2018年11月01日

食事がうまいかどうかは雰囲気に左右される (ビジネスホテル高見の食堂は雰囲気がいい)


食事がうまいかどうかは雰囲気に左右される

(ビジネスホテル高見の食堂は雰囲気がいい)  

家庭料理を劇的に美味しくする秘訣!武田邦彦 

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外で食事する時、武田邦彦氏が言うのは面白い視点である
なぜ家で食事してもうまくないのか?そもそも普通は料理が下手だからとなる
料理の作り方に原因していると思うのが普通である
でも実際は違っている、五感が関係している
視覚が意外と大事となる、外食だと見た感じに気を配っている、つまり外食では中味もあるがうまそうに見えるようにしているのだ
それから音が大きいと何か聴覚に影響して気がとられ食べることに集中できないから
料理を深く味わいないとはいうことがあるとか五感に影響しているというのある

その指摘で家で食べるとごちゃごちゃとして何かそれが影響してうまくならない
雰囲気が関係している、家の食事は便宜的に食べるというだけ腹を満たすだけだというのもわかる、まず自分は本当にそれしかない、まず料理そのものがめんどうすぎるのである根本的に料理ができていないことが自分の場合はあるからうまいと思えない

主菜と副菜二つ。このごはんと主菜以外を付け合わせと考えてみてください。え〜副菜を二品も作るの?大変!いいえ、

意外と料理にはちょっとしたものでもつけあわせとか副菜とかが大事なことに気づいた
一人で料理をするそれができないのだ、小皿に盛ることがめんどうになる
料理は本当に手間がかかりすぎる、だから一人暮らしとかではただ腹を満たすというだけになる、そして何か日常的な雑多な所で食事するからうまいと感じることがない
つまりレストランとかは晴れの場でありそういう場を演出しているのだ   
ビジネスホテル高見の食堂は何が付け合わせいいものを出しているから料理もうまくかんじるのかもしれない、料理には実はこのようにいろいろな要素がある、一つではないのである

そうはいってもではそういう場がレストランとなるとこの辺では少ない
チェーン店では何か安く食べればいいという感じであり雰囲気もそうである
要するに庶民食堂なのである、実際はほとんどそうである
それはそもそも値段からしてそうである、そうした雰囲気で高級感があるとなると1500円以上ないと普通はないだろ、都会だと2000円以上にもなる
つまり雰囲気とか兼ね備えたレストランは本当は日本では少ないなとなる
外国だとレストランは特別な場所なのである、だから正装して入る
それで外国旅行では気軽に安く食べる所がないので貧乏旅行者は苦労するのである
逆に日本に来た外国人は食事するのは安く気軽にどこでもできるのでいいとなる

何かそれもヨ−ロッパと日本の文化の相違なのだろう
レストランとかそもそも貴族階級のものであり庶民は別だった、庶民は利用しなかったともなる、そこは貴族が利用するものであり貴族は召使とか料理人を雇っていてそれがレストランと変化したのかもしれない、だからチップをやったりする
第一チップの習慣は貴族がいたヨ−ロッパで生まれたことでもわかる
そして韓国で中国でも料理は宮廷料理からはじまっている
宮廷で貴族のために料理は工夫されたのである
ヨ−ロッパは階級社会なのである、日本はもともと平等社会なのである
だから外食するにしてもそうした雰囲気の場はない、ただ安くてまずくなければいいとかになる

1789年のフランス革命後に、お城のお抱え料理人たちがパリの街に散り、飲食店を開業します。これが「レストラン」の始まりです。「Rest」は休息、安心の意で、レストランと呼ぶ体をいやすブイヨンスープを売った事からこの名が付いたと言います

レストランの起源は食事するということもあるが癒しの場としてはじまったのである、だから雰囲気が大事になる

とにかく自分は食べることに関心がなかった、特別うまいものを食べたいとも思わない
旅をしても費用がかかるから食事で節約していた、最低レベルのものしか食べていない
そもそも自分は貧乏性なのである、金があったときがないからそうなった
だからこれが習慣になっているから大きな金を使えないのである
それで貧乏だった秀吉があんなに贅沢するらうになったのか不思議だとなる
貧乏性は簡単にぬけないからである

ともかく田舎では何かゆったりとして食べれるレストランは本当に少ない
それは日本は狭い場所に生活しているからである
だから空間的な余裕がないのだ、東京だってそうである、本当に広い空間で食事するとなると一流ホテルのようにな空間が必要になる
それが日本ではできない、何か日本人は食べるにしてもせかせかしている、早食いとかなる、日本には何が落ち着いた広い空間がないのである
みんなせほしくたちまわり落ち着かないのである、食べる時もそうである
外国のようにゆっくり時間をかけないのである
アジアでは一般的にそうだろう、やはり貴族階級と金持ち階級からレストランが生まれたからかもしれない、こういうところにも文化の差が生まれる

それで原町の高見食堂は内部が広いのである、四人座る場所に一人で食事もできる
でも十人とか座るテーブルがあるがそれは大勢の時になる
それと4人座る場は広々とした感じになる、だから座る場所でも何か食事する味も左右するとまでなる、あそこは高級とまではいかない、1000円あれば食べられる
でも雰囲気は広々としている、他にはそういう場が少ない
何か狭い所に押し込められて食べるとなっているのが日本なのである
つまり日本では庶民的であり食べればいい腹をみたせばいいというのが基本にあるしそうならざるをえなかったのである

とにかく私の場合は本当に一番食事には困った、介護してからも今でもそうである
まともな食事ができない、ただ飯をかきこむという感じなのである
料理自体が手間で作れない、そんなにいろいろなことをできないからである
他の家事もあり全部自分一人でしているから他に労力を使えないのである

ただ人間は雰囲気左右される生き物である、だから景観のことをうるさく言ってきたのはそのためである、ソーラーパネルでも景観を悪くするから嫌なのである
だからなぜ東京とかの景観の悪い所に人がそもそも集中するのかわからないとなる
食事でもレストランでも中庭がありそこで食事すればくつろげるとなる
料理もうまいとなる、それは日本では最高の贅沢だともなる
日本では空間が狭いからそもそもそうした演出ができないのである

家でも実際は広い方がいい、最近は八畳間にずっと寝ている、すると天井も高いし広いからそこは寝室としていいと気づいた、今までは六畳と天井が低い部屋に寝ていたからである、日本では家でも狭苦しいのである、それがレストランとかでも広く場がとれないことが根本的な問題なのである
そして広い家だと場を変えて本を読んだり何か考えことするとアイデアがでたり雰囲気が変わり脳が活発化するというのは本当である
脳は常に外界に出てもそうだが刺激を受ける必要があるのだ
人間は頭を働かせるのでもそうした雰囲気とかに左右されるのである
だから原町と相馬市に行ったとき他から来た人は相違がわからないがいつも住んでいると違ったものに感じる、それは新地でもそうである、飯館でもそうである
その雰囲気が景観でも変わることによって心も変わるのである
ただ自転車だと相馬市とか飯館村は遠すぎるのである
原町はしょちゅう行ける場にある、それでそこで食事を楽しむ場があればいいとなる高見食堂はその場として適しているなと思った
posted by 天華 at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

なぜ名所観光はつまらないのか? (交通の便がよすぎてとぎれとぎれにしか旅ができないそして記憶されない)


なぜ名所観光はつまらないのか?

(交通の便がよすぎてとぎれとぎれにしか旅ができないそして記憶されない)

まず現代の旅はどうしも便利だから乗り物に頼る、例えば歩く旅している人はみかける
でも必ず帰りは電車を利用したり途中で乗ったりバスを利用したりとかなる
本当に歩き通す旅はできない、そして実際は現代では旅人は消えた
観光している人は旅人ではない、旅人はたいだい一人だと旅人のように見える
そういう人は若い人だと全国一周の自転車旅行などがある
ただそれは体力のある若い人だからできる
何か体力あるときしかできないものが人生にはある、まず登山はきついから普通は年とったらできない、でも今は70くらいでも登山している人はいる
山は老人に占拠されている、それはなぜなのか?
やはり登山でも旅でも本当は時間がかかるからである
勤めていると登山になると相当に時間もかかるし疲れる
すると勤めに出ることもできなくなる、現実に登山の後に疲れて帰りの電車で死んでいたとかいう人もいたようだ、私も体力がないから登山したときそうなったことがあった
登山とか海外旅行とかはきついことは若い内にしておかないとあとはできなくなる

そしてなぜ観光でも旅でも今は印象深いものとならないのか?
そしてみんな名所がつまらないというのはなぜなのか?
それはあまりにも便利すぎて旅がなくなったからである
平泉に行くか、新幹線で二時間ちょっとだなとなるとその間の行程がない
するとその印象も本当に記憶にさえ残らない浅薄な経験しかできないのである
芭蕉の奥の細道ができたのは今とは全然違った未知の世界の旅だったからである
それで平泉にようやく到着したとき感懐深いものになった

五月雨やふりのこしてや光堂 芭蕉

このような句を残したのはその距離と時代の相違だった、はるばる日本の果てのような所にきて五月雨にもふりこめられて栄華の平泉の名残として光堂が残っているということでこの句ができた
ではどうして平泉まで行ったのか?それは仙台までは今と同じである
でもそこから石巻をまわり北上川をさかのぼり柳津に行き登米を通って平泉に行ったのである、この行程を行くことは電車がないから自分の場合は行っていない
北上川は登米から米を船で運ぶ道となっていた、その米は石巻から江戸に船で運ばれたのである

その歴史を知るには北上川を知らねばならない、でも今北上川を知ること一本の道として知ることはむずかしい、川を知るという時それはとぎれとぎれに知るのではなく一本につながったものとして知る必要がある
何かそうして現代の旅はとぎれとぎれになる、新幹線でだ北上川がときどきちらっと見えてすぎてゆく、そういうふうに旅でもその土地のことを断片的にしか見ていないのである名所がつまらないというときそのアプローチに問題がある
旅はある目的地があってもその行程とアプローチによって相当印象が違ったものになるのだつまり福島県だったら浜通りから阿武隈高原を越えて行くのと逆に会津からとか阿武隈高原を越えて海側に出る感覚はまるで違ったものになる
それは飯館村の八木沢峠を越えたとき太平洋が見えるからである

何か東北に住んでいても本当にその土地のことを知らない、それはあまりに便利になりすぎた結果なのである、それで自分もこれだけ旅してもそうだった
俳句を作っているのだから芭蕉の奥の細道に興味がある
でもその芭蕉がどうして平泉まで行ったのか?その道のりをたどっていなかったのである電車とかで行っただけでありそれで失敗したとなる
石巻からは北上川をさかのぼり登米の方向へ行かねばならない、その道が芭蕉がたどった道だったからである
福島県は自転車で旅したが東北となるとしていないのである
そのように電車だけに頼る旅もその土地を理解することにはならない、電車が通らない所は行かないからである
つまり電車が行かないと所は抜け落ちることになる、車の旅は便利だがこれも早く通り過ぎるということで問題があるが車で旅した経験がないので語れない

いづれにしろ人間の土地を知るとういことで皮肉もあまりにも便利すぎてただ通り過ぎる旅になったのである、歩く旅なら印象に残りやすい、でもバイクでも早いなと思った
それはただスピードの快感を味わっているのであり旅しているのとは違う
車でもバイクでも早すぎるのである
ただ旅という時それはなにか?旅をつきつめれば旅が人生になると芭蕉が言った
人生は旅であるというとき旅が人生になった西行とか芭蕉とか山頭火がいる
私自身もそれに近いものになっていた

それで川に鴎が一羽飛んできて橋にとまっていた、そして去って行った
その時その鴎に旅人をイメージしたのである

秋鴎一羽去りゆく旅の人

これをイメージした、秋鴎が旅人に見えたのである、それは結局自分がまさに秋鴎であり旅人だったからだともなる
そこに旅人がいたわけではない,自分のことだったのである

いづれにしろ北上川を知るにはやはり北上川に沿って平泉まで行く必要がある
それが歴史をたどることでもある、北上川でも最上川でもとぎれとぎれにしか見ていない本当は船で行けば一番いいのである、最上川は一部できるにしても最上川にしてもきれぎれにしか見えないしわからないのである
ライン川でも長いから一部しかわからない、それでも船で運行しているから今もドイツの父なる川として理解できる、なぜならドイツを知るにはライン河を知らないと理解できない、その歴史も文化も理解できないのである
インドならガンジス河を知らなけれ理解できない、ガンジス河がインドの歴史と文化の源になっているからである、日本ではそうした長い広い川がないから川について理解できないのである、それはナイル川でも揚子江でも黄河でも同じなのである

だから北上川をさかのぼり登米から平泉まで行きたくなったのである
そうするには折り畳み自転車で電車で行く、途中柳津でおりて一部でもその川を知ることが必要になると思った、ただ正直体力的に苦しいとなった、腰が痛むとかある
介護十年して精神が消耗したのと体力的にも限界が来たのである
だからつくづく海外旅行とか登山は体力あるうちにすべきであり後はできなくなる
結局いつまでも人間は若くはない、たちまち時間がすぎて何もできなるなるのである
後は回想するだけだとなる、その回想するにもそうした記憶に残る印象深い旅をしていなと記憶にすら残らないから忘れるから何の成果もなくなるとなる
それが現代の旅でも観光でも多すぎるから名所はつまらないとなるのだ
みんなきれぎれの旅しかしていないからである

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2018年11月02日

只野−小林姓をたどると・・・・ (姓から探る相馬地方の郷土史)


只野−小林姓をたどると・・・・

(姓から探る相馬地方の郷土史)


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これだけ地域に限定して多い只野の姓


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奥州二本松領の多田野村において、御霊を祀ったのも長尾氏だった。
只野油井などの苗字に分かれて今も栄えている

ここに只野油井がでてくる。油井という地名は鎌倉にあり油井を姓にする人もでてくる。不思議なのは岩代国安達郡油井村がある、これはどういう経過で名前となったのか?
只野油井という姓は多田野村からでている、名前はなぜ油井なのか?それは鎌倉の地からでていることは間違いない

『一薪之儀者村之内百姓持山分ニ而取申候 不足之時分ハ二本松領多田野村と申所江
  毎年野手銭百文宛相済取来申候』 について、
 四里以上も隔たった所まで薪を採りに行った。もっと近くで都合できなかったのだろうか?
 按ずるに、更に百年余前の蒲生時代に、
横川、安原、阿久津、南小泉、北小泉の各村と多田野村は共に蒲生家客将細野藤敦の給地であった。
軍需物資として輸送された名残りかと考える。

(二本松領の検地−元禄)

前に只野氏のことを考察した、とにかく南相馬市に只野氏−但野氏が多いのである
だからこの出自は明らかである、間違いやすいが多田の姓と多田野の姓は別である
多田野−只野は明確に南相馬市鹿島に一番多いのである
多田野村から只野の姓が生まれた、日本では必ず地名から姓が生まれている
ただ地名と姓が一体化してわかりにくくなる、相馬市でも南相馬市でも相馬氏一族が移住して土地の名前になった、ただ全国的には姓が土地の名となることはまれである
必ず…村がありそこが姓の発祥の地なのである
日本人のコミニュティは村にあり村が一族化している、村の紐帯が強いのである

多田野村の位置がわかりにくかった、郡山市から実は会津藩と白河藩とかの境にあった
今の湖南地域は会津藩であり白河藩が重なる地域でこれもわかりにくいが地図を見るとわかりやすくなる、地歴を知ることが大事である
会津は感覚的に湖南地域とかではなく遠い地域だとイメージするからだ
この湖南地域は私も自転車で行ったが魅力ある場所である
ただあの辺が多田野村があるということがイメージしにくい、でもその辺を通ったことがある
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葛西富夫著『続 会津の歴史』に収録されいている会津藩領地の地図(概略図)を眺めながら、その理由を考えていました。

白河藩と会津藩は隣同士だった、会津藩の領域は広い、それで一時白河地域を治めていたのは会津は支配した蒲生氏郷だったことでもわかる

いづれにしろ地名から歴史を探ったりまた姓が歴史を郷土史を探ることは基本である
どうして相馬氏に荒姓が多いのかとたずねる人がいた
それはこの辺は古代から渡来人が来ていたためである、製鉄の技術集団のツノガノアラシトが大和王権が成立する前に来ていた、そのツノガノアラシトのアラが荒姓になったからである、ここまで姓をさかのぼることができる
相馬藩で姓から探る歴史としては南相馬市の鹿島区だと岩松氏が有名である
鎌倉から来た岩松氏一族は家臣によって惨殺されてその子孫は残らなかった
それで相馬藩内に岩松という姓がないことがまさに歴史の証拠なのである
それから相馬藩の飢饉のとき移住してきた越中からの移民の子孫が相馬藩内に三分の一もいる、だから本当に越中からの移民が多い、古賀とかがそうである、他にもいろいろある
それも歴史の姓として分類できる
その辺はわかりやすいのである、墓を見れば真宗系統であり題目が記されているからわかりやすいのである
この移住した姓として葛尾村(かつろう)の松本氏は有名である
ここも三分の一が松本氏であり信州から今の長野県から移住した人たちが多いということである、こういうふうにある村には一つの姓が多いということはそれだけその村がその一族関係の親戚なのである、だから驚いたのは常磐線の末続駅があるがそこは新妻氏一族の村だったのである、なぜなら墓地をみたら9割が新妻氏だったからである

今回自分のルーツを探ると小林という姓がどうしてついたのか?
葛尾村から私の父親が双葉の新山の酒屋の丁稚奉公して働いたことは書いた
でも小林という姓にどうしてなったのか?
それはまず武家の出ではないから先祖をたどると曾祖父は浪江の津島の近くの柏原であり名前しか記されていない、姓はなかった、その当時江戸時代は農民などでも職人でも姓がないのが普通だった,ただ江戸時代末期に農民でも名字帯刀とか許されて姓をもつ人が増えた、それで近くでも墓地をみると姓を記した墓を見ることができる、それは明らかに農民の墓なのである、明治になったとき庶民も姓をもつことができるようになった
それで姓が膨大に増えた、でも適当に姓を名乗ったのか?
何か謂れがあって名乗ったのか不明になる
只野氏はその歴史をたどることかできるが小林となるとわからない
第一小林という姓は全国的に多いからである
地名でも小林というのは多い、それで不思議なのはこの地名なのである

福島県郡山市逢瀬町多田野小林(字)

多田野村にも小林という地名がある、会津にもある、小林という地名は多い、だから小林が多いのもわかる、でもなぜここに小林なのか?
多田野村−只野氏と関係あるのか?
だから同級生の只野氏と良く土手の道で話して奇妙になる
自分も只野氏の一族の子孫なのとか冗談でもなる
その同級生は日吉神社のお浜下りの祭りでおつづら馬という重要な役をになう
それは南北朝の争いで逃れた時に由来する祭りである
つづらに荷物入れて馬で運ぶ役である
その只野氏は南北朝からの姓であり古い由緒ある家だとなる
だから何か頼母子講で親になっていた資料があったとか大学の人が調査に来たというのはそのためである

上野国緑野郡小林村(群馬県藤岡市小林)発祥とする一族
鎌倉御家人として多く登場し、元歴2年の元旦には源頼朝が鶴岡八幡宮に奉納する神馬を引いた従者に、小林次郎重弘が見える

ここが小林の発祥の地らしい、そこはここから遠くはないから移住してきたともなる
この頃は馬が大事であり馬にかかわる故事が多いからこうなった
馬というのは歴史では欠かせないものだが車時代になり忘れられたのである

posted by 天華 at 11:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

駅前の自転車置き場の通路が狭すぎた (通りにくいので案内板の前に置くのはまずい)


駅前の自転車置き場の通路が狭すぎた

(通りにくいので案内板の前に置くのはまずい)

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ここに自転車を置かれるとまずい

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この通路は狭すぎる、混雑する通りにくい
高校生が通学の時混むから困るのである


駅前の新しい自転車置き場が作られ、でもその通路が狭すぎたのである
同時に駐車場を作ったがそれで自転車置き場が狭くなった
結果として通路が狭いから案内板の前に自転車を置いている
そこには花壇もあり案内板を見る人もいるから困る
そこは自転車の置く場所ではないのだ

これは失敗だったがもう直すこともできない、でもあそこに自転車を置かれると困る
外から来た人も案内板を見れないからだ
このことは工事する前からわかっていた、でもなぜそれを考慮しなかったのか?
それは南相馬市の役所で作ったものである
それは工事する前からわかっていたことである

私が工事を見ていたときも前がの駐車場が自転車置き場になると思っていた
でも工事が始まると自転車置き場は別だったのである
でも一旦あのように作ってしまったら直すことはできない
それでも狭すぎるから利用しにくい、その問題はずっと継続されるのである
だから工事は慎重にしないと後に直せないから困ると思った

では設計の段階からかかわることはできない、でも利用するのは市民なのである
しかしまた市民がそこで見ていても口をはさむことはできない
ただ問題は利用者が市民でありずっと困ることになる
でもそういうことは市民が何か言えるのか?
ただ後で利用する人たちが困るからなんとかしてくれとなるかもしれない
それなら作る前から利用する市民にその設計を知らせるべきだった
それは素人でも見ればわかったのである
工事始まって駐車場になる場所がわかったとき狭いなと感じていたからである
それは誰が見てもわかったのである

JRだと何も言えない、そこは南相馬市で作ったから市民としてかかわることがありえた
JRだと土地もJRのものであり市民がとやかく言えなくなる
ただ鉄道とかもみんな利用するものだから公共性がある
するとみんなの使い勝手のいいようにしてもらいたいとなる
鉄道は誰のものか?また会社は誰のものか?とか言う人がいる時
公共性のあるものはみんなのものにもなる、みんなが利用するものだからそうなる
ただ駅の中も新しいドアにしたり新しい自転車置き場になったり改善はしたが
今回の自転車置き場は利用しにくいから失敗があった
それをどうするのか?改善できるのか?場所がないからむずかしいとなる
駐車場はどうしても必要になるからだ
一応市の方に言うことができるが今になるとそれを直すことがむずかしくなった
ともかく土地の利用に失敗したとは言える

2018年11月03日

駅の自転車置き場が狭くなった原因 (車は空間の占有率が高い)


駅の自転車置き場が狭くなった原因

(車は空間の占有率が高い)

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ここはJRの土地であり長く車はとめられない
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この標識はタクシー乗り場としてある
でもここにタクシーがとまることは一年に一二回である
でもこれは案内板があるから美観的に良くない

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車が八台とまれる場をとったため自転車置き場が狭くなった

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ここに駐車場があっても気づかない
ここの駐車場は狭すぎる
ここは長くとめられる



なぜ駅の自転車置き場が狭くなったのか?

それはどうしても5台くらいの車を置く場を確保しなければならなかったからである
ここにも車優先社会が反映されていたのである
そんなこと関係ないとうけどやはり駐車場が車社会では不可欠になる
あそこは一台一台置く場所が決まっていて使用料金も払っている
他の人はとめられない,それから駅前はJRの土地であり長くはとめられない、長くとめることを禁止している、それで駅から離れたところに狭いが長くとめる駐車場があるが
外から遠くから来た人にはわからないし狭い
つまり駅前に駐車場が確保できていないのである

それはなぜか?

鉄道ができたとき鉄道が足だったときは車社会ではない、そのために駐車場を確保していないかった、駅からバスだったりした時代があった、バスが縦横に走っていた時代があった、自家用車の時代になったとき社会自体が車社会になったのである
車社会の問題は車が意外と空間の占有率が高いのである
その視点が意外ともてない、例にすると電車だと百人運ぶことが狭い空間でできる
ところが車だと百台道路を走るとなると空間占有率が高くなる
それは駐車場でもそうなのである、だから実際は大勢の人間を運ぶには向いていないのである                                  

そのことで津波の時道路が渋滞して逃げられなくなった、それは車は空間の占有率が高いからである、車にのっていて渋滞になったら身動きできなくなったのである
だから車にも弱点がありそれに気づかなかった、災害の時は車で逃げられない
東京辺りでも地震があったら道路が走れなくなる
それで自転車か歩いて脱出する他なくなる
車というのは災いをもたらすものでもある 

日常的にも車が駐車場でも場所をとる、すると自転車置き場でも狭くさせられる
道路でも自転車道路がない、それで自転車は車にとって邪魔者になる
車にとっては歩行者も邪魔になる、車からすると自転車でも飛び出したりするから危険なのである、だから嫌がられているのである
それは結局車社会だからそうなる、車中心にすべて考えられているからだ
なぜ郊外にイオンとかができたかとなるとそこには広い駐車場がとれるからである
街の通りの店がそこでシャッター通りになったのである
車がとめられないからである
もし電車で駅におりて通りを歩けば街中の店も必要になる
車は街中を通りすぎてゆくだけなのである

いづれにしろこれから車社会を見直すようになるかもしれない、高齢化社会でこの前も駅で80歳の人が免許を返納して失敗したとか言ったいた
23万人が返納した,すると足がなくなり困る、では何にするかとなると鉄道とかバスを利用する人が増えるかもしれない、つまり高齢化社会には車は向いていないのである
そうはいっても車社会自体が簡単に変わることはないだろう
ただ車の免許を返納した老人がふえれば足を確保したいからなんとかしてくれとんいう要望がふえることは確かである

駅でも新地駅とか最初から新しい街作りとして駅があり駅前広場に駐車場もとった
駅前からアクセスしやすいようにした
それは山下駅でも駅前にスーパーができたから駅中心の町作りをした
要するに駅前開発は土地の利用の問題になる、駐車場を広くとり車でも利用しやすくして駅と一体化して人を集めるとならないとさびれたままになる
ただ車社会は見直すということも必要になる
歩行者とか自転車とかは車社会では邪魔もの扱いになっていることがおかしいのである
あまりにも車優先社会となっているからそうなる
街作りにしても車優先社会になればいい街作りにならない
実際に車社会によって街自体がシャッター通りになったことがそのことを証明している


青森の青からイメージされるもの (青森は姥捨て山ではないとコメントがあったが・・・)


青森の青からイメージされるもの

(青森は姥捨て山ではないとコメントがあったが・・・)

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東京都港区にある「青山霊園」の「青山」とは、美濃国郡上藩主の青山家の下屋敷に由来するもので、霊園はその屋敷跡に造営されたものだ。偶然ではあるが、「青山」はまさに墓地にふさわしい地名であった。福島県会津坂下町の青津には、亀ヶ森古墳と鎮守森古墳があり、隣接して青木もあり、墓地の意味の「青」だ。

ところで「青」の地名が日本海側に集中していることは早くから注目されてきた。谷川氏は、「青」地名は埋葬場所との関連とともに、古代海人族の居住地でもあることを示唆し、日本海側に集中しているのは、彼らが対馬海流に乗って移動した結果だという。

青というのは墓を意味している、そして日本海側に青とつく地名が多いという時青森は日本海を通じて交流がありその影響があったとなる
恐山とかの霊場とかイタコもいるのもそうかもしれない
何か青森とは神秘的にもなる、福島県というとき名前が良くなかった
なぜ福島県なのか皆目その由来もわからない、だから地域性がない
人間は地名が問題になるのは地名から人間はイメージする、言葉からその場でもイメージするからである、青森県は何なのだろうとなるとまず青森に注目する
岩手県だと岩手という言葉に注目してイメージする
言葉の喚起力が意外と印象を決めることがあるからなのだ
それで名は体を表すともなる

青旗(あをはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは目には見れども直(ただ)に逢はぬかも

天智天皇が崩御の前後に倭大后(やまとのおほきさき)が詠んだ三首の歌のうちのひとつ

人魂の さ青《を》なる君が ただひとり 逢へりし雨夜の 葉非左(???)し思ほゆ

  〜作者未詳 『万葉集』 巻16-3889 雑歌
 
 
 青は森をイメージもしているが人魂のさ青・・・となるとこれは死者をイメージしている、青には何かそうしたし死をイメージするものがある
つまり青森からイメージするのはこうしたものであり神秘的になるのだ

青森は日本海と縄文時代から関係している、丸山三内遺跡でもヒスイが発見された
それは約600km離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれた。
青森はもともと日本海沿岸と交流があり青という地名がついたのはそうした由来があってだとなる

いづれにしろ青森は最果ての地にふさわしい名である、だから姥捨て山なのかとなるとき恐山とか霊場としてあるのもわかる
日本は実際は東北でも多様な地域性がある、日本の列島の端となると長崎とかなるが青森とは全く正反対の地域である、そこは出島があったごとく江戸時代に外国との貿易があり先進地域だったからである
人間は何か最果ての地にひかれる、それが青森なのである
でも北海道の函館となると全く明治以降のいち早く近代化された港であり都市だから違っている、アイヌがいたとして全く違った都市なのである

ドイツ製のBD1は優れものだった (十年過ぎても変わらずいいものだった)


ドイツ製のBD1は優れものだった

(十年過ぎても変わらずいいものだった)

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ヤフオクで1100円で売っているのは安い
15万で私は買ったからだ、別にこれは変わっていないのである
ただいろいろてものが出ているからこんな値段になったのか?


十年間介護でこのBD1に乗っていなかった、だから乗れなくなったのかとも思ったが普通に乗れた、壊れてもいない、別に乗らないからいたまなかったともなる
これを買う時苦労した、何か折り畳み自転車でいいもを買おうとしていた
それを探していたらドイツ製のBD!がいいとインタ−ネットとに出ていた
それで買うことに決めた、でも買うのに苦労した          

自転車は通販だと後の修理とか保証がないことが不安になる
それで困って仙台の自転車屋で買った
わからないところがあり教えてもらった
自転車が意外と危険な面がありそれを知らないと事故になる

このBD1十年ぶりに乗ってみたら軽くて乗りやすい、これは構造が安定している
それと軽いのと車輪が小さいから意外と坂が上りやすかった
車輪が小さいと小回りできて坂を上りやすくなる
坂では苦労しているので電動自転車にした

でも電動自転車は重く感じる、軽快に走る快感を得られない,これはその軽快に走る
だから電動になると不自然になるのだと思った
自転車は軽いのがいいのである、ただ本当に一台一台乗った感じが違うのである
それは不思議である、それはどうしてそうなるのか?
作りとか構造とかなにか関係がある

ともかく私の一生は自転車旅行とかずいぶんしているから自転車人生だったともなる
だから自転車に愛着が生まれた、もう一つは鉄道旅行が長いから鉄道に愛着が生まれた
それで無人駅でボランティアしているのである
今の時代は何に愛着が生まれるかとなるとこうした道具とか機械類と切り離せなく暮らしているからそうなる

ただ老人にはロードは向いていなかった、電動のヤマハの軽いロードを30万くらいで買ったが意外と使いにくかった、確かに早いのだが車の多い所では危険である
そして何か体が疲れやすくなる、力が入りすぎるからかもしれない
スピードを楽しむにはいいが何かなじめなかった
だから高価なものでも使いないものには価値がない
金を無駄に使ったとなる
つまり自分の体とか年にあったものを買いとなる
それは高いものがその人に合ったものになるとはならない

特に老人は気を付けるべきである

使いこなせるもの、その人にあったものを買い!

それは高価なものでも買っても使いないからである
老人は買うことがむずかしくなった
いろいろ新しいものが出ても使いこなせなくなった
すると老人はそうして使いないものは買うなとなる
何か老人は何か多く買ったりしないで何かすることでもあきらめるというのがいいとなる断捨離は老人に向いている
もう新しいものを買うことがむずかしい、使いこなせないのである

ただこのBD!は買う時苦労した、でもその時は十年以上前のことでありそれより前だから
なんとか外国製でも選び買うことができた
とにかく自転車の種類は電動自転車も加わり膨大に増えた
それで選ぶのに困る、でも自転車の構造は本質的に変わっていないから十年たってもいいものはいいということがわかった
15万したからその値打ちがあった
ただ電動自転車になると相当に電気系統などで進歩したから古いものは使いない
新しいものでないかぎり使いない
このBD1は十年前と同じく使っていいものであり古くなってもその良さは変わらないことに感動した

それで長い距離は行けないがこれだとおりたためるから鉄道などを利用して近間ならまた旅できるなと思った、ただ問題は体力である
腰をいためたりしたからどうかなと思うがなんとか行ってみようと思ったのである
いづれにしろもう数年しか自転車で遠くには行けないだろう
最後はこのBD1に乗って終わりになる、自転車人生の終わりである
ロードなどはもう乗りこなせなかった、ただ白髪の人でもバイクに乗る気持ちがわかる
老人は今までしてきたことをつづけたいのである
だから車でも80歳になって返納して失敗したというのもわかるのである




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変わり果てた南相馬市萱浜の風景(秋の短歌) (津波から7年半でも癒えない傷跡)

                                                  
変わり果てた南相馬市萱浜の風景

(津波から7年半でも癒えない傷跡)

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萱浜には墓地だけが残って向こうにロボット工場の建っているのが見える
大規模な工場なのである

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一葉松はやがて枯れる

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この墓地は前からかあったのか?
新しい墓が多い、津波で流されたのを再建したのか?





秋の海沖に船行く二艘かな  
                                                    
                                                      
駅前に木の葉一枚散りにけり今日も我があり暮れにけるかな
                                                          
秋日さす桜井古墳に今日も寄り遠き祖(おや)なれここに眠りぬ

新田川の河口にあわれ立ち枯れの木幽鬼のごとく秋の日没りぬ

一葉松枯れゆくならむ津波来てなお傷痕の癒えざりしかな

新田川芒の白くあわれかな白髪のごとし人も世も変わる

鴨あまたわたり来たりぬ新田川冬に入るかな墓は残りぬ

津波にも残れる木にそ烏かな萱浜の墓地秋にたずねぬ


萱浜に行ったけど工場地帯のようになった、ソーラーパネルにロボットの工場は意外と大きい、ビルも建った、あそこで雇用がかなりうまれるのか?
見た感じでは大きいからそう思う、一大ロボット工場になるのだろうか?

萱浜には墓地だけが残っていた、でもそこから見る風景はまるで違ったものになった
萱浜の面影は全くなくなった、ただ萱浜は前にも行っていたけど何か特徴ある場ではなかった、松原だって右田の松原のようなものはなかった
だから何か印象としていいものではなかった
そこで女高生が死んだのも印象を悪くしたのである、それは殺されたからである
それは津波起きたすぐ前だったのである
その死体は津波に流されて不明になったのである

なぜ萱浜があまり津波の前でもいい印象をもたなかったのか、それは真野漁港のような港もない、何か生業(なりわい)がない、するとただ家があるだけだとなる
松原もない、見栄えしなかったのである、そうはいっても農家があり営みはあったのである
人間の生活はやはり土地に根付いた生業があるとき活きてくる、それがないと活きてこないのである、それで原発事故で生業を返せということで訴訟を起こした
でもそもそもが海側では港がない、漁業がない所は生業もなかったのである
つまり港でも船が出入りしたりまがりなりにも魚をとったりしていると活きているのである、だからそういう場所はなくなると惜しいとなる
ただそういうことが今はできないから船主などは多額の補償金をもらって生活には困らなかったのである、萱浜は田んぼであり越中なのどの移民が多い場所だった
漁業はしていない場所だからあまり印象がない場所だったのである

生業(なりわい)を返せというときその生業とはなになのか?
それが良くわからない、農民とか漁業していればある、でも工場で働いていたりすると生業(なりわい)という感覚がなくなる
ただ山でも炭焼きなどしているのは生業でありその時山も活きていたのである

新田川の河口には今も幽鬼のことく立ち枯れの木が立っている
あれはまさに津波で死んだ人の幽鬼だと思った
まだ倒れないのが不思議だとなる、怨念のようにここに立っている
津波で死んだ人の霊がここにとどまっているという感じである

ともかく津波の被害の傷跡はまだ消えない、それだけ大きな被害だったのである
ただあそこにソーラーパネルとかロボット工場ができるとそうした過去もやがては忘れられてゆく、ただ7年半過ぎてもまだ傷跡は消えない
それが一葉松でもある、一部枯れたしやがて枯れてしまう
あの松はいい松だったから枯れると南相馬市では相当な損失である
でも右田の一本松も枯れたように枯れる

あそこに墓地が残っているのはなぜか?
津波で流されたの再建したのだろうか?
津波にも流されなかった枯木に烏がとまっていた、墓守りのようしてとまっていた
あそこは確実に津波が来ていたし家が結構あったが流されたのである
その写真をとったことがあり流された家の人が指摘したことがあった
それも今は全くわからない変わり果ててしまったのである


ロボットのまち、南相馬を目指して−

2018年11月04日

ホンジュラスの移民騒動 (格差貧困化は日本でも深刻化して暴動も起きる)

ホンジュラスの移民騒動

(格差貧困化は日本でも深刻化して暴動も起きる)


米には麻薬組織ともつながった「マラス」と呼ばれるギャング集団が横行していて治安がひどく悪化していることと、貧困問題が主な理由です。働きたくても仕事がない若者がギャングに勧誘されることも多く、断ると命に危険が及ぶこともあるようです。

成人男女の平均労働時間は、14時間だ。機械が常時、動きつづけられるようにするため、労働者は、一日に14時間、週に、三日から四日働き、休日には、他のチームが入れ代わる。生産割当は極めて高く、病気の労働者ですら、限られた休み時間と食事時間しか与えられない。シフトにつき一時間半だ。注文が、増減するのにつれ、工場の雇用も増減する。労働法は、日常的に、無視され、労働組合の結成は弾圧される  

300,000人以上の子供がホンジュラスでは働いている。彼らの一日の就業時間は、成人のそれより、ほんのわずかばかり短いだけだ。国連児童基金(UNICEF)によると、マキラドーラでは、15歳という若さの子供が、一日、10から13時間も、一時間わずか40セントで働くよう強いられている

ホンジュラスは、アメリカ軍によって、1907、1911、1912、1919、1924、1925、そして1931年と、繰り返し、侵略されてきた。こうした侵略において、目標は、アメリカ企業の権益を保護と、専制的傀儡政権の安定性だった。



この国はアメリカの企業によってバナナだけを生産される、単一商品化栽培させられる
そのことでバナナの値段に国が左右される、それからアメリカの企業の支配になりそれと結託した地主とか指導層が金持ちになる、それで極端な格差社会になる
そのことはアフリカでもコーヒーだけを栽培させられてコーヒーの値段に左右されて飢餓にまでなった国がある
それが現代の資本主義化多国籍企業化した問題である
一千万人くらいの人口なのだからもうアメリカの属国のようになっていた
でも何かこういう構図は世界中にあった、日本だって戦争に負けたらアメリカの支配になったからである

それはグローバル化経済で多国籍企業支配で起きたことである
それは江戸時代の日本でも起きていたのだ、伊達藩から大量の米が石巻から江戸へ送られていた、その米は商品と化していたから米を売るために米がバナナとかコーヒーと同じように単一商品化して飢饉になった時、他に食べるもきるを生産していないから飢饉になったという、コーヒーばかり作っていたアフリカの国でもそうなった
もともとはいろいろなものを畑で野菜を作っていたからである
同じような問題が江戸時代にもあったのである

ではなぜホンジュラスで大量の移民がアメリカにおしかけるのか?
それはアメリカにも責任がある、アメリカの支配でそうなった
そして麻薬を扱うギャングが横行して国を支配してしまう、ギャング国家になる
メキシコでもそういうことがあり映画を見た、若者はギャングになるほかなく鉄道を利用してアメリカに脱出するほか救いがない、その心は荒れ果てている

ただなぜ中南米とかがそうした貧困にあえでいるのか?
あの辺は弱小の国が多い、またそういう国は工業化できない、するとバナナだけを生産するようにアメリカに強いられる、そういう仕組みがあり今度は移民となって大挙脱出することになる、それはメキシコでも同じだったのである
ギャング団に支配された国から脱出したいとなる
メキシコでもそうしてギャング団に残酷無惨に殺された映画を見たがそれは現実を反映していたのである

いづれにしろグローバル経済の格差問題は深刻である
こうして必死の移民が増えるのは恐怖である
それは日本国内でも貧困格差問題はこれから深刻化する
まず治安が悪くなる、もう金持ちは私兵を雇ってでも防衛するほかなくなる
小金持ちでも飢えたような人が増えれば襲われる
実際日本でもそうなりつつある、貧困は深刻化しているのである
そのことで自分自身が家が介護などでガタガタになり弱者化したとき起きた

家に入れたものに大金を盗まれたとか今度は事業に失敗した人が借金を要求するとか地銀は苦しくなり投資信託を売りつけるとかさんざんな目にあった
今でも困窮者が来て金を要求してくる、その人はぎりぎりの生活だからである
現代はなかなか貧困者が見えないのである、着るものでもわからないからである
でも日本全体が貧困化している、格差社会になっている
それで自分のようなたいして金持ちでもないものも狙われ襲われるのである

日本では本当に暴動寸前になっているのかもしれない、暴動が起きないというけどそれもわからない、消費税10パーセントなどふざけるなと自分でさえ思う
別に日本政府には金があるとみんな言っている
財務省の支持でそうなっているから財務省を批判する人もいる
つまりもしかかしたら日本の官僚は財務省はホンジュラスのようにアメリカの言いなりである、その支持で経済政策も決められるとなる
そこでそれをとめるにはホンジュラスのように暴動とか国を脱出して移民化する
日本に絶望して若い世代が外国で働こうとしているのもわかる
経済的危機になるとグロ−バル化社会では外国に脱出する人が増えるのである
貧乏人もそうだが金持ちでさえ税金を収めたくないとかなる
そうして国時代は崩壊しかねないのである

まだ日本ではそうした深刻な自覚がないが否応なく格差社会では自覚させられる
何より治安が悪くなり金持ちでも小金持ちでも襲われる
そうなると金持ち自衛しなくてはならなくなる、太宰治の生家のように高い塀で囲み警察を常駐させるようにもなる、地主であり極端な経済格差のためにそうなったからである
要するにホンジュラスはアメリカの属国でありその属国が移民化しておしよせる
そしてアメリカはそういう国を捨てる、移民を撃ち殺すとまでなる
アメリカ自体が経済的余裕がないからそうなった、アメリカ本土でも格差が極端であり
多数が貧困化しているからである、何パーセントの大金持ちがいてあとは貧困化しているのである
そこで暴動でも起きてくる、アメリカという国自体が危機であり格差社会で分断化して崩壊の危機に晒される、それは日本にも波及しているのである
貧困化社会になり暴動が起きる、すでに自分が経験したようにその時モラルは崩壊する
銀行でももうけるためにはなんでもする、だましてでも投資信託などをうりつける
そうしなければ会社を維持できないからである

日本でもそうした貧困者が増えているからことを自覚していない、それは暴動とかならないと自覚しない、だから米騒動のような打ちこわしとか起きる
すでに自分が経験しているように起きている、個々人で起きて全体と波及するのである
その対処方法があるのか?それを深刻に考えないと日本は治安が悪くなり危険な状態になる、だから消費税など上げるべきではない、なにかにやと政府では理屈を言うがそれは嘘なのである
財源はあるが隠している、日本の官僚は財務省でもアメリカの支持に従うというときホンジュラスとにている、でも貧困層はもう我慢ができないから暴動ともなり移民化する
命がけで国を脱出するとなるのだ
人間追い詰められとモラルもなにもなくなる、会社でもそうである、もうけるためには地銀でも投資信託を売りつける
それは社会全般にそうなる、日本は貧困国家にすでになっているのである
ホンジュラスのようにはならないにしてもそれと似たことがこれかたら起きるのである、実際起きているし自分がその被害者だったのである
posted by 天華 at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

常磐高速の鹿島のSAで丸森の人の手作り展 (丸森の猫神のお守りなど売る)


常磐高速の鹿島のSAで丸森の人の手作り展

(丸森の猫神のお守りなど売る)

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養蚕が盛んだったころ、養蚕の大敵のネズミを駆除してくれる「猫」を大切にし「猫神」として祀ってきたようです。
 猫神の全国的な分布を見ると東北地方や長野県など養蚕地帯が多く、その中でも宮城県、さらには丸森町に数多くの猫神が祀られています。
なぜ、丸森町に多いのかまでは分かっていません

猫神巡礼−猫神の碑(30個)


鹿島のSAでいろいろな手作り展が開かれていた、猫の手招きのおもちゃとかあった
あれも面白い、手が動くからだ
それにしてもなぜ丸森町に猫の碑が多いのか?
時代的に天保と弘化とあるからその頃に増えたのかせしれない、50もあるとしたらなんなのだろうか?
養蚕が盛んにしてもそれだけ猫を碑にするのは金もかかるし手間もかかる
その労力をかけてこれだけ猫を石に彫ったからである

その女性は丸森町の金山の人だった、金山には城があり石垣が残っている

築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)頃に相馬氏の家臣井戸川将監によって築かれたと云われる。
丸森・金山・小斎一帯は相馬氏と伊達氏による争いが行われ、永禄9年(1566年)相馬氏がこの辺り一帯を支配し、家臣井戸川将監が金山城を築いて籠もった。

そこの人で相馬市の総合病院に入院していた人と一緒になった
その人がんだちゃといっていた
仙台の人は語尾がだっちゃになり相馬だとんだとなる
それが一緒になってんだちゃになった
その女性もんだちゃと使うという、やはり相馬弁と仙台弁が一緒になってそうなった
方言はやはり一つの文化なのである、訛りは国の手形なことは変わらない
ここには原発事故以後いろいろな人が全国から来た
やはり訛りが違っていたのである
おそらく他でもこうしてなまりがいろいろあるのは人が混じり合うからそうなる
それがまさに文化なのである、ただ東北弁は何か馬鹿にされるので嫌なのだけど
やはり方言は地域性があり面白い、みんな標準語になったら面白くないのである
これから何でも地域的なものをまた発見してゆくようになる
明治以降の中央集権時代は終わったからである

丸森については書いたが魅力ある場所である、森が深いしその森の中に深く踏み入れ出れなくなった恐怖を書いた、実際に今でも森が深いのである
阿武隈川も流れているし蔵王も見えるし景観的にもいいのである
飯館村は森に包まれているにしても川とか高い山がないから今一つ景観的には変化がない丸森は景観的に変化がある
何度も新地の坂を越えて自転車で行ったのである

鶯の夕べ鳴きにきゆるやかに川の流れて丸森暮れぬ

丸森はいろいろ歴史的にも興味ある場所である、相馬藩との歴史もあり興味深い場所なのである
タグ:丸森の猫神