2018年10月29日

高齢化社会の価値観 (高度成長時代の価値観は終わる―節約の時代に)

高齢化社会の価値観

(高度成長時代の価値観は終わる―節約の時代に)

●デフレは解消しない

飲食店以外でも、ファミリーマートやナチュラルローソンなどコンビニのイートインは、お昼は満席です。

東京の場合は、東京駅(八重洲側)も含め、新宿・渋谷・池袋など大きな駅の周辺は、デフレ系のお店であふれています。お昼の時間帯は、マックや松屋、富士そばなどは満員。行列ができていることもしばしばです


金を使わないのではなくそもそもないのだから使いようがないのである
それだけ日本が貧困化している、低所得者が増えたのである
消費を減らすほかないのである
消費税が10パーセントになったらますます消費は冷え込む
そして消費が増えないのは老人も数パーセントの人だけが余裕があるが後はない
もう破産状態の人がいる、年金も少ないから食べてゆくのがぎりぎりだとかなっている
そして頼る人もいないのである、娘息子でもこのように苦しいからである
老人はまた物が欲しくないとかなり金ある人も消費しないとなるがそれは極わずかでありあとはぎりぎりなのである

これからの時代はだからミニマム生活とか縮小化社会にあった思想とか哲学とかが必要になる、消費者は王様だとか終わりである

●節約の時代にもどる

貧困化する社会にどう対処するのか

●新しい物をなるべく買わない
●今あるものを大事に使う
●金だけではない協力(シェア)しあう経済 

貧乏には貧乏なりの生活を工夫するとなる、そうしなければ生活できなくなる
ただ人間は一旦豊かな生活を覚えるとそのレベルを落とせなくなる
かえってそのことが辛くなる、だから金持ちでも零落すると悲惨なのである
もし貧乏だったらもともと貧乏だからそういうことはない
そういう生活でも満足する他ないとして生活していた
戦前とか江戸時代はみんなそうだったのである
ご飯と味噌汁とか梅干しとか漬物くらいで生活していた
紡績工場で糸取りして働いていた母の昼食がそうだった、それで長時間労働だった
本当に栄養失調になるようて食事で良くそれだけ働けたなと不思議に思う
江戸時代でもオカズがないからご飯を一杯食べていた
ご飯がエネルギー源だったのである、土方弁当などでもそういうことがあった

今は食べ物でも低所得者でもその頃と比べると豊かなのである
だから贅沢になれすぎてそうなったのである
そういう生活を貧乏になると見直すことが強いられる
つまり過去の生活を知って今の生活を見直すという歴史を知ることが必要なのである
便利な時は江戸時代だったらあらゆるものを大事にしたリサイクル社会である
糞尿でも肥料するするとか紙一枚でも無駄にしない、油一滴でも無駄にしない  

ロウソクに火をつけたときに垂れた蝋(ロウ)を捨てるのはもったいないということで、使い終わったロウを集めて、固め直し、再利用し、ロウソクとして販売するという「蝋燭の流れ買い」という仕事が江戸時代にはおこなわれていました。

それだけ物は貴重だったのである

●生活態度を変える

これからは必然的にこうして生活態度を改めないともう生活できなくなっている
それは何か高齢化社会に適合しているのも不思議である
老人になるといろいろ消費できなくなる、新しい機械を買っても利用できないとかなる
それで老人は金を使わないから経済が停滞するというのもわかる
でも新しいものを次々に買うという経済が貧乏化すると成り立たなくなるのだ
次々に新しいものを買う金がない、そうなると今まであるものや物でもすぐに捨てるのではなく長く大事に修理しても使うとなる
そういう生活の態度を変えることが必要になる
それは社会にとって悪いことではない、あまりにも物を粗末にしてきたし消費が浪費になっていたのである
高度成長時代は日本にとっては特別な時代であり異常な時代でもありそれがつづけることは無理だったのである
だから貧困化は正常化にもなる、そうでなくて経済成長しなければ貧乏は解決しないとういのもわかる、でもそれができないとしたらどうするのか?
生活する態度を変えないかぎりもう生活できないとなっているのだ

何かいい方法があればまた別である、株とか投資信託でももうけられる人は極一握りてことがわかった、それよりもう普通の人は大多数は節約するほかなくなる
それしか方法がないからこそ昼食500円以下とかもうそれ以下の300円とかでデフレが改善できないのである
そうしてければ増えた低所得層は生活できないのである
消費を増やせとか言ってもできない、そもそも収入が増えない、減ってもいるとなるとそうするほかないからだ

いい面だと貧乏な人でも米をくれとか隣の人が来たりして助け合うとういことが生まれ来るかもしれない、互いに協力しあうとういことができてくるかもしれない
それは貧乏な時代にはかえってあったし江戸時代で長屋とかではそうだった
互いに都合しあうということが生まれてくるかもしれない、シェア経済とかはそういう時代にあったものいかもしれない、何でも金を使う消費するという経済が続けられなくなってくるからだ、収入が増えてくれば節約する他ないからだ
ただそうはいってもその切り替えがむずかしい、生活のレベルを下げることはむずかしいそこには見栄もあるからしにくいけど切羽詰まったら見栄とかも言っていられなくなる
ただただただ頭を下げて金を要求できる人間とかは生きていけるともなる
そういう人を知っているからそういう人は人に何度も頭を下げて頼むことができるからだでも金持ちの家に生まれたような人はできない、自分もできない
そこで金もないのに依然として見栄をはるがそれも成り立たなくなる

そして怖いのはそうした高いレベルのままの生活をしたいがために借金をしてまでそうしたり見栄のためにそうする人が怖い
そうして借金を要求された経験があるからだ
その人は自分が成功したと見せたいから借金してまで贅沢をしていたのである、そういうことが回りに影響する
みんな余りにも立派な家が欲しいいい車が欲しい、もっともっと贅沢したいとなり原発が誘致されたのもそうである
その欲望には歯止めがないからである
そんな人のために私は恐怖に陥れられた
金のためにそうして脅迫され殺されるようなことにもなる
例えばギャンブルで遊びたい金が欲しいとして襲われたりするのと同じである、それは日々食べるものがないとかではない
ただ遊びたいとか自分は成功者だと見せたいとかのためにそうしている、そのために他者が犠牲になるのが怖いのである

●江戸時代に学ぶ

確かにこうなるとますます物は売れなくなり不景気になるということもある
でも収入が増えないのだからそんなことを庶民は言っていられないのだ
消費税10パーセントになったら余計にそうなる
それに対抗するには節約しかなくなるのである、それからいい方向に行くとしたら
グローバル経済が崩壊してゆく、その兆候は世界で現れている
自国が大事であり他国に頼る経済は衰退する、自国でまず食料でもなんでも例えば木材でも日本では豊富なのだから外国から買うより自国でまかなうとなる

自国の産物を資源を極力活かす江戸時代のような生活にもどるとなる
同じではないにしてもそうした生活をしないかぎりもう日本はそもそも生活できないとなる、それは理屈ではなくそういうふうに強いられているのである
第一アメリカでも日本車に関税をかけてくれば車も売れなくなる
そうなると外国の外材でも買えなくなったりする、他にも外国の資源でも買えない
石油でもそんなに買えなくなる、石油でも高くなるからである
アメリカで車の関税を高くすれば車を売ってドルを得ることもできなくなるからである
石油はドルの決済になっているからである

何か高齢化社会は悪い面ばかり言われるが老人の特徴は消費しないことである
あまりものはいらなくなる、消費できなくなる、そして何かいろいろなものがいらなくなる、節約生活が向いているのである
老人にとって必要なのは物の豊かさではなく精神の豊かさが大事になる
過去に経験したものが宝となり新たに経験することがしにくくなる
だから過去を回想したりすることが得意であり新たに経験することが苦手になる
それは高齢化社会に精神的な状態となるときこれからの貧乏社会には向いているともなるただそうなると日本の活力は停滞するともなり世界に遅れをとるというのもわかる

反面そうしたことがすべて悪く働くとはならないかもしれない
高度成長時代の価値観は普通てはなかったのである、特殊でありそういう社会はもうこない、むしろ江戸時代のような節約型の社会が人間にとって正常な社会だとなる
だからそこでかえって社会が正常化してゆくということもある
だから高齢化社会は悪い面だけが強調されるが反面そうした社会風潮は社会を落ち着いたものにしたりモラル的にも今までの消費一辺倒の無駄な浪費社会を是正することになる
それはモラル的にも相当に影響してくる、それが全部悪いとはならないのである

そしていくらでも今は物が入ってくる、外国からでも入ってくる
それが高度成長前の貧乏とは違う、バナナすら売っていない時代があった
バナナはここで売っていず家族が病気になった時仙台から買ってきたのである
つまりバナナせ贅沢品だったのである、今は果物でもバナナは一番安いのである
果物ではバナナとかリンゴでもこの辺でも梨は安い、すると安いもので間に合わせようとなる、貧乏になればそうなるのである

●高齢化社会の価値観が社会の価値観になる

これからは必然的にこうして生活態度を改めないともう生活できなくなっている
それは何か高齢化社会に適合しているのも不思議である
老人になるといろいろ消費できなくなる、新しい機械を買っても利用できないとかなる
それで老人は金を使わないから経済が停滞するというのもわかる
でも新しいものを次々に買うという経済が貧乏化すると成り立たなくなるのだ
次々に新しいものを買う金がない、そうなると今まであるものや物でもすぐに捨てるのではなく長く大事に修理しても使うとなる
そういう生活の態度を変えることが必要になる
それは社会にとって悪いことではない、あまりにも物を粗末にしてきたし消費が浪費になっていたのである
高度成長時代は日本にとっては特別な時代であり異常な時代でもありそれがつづけることは無理だったのである
だから貧困化は正常化にもなる、そうでなくて経済成長しなければ貧乏は解決しないとういのもわかる、でもそれができないとしたらどうするのか?
生活する態度を変えないかぎりもう生活できないとなっているのだ

何かいい方法があればまた別である、株とか投資信託でももうけられる人は極一握りてことがわかった、それよりもう普通の人は大多数は節約するほかなくなる
それしか方法がないからこそ昼食500円以下とかもうそれ以下の300円とかでデフレが改善できないのである
そうしなければ増えた低所得層は生活できないのである
消費を増やせとか言ってもできない、そもそも収入が増えない、減ってもいるとなると
そうするほかないからだ

確かにこうなるとますます物は売れなくなり不景気になるということもある
でも収入が増えないのだからそんなことを庶民は言っていられないのだ
消費税10パーセントになったら余計にそうなる
それに対抗するには節約しかなくなるのである、それからいい方向に行くとしたら
グローバル経済が崩壊してゆく、その兆候は世界で現れている
自国が大事であり他国に頼る経済は衰退する、自国でまず食料でもなんでも例えば木材でも日本では豊富なのだから外国から買うより自国でまかなうとなる
自国の産物を資源を極力活かす江戸時代のような生活にもどるとなる
同じではないにしてもそうした生活をしないかぎりもう日本はそもそも生活できないとなる、それは理屈ではなくそういうふうに強いられているのである

第一アメリカでも日本車に関税をかけてくれば車も売れなくなる
そうなると外国の外材でも買えなくなったりする、他にも外国の資源でも買えない
石油でもそんなに買えなくなる、石油でも高くなるからである
アメリカで車の関税を高くすれば車を売ってドルを得ることもできなくなるからである
石油はドルの決済になっているからである

●高齢化社会は金で計れない精神的価値を求める時代

何か高齢化社会は悪い面ばかり言われるが老人の特徴は消費しないことである
あまりものはいらなくなる、消費できなくなる、そして何かいろいろなものがいらなくなる、節約生活が向いているのである
老人にとって必要なのは物の豊かさではなく精神の豊かさが大事になる
過去に経験したものが宝となり新たに経験することがしにくくなる
だから過去を回想したりすることが得意であり新たに経験することが苦手になる
それは高齢化社会に精神的な状態となるときこれからの貧乏社会には向いているともなるただそうなると日本の活力は停滞するともなり世界に遅れをとるというのもわかる
反面そうしたことがすべて悪く働くとはならないかもしれない
高度成長時代の価値観は普通てはなかったのである、特殊でありそういう社会はもうこない、むしろ江戸時代のような節約型の社会が人間にとって正常な社会だとなる
だからそこでかえって社会が正常化してゆくということもある
だから高齢化社会は悪い面だけが強調されるが反面そうした社会風潮は社会を落ち着いたものにしたりモラル的にも今までの消費一辺倒の無駄な浪費社会を是正することになる
それはモラル的にも相当に影響してくる、それが全部悪いとはならないのである

これまでは欲は物に集中していた、家電が欲しい、車が欲しい、マイホームが欲しいとかなっていた
でもこれからはそうした物ではない、金では計れない価値が価値を帯びてくる、老人の価値観は変わる
金が必ずしもそんなに価値があるとはならない
何か精神的なものが価値を帯びてくる、老人が過去を回想するというとき過去に経験したことが価値となる
それは物ではないのだ、老人はみんな何かしら過去を語り語り部となり哲学的にも庶民でもなるのである
そしてもともと精神的な価値は見えにくく金になりにくいものだった、そもそも宗教とか哲学とかは心の豊かさは金では計れないものだったからである
その計れないものに価値がでてくる、それはその人の経験とかから生まれてくる価値である

だから農業している女性は冬は土も眠り栄養を貯えるとか何も肥料もやらなくてもいいとか言うのもそうである
冬はふゆ(ふえる)だったのである、その言葉は農民の経験から生まれたものだったのである
農業をしないものはそのことを実感としてわかりにくいからだ
つまりその女性は農業のことを知っているということで価値がある、ただそれで金を要求されるのは問題にしても経験でそういうことを知っているということは価値になる
だから価値にはいろいろある、金だけで計れる価値も基本的にあるとしてもこれからはそれだけではない、金で計れない価値が価値になる、それは高齢化社会ではそうなりやすいのだ
老人が求めるのもは物とかの物欲ではなく精神的なものを求めるからである
時代的にも高度成長時代は終わり精神的なものを求める
宗教とか哲学とか芸術とか何か精神的なものもを求める時代になる、宗教も実際はカルトであり物欲御利益宗教だったがそれも変わる、本来の内面的精神的価値を求める時代になる

江戸時代は停滞した時代のようでも何かを貯えていた
冬にかえって栄養を維持している土のように貯え増やすものがあった、そうでなければとても明治維新などできない
歴史は連続しているから江戸時代に蓄えたものが明治に華開いたともなる、江戸時代に日本の基礎が作られていたからこそ明治維新ができたともなるのである
これからの時代は春とか夏ではなく秋とか冬がふさわしい時代となる、それもまた実りの季節であり蓄える季節となる
そういう時代の循環があるともなる、だから一概にすべてが悪い方向にいくとはかぎらないのである
ただなんらか今までの生活や態度や考え方、価値観とか思想を変えなければならない、高度成長の価値観の延長では成り立たない
銀行だってもう金余りで投資する先がないとなって資本主義の危機だともされる
時代的に資本主義でも変革を強いられているのである






posted by 天華 at 11:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年10月30日

ひきこもりは異常なのか? (異常と正常とは何なのか?文明人はほとんど異常である?)


ひきこもりは異常なのか?

(異常と正常とは何なのか?文明人はほとんど異常である?)


私自身がひきこもりだった、社会不適応者として遂に人生も終わり死ぬとなる
ふりかえれば異常だったともつくづく思う
何かひきこもりとか一旦社会から外れた人は社会の常識がわからないということがある
簡単なことすらわからないままになってしまうことがある
だから社会人として勤めた方がいいとなる

ただでは異常と正常とは何なのか?
たいがい会社勤め?で適応できないものは今は病気にされて排除される
何かしらの病名をつけるのである、この人は病気なのだとして社会で認定して接することになる
それで深層ニュースでもその関係の人が出てきて話する
医療関係者がいろいろ言うということでもわかる

では社会人として勤めている人がすべて正常なのか?
これもわからないのだ、社会に過度に適応している人はかえって異常なのかもしれない
そうして文明そのもの批判するアウトサイダー生まれた
その対比で文明人が過度に今の社会に適応した人は異常だとなる
本当の人間だったら適応できないのが普通だからである
まず全人間として生きるとしたらかえって特別優秀な天才などはもう社会人にはなれない結局社会人として文明人として生きることは無数のパーツとしてしか生きられないのである、そこですでに文明人は異常化しているのである

それは大きな見方としてあるが本当にではひきこもりはまた違ったものでも異常なのかということはわからない
公務員として勤めて夫婦であり子供も成人している人がいた
その人は異常人格者だった、まず人への同情心がない、それは自分の家系とかの問題があるにしろ異常人格者になっていた
それでも世間から見たら極々普通の模範的な人として見られていたのである
何らそこには異常性は見られない、模範的な社会人なのである
でもその人自身も夫婦も異常な夫婦だと見た

何か変だなという人が社会で成功している人にも普通にいるだろう
事業に失敗した人でもそうである、その人は社会的に認められていた人だったからであるでもその人も人のことなど考えない思いやりもないただ成功していることを世間に見せてやるとかしかない異常人格者だったともなる
でも現実に世間ではそう見てないなのである、ただ多額の借金をかかえこんでいることを知ればまた違ったものになるかもしれない。
一応小さな会社でもは社長のような立場になっているからである

例えばこの文明社会に過度に適応して成功している人間、ほめたたえられている人間がもしかしたら異常人格者かもしれない、良くサイコパスとかいるがそういう人が普通にいるのかもしれない、むしろそういう異常人格にでもならないと今の社会では成功しないかもしれないのだ、ナチスとかいたけどなぜそんな信じられないことが社会を席巻したのか?ナチスは何者だったのか?それが一国を導き多数の人を死にいたらしめたのである
異常人格者に導かれてそうなったとするとそれは文明そのものが異常だったとピカートとかの思想家が指摘したのである

何が異常なのか正常なのか?例えば科学者で優秀でもフランケンシュタインのようになる人もいるだろう、科学でも機械マニアとかいてそういう人は社会適応性が欠けている
人付き合いが苦手でもものすごく機械に通じている優秀な人もいるのである
そういう人も育てることが日本では必要だと科学者も言ったりする
でもそういう人も社会的に適応できない異常者にもなる

正直自分も人生を生きて異常だったと思う
ひきこもりの問題はそういう何かアウトサイダーとかの問題ではない、一般化した問題である、それを可能にしたのは豊かな時代であり別に金を稼がなくても生活できるからそうなったのである、それはそういう時代が生んだものなのである
ひきこもりとか異常になるのは「小人閑居して不善を成す」とか必ずなる
つまり社会生活を勤め人として生きられる人はある意味でロボットとして生きられる人だともなる、一方で社会からはずれて生きる人も特別優秀で天才のようて人でないと必ずこうなる、なにかおかしな方向に行ってしまうことがある
もしひきこもりで不善を成さない人がいたらその人は本当に珍しい人だとなる
それは聖人とか天才とか中国だと君主だとかまれにみる人だとなる
別に自分はそういう人ではない、かえって落ちこぼれであり才能もない普通の人間だった

そういうことがあるから普通は社会に適応して真面目に生きろとなる
でも経済的豊かになれば別に食べていければ会社勤めをしなくてもいいからそうなる人が増えるのである、とても貧乏な時代ならできないからだ
とするとそうして余裕を与えられる社会だからそういう人たちがいても寛容であっていいともなるが現実は親の介護になったり死んだり親がいなくなると塗炭の苦しみにあう
それを私はプログで書いてきた

奇妙なことはそこで自分を苦しめたのは社会的には正常そのものの人たちだったのであるその人たちは本当に犯罪者であったり異常人格者だったのである
そのために自分は苦しめられた、恐怖におとしいれられたのである
だからそもそも何が異常なのか正常なのか?それがわからないのだ
一つの大きな目安としてはその人の人格がどうなっているのかである
例えは社長になっているような人でも非情な人がサイコパスのような人がいるとしたら
その人は異常であり異常であっても社会に認められているとなるのだ
そういうことは社会で結構あると思う
一体社会に適応している人たちがそんなにほめたたえられるものなのか?
会社でももうけのためには人の命など考えない人たちが普通にいるしブラック会社などいくらでもいる、原発事故を起こした人たちも社会では地位ある最も優秀とされた人たちなのである、その人たちは社会的地位から何から社会の模範のような人たちだったのであるそういう人たちも異常化していたのではないか?
「安全神話」を形成していたことは異常ではなかったか?

つまり世間を見れば異常が支配者となり異常人格者が指導者になり社会を席巻することは過去にもあり現代文明の複雑怪奇な社会では普通になる
ではその人たちは異常だとか社会から責められることはない、ただ優秀な人たちだとして認められるだけなのである
そういう根本的な問題がある、別にひきこもりがいいとはならない、それも異常である
でもこの社会で何が異常なのか正常なのかわからないのである

デイトレダ―とかパソコンの画面を一日見ている株でもうけている人は成功者なのである銀行でも投資信託をうりつける人はノルマをかせぎ優秀だとなる
何かそうして社会自体が犯罪を犯すようなことをしていても金をかせげば社会は認める
つまり金を稼ぐ人は異常でも何でもない、この社会にとって最高の成功者なのである
それで世界の富を何パーセントかの人が独占している
これも容認されているし異常である、でもそうした異常は正常だとなるのである
資本主義社会では別にどれだけ金を稼げるかによって価値が決まる
人格など問わないのである、それも異常だとならないか?
つまりこの世自体が異常なのである、何が異常か正常なのか区別はできない
だから社会を異常者が指導者になり席巻することにもなる

だから文明人そのものを批判するアウトサイダーが生まれた、文明そのものを断罪したのである、文明は異常だからこそ断罪したのである,非人間的だから断罪したのである
文明そのものがいかに非人間的で危険で異常なのか?
今回の原発事故でも現れた、戦争でもそうである
文明が起こす戦争であり文明そのものに起因する戦争なのである
石油をめぐって戦争になるならそれは石油文明が起こす戦争である
別に石油がなくても生きることはできるからである 
原発は原子力文明になるから起きた事故なのである
戦争のことをいろいろ言うけど本質的には文明による戦争でありそれは異常な文明だからそうなる
資本主義でも株式社会でも異常である、それは一握りの人間に富が独占される仕組みである、それは異常者を指導者として容認する仕組みだともなるのである

ひきこもりを擁護しているわけではないが社会そのものが異常と正常が区別できない
この社会でもっとも模範となる正常な人間が異常だということもありうるのだ
正直東京のような大都会で生きられる人間は異常ではないか?
本来大自然の中で人間の正常な精神とかアイディンティティが養成される
つまり東京のようにな所に生きられる人間はすでに異常なのではないか?
何をアイディンティティでとして生きるのかとなるからだ
すると文明人はほとど以上てありアウトサイダーが正常だともなるのである

ただ正直そういうことはあってもひきこもりは親が介護になったり死ぬと過酷なものになる、誰も助けるものはいない、その時世間は非情であり責めてくる
そのことはプログで書いてきた、一身にその苦しみを背負うことになる
その時社会の非情さをいやというほど実際に知る
それはすでに冷静に見れば予期できることなのである,共倒れにもなり悲惨な事態になった人もでているからだ、だからひきこもりとアウトサイダーは違ったものとしても何かにている面がある、それで関心をもつということはあったからここで書いたのである

我が父の残せしもの (家や土地には歴史が必ずある−老人は語り部になる)


我が父の残せしもの
(家や土地には歴史が必ずある−老人は語り部になる)

kiseruface1.jpg

kkkkkkkkkkletter1.jpg

昭和35年となるけどこれを書いてすぐに死んだのである
何か残したいから書いたとなる

我が父の残せしもの

我が父の葛尾村から出て
双葉の新山の酒屋に
丁稚奉公する
その後暖簾分けしてここに住む
良く縁側で煙管を吸いくつろぐ
楽しみは味噌を焼いたもので
酒の肴にして飲む
高度成長時代の贅沢を知らずして死ぬ
最後に言いしことは
サシミを食えるようになったのに食いたくねえ
病気になりで伏してそういい死ぬ
姉のバナナを仙台に行き買うも
物なき時にあえなく死にぬ
我が跡を継ぎてその苦労を偲ぶ
この土地は街にて悪しき土地なりしも
父の苦労して買いしもの
そこに我は住みえしなり
父死して半世紀ははや過ぎぬ
しかし今になりて父を思いぬ
我がここに住めるは父ありし故なりと・・・・

人間の一生をふりかえればどんな一庶民でも何かを残している
それは自分のことだけではない、必ず親がいるから親の一生も受け継いでいるのである
父のことはあまりにも前のことだから思うことがなかった
ただ自分の家族が全部死んだとき意識するようになったのも不思議である
何か人間はかならず老人になると死ぬ頃になるとこうして自分のことならず家のことでも昔をふりかえるものだと思った
もし家族がもっと早く死んで後継いでいたらもっと早く思っていたかもしれない

自分の家の歴史をふりかえると父が買った土地は低い場所にあり悪い土地だった
低いから洪水が二回あり浸水した、それも床上浸水であり小学校の時の台風では屋根の下まで水につかり家が流されたと思った
その後も堤防の決壊があり床上浸水があった
その後河川改修して川が広くなって水害はなくなったのである
その土地にも歴史がありそこがどういう場所か知るべきだとなる

どうもふりかえると父がなぜ字を覚えたのか?
それは酒屋の丁稚奉公して覚えたのかもしれない、丁稚で帳簿など扱うから教えられたとなる、そういう教育機関としても丁稚があったからだ
どうしても葛尾村のような山で明治になってから教える所があったとは思えないからだ
明治生まれとなると字が書けない人がまだいたのである
母は尋常小学校をでて字は書けていた、つまり大正生まれになるとたいがい尋常小学校をでているから字を読めたし書けた、明治生まれだと字を読めないとか書けないとかの人がいた、大正生まれでもまともに学校に行かない人もいた
子守りして小説を読んで覚えたとうか言う人もいる
日本では江戸時代になると寺小屋でみんな字を習ったり覚えたと限らない、そういう人は恵まれていた人なのである

こうして二代くらいでも家には歴史がある、するとその歴史を偲ぶことにより今生きることがどういうことなのかその意味を知る
この辺でも原発事故で避難した人が多いし若い世代は流出して帰らない
それはまだ家でも歴史がありそれがどういうものか認識しないからかもしれない
第一何代も江戸時代からつづく家系がこの辺には普通にある
先祖の土地は売らないというのはその土地の価値を知っているからである
私自身も今住んでいる土地がどうして得られたのか?
そのことをふりかえって父が苦労して買って手に入れたものだということを今になって意識したのである
それは結局家族が全部死んだからそう意識するようになったのである

先祖代々の田を売るなととなり田分け(たわけ)という言葉が生まれた、それは農業が主なときは土地が一番大事だからである、だから田を売るものは田分け(たわけ)となったのである、ともかくこうして歴史は個々人の家にもありそれを知ることでも歴史の重みを知ることになる、人間は歴史的存在なのである
人間はとても何でも一代では作れないようになっている
代々作られてきたものが歴史なのである
先祖を無視して歴史を無視して今の人間もあり得ないという自覚をもつべきなのである
でもこの辺ではそういうことが土地でも放射能に汚染されて捨てられたのである
そのことの意味は後でふりかえり失敗したとかなるかもしれない、その価値あるものを捨てたことを後悔するかもしれない、歴史がそこでは断たれたということが実は大きな損失だったとか自覚させられるかもしれない、何か歴史というのは時間がかなりたたないと認識できない、50年以上とか過ぎて父のことを回顧しているのもそうである
人間は何が大事なのものかその時々懸命に生きていてもわからないのである
ただふりかえると明瞭に見えてくるものがあるのだ、それは時間がたつことによって見えやすくなるのである、一生でもふりかえればあの時はこうだったのかとかわかりやすくなる、あんなことをしなければよかったとかあうすれば良かったとかみんな後悔しているはそのためなのであ

ともかく現実に今は私の家族で残っているのは自分一人なのである
だから自分一人が墓守りになっているのである
あとは誰も守る者がいないのである
そして過去を語り歴史を語るのが自分の勤めでありみんな老人になると語り部になるのである、つまり郷土史とは一人一人の家でもそうだが先祖や自分の一生を語ることなのである
歴史的価値というとき金で計れないものがある、自分の家はもう金銭的には何の価値もない、他でも空き家が膨大に増える
するとそれも金銭的には価値がない、でもそこに思い出とか歴史がありその価値は子供が受け継げば活きてくる
それを自覚するのはその家の子孫だとなるからだ、子孫がいなくなればその歴史の価値をなくなる
だから歴史的価値は必ずしも金銭的なものに換算されたりできない、でも価値あるものだとなる
つまり精神的価値あるものとしての歴史がある、ただ金銭的に換算されるものだけを見るが精神的価値を受け継ぐことも歴史である
だから遺産相続でもめるのはただ金銭的価値だけを見るからである
でも本当の継承者は精神的価値を受け継ぐ人だともなる、それが見逃されているのである
先祖でもその精神的価値が伝えられるなら喜ぶとなるが金銭的なものだけに換算されると生きている時から嫌だとなる
一方でもし残したものが金銭的なものとして換算されるものだけだったらまたそれは金銭に換算されて終わりだとなる
子孫に美田を残さずというとき精神的価値なら残してもいいとはなる
でもそれが半世紀以上過ぎて私が自覚したようになかなか自覚しにくいのである
そこに歴史の価値を知るむずかしさがあったのである

とにかく人が死ぬとどうなるのか?
これにはいろいろ言うけど死んだら灰になるし骨も残らない、すると人間が死ぬと何なるのか何が残るのか?
それは骨でも灰でもない、その人の物語だとなってしまう、だからこそhistory-storyなのである
人間は死ねば個々人であれ家であれ国でも物語として残されるのが歴史である
死んでも歴史の中で人は生きてゆく、だから歴史上の人物になれば死んでも歴史の中で生きてゆく
大方はただ孫くらいまでは語られるがもうわからなくなる
名前くらいは何とか系譜の中に残ったりするがその人となりも不明となる
ただ郷土史というとき明らかに個々人でもそうだが一軒一軒が歴史である
何かかにその家に伝えるものがある、それが郷土史の基本にある
だから一つの家の歴史が失われることは損失ともなる、それが原発事故の避難区域で起きたのである
歴史の継続が断たれる、限界集落などでも廃墟と化した村がある
そこにはお参りもしない社が残されているのである

墓守りや烏とまりて木守神

墓という物体に本当は故人があるわけではない、実際は故人は物語として残る
なぜなら墓だって永遠ではない、もう跡継ぎがいないとか維持できない
そしたらその物体を守り維持できないのである、残るのはその人の物語であり歴史として残るとなる
posted by 天華 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年10月31日

(秋から冬へ−初時雨)桜井古墳による

  
(秋から冬へ−初時雨)桜井古墳による
                                                  

森の中常行く道や残る虫

我が齢一年老いぬ初時雨

新築の庭の石濡らし初時雨

墓守りや烏とまりて木守神


新築の家建ち並び幾年や秋の日のさしてここになじみぬ

無人駅待つ人あれや秋の薔薇我が見につつくれにけるかな

ゆるやかに雲の流れて我がよりぬ桜井古墳に秋の蝶とぶ  

みちのくの桜井古墳大なりきここを登りて秋となるかな

みちのくの大なる古墳いくつかな海を望みて秋となるかも

耳澄まし桜井古墳に残る虫その音を聞きつ我が帰るかな


季節の変化がおかしい、秋となったがすぐに冬になった、なぜなら今日ははっきりと時雨になった、時雨らしい時雨だったからだ、初時雨になる、時雨は冬の季語である
明日は11月なのだから冬に入ったのである
ただこれまで結構あたたかいから秋という感じになっていた

家でも新しい家が多いけどなじむには時間がかるとなる、農家などはそうして江戸時代から定着しているとかあるから土地になじんでいる
この辺で他の土地から浪江とか小高とか他から移り住んでいる人が増えた
ただ誰が住んでいるかはわからない、もともとここに住んでいた人もいても何か他から来た人たちである、立派な家を建てたのは船主だとういことは原町でもそうだしここでもそうだというのはわかった
その他はわからない、ただこの土地の者でないものかなり住むようになったことは確かである
それで双葉か大熊なのかコンビニ強盗に入ったとか聞いたがそれが本当だとするとやはりそうして原発避難区域から入ってきている人がかなりいる
その人のニュースがあっても後はわからない

無人駅では駅では人が待っている、鉄道だと待つという時間が何か人間的なのである
高速だと待つという感覚がないからである、だから鉄道は車とは相当に違ったものとしてありつづけたのである、そこで出会い別れを演出した歴史ともなっているのだ
だから利便性だけで廃線にしたくないという地元の気持ちはわかる
でもどうにもならない、そんなことでとても残せないからだ

桜井古墳は大きい、こんな大きいものをこの辺で原町で作ったということはこの辺の経済力というか力を示している、桜井古墳は海側にあり海を望んで川も望んでいたとなる
海を望む古墳はあってもみちのくではない、ただ亘理の雷神塚古墳とかでも実際は古墳が作られたときかなり海が入り込んでいたから海側にあった古墳となる
でも今でも海が近く感じられるのはみちのくでは桜井古墳くらいかもしれない、
あそこは散歩の場所としてもいいからたちよる

ともかく初時雨だったけど最近腰をういためた、神経がぴりぴりして痛みがとれなかった一層白髪にもなった、それで体が弱ることが恐怖なのである
自転車に乗れなくなったらもう死んだようになる、それで車の免許を返納した80歳の人が失敗したというときまさに足がなくなることは極端に生活に支障をきたすからである
まず原町まで買い物に自転車で行けなくなったら不便になる
原町は8キロもない所にあるからそれで助かっているのだ

秋から冬なのだけどどうしてまだ秋であり冬という感覚にならなかった
でも明らかに時雨であり冬に入っているのである
ただ秋時雨とはかもあるから季節的には変だなと思うが今日は北風も吹いたし寒かった
やはり冬になっているのである
今家に帰ったら北風が吹いて唸っている、やはり冬になっている