2018年11月16日

鹿島の仮設商店街は終わり (はる食堂は小高に移り整体師は原町の駅前に移る)


鹿島の仮設商店街は終わり

(はる食堂は小高に移り整体師は原町の駅前に移る)


鹿島の仮設商店街のはる食堂は小高に移って再開
なぜなのか?小高で商売になるのか?
双葉食堂は小高でも満員だった、外で並んでいた
その時は工事関係者とか除染関係者が多かった
だから鹿島の仮設のように繁盛していた
双葉食堂のラーメンとかはそもそも評判がいいし味が良かった

でも小高で商売になるのか?
何か商売となるから再開するのか?
それとも何か援助があったのか?
整体師は復興のためらしいとか言った
とすると市の方から復興のために頼まれたのか?
その辺の事情がわからない
人が帰ってもらいためだとかも整体師は言っていた

はる食堂にはずいぶん通った
あそこのカレーがうまかったし餃子定食なども食べていた
ごはんものを出している
ラーメンも味がいいし盛り付けが豊富である
だから双葉食堂と比べて悪いとは言えない

考えられることは鹿島に新しく東京で修行した人がラーメン店をはじめたからかもはしれない、そこは繁盛しているからである
他に新しい食堂もできた、コバケンなどがそうである
小高には食堂もないからまた工事関係者も来るからかもしれない、なぜなら浪江はまだ工事が多いからである
何かその辺の事情はわからない
ともかく鹿島の仮食堂は終わりである、後は仮設はみんな壊される

小高の人に駅で聞いたのだけどその人は仮設では隣の音が気になるとかそれより自分自身が掃除の時など音たてるのが嫌だった、気を遣うから嫌だったと言っていた
その人は相当神経質な女性だったのだろう
一方でいつも会えて楽しいという女性もいたのである
その女性は社交的な人だったのかもしれない、音を気にする女性はそういう仲間に交わらなかったらしい、人もいろいろだからそうなる
なんでもいい面と悪い面が生まれる
仮設がすべてのひとにとって悪いとはなっていない、でも隣につつぬけになると嫌だとなる、長屋でもいい面と悪い面があったのである

posted by 老鶯 at 15:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

全能なる神に祈る (原発事故は科学者に頼っても解決できないから)


全能なる神に祈る

(原発事故は科学者に頼っても解決できないから)


この大災難は何故なるか
そをたずねるも知りえじ
確かなることは神は人に苦難を与える
自然災害のみならず様々なの苦難あり
しかし原発事故はいかなるのものか
それは人間の奢りから生まれた
科学は万能にあらじ
しかし万能なるを望み過剰な期待を抱く
科学が科学者が神のごとくになる
何々が成功したというとき
それはまた一つ人間の万能に近づく標し
そこに災いが生まれる
人は科学にすがる
科学者にすがる
しかし科学者は万能にあらじ
その科学がなべての恵みを与えるや
その科学に頼りすがるも
科学は科学者は万能にあらじ
もろくも打ち砕かれぬ
そして故郷は荒廃しぬ
人は科学に頼り限りなく欲は増大する
実りは神から自然から与えられしもの
人の手により科学によりもたらされしものにあらじ
そこに災いの元のあらじや
人は科学は全能にあらじ
すべては科学の力によってもたらされる
しかしもろくも人の技は砕かれぬ
その災いは大地を森を海を汚し住めなくさせる
そこに科学に科学者を万能として頼る呪いがあった
我らが頼るべきは何か?
全能なる唯一の神なり
その神のみぞ解決しえる
全能なる神よ
希望と力を与えたまい
希望と平和をあたいたまい
天なる力の働きたまい
我らの心を強くしたまい
悲しむ者は幸いなり
神はその涙をぬぐいたもう
祈りは力なり
神に通じる力なり
人の世に災いは尽きじ
災いから逃れさせたまい
それを科学や金でも解決しえない
希望と力を与いたまい
苦難に立ち向かう力を与いたまい
全能の神の力の働きたまい
我らの切なる祈りを聞き入りたまい
その時再び故郷は国もよみがえる
そして長い平和の日を共に享受する
その時そこに真の実りが生まれる
その実りは安易に奪われない
またこのように砕かれることはない
苦難を経し故の実りなれば
家族も故郷も国も苦難により
より強く結ばれることを知るべし

ここて起きたことは何なのか?そして自分自身に起きたことは何なのか?
その非情なることは何なのか延々とと自らにも問うてきた
その解答はないが本当にこのうよな過酷なことがなぜ起きたのかとなる
その原因も追究してきたが一つの明快な答えはない

ただそこで問われたものに科学への科学者とかへの疑問である
現代とは科学の時代である、科学が万能とみているし期待している
何かを発見したとかIPS細胞がガン細胞を攻撃できたとか常にそういうことが伝えられると遂に癌は直せると思うのである
そこに過剰な期待がありいづれは直るとみんな思っている
つまり科学の力で解決できると思っているのだ
だから科学者が神になっているのが現代なのである

でもそもそも原子力というのが技術的に完成されたものでもないし科学者にもわからないものだったのである
事故になったらその処理方法がないことは知られていたのである
メルトダウンしたらもうお手上げなことを知っていた
でも安全神話でそうならないとしていたのである
もし科学が万能なら技術が完成するまで使用してはならないものだったのである
医療だっていろいろ実験してみてこれで安全だとしてips細胞でも治療するようになる
原子力はそういう安全性の技術は確立していないのである

そしてそんなに原発が安全ならその後の処理を放射性物質を一掃する技術を科学者が発明してもらいたいとなる
それこそ切実な願いなのである
科学者よ、なんとかしてくれ、放射性物質を処理して安全にしてくれというのが切実な願いなのである
それができるのかとなるとできないのである

そして原発事故の後の処理にしてもそれがすべて金で賠償金でできるとかなるとできない
なぜならかえって多額の賠償金をもらったためにいち早く故郷を脱出して家を建てて帰らないとなったからである
そして補償金の差でもめて分断されたのである

だからどうしたらこの大問題の解決があるのか、解決する希望があるのか?
それは肝心の科学者にできないのである、なぜなら科学者は万能ではないからだ、また金ですべて解決できるのか?
不思議なのは一人一億円与えるから避難区域に住んでくれと言っても住まないだろう、ゴーストタウンには住みたくないとなるからだ
だから金だけでも解決できない、一億円もらったらみんな便利な所に出て行って帰らないとなったからである
それも放射能で住めないとなれば当然だともなる
誰もそれを強くをとかめることができない、そうして避難区域は老人だけとか限界集落とにたような状態になりゴーストタウンになる

ではどうしたら解決できるのか?
それは全能の神への祈りしかないともなる
科学者も処理できない、全能ではないからだ
全能なる神ならできる、そんなものいるのかと疑問にもなるのはわかる
全能なる神は現実にいるしなんらかこの世界に働きかける
つまり祈りは何かをしてくれるというだけではない
祈る心が大事なのである、そこに祈りの効果が現れてくる
祈りつつなんとか打開策を見つけて働くことである

そうして祈りつつ働くときなんらかの希望が見えてくるし祈ることは力にもなる
なぜなら神は存在するからである、全能の神は存在するからである
だからこそ祈らねばならないのである
科学者になんとかしてくれといってもどうにもならない
全能ではないからである、確かにいろいろ試してはみる
それも努力である、でもそこには限界がある
科学はまるで万能のようであり科学者はその限界を示さないのである、また科学が万能のように過剰に期待しているのである
原発に関しては科学者に頼っても解決できないのである

このことは原発だけではない、この世のことは人間で解決できると思っているができない
何か一つの問題を解決したらまた問題が生まれる、科学でもそうである、AIがもてはやされてもそれがすべていい方向に働くと限らない、そういうことは歴史をふりかえればわかる
科学は技術がすべて人間の問題を解決したわけでばてはない、武器の発達によって殺戮は過酷さをましついには核兵器になって人類滅亡の危機にあることでもわかる、科学技術ですべては解決できないのである
ただ科学技術は良いものとして無制限に追求されるのである
それがいかなる災いをもたらすのか今回の原発事故のようになりとりかえしのつかないものになるとしても追求される
それはまさに人間の業でありその業(カルマ)ゆえに人類も滅びるとなるのである




posted by 老鶯 at 20:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年11月17日

地方議員がいらないというのはなぜか? (私は今回は棄権でありそれは民意が反映されないからだ)


地方議員がいらないというのはなぜか?

(私は今回は棄権でありそれは民意が反映されないからだ)


我が家の近所に住む町内会長さんは、無償で公園の掃除をしたり、祭りを仕切って慕われているが、地方議員より、よほど地元に貢献している。

日本は民主主義の本場のアメリカから比べても本当に議員の数が多すぎる
ここの主張では議員を減らして行政にたずわる人に金を回した方がいいとしている
議員は無駄飯くらいとしている
それだけ何をしている人たちなのかわからないのである
それで選挙の時いい大学出ているとかで評価したりする
でも政治はその人なりもあるが何をしたのか、どういう働きをしたのかが問われる
しかしそれがわからないのである

選挙の時だけ騒ぐけど日ごろ議員の時何をしているのかわからない
ただ金をもらっている人だともなる
だからここでは町内会長が公園の掃除を無償でしている
その人の方が役に立っているとなる
要するに議員は高給取りでも何をしているのかわからないのである
議員は暇でしょうがない職業だともここで書いてある
ただ議員となれば議員という地位と金が入るとなるだけでだとなる

ともかくアメリカからすると倍以上というより何倍も議員が多いのである
それでかえって効率的でなくなる、行政を担うのでもない、だから直接行政で働く人を増やした方がいいとなる

この辺では様々な問題が山積みだけどその解決に議員がどれだけ努力しているのか何か方策を考えているのか?それもわからない
これだけの問題をかかえても議員が何をしているのか良くわからないのである
鹿島区で高速無料となったのは市長の権限なのだろう
市長は何かをすることができるが議員がどうかかわるのか見えない
だから議員代議制は特に地方の場合形骸化しているのである

それでいろいろな方策を提案するようになる
何か議員に一票投じることが虚しいのである、それは何の効果もないからである 
 
 平成22年(2010) 

震災前は72パーセントの投票率

 平成26年(2014)

 59パーセントである
 
震災前が高かったが震災以後の2014年は低い、これは小高が避難区域になり投票者が散らばったからかもしれない
今回はどれくらいになるのか?
70パーセントにもどるのか?

ただ正直選挙に関心がもてない、地域に住んでいればいろいろと関心をもつ、私自身が鉄道と駅に関心をもったので報告した
それは身近な存在だからそうなった
つまり議員でも何をしているのかプログなどでも報告する義務があるとなる
そういうことをしている人はいても少ないし内容がともしいのである

現実にどういう主張してどういう成果をあげたかなどわからない、ただ選挙の時お願いしますお願いしまだけなので嫌になる
つまり町内会長さんが無償で公園の掃除をしている人の方が市のために役に立っているともなるのだ
議員は前はそれも昔になるが土地の有力者などが無償で行っていた名誉職だった
だから無償のボランティアとして始まっていたのである
今は高給とはいかなくても市の財政から金を払っているのだからそれなりの仕事をしてもらいたいとなるがしていない、またわからない、だからボランティアで公園の掃除している人の方が役に立っているのである

いづれにしろ今回は私は棄権である、誰に入れていいかわからない、そして民主主義で棄権が多くなるとそれは民主主義自体を否定することになるから民主主義の危機なのである、もう50パーセントくらいの投票率では成り立たないともなる
民意は反映されないシステムになるからである
だから個々の事案について投票するシステムを作れとかいろいろ言う人が出るのもそのためである
つまりもう選挙では何も反映されないとなるからそうなる、そしてシルバー民主主義のように選挙する前から決まっている
数が多い方に有利になっているから若い人は選挙に行かない、この辺だと合併して原町中心になったからそこは6万とかの人口の内
4万いるから原町区中心に何でも決まってしまうのである
だから補償金でも鹿島区の三倍原町区はもらっている、鹿島区が不満でもどうにもならないのである
原町区の方が人口が多いし票が多いのだから文句言っても多数決で決まるからどうにもならないのである
それはシルバー民主主義と同じなのである、そしてどうせ自分たちの意向は反映さないとなり棄権になり投票率が下がり民主主義の危機になっている、だからなんらかの制度を改革が必要なのである


posted by 老鶯 at 10:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

人間は身近な所を見逃している (原町のHARD OFF-ハードオフは去年から始まていた)


人間は身近な所を見逃している

(原町のHARD OFF-ハードオフは去年から始まていた)

dish222.jpg


dish111.jpg


青は海をイメージする、黒は何か?茶色は土をイメージする
これはやはり黒がミソである、黒の配色がいいとなる

黒は林のイメージである、森のイメージである
するとこれは新地のイメージなのだ!
海と林と土の色である
それは詩にもしたからである
やはり何か抽象画でも具象画をイメージする時活きてくるのである



これも大失敗だった、震災以後閉鎖されたとずっと思っていた
そこに人の出入りしたのを見たことがないし閉鎖している思っていた
今日は外から明るく人の出入りがあり入った
確かに内部は今日はきれいにしていた
でも今までも開いていたのである

なぜ人間は身近な所すら認識しないのか?
灯台下暗しということを何度も自覚させられた
原町のモスバーガーも10年以上とかそこにあったのに気づいたのは最近だったのであるそれは車をもっていないからわからなかった
車のみの人が利用する場だと思っていた
車をもっていてい人は車社会になった時知らないことが起きる

それは社会からはずれている自分特有の問題だということもあった
でも人の出入りがひんぱんにないとするとそこははやらない店と見られやすい
認識しにくいとなる、だから店にはレストランでも人がいないとかなるとそこは休んでいるのかとも見られることもある
だから繁盛している所は人の出入りが多いのである
人の出入りが多いことでそこは人気がある店だとか判断されやすいのである

そこを知らないで失敗したことは今家を整理して売るものがあったからだ
それは利息三文でも整理したいものだったからである
それで捨ててしまったものがある
たいしたものじゃないが誰かに使ってもらったら良かったと思う
あそこの店は買い取りとかが便利にできていたからだ
小さい店だと売るのがめんどうになるから行かなかった

何か狭い地域でもわからないことは損したり困ることになる
実際今は隣り合っていても何をしているのかわからないということがある
何の職業なのかもしわからない、そういう社会というのも問題である
だから買い物でも通販ばかりしているのも問題だともなる

人間は身近な所でも本当に気づかないことが多い
近くの神社に天明の碑があったことでもそうである、となるとここも相当に古い場所なのかとも認識する
不思議なのはすぐ自分の家の近くに松一本が残された家の跡がある
庭の跡も残されている、それは震災以後その家の人がいなくなった
でもすぐ近くに誰が住んでいたかわからないのである
皆目見当もつかないのである、ただ松一本が残っているからここに家があり人が住んでいたと自覚する、でも全く誰が住んでいたのかわからない
その回りは空き地になっているような所だから都会のような混んだ場所とは違うのだから誰が住んでいたかわかるはずなのである

いづれにしろ現代は近くでも何かわからなくなっている
それだけ人と人がつながる社会ではないからだろう、通販などは全く地域と関係ない商行為だからである
ネットなどでも全国と世界に通じているとしても人と人がつながるというものでもない
有益な情報が得られても人と人がつながるわけではない
それですぐ身近な人のことがわからない、認識されないということが起きてくる

ともかく300円くらいでこの陶器を買った
陶器には興味がありこの青が何とも言えないので買った
何か自分は青が好きらしい、青色に興味があるということはそうした性格だともなる
赤とか好きでないからである、それだけ陰陽があるとき陰の性格なのである
この性格は母もそうだから遺伝したとなる

matuuuuu111.jpg

ここに誰が住んでいたかわからない謎
posted by 老鶯 at 19:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2018年11月18日

反転する人生、運命の謎 (プラスに働くものが一転してマイナスになる)


反転する人生、運命の謎

(プラスに働くものが一転してマイナスになる)

なぜこの辺で原発事故でこんなふうに大被害になったのか?、津波でもそうである
原発はこれまでいいものとしてあった、そこで働いた人がこの辺では多いのである
原発は金になるものでありいいものだったのである
原発は地域に恩恵を与えていたのである
それが一転してマイナスなものとして働く
まず白が真っ黒になったという状態になった
科学技術の信頼は全く失われた、これも科学技術社会なのだから衝撃だった
誰も普通の人は放射線被害がこれほどのものとは思っていなかったのである

ただこういうふうにプラスに働いていたものがマイナスに働くということは歴史でも人生でもある、戦後の歴史でも団塊の世代は数が多いということはプラスに働いていたのである、その数が多いということで労働力になり高度経済成長時代を築いたのである
だから不思議なのは食料もなにもない、戦後の焼け野原からそういうことができたというのも幸運だったとなる
戦争は悲惨だったがその後は経済成長したから戦争の影響を受けたにしろそれが全部マイナスに働かなかったのである

でも今はどうなったか?その団塊の世代など人口が多い世代が今度はマイナスに働く
高齢化社会になりその数も膨大であり認知症が800万人時代とか信じられない時代になりお荷物となりその負担に耐え切れないともう施設に入れないとかなっている
介護難民がすでに出ているのである、特に認知症は嫌われるから追い出されている
それだけの世話する人が確保できない、金も確保できないのである
このプレッシャーはあまりにも大きいものとなって国すら潰れるとまでなる

それは自分自身が一人は認知症でありもう一人も介護した
四苦八苦して介護した、その時誰も助けるものがいない、かえって弱者化して責められてきた、同情もない、そのことを延々と書いてきた
ただこれも自分のカルマだったのである
結局楽した結果としてこれだけ過酷なものとなったということがある
つまり楽することもカルマを積んでいたのである
人間はただ何もしないで生きていてせ何かしらカルマを積んでいるのだ

それ以後人生が一転する、何かの切っ掛けで人生はベ―トベンの運命のように人生は一転する、優秀であった人も事業をはじめて失敗して借金に苦しむ
健康であった人が脳梗塞とかで半身不随になり車椅子生活になる
運命があるとき反転する、白から黒になる、それは大きくは社会でもそうだし個々人でもそうなのである
その変化があまりにも大きいともうそれに対処できなくなる
それがこの辺の状態なのである

だから個々人でも社会でもこのようにプラスに働いていたものが一転してマイナスに働くのか?それはまさに人間の運命だとなる
ただでは今度はプラスからマイナスになったが今度はマイナスからプラスになるということもある
この辺は新地である、駅は大都会並みであり駅前には温泉がでたとか大きな施設ができて人が集まるようになる、このように津波で甚大な被害を受けてもマイナスになってもプラスにまたなる所もある
戦争は悲惨でマイナスだったがその後はプラスに日本は転じたのである

だから人間は社会でもそうした繰り返しだった気かとなる
プラスに働くものがありマイナスに働くものがある
そもそも国自体がプラスに働くものがありマイナスに働くものである
日本は国土が狭いが山が多く水資源には恵まれているとか海に囲まれて海産物には恵まれてきたとかある、狭いから狭い国土で米でも収穫高をあげてうまい米を作ってきたとかある、砂漠になにもないと思ったら石油がでて豊かになっているとかなにかしらマイナスと思える所にもプラスになるものがある
神は砂漠にも恵みを与えていたのである

例えば人間でもいろいろな人がいて性格も性質も体質も違う、体力があるものいて外交的なものがいて内向的な人もいる
外交的な人からみると内向的な人は嫌れる、陰気だとなり社会でも嫌われる
でもそれは生まれつきのものであり外交的にはできない
体力でも生まれつきがあり強いものは強い
でも人間の性格でも弱点と思えるものがかえって長所ともなる
マイナスと思えるものがプラスになりプラスに思えるものがマイナスにもなる
体力的にも強くバリバリ社会で活躍する人も意外と年取ってから弱く早く死んだりする

人間には陰陽の性格があり最近読んだ本で陰の体質の人は人生の後半戦に強いと書いてあった
そうれもそうなのか、何か自分ももしかしたらそうなのか?
後半戦に力を発揮する、何か今自分は一番力を発揮しているように思う
理解力が深まったからである、今までは本を読んでもただ読んでいるというだけだった
今は自分なりに解釈して評論もできる、だからこれも不思議なのである
高齢化社会になると人生百年となると後半戦に強い人が生き残る活躍するともなる
そうなると陰の体質の人が有利だともなる
長期戦でありマラソンに適していて後半戦に力を発揮できるとなればそうである
それは体力でもそうなのだ、後半戦には陽の人はもたないとなる
ただこれも本当は人はいろいろだからわからない、もう同世代でも二割とか死んでいるとなるからだ


だからマイナスになるということは今度は逆にプラスになってゆくということにもなる
それはまた困難がともなうがマイナスばかりには人間個々人でもならない
社会でもマイナスから今度はプラスに転じてゆく
そういうことも歴史でも社会でも人間個々人にでも起きてくる
それでマイナスからプラスになるということもあるからそうなるように努力する
ただ今はこの辺では先が見えない、二重三重苦になっている

今言えることは日本全体でもマイナスの局面に転じている、マイナスに転じるということはそれはあらゆるものがそうである
民主主義でも制度疲労しているし資本主義でもそうである
世界的にも何かマイナスの局面になっている、それで大きな変革の時代になる
その時痛みがある、犠牲もある、それは戦争と同じなのである
世界でも国でもそうしたし大きな変わり目に来ている
つつりそれはマイナスの局面になる、でもそこからまたプラスの局面へと転化する
その時痛みと犠牲が生まれる、明治維新でもそうである
戦争の時もそうである、それを乗り越えたとき再びプラスの局面に転じてゆく
それが人生でもあり歴史でもり、運命だったとなる    

占いでも凶運は強運に転じる、凶運というのはそれを生じさせるものを積んできたからだというのも納得がいく、それが自分のことでもあった
私自身がこの凶運から学んだことが多い、人生の試練だった
人間は何か困難があると学ぶことが多いと思った、楽に過ごしていたら学ばないのである楽に過ごしていることも後でそれがカルマとなり過酷な凶運になり苦しむ
人生が一生楽に終わることがないからだ、それはどんなに恵まれていてもそうである
この辺は全体的にも凶運になったでもまたそれが強運に転じることもありうる
ただそれはこれだけの被害となると今まで経験したことのない放射線被害だからなんともいえない、ただ凶運が強運となる可能性はあるということである

それでも高齢化社会の問題は病気になったり認知症になったり後は死があるだけであり
マイナスになるだけだというとことで問題なのである
それは社会全体でもそうである、死んではじめてプラスになるという問題である
つまり高齢化社会は団塊の世代でもまたその後の世代でも死んだときプラスに転じる
それは50年とか先になるのだ、それまでマイナスとして働くものだから苦しいとなるのだ、ただ個々人でも社会でもそういうプラス→マイナス→プラスというサイクルがあることは確かなのである

常磐高速ど鹿島のSAで県職員がアンケートで復興の進展を説明 (放射線のことは説明されてもわからないのが問題)


常磐高速ど鹿島のSAで県職員がアンケートで復興の進展を説明

(放射線のことは説明されてもわからないのが問題)


sakpfu1.jpg

sarrfu2.jpg

放射線の説明を聞いた場所

あとは土木関係は堤防の工事ほぼ完成したと言っていた          


地元には、飲み水に利用しているダムなどの除染を求める声などもあるが、水道設備で放射性物質の影響を取り除くことができるとした。環境省の井上信治副大臣は「実際の生活にどういう影響があるかという住民の心配の観点に立ってまとめた。丁寧に説明をしていきたい」と話した。(奥村輝)
ーーー朝日新聞(26.8.23)  

真野川ではいつも水質検査している、それで良くその検査する人とあう
真野川は上流にダムがありそこから水道の水をとっているというとき不安になるので飲み水には使ってはいない、最近は蒸留した無料の水を飲んでいる
ただこの水もどこからとったのかわからないのである
ペットボトルだと金がかかるからそうしたのである

私は科学は苦手でありほとんどわからない、そのために今回は何か肝心なことで説明できなかった、今日もそうだった
その人は県の放射性物質の汚染に関する係りの人だった
それなりに詳しいと思った
何が私がずれているのかわからないのかとなると今日話してもそうである
セシウムは水に溶けない、泥などに付着するということは聞いていた
つまり水自体にはセシウムはないという、それも何かわからなかった


水にはセシウムは交わらないということが良くわからなかった
だから水道水でも水を検査しているから安全だとなる
セシウムは水に溶けない、トリチウムは海に流すことになっているが水に溶けるという
でも泥は川に流れてくる、放射線量の高い飯館の周りの森から流れてくる
それが真野ダムに堆積するのである、現実に佐須でホットスポットがあり泥が20マイクロシーベルトあったのには驚いた
だからそうした泥が真野ダムに流れて堆積しているから不安になり聞いたのである
検査の結果では虫の調査では真野川のダムの上流の方が放射線量が高くなっていた
真野ダムの下流は低い結果になっていた
その理由は何なのか、真野ダムでせきとめられて泥が流れ出さないためなのか?
真野ダムからは水を放水しても泥が流れるがそんなに流れないということなのか?
真野ダムの上流は周りの森から泥が流れて高くなったのかとなる

manodam111.jpg




同県浪江、双葉両町の計6地区で、表土のはぎ取りや高圧水洗浄、除草など標準的な方法で実施した。その結果、除染前に1時間あたり平均7.65019.12マイクロシーベルトだった生活圏(宅地、農地、道路)の空間線量は除染後、同3.3507.09マイクロシーベルトと約6割下がった。木造住宅に住み1日8時間屋外で過ごすと仮定すると、多くの地区が除染後も年間20ミリシーベルトを上回ることになる。一方、森林の線量低減率は約2割にとどまった。

森林の線量を減らすのには限界がある、なぜなら森自体が汚染されているから落葉も汚染されるているからそれが腐葉土になったとき木の根から吸い上げられるからだ
それで根が浅い植物は山菜は汚染度強かったと報告にある
それは表土が汚染度が高い下になるとそうでもないとなると同じである
それで表土をはがしたのである、でも残念なのは表土に栄養分があったから田んぼでも米を作れなくなったのである、野菜でも作れなくなった、花には影響がないので何か飯館村に沖永良部島とかから花栽培の人が時期を見て仕事に来ていることを放送していた
森自体を除染することはほとんど不可能なのである、そこから汚染された泥が流れて真野ダムに堆積される、すると放射線量は減らないとなるのである
ただ水にセシウムが交わらないということで水は飲めるとなる
それでも不安になることは確かである

radtuchi111.jpg


 環境省は「さらに線量を低減しようとすれば土地の従来の機能を損ねかねない。区域の将来像を検討する中で追加除染の必要性を判断したい」と話している。【阿部周一】
ーーー毎日新聞(26.6.10)

 放射性物質に汚染された稲わらや下水汚泥などは、八〇〇〇ベクレルを超えると指定廃棄物として国が処理する対象となる。ツバメは泥やわらを使って巣を作るため、巣近くの土壌汚染を反映したとみられる。 

この燕の巣を調査していた人が相馬市の道の駅で出会った
その人はサースカロナイナの学生だったのである、なぜ調査しているかわからなかったがこういうことだったのである

環境省は10日、原発事故の帰還困難区域で行った除染効果を検証するモデル事業の結果を発表した。宅地などの空間放射線量はそれぞれ80〜50%程度下がったが、元々高濃度に汚染されているため平均で毎時2・5〜8・8マイクロシーベルトの放射線量が残り、除染の限界を示す結果となった。

 モデル事業は、福島県双葉町と浪江町の帰還困難区内6地区で昨年10月〜今年1月に実施
 ーーー朝日新聞(26.6.11) 

 除染には限界がある、この辺は森が多いということが問題なのである
森は基本的に除染できない、その森林面積が広いのである
それでいい場所でもあった、飯館村など70パーセントが森なのである
それで除染には限界があり双葉とか大熊地域は住むのは無理だと素人でも思う

それは私自身が浪江で0.5だったのに双葉に入ると7マイクロシ−ベルトに跳ね上がったからだ
そのことで説明する係りの人に聞いた、もっと雨がふればよかったとそれはどうしてなのか?その時確かに雨がふったり雪がふったりしてブルームとなって雲の塊りのようになって放射性物質が東風に流された
その時もっと雨が降ったり雪がふれば放射性物質は地上にふって福島市の方に流れる量は減ったという、それもそうだったのか?
あこうぎから津島はそのために異常に放射線量が高かったのである
そこに避難したのが浪江の人たちだったのである

だから本当にずさんだったと思う、何の備えも対策もしない
ただ安全だ安全だと安全神話を築いているだけだった、危険の対策はそう言っていればしなくてすむからである、また危険だというと騒ぐからしないとなる
それで爆発して避難する時東電の社員がいて山の方に避難するより海側に避難した方がいいと言って海側に避難した人たちがいたのである
それが正解だったのである、東電の社員は専門家だから知っていたのである
放射線量を計るスピーディでわかっていたのにそのスピーディを最初に伝えたのはアメリカだったのである、アメリカの支持待ちだったのである
これが政府と東電で原発を運営していたのだから全く危険に備えていなかったのである
備える必要はない「安全神話」を作り危険だということは周りの人は口に出すこともできないようにしていたのである
情報も出さない、原発は秘密のベールにおおわれていた
そこに立ち入ることはできない、マスコミも安全神話を作っていた一員だった
莫大な宣伝費がマスコミに出されていたからである

だから原発事故以後は科学者の言うことでも県の行政でも信じられないとなった
原発の不利な情報は出されないからである、常に権力で隠蔽されてきたからである
民主主義の基本が情報公開にあるときそれが成されていないことが最大の問題だったのである、原発は厚いベールに覆われてその内部のことはうかがいしれないものだったのである、だから事故以後は科学者の言うことも信じられなくなった
行政だって国の力が県に及ぶから信じられないとなる
真実は闇に隠される、ただ今日のようにともかく県でも説明することはいいことである

その放射線係りの人は詳しいから専門家なのかと思ったらそうではない、放射線係りなったのは前からではない、こういう事態になって係になった
理系ですかと聞いたらそうでもないという、でも詳しいから関心した
例えば遺伝子というのは空気をすうために一部は壊されるという
でも修復機能があるので回復する、だから放射線で破壊されるのは3000回破壊されてそれに加えて二回くらい増えるだけだとか言っていた
それもそうなのかと思った、その人は理系でもないのに詳しいと思って感心した

普通の生活での呼吸で活性酸素が生じ、遺伝子が壊れるのは、1日100万件、癌の発生は1日5000件レベルです。
遺伝子修復酵素で修復し、修復を見逃して癌が発生したら、キラー細胞などの免疫が掃除して発病に至らないのです。

さて放射線の影響は、その強さにもよりますが、100ミリシーベルト/時程度での影響はこれの何分の1程度で、発病しない程度でしかありません。
福島での発病は考えられません。下に、嘘を言っている煽り屋がおります。

チェルノブイリ原発事故死 100万人====

「この本は公開された医学的データに基づき、事件の起きた1986年から2004年までに、98万5千人が亡くなったとしています。
死者数はさらに増え続けています」、「チェルノブイリ原発事故の死者は100万人ということで」、「癌や心臓病、脳障害、甲状腺ガンなど死因はさまざまでした。

何より多くの子どもが死にました。



こうした両極端になると素人にはわからなくなる、放射線の問題はだからやっかいであり嫌になりあきらめるとまでなる
何か症状が出て明確な結果が出てはじめてわかるものだからである
放射線の問題は危機感がない、何か今は眼に見えて症状が現れないからである
そして20年後でもガンになる人が増えたとしたらその時恐怖を感じるのである
その時は遅かったとなるから怖いのである

ともかく放射線の問題は本当は科学者でも正確にはわからない
またチェエルノブエリでも隠されているからわからない、それを暴いた人もどこまで真実なのかわからない
だから何を信じていいかもわからないのである
今回の事故はそうして科学者を信じられなくなった、科学者は公正に科学を追求している人たちではない、御用学者のように政府の権力者の言いなりになり科学的公正さより権力側の言いなりにり発言していたからである

科学者は信用できない!政府も信用できない 行政も信用できない、マスコミも信用できない

そしたら何を信用すればいいのかとなってしまったのである
放射線量のことでも除染のことでもいろいろ言うことはある
でも根本的に信頼を失ったことが致命的なのである
何か不利な情報でも公開したり事故に備えた訓練をしたりとそれをするべきだった
そうすると原発が危険となり騒ぐから作れなるからという理由で「安全神話」を形成したこと自体が過ちだったのである

いくら科学のことがわからないにしても人間はどこでも人間との信頼関係が一番大事だとなる、そうしないとまかせられないからである
留守を頼むとするその人も信用しなければささいなことでもまかせることができないのである
それが原発ではできていないから信頼関係を作れないものなら作るべきではなかったのである
交通事故とか電車でも事故はある、それは許容されているのは信頼関係が全面的に崩壊するような事故にはならない、許容範囲になるから車社会でも鉄道でも維持されているのである
原発はそういうものとは違っていたのである

だからいくら放射線は怖くないとかなにがいろいろ科学者が言っても信用できなくなったのである、それは科学の問題ではない人間の信頼関係が築けなかったことにあった
科学は完全ではないし科学者も全能ではない、だからこそ謙虚になり事故だって起こりますよとか安全対策をするべきだったのである
それがただ安全神話を作り後は一切口を封じさせていたのである
だから科学の公正さなども偽れるし科学者でも行政でもマスコミでも信じられなくなったのである
今だってどこまで正直に報告しているのかわからないのである
そういう不信感があり科学でどうのこうのといっても信じられなとなってしまった
科学には科学者には公正さを追及するものがあるとしても権力によって歪められることもあるから信用できないとなってしまったのである     

ともかくはあらゆる分野での問題が生まれた、科学でも政治でも行政でも報道でも伝説なども取り上げられた、宗教すら関係していたそれで私自身が全能の神に祈りをささげたことでもわかる
解決しようがないからそうなったのである
郷土史とは実は地質学なども関係しているから総合的な学問なのである、主に理系だから科学の知識がないと発言ができないものだった
ただ何か文系でもこうして調べてゆくと科学的精神が身につくのかともなる
それはあくまでも文系的なものでもやはり科学的精神が身につくともなる
県の説明の担当の人は文系でも説明していたからである



posted by 老鶯 at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

セシウムは水に溶ける溶けないの問題 (飲料水は安全なのか?)


セシウムは水に溶ける溶けないの問題

(飲料水は安全なのか?)

seciumsoma112.jpg


水にも熱にも酸にも溶けないガラス化した不溶性セシウムは(食べた場合には排泄されるが)肺胞に入った場合には半永久的に出て行かず、極めて有害なベータ線を出し続けるのである。

チェルノブイリ地域のPripyat川と福島地域の口太川における放射性セシウムの水溶解性を比較した。その結果、チェルノブイリ地域では放射性セシウムの溶存成分の割合が70%程度であるのに対して、福島地域では30%程度であり、前者で水溶解性が高いことが分かった。またその原因として、チェルノブイリ地域では、懸濁粒子中の粘土鉱物への放射性セシウムの吸着が、天然有機物(腐植物質)により阻害されるためであることが、X線吸収法(XAFS法)などの分析から分かった


イギリスのタイムズ紙は6月13日 『福島第一原発を廃炉するまでに必要な200年間の時間の待機』(Japan faces 200-year wait for Fukushima clean-up)と題して、小野明福島第一原子力発電所長が『福島第一原発を廃炉するには200年以上の時間が必要』と正直に語ったと報じる。


福島、水源に浸した布から

高濃度セシウムを検出!

汚染地域は未だ住んでいい

レベルではない!

飲み水にセシウムが

混入するのは必至

内部被曝は蓄積され…

白血病など…10年、20年後…!

食品汚染も日本中に…


ストロンチウム、

トリチウムは水に溶け

プルトニウムなども測定困難!

居住制限区域の飯舘(いいたて)村西部から南相馬(みなみそうま)市を経由して、太平洋に注ぐ新田川(にいだがわ)。

市民の水源として使われるこの川は、前々回のレポート『イチエフをドローンで空撮! 原発事故から5年を経た事故処理の現状は?』で伝えた除染廃棄物を処理する蕨平(わらびだいら)焼却場のすぐ近くを流れている。

福島県や国の発表では、新田川の川底にたまる泥からは、1600Bq(ベクレル)/sほどの放射能が計測されているが、水からは1Bq/sも出ていない。

しかし、昨年9月、市民団体が南相馬市原町区・中川原橋付近でこの川に麻布(リネン)を8日間浸した。回収した布の放射能を測定したところ、3430Bq/sという高濃度のセシウムが検出された。

リネンを長時間浸しておくと、流量×断面積×時間分の放射性物質が吸着します。水中の粘土鉱物、菌類、落ち葉などの浮遊物、プランクトンにセシウムが付着しているのです」

つまりそれは、水単体の検査では放射性物質が不検出でも、その水を飲み続ければ、少しずつ体内にセシウムが蓄積することを意味する。取り込んだ放射性物質は体内から排出されるが、毎日取り込むと排出量を上回ってしまうからだ。

新田川の水は一度地下に染み込み、今回の計測ポイントから1qほどしか離れていない大谷(おおがい)浄水場で井戸からくみ上げられた後、上水として処理され飲料水となる。現時点では市の検査で飲み水から放射性物質は検出されていないが、当然、不安を漏らす市民もいる。



ここでは相当危険なことを言っている、それも新田川とか小高の川で飲料水として利用しているから恐怖になる
セシウムは水に溶けないから有機物に付着するから水自体は計測しているから安全だとしている
ただ水に溶ける溶けないで混乱した、布を浸してセシウムが付着したのは水に溶けているというよりその中に浮遊していたセシウムとなる
チェエルノブエリでは付着する有機物がないので水に溶けた量が多くなった
70パーセントが水に溶けて流れたとなる
だからセシウムが水に溶けないとか溶けるというのが良くわからなくなり混乱した
トリチウムとストロンチウムは水に溶けるから計測できなくなるとこのサイトには書いてある

ヨウ化セシウムは水100gに対して、40g以上という非常に高い溶解性を持っているようです。
イオン性の化合物ですので、塩が水に溶けるのと同様に溶けます。

溶けるとは、混ざるということです。科学反応でもしない限り溶け合わさることはありません


福島第一原発の事故からまもなく7年となるなか、「セシウムボール」と呼ばれる水に溶けにくい極めて小さい放射性の粒子が注目されています。去年、東京大学の研究チームが福島県北部の川で、このセシウムボールを確認していたことがわかりました。 

「事故で起こっていることを考えるにしても、溶けないことを想定するか、水に溶けるかを想定するのかで全然変わってくる」(セシウムボールを発見した 気象研究所・足立光司主任研究官) 


セシウムが水に溶ける溶けないでもわからなくなる、問題はどっちにしろ放射性物質に汚染された飲料水を飲みつづけるとどうなるのか?
水を飲めば溶けても溶けなくても口から体に入り内部被爆するのか?
チェルノブエリは30パーセントとしか有機物に付着しないから水を飲むと危険なことはわかる、日本は70パーセントは泥でありなんであれ物質に付着したから水自体にセシウムが混じっていることは少ない

表現としては水に放射性物質が溶ける溶けないではなく混じっているとなる
なぜなら水に混じっているとすれば当然その水を飲んで体内に入れるからである
ただ水に溶けたものだと排出しやすいとはなる
水に溶けないとかなると体内に残留するものがあったとなる、それは肺胞に残り放射線を出し続けるから危険だとなる

水にも熱にも酸にも溶けないガラス化した不溶性セシウムは(食べた場合には排泄されるが)肺胞に入った場合には半永久的に出て行かず、極めて有害なベータ線を出し続けるのである。

こういうセシウムは危険だとなる、ただ空気にもセシウムなど放射性物質は混じっている
すると肺胞に入り内部被爆して10年とか20年後に癌になるという

この放射線の被害のやっかいなのは長期で見ないと結果を見ないと症状がでないとわからないのである
それでタバコとかその他の体に悪いものがあり放射線より危険だとしている
福島県の行政の人はなるべく安全だと説明している、それが命令された仕事だからなのだろう

飲み水は毎日飲むからそれで安全が一番気になっていた、ペットボトルを飲んでいたが金がかかるのでツルハの無料の蒸留水を飲んでいる、ただこれもこの辺の近くの川の水だとするとどうなるのか?どこの水かわからないのである
でも無料だからみんな飲んでいるのである

結局本当はこれもカルマが関係している、カルマというのはそれが苦しみとなって現れない限り感じないのである
それも本当に三十年前とか四十年前とかさらに前世までさかのぼりカルマが影響しているとなると怖い
それが確実に症状として苦しみとして現れることは間違いない
だから六十以降は病気になる人が多いし種々のことでそのカルマの清算が強いられるのである
それが自分にもありカルマの清算のために苦しんだことを書いてきた
それは過酷なものだったのである、だからこの原発事故のカルマは十年後二十年後三十年後に現れる,病気となり苦しみとなり現れるただその時老人は死んでいる、苦しむのは子孫になるのである
一代でも二代でも終わらないカルマを残したことは確かなのである

posted by 老鶯 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年11月19日

抽象画から具象画へ 具象画から抽象画へ


抽象画から具象画へ 具象画から抽象画へ

From abstract paintings to concrete paintings
From concrete paintings to abstract drawings

dish111222.jpg

shinchcolour1111122.jpg

dish222.jpg

sunsetbeach111.jpg

shinchitownw555.jpg
海と森と大地の町
shinchitown1.jpg

FUKUSHIMA SHINCHI TOWN-JOBAN-LINE

抽象画化から具象画にすることも常に行われている
この陶器は抽象画である
でも青は海であり黒は森とイメージ化できる
茶色は土の色である

そういう風景を現実近くで見ている、この抽象画から現実の光景イメージ化しているのである、抽象画から具象画へ具象画から抽象画へとイメージ化している
そうゆう相互作用がある


It is always done from abstract drawing to concrete drawing
This pottery is an abstract picture
But blue is the sea and black can be imaged as a forest
Brown is the color of the earth

I am imagining from such abstract paintings to concrete paintings from concrete paintings to abstract paintings that are seeing such landscapes close to reality, which is a real scene image from this abstract picture
There is such interaction

人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る (人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


人間の本性は悪でありその恐ろしさを体験で知る

(人間は悪(エゴ)であるがただその機会がないと現れないだけ)


自分自身の過酷な経験から人間の本性を知った、それは恐怖の経験だった
自分を助けると思っていた人が実を自分を食い物にしようとしていた
弱者になった時、自分の思い通りにして金を得ようとしていた
その人は事業に失敗したとかありどのくらいかわからないが借金していた
だから自分が苦しい時確かに多少は助けたにしろ借金を背負っているから
それを返すことで頭がん一杯でそれしかなくなっていた
妻はそのためにパチンコ屋で奴隷のように働かせられていたのである
その妻が来てもなにもする気はないしできない
ただその家の者は全体が借金を要求するように負担となって自分の所に来たのである
私の家ではその家族のことを昔であれ助けたことがあってその人は恩返しだとして来ていた、でも自分自身が借金していることでそれどころではなかったのである
まず自分に余裕がない人は人を助けることなどできないのである

そしてこの経験から人間の本性は悪でありエゴであり他者はただ金とだけ関係しているとものと思った、金がとれないならその人は何の価値もない、近づくこともない
金があるとなり金がとれるとなり接してくるのでありそれ以外何の関心もないのである
極端になれば人間は金の切れ目が縁の切れ目でありそれはどこでも普通に起きている
他人にどんな関心があるのか?利益的関係しかないとなる
そうしてもともと薄い関係だったからみんな去った
そういう人とは二度と会わないのである
この世の他人の縁とかはそんなものかとなりただ無常になるだけだった
それより人間の本性はエゴであり悪であるということを経験で知った

例えば性善説とか唱えているのはまず社会経験がたりないのではないか?
自分もそうだった、でも社会経験している人はそんな説を唱えるはずがないのである
人間の歴史をみてもそうである、弱肉強食の世界が歴史でもあった
戦争の歴史が世界史でもあった
人間も動物の一種でありどうしても他者の命を食べなければ生きていけないということからエゴだとして仏教が生まれた、だからインドでは動物を大事にする、同じ命をるものとして大事にする
ただ動物は弱肉強食でもそれは他の生物を食べなければ生きていけないからそうなっている、人間の場合は別に食べるものがあっても罪を犯すしいろいろなエゴの目的で犯罪を犯すのである

事業に失敗したからといって別に明日から食べられないということはない
ただ自分が成功者として見せたいということなどがあり借金したりそれでその借金を他者に負わせたり虚栄心とかからも人間はエゴになり悪人になる
別にその人でもうまくいっていたときは普通の人でありいい人であり善人だったのである今でも善人として見られているしわからない人は事業で成功した優秀な人として見られているのである
それはたいがい他者は外見しか見ないしわからないからである

人間は悪でありエゴだというとき人間は機会で縁によって悪がエゴが喚起され悪魔になる      

なにもなければこうはならない、ただ事業に失敗するとか例えば目の前に一億円の金があるときそこに何人かいたら奪い合いになり殺し合うとういこともある
そこに美人がいて取り合いになり殺しあいにもなる、そこに人間の欲がエゴがむきだしになる、だからもしそういうことがなければそこにいた人たちは何も争わない
善人なのである、この辺でも原発事故の補償金でももめたがこれも同じなのである
それも額がそれなりに大きいから不満がありそれで協力できなくなったのである
何かの機会で縁で人間の本性のエゴが欲が刺激されてそれが悪となり悪魔に変質するのが人間なのである

だから別に悪を犯さない人で自分は悪人だと言っている宗教家がいる、それは歴史的に知られた人である、親鸞でもそうである、パウロでもそうである
親鸞になると極端になり悪人が往生するというときそれはなぜなのか?
その人は人間のエゴと悪を自覚したから救われるのである
俺はなんて悪人だったのだとなんらかの切っ掛けで機会があり縁があって自覚したのである、女性をものにしたいとなり殺人までするようになるのもそうである
実際にそのことを実行して悪人だったということを自覚して仏門に入ったという武士もいた、親鸞が悪人が成仏するというときそれは自分が悪だエゴだということを自覚した人なのである、「俺はなんて悪人だったのだ」と自覚した人なのである
普通はどんな悪を犯しても人は簡単には自分が悪人だと自覚しないのである
大悪人でも善人だとしか自覚していないのである
だからこそ千人殺してみろと親鸞は言ったのである、それなら自分は悪人だと自覚せざるをえなくなるからである、人間はみんな善人と思っている
でもその本質がエゴであり悪であるからそれがなんらかの機会で現れるのである

そのエゴと欲とか悪は誰にでもあるとなるからそういった
なぜならそもそも人間は動物でも他の生物でも食べなければ生きていけないからである
そこにすでにエゴがあり欲がありそれを否定できないからである
それで仏教ではベジタリアンになり動物は魚すら食べないとなったのである
なぜ自分の家ががたがたになり崩壊するようになったとき
その時同情は一切ない、かえって襲う好機が訪れたとなったのである
家族の一人が認知症になったりしたらもうその家はがたがたになる
そして認知症になったら近所でもどこでも同情などしない、財産を奪うのに最高の好機だとなる、なぜなら銀行から金すらおろせないからである
NHKとかで認知症の人を優しく見守る地域とか言うがそんなものありえないのである
この世の非情さを知っていればそんなことはありえないし実現不可能である
そんな社会があるとしたらそこは天国になっているはずである

このうよに確かに他者が悪人として見るのは容易であるが自分も同じなのだと悪人だとみるのはむずかしい、人間は普通はみんな善人だと思っているからである
何もなければそうである、だから親鸞が自ら悪人だというときそこに真実を見ていたのである、人間の本性は悪でありエゴであり欲だということである
ただこれが何かの機会がないと現れないのである
だから金でもなんでも追い詰められた人間はなんでもする、人を殺すことでもわずかの金でもする、それはもともとそういう時は動物が飢えている状態と同じだからである
そういう状態になったら誰でも犯罪者になり悪人になるのである
ただそういうふうに追い詰められないからこそ善人でいるだけなのである
追い詰められた人間が本当の人間の正体なのである
だからこの世に生きることは人間の中で生きること自体が怖いことだと思った
経験から人間の見方が変わってしまったのである

人間はみんな悪人でありエゴであり欲でありそれは自分も生物であるかぎりそうなのである、人間は悪人なのである、自分だって追い詰められれば悪人になる
ただそういうふうに追い詰められていないから善人のふりをしていられるというだけなのである
この辺で補償金でもめたというときエゴがむきだしになった、それで協力できなくなったでもいち早く故郷を見捨てた人たちもエゴがむきだしになっていたのである
まず補償金をもらったから故郷のことなどより自分のことしか考えなかったからである
みんなでどうしようとかも考えない、自分さえ良ければいいしかなかったのである
だからある機会で人間の悪のエゴの欲の本性が現れるのである
放射能問題があるにしてもただそれは理由になるにしてもそれだけではなかったのである補償金をもらって自分たちだけが家族が良ければそれでいいとなったのである   

宗教は共通している、仏教でもキリスト教でもモラルにかかわれば共通している
だから個人的にも漱石は則天去私でありわたくしを去ることでありエゴと欲の否定でありショーペンハウエルは生きんとする意志の否定になる、それは共通して人間にあるエゴの否定なのである
ショーペンハウエルのまさに生きんとする意志とは人間が本能的に食欲であり性欲であり種族維持自体がエゴになる
そういう欲は否定できない、だから人間が生まれたのは何かしら罪があってこの世に生を受けたとしている
カルマが業があって生まれたとなる、なぜならこの世に生を受けたことはエゴなくして生きられないから生きること自体罪となるからである、どうしたらちエゴとか欲とかから脱出できるのか?それは不可能だとなる
だからこそ人間はこの世に生きることはみんな悪人として生きるとなるのである 

この世がなぜおかしいのかというときこうしてみんな悪人なのに善人社会だと思っている
そういうふうに善人なのはただ機会が与えられないからである
動乱の世界、戦国時代のようになればもうそこはエゴがむきだしの殺し合いになり自らの欲をエゴを達成することになるだけである
だから沖縄で一番怖かったのは隣の人だった、女性を襲ってきたというのである
外から来る人だけではないそうした混乱の時襲ってくるのは隣の人だということである
何か沖縄ではみんな被害者だと騒ぐけど内部でもそういうことが起きていたのである
その詳しい事情はわからないにしろそういうことがこうして自分が経験したことでもそういうことがあった思った

人間の本性がエゴであり悪であり欲だというとき当然そうなっても不思議ではないのである
だから人間は野獣と変わりない恐ろしいものだとなる、ただ他者のみならず自分自身でもその野獣の一人になるとういことである
何か追い詰められたそうなってしまうのである、つまり食うか食われるになってしまうのである
それがこの世の現実である、その現実はいくら科学が進歩しても変わらないのである
だからこそこの世はいくら良くなるとかいうけど絶望的になるのである
それで死がすべて悪いものとは思えない、この世を去ることはこうした食うか食われるかの世界から逃れることだからである
死によって人間のエゴや欲は消滅するからである、それはエゴや欲からの解放ともなるからだ 
そして人間は死ぬまでこうして欲やエゴから解放されない、業がカルマが消滅しないのである




2018年11月20日

駅のことを説明しいたらコーヒひもらった (ボランティアをする思想について)


駅のことを説明しいたらコーヒひもらった

(ボランティアをする思想について)

何か一人の女性に駅のことを説明していた
たいだいいつも駅の機能のことをいろいろ説明している
駅はこういうものでありこうあったほうがいいとか書いてきたことを説明した
その人は長く待っていたのである
だから今まで書いてきたようなことを説明した
そしたら自動販売機でコーヒーを買ってくれてもらった
自分が何かしているということを認めたからそうしたのだろう
その人とははじめてあった人であり地元の人である
でも地元の人でも自分がしていることに認める人はいない
かえってあいつは何しているのだと怪しまれ警察に通報された
ボランティアにもいろいろ問題がある
責任もありそれで訴えられた人もいるしいろいろある
それが善意であっても無償であっても責任が問われたりいろいろある

それでここでの考察に興味をもった

金子郁容の『ボランティア もうひとつの情報社会』(岩波新書、1992 年)では


ステップ1「まず、自分から動く」――勇気をもって
ステップ2「評価を相手に委ねる」――ゆったりと
ステップ3「相手が動いたら、タイミングよく対応する」
        
何のルールも後ろ盾もないところで、ひとりの個人として行動するからである。そこには、自由もあるが、リスクもある。そのようなリスクを犯して、互いに出会うところに、人間としての対等の関係があり、人間としての尊厳があり、相互承認が成立する。最初に引用した文「ボランティアは「助ける」ことと「助けられる」ことが融合し、誰が与え誰が受け取っているのか区別することが重要ではないと思えるような、不思議な魅力にあふれた関係発見のプロセスである」

ボランティアは何か法的にも保護されていない、でも責任が課せられることがある
災害で事故にもなる、するとボランティア保険に入らないとできないとか意外とボランティアはめんどうなものなのである
だから私の場合はそんな責任あることはしない、駅でゴミ拾うとかちょっとした案内するとかだけである、だからそこには責任は生じない
一つの公共の場所として自分自身が利用者となってそのついでにそんなことをしているだけであり何か特別しているという意識はないのである

何か乗客とかに教える場合でも強制はしない、案内を強制はしない、いやがるなら何もしない、話もしない、だからこの三原則は興味深いとなる
ボランティアは災害などの支援などになると体力的にもきつすぎるから報酬を与えるペきでありとてもこのようなのんびりしたものではやれないのである

だから責任のないものであり評価もされない、今回のようにコーヒーをもらうということが一つの他者からの評価だったとなる

「相手が動いたら、タイミングよく対応する」

これは自分自身がしていた、あの人困っているのかな道を聞きたいのかなと見えたとき
何か困っていますか、知りたいことがありますかと軽く言う
でも別にスマホとか自分で探す人には言わない、そのタイミングが大事になる
ただ別に私が案内しなくてもどうにかなるから必要ないともいえる
嫌がられる場合もあるからだ、その辺のタイミングがむずかしいのである

ともかくボランティアは災害とかの支援となると労働がきつい、責任もあり、事故になったりすると困る、だからそういうものは組織化して対応するべきである
それは有償にもするべきである、責任が生じるからである

ともかくここではいかにボランティアが弱い立場であり何の保証もない、そして責任も課せられたらとてもできない、だから自分のような軽い責任もないボランティアならいいとなる
しかしそうなると誰も認めないということもある、それもしかたないとしてやるとなる
ただ邪魔になる場合だってありそれで鉄道関係者とか駅長でも嫌っている
でも駅はJRのものだけではない、利用する人でも自治体でもかかわるものである
だからNPOでコーヒーを出す人をおくとか市役所の人が来て工事をはじめるのである
だからNPOとかでするのはボランティアとは違うのである
それは市の方で援助して金も払うとかありNPOがかかわればボランティアではない
有償の普通の仕事ともなっている

だからボランティアは何か?

それを定義することはできない、個人と団体でやるのはまた違っているからだ
ここでは個人のボランティアのことを書いているのかもしれない
それも何の後ろ盾もないボランティアである
それを何か思想的に裏付けしようとしているのもあったということである
ただそこまで軽いボランティを考えるのかとなると普通はない
私もただそんな意識とか思想もない、偶然無人駅になって聞かれることがあったりしてしているだけである、別にそこでボランティアしなくても駅は機能しているからである
だから誰も認めなかったが一人昨日は何か認めることがありコーヒーをもらったということになる