2018年10月18日

登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)


登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した

(奈女加多(行方)が移動している)
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石巻市で発見された真野公の木簡

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古代の行方郡衙の場所は新田川の河口付近、現在の南相馬市原町区泉にある泉廃寺跡と推定されています。また和名類聚抄には「奈女加多(なめかた)郡」とあり、

奈女とあるのは奈女加多(なめかた)郡のことである、ここから真野氏が来たと記してあったとなる

鹿嶋御児神社 石巻市真野
8世紀後半から 9世紀前半にかけ、ヤマト朝廷と蝦夷との間で、桃生城への蝦夷の襲撃を皮切りに38年間の動乱が発生 しました。
ヤマト朝廷が東国蝦夷の地での支配地域を拡大 図る過程で、常陸国・鹿島神宮の末社が政治的な動きを果たしたと言われています。(石巻の歴史 第1巻上)

その末社のひとつが祭神・建御雷神の「鹿島御児神社」でした。 
建御雷神は大国主に国譲りを迫った神です。(古事記) 

古代の石巻地方の中心地は真野である!!

牡鹿郡の中心はどこなのか。石巻市真野が政治的中心地であった可能性が大である。(石巻の歴史 第1巻)。
石巻市田道町遺跡からは延暦11年(792)の年紀を持つ「真野公」と墨書された出挙木簡が発見されているが

承平元年(931)の『和名類聚抄』(わめいるいじゅしょう)に「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」とあります。登米(とよま)郡には2つの郷があって、さらに郷も複数の村で構成されていました。村を里(り)とも呼んでいました。

 止与米や奈女加多は古代中国・漢の時代に文字を輸入したので漢字と言いますが、その文字を日本独自で使い方を考案し、仮名として「止」を「と」、「与」を「よ」、「米」を「ま」と読むようになり、さらにこれを崩して崩して、今の仮名文字が出来たと言われます。この止与米の文字を仮名文字の元字「母字」(ぼじ)と言います。



茨城県の常陸(ひたち)に行方があり福島県の南相馬市の鹿島町に古代の真野郷があり
鹿島御子神社がある
もともと石巻は「みちのくの真野の草原(かやはら)」とされていた
なぜならそこに萱原という地名もあるからだ
それが根拠がないものではない、木簡で真野公と記されたのが発見されたしそれから
奈女(なめ)という字も木簡に記されているがこれは 

「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」

奈女加多であり行方(なめかた)なのである

これは真野氏一団が北上川をさかのぼり移動した、製鉄集団であった
真野氏は渡来人説があり技術集団であり鉄を求めて北上川をさかのぼっていったともなる
いづれにしろ仙台まで行って登米市に行こうとしたがそこで聞いたら登米(とめ)と登米(とよま)があり同じ字でありまぎらわしいと思った
登米(とよま)が古くそこに二万石の伊達氏の城があった
そこに北上川があり米を石巻まで江戸時代に運んでいた
登米(とよま)までのバスは出ている、乗る人がいた、登米市の市役所までは一時間起きにでているが登米(とよま)まではそんなに出ていないから行きずらいのである
ここで混乱して結局今回は行かなかった、次に行ってみよう。




posted by 老鶯 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

秋の夜(仙台まで電車で行く)


秋の夜(仙台まで電車で行く)


ふるさとの墓を守るや柿なりぬ

秋晴れや金華山見え電車行く

東口通りの広く秋の風

新書のページをめくり秋となる

待ち合わせ電車のとまり秋の夜

単線や秋の夜長の待ち合わせ

虫の音や新地にとまる昔かな

月光る切符を入れて無人駅

我が家に帰るもあわれ残る虫


墓を守のが勤めだということもある、誰か知らない人が花をいけたりなぜか大きな梨が置いてありそれが烏に食われていた、誰かが梨をあげたのか?
まず死んでからでもそうして何か上げる人は死んだ人を思っているということである
人間は死ぬともう何の義理もなくなるから関係しないからである
だから何か死んでから墓でも花をさしたり何か供え物をする人は死んだ人を思っているいる人でありありがたいとなる

今日は約半年ぶりで仙台に行った、新地駅から金華山が見えた、秋晴れで見えた
ただ金華山があそこに見えると意識していなと小さいから見えない
新地駅からは晴れたら金華山が見えると意識しているから実際に見えたのである

仙台の東口とかを歩いた、通りはあそこは広い、秋の風がそよぐ
今日は本当は登米の方に行こうとしたが何かめんどうなので行けなかった
電車で行けないのところはめんどうになる、だから電車で行けない所は行っていないところがある、それで自転車でその行けない所に行ったがやはり自転車でも行けない所がある本当は北上川を見たかったのだができなかった
あそこは車でないと行きにくい場所だったのである
だから仙台で駅前をぶらついて買い物して終わりだった

仙台というと新しい本にふれて読むのが新鮮に感じた、しかし今は本は書店で買わない
本というのはその数が膨大なのである、大きな書店でも置いてない本が膨大なのである
古本でも膨大である、だからこんなに本があったということに今になると驚いている
それで本を前より買っている、古本だと安いからである
自分の関心があるのを集めるのにもいい、そういう点では恵まれている時代である
だから書店でも本は売れないことがわかる、あるところは本の売り場極端に縮小していた
丸善が前のように多いが必ずしも書店で必要なものは探せない
郷土史などはインタ−ネットの方が詳しいのである
だから本だけに頼る時代は終わった,書店には一部しか置いてないことがわかたからだ
そして必ずしも目立つものがいいものではない、前はそうして宣伝して売れたが今は必ずしも本は売れない
ネットでの情報もあり本とか雑誌に頼る時代は終わったのである

帰りは4回くらい待ち合わせがあった、前はそんなになかった、どうも6時から7時ころで通勤の人が帰るからなのか4階は多いと思った、単線だからそうなる
鹿島駅についたら月が光っていた
切符は買って切符入れに入れた、やはりごまかすということは良心にはじる
ただ真面目な人が多いと思った、無人駅でもごまかす人はほとんどいない
日本人はそういう点では真面目である

家に帰っても待つ人はいない、なにか家がなくなっているのではないかと不安になる
それは津波以後村ごとなくなったりしたからである
家族もみんな死んだから何か人でも家でもなくなるのではないかという不安がある
旅はずっとしていないけどなにかその気力もなくなったのだけど
また旅したいなとは思う、登米などは行っていないし北上川を見たいということもあるからだ、本当は北上川は自転車で川に沿って走ればいい、そうすれば旅になる
ただそれだけの気力がなくなった、だからいつまでも旅もできるものではなかったのである

それにしても新地駅でいつも遅い時間に帰り3分待ちあわせでとまった
その時ホームに出て歩いた、すると虫が鳴いていた
それが記憶していたが今はそれが7年半も過ぎると昔になったなと思う
あの時は海の方に家並みがあった、海側に近かった
今は海側は真っ暗になっている、もう十年も過ぎたら昔になる
ただ記憶だけになるのである