2018年11月05日

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東京の駅でも無人化する鉄道 (店も駅も人がいなくなる?)


東京の駅でも無人化する鉄道

(店も駅も人がいなくなる?)

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週刊東洋経済%202018年11月10日号 

今日は仙台に住んでいる人が親が鹿島に住んでいたということで戸籍をとりにきていた
私も家族が死んだとき東京の戸籍をとるのにめんどうだった
血縁のある人の戸籍が相続に必要だからである
それはただ血縁というだけで必要なのである、付き合いがなくてもそうである
そこでめんどうになるのである
                  
駅で待っている時間が長いと言っていた、何か休む場所がないとか言っていた
それで何か買い物をしたいとかも言っていた
でも今日は大岩菓子店は休みだった、このことは良く聞かれる
やはり待つ時間が鉄道では長くなる、特にローカル線だと長くなる
ここは一時間おきでも長くなる
駅前には食堂はあるが近いにしてももっと近い方がいい
常磐高速のSAとはあまりにも違っている
ただともかく人が少ないのだから需要がないから店も休む場もできないのである

次に来たのが浜吉田の盲目の人でありマッサージにきている、その人を電車に乗せる導きをしている、ただドアの開閉のボタンを押すくらいである
あとは一人でできる

東洋経済の記事では東京の駅でも無人化するというのには驚いた
何十万も乗り降りする駅で無人化するのは驚きである
ローカル線ならわかるがそこでも無人化する
それだけ人件費を省きたいとなるのか?

JRでも高齢化しているというのもわかる、国鉄時代に採用した人たちが退職する
この高齢化のも問題はどこでも起きている
ただこの記事で指摘した盲人とか聴覚障害者は困るとかわかる
一人盲人が通っているからだ
ただその人でもなんとか助けがなくても乗れる
だからどうしてもますます駅は無人化する

それより社会そのものが無人化してゆく、ロボットとかAIとかに代わり店も無人化してゆく、あらゆるところが人件費を省くために無人化する、店も無人化して人がいないなくなる
それは越すとがかかるからそうなるのである
でもそういう無人化する社会はどうなるのか?
どこにいってばせ人がいない、無人化している、ロボット化して機械化して人間がいないというのがいいのかとなる
多少非効率でも人間がいた方がいいともなる、ただコストを追求するとそうなってしまうのである、それが矛盾なのであ

150年過ぎて見直される明治維新 (国家神道化などその弊害も大きかった)


150年過ぎて見直される明治維新

(国家神道化などその弊害も大きかった)

過度な中央主権

過度な国家神道

過激な薩摩長州の倒幕

過激なアジア侵略思想


明治維新が150年過ぎて見直されている、歴史は現代を今生きている人から見る
すると時代によって見方が変わる
150年の間に日本は大きく変化した、70年前に太平洋戦争があり日本人が3百万人死んだ、そのことが明治維新の見方を変えてしまう
なぜそんな犠牲を出してまで戦争しなければならなかったのか?
それを問うとき明治維新にまでさかのぼり見直すことになる

ここにあげた四つは一つになっている、それは対外的に外国の対応から過激思想が生まれた、外国勢力に対抗するためにはどうしても中央集権国家を作らねばならなかった
それで吉田松陰とか西郷隆盛にも朝鮮征服の思想があった
明治維新からすでにアジアへの進出思想があった
それは太平洋戦争まで継続していたのである、歴史は継続である、江戸時代の継続があって明治維新があり突然全く違ったものとして外来のものを全面的に受け入れることはできない、日本には変革できる土壌があってできた
だから明治維新でも実際は幕臣が官僚となり支えたとされる
幕臣とかが今もちあげられるのもそのためである

薩摩長州は明治維新のビジョンをもっていなかった、幕府を倒す倒幕を先決したのであるだから実際は薩摩長州の倒幕が先であり何か革命思想があったわけではない
四民平等という思想もない、それは後で生まれた思想であり薩摩長州が幕府に代わって権力を握ることだった、だからクーデーターだったという見方が生まれる
そしてテロが盛んにあったからまさに吉田松陰はテロリストにすぎなかったとなる

そして過度の国家神道化して過度の中央集権になった、それは外国勢力に対抗するためになった、ナショナリズムというものではなかった、なぜならナショナリズムとなるとナショナルは国民でありその時国民は存在しないからだ
士農工商の農工商は全く政治に関与していない、なんの発言もできない
国民という意識もない、ただ藩に所属して命令に従うというだけである

だから薩摩長州のクーデータ−だというときまさに武士同士の政権争いが戦争に発展したとなる、庶民はかかわりないものだったのである
会津のヤーヤー一揆では農民の日ごろからの不満が爆発した
ヨ−ロッパだったら城は城壁で囲まれてその中に市民がいて一体である
だから他国のものが攻めてきたら城壁の中の人も一緒に戦う
でなければ殺されるとなるから戦うのである
でも日本だったら会津のことでわかるように城が燃えようがそこで侍が戦おうがどっちが勝とうが関係ないのである、ただ税を軽くしてほしいということだけである
そこで会津藩が薩摩長州に代わっても同じだから税が安くなればいいと思うだけだったのである
ヨ−ロッパとは歴史が違うからこんなことが起きたのである
そこでブルジュアとか生まれたがそれはブルクから城から生まれた言葉である
それは裕福な人だとなるがもともと城と城壁で囲まれた市民は一体だったからである

いづれにしろ日本はヨ−ロッパのような市民の都市とかがない、封建制はにていても市民というものがいなかったのである、そこに市民の自治もなかった
村がは市民という大きな共同体ではないからである
その相違があり明治維新は武士同士の下級武士の革命だというときまた薩摩長州のクーデーターだったというとき歴史の相違でもそうなる
フランス革命とかなると庶民も参加した革命だから違っている
明治維新は武士同士の争いであり政権をとる戦国時代のような権力争いだったともなる

そこに日本的なものとして天皇がもちあげられ国家神道が上から強力な圧力でおしつけられ廃藩置県も天皇というものがあってできたと大久保が言うのはそのためである
日本の歴史は天皇でまとまる社会だったからである
それで天皇が二人出たとき南北朝の争いが60年とかつづいたのである
ただそのことのマイナス面としてあまりにも国家神道が協力に権力によっておしつけられた、そのことで弊害が大きかった
廃仏毀釈とかあったり思想統一が国家神道で成された
その国家の権力によってもともとのその土地土地の社なども格付けされたり国家神道化されたのである、それが地名にも影響していたのである
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伊東ひとみ. 地名の謎を解く―隠された「日本の古層」―(新潮選書) 

地名でもそもそもその土地から生まれたものだから国家権力によって好字二字にせよというのはその文化の破壊だったのである
地名とは文化でもある、土地を耕すというcultureである、そうした地域の文化を破壊することはすでに古代でも権力によって行われていたのである。
国家とかはそもそも地域地域にあった国(くに)とは違う、権力的なものがかかわる体制である
だから国家と民族が違うというとき国家は権力によって構成されたものであり民族は地域地域のクニから形成されたのである
だから国の手形が訛りだというときそうである、明治以降に協力な中央集権があり言葉も標準語にされたのである   

国家権力となると日本の戦争でもナショナリズムだとして民族の伝統を鼓舞するもののように見えるが中央主権国家は地域の文化を破壊するのである
それで正一位稲荷とかでもはおかしいと思う、正一位というのはまるで神様によってそれも日本の貴族によって位を神様に授けるとなるから変なのである、地域地域の神とか社はそういうものとは違っていたからである、それは国家権力とはかかわらない地域の神である、ただ神にも権力がかかわることである、権力によって神が歪められたのが人類の歴史でもあった

国家神道とか中央集権の弊害は大きかった、なぜならその強力な富国強兵が国家神道の名のもとに行われたからである
それが太平洋戦争に継続されたからである、だから明治維新の見方はその戦争を経験した結果変わることになった
また太平洋戦争自体が日本では総括されていていのも問題である
それは明治維新からはじまっていたのである

戦争に負けた結果として明治維新の薩摩長州閥が断罪される

こうなったのは戦争に負けたからである、負けたからそんな戦争をなぜしたのか?
それを問うようになった、そして薩摩長州のクーデーターとか否定的見解が普通に出るようになった
戦前だったらそういうことはなかったからである、明治維新は常に肯定的に見られていたらである
また天皇批判は許されなかったからである
明治維新から日清戦争からロシアの戦争で勝ったことで日本は奢りになった、それは日本は神の国だとかなり太平洋戦争で敗北して3百万人が死んで70年過ぎてその戦争は何だったのかと歴史を見直すようになったのである
戦死者は神社に慰霊の碑や忠魂の碑としてある、それは国家神道とかかわったものであり神社本来のありかたとは違っている
なぜなら日本にある無数の神社とか社はその成り立ちが国家神道とはかかわっていないからである

なぜ東北列藩が同盟して薩摩長州軍と戦わねばならなかったのか?
それは東北列藩が会津に薩摩長州に謝罪をしろと願いを出したが断れたという
でももともと東北列藩では戦うことを最初から決めていた藩もある
東北列藩は数が多くても武器の差で敗北した、また戦争になれていないということでも敗北した
また急なことでまとまりもなくて敗北した、その勢いがあまりにも違っていたのである
ただではなぜもう江戸が無血開城されたのに東北を攻める必要があったのか?
それは徳川幕府の幕臣が実際明治維新後に政府を支えたということでもまた実は明治維新がなくても徳川幕府は開国して対応できたということとも通じる

薩摩長州は権力を争奪するクーデーターだからそうなった、最初から革命の思想などない、倒幕が目的であり権力をにぎり政治の実権をとることである
そういうことは政治では民主党がそうだったようにまずは政権奪取だとあり何かをすること政策もなくてもそうなることが多い
それで民主党でも政権をとったが何もできずに終わったのである
それは公明とか創価とかもそうであり共産党でも実はそうなのである
一見そういう人たちには権力欲がないように見えてもそうではない、それはどこの革命でも権力を奪取したとき中国のように幹部が莫大な富をもつようになると同じなのである
だから何か革命思想があって明治維新があったわけではない、ただその後思わぬ方向に展開したのである

だから今になると西郷とか明治維新の立役者がそんなに評価できるのか?
そういう疑問が150年過ぎて表にでてきた、そして司馬遼太郎の小説に左右されすぎたのである
小説であまりにも明治維新がもちあげられすぎたのである、本当は薩摩長州のクーデーターでありテロリストにすぎなかったともなるテロリストには思想はない、相手が金持ちなら殺して金をとる、また命令された人から金をもらうというだけで殺す
つまり権力をとるために殺すというのがテロリストなのである
だから一時共産党でもテロリストとなりオウムもテロリスト集団になったし創価でも仏教平和主義など言っていたが実は民主主義社会でなければテロリストになる、ファシズム団体になる

なぜならそういう人たちは権力をとれば金になるとか地位にありつくとかしかないからである
官僚が天下りして得している、俺たちもあのようになりたいということしかないのである
薩摩長州は実はそういう侍の組織団体だったともなる
長州の奇兵隊などもそうして成りあがりたい人たちだった、下級武士や庶民もいて実際に伊藤博文は庶民の出でも首相になったからである
ただあまりにも持ち上げられていたのはなぜなのか?
それはふはり歴史は勝者の歴史であり薩摩長州の政治勢力が阿部首相のように継続して政治の中枢にあったためだともなる

ただでは徳川幕府がそれほどほめられるものなのか?
実は廃藩置県でも地方の藩の財政は困窮していて廃藩置県で借金を中央政府が肩代わりしてくれるということで賛成していたのである
つまり徳川幕府もその体制の維持が限界にきていたのである
第一大奥などあるのはいかに徳川幕府が遅れているかを証明していた
それはオスマントルコの後宮政治とにていたのである
そういうところから政治に女性がかかわり腐敗してくる
だから徳川幕府はもう自壊しつつあったのである、だからあんな簡単に薩摩長州のクーデーターでもろくも崩壊したのである

会津だけが最後の徳川の幕臣としして悲壮に戦い犠牲になったのである
徳川幕府はもう維持できない状態になっていたのである
だからといって薩摩長州が別に革命思想とかあるわけでもない、クーデーターであったが成り行きでいろいろな改革が成されたとなる
いづれにしろ薩摩長州を異常に評価する時代は終わった、それは大平洋戦争を起こし日本が大敗北して3百万人もの犠牲者を出したからこそ今になり見直されるようになったのであるか。

posted by 老鶯 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年11月06日

国際ロマンス詐欺が増える−40歳の女性が被害 (人間の生きる時間が短すぎることが最大の問題だった)


国際ロマンス詐欺が増える−40歳の女性が被害

(人間の生きる時間が短すぎることが最大の問題だった)

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工藤恵子 婚活KOKO 結婚カウンセラー

人生は時間との勝負だ!

このyoutubeは面白いと見た、それはなぜなのか?
それは何かただ結婚のことだけではない、人生を語っていることなのである
それは女性から見た人生とか女性の視点で語っている
なかなか女性のことはわかりにくいがここでは何かわかりやすい、具体的例で説明するからわかりやすいのである

今日のニュースで国際ロマンス詐欺があったが被害者は40歳の女性だった
この婚活のyoutubeではそういう年の人がなぜ結婚できないか語っていた
それはいろいろ実際の相談に乗った人の例で語っていた
そしてもう女性は40歳になると結婚はすごく厳しいものになるというのもわかる
それであせってこんな詐欺にひっかかる
それはインタ−ネット時代で起きたことである
外国人と簡単にやりとりできる時代になったからである
でも英語で話せたのかというのは良くわからない
グーグルの翻訳など使えば意外と話せるのかもしれない

結局人生の最大の問題は何なのか?
生きる時間が限られている、たちまち時間がなくなり老いる
今やそういう人たちをテレビで華やかに活躍した俳優でも病気になった、ええ、あの人が死んだのかと驚く、同年代の人が病気になり死んでゆく
そういうふうに華やかな時代は本当に短いのである
女性も20代が華だけでどその花の盛りもたちまち過ぎるのである
だからあれこれ高望みしている人は婚期を逃すのである
結婚は生活だと割り切る人は結婚できるとしている
あれこれ望みが高すぎる人は結婚できないというのもわかる
それは時間の無駄ということである、時間がいくらでもあるならいいが結婚するにも時間が問題になる

今は誰かが来て無理やり見合いさせたり家同士の結婚でもないから何かいろいろ高望みして結婚が遅れる傾向にある、何か時代的条件で結婚が遅れる
それは自由な社会であり高望みするからそうなる、自由な社会になるといろいろ選択する範囲も広くなるから男性でもいい男性を選ぶとなればそんな男性はいないとなる

結局人生とはなぜ失敗が多いのか、みんな人生を後悔するのか?
それは時間が短いということである、限られていることなのだ
それは結婚だけのことではない、勉強だってそうだしその他技術を習得するにしても
例えばここ十年介護とかで家事をしてきたけど家事を覚えるには時間がかかるなとつくづく思った、そして料理は未だに何もできないのである、まず料理上手になるには相当な時間が必要だと思った、そして向き不向きもある

結局人間は才能や資質があっても時間をどれくらいかけるかで決まる
それも時間をどれだけ有効に効率的に使うかでも決まる
いくら天才でも費やす時間が限られている
楽器でも一つ覚えるだけで時間がかかる、だから二つも三つも覚えられないのである
それはあらゆることに言える、語学だってそうである
何するにも覚えるにも時間がかかるのである
結局みんな時間切れで終わる
結婚でもそうである、選り好みしているうちに結婚も逃す

とにかくなんでもたちまち時間が過ぎてゆくのである
それは男性でも女性でもつくづく同じである
時間は限られている、例えば最も重要なこと求道するにも信仰するにも実は若い時しかない、時間があるから老人になってから求道しよう信仰しようとしてもできなくなっているもっとも血気盛んな時に神を覚えよと聖書にある
その時期を逃すとできない
それは信仰だけではない、スポーツでも例えば武道などは高校生から大学くらいにしないと基礎ができないからその後になると覚えるのがむずかしくなる
それは体で覚えるものだからである
それで空手の師範までなった人は遅くはじめたから苦労したというのもわかる
それは人生は30くらいで何でも決まるという時そこで方向とか決まり基礎ができるからである

だから放蕩などで青春を浪費した人は最も後悔する

時間はそれだけ貴重であり最も貴重な時間は青春時代なのである、30までなのである
でもこのことが若い時はわからないのである
時間が無限にあるような気がする、時間がありすぎて暇で困るとなっていた
暇潰すのに困っていた、でもそれもたちまちすぎて老人になると生きる時間がもうないとなっているのだ、何かするにも病気になったり体力が落ちてできないのである
だからこのyoutubeを見て結婚も同じである、婚期を逃すと男女とも結婚はできない
そしてチャンスは何度もない、この人はだめだからもっといい別ないい人を見つけようとしていたらいくら時間があってもたりないのである
だからあるところであきらめてというか早めに選んだ方がいいともなる

結局私自身が結婚しないということが婚期を逃したということなのである
それは婚期だけでない、何かのチャンスでも人は逃してもう取り戻せないのである
もっと勉強していれば良かったとか逆にもっと旅行していればよかったとか
もっと家庭サービスをしていれ良かったとか後悔だけが人生となっているのが多すぎるのである
それは何か時間が無限にあるように見えるからである、もう非正規とかフリーターなどでも40歳過ぎたらそのままであり収入も低いままでありスキルも身につかない、結婚もしていないとなると老人になったときどうなるのか?
それは相当に悲惨なことになることは眼に見えている、でもそれを考えないのである
それは時間がまだまだあるとみるからである
でもさすがに40になると自覚せざるを得なくなる

そして最も大事なものが金だと思っている、でも老人になると時間なのである
そして時間は金で買えないのである、青春をとりもどしたいとして百億払っても元の青春時代は返ってこない、女性でも20代の美貌に帰れない、いくら化粧してもだめなのである、無常だというとき常に人生は変化だからである
そして最後はただ白髪の老人となり茫然としているだけになる
それは浦島太郎なのである、玉手箱をあけてたら一瞬にして老人になっていた
竜宮城の快楽は夢だったとなる              

人間はそういう繰り返しなのである、これはいくら科学技術が発達しても変わらない
確かに長生きになったとしても十年とか寿命が延びてもそうである
いづれには死ぬ、人生の時間は限られている、その限られている時間をいかに有効に過ごしたかで人生は決まるとなる
そして最後は雑学でも何か知識として活かせる、ただ放蕩しているより雑学でも本を読んでいた方がいいともなる、実際に山ほど本を買ったが読んでいなかったが積読だったが
その本を買っていたことが宝だったとまでなる
今になると理解できるからである、買ったときは読んでも理解できなかったのである
今はたいがい読んですぐ理解できる、そして自分なりに解釈できる
だから老人になると評論に向いているなと思った
それはその内容が即座に理解できるからである

「光陰矢のごとし」「少年学成り難し」とか人生の短いことはいろいろ言われたがどうしても若い時は実感できない、老人になりそれが現実になると否が応でもそれをつきつけられるのである、その時はすでにまさに時遅しとなっているのが人間なのである

2018年11月07日

南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名 (隠田が地名としてなぜ多いのか?)


南相馬市の鹿島区の隠町(かくれまち)の地名

(隠田が地名としてなぜ多いのか?)


隠町その名の残り隠されてため池ありぬ秋のくれかな

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小山田の隠町

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溜池が田んぼの上にあった、SAの向かい側である、隠されるようにあった

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隠田百姓村ともいう。中世末から近世初頭にかけて戦乱の落ち武者や貧農によって山野の奥深くに開かれた集落。貧しい農民が年貢を免れるため,開拓する場合もあった。九州山地の五家荘,米良荘 (めらのしょう) や椎葉 (しいば) ,四国山地の祖谷 (いや) ,中央高地の白川郷や五箇山 (ごかやま) 郷などの山林はその好例。長く他地域の村と隔絶した生活を続けたので,昔からの風習や伝承,あるいは年中行事などを残しているところが多い。平家の落人伝説があるのは,多くはこうした集落である。


領主の側からすると、隠田の摘発というのはなかなか難しいという側面があります。そもそも土地をくまなく調査して正確な面積を割り出したり、隠田を見つけて課税するというのは、人手や時間、そして手間の問題もあって難しかったと考えられます。現在でも税務申告はルールにのっとった自己申告によるものになっており、それを一からすべて税務職員が調べるわけにはいかないのと同じです。

おんな城主 直虎

ここでNHKの大河ドラマを解説している、これも歴史の勉強になる、やはりドラマだと面白いものとして娯楽として見る面が大きい、それで学問的裏付けが必要になる
ここのサイトではそれをしている
最近私は宮廷歴史ドラマ「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」オスマントルコの後宮をテーマにした連続テレビを見ている
トルコにも行ったしイスタンブールにもいた、だから興味をもった、そしてこのドラマを見て歴史を知った、これは事実だったのである
歴史ドラマはやはり事実を知り学問的にその裏付けがないとドラマが本当の歴史だと錯覚してしまうのである、それが司馬遼太郎の過剰に持ち上げられた明治維新の小説だったのである


隠里の霊(二本松)−民話


隠田(おんでん)とか隠里とかは地名としても多い、そもそもなぜこんなに多いのか?
隠田は検地から逃れるための税金逃れのためだという、それより役所でもそういうふうにすべての田を調べることができなかった、それで放置されていた

隠里とかなると神秘的である、それは外との交流がない村が多いからそうなったのであるこの辺の民話で隣村から来た麦つきにきた若者が蛇だったというのもそうである
隣村さえ交流がまれだからそうなる、見知らぬ外の人となり神秘的になったのである
つまり交通が発達していなければそういう村は無数にあった、秘境がいくらでもあった
時代をさかのぼればのぼるほどそうなる、交流がもていないからそうなったのである
江戸時代だってみんな自給自足であり外との交流なくして基本的には生活していたのである

それで明治になって合併したが飯館の大倉村と佐須村では民情が違うから合併しなかったとなる、隣村同士でもそうなっていたのである
つまり隣村でも交流が少ない閉ざされた世界で生活していたのである
だから役所でも全部の田を検地できなかった、日本の地形が複雑なこともある
山に入ると本当にこんなところに田があり畑があるのかとなる所が多いのである
本当にそれは隠田にふさわしい、山の中に隠れたように田があるのが多いのだ

そういう話を相馬市の新田でも聞いた、あそこの杉のあるところが隠田だったとか言っていた
でもあそこは平坦な地でありそんなところが隠田になるのかと見た
ただこの隠田が日本全国に多いから地名も多いのである

鹿島区の隠町は隠田とはなっていない、だから必ずしも田ではない、町とは一区画のことだからである
小山田は寺内や小池より新しい地である、新しく開墾された、なぜなら寺内、小池には古墳が多いからである
村の新旧をまず見るのが大事である、海老村はエヒであり蝦夷に由来する古い村である
そこで弥生時代の住居跡が発見されたことでもわかる
右田村は江戸時代にあったとしても新しいのである、その新旧を見ることが大事である

鹿島区の隠町は偶然に常磐高速道のSAの向こう側が紅葉していたのでそこに行ってみようかと行ったら溜池があった
そこに隠町とあった、確かに隠されているようにあったともなる
ただそういう土地は日本には多い、山が多いからそうなる
相馬地域の特徴としてはそうして不便な所には越中からなどの移民が開墾して住んだ、なにしろ飢饉の時三分の一に人口が減った、その穴埋めをしたのが越中からなどの移民だった、その数が多いのである、三分の一も穴埋めしたとしたら本当に多い
だから相馬地域の墓地を見ると必ず南無阿弥陀仏の墓がある、それで見分けがつくのである

そういう移民はまず草分けの古い農家に草鞋をぬぐ、そして辺鄙な悪い土地を与えられて開墾したのである
だから確かに小山田でも塩アでもそういう隠くされるようないい土地ではない、小山田だったら平地の方がいい土地である
だからそういう人の住にくい場所を与えられて開墾して住んだとなる



タグ:隠里 隠田 隠町
posted by 老鶯 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

駅は世代を越えて多様な人が交わる公共的な場所


駅は世代を越えて多様な人が交わる公共的な場所

アイネット

今日駅に来たのは会津に会社があるアイネットである
緊急連絡システムのサービスである
65歳以上だと市の方に相談すると設置できるという
一人暮らし?の老人が増えるからいいとなるのか?
ただ一人暮らしだと何かあった場合、かえって孤独死した方がいいともみた
身寄りがないとか頼る人がないとなるとそのまま死んだ方がいいのである
なぜなら介護状態になったら世話する人がいないのだからかえって苦しむことになるからだ
なんらかもう死ぬ覚悟をしていないとだめだなとはそういう人たちを病院で見てきたから思った、ともかく脳梗塞でも他でも悲惨なのである
一層一挙に死んだ方がいいと思ったからだ


次に来たのは役所の移住推進をする課の若い女性だった
一人は男性はカメラをもって駅舎を写していた
何かここで集まり案内するらしい
鹿島駅は良く鉄道マニアでも写真をとりにくる
明治30年に開業したときと建物自体は変わっていないからである
農家民宿を手伝う女性とかも来ていた、それも若い女性である

移住推進というといつも原町の道の駅にいる
でも何か仕事しているようには見えない、ただいるという感じである
どれだけ移住する人がいるのかわからない
小高では農業する人に13万円を市から支払われている
それでそこで働く人が20人くらいいるとか聞いた
ただその人たちがどういう人なのかはわからない、人数もはっきりしない

いづれにしろ駅は意外といろいろな人がくる、情報が集まる、外部から来る人もいるからだ、広場の役割がある、鹿島では道の駅がないから車で駅に来る人が結構あるのだ
あとはトイレを利用するのである、駅のトイレは市で障害者団体に委託して毎日掃除してもらっているのである

ともかく駅とは公共的な場所だなとつくづく思った
そこはJRの人たち所有するいうものではなく街の人でも外部の人でもみんながかかわる場所だったのである,そして世代的にも子供でも来ることがあるし子守りをするばあちゃんもくるしいろいろな人が来るところだった

今の時代はこうしてあらゆる世代とか男女とか集まる場がない
子供は子供とか子供でも幼稚園とか小学校とか中学校と高校とか世代ごとであり世代を越えて集まる交わることがないのである
老人は老人で隔離されるように施設に入る
それで幼稚園だったとか一緒にしたという施設もあった

かえって昔の村だったら子供老人も若い人も交わる一緒に生活する場だったとなる
現代では人間は世代ごとにとか何か分類されて隔離される感じなのである
多様な人が交わる場所がないのである
駅には確かに広場の役割がある、公共的な場所だったのである

タグ:駅の役割

2018年11月08日

ボランティアはなぜするのか? (公共精神とか奉仕の精神とか養うため)


ボランティアはなぜするのか?

(公共精神とか奉仕の精神とか養うため)

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そもそもボランティアとは人のためにするのではなく自分のためにするのです。
(結果それが人のためになる)
ここを勘違いしてはいけません。

最近駅ですることがない、時々案内したりしている、ゴミを拾ったりしているだけであるでも別にゴミ駅構内に捨てる場があるし定期的にJRに頼まれた商工会の人が捨てている
それはJRら金をもらい委託してしている
だからゴミは別にほとんど落ちていない
ただ時々飲んだカンとかペットボトルをかたづけているだけである
だから実際は駅に来てもなにもしない、何もしなくてもいいとなる
何か遅れたときなど案内することがある

そもそも私は駅でボランティアする気とかなかった、またボランティアとも思っていない介護が終わり駅に寄ったりする時間がでたので見にきていただけである
それで何か用があったので案内したりした
それは自分がしようとしたのではない、そういう意志もなかった
成り行きでそうなった、それはなぜか?

無人駅化したためだった

無人駅になった結果、そこに自ずと駅員の代わりのような人が必要になったともなる
実際はいなくても別にそれほど困ることもない、一番の動機がそこがたまたま無人駅化したから補うということになっただけである
だから何かしているとか何かのためとか大仰なものではなかった

第一誰も自分が何かしているということを認めていない、だから警察の人があやしいと職務質問されたことでもわかる、あいつは一体駅で何しているのだとなって誰かが通報したのである
実際に原町の駅長が来るけどそこで良く原町行と仙台行のホームが外から来た人がわからないからと言ったら案内板を作ってくれたりした
ただその駅長はこいつは何しているんだと嫌がっているのである
他でも勝手にホームに入ってくるなとJRの関係者が仕事していて言われた
つまりこいつ何しているんだと嫌がられているのである
へたするとここでうろうろしているなと注意されるかもしれない
それは警官があやしいと誰かが言って職務質問しにきたことでもわかる

でも人間は不思議だなと本当に思った
ゴミを拾っていたのだが別にゴミだってほとんどないからそんなことしなくてもいい
でもゴミを拾うことで駅というのが公共空間であり公共の建物であり
ここはマイステーションでありアワステーションだと自覚した
なぜそう思ったのか?それは家なら掃除するがでは道にゴミが落ちていたらそのままにしていることがある、でも汚いからと拾ったら街をきれいにしようという気持ちが働くことになる、街はmy townでありour townとなるのだ

その時不思議なのはそうしてここがみんなのものでありまた私のものであるという感覚である、それは別に拾う必要もないがゴミを拾ったことでそう思ったのである
駅は意外と公共的空間でありJRのものだけではなかった
町の人でも外部の人でもかかわる公共的な場所だったのである
だから公共精神が養われるともなった
それは本当にゴミを拾うなどつまらないことだがそういう心が養われたいうのも不思議である、ある宗教団体が他人の家のトイレを掃除したとかあるがそれとにている
ただ家は公共的建物ではない私的な所有物だから違っている
誰も他人の家をみんなのものだとか思わないからだ
だから他人の家のトイレを掃除していいですかとなると断る人もいる
それはおせっかいだとなるからだ

駅は公共的空間でありみんなものであると同時に私のものだともなる、そこが違っていたのである
ただこんなことをしていても誰も評価しない、でも評価しなくても不思議なのは公共的精神が養われる、みんなの場になっているからゴミを拾いきれいにするということである
それは本当につまらないことだった、そんなことしなくてもしてもいいとなる
でもはボランティアとは自分のためにしているんだというとき確かにそうだともなる

ただボランティアでも過重な力仕事とかになったらボランティアしたくない
いろいろ災害がありそこで重労働させられたらもうボランティアしたくない
その代価を欲しいとなるからだ、こんなに苦労しているのにとなるからだ
実際に広島とか暑くて倒れた人までいたからである
そこまでするとなると何かしら代価をなければできない
それは恨みにすらなる、無理やり何か無償でやることはできないしするべきではない
それがとがめられることはない、金をもらうべきなのであり社会はそうして成り立っている、外で建築関係でも重労働するなら当然なのである

だからボランティアは過重なことはすべきではない、またできない
人から認められたい人もするべきではない、ボランティアで名前を売る人もいるからだ
この辺ではそういう人が多すぎたのである、文学者でも自分の名前を売るためだったとか医者すら功名心から援助していたのである、論文とか書けるとなる名前が売れるとかになっていたのである
その他のボランティアも宗教団体なら宣伝のためとかいろいろな人が来たが動機が不純なものもいたのである、だから必ずしもそういう人たちは評価できないのである
むしろ金を与えて正当にその労働に報えることで良かったのである  

ボランティアと普通の仕事の相違は何か?それは責任ありなしかもしれない、責任をとれとなるとボランティアになるとやりにくいだろう
責任をとるということはやはりプロの仕事している人なのである
それはあらゆる仕事している人がそうである、医者でも看護師でも建築関係でも商人でも銀行員でもプロとして金をもらうとなると必ず責任が問われる、家を修理してもらった人が実際は直っていなかった、ただ金をとられただけだとなる

何か医者でも直らなかったら金をとるべきではないというのも一理あると思った
そうなると医者が貧乏になる、でも10兆円くらい節約できるという、つまり直らないのに医者は金をとりすぎているのだ
それが国民の負担になっている、銀行員でも投資信託をすすめて損したがそもそも銀行は株でも投資信託でも素人並みであり知らない

ではなぜ知らないことをすすめているのか?プロだとして知っているといったからまかせたのである
全然素人並みに知らない人が株とか投資信託をすすめるのは詐欺と同じである
つまりとても責任を銀行はとれない、でも手数料だけは確実にいただくという商売である
だから常にプロと責任が問われる、家の修理でも直らなかったらなぜ直ったとして金をとったのかとなる

ボランティアはそんな責任をとらせられない、だから基本的に金にはならない、無料だからかえって責任はないのである
そんな仕事としてボランティアが向いているということである
何か消極的にかかわる仕事である
だから別に認められなくてもいいし何かを相手に要求もしない仕事である、その代わり責任も問われない仕事である

何か仕事は必ず責任が問われるからいろいろそのためにルールを作ったり契約を細かく規定しているのである
保険もかけたりしている、何か事故などあったとき怖いとなるからだ、責任を問われるからだ
ボランティアでもそういうことはありうる、だから責任があることにはかかわらない方がいいとなる
せいぜいゴミ拾いのようなものでもいいとなる
それでも何か市町村のためとかみんなのためになっている
ボランティアは本当は自分のためにしているのである
だから宗教団体で家々のトイレ掃除して心の修養をしているのとにている

実は、多くの新宗教団体にとって掃除は定番の「行」であり、大半の教団が実践している。教団にとって掃除の意義とは、信者の精神を向上させること。すなわち、己の魂を磨くことにある。掃除を通して、自分の心を清めるのだ。

これは確かに言えるのだけど宗教団体はなぜこうしたことをするのか?それは会員獲得するためでありそのパフォ−マンスなのである、宗教団体の目的は精神を修養することではない、目的は会員を増やして社会に勢力を誇示して社会を動かそうとする団体である、会員の数が百万でもその人たちが社会に要求することができる、もうそれだけの数がいれば一勢力として社会が認める
権力と化した団体となるのである、だから批判できなくなるのである、少人数だったら誰も怖がらないからである
だから宗教団体にはそもそも宗教の修養とか愛と善の実践はない
ただどこでも会員を増やし勢力を拡大化することが目的なのである、そのことで利益を得られるからである

あなたは、憐れみの施しをする際、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう 

キリストの言葉だけどこれがボランティア精神かもしれない、ただボランティア精神と公共精神は違う
ただにていることは確かである、何か愛とかいうけどそれが押しつけが多すぎるのである
そういう人は俺はお前に尽くしているからその倍も今度は尽くされたお前は俺に尽くすべきだとなる
そういう愛が実際は多いのである、援助でも国同士でも何か裏に魂胆があってた援助する
無償の援助は国同士でもほとんどないのである

ともかく神が報えてくださるというとき何か神が与えてくれるのではない、その行為自体が報いなのである
なぜならそれによって心がすがしくなるとかあるからだ
つまりそのささいな行為によって心が影響して清められるということがあるのだ、それは経験で感じたのである
その行為自体が心に影響して清められたことが報いだったのである

だから俺はボランティアだとか何かおしつけていかにも善行しているような人がほとんどである
それによってでは心が清めれたかとなるとならない、今度は俺は善行した、だからみんなが俺を称賛すべきだとなっているのである
要するに善とか愛とかは謙虚なものだということである
そこに謙虚さがないと心の修養にはならない、だから政治家などはただいいことばかり言って目立つことばかりしようとする
実際は何もしていない、票をとるためにすべての行動があるためだとなりそれはただ政治家自身のためにしているだけなのである

2018年11月09日

pocketalk(ポケトーク)は結構使える (日本語の音声認識が優れている)


pocketalk(ポケトーク)は結構使える
(日本語の音声認識が優れている
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外国でも通信で使える


これの優れている点は本当に日本語の音声認識である
何かたいがいの日本語が正確に変換されている
英語はかなり正確である
ただ英語でしゃべったら正確ではない、それより私自身の発音が間違っていて正確に変換できない、そもそももう英語でしゃべることがないので発音もうまくできない
そもそも日本人は外人としゃべる機会がほとんどなかった
でも外国人の旅行者は膨大に増えた結果庶民レベルで外国人に接するようになったのである
それで庶民でも飲食店のような所でも英語が必要になった
その英語ができるかできないかで収入まで差が生まれ
タクシーなどがそうである、それがタクシー運転手まで英語研修している
たまたま海外暮らししていた人は英語ができて収入が良くなった
ほかでもは英語で接待できる人は収入が良くなる

こうなるとなんとか英語を覚えようとする、会話を必要となる
やはり世界では英語をしゃべる人が多い
でも世界でも飲食店レベルでは英語が通じるわけではない
知識階級が英語で話ししている
海外旅行ではやはり英語で通じる所もあったが庶民レベルだと飲食店などでは通じない
でもたいした英語ができなくても海外旅行はできた
それより全然英語も知らない人が旅行できている人もいる
それは若い人に多いのである、つまり若い人は適応力があってそなっている
だから海外に行くのは若い時が向いているのだ

ともかく言葉というのは音からはじまっている、この音が本当にわかりにくい、英語はなんとか聞きなれているからわかる、でもは中国語とか全く音ではわからなかった
だだ筆談で通じた、つまり漢字とかアルファベットはかえって読める、それはなれているからである、音はみんな違っていてむずかしい、だから日本語の音をこれだけ認識したというのは驚きである
グーグルの翻訳でも英語の先生になっている、AIが先生になっている、ここに私は一番
AI化したこと実感する、英語は何か言葉でも簡単に出てこない
私がしていたことはただ文章を読むとかであり発音とかしていないから会話ができない
日本人は読み書きが中心だからである、その読み書きでも機械翻訳が優れている
ただ何か間違っている所があるが90パーセントは間違っていない
だから実用として利用できるのである

言葉の壁は音にある、聞きなれない音が皆目わからない、要するに幼児から言葉は音から覚えているからである、音に幼児から聞きなれているから覚える
でもそうなると外国語は音として覚えられない、だからアルファベットの方がわかりやすいとなる
でもその文字でも漢字ではないなにかインドとか東南アジアの文字やアラビア語の文字はなにがなんだかわからない、韓国に行って一番苦労したのはハングルが全く読めないことだった、漢字は読めたから良かったのである
ところが外国人にすると漢字がむずかしいというのがわかる、それは同じことだったのである

アルファベットが普及したのは音としてではない、文字としてである、貿易するために記号としてフェニキア人が地中海貿易で普及させた、それはスペインとかでもそのフェニキア文字が残っている、それは貿易のために必要だから発明されたのである
だから文字の方が外国人とやりとりするには向いていたのである
それは記録として残るから証拠にもなるからだ、今でも口伝いでは証拠が残らないから約束しても無駄になる、何でも証拠になるものが裁判では必要になるからだ
そして文字がエジプトでも神聖化されたヒエログリフとなったことがわかる
しゃべる言葉は残らないが文字はヒエログリフでも三千年すぎても残っているからだ
文字が残らないと歴史もわからなくなる、口伝いに伝えられるものは変わるし消えやすいからである

いづれにしろAIとかで言葉の壁がとりはらわれればもっと世界が一体感をもつ
世界の人が理解しにくいのは言葉の壁があるからである
もしどこの国に言っても自由に話しできたらもっと深くコミットできるからである
言葉の壁でもどうしても理解し合えないのである、ちょとした行き違いが言葉の壁でそうなる、これだけ外国人が入ってくると物が入ってくるだけではない、外国人が入ってくると言葉の面でもグルーバル化が迫られる
それが庶民のレベルまで強いられるともなってきたのである
ただ正直私は今や京都とか観光地には行きたくない、これだけ外国人が多いと日本の情緒とか風情までに影響してくる、もう京都は外国人を見に行く所なのかとなってしまうだろう、古都の風情もなくなってしまうということである

アーリア人世界史観が成り立つのか? (武田邦彦氏の世界史観は単純すぎる)


アーリア人世界史観が成り立つのか?

(武田邦彦氏の世界史観は単純すぎる)

そもそも、アーリア人という概念自体が嘘である。それは日本の天孫降臨と同様、作られた物語だ。インド=アーリア語族という言語学上の概念が定説となっているが、それも、18、19世紀の植民地支配を正当化するために「発見」された概念にすぎない。なのに、いまだに日本の高校の教科書は、アーリア人の存在を事実として無批判に記述している。
◆嘘だらけのヨーロッパ製世界史 岸田秀(著)

ヨ−ロッパ人はアーリア人でありアメリカでも大量殺戮した、何千万単位で殺戮した
インディアンをマヤやインカ文明を破壊して大量殺戮した
血も涙もないことを平気でるするのがアーリア人種である
原爆落とすから何でもないのがアーリア人種である、中国人もこれとにている
残酷だからである、文化革命でも何千万殺されたとかそういう人種である
日本人はとてもそういうこときはできない、日本人は天皇を王様を殺したりはしない
ヨ−ロッパでは王様は無惨に殺される、ヨ−ロッパ人はア−リア人種の系統に入りそういう残酷なことができるのである 

それでアジアでも植民地に強制的にされて強奪された、国がもともとあり歴史もある国でもずかずか勝手に入ってきて植民地化した
アーリア人は血も涙もない、冷酷なことを平気でできる民族である
日本人はそもそもそういう残酷なことはできない、日本人は戦争でもただそうしたアーリア人種国に抵抗した唯一の民族であり太平洋戦争はその外国のアーリア人の植民地化されないための戦いだった

それも一つの世界史観である、世界史でも日本史でも別にいろいろな見方があってもいいそれはそれでいいとなる、第一世界史がなんであったかなど実際はあまりに大きくて複雑でわかりえようがない、倫理的に見れば人類の罪の歴史だったともなる
アーリア人は最も残酷な罪深い人間だった、今そうだとなる
原爆落とすくらい平気な人たちだ民族だ、そういう血を受け継いでるのだとなる
だからアーリア人の血がそうさせている、その人たちが世界を支配して世界を作ったのだとなる
これは人種世界観になるのか?

ただ現実としてアーリア人とは何なのかと問うと明確ではない、インド・ヨ―ロっパとしての共通性がありその言葉をもつものがアーリア人だとなる
それとも顔だちとか体つきから判断するのか?
何がアーリア人なのか?それも良くわからない、そもそもアーリア人とか人種で人間を区別してそれで世界史を見ること自体単純な見方である
そもそもこの人種はこういう特徴があるとかでみて世界史を見ることがありうるのか?

そんなこと単純に考えてもありえないのである
なぜなら日本人だって縄文時代から様々な人が日本に来て混血しているからである
日本人は人種の混血した坩堝だともなる、そうししたら純潔としての人種などもう世界にはいない、それをアーリア人がどうだとかそれで世界史を見ているのはあれだけ博識な人にしては疑問なのである
もう今や純粋な民族など人種などいなくなっているのだ、ユダヤ人が最古の民族だとしてもロシア方面の別な人種が混じっていて今のイスラエルにいるユダヤ人は人種的には純潔のユダヤ人ではない、ユダヤ教を信仰している民族であり国だとなる

そもそも人種で区別して世界史を見ること自体、世界史を歴史を勉強しているとなるのかその博識には敬服するけど何か幼稚な偏見がそこにあるように見る
そういう歴史観をもっている人は普通はいない、世界史が何かとなればそれぞれの見方がある、ただ明らかにアメリカは人種差別の国でありアジア人と黄色人種を一段劣っているものとみる、それは確かだからそういう見方があっても必ずしも悪いとはならない
アメリカには根強い人種差別があることは確かなのだ、それで日本人はアジア人を劣等民族人種として原爆を落としたという理屈は理解できるのである

だけど人種論で世界史を見ることはそれは基本的にどんな歴史学者もしていないのである四大文明とあったら文明を築いたものから世界史を見ているのである
だから人種からではなく世界史はどういう文明を築いたかから見るのが普通であり常識である、イスラムが栄えたのにヨ−ロッパより進んでいたのになぜ遅れをとったのか?
それはトルコ人が劣っていたとかではない、かえってオスマントルコはヨ−ロッパよりその時一段と優れた文明であり軍事だけではないあらゆる面で学問でも優れていたのであるイスラム文明がオスマントルコ時代に科学技術でも発達してそれを学んだのがヨ−ロッパだったのである
人種論からすべてを語る、世界史を語るのは常識をはずれているしそれで世界史が語れるのかとなる

もちろんお前が語れるのかとなれば語れない、ただ人種だけからアーリア人が世界を支配したとしてアーリア人のことを批判してもそもそもアーリア人は何かなどわからないのである
そんな人種論で世界史が語れるだろうか?
人種自体そんなに意味がない、日本人がどうだというとき日本人種というのはいない、なぜなら縄文時代以来日本列島には様々な人が住んだからである
そういう様々な人種が混血したのが日本人でありそこに特定の人種はいなくなっているのだ、むしろ縄文人とか弥生人というとき狩猟とか採集していた人たちと稲作した人たちを分けていた、生活の相違で分けていた、それは人種ではないのである

天子問曰。此等蝦夷国有何方。使人謹答。国有東北。 
天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類有三種。遠者名都加留。次者麁蝦夷。近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷。毎歳入貢本国之朝。 
天子問曰。其国有五穀。使人謹答。無之。食肉存活。 
天子問曰。国有屋舎。使人謹答。無之。深山之中止住樹本。 
天子重曰。脱見蝦夷身面之異。極理喜怪。使人遠来辛苦。退在館裏。後更相見。 

五穀があるとか、食肉しているとか聞いている、それは中国でも遊牧民がいて食肉している人たちを異民族としている
そのために万里長城を作られたからそのように蝦夷も見ていたのである
それは人種ではない、場所で分類して次に麁蝦夷(アラエミシ)熟蝦夷(ニギエミシ)とか従順な蝦夷は稲作するようになって服属した蝦夷である、それは今の宮城県までであり岩手県になると麁蝦夷(アラエミシ)となる、活形態から分類しているのであり人種からではない、人種は多様だからである
そもそも古代から人種で人を区別することはしていない、生活形態、狩猟民と漁民とか遊牧民とか稲作民とかで区別する
人種はそれほど人を見る場合重要視されていない

ではなぜアメリカとかヨ−ロッパでは人種差別が起きてきたのか?優生思想が生まれたのか?
皮肉なのは優生思想が生まれたのはもともとユダヤ人からである、聖書の民のユダヤ人が一番差別されてきた歴史がある  
人種差別問題だとユダヤ人が常に問題にされるのである、ユダヤ人だけが人種を主張しているからだともなる
あとは確かに白人とか色で区別して差別する、だから黒人は一番色が違うから差別されるとなる
ただ別に白人でもみんな優秀なわけでもない、白人でも普通の人間のように劣等なものもいれば優秀なものもいる
だから人種で区別した差別したりするのは根本的に間違っている、白人が優秀だというとき科学技術が進んでいると別なものでその優劣を決めているのである

ここでは全部は語れないが人種世界史観など成り立たない、もし今度はアメリカが衰退すると白人は劣等民族だともされる
現実にそういう興亡が世界史だからである、イランがあるとするとペルシャ帝国がありイラン人は優秀だったとかなる
ギリシャ人が優秀だったのは古代であり今はヨ−ロッパの観光の地であり何も優秀なものはないなのである
ただ過去の栄光が遺跡として残っているだけなのである
今は科学技術でも何の貢献もしていないからである

中国人はシナとか日本人に馬鹿にされたこともあった、今になると経済成長してアメリカに伍するようになると誰も馬鹿にしないのである、かえって恐怖の対象になる、だからむしろその国の経済とか科学技術が優れていればその人種でも民族でも一目置かれるとなっているのだ、アーリア人の特性があったとてもそれは全部ではない、むしろ別な要素で人種差別が起きているのである
人種の問題ではなく国を興隆させることがその国でも民族でも人種でもステータスを上げるのである
そして宗教からすれば人種は全く関係ない、全く差別はしない、黒人だろうが黄色人種だろうが誰でも神の霊は宿るしまたキリストを神の子と認めることはできる、それは全く人種とは関係ないのである

ユダヤ教は人種と関係している、でも純粋なユダヤ人などいない、イスラエルにもいない、それは混血した人々でありただユダヤ教を信仰している人たちなのである
人種論からの世界史観など成りたちようがないことは明白である、だからなぜ武田邦彦氏が世界で実際に生活して外国人とそれも科学者とかとまじわり現実に外国を知っている人はそういうのだろうか?

おそらく結局白人に交わり差別されたということ人種差別されたからこうした理論と世界史観をもつようになった
それはわかるがそれからとても世界史観は作りえようがないことは自明ではないか?
ただ正直完全に数学のような科学のように歴史を見ることはできない、私的な感情からでも世界史を見る、日本史でも会津は今でも薩摩長州に恨みをいだき明治維新に否定的になる、でもその見方も偏ったものになる
でも人種論から世界史を見ることは誤っていることは確かである

一方で西洋人自体が反省している、自分たちの野蛮性を指摘している,何か大量殺戮してそのやましさ罪の意識をもっている
ヨ−ロッパ文明が優れているからその支配下に入るべきだというの優越感があった、でもその反面無謀な殺戮による支配でもあったのだ、そこに罪の意識が生まれたのである

 同時代のイギリス人たちと帝国意識を共有し、イギリス人や西欧人以外の人々に対する侮蔑感情を持ちながらも、戦争による心理的荒廃がイギリス人や西欧人の“文明化”された表皮を引き剥がし、“野蛮な”性質を呼び覚ましてしまうのではないかという懸念がここには述べられている。さらに彼は、「略奪本能は文明化された外観で覆い隠されているのだろう。私たちは、『戦争は利益を生み出すに違いない投資だ』と言いかねないのであると述べ、自らを「文明人」だと信じて疑わない当時のイギリス人の“文明度”に対する懐疑を表明している。


文明とは何かとなるとそもそも定義はない、civilizationのcivilは市民である、日本には市民というのはなかった、だから文明がなかったのかとなる

文明とはまたイスラム文明とかキリスト教文明とか仏教文明とか宗教で区別することもできる
イスラム文明はオスマン帝国の時最高潮に達した
科学技術でもヨ−ロッパより優れていてヨ−ロッパ文明の科学技術を推進した、代数はイスラム文明から生まれたからである
文明は軍事力ではない、ローマは軍事力だけで成り立っていない
建築技術やガバナンスにたけた組織した帝国を作った
ローマ文明はのちにキリスト教文明に発展した
ここでキリスト教はローマ帝国の政治組織支配の下に形成された
それは政治的組織的になったのはローマ帝国の中で取り入れられたからそうなったとなる、それがカトリックなのである
もし文明をもつ国が戦争に強いというだけなら文明ではないし世界でも認められない、モンゴル帝国がそうである
そこには文明が起きていない、何か文明となるのもを残していない、ただ通商に便利な広範囲な帝国を作ったというだけになる
だからもともとあった中華文明に吸収されて終わった

日本文明があるのかとなると中華文明の亜流とかに見る人もいる
でも日本文明として認められてもいる
そもそも何が文明なのか定義はない、日本には江戸時代の300年がありそれが全く遅れているというのではなく日本文明の基盤を作ったという見方もある
だからこそ明治維新もその基盤があって成功したともなる
薩摩長州はただ徳川幕府を倒しただけであり実際にその後は幕臣が官僚となり実務を担当して明治維新を推進させた
日本だけはヨ−ロッパの植民地にはならなかった
それは日本文明が西洋文明の挑戦に対して応戦できる文明がもっていたからだとトインビー流に言えばなる




2018年11月10日

木の葉散る (原町の道の駅でもみんなスマホ見ていた)


木の葉散る

(原町の道の駅でもみんなスマホ見ていた)


我一人墓を守るや菊に雨

晩菊をさして一人や墓守る

我が町の隠町にそ落葉かな

原町に行く間に散れる木の葉かな

道の駅原町に来て落葉かな

一軒の空家や松に紅葉映ゆ

何か墓守る人も必要なのか?墓の前を私は毎日買い物で通っている、だから自然と墓に毎日手を合わせるともなる、その墓がすぐ近くなので墓と一緒に暮らしているともなるのも不思議である
何か最後の仕事が墓守りとなることがあるのかと思った

何か今年の季節は変である、今日は原町まで自転車で行く、その間に木の葉が散る、
これも自転車で行くから季節を感じるのである
車だったら風とか何か季節を感じにくいのである
ただ逆に車なしの生活ができるということは車社会ではぜいたくなのである
なぜなら車がなかったら仕事もできない、免許がなかったら就職もできない時代だからである、私の場合は車がなくても仕事もないから自転車でまにわあせてきたとなる
風流は寒きものなりというときもそうである
自然を感じるにはあまりにも便利だと感じないのである  

俳句は写生である、原町の道の駅に落葉している、それはただ写生である
でも同じような俳句があるとして原町だということで同じものはないとなる
原町の道の駅には今日も行った、そしたらみんな9割の人もスマホを手にとって見ていたそれも老人でもそうである、60以上でもスマホを結構している
車で来ているから外部の人だと地理とかホテルとかわからないからそうしている
何か簡単に聞くわけにもいかないからそうなっている
でも変な光景だと見た、まずスマホを見ている人には話しかけられない
たまたま一人だけ案内の本をもっいてる人の所で座り話しかけた
その人もスマホを持っているというから10中9人はスマホを見ていた
歩いてスマホをしている、立ってスマホしている、これも異様な風景ではないか?

旅だとスマホばかり見ていると外の景色も目に入らないかもしれない、するとスマホばかりみて記憶に残らないともなる、旅だと必ずしもすぐに移動するから余計に記憶に残りにくいのである、スマホに集中する分、辺りのことが記憶に残りにくくなる
車にスマホとなるともうそこで木の葉が散っているなとか季節すら感じないかもしれないスマホは字が小さいし狭いから疲れる、パソコンの画面を私自身がいつもみているが画面が広いからそれほど目が疲れないのである
スマホばかりみている人には語りかけられない、駅でもいつもスマホを見ている

ただ私自身も旅して人と語ることはほとんどなかったから批判はできない
機械に頼るというときなぜそうなるのか?
旅してきて何か聞くにしてもそんな都合良く聞ける人がいないからである
道を聞くにしても正確に地元の人だった教えないのである
だからかえってスマホの方がいいとなってしまうのである
ただその便利さが旅をしても人との交流をなくすことがある
旅は道連れとしてスマホばかり見ていたらそういうこともなくなる
何が機械でも便利なものは人間的なものを奪うのである
第一車自体がすでに外部を閉ざす空間になっているからだ
だから車はただ移動するだけで風流は感じない、なぜなら風を感じないからである



本当にスマホのみすぎである、それが異様に感じないものもまた何か異様なのである
現代にはそういうことが結構ある、異様なんだけど異様と思わないのである
それが文明化された人間だとなっているのである