである
ただアイルランドが停滞しているという時ここもカトリックなのである
ということは宗教が影響したという説の後押しになる
ただ不可解なのは日本だという時その説明はめんどうになる
中国だって今は発展しているから宗教の影響がどうなっているのかすべてこれで説明はできない、ただイスラム圏が停滞しているのもやはり宗教が原因しているともとれる

ともかくホンジュラスがあのように停滞して貧困からぬけだせない、そして治安が悪化して住んでいられないとなるのは悲惨である
やはり貧困化が極端になると治安が悪くなり国が崩壊する
そしてグローバル化時代は世界的になり移民が発生する、大陸では陸続きだから大量の移民が発生する、それは歴史でもゲルマン人とか民族移動があったからだ
それが歴史を変えたこともあるからだ、あの人たちは命がけで国境を越えようとしているそれで砂漠地帯で食料も水もなく死んでいる人もいる

要するにグロ−バル化するとそうして格差も極端になり豊かな国に人が移動する
日本では海に囲まれているから何か大陸で動乱があっても大挙民族が移動することができない、でも朝鮮では古代から常に動乱があり日本国が成立していないときは移民があったでもその移民は先進技術を製鉄技術をもった人の移動だったのである
今の移民は何ももたない移民でありただ単純労働する移民なのである
日本でも技術をもっている高度な移民は受け入れるとなるが単純労働になると問題が生じる、日本は高度な技術をもった少数の人しか受け入れていない歴史がある
つまり日本でもそうした大量の移民を下働きさせるとか経験していないのである
そこに混乱が生じているのである

第一アメリカでは英語をしゃべれない人が半分とかいるのも異常である
ヒスパニックがそれだけ多いからそこで意思疎通することがむずかしくなる
言葉が通じないとなればもうそこにアメリカ文化があるのか?
日本で考えてみても他の国でも一応一つの国で言葉は共通なのである
それがないとしたらそもそも国としてのアイディンティティでを保てるのかとなる
だからアメリカが分断されるとか言われるのもわかる

何をアイディンティティとして国をまとめるのか?
それがもう混雑してわからなくなるからである
それで格差が極端化して資本主義とか民主主義すら機能しなくなり崩壊しつつある
民主主義自体が世界で問われている、日本でも多数決なると不平等になりシルバー民主主義などが批判される、南相馬市だと原町区がもともと人口が多いのだから合併したら他の地区がないきがしろにされ人口が多い場が中心になる
民主主義も危機にさらされているのである
アメリカ自体が国をどう維持していいのか岐路にたたされているのである
それで移民を拒否するのは白人からするとこの国は誰のものだとかなってしまう
それは日本だって移民でも外国人労働者でも大量に受け入れるとそうなるから拒否する人たちがいるのもわかるのである

posted by 老鶯 at 10:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

踏切にも監視カメラ


踏切にも監視カメラ

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踏切監視カメラの元々の設置理由は「踏切事故が発生した際の証拠」「遮断機を折って強行突破する車への牽制」ですので、「列車の本数が少なくて、歩行者しか通れない」ような踏切なら、設置していない可能性はあります

監視カメラを踏切につけていた、どこにでも監視カメラがあるがわからない
駅にも無人駅だと必ずついているしどこでもついている
4っつ監視カメラがついている
駅は外部からの出入り口になる、国境とか関所とかとにているのだ

何か振り込め詐欺の犯人が監視カメラに映っていたとかともいう
逮捕されたかどうかは定かではない、犯罪者をチェックする役目もある
それは関所とにているのである、現代は関所の役割になるところがない
あまりにも自由になりすぎたのである
車だと高速などでは料金の払う場でチェックするにしても車はチェックしにくい
だから車だと遠くに簡単に逃れられてしまうのである

ともかく駅とか鉄道はいつも下請けの専用の会社の人たちが仕事している
ほとんど毎日のように来ているのである
それが仕事なのだからそうなる、点検保守管理をしている


でも踏切を通る人も映るしそれで監視していると不安になる人もいるのもわかる
前は踏切番人がいた時代もあった
踏切はやはり危険だからそうなっていた
まず今はどこかで監視カメラに映るらうにできていることは確かである
踏切の監視カメラはどこでも普通に設置されていて今までここに設置されないのはかえって変だったとなる
結構ここの踏切は人はあまり通らないが車が通るからである
小学生とかは別な道がありここを通らないから安全ではある

山眠る(俳句は説明がないと鑑賞できない)


山眠る(俳句は説明がないと鑑賞できない)


晩菊や落ち着き死ぬ場のほしも

数日や部屋に散る入る木の葉かな

無人駅二三枚落つ木の葉かな

平和なれみちのく遠く山眠る

みちのくの山々眠る争わず

石一つここに動かず冬の星


俳句は何か短すぎるから鑑賞しにくい、写生だと本当は説明はしない
詩は説明しにくいのである、説明すると散文になる
でもこの俳句が何を意味しているのか?
その背景を読み込まないと鑑賞できない、でもそれがむずかしい場合がある
それで私の場合は説明している

短いからその後の説明が生まれる、木の葉が二三枚家の中に入っていた
風で入ってきたのだろう、それか数日ずっと家の中にあった
その時向かいの家で死んだ女性のことを思った
その女性のことは知っていたからである
でも一週間前顔出していたら死んだのである
何か知っている人に会いに歩いて行った
だから直ってまた会いに行ったのかと思った

死ぬ人は最後に別れを告げるために知っている人に親しい人に会いに来るというのは本当である
兄も交通事故になる前に私の家に来て笑って去って行った
その後は死んだのである

ともかく人間ははかない、この木の葉のように数日部屋に入っていまのとにている
はかなく散ってしばらく自分の家の中にあった、その木の葉を私は見ていたとなる
無人駅のことはシリーズとしてずっと書いている
二三枚木の葉がホームに散ったりしている
何か無人駅だから数人とか待っていて話したりする
それはこのように人はまれだからである
だからこそ話したりできるのである、数が多かったらとてもできないのである
そこに人が少ないから人間的な場が生まれていたのである
ただ商売にはならないとなる

みちのく的なものは何かとなるとそれは東京とか西のように混雑していないことである
みちのくと的なものとはそこは癒しと休息の場としていいのである
ただ正直この辺は津波や原発事故でそういうこともなくなった
それでいろいろありすぎて疲れたとなり山眠る、静かに冬は眠りたいとなる
津波原発事故でみちのくも平和がなくなったのである

人間はとにかく一つの問題が解決してもまた問題が生まれる、延々と問題が生まれる
もう解決は永遠にないのだ、なぜなら一つの問題が解決したらまた新たに問題が生まれるからである、そして絶望的になるのである
だから山眠る、もうそういうことに関係しないで冬は眠りたいとなるのである
そういう場としてこれまではみちのくはふさわしい場所だったのである

老人になると石のように動きたくなくなる、この俳句は前も作っていた
認知症の問題など今の世の中は変わりすぎることで対応できない
認知症だと何か物を置いても変わらない場所にあるといいのである
いつも同じ場所にありその物を動かさないことがいいのである
なぜならそれを動かすと忘れるからである、それで今ここにあったのがないということでパニックになるのである、いつも同じ場所に同じものがあると安心するのである
だから狭い部屋でそうしておけば財布をなくしてもすぐにその場所が特定できるからいいのである
それで認知症というのは現代では治療しにくい、あらゆるものが変わりすぎるのである
また機械の操作も多い、なぜならテレビをつけるリモコンすら操作できなかったからである  

認知症になったら今の世の中は本当に困る、江戸時代のように単純な社会だったら良かったのである、その時代には時代の悪さもあるが良さもあったからである
江戸時代なら物もあまり持っていない、いつも見知っている人と暮らしているとか
それで症状も安定するのである
認知症にとって現代の環境は最悪なのである
例えば今みんなスマホを操作している、でもは認知症になったらテレビのリモコンも操作できなくなるからどうにもならなくなる
今はいいにしても認知症の人がこれだけ増えるのだからそういうとき困るのである

江戸時代のように情でもって人と人が対面的に情的に通じ合っている社会なら認知症の人にとっても楽なのである
それは認知症だけではない、現代が生む様々な問題も江戸時代のような環境の喪失がそうさせているのである
介護とかは機械で代替できない、それは対面的情的に接しないとできないからである
だからこれから情的なものが大きな役割を果たす時代になるかもしれない
なぜならそれは機械ではAIでも代替できないからである



2018年11月23日

死者はどこにいるのか? (母は厨に立ち続けていたー詩)


死者はどこにいるのか?

(母は厨に立ち続けていたー詩)

母は厨にいつも立っていた
60年の歳月がそこにあった
目立たずそこにあり料理を出してくれた
母は細身であり霜焼けに苦しんで
台所仕事をしていた
その時温水器がなかったからだ
私はただその時当たり前のことして
母に感謝もしなかった
その労もいとわなかった
母は家で酷使された
私はずっと楽をしてきた
母はこの家で耐えていた
悲しみ涙も流した
そうして母は百歳で死んだ
母はどこにいるのか?
母はなお厨にいる
もの言わず影のように
厨に依然としている
そうして今も家を支えている
他人は私のために何もしてくれない
要求するのは金だけである
何の関心もない
そして私は厨に一人立って食事の用意をする
そのことにより母がここに立っていた
その苦労を知りその意味と価値を知る
外には北風がうなりはじめた
寒い季節がやってくる
人は死してその意味を知る
その存在価値を知る
死してその存在価値が現れる        
そのように無視され目立たぬものが
大きな価値を帯びて現れる
不壊なるもののごとく現れる
死者はなお生きてこの世にある者を支える

死者はどこにいるのか?それも謎である、墓にはいない、死者はどこにいるかとなるとやはりその人が長くいた働いた場所だろう
なぜならそこに60年もいたとしら長いからである
私の場合は結婚していないから何か親を思うようになった
結婚していれば妻を亡くせばこのように思うだろう
それで悲しんでいる淋しいという人がいる

でも生きている時は母のことは意識しなかった、目立たない存在だった
性格でも内向きであり派手でないから目立たない存在だったのである
それが死んでから意識するようになったのも不思議である
それはなぜなのか?

それは介護はじめてから自分自身が厨に立つようになってからなのだ
自分自身が今度は食事を出したり自分の食事を用意しなければならない
そのことによってここに母がいて食事を60年間だしてくれたのだなと自覚したのであるだから母が死んでも母はここにいるのだなと自覚した

死者がどこにいるのか?それはその人が一番長くいたところではないか?
一番長く働いた所ではないか、なぜならとにかくそこにいた働いた時間が貴重だったとなるからである、人生の時間は限られている、いくら長生きしてもそうである
すると何に時間を費やしたかが人生になる
才能あるなしにしろ何に人生の時間を費やしたかが人生になってしまうのである  
それでぽっぽやという鉄道員、駅員が最後に死んで電車が棺となりあの世に送られる
鉄道と電車と人間が一体化していたのである
男の場合は仕事が命となるのである

母の場合はこの厨にその人生を費やしたのである
母はその時何かそれが報われないものとしてしていたかもしれない
それは女性の場合はみんな言える、家事に生きがいを見出せないとかなっている
それで戦後は外で働くことで生きがいを見出そうとするようになったのである
でもそもそも女性の生きがいとは男と違って本質的には子育てとか家を守るとか
家と切り離せずあったのである
つまり女性は家の中で存在感があり意味と価値をもつものだったのである
ただそれが女性自体でも価値がないものとしていた
では外で働いて価値あるものとなったかというとそうもならなかった

母刀自(あもとじ)も 玉にもがもや 戴きて みづらの中に 合へ巻かまくも
  〜津守宿祢小黒栖 『万葉集』 巻20-4377 防人歌

これは若い防人にしてもこれだけ体と一体化しているのが母だったのである
こういうことは父親にはない、父親はまた別な意味と価値がある

 真木柱(まけはしら)ほめて造れる殿のごと

  いませ母刀自(ははとじ)面(おめ)変りせず」

    巻20−4342 坂田部 首麻呂(おびとまろ) 駿河国防人   
 
   
真木柱というとき実は私の家では姉がいつも橲原の木材を使って建てたということを自慢していたのである、そして面変わりせずというのは死者のことにもなる
死んでも変わらず厨に母がいるとか感じる
つまり家というのは女性が主役であり女性の存在感を示す場所なのである
男性の存在感を示す場所は家ではなく外にある、仕事場にある
なにかそこを戦後はき違えたのである、女性はいくら外で働いても存在感をもちえなかった、なぜなら女性の役割は家にあったからである
だから嫁は女と家なのである

そもそも外で仕事をしてもそこをやめたとしたらそこに仕事していたということを記憶する人がいるだろうか?
別にレジで働いていても人が変わるだけでありその人がいたということで記憶している人がいるだろうか?
それはロボットのように見えるからである
だから女性で外で仕事して存在感をもつのは看護師とかはあってもまれである
ただいくばくかの賃金をもらうだけであり何かそこに存在感と意味と価値がもてないのである

とにかく人間は死んでからでないとわからないことがある
他人は全く皿洗ってもらうにもただ金ばかり要求されるだけである
金くれ金くれしかないのである、ただその女性でも息子のことは40とかすぎてもあれやこれやと気遣っているのである
だから家族と他人の相違はあまりにも大きいとなる
それは介護になりそういう非情を今でも続けて経験しているのである
他人がこれほど非情で冷酷なものか知らなかったのである
それは家族がいればそうなるのである、でも人間はそんな家族中心で他人は虫けらと同じだ、金しか関係ないとなるとそこは地獄だとも思った
家族がないものは地獄だとなる、身寄りのないものは地獄を生きることになる
それでいいのかとなるがそれが現実として経験したということである


2018年11月24日

大根干し、冬籠り(小山田村の冬景色)


大根干し、冬籠り(小山田村の冬景色)

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大根干し蔵ある家や冬ごもり

小山田の墓地をたずねて冬紅葉

貧しきや土地に働く冬あざみ

溜池に落葉沈むや一部落

鴨数羽しばし安らぎ去りにけり

残菊や人影見えず細き径(みち)

日短き墓地をたずねて名も知れず

小山田の細道今日も我は行く残れる菊にワレモコウかな

この写真は絵になっていた、今なかなか農家でも農家らしくなくなっている、田舎でも田舎らしくなくなっている、この風景はいかにも日本の農村の風景である
それで矛盾しているのがこの道をまっすぐゆきと常磐高速の鹿島のSAになる
そこで昼食をとったが混んでいる、あれほど混む所はこの辺ではない
働いている人も今日は十人以上いた、ひっきりなしに人がきて並んでいる
数えてみれば何人来ているのか?百人とかは軽く越えているだろう
500人とかわからないが相当な数である
これだけ駅と高速道路の相違があることに愕然とするのである
客にしても百倍どころではない千倍の差があることになるからだ 

だから何かこうして鄙びた感じの小山田村を紹介するとき奇妙になるのだ
常磐高速道路にこうした鄙びた村を通りそうした場所に行くからだ
常磐高速から町の方へ来る人は少ない、あそこだけが鹿島では人が集まる場なのである

今では田舎的風景がどこにでもあるという訳ではない、この大根干している風景はいかにも田舎的である、そして冬籠りの季節になる
今になると冬籠りというのもなくなる、冬は土も眠り栄養を貯える時期である
そのことは畑で野菜を作る人がしきりに言っていた
冬には土が眠り栄養が蓄えられるという、冬は増える(ふゆ)なのである
そういう感覚は農業していた人から伝えられたのである
春は張るであり張り田というのもそうである、夏はなじむとかであり秋は商(あきなう)となると商業の感覚が入ってくる、収穫したもの売るということで秋となっるからだ
いづれにしろ季語はこうして実際の農民の生活感覚から生まれたのである
ただ風流とか詩人とかが作り出したのではないのである
つまり実際の生活感覚から離れて芸術もないのである

冬籠りまたよりそはん此の柱芭蕉 

子を負うて大根干し居る女かな 正岡子規

これなどはいい句である、またよりそはむというとき何か変わらぬものがありそうなる
今だと変わりやすいからそういう感覚もなくなる、この柱とは人間と見ればそこに頼りになる親しい同じ人間がいるともなる、そういう人がいつもいるわけではなく現代は人でも変わりすぎるのである

冬田の畔の道を自転車で行く人は知っている人に見えた
最近なにか遠いけど仕事が見つかったとか言っていたからだ
その家に行ったのかもしれない、何か田舎だとあの人はどこの人どこに行くのかとか見ているのである、わかるのである
それで嫌だとなる、写真とっていたら写真とっていたなとか言われたからである

あそこの溜池ははじめて見た、溜池は多い、広い溜池もある、それは人口の沼のようになっている、その回りは林でありなごむ場所だった
鴨も数羽いたがすぐに去って見えなくなった

今年の紅葉は遅いし何か季節的に合わない、一応冬になったたら冬紅葉となるが何かそういう感じではない
まだ秋の感じでもある、なんか季節的に合わない、ただ冬らしくはなってきている
大根干すと冬ごもりで二つの季語になるのはまずい、季語は俳句では一つだからである
都会だと季節感がない、冬ごもりというものもない、一年中活動している、活動も必要だが過剰なのである
冬はやはり休む時であり栄養を貯える時なのである、そういう季節感もない所では住みたくないとなる
暑い寒いの感覚はあってもまわりで季節を感じないからである

日は短くなった、人間は本当にはかない、死んでみればすぐに忘れられる、そして墓に埋められるが
その人をどれだけの人が記憶しているだろうか?
ほとんど忘れられてゆく、そして名前を読みとろうとしてもできないとかなる
あの墓地は慶応とかあったから江戸時代からあった、たいがい田舎の墓地は江戸時代からあった所にありその継続として墓地がある、古い墓があるのは原町であり新地にも古い碑があるのは伊達藩内は相馬藩内より古い碑が多い
それだけ相馬藩より歴史があり古いとなるからだ

ゴーンも東電の清水社長コストカッター (総合的に判断できる社長など今はいないーグロ−バル化の否定へ)


ゴーンも東電の清水社長コストカッター

(総合的に判断できる社長など今はいないーグロ−バル化の否定へ)


連続して浮上してきた数々の事件・事故・トラブルの背後にある原因のほとんどが、こうしたコストダウン・コストカットに集約される。加えて「嘘をつく」「誤魔化す」「隠す」「手を抜く」「騙す」「脅す」「法律違反をする」など、倫理観すらコストダウンに飲み込まれている。

ニュースサイトで読む: https://biz-journal.jp/2016/02/post_13625_2.html
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どうして危険だと分かっていた1号機の廃炉をしなかったか。上の記述で明らか。10円を惜しんで、1億円を失ったのです。

社内の土木調査グループから、国の研究機関である地震調査研究推進本部の長期評価を用いて試算したところ、福島第一原発が15.7mの津波に襲われる可能性があるという報告がなされた。

しかし、吉田氏を含む東京電力の経営陣は、そうした津波の発生確率は1万年から10万年に1回程度で、防潮堤建設にも数百億円の費用がかかることを主な理由に、対策を打たなかった。

またGEは竜巻の経験はあるが、津波のことはまったく念頭になく、電源盤や非常用ディーゼル発電機などを、補修がやりやすいよう、建屋の地下にまとめて設置しており、これが3・11の大惨事を招いた。

東電から、福島第一原発を8.6〜8.9mの津波が襲う可能性があるという試算結果を説明され、その場合、ポンプの電動機が水没して冷却機能が失われることを認識していたが、「聞き置いた」だけだった。


日産の会長、カルロス、ゴーンの逮捕で気になったのがコストカッターだということであった、二万人の社員を首にした
それを恨みに思っている日産社員が語っている
そしてゴーン自身が会社の金を私的に流用して50億円を裏金として利用していた
社員を非情にコストカットのために首にして自分自身は裏金で日本に税金も払わず
私用に使っていた、ベルサイユ宮殿でまた結婚式までしていた
これでは腸(はらわた)がにえくりかえるともなる

経営はわからないにしても東電の事故でも清水社長はコストカッターでのし上がったと常に言われてきたのである
東電自体でもコストカットの圧力があり会社全体で取り組んでいた、社員も整理していたそもそも経営では常にコストカットが要求される、営業ではノルマを果たすことが要求される、それが強硬なものとなり社員に圧力がかかりプレッシャーとなり何が何でもノルマを果たすために客をだますということにもなる
私企業ならもうけを出すことが最優先なのだからそれはどこの会社でもある

ただ東電に関してはそのコストカットが重大事故の原因になったから問われた

原発事故の原因はいろいろあるが

●アメリカの押しつけ

●日本の技術の未熟性

●日本の風土の無視

●無理なコストカットの強制

●コストカットで安全の無視

これが主要なものとしてあった、原発はもともと原子力潜水艦から生まれ技術であり原子力技術者は陸で行うことは危険だから反対していた
つまり科学者でも技術者でも原発には反対する人がいたのである
ただそこにアメリカの圧力とか日本の政治の圧力があり無理やり作られたのである
最初に湯川秀樹はアメリカの原発を導入しようとしたときまだ時期が早いからやるべきではないと言っていたのである

結果としてアメリカからの強力なおしつけで古い型のマーク1の原子炉を売りつけられたのである、それは危険だからやめるべきだという意見もあったが無視された
アメリカでは外国だから事故のことを真剣に考慮しないからだった

もう一つはアメリカでは竜巻があるからそれにならって地下に電源を置いた
そのことが最大の過ちとなったのである
日本にはそんな巨大な竜巻は来ない、でも地震と津波が来るのである
それでもともと津波とか警戒して高台に作る予定していてそうなるはずだった
そうすれば津波の被害はなかったのである

コストカットするために高台に作ろうとてして土盛りもしたがわざわざ低くしてそれで地下に電源を置いた結果津波で破壊された
コストカットと日本の地震とか津波を予測されていたのにしなかった
何かここに経営の失敗の共通性がある
経営はわからないにしろ総合的なものから判断する必要がある
それを統括する人は社長になるとただコストだけを見ていたら失敗する
ゴーン社長もコストだけを見ていてそれをカットしたことには成功した
でもそのために二万人が犠牲になっていたのである
そうして犠牲にさせていて自分自身は巨額の会社の金を私用に使っていたのである
コストカットは誰でもできることだという意見もある

つまり経営は総合的判断だからコストカットということだけに目がむくと他がないがしろにされる、その総合的に判断することが社長の役目なのである
その総合的になるということが現代の複雑な社会では至難なのである
なぜなら吉田社長でもそうだけど私は資材部門の専門であり復水器については知らないと言っていたのである、復水器は原発の安全に欠かせない重要な装置だったが知らなかったのである
技術でもあらゆる技術を知り得る人はいない、そんな人がいたら神のような人だとなってしまうだろう
それで大病院で癌の見落としがあったことが問題になっている

主治医は、報告書が届く前に画像だけを見て診断し、患者に説明することも少なくありません。その際、主治医は自分の専門分野、例えば肺なら肺、腎臓なら腎臓の臓器だけに注目し、周辺に映っているほかの臓器に注意を払わない傾向があるといいます。ほかの臓器に異変があるかもしれない、そうした可能性を考えることなく判断を下す

「相次ぐ『がん見落とし』 背景に何が」(時論公論)
                                               
これも同じように体全体を診れる医者がいないのである、いくら技術が発達しても優秀な医者でも体の一部分しかしらない
全体の体を診れないのである、だからそこに落とし穴があるのは原発でも同じだった
原発全体を見渡せる知りえる人はいないのである、するとどうなるのか?
もう事故になったら何もできない、壊滅的なカタストロフィー大崩壊が起きて成す術もなくなるのである
それが現代文明の宿命でありそれで文明が崩壊するというのも納得する
誰ももう全体を知ることはできない、それはAIになってもそうである、そして操作不可能になり大事故になっても成す術がなくなり文明が崩壊する、それが現実にここで起きたことなのである
原子力文明の崩壊だったのである  

ゴーン社長でもコストカットということだけに目を向ける、そこでは成功している、しかし二万人の首切りとか犠牲があった
それはコストカットには必ず無理があるから犠牲が生まれる
それにしてもブラジルからレバノンからフランスから日本と渡り歩く人にも驚く、その育った家庭もグローバルだったのである
でもこのグローバルなものが実は今や危険だということを知る
原発事故でわかったようにそれぞれの国には歴史があり風土があり地歴があって成り立っている
日本には日本の文化があり会社文化もある、社員を大事にするという文化がある、社長が飛ぶ抜けて給料を独り占めするようなことは日本ではない、欧米では普通にある、それは階級社会があったからである、そこに奴隷も存在したからである
それでフランスの人の発言で富裕層は仲間でありこうした悪も暴かれないが日本では暴かれたとして喜んでいる
欧米では支配階級と被支配階級が明確に二分されているのである、それは歴史的にもそうである
日本は平等社会なのである、侍がいたとしてもヨ−ロッパの貴族とは違っている、質素なのである
極端な格差がないのが日本社会でありそれが歴史であり文化なのである

だから会社でも日本では日本文化に基づいた会社形成をするべきだという人がいるのもわかる
社員の幸福のために会社があるのであり株主のためではないという思想である
いづれにしろグローバル経済はいたるところでほころび限界に来ているのである
それは国々の地歴を風土文化を無視しているからである
そこが最大の問題でありそこからさまざまな軋轢が生まれるのである
グロ−バル化というのは今や限界に来ていてもう全否定とはいかなくても否定する方向に世界で向かっているのである



posted by 老鶯 at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年11月25日

抽象画を作る種は尽きない (インタ−ネットの写真や絵から変化させるから)

抽象画を作る種は尽きない

(インタ−ネットの写真や絵から変化させるから)

The source of making abstract paintings does not run out

(We will change it from pictures and pictures on the Internet)

mornigforestggg11.jpg

the sun goes up in the forest

blackforest234.jpg

dark forest

mmmmcloud11122.jpg

earthlavagreen122.jpg
eruptive crater

absankaku111.jpg
glancing light


抽象画を作るのは才能ではない、私自身には絵の才能は全くない
ただその種になる変化する材料がインタ−ネット上に無限にあるから作り続けられる
それは才能ではない、インスピレーションでもない
ただ機械的にソフトで変化させるだけだからである
ただ変化させてそれが森の変化だとか川の変化だと山の変化になる
抽象画の特徴は何か具象画だとどうしても絵の才能がないと作れない
抽象画は絵の才能がなくても作れる、それは材料はインタ−ネットに無限にあるからそうなる
だからこういう芸術は今までになかったのである


It is not a talent to make an abstract picture, I myself have no talent for drawing
Just because it is infinitely on the Internet changing material to become that kind can continue to make
It's not a talent, it's not an inspiration
It's just to mechanically change it with software -
Just change it and it is a change in the forest or change in the river turns into a mountain change
Abstract painting can not be made without painting talent by any means if it is a concrete picture
Abstract painting can be made without the talent of painting, it is because it is infinite in the Internet
That's why such arts have never existed before.




タグ:abstract forest