2018年10月17日

abstract river


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River flowing to space


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抽象画は一つのものからいくつにも変化するのが特徴である
これも一つの者から変化したものなのである
それで大量生産になるからいくらでもできるとなる
ただ創造的作業というより機械的作業なのである   


Abstract painting is characterized by changing from one thing to several
This also changed from one thing
So it will be mass production so you can do as much as you want
It's just mechanical work rather than creative work

南相馬市の病院から青森の施設に移される人 (姥捨て山へやられるのか?)


南相馬市の病院から青森の施設に移される人

(姥捨て山へやられるのか?)


その人は南相馬市の病院に入っていた,知的障害者の息子がいてその人が病院に通って
頼まれたものを買って届けていた
その障害者は外見はどこが悪いのかわからない、仕事もしている
でも不思議なのは父親のことを思っている、だから病院に通っている
その父親は別に子供が3人とかいる、でも世話しない
離婚した妻が障害者の母親は常に通って息子をみている
かわいそうだと言っている、その父親は何か離婚されたり子供も世話しないとなると
問題があった

ではなぜ青森の施設に移されるのか?

これはこの辺でめんどうみる施設がない、満員だとは聞いた、それでいわき市とか中通りの施設に入った人は知っている
例えば小高では立派な施設があっても入れない、介護士とかが集まらない
若い人は流出したからである、病院でも看護師がたりないとか苦労している
それでいつまでも病院に置くわけにいかず青森が空いているからと移された

しかしそこには知っている人すらいない、いたとしても青森までは簡単に行けない
最初聞いた時青森は遠いなもう行けないな日本の果てだなとか思った
ただ新幹線があるら二時間で今は行けるとは思った
でもそこで金がかかるからなかなか行けない、そもそも金で苦労しているのだから
行けない、一瞬前の感覚だと流刑地にでも行かされるのかとも思った
青森となるとそれだけ遠いという感覚があったからだ

ともかくなぜ青森なのか?

それは南相馬市だと特に施設が空いていない、特養などは特にあいていない
だから青森であいているからと施設関係者や市の方で相談してそうなった
これはここだけの問題ではない、例えば東京は深刻である
それで東京のある区では伊豆の方に要介護者を移すとかしている
東京ではまかなえない、東京はそうした介護される老人は増える、その数が多いからである、だからこれはここだけの問題ではない
青森だとそもそもそこは職がなく出稼ぎ者が多い地域である

すると介護でも仕事になるとして引き受けるようになったのかもしれない
それにしても青森は一瞬遠すぎると思った
だってそこはなじみがない場であり知り合いとかもいない場である
ただ今の社会は広域化しているからこういうことにもなる
でもそんなに遠くに行くということは何か最後は姥捨て山にやられるのかという心境になるかもしれない,身寄りがないとなるとそうされやすい
ただその人は子供も何人かいるからそういう人でもない
障害者がいて世話できないとかなりそんな遠くに行き死ぬほかないとなるのかもしれないともかく最後になると労力も金もかかる
病院にいつまでも置けない、特養には入れないとなるとそんな遠くで世話されて死ぬほかないとなるのが現実だとなる

昔の消防の話 (消防車がない苦労−火事は恐れられていた)


昔の消防の話

(消防車がない苦労−火事は恐れられていた)

川の土手で休んでいる老人と話した、海老の人で津波の被害は高台にありまねがれた
その人は昔は一軒一軒火の用心と回って歩いたという
良く時代劇で火の用心と江戸の町を歩いている
江戸で一番怖かったのは火事である、でもその時水をかけて消すということはない
ただ延焼をおさえるために家を壊すことであり後はいち早く逃げることが命を救うことである

なぜそうなるのか?それはまず今のように消防車がない、火事は早くいかなければ燃え広がり消せなくなる、いかに早く行くかが問題になる
でも消防車がないのだからリヤカーのようなものに手押しポンプをのせて運ぶ



車がない時代なんでも運ぶこと自体が容易ではない,この辺だとなんとか原町とか相馬氏はリヤカーで梨を運んで売ったという人の話を聞いた
これは信じられないが屋形の人が鰻売りに川俣まで天秤棒をかついで行ったという
鰻は高く売れた、川俣は絹織物で有名だから金がある人がいたからだとなる
それにしてもそれは江戸時代でありイメージもできない、なぜなら八木沢峠は今でも車で超えるにしても難所だからである、今はトンネルができて楽にはなった
ともかく車がない時代はいかに運ぶことに苦労していたかわかる
簡単には運べないとなるとどうするのか? 

近くであるもので生活する他ないとなっていたのだ、自給自足とかになる
ただ炭とかは山の村から運ぶことが必要だったのである
その時馬車が使われていた、馬車だとかなりのものが運べるからである
でも消防のことを考えると今の救急車のように一刻も早く行かないと間に合わない
燃え広がったいて何の役にもたたないとなるのだ

半鐘の打ち鳴らし方を変えて、様々な情報を知らせたのである。
 半鐘の音は公的な信号であるから、その鳴らし方は恣意的ではなく、周知のパターンが定められていた。

 その人もこのことを言っていた、その半鐘で聞き分けていたという
この半鐘は今でもある、小さな部落ごとに今でも残っている
子供の時近くの神社にもあった、でもそういう半鐘はスピーカーのようにはいかない
部落ごとの地区でしか役たたない、そんなに遠くまでひびかないからである

ただその人の話では狭い地域でも火事が恐れられていた
それで毎日欠かさず火の用心に歩いていた、それも一軒一軒回っていて火の用心をよびかけていた、海老でも町となっていたからそこはばらばらに離れてある農家とは違っていた 
とにかく今簡単にできていることが昔は簡単にできない、第一車がないのだから火事だことかけつけるのにも時間がかかる、すると家自体が燃え広がりもう消せないとなる
それは北海道の雄冬とかでも赤ん坊が病気で背負っていくうちに死んでいたとか
飯館村でも病院に行くうちに死んだとかある
つまりその時救急車がないから緊急の場合、死ぬということが江戸時代から普通にあった電話一本で救急車が来るということがいかに恵まれているか昔のことを知らないとそのありがたみがわからないのである、そういうことはいろいろある

いづれにしろ火事は一番田舎でも恐れられていたのである
どこの町でも大火事の歴史があり火事は恐れられていた
地震、雷、火事、親父・・・となるのが日本である
地震には津波もあり恐れられていた

ともかく毎日一軒一軒火の用心と回って歩くのは手間であるがそうしたのは火事が怖いからである、海老でも家が連なっているから一か所火事になると延焼するから怖いのであるそれは一軒だけでくいとめられない、それだけの消防の備えがない、車もないからであるだから今はそういう点ではいかに恵まれているかわからないのである

不思議なのは新聞は配られていたがそれは一日後になる、では速報するには何で知らせたのか?
それはラジオだったとなる、動画は映像は映画館で写していたが蒸気機関車で運んだとすると東京からだと八時間以上かかる
だから二日くらい遅れてニュースが放送される、ただニュースだけを放送するのではない、映画の劇を見る時その前にニュースを写していたのである、その時動画というのは映画館でしか見れなかったのである
速報するのは今だと早い緊急時でも早い、そうであっても津波では遅れた、それは逃げろと放送しても間に合わない
それで逃げ遅れて死んだ人が多い、テレビで逃げろといってもすぐに逃げられるとはならない

だから警告されても津波であれ洪水であれ必ず逃げないで死ぬ人がでてくる
そういうのは日ごろから心がけなのだろう
だから部落で一軒一軒回って火の用心を訴えていれば用心するとなる
だからそういう人的な安全管理も必要だとなるが今はみんな忙しいからできない、それで危機管理ができないともなる
つまり手間でも一軒一軒火の用心と回ることが安全のためにも必要だったとなる
そういうことで防災意識を高めるからである、ただ便利な道具ができたからといって必ずしもそれで防災意識が高まるとは限らない、津波でもそうだったからである



posted by 天華 at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年10月18日

秋の夜(仙台まで電車で行く)


秋の夜(仙台まで電車で行く)


ふるさとの墓を守るや柿なりぬ

秋晴れや金華山見え電車行く

東口通りの広く秋の風

新書のページをめくり秋となる

待ち合わせ電車のとまり秋の夜

単線や秋の夜長の待ち合わせ

虫の音や新地にとまる昔かな

月光る切符を入れて無人駅

我が家に帰るもあわれ残る虫


墓を守のが勤めだということもある、誰か知らない人が花をいけたりなぜか大きな梨が置いてありそれが烏に食われていた、誰かが梨をあげたのか?
まず死んでからでもそうして何か上げる人は死んだ人を思っているということである
人間は死ぬともう何の義理もなくなるから関係しないからである
だから何か死んでから墓でも花をさしたり何か供え物をする人は死んだ人を思っているいる人でありありがたいとなる

今日は約半年ぶりで仙台に行った、新地駅から金華山が見えた、秋晴れで見えた
ただ金華山があそこに見えると意識していなと小さいから見えない
新地駅からは晴れたら金華山が見えると意識しているから実際に見えたのである

仙台の東口とかを歩いた、通りはあそこは広い、秋の風がそよぐ
今日は本当は登米の方に行こうとしたが何かめんどうなので行けなかった
電車で行けないのところはめんどうになる、だから電車で行けない所は行っていないところがある、それで自転車でその行けない所に行ったがやはり自転車でも行けない所がある本当は北上川を見たかったのだができなかった
あそこは車でないと行きにくい場所だったのである
だから仙台で駅前をぶらついて買い物して終わりだった

仙台というと新しい本にふれて読むのが新鮮に感じた、しかし今は本は書店で買わない
本というのはその数が膨大なのである、大きな書店でも置いてない本が膨大なのである
古本でも膨大である、だからこんなに本があったということに今になると驚いている
それで本を前より買っている、古本だと安いからである
自分の関心があるのを集めるのにもいい、そういう点では恵まれている時代である
だから書店でも本は売れないことがわかる、あるところは本の売り場極端に縮小していた
丸善が前のように多いが必ずしも書店で必要なものは探せない
郷土史などはインタ−ネットの方が詳しいのである
だから本だけに頼る時代は終わった,書店には一部しか置いてないことがわかたからだ
そして必ずしも目立つものがいいものではない、前はそうして宣伝して売れたが今は必ずしも本は売れない
ネットでの情報もあり本とか雑誌に頼る時代は終わったのである

帰りは4回くらい待ち合わせがあった、前はそんなになかった、どうも6時から7時ころで通勤の人が帰るからなのか4階は多いと思った、単線だからそうなる
鹿島駅についたら月が光っていた
切符は買って切符入れに入れた、やはりごまかすということは良心にはじる
ただ真面目な人が多いと思った、無人駅でもごまかす人はほとんどいない
日本人はそういう点では真面目である

家に帰っても待つ人はいない、なにか家がなくなっているのではないかと不安になる
それは津波以後村ごとなくなったりしたからである
家族もみんな死んだから何か人でも家でもなくなるのではないかという不安がある
旅はずっとしていないけどなにかその気力もなくなったのだけど
また旅したいなとは思う、登米などは行っていないし北上川を見たいということもあるからだ、本当は北上川は自転車で川に沿って走ればいい、そうすれば旅になる
ただそれだけの気力がなくなった、だからいつまでも旅もできるものではなかったのである

それにしても新地駅でいつも遅い時間に帰り3分待ちあわせでとまった
その時ホームに出て歩いた、すると虫が鳴いていた
それが記憶していたが今はそれが7年半も過ぎると昔になったなと思う
あの時は海の方に家並みがあった、海側に近かった
今は海側は真っ暗になっている、もう十年も過ぎたら昔になる
ただ記憶だけになるのである


登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した (奈女加多(行方)が移動している)


登米市(とめ)の登米(とよま)まで製鉄集団の真野氏が移動した

(奈女加多(行方)が移動している)
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石巻市で発見された真野公の木簡

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古代の行方郡衙の場所は新田川の河口付近、現在の南相馬市原町区泉にある泉廃寺跡と推定されています。また和名類聚抄には「奈女加多(なめかた)郡」とあり、

奈女とあるのは奈女加多(なめかた)郡のことである、ここから真野氏が来たと記してあったとなる

鹿嶋御児神社 石巻市真野
8世紀後半から 9世紀前半にかけ、ヤマト朝廷と蝦夷との間で、桃生城への蝦夷の襲撃を皮切りに38年間の動乱が発生 しました。
ヤマト朝廷が東国蝦夷の地での支配地域を拡大 図る過程で、常陸国・鹿島神宮の末社が政治的な動きを果たしたと言われています。(石巻の歴史 第1巻上)

その末社のひとつが祭神・建御雷神の「鹿島御児神社」でした。 
建御雷神は大国主に国譲りを迫った神です。(古事記) 

古代の石巻地方の中心地は真野である!!

牡鹿郡の中心はどこなのか。石巻市真野が政治的中心地であった可能性が大である。(石巻の歴史 第1巻)。
石巻市田道町遺跡からは延暦11年(792)の年紀を持つ「真野公」と墨書された出挙木簡が発見されているが

承平元年(931)の『和名類聚抄』(わめいるいじゅしょう)に「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」とあります。登米(とよま)郡には2つの郷があって、さらに郷も複数の村で構成されていました。村を里(り)とも呼んでいました。

 止与米や奈女加多は古代中国・漢の時代に文字を輸入したので漢字と言いますが、その文字を日本独自で使い方を考案し、仮名として「止」を「と」、「与」を「よ」、「米」を「ま」と読むようになり、さらにこれを崩して崩して、今の仮名文字が出来たと言われます。この止与米の文字を仮名文字の元字「母字」(ぼじ)と言います。



茨城県の常陸(ひたち)に行方があり福島県の南相馬市の鹿島町に古代の真野郷があり
鹿島御子神社がある
もともと石巻は「みちのくの真野の草原(かやはら)」とされていた
なぜならそこに萱原という地名もあるからだ
それが根拠がないものではない、木簡で真野公と記されたのが発見されたしそれから
奈女(なめ)という字も木簡に記されているがこれは 

「登米郡は、登米・行方の二郷あり、登米は止与米・行方は奈女加多と訓む」

奈女加多であり行方(なめかた)なのである

これは真野氏一団が北上川をさかのぼり移動した、製鉄集団であった
真野氏は渡来人説があり技術集団であり鉄を求めて北上川をさかのぼっていったともなる
いづれにしろ仙台まで行って登米市に行こうとしたがそこで聞いたら登米(とめ)と登米(とよま)があり同じ字でありまぎらわしいと思った
登米(とよま)が古くそこに二万石の伊達氏の城があった
そこに北上川があり米を石巻まで江戸時代に運んでいた
登米(とよま)までのバスは出ている、乗る人がいた、登米市の市役所までは一時間起きにでているが登米(とよま)まではそんなに出ていないから行きずらいのである
ここで混乱して結局今回は行かなかった、次に行ってみよう。




posted by 天華 at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年10月19日

原発事故と地銀がすすめる投資信託はにていた (リスクを言わない、説明もしない、実際はわかっていないのにすすめる)


原発事故と地銀がすすめる投資信託はにていた

(リスクを言わない、説明もしない、実際はわかっていないのにすすめる

科学者はメルトダウンしたことを知っていた→でも嘘ついた

銀行は投資信託をがもうからないことを知っている→でもすすめる

それはなんのためなのか?

利益が出るからである、御用学者でも利益が得られるからである

知っていて嘘をつく、それは利益がえられるからである
それは科学者や技術者の良心に関係している

武田邦彦氏がyoutubeでそういっている

何が犯罪になるかというと知っていて意図的にそれが悪いとしてもすすめる
もし知らないでしていたら犯罪にならない
盗むにしてもこれを盗むということを意図して意識していれば犯罪になる

でも意図せずして盗むことがあるのか?

それはむずかしいのだけどある人がコンビニでいろいろ苦しみ悩んでいるとき週刊誌をみていてうっかりパンをポケットに入れてしまったのである
その人は全く意識していない、第一その時その人が多額の金を盗られたのである
だからパン一つくらいならどうでもいいと思うがもし意図して盗めば犯罪になる
でも外から見てその人は確実に盗んだとしかみえないのである
それでもその人には盗む意志は全くなかったのである、意識も意図もしないでいろいろ苦しみ悩んでいてそれで週刊誌を読んでいて注意がそっちに向いて意識せずにポケットに入れていたのである、それは防犯カメラに映っていたのである

だから意図しない意識しない犯罪がある,それは殺人だってあるかもしれない、思わず意識せずに事故のように起きる犯罪もある、だからつくづく人間の問題は犯罪でも複雑なのである、知的障碍者とか精神障碍者が犯罪を犯しても罪にならないのはそのためである
罪の意識ももてないからそうなる

では科学者はどうかとなると科学者は素人より科学について知っている、知っていて嘘をつく、原子力とか核になると素人はわかりにくいからそこで嘘をつく、でも科学者は知っていて嘘つくから犯罪になる
私はそんなことを知りませんよ、そうならまた原子力の専門家として失格だともなるからだ、そんな人がなぜ原子力を扱っているのだと責められることになる
知らないならそんな危険なものを扱うなとなるからだ

銀行でも銀行員が説明もしないで株がリーマショックの時買ったのを元にもどしたとき投資信託に回した、説明しないで投資信託に回した
その時私は営業の人はプロですからまかせてくださいと言ったからまかせたのである
でも実際は投資信託を売り手数料を確実にとるためにそっちに回したのである

投資信託を売れば確実に利益になる、投資信託は損することが多いがそれを言わない
それで今はやりのを買わせる、その時はもうもうからないのである
今株が上がっているとき売る理由がない、説明もしない
そのことで説明責任が問われて実際に裁判にもなったのである
医療でも一応説明責任が必要なのである、だから手術の時などしている

原発でも同じである、安全、安全といい私たちはプロですからまかせてください
絶対百パーセント事故は起こりませんと言ってリスクのことは一切言わない
それは銀行より悪質だとなる、なぜなら銀行では一応リスクのことはあいまいだが言うからである、また素人でもある程度わからないにしろ株はリスクはともなうことは知っている、でも私の場合はいろいろ他にすることがあり調べられないから銀行にまかせたのである
人間は何でも知りえようがないしできないからプロにまかせる
ところがそのプロは一切責任はとらないのである
それは原発関係者でも銀行でも同じである、銀行は確実に手数料はとりますがあとはリスクがあっても一切責任は頼んだ人がとるのである

百パーセント安全ですよ、ではそれで責任をとりますかとなる
今回の原発訴訟でも誰もとらない、百パーセント安全だということの責任をとらない
責任をもって百パーセント安全だと言ったじゃないですか?
その責任はどうするのですか?そうならリスクはありますと最初から言えば良かったのである、そのリスクを納得してもらい利益を供与しますからは言えばよかったのである
だから事故になっても何の備えもなく一番危険な山側に避難させたのである

要するに地銀の支店長も株のことはわからないと言っていた
ではなぜ知らないことをすすめるのか?
一方で営業の銀行員は私は金融のプロですからまかせてくださいと言わせているのか?
地銀で営業している人はそう言っている
その人たち原発関係者と同じ共犯なのである

だから原発は核のことは本当は科学者も全部はわかっていないからリスクがある
それを安全だとしか言わない、知っていて今度はメルトダウンしてもしないとか事故後も科学者は嘘をついている
もし事故が起きたら責任はどうするのですか?
死刑になりますよとかなれば軽々しくは原発を作れなくなるのである
最初からそれだけの覚悟が必要になるからである
そもそも今回のように幹部でも誰も責任をとらないからまた原発をはじめることになる
死刑になるら科学者でも自分はかかわりたくないとなるからだ

オウムの事件で何の理由をつけても人を殺したらあなたたちも殺されますよという覚悟で人を殺すならいい、でもそういう覚悟がないのに何かその時の調子で安易に人を殺した
そして死刑になったのである、死刑という責任を負ったときその重大さを重い責任を自覚したのである、責任が自覚されないからこそそういうことをしたともなり死刑になってはじめて自分たちのしたことの重大さを意識して反省したとなる

原発はこれだけ被害があったのに誰も責任をとらないからまた同じように原発を再開するそれは責任をとらないからである、もし誰か責任をとらされて死刑になったら誰も科学者でもかかわりたくないと断るようになる
東電でも社員でも一切責任はとらないし損したことはないのである
みんな税金の負担で賠償していて東電は何の痛みもないとなるからだ

いづれにしろ科学者でも知らないことをすべきではないとなる、また地元の人でも知らないことを安易に利益になるからと原発を積極的に誘致したのは責任があったとなる

知らないことはやるな!

それは科学者でもそうだし株でも投資信託でもそうだったともなる
知らないことがやる奴は悪い責任があるとなる
投資信託など仕組みが複雑でわからないからだ
それでだまされやすい商品なのである、だからこそ銀行側でもすすめているのである
相手が客が知らないということですすめる商売は今の世の中複雑だから多いのである
株は経験のないわからない人はやるなというのもわかる
そこで痛い目にあっても自己責任にされるからである 



posted by 天華 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年10月20日

責任をとらされる人が一番真剣になる (責任をとらない人は信用できない)


責任をとらされる人が一番真剣になる

(責任をとらない人は信用できない)


原発は安全ですよ、百パーセント安全です

では事故になったら責任とりますか?

誰もとらない

地元の人は責任をとらされる



投資信託はもうかりますか?

もうかります

責任はとりますか?

とりません、手数料だけはもらいます

責任は頼んだ人がとるんです


結局人間は責任がつきまとっている、生まれたときから何か責任を果たすためにカルマを果たすために生まれて来たのかともなる
責任をとらないものは無責任になる、だからこそ百パーセント安全だというが事故になったからと誰も責任はとらない、そして地元の人が責任をとらされた
故郷に住めなくなった、では地元の人に責任がないのか?
それはあるにしろないにしろ誰かが責任をとらされるのである

責任を取らされる人が最も真剣になるべき

責任をとらない人は真剣にはならない、どうせ事故を起きても責任をとる必要はない
東電では社員が月給が減ったわけでもない、みんな税金で補償金を払っている
痛みもないのである、そして責任を負わされたのは地元の人だったのである
だから責任を負わされる人こそ真剣に対処する必要があった

百パーセント事故はないですよといくら政府とか官僚とかマスコミとかが学者が言ってもその人たちは責任はとらない、罰せられることもないからである
地元の人たちは故郷に住めないという罰を与えられた、責任をとらされたからである

銀行の投資信託でもそうである、その仕組みはわかりにくいから理解できない
それを銀行がすすめる、銀行は信用できると思いまかせる
でも損したからと責任は一切とらない
とらされるのは頼んだ人なのである
そうしたら一番真剣になるべきは頼んだ方なのである
銀行は別に損することは絶対ない、責任はとらないからだ
そもそも株とか投資信託でも銀行は知らないのにすすめている
でも銀行が知らないとか関係なく頼んだ人は責任はとらされる
そしたら株でも投資信託でも頼んだ人が責任をとる
損してもあなたの責任ですよとなる
だから知らないですまされない、知らないのならやるなとなっていたのである

原発だってそうである、政府とか官僚とか御用学者とかマスコミが安全神話を作った
でも事故になったからと誰も責任はとらない
責任をとらないからこそ100パーセント安全ですよとか安全神話を作ったのである
もし事故になったら死刑になりますよとなったら誰もかかわらないだろう
もう真剣に命がけでやるから安全にも万全を期するとなる
そうしたとしても人間のやることにミスがあるから百パーセント安全だということはありえないのである
万一が必ずあるからだ、何が起きるかわからないのが人間社会だからである

ただ事故が起きてからはもう地元の人はそれを知ったのだから今度は確実に事故が起きても補償はされない、福島の原発事故の被害を知ったからである
こういうふうになるけど作ってもいいですかとなっているからだ
リスクを覚悟で地元に作らせたとなり補償はないとなる

いづれにしろいくら政府でも官僚でも学者でも技術者でもマスコミでも安全だと言っても責任はとらないということがわかった
戦争でも同じ構図だった、国民に戦争をさせたのはそうした指導する人たちだった
でも国民は戦争に熱狂していたというときまた国民にも責任があったし
現実に3百万人の国民が死んで責任をとらされたとなる
それを承知で戦争に国民が参加したのかとなるが必ず責任はとらされる

だから民主主義社会ではそうして国民が主権者なら情報でも開示させて納得させる
説明責任があり秘密主義になってはならないのである
原発のことはわからないといっても説明はされるべきなのである
何かあっても秘密のベールに原発はおおわれていて御用学者が安全を言う
素人は何も言うなという、でもその人たちが責任を負うならいい
責任をとらないとしたら地元の人が戦争では国民が責任を負うことになるから知らないですまされないのである
それは投資信託でも同じだった、知らないではすまされなかったのである

知らないならやるな

こうもなっていたのである、そして知らないですまされなくなる、責任は必ずとらされたとなるのである
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南相馬市の原町の泉官衙跡から発見された木簡の嶋□をたどる (宮城県小田郡嶋田郷なのか?)


南相馬市の原町の泉官衙跡から発見された木簡の嶋□をたどる

(宮城県小田郡嶋田郷なのか?)

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大崎平野の江合川のラインの南岸が前方後円墳の北限と考えていいです。
つまり古墳時代半ばの5世紀までにヤマト王権の影響力が及んだ範囲は、江合川までといえるのです。



 オモテ面には貢進者である「嶋□郷□□里」(地名)の「□□白人」(人名)という名が記されており、裏面には、ほとんど判読できないが、進上された物品の種類や量が記されていたものと思われる。

ここにも確かに郡衙があった。ではこの嶋□郷 □□白人とは何を意味しているのか、□□里は久慈郡に真野里あったように草原というのも真野郷草原里だったかもしれない、里は文献にのらなくてもかなりあったのだ。それが地名として残っているかもしれない、原町に郷としてなくても大田とあればここでは大田里になったのかもしれない、久慈郡に真野郷があり真野里があった。同じ郡内にあったとすると真野という広がりが各地にあったのか不明である。

神護景雲三年
十一月二十五日 陸奥国牡鹿郡の俘囚、少初位上・勲七等の大伴部押人が次のように言上した。
 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草郡片岡里の人ということです。昔、先祖の大伴部直が蝦夷征伐の時、陸奥国小田郡嶋田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天下を治められるめぐり合わせとなり、優れた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。
これを許可した。

この人は遠田郡の人である。遠田郡の隣の登米郡に行方郷があったからこれは明らかに相馬の行方郡の人が移動したのだ。黄金がとれたのは遠田郡の小田である。その小田に嶋田村があったということは泉廃寺跡の嶋□郷は嶋田かもしれない、その他遠田郡には真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓された。こう考えると嶋□郷は嶋田郷であり□□白人は高麗白人かもしれない、高麗福信という人がいたからだ。つまり製鉄や黄金をとる人々が渡来人中心にして移動してきたのだ。



嶋田神社−神八井耳命(奈良)

神武天皇の子の神八井耳命について、意冨臣・道奥石城国造等の祖と記されており、石城国造は皇別で多臣の一族という系譜を持つことになります。

神武天皇−神八井耳命の系統に嶋田神社がありそれが陸奥の真野郷に関係していた
嶋田郷とするとここから出ているからである
多(おお)氏は渡来人とされ神武天皇の系譜にあり大和朝廷の統一の大きな力となった

日本国統一大和王権の成立前には日本には国がない、すると渡来人でも自由に入ってきたそれが後に蝦夷(えみし)となって大和王権に対立するようになった
ともかく蝦夷というのは異民族という感覚になる、大和王権が成立した奈良辺りには規制の勢力が存在して渡来人は入りにくかった
でも蝦夷の地域は入りやすかったとかなるし移民として開墾に従事させられたということがある、もともと日本の原住民は縄文人でありそれに異民族の渡来人が入りその渡来人でも日本で二分化したのである

東(あづま)の国の陸奥(みちのく)の小田なる山に 
    金ありと奏(まう)し賜へれ御心を明らめ賜ひ 
    
すめろきの御代栄えむと東(あづま)なる陸奥山に金(くがね)花咲く 

  天平感宝元年五月の十二日、越中国の守の館にて、 
  大伴宿禰家持がよめる。
  
小田郡は後に遠田郡となる、その遠田郡に真野公遠田郡で真野公営山47人が賜姓されたその小田郡に嶋田郷があること、そして石巻に真野公と記された木簡が発見されたこと
北上川をさかのぼり登米(とよま)に奈女(なめ)が行方(なめかた)郷があったことなど産鉄族の真野氏の移動があった、真野氏も渡来人だとされている
製鉄関係では渡来人が技術者であり深くかかわっていたからである
そして前方後円墳の北限が今の小牛田の京銭塚古墳だとするときその辺は大和王権に組み入れられた、それは史書に記されているから歴史としても中央で把握していたのである

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この大伴家持が陸奥に実際に来たのかどうかは不明である
ただ笠女郎(かさのいらつめ)は家持に恋して慕っていた

陸奥(みちのく)の真野の草原(かやはら)遠けども面影にして見ゆといふものを
(笠女郎)

ではこれが一体どこなのか?それを考察してきた
南相馬市の鹿島区には真野郷という古代郷名がある、でも石巻の真野には真野という地名があっても古代の郷名としては記されていない,とはいか真野公という木簡が発見されたし萱原という地名もある、江戸時代から石巻の真野の萱原がその場所とされていたのである、それには何か根拠があってそうなっていた
南相馬市の鹿島区の真野は最近になって発掘があり金銅双魚佩などが発見されてここが真野の草原だということが言われるようになった
ただそれは確定されたものではない、鉄道だと石巻線で涌谷がありそこから砂金がでた
天平という字も発見された、桃生郡からは貞観という碑が残っている
多賀城が陸奥への蝦夷の平定の最前線基地としてあった

ただ間違いないことは草原−萱原はカヤハラは萱が茂っている場ではない、地名なのである,第一日本の古代はその頃は一面がどこでも萱原の景色でありそんなもの珍しくもないのである、だからわざわざ萱が茂っている所だと面影に見ることはないのである
ただ慕う人を真野の草原という遠い地に行っても面影に見えますよということである
それは大伴家持のことなのである

そもそも笠女郎の笠は渡来人であり沙弥満誓の娘なのである
ともかく古代史では大和王権統一の過程には渡来人が深くかかわっていたのである
大和王権ではそうした渡来人を陸奥に移動させた入植させたのである
それは製鉄の技術者であったからだ、湧谷の小田で砂金がとれたというときもその砂金をとる技術をもっていたのは渡来人だったからである

奈良の都で聖武天皇が大仏建立を進めていた時のこと、鋳造は終わったが表面に鍍金する黄金が不足して、その完成がおぼつかなくなり、天皇が日夜悩んでいた天平二十一年、陸奥守であった百済王敬福が陸奥国小田郡で、我が国で初めて産出された黄金九百両を献上した。天皇は大いに喜び、敬福を従五位上から一躍七階級昇進させて従三位に任じ、宮内卿とし河内守を兼ねさせ、河内国交野郡内にも広大な土地を与えた。現在枚方市域にある百済寺跡や百済王神社は、こうして交野に営まれた百済王家の居館群の跡をとどめるものである。

百済の王家の出に連なる者だがその前は伽耶国があり伽耶は百済に併合された
伽耶からはツノガノアラシトが日本に入ってきた、これは伝説的人物だがその足跡は津軽まで記していた、なぜならツノガノアラシトのツノガとは敦賀(つるが)とか津軽はなまったものである、そして相馬藩内に荒氏が多いというときその系統のものなのである
伽耶(かや)の系統はあとで消されて歴史から消された、それでその系統の神社が祭られていたがそれも不明になった
相馬市の松川浦の津波からも残った津神社はつのみつ神社も渡来系の産鉄族のツノガノアラシト系統だったのである、ただそれは不明にされてその出自が隠されたのである

ただ真野の草原がどこかというと小牛田とか湧谷の小田とか桃生郡とか石巻の真野の萱原とかは大和王権に服した地域でありだから真野の草原は石巻だと遠いとなるがそこが湧谷とか桃生郡とか小牛田の京銭塚古墳とか前方後円墳の北限となっていることでもその線が丁度大和王権に服した地域ということで史書にも記されているから遠いとあるがありえないことではない、ただ多賀城の更に北になりそんなに遠くではありえないとういのもわかる 
距離からするとどうしても南相馬市の真野郷の草原なのかとなるがここには地名がないのでそれで確定しないのである

posted by 天華 at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年10月21日

「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む (大学とは学問とは何なのか)


「文系学部廃止の衝撃」吉田俊哉を読む

(大学とは学問とは何なのか)

大学とは何なのか?戦前はエリート養成の大学であり何か大学とは何かとか悩む必要がなかった、そこでは自ずとエリートとして見られているし自覚が芽生えた
そして寮歌などう歌いエリートとしての青春を謳歌したのである

 デカンショデカンショで半年暮らす アヨイヨイ 

 あとの半年ねて暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ

こんな生活が大学ではできた、今でも文系は勉強しない,何か勉強することが大学では嫌われていたというのも不思議である
大学でとまどうのはまず授業に出なくてもいいということだった
高校だと毎日嫌でも授業に出るから勉強嫌いになった、勉強するのは自主的にするのではないただ試験だとか受験のためである、何か興味のためでもなかった
せめて興味のためだったら良かったそういう余裕もないのである
だから何か高校までは自主的に考えて何かを追求することがなかった

そもそも学問のはじまりは二つある、学ぶとはまねることである、暗記することでもあるこの二つが高校までは中心になる、そしてあとは試験のためであり受験勉強なのである
だから純粋に学ぶということがない、でももともと学問は問うということがはじまりである、なぜか?この疑問から始まっている
そこに学問のはじまりがありその疑問を解決するために学問があり学ぶのである
だからギリシャからはじまった西洋の学問は文明は最初は理系とか文系とかの区別はない哲学であった、世界の成り立ちを物質でもなんでも探求する哲学になる
そこから今の原子論がうまれた、自然を構成する分割できないもの原子がアトムから自然は成り立っているとかなる
それを哲学的に考察して科学へと発展していったのである

ともかく人間は何するにしても疑問がとめどもなく無数にある、作物を育てるのにも種をまいても良く育たないということが普通にある、するどなぜなのか?
その疑問が必ず生じてくる、それは肥料だとか水の問題とかある、果物が育つのはかえって福島ならそこは扇状地で砂礫であり水はけがいいから桃がうまいものができたとかなるその土壌に適した作物が必ずありそれがブランド品になる
自然のどういう作用で果物でも野菜でもとれるのかわかる
その土地とか風土と密接に関係しているのである
それは学問として発達すれば農学となり化学とも関係してくる
それは理系だと今はなる、理系はどちらかというと実学なのである

ピタゴラスの定理だとどうしても屋根を作るために必要なものとして解かねばならない難問だった、それが解かれたことにより屋根を作るのが容易になったのである
ギリシャにはそうして学問の発祥の地としてあった
実用としてその謎を解くということが学問のはじまりである
それは理系だと今ではなる、ただ不思議なのは建築に興味がある、では建築でもただ機能的に現代的な高層ビルを建てる技術はある、それだけ発展した技術はある

でもそこにピラミッドやギリシャの神殿やゴシックの大聖堂やモスクでも何か精神性を感じるのかというと感じない、だからシュペングラーが数から分析して高度な数学として文明の建築を見た、その精神性を付与するとなると何かそこには文系の眼が必要になる
そもそせ宗教的建造物はそうした精神性がないとしたらただ摩天楼のように高いだけなら意味がない、そこは祈りの空間として意味をもてっいるからである
ただ大きいというだけただ高いというだけの建築には意味がない、精神性がない、ナチスの時にやたら大きな建物が建てられたという時精神性がないからそうなった
ただ大きいだけでは意味がない、その建築が作られるのにも人間の精神性が付与されてはじめて魂を入れたとなる

そもそも学問のはじまりは深刻な疑問に答えることだった
そして最も深刻な疑問はなぜ人間が死ぬのか?
このことが一番の疑問でありそれに答えるものとして宗教も生まれる
なぜ病気になるのかということでもそれに答えていたのは宗教である
結局加持祈祷するほかないから小さな地区でも村でも必ず山伏が法印がいたのである
しかし本当は人間の最大の問題は人間が死ぬということである
その最大の問いに答えるもでなければ宗教もありえない、その答えを出したのはキリストだけだったとなる、永遠の命は人間に宿る、人間は死ない御霊が与えられている
それが信仰の基になったのである

だから大学はもともと修道院とか寺が学問の場であり求道心がある人たちが集まった場所である、大学は中世では神学と法学と医学しかない、法学となると最古の法典としてハムラビ法典がありローマ法がある、西洋の学問が法から成り立つというとき聖書でも信仰は神との契約だというときその契約は法律用語である
日本人に法になじみにくいが仏教でも寺は求道の場であり修行の場だから同じたったのである

そもそも寺子屋があったとしてそこで実業を教えていた、読み書きそろばんを教えていた
それは寺というのがもともと修行の場であり宗教施設である
そこから派生して実業の寺小屋が生まれた
ヨ−ロッパでも修道院が修行の場でありまた様々な実業の場としてもあった、パン作りとか葡萄酒を作るとか菓子作りもして有名な修道院もあった、日本では沢庵和尚となれば沢庵を発明したからである

そもそも大学とは何なのか?
これがわからなくなった、起源をたどれば宗教から派生したものとしてもろもろの学問があり元は神学が主な教科だった
だから大学というのは医学があるとしたらそれは実業としてあった、でも神学となると実業ではない
大学が現代では実業を身につけるものとしてある時それは理系になる、工学系とかでは機械を作るとけであり農学系だと農業技術を学ぶ所であり医学系だと化学とかなる
それが理系であり理系は社会に役にたつとなり文系はいらないとなる、でも大学とかはもともと宗教から派生したものだから実業とは違うものだった
もし大学は実業だけの場だったら職人のように訓練すればいい場所となる、その職につくための訓練をする場だとなる
大学というとき大きく学ぶだからそうした特定された専門の技術を習得する場だけではない、人間として人格を作るとかある
そうなると幅広い教養とか文学などでも学ぶ、そういう場所が大学だったとなる

実際に大学というと仏教でもキリスト教でも宗教系が多いのでもわかる、大学は依然として宗教から派生したものとしての名残を残しているのである
大学とは何か?それは「人間を作る場所」だともなる
何か専門の実業だけではない人間として広く学ぶ場であり人格を作る場所である、だからそこに遊戯も必要でありスポーツも必要であり様々なクラブも必要でありそこで幅広い人間を養成することである、だから大学は人生とか社会全般のことを考える場所でもある、専門技術を習得するだけではない、そのために自由時間が与えられている
ただ自分の場合はカルト教団に入ったから奇妙だけどそこは宗教として求道の場所だったが全く違っていたのである

いづれにしろ大学と高校はあまりにも違いすぎるのである
自由時間がふんだんに与えられているがそれにとまどうのであるそれで変な方向に行く人もでてくる
大学が遊戯の場だというとき本当に遊びの場となってしまう人もいる、毎日麻雀していたり何か怠惰になり遊びほうける場所にもなる、そういう時間を浪費する場にもなる
それで大学は特に文系はそうなるから無駄だとされる
理系は専門技術の習得があり就職もしやすいが文系は社会に出ても何らそうした技術を習得していないから役にたたないとなるのだ
そして不思議なのは大学で遊ぶことを覚えるとまともな職業人になりにくくなる
授業にも出ない、時間にはルーズになる、毎日時間通りに会社に行き勤めるということがしにくくなる
でも実際は団塊の世代でも学生運動した人たちもみんな就職して企業戦士になったのである
自分のようにアウトローとかになった人は本当にまれである
今ならニートとか普通にいるがその時はいない、そんな人いないから誰も話題にもしなかったのである
だから自分にはそのことが理解できないのである

今のようにニートとかもっといても良かったと思う、そんなにみんなが猛烈な企業戦士とかになる必要がなかったと思う
大学で自由な遊びを覚えた人がみんなそうなることが理解できなかったのである
ただそこには時代があり就職もみんなできたしそういう時代だったとなる
そうして正規のルートからはずれた人は本当にまれだった、みんなその時は正社員になれて会社に入れば安泰だとなっていたからである、でもほとんどの人は企業戦士になる必要はなかったと今では思う
そもそも大学は職業人だけではない何か自由人を作る場所でもあったからだ
だからみんな猛烈な企業戦士になったということはもしかしたら大学の趣旨に反するものだったともなる
もっと自由人を出す所が大学だったともなるからだ

2018年10月22日

抽象画(ヒマラヤ) Abstract picture (Himalaya)


抽象画(ヒマラヤ)

Abstract picture (Himalaya)

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from autumn to winter




抽象画がいくらでもできるぎはなぜか?

元になる絵がインタ−ネットでいくらでもあるからだ

ただそれを変化させれば何か抽象画になってくる 

今回は中国のサイトの抽象画を変化させた

中国というと広いからそこには才能がある人がいる

やはり中国の歴史的なものが表現されるともなる

まず抽象画が無限の変化である

一つ作ったらまたそこから変化させて抽象画ができる 

だから無限に抽象画ができるとなる


Why can you have as many abstract pictures as you can?

Because there are as many original pictures on the Internet

Just changing it will become an abstract picture

This time I changed the abstract picture of Chinese site

There is a person who has talent there because it is wider than China

As a matter of course, historical things in China will be expressed

The abstract picture is an infinite change first

If you make one, you can change it from there to create an abstract picture

So it will be possible to create abstract images indefinitely