2018年10月05日

長寿大国 日本と「下流老人」森亮太を読む (手厚い治療や延命治療はできない、国にもその金はない)


長寿大国 日本と「下流老人」森亮太を読む

(手厚い治療や延命治療はできない、国にもその金はない)

この本は医者が書いたものである、医者から見てもう手厚い治療が限界だとしている
老人はもうそんなに医者にかかったり介護で手厚くしたりできない
老人はもうある程度諦観する、あきらめることが必要だとしている
それは結局老人にもうこれだけ増えてくると金も使えないし労働力も使えないとか限界にきているからである
日本人は病院好きだとか薬好きだとかそれで無駄な金が使われる
老人の病気は老化もありなかなか完治はしないから無駄に検査したり治療したり薬を飲んでも治らない、だからある程度あきらめるべきだという
そういうことは感じる、金もないのに仙台の医者に行き次は東京の医院で高度なMRIで写真をとる、それが必要だったのか?

今は医者だと高度な機械を設置しないと患者が来ない
そのためにまた医者でも金がかかる、するとそのために東京だけではたりなくて全国から患者を呼ぶということも必要になるのかもしれない、大学の関係で患者を呼び込むとういこともしているのかもしれない、つまり医者の方でも金がかかる
患者の方でも金がかかるのが現代の治療なのである
先進医療となるとさらに金がかかる、でも病気になるとどうしても金を節約できないのである、それで破産した老人の例を出している
そのことは他でも良く聞くことである、癌になるとかするとたちまち一千万単位で金がなくなったりする、それで老後破産になったりする
貯金が退職金をふくめてかなりあってもそうなっている
それはなぜなのか?

どうしても60以降は思いがけないことが起きやすいのである
その一番の思いががけないことが病気なのである
なんらか60以降は病気になりやすいのである、それから親の介護に直面することが多い私の場合もその二つが同時に来たから四苦八苦してきたことをプログで書いてきた
こういうことは自分だけではない,60以降に起きやすいことがこの本を読んで納得する60以降の最大の問題が病気なのである
それで予定が狂ってしまって老後破産に陥ってしまう

そして人間は60以降とか老人になると弱者化するのである
この弱者化することで犯罪にあったり追い込まれることが多い
それは自分が経験したことであり驚いた
頭がいいとか大の男も恐れない、こわがっでいた、それが見る影もなく無能化された姿には愕然としてたのである
銀行から金もおろせないとか認知症で白痴化したことは変化がはげしすぎたのである
それで対応に右往左往することになる
夫婦でもどちらかがそうして病気になると途端に弱者化してどん底に陥る
老後のリスクは金がないというだけでない、病気になるリスクが一番大きいのである
そこで予定が狂ってしまう、だからといって治療費を節約できないことが苦しいのである

自分に起きたようてことは60代以降に起こりやすい
親が介護になったり夫婦でもどちらかが介護になったりすると途端に弱者化して
追い込まれる、その時弱肉強食の世界が老後にも容赦なくふりかかる
それで耐えられなくなり悲惨な状態に追い込まれるのである。
現代は特に情がない社会であり金だけを要求する社会である
だから一人暮らしとかは孤立して誰も助けないような状態に陥りやすいのである
それは自分だけの特殊な状況から起きたとも言えないとこの本を読んで思った

Cさんはの代わりに買い物したり、ディサービスに向かう際に手助けしたり何かと身の回りを世話してくれた知人にお金をもち逃げされた
Cさんはその人の信頼して部屋の鍵まで渡していたのです
全部で3000万円近い金が盗まれました

この人は妻と死別して一人暮らしになったときにこうなった
いかに一人暮らしが今は危険か弱者化するかわかる
これと同じ経験を自分もしてきたからである
事情は違うにしろ一人暮らしは弱者化する、信頼して頼る者がいなくなる
するとそうしてヘルパ−などを頼み家の中に引き入れることがどれだけ危険なことかわかる、この人はそれなりに相当信頼していたがこれだけの被害にあった
額は違っていても自分も同じような目にあったからだ

ではなぜこうなりやすいのか?
それはヘルパーとか今は困窮した人がなる、金に余裕ある人は手伝いさんのようなことはしないのである
それが矛盾している、金に余裕のない人はそもそも危険である
しかし金に余裕がない人しかそうして働かないのである
老人でも金に余裕ある人はパークゴルフとか趣味とか遊んでいるのである
人間はいい悪いではない、もう窮迫している人はどんなことでもする
そういう人がそうして一人暮らしとか困った人の家に入ってくるから危険なのである
金に余裕がない人とか心に余裕がない人はまず人を助けることはできない
借金しているとか金がないとかしている人は常に頭が金しかなくなる
するとそうして入ってくる家なら金を得ることしか考えない、それは人のめんどうをみる
というより自分の方が苦しいのだからそんな余裕がないからである
つまり襲う人も弱者を襲い襲われる人も弱者なのである
弱者につけこみやすいからである、襲いやすいから弱者がねらわれる、襲う人も弱者なのである


働くことも人助けなんだけどそれは余裕ある人ならできる
余裕のない人はできない,むしろ相手が弱者化したときチャンスだとなるのである
こういうことは高齢化社会で起きやすくなる
一人ではどうにもならなくなる、介護でもそうである
その時家の中に入ってくる人は余裕ある人ではない、その人も困窮している人が多いのである、余裕あって金があってボランティアする人などいないのである 

この人は本当に悲劇だった、自分も同じだったから同情した
高齢化社会は長寿社会は暗黒の面が大きい、金の問題もあるし病気になること、自分自身だけでなく夫婦でも一方が病気になると悲惨なことになるのである。
この本で言うように自分の死に方でも事前に決めておく、延命治療はしないとか何かもう治療でもそんてに手厚くしないで死に向かうことを決めておく、つまり生をある程度あきらめる、そういう覚悟が超高齢化社会には必要になる
ただ別に健康ならいいのである、それだって百歳まで金があるのかとなるなくなる、老人は稼げないのだからどうにもならないのである、人間が長生きするとき少数だったらいいがこれだけの数がそうなるともう国を圧迫して国自体を破産させるとまでなっているのだ

だから若い人たちに老人は早く死んでくれとなるのもわかるのである
それはあまりにも数は多すぎることなのである、老人にはもう希少価値はない、長生きしたからと大事にもされないし敬老精神もないそういうなかで生きるとなると地獄だともなる
病院に行ったら早く死んでくれとか、介護施設は入れないとか、金がないものも死んでくれとかなる 
それは国をつぶすほどに老人が増えるからである、駅でも見ていると本当に老人が多い、老人ばかりが目につく社会なのである
その辺に老人ばかりがうろうろしている社会なのである
その人たちは別に用あるわけでもない、ただ何もすることなくうろついているだけだとなるからだ


2018年10月06日

責任をとらない,自覚しない、そしてまた同じことをする (戦争も原発事故も同じだった)


責任をとらない,自覚しない、そしてまた同じことをする

(戦争も原発事故も同じだった)


人間は何かというと責任が問われると思った、責任が問われるのは重要な地位にあり権力を持っている人である、権力という時それは今なら金が大きな権力になる
金で人を支配できる世の中だからである
それで東電とか電事連とかから莫大な宣伝費がマスコミに流れた
しかし戦争と同じく今回も誰も責任は問われていない、責任を課せられないのである
これだけの重大な被害があったのに過失致死傷にもなっているのに責任が問われない
それはなぜなのだろうかとなる
そういう無責任体制がもともと日本人にあったからだとなるのか?

戦争の責任は別に日本だけにあるのではない、アメリカにもあるしヨ−ロッパ側にもあった、なぜならなぜアジアまで進出する理由があるのか?
そんな遠くからなぜアジアまで来て侵略して自分の領土とする納得する理由があるのか?植民地にする理由があるのか?それは一方的なものであった
アメリカとの戦争でもアメリカに正当な理由があるわけでもない、真珠湾攻撃だってそれはアメリカがしかけたものだともされる
アメリカに別に正義があって戦争したのでない
とにかく日本を潰したいということでした戦争である
要するに喧嘩両成敗なのである、そしてアメリカが原爆を落としたことはこれはどんな言い訳をしてももう人類に対する重大な犯罪だった、それがカルマとなってアメリカに永遠にふりかかる、だから原子力発電でも核兵器につながるから最初日本にもたせたくなかったというのもわかる、また北朝鮮のような小国をあれほど恐れるのも核の呪いがありアメリカは日本に原爆を落としたことで恐れているのだ

でも一方で日本はどうだったのか?その責任は問われたのか?責任を果たしたのか?
これもほとんどなかった、これは別にアメリカが裁けるものでもない、日本とアメリカの喧嘩両成敗になるべきものだったが勝者が敗者を裁いたというだけである
そもそも戦争というそのものが犯罪なのである、その犯罪は裁かれることもないし責任を問われることもない、でも確実に何か事を起こすと人間は責任を課せられる
その責任とは三百万人が死んだということである
この事実はあまりにも重いのである、天皇もその罪を担うことになった
天皇にも責任があった、これも逃れることはできないことだったのである
天皇は神ではない、それで神ではないとしてアメリカにGHQに命乞いして助かったとされる、天皇が罪人となることは日本人にとって耐えられないこととなったからそうなったともなる

ともかく人間社会で例えば犯罪を犯しても別に反省することもない人も普通にいる
第一その人は犯罪の自覚がないのである、自覚がないから反省もしないし罪の自覚もない犯罪を自覚する人はそれだけモラル的には優れている
なぜなら犯罪を自覚しない、そういう人は自覚させられない限り犯罪したとも思わないとういこともある,いろいろな理屈を並べて自覚しないことがある
オウムだってそうだろう、宗教のためにポアしてもいい、殺すのは罪にならない、むしろ救済だとして殺人団体になったのである
人を殺すことになんら罪悪感もなく自覚もなく殺したのである
そういうふうに殺人すら理屈をいい正当化されるのである
戦争でもそうである、おそらく本当は戦争自体が人類の罪でありどちらが正しいとういことはない、どらちにも正義があるからだ
ただ力の強いものが正義だとされる

戦争でも誰も責任はとらなかったが300万人が死ぬことで責任をとらされた
原発事故でも誰も責任はとらないが地元で故郷に住めないとか荒廃してしまった
責任は地元でとらされたのである
でも事故を起こした「安全神話」を作った人たちは政治家でも官僚でも東電でもマスコミでも誰も責任はとらない、裁判になっても裁判する法の官僚にも責任が問われた
東電に天下りしていたとかなるからだ、そこで利益にあづかっていたからである

そもそも責任を明確にしないことは善悪でも明確にしないことである
あいまいに終わり何が悪いのか罪なのかすらわからなくなる、結果的に日本軍を正義の戦いで死んだのであり英霊として祭ることになる
そうなれば別に日本の戦争は聖戦であり誰も責任は問われないのである
日本の英雄として祭られることになり戦争を推進した人たちは褒められるべきものであり責任を問うことなどしなくてもいいとなるのだ
でも300百万人が死んだことや原爆を落とされたことは永遠に消えないのである

つまり日本がアメリカに謝るとか韓国や中国に謝るということではない
何か責任があるという時日本は永遠に中国や韓国に謝ることになりそのことでつけいれられて賠償金を延々と要求され悪者にされる
でも戦争の責任はアメリカにもありヨ−ロッパにあったのだから不公平だとなる
でも日本は攻め安いから責めているだけなのである
人を裁くなと神が言う時人は人を裁けないからそうなる

いづれにしろ戦争でも原発事故でもその責任の所在を明確にして責任をとらせないかぎりまた同じことが起きる、それは何が責任なのかも明確にしないからである
もし責任の所在を明確にして責任をとらせれば次はそれでその過ちと罪を自覚するから同じ過ちはしないとなる
でもそれが明確にならないとするとやはり同じ過ちを日本人は繰り返すことになる

原発事故は国家的犯罪で起きたとういことがある、「安全神話」は日本の権力をもつものによって作られたからである
そこにはマスコミも明確に入っていた、マスコミという報道機関も犯罪者だったのであるそれは朝日新聞が戦時中戦争をあおったことと同じである
朝日新聞も東電の幹部に中国に招待接待されていたとき事故が起きたことはそのことを象徴していたのである

要するに責任というとき権力をもつものがまず責任がある
権力がなかったら何もできない、報道すらできない、そしたら責任をもていってももてないのである、マスコミは六局は報道する権利を与えられていたから責任を言われる
特別な権利を与えられていたから責任を問われる
それは政治家でも官僚でも東電でもそうである、御用学者でもそうである
「安全神話」を作ったのはこうした権力をもった人たちだったからである
それは戦争の構図と同じだったのである
日本は神国であり天皇は現人神(あらひとかみ)であり神であるから戦争に負けないと同じだったのである、そうしたものは誰なのか?
国民も加担して戦争に熱狂していたというとき原発は電気が必要であり国民が望んだものだというのとにているのである
つまり国民が望んだものだから国民にも責任がありみんなに責任があるから結局誰も責任がないとなる、それは戦争を起こした構図と同じなのである

そうなると誰も犯罪であっても自覚しない、悪いとも思わない、別に東電でも月給が下がったりしないし被害はそれほどない、評判が悪くなったとしてもそれほど実害がない
でももしオウムの幹部のように死刑になったらいくらなんでも自分はなぜ死刑になるのだと反省するだろう、現実にオウムの幹部は麻原にだまされたとその時反省したが時すでに遅しであり死刑にされたという責任をとらされたのである
死刑になるくらいの責任をとらされてはじめてその罪でも過ちでも人間は自覚するとなるそれで死刑になったことは外から見ても厳しいなと見るが当然だったともなる

東電の幹部でも官僚でもマスコミでも御用学者でも数人でも死刑になったらどうなるのか?

その時その責任の重さにふるえあがり責任が否が応でも自覚されるのである
だから原発事故でも誰も責任をとらない,とらされない、その罪の自覚はない
あれは津波という天災の結果であり責任はないとなってしまう
そして戦争でも同じだが原発事故でも反省しないから原発推進にまたなるしなっている
人が死んでいるわけでもないとか軽くみる、でも故郷に住めないということは甚大な被害だったのである、これまで積み重ねた歴史が奪われてしまった
それは人生と同じである、自分たちが生きた証が故郷にあった時そこに住めないということで奪われたとなるからだ



posted by 老鶯 at 19:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年10月07日

つらぬく、生きぬく、耐えぬく人生


つらぬく、生きぬく、耐えぬく人生
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つらぬく
生きぬく
耐えぬく

生きるということは何か?何か信仰で信念でも仕事でもこの三つが必要になる
そのつらぬくものが何かは人によって違ってくる
どうしても人間は曲がったものになるのはやはりそれだけこの三つが実行できないからである

国家的規模で歴史でもそれができない,それで戦争で負けたら全く日本人はあっさり転向した、アメリカにすべて従い日本人の自主性を失った
だから小野田少尉はジャングルで依然として戦闘状態にあり帰ってきたときがっかりしたのである、日本にはあれだけアメリカとも戦っていたのにアメリカに従うだけの国になっていたからである

そこに一貫性が国としてなくなっていたのである
国にも骨格のようなものがありそれが喪失したら国として一貫性もなにもなくなり成り立つのかともなる、だから戦後はただ経済的豊かさを求めるだけであり日本人としての一貫性は喪失して日本人の独自性も喪失したとなる
民主主義をとりいれてもただ権利だけを主張するエゴ的なものとして主張するようになった

右であれ左であり人間は一貫性があればそれそれで辻褄があってくる
でも転向すると何であれ辻褄があわなくなる
そういうことはすでに青春時代、若い時方向が決まってしまう
若い時妥協して曲がってしまうとその後も曲がったままになりやすい
カルト宗教団体でも何かおかしいのではないか?
そう思ってもずるずるそこにあって脱出できなくなる
若い時何かそうしてそれぞれに違っていても方向を決めるものにぶちあたる

ただ人間の一生は時代によっても違うしいろいろだから家庭環境でも生活する場も性格も違うから外から見て何を貫くは違うものになる
なぜ師がいたとしてもすでに師との世代差があり生きる環境も違うとか生い立ちも違うとかあり必ず師と違ったものとなってゆく
師の人生であり弟子の人生は人生で別に築いてゆくものになる
必ずそこで時代の影響を受けるから違ったものになる   
師とは別個の人間であり師と同じになることではないがカルト教団では師が絶対化して師のコピー人間にされる
大量の奴隷のようにされる、そこに師の危険性がある、師は学ぶとしても否定されるべきなのである
師と同じになることではないのである
正直あまりにも過酷だと自分の場合は耐えられないものとなった
環境に恵まれた結果として今日がある
だからそれぞれの条件は違っているのである                          
もし偉大な人なら過酷な条件でも耐えられるからである。

ただこの三つの戒めがあって人生は何かなしたとか実りが生まれる、満足が生まれる
でもどこかで曲がった方向に行きやすい、そこに強大な力が圧迫がある
それで曲がった方向に行ってしまう、その強大な力に従った方が楽だからである
でも若い時その方向性が決まることが怖いとふりかえり思う
一旦その方向が曲がった方に行くと正しい方向にもどせないのである
カルト教団に入ってもそこから脱出できない、それには相当なエネルギーが必要になるからだ 

それはだいたい30くらいまで決まってしまう、だからその後に変更することはむずかしくなる、ということは若い時にその方向が決まってしまうとなる
「若き日に汝の神を覚えよ」というときそうである  

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。/苦しみの日々が来ないうちに。/『年を重ねることに喜びはない』と/言う年齢にならないうちに。」

その時を逃したら神を知ることができないともなる、だから若い時方向性が決まるから怖いのである、もちろん自分の一生は何か間違っていたしふがいないものだった
何か特別優れたことをしたということはなかった
社会からはずれたものであり参考にはならないかもしれない
ただ若い時の方向は間違っていなかったことは確かである

ともかく人間にはこの三つがないと満足したものとはならない
第一何をするにしても簡単に成ることはないからだ
即席に何かうまくいく成ることはない、するとどうしてもこの三つが必要になる
地道に努力して最後に成功するということがある
でも日の目を見ないとなかなかそうして継続して努力しつづけることが嫌になるだろう
それでも継続してこの三つを守れば最後に実りがあり満足がある

大地に根を張り
まっすぐに伸びた木よ
そはここに力強く根付き
その生は全うされた
そしてここに倒れた
その倒れた木はなおここにに立っている
一つの標としてここに立っている
その姿は不変でありゆるがない
その木はまっすぐに立ち
曲がることなく立ち倒れた
そこに悔いはない
その生は正しく全うされたから

人間はやはり土着的なものとしてある、その土地に木のように根付く
その土地に根を張り生きてゆく、そういう場が必要なのである
あちらこちらと移動していたらそういう強いアイディンティティではもてない
そこから文化も生まれるからだ、だから人間も土着的なものしとてある
だから都会には現代にはこうした土着なものは欠如しているからアイディンティティがもてず浮遊している感じになる
そこに生の充実感が得られないのである

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この最高裁判所の真ん中にあるのは樹の幹である、そして石に囲まれている
これは最高裁判所にふさわしい建築だと思った
木というのが真ん中にあり石という堅固なもので囲まれている
それは正しさを追求する場にふさわしいとなる
建築にも思想が反映されると重みを増すのである

一般的に日本の建築はそうした重みがないのである
現代文明にある建築にはそうした重みがない
ただビジネスする金儲けの場としての建築である
つまり精神性がないのである
精神性が養われない世界なのである
煉瓦作りの盛岡銀行のも何か堅実なものを感じる
高層ビルとかあってもそこに精神性がないからただ高いというだけになっている
ともかく樹の太い幹が柱となり石に囲まれているのは最高裁判所の内部にふさわしい














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韓国の人が茨城県の鹿嶋市と間違えて来る (風の遅れは7,8分)


韓国の人が茨城県の鹿嶋市と間違えて来る

(風の遅れは7,8分)

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鹿嶋市は水戸でのりかえる、でもこの線はそんなに電車がでていない
だから今日のうちにたどりつくように思えない、代行バスでいわき市でまたのりかえて
水戸まで行ってまたのりかえだからである


韓国の女性が駅に来てタクシーを呼んだ、タクシーに乗ったがその女性は茨城県の鹿嶋市と間違えたのである
それで原町に行くように指示した
原町で代行バスが4時に出る、それにしてもそれからいわき市に行き水戸に行きまた電車に乗り換える、鹿嶋市までは電車が出ていてもあそこは辺鄙である
そんなに電車が出ている線ではない、一度は乗ったことがあった
それにしてもこういう間違いは外国人だとありうるともなる
とんでもない所に行ってしまうことがある
韓国旅行してわからなかったのがハングル文字だった、あれには苦労したしアルハベットより読めないから困った

それからもう一人も末次に行くという、代行バスがあるからと案内した
今日はめずらしく案内があった、案内は風で遅れたときとまどう人がいてある
ただ自分は一日一回買い物に行ってたちよるだけでありわずかの時間しかいないのであるだから最近は案内はしていない
今日は他にも杖つえた老人がいて案内した
向こう側のホームだったのでそこまでわたるのが大変なのである
鹿島でも病院に来る人がいて良く杖ついた人も来るのである
すると向こう側に渡るのが苦労なのである

今日は風吹いたけどさほどの遅れはなかった、ただまず鹿島でも茨城県の鹿嶋市とまちがうことは日本人だらありえない、外国だとそういうことも起こると思った

タグ:鹿嶋市

2018年10月08日

北海道地震でも厚真町などでも自治体の崩壊現象が起きる (北海道の過疎化は深刻)


北海道地震でも厚真町などでも自治体の崩壊現象が起きる

(北海道の過疎化は深刻)

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厚真町では、住民の移転の動きが出始めた。町はかつて人口減少で消滅する可能性を指摘され、対策を講じ人口増に転じたところで、地震は誘致策にも打撃になる。

日本の人口5千人未満の自治体のうち29.5%が北海道に集中することになります

ここで人口が半分にも減っている、これは大きい、北海道自体の状況が反映している
鉄道でも半分以上が廃止になっていて昔ここは駅だったとなり記念の建物が残る
北海道の鉄道は惨憺たる状態である
そして北海道の過疎化も厳しい、厚真町では人口が半分に減り60歳以上の人口が多くふはり高齢化になっている
そういうところに今回の地震のような災害が起こると一挙に町自体が崩壊しかねない
復興するにも高齢化社会で老人が多くできない
老人はもうあきらめるとなる
この状況は津波とか原発事故周辺で起きたことと同じである
ただこの辺は人口が半分まで減るとまではなっていなかった
でも急速に避難区域は半分以下どころではない、三分の一四分の一となったし浪江では
二万の人口があっても千人も帰っていない
自治体の崩壊の危機にひんしている

北海道は札幌に人口の40パーセントが集中してその広大な地域に4,5000人の自治体が散らばっている、酪農とか農業でも広大な地域である
それが魅力なのだが人口に比例していろいろな店とか施設とか病院とかできる
コンビニでも2300人に一軒とかできる
それはだいだいあっている、人口がやはり経済の指標になる
ただ高齢者が多いからそれも人口が多いからといって自治体の活力があるとはならない
全般的に高齢化がどこでも影響が大きいのである

それは北海道では特にそうなのである、農業は楽ではない、美瑛というと丘の町で観光で有名だがそこで農業している人は延々と不満を言っていた、遂には中国人の方がいいとまで言っていた、私はその時自転車で旅してライダーハウスに泊まったのである
その農家ではライダーハウスをしていたからである
農業を知らないと何か広大でいいなとしか感じないがまず農業ほど手間がかかり金がかかるものはない、鎌が盗まれた、肥料が必要だとか、種が高いとか小さな趣味の畑でも金がかかる、それを支援するとなると大変である
それでもらったのはキュウリ数本であり結果的に一本一万以上になる
これでは誰もやりたくなくなる、趣味だってやりたくなくなる、必ずしも収穫もあるわけでもないからだ

北海道は特に過疎化とか高齢化になると農業でもつづけるのが厳しくなる
そして寒さが厳しいから余計に厳しくなる
旅行するにはいいところなのだが住むとなると厳しい、それはどこでも同じである
沖縄だって実際は住めないといろいろ問題がある
住むのと旅行で行くのはまるで違ったものになる
旅するだけならただ通り過ぎてゆくだけだから悪いものを見ないですむからである
そこに住めば悪いものに否が応でも接しなければならないからである

いづれにしろ東北でも津波と原発事故の打撃が大きかった
それはやはり北海道ではないにしろ少子高齢化とかが大きく影響したのである
原発事故の避難区域になったところでも解除されても帰ったのはほとんど老人であり若い人は帰らないからである、そこには過去だけになり未来がなくなってしまうのである
それが自然災害でも原発事故でもそうした大災害になるともうお手上げになる
そのことが今回の地震災害でも起きていた
復興できなくなっている、この辺では原発事故では補償金がでたが北海道では出ないからである、そして老人になるともうあきらめる人が多くなる
それも致命的なのである

人口で自治体を計られるというとき小高では3000人は帰ったというが老人の比率が多い、だからそこで復興するといってもシルバータウンのようになってしまう
必要なのは老人ホームだとなってしまう
現実に介護施設でも介護士が集まらなくて開けないとなっているからだ
立派な施設があってもそこに働く人を確保できない、なぜなら若い人が流出したからそうなっている
北海道は広いから何か福祉関係だと一軒一軒回るだけでも手間であり苦労になる
なかなか普通の福祉サービスを受けることもむずかしくなる
だから札幌に人口が集中するともなる

札幌市は、高齢者の転入が目立つ。60代、70代、80代、90歳以上のいずれのカテゴリーも、転入超過数は全国で断トツの1位だ。北海道内では、多くの地域で病院経営が難しくなっているという。このため多くの病院が札幌市内への開設を進め、つれて高齢者の札幌移住が加速している模様である。

病院となると都会が有利である、北海道とかなる広いのだから病院に通うだけで手間だとなる、そして高齢化社会では病人が増えてくるからこうなる
わざわざ仙台から東京の病院に行ったり福島医大に通っていた人もいた、だから老人も都会に集まるとなる
震災以後この辺では仙台市の人口が増えたのと似ている
近くの中核都市に人が移動している、飯館村とかが避難区域になると福島市に補償金をもらい家を建てたとかなる
その方が便利だからそうなる、多額の補償金をもらったことで余計にそうなったのである
そしてますます地方の自治体が崩壊してゆく危機になる
5000人とかなると自治体が維持できるのか?その人口構成も老人の比率が高いから自治体の活力を失うのである
三陸方面とかで津波の被害にあった所に爺婆に資金を出しても無駄だと官僚が言ったのは本音である
それはやはり少子高齢化社会が深刻な状態にありそれが災害とか今回の原発事故になると極端な現象になり自治体の崩壊の危機にさらされるのである

posted by 老鶯 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

精神性を追求する文明にたちかえる (すべてが大衆に迎合しすぎてモラルも荒廃した)

      
精神性を追求する文明にたちかえる

(すべてが大衆に迎合しすぎてモラルも荒廃した)

理念なき政治 道徳なき商業 人間性なき科学 ガンジー

自然がある、そこに人間は真、善、美を見出す、人間によって自然は精神性を付与される人間には心があり精神がありそれで万物に精神性が付与される
エジプト文明は何なのか?アニミズムの世界,あらゆるものが神となる偶像崇拝の世界だとも見る、でも一方で動物でもあらゆるものが神性を帯びたものとして神になる
ライオンがいればそれは人間としては勇気の象徴とかなったり鷺が学問の神になったり
牛は忍耐の象徴になる、それは高村光太郎のような牛の詩になる
虎だったらブレイクの詩として象徴化される
つまり詩によって象徴化された精神性が付与されたのである

現代に欠けているものは何なのか?精神なき文明であり物質化された荒野と化している
マルクス流に言えば貨幣による物神化とかなる
つまり唯物論とは世界を歴史でもまさに唯物的にみる、精神なきものとして見る
ところが過去の文明には精神性から見ることもできる
エジプト文明にも精神性があった、ピラミッドは奴隷によって作られた王の墓だというのは否定されているとき,では一体何なのか?
それは宗教的建造物であり一つのエジプト文明の精神的精華とも見ることができる
マルクスの唯物論だと階級制としてしか見ないからである

ピラミッドはその構築は数学的にも神秘的なものとして作られたのである
正三角形立方体ではないからである
ピラミッドはキリスト教とかイスラム教とか仏教と同じような精神性を備えた宗教的建造物なのである、それは王の墓ではない、民衆が参加して作り上げた聖堂とにているのである
一方で中国の文明には始皇帝でも巨大な権力者の墓として山のような墓が作られたのである、中国では地下まで王の宮殿となっている、死んでも地下で権力を維持して支配しようとしていたのである,そこに精神性が見れられないのである
中国文明にもちろん精神性があるが巨大な権力者が支配するという文明である

歴史を見る時人間の精神の営為として見るか?ただ生産力の増大過程としてみるか?
見方が二つに分かれる、マルキシズムは精神的なもの宗教をアヘンだとか支配階級の道具となり階級を維持するためのものだとした、確かにそういう面もあったから否定はできない、ただ文明という時、エジプト文明でありキリスト教文明であれイスラム文明であれ宗教を基にした文明なのである、その宗教をとったらなにが残るのか?
要するに精神なきモラルなき文明となる、人間には精神があって人間でありただ飲み食いするだけだったら動物と変わりなくなる

そして現代文明とは何なのか?精神なきモラルなき文明なのである
マルクスの言う唯物主義なのは共産主義でも資本主義でも同じである
世界は市場であり貨幣が神の如くなり物神化していることは同じなのである
資本主義と共産主義とは表と裏であり現代では共通した唯物論なのである
確かに宗教は支配構造の中に組み入れられているというのはある
それ以上に現代文明全体がグローバルに唯物化したものとして共通しているのである
そこにはただ世界は市場であり貨幣が神のようになり支配する、ドルが支配することはアメリカが支配することになる
現代の経済とは精神なきモラルなき経済である
すべてが金によって売買される世界市場になっている
そうなると国すら金によって売買される、現実にそうなっている、金融で銀行が世界を支配する、アメリカのドルが支配する、それに逆らうものは軍事力で制圧されるとなる

精神性というのが何かというとき一番わかりやすいのは建築なのである
建築がどこでも文明の象徴としてあるからだ、建築から文明を観るからである
ピラミッドにエジプト文明をみるしキリスト教の大聖堂にカテドラルにキリスト教文明を見るしイスラムだったらモスクになるからだ仏教でもヒンズー寺院がそうでありアンコールワットのような仏像が仏教文明の象徴になり精神性も現されている

それで感嘆するのはルネサンスが起きたフェレンツのラファエロのアティネイの学堂なのである、あのアーチが堅実性を示している、ローマの建築にはそもそもローマ人は農民だから素朴な堅実性があり建築にも反映したのである
だから不思議なのはヨ−ロッパに行くと鉄道の駅がアーチの堅固な駅であり何かその建築によって威厳を持たされるのである
そういうものが無用であり無駄だという意見がある、日本のように機能的であればいいともなる、でも何かそこに駅まで人間に威厳をもたされる空間として創造されていると感心するのである、建築に人間の精神が付与されているからそうなる
まずビジネスだけの世界になるとそこはただ機能的なものしかない、高層ビルだとただ高いというだけでありそこに精神性は付与されていない、人間の精神が欠如しているのである、ただ高いとか機能的美しかそこにはないのである
もちろん機能性が建築では重要であるがやはりそれと同時に精神性が付与されると威厳あるものとなる

現代では機能性は追求されても精神性は追求されない、だから人間の精神が養われないのである、自然があるとして人間の精神性が付与されて意味と価値をもつ、それがゲルマンの森をかたどったゴシック大聖堂になる、その石の柱は樹齢千年とかの樹と同じなのである、柱はエジプトの神殿でも樹なのである、ピラミッドは聖なる山の感覚になる
なぜなら砂漠で山がないから人工的神秘的に創造された山となるからだ
日本でも山そのものが神となり神聖化されたがエジプトには山がないから山を作り出したともなる、それは星辰の位置とも関係して作られたという時、解明されていない神秘が未だになる

ともかく精神性がない世界はもう物質の荒野である、人間はただ商品であり金で売買されるものにすぎない、グローバル化市場ではそうなる、労働力も商品化される
そのマルクスの指摘は現代文明を見る時わかりやすいから宗教のようになった
でも共産主義でもまた同じだったのである、唯物論として世界を見ていることでは同じなのである
これからの課題は精神性の追求である、精神なき世界はもう人間社会ではない
そこに育まれるのは養われるのは富であっても精神なきものでありルネサンスのような文化を創出しない、巨万の富を集めてもアメリカから精神文明が生まれないのでもわかる
巨大な科学技術文明でありそこに精神はない、ただ天をつくように高い摩天楼であり人間はそこでただ蟻のように卑小化されるだけなのである

何か文明というときあらゆるものが連関している、人間の精神性の剥奪なのである
それは報道とかマスコミでもそうである、そこに精神性はない、大衆を操作する下劣なものとしてある、つまりテレビは低俗な大衆に同化して操作するものとしてある
そこに高邁な使命感とかはゼロである、モラルはない、会社から宣伝費をもらい大衆を操作するものしとてある、ナチスとたいして変わりないのである
そこに対話もない、一方的洗脳があるだけなのである、そこで一番目立っているのは司会者でありその人が有名人となる、でもそのアナウンサーとは何なのか?

何の報道の使命感もない、まず大衆を相手に視聴率をとることが目的なのである
要するに大衆化社会には精神性はないしモラルも育まれない
商品を売る消費者として大衆はあり会社の企業が商品を宣伝して売りつけるものとしてある  
現代とは大衆に迎合がしすぎた社会である、そこに精神の退廃が社会全般に蔓延した、マスコミとテレビの影響が大きすぎたのである
マスコミから出る人物はいい加減なのが多いというより大衆にとって必要なのは芸人なのである
芸人でも芸に励むということがあるが芸人がオピニオンリーダーのようになり司会者もそうである

そして事件ばかり追ってそれが大衆の娯楽になったのである
それがお茶の間にもちこまれたから余計にそうなった
この辺だって作家だとか詩人だとかもマスコミにもちあげられた芸人なのである、売名作家なのである
結局現代の問題はアウトサイダーが指摘してきたことである
その人が客観的に社会を文明を見ていたのである
マスコミも大衆社会に組み入れられて精神を荒廃させたのである
ジャーナリストにも高邁な使命感があったかもしれない、それが大衆に迎合することによって失われた
大衆に迎合することが何でもいいのではない、それによって退廃してくる
むしろ大衆と離れて崇高なものを追求する、それが大衆にとってもモラルを向上させる、江戸時代は侍がそうした模範となっていたのである

今や模範とすべきものはない、カルト宗教団体でも大衆に迎合しすぎたのである、だから何ら普通の人と変わりない、かえって強欲になれ拝んでこの世の欲を満たせとなっている
それは大衆にこびて大衆に迎合しすぎたのである、それが政治となり一票に結びつく、数が多ければ権力を得ることになる
そうなると社会全体が荒廃したのである
一方でオウムはエリートを養成しようとしたのだが奇妙なのは大衆から遊離した結果として異常化したのである
人を殺すことを宗教で正当化できない、そうしたのはかえって高学歴の理系の若者だったとなる、つまりかえって創価のように庶民の集まりではないからそうなった、常識すらない状態になっていたのだ 

何でも大衆化することは国そのものも危うくするし荒廃するだけだとなる
原発事故だってそうしてジャーナリストでも権力に迎合するだけであり大衆は大衆で金になればいいしかないとなり故郷にも住めなくなったのである
現代社会にはもうエリートはいない、責任と矜持をもつエリートは大衆によって駆逐されたのである
大衆に迎合しないものはアウトサイダーとなる、だからアウトサイダーはこの文明を冷静にみて批判できるとなる
マスコミは害悪をもたらすものだということを知るべきだということもそうである、そういうことが日常的になっているから見えないのである
マスコミはyoutubeにふさわしい、お茶の間に入るべきではないものだった
子供にも影響するから害悪になるからだ

だから精神性を求めるものは現代では山にこもりニーチェのようになる、アウトサイダーになる、そしてこの現代文明を糾弾するようになる  
そうならざるをえないのである、現代文明社会に真善美は追及されない、ただ物質の追求であり商品を売買する巨大な世界的市場になっている
株とかでも世界市場になればもう巨大な世界市場にふりまわされるだけになる
投資は必要でも何か意味あるものとして価値あるものとして投資はできない
趣味で野菜作りしている人に投資した、そこで得られたのはキュウリが数本だった
でもその畑で作る苦労話を聞いたからその方が投資として実りがあったともなる
グローバル経済で株でもうけたとしてもそこに意味と価値を見出せないからだ
精神なきモラルなき世界だからである、人間はただそこでは金の奴隷、経済の奴隷になっているだけなのである

精神性とは何なのか?それは理念であり思想である、それは理想を追求する
会社を経営するにしても何のためなのかその理念が思想が必要になる
ただもうかればいいとはならない、だから会社を起こしたとしてそれがただ自分が優秀であり優秀さを社会に示したいとしか動機がないとしたら応援できるのか?
つまり理念なき政治道徳なき商売経済になっているのが現代なのである
ただ巨大なグローバル経済にふりまわされているだけの社会なのである
この辺でも復興は精神的なものの復興もあって復興になる

復興の実りや朝飛ぶ鳩の群れ

実りがあり鳩は平和の象徴でありそこに復興がある、実りは米を食べることだけどそこには精神的復興としてもある
そこに実り喜ぶ鳩が飛んでいるとなる、それは精神性として表現されたのである、単に食料を供給するというだけではない、実りとともに精神の復興がある、だからキュウリ一本が一万するとしても荒地になっていることは精神に影響する、復興は荒地のままではありえないとなるのだ





タグ:大衆化社会

2018年10月09日

抽象画の森(abstract forest)


抽象画の森(abstract forest)

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Gogh's painting

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ゴッホの絵を抽象化する、絵を全く描けなくても絵を楽しむ方法があるのかもしれない、絵を見る、鑑賞する方法がある、ただ見ているだけでは楽しめない
多少自分自身で描ける人は楽しめる、でも全く才能がなければそもそも絵など描けない
でもなぜか、抽象画をパソコンのソフトで作れたとなる
だからartは技術だったともなる、技術は人間の才能をなにもないところから作り出すともなる


Abstracting Van Gogh's painting, there may be a way to enjoy painting without having to draw any pictures, there is a way to see and appreciate pictures, just watching it can not be enjoyed
People who can draw themselves somewhat can enjoy it, but if they do not have any talent they can not draw pictures etc. in the first place
But somehow, it is possible to make abstract painting with software of PC
So art is also technology, technology will also produce human talent from nothing
タグ:abstract forest

秋の蝶(待つ時間が人間らしさを演出)


秋の蝶(待つ時間が人間らしさを演出)


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柿は古いものでありコスモスは新しいものである

夕日さし柿にコスモス映えにけり

ともなる

クリック拡大しないとはっきりしない

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復興や実りに朝飛ぶ鳩の群れ

前畑に鶏頭や朝の仕事かな

玄関に待てば飛びきぬ秋の蝶

秋の蝶今日もここに遊ぶかな
                                                    

今日もまた駅に待つ人ありにしも秋となりにし鹿島駅かな


復興とは実りがあって復興を感じる、その米を食べるとかではない、実りというのが稲穂が黄金色にそまる、そのことで感じる、米など今どこからでも入ってくる
でももし地元に実りがなければ実りを感じないのではないか?
矛盾しているのはでは地元の米を買っているかというと買っていないということがある
この辺の米は原発事故以後売れないから飼料米になっているのである 

玄関で待っている、人が来るわけでもないが一人待っていると秋の蝶が飛んできた
この何か待つ時間が人間らしい時間なのである
駅ではいつも誰かが待っている、その待つ時間が人間らしさを演出する
何か高速とかのSAにはそういう感覚がない、ただ一時たちよるだけだとなる
駅には何かそうして人間的なものが演出される場所なのである
鉄道は120年とかの歴史がここであるとするとそれだけの歴史を刻んでいるのが駅であり鉄道だから違っている
そこには人間の情がのりうつっているからだ

津波の来た所が草原化した、時々草刈ってもまた茂ってくる、そこに蝶が集まっていた
そこに毎日行っている、蝶が遊んでいるだけだとなる
草原化すると蝶などは増える、遊び場にいいとなる
それでは困るのだが蝶にとってはいいとなるのかもしれない

何か最近AIのことをしきりに言う、人間の仕事がなくなる、人間はみんな芸術家になるとか遊びようになるとか言うのも不思議である
実際趣味で野菜作りしている人は別にそれで生活するためではない
第一売ることもできない、まともに野菜が収穫もできない、とれるのはわずかである
でも自分は肥料代とか道具代とかいろいろ払っている
そしてもらったのはキュウリ数本だけだった
でも何か自分は野菜作りとか農業にもともと興味があり話聞くのが面白いとなり応援している、それから荒地がこの辺では多くなったのでまずいと思い応援している
ただ正直そこに投資しても何の見返りもない、でも荒地にするよりはいいし
その女性にとっては草取りとか嫌でも生きがいともなっている
その人から畑をとると何が残るのか?金の問題は別にしてその人のできることは畑で野菜作りすることだとなる 

前畑に鶏頭が映えてそこで朝仕事する人がいる、田舎では見慣れた光景である
それは自然とマッチしている、わざわざ遠くに通勤しているのは自然ではないのだ
すぐじき前が仕事の場だということは自然なのである
そこから食料をとれることは何か生活の充実感があるなと見る
いづれにしろここ十年は遠くに行かない、仙台にも一回行ったきりである
年取るとやはりなかなか遠くに行くのが億劫になるのだ
そうなると回りが大事になる、近間が大事になる
生活の場が近間になってしまうからである

銀行はもう害になるだけでいらない? (投資信託の説明責任があってもしない(犯罪として認定された)


銀行はもう害になるだけでいらない?

(投資信託の説明責任があってもしない(犯罪として認定された)

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銀行の投資信託販売につき不法行為責任が認められた事例

説明義務違反について

本件各投資信託について、一応の説明は行われていたとしつつも、Xの年齢や投資経験、知識の乏しさに照らし、「本件各投資信託は、その内容を理解することは容易ではなく、将来の株価の予測というおよそ困難な判断が要求され、また、元本割れのリスクも相当程度存在するにもかかわらず、条件付きの元本保証、という商品の特性により元本の安全性が印象づけられることから、当該条件については特に慎重に説明する必要があった」とした。

 そのうえで、Xが不安も述べずにその場で直ちに購入を決めていたことなどから、Xは本件各投資信託の内容を具体的に理解できず、そのリスクについて現実味を帯びたものとして理解 できていなかったとした。

 また、Aらは、Xが元本保証を重視していることを知っていたのに、株価予測の参考となる情報を提供しなかったことなどから、本件各投資信託の危険性をXが具体的に理解することができる程度の説明をしたとは認められないなどとして、Aらの説明義務違反を認めた。

 そして、適合性原則違反および説明義務違反による不法行為を認定し、2割の過失相殺のうえ205万9748円の限度で損害賠償請求を認め、弁護士費用20万円を認容した(契約不成立や錯誤については、複数の手続書類(約定書や確認書など) の存在や、勧誘時に一応の説明がなされていたことから否定)。



AがBに対して "accountable" であるということは、AはBに対して自分の行動や決断を説明、正当化し、また不正行為を働いた場合は、処罰を受け入れる義務を負う、ということです。

つまりは、「説明責任を果たす」ということは、与えられた権限を行使し自らの役割を果たし、もし任務に失敗したり、何か不正を働いた場合は、その責任を負う。最終的には出所進退を申し出て、裁きを待つ。

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか。


ここで犯罪と認定されたということである、そこまでできるのか?
こういう判例は他の者にあとで適応できるのか?
こういうことは相当に今増えているからだ、もしこれが適用できれば裁判になり勝訴するともなる、,銀行でも証券会社でも警戒するからすすめにくいともなる
ただここでこれだけで本当に犯罪として裁判で認定されたということはやはり他の者にも相当に影響するのではないか?

銀行がすすめる投資信託は人気商品はもうからないという、なぜなら人気商品となったとき高額になっていて下がるだけだからだという、早いうちに仕込んでいれば将来もうかるしかし銀行が人気商品としてすすめるときはもう下がるときなのである

そのことを銀行は知らないのか?

知っている?

知っていてすすめるのか 

銀行がもうかるから

これはだましという詐欺罪なのだろうか?

まず銀行では今はやりでもうかります、みんな投資していますとかすすめる
youtubeではAIをすすめた、でもその時はもう高額になっていたりして新規参入が多くなり競争が激しくなり株価は必ず下がるという方程式みたいなものがあると指摘していた
youtubeではAI投資で大損した人も説明している、つまりはやりのときをすすめるがその時はすでに高額になっていて遅い
後は株は下がるだけだというのが株をしている人は知っている
今はやりのものはそのずっと前にしこんでおかないとみんなが参入したときでは遅いのである
でも銀行はそれを知っていてすすめてくる、知らないわけがないのである
その時証券会社の人も一緒に来たから銀行と証券会社は共謀していたとなる

銀行員は私はプロですからまかせてくださいという
その人は証券市場で一時的に働いていた
ではその人はこうした事情を知らないですすめているのだろうか?

このyoutubeでは東京の大きな銀行でもすすめらたのである
その大きな銀行でこうした事情を知らないのだろうか?
つまり銀行は金融業だから株式にも素人よりは通じていると思うだろう
そういうふうにプロだからまかせてくださいというからまかせたのである

でもそもそも銀行は投資信託のことを株のことをどこまで知っているのだろうか?
支店長は証券会社ではないから知らないと言っていた
そんな知らないなら投資信託などすすめるなとなる、素人にすすめるなとなる
本当に株のことは知らない,ただ証券会社の人も来たから教えられていることは確かである
でもまた証券会社では本当に金融のプロだとするとき銀行にそうしたはやりの投資信託をすすめるのか?

証券会社はそれがどういう商品か知っている

もうすすめるときはもうからない  

銀行は証券会社から知らないで委託されて客に売るのか

証券会社→銀行→客

ここに二つの媒介となるものがある、この二つはその商品が投資信託がどういうものか知っている、少なくてもそれを仕事にしている人だからである
もしそういうことを知らないとしたら誰もまかせないだろう
もちろん株だとしたらいろいろなことでリスクがあり上がったり下がったりする
でも投資信託に株にも方程式のようなものがある
そこは説明されないし投資信託の仕組みは複雑すぎてわからないのである

ここで私が問題にしているのはこれは意図がある詐欺にあたるのではないかということである

もし知らないとしたらまかせてくださいとか言えるのか?

もし知っているとしたらどうしてそんなもうからないものをすすめるのか?

もちろん株には上がり下がりがあり予測できない、でも事前にyoutubeの失敗した人の話では一切そうししたリスクは説明しないのである
銀行では知っていて説明しない、説明したら買わないからである
いいことしか言わないのである

どうしてもこれは詐欺にあたるのではないか?

説明責任を果たさないということで詐欺になる、それで実際に訴えた人がいる
説明責任を問われたのである、もちろん買う人にも責任はある
でもどこまで買った人に責任があるのか? 
買った人も責任があるとしても銀行側の責任もあることは確かである

要するに銀行側ではその投資信託は実際はもうからないと知っている
でも売った時点確実に手数料がとれるしあとはどうでもいいと考えている
銀行側では絶対に損しない商売だからである

なぜこういうことが起きるのか?

それは医療関係でも説明責任があるのだが良く説明しない、それは専門用語とかになりわかりにくいからである、それで説明されたとしてもわからないままに治療をつづけてかえって薬や抗癌剤を飲み続けて悪化したとか普通にある
医院では医者ではいらない薬でも必要ないMRIの写真をとらせたりする、20万かかったとかある、その費用は福祉関係で税金だったりする
それで医療の費用が高齢化で莫大なものになり国がつぶれるとまでなる

そこではどうしてしももうける利益をあげることが優先されるからだ
医者だってもしいらない薬を与えているとしたら知っていて与えるとしたらそれは違法であり詐欺的なものとなる、そこには金がかかり国の財政に影響してくる

これは原発事故でもあった、まず説明はされない、ただ安全だ、安全だとしか言わない
それで「安全神話」が作られていたから避難する時も一番危険な場所に浪江の人たちは避難したのである
それは「安全神話」が作られていれば事故が絶対に起きないという説明だから事故が起きても対処することなど考慮していないからである
事故の時一番先に伝えたのはアメリカだったのである
日本ではもう何もできなくなっていたのである
アメリカに頼ることしかできないようなものを日本国内に作るなとなる
アメリカでは事故になってもかけつけることもできないからである

原発の場合はまず放射線とかわかりにくい、するとそこに御用学者が科学者が説明するけどそれは政府とか東電に雇われた人であり説明責任を果たすことはできない
やはりただ安全だ安全だとしか言わないからである
危険のことは言わない、言ったら原発も建てられないからである
銀行でももし投資信託がどういうものかそのマイナス点を説明したら説明責任を果たすことになるがそれはしない、そうしたら買ってもらえない、銀行の利益にならないからである

現代文明社会の問題はこうして複雑であり説明されても株とか投資信託でもわからない
医療でもわからない、原発はさらにわからない、そこで説明されてもいいことしか言わない、でも反論もできない、専門家の言うままになる
それで専門家によって無力化された社会だということがわかる
そうして専門家にまかせても専門家が万能ではない、危険がありそれに備えることはできない、そしてとりかえしのつかない大事故になった

結局誰かが何であれ責任をとらされる

投資信託はまがいものだが買った奴が悪い、大損になる責任をとらされる
医療でも抗癌剤をいいとして飲まされて悪化して早く死んだ
死んだ本人が責任をとらされる
原発事故では「安全神話」がふきこまれリスクの説明責任は果たさなかったが地元の人は住めなくなるとか農作物を作れない責任をとらされた
必ずなんであれ誰かが責任をとらされるのが人間社会である
そのことを事前に頭に入れておくことが大事だとなる

日本では、accountability が矮小されて、「説明する責任」になってしまっており、責任を負う、責任を取るという肝心の部分が抜けてしまっています。これは、なぜでしょうか。誰もが責任を避け、どこにも責任をとる人間のいない無責任社会と評される日本の文化では、これも当然の帰結なんでしょうか 

説明する責任ではない、説明したら終わりではない、責任をとるということである、原発事故のことで再三指摘してきたけど日本人は本当に責任をとらない社会である、誰も原発事故でも責任はとらない、でも責任は必ず誰かがとらされるのである
つまり責任をとらされるとしたらそのために真剣になり事にあたり万全を期すとなるからだ
責任とらなくていいとなると説明でも適当でいいしとか事故など百パーセント、確率で百万年に一回しか起きないとか言っていればいいのである、でも起きたらどうするのか?死刑になっていもいいのかとなったらそんなこと簡単には言えないのである
つまり責任感が日本人にはないとなる

これは危険なものですよ

これは大損するかもれませんよ

こういう恐怖をもって対処しないと必ず責任をとらされるし後から泣いても誰もその責任を代わってくれないのである
要するにだまされた奴が悪いとなりどん底にになっても誰も助けないとなってしまう
ただ現代社会はそうして大きな組織が団体がカルト宗教団体でもだましの団体になるし
国家自体がだますということも原発ではあったのである
こうなるとこの世をまともに生きてゆくことは本当に困難だとなる
そういうだますような詐欺的団体でも組織でも容認されているからだ
だから説明責任で銀行が罪に問われたことは大きい、消費者側にたったからである

第一国家がそうしてだますとなるともうお手上げだとなってしまうからだ
銀行などは地銀などは今までは地元でも信用するものとしてあったからだ
だからこそだまされてもばあちゃんは銀行を信じていたのである
だからそういう身近なところでも苦しくなると利益をあげるためにはそういうことをするだから個人でもそうだが団体でも追い詰められると人間は怖いとなる
善悪もなくなるからだ、それで日本の戦争でもアメリカに経済的に追い詰められたから石油も入らないとかで戦争に突入して負けたとなる
追い詰められることはすでに敗北しているのである
事業して失敗した人も借金して追い詰められているから人を助ける余裕などない
結局自分の困窮している時に来た人はみんな追い詰められた人だったから怖いものとなったのである
今自分は多少金銭的にも助けているとなるとそれは今は病気でもないし余裕があるからである

余裕がない人はみんな危険だ

銀行も今は追い詰められているから危険だ

追い詰められている人間と接することは一番危険だとなる 

いづれにしろ引用した文のようにして事にあたっている人がいるのか?
そうでないから国家の事業ですら誰も責任はとらない、そして誰かが確実に責任をとらされるのである
だから実際に説明責任を果たさないと判決が出て罰せられたということは知るべきである
原発事故では本当にこれをあてはめれば説明責任を果たさない犯罪だったとなり罰せられるべきだが罰せられないのである、誰も責任をとっていないのである

それにしても地銀とかはもともと信用を第一にしている、銀行だとそうである
証券会社はもともと何かあやしいものとして普通は手を出さないのである
自分もそうである、銀行は信用できるものだと思ったから銀行にすすめられたから買ったという人は相当に多い

でもこういうことを銀行がそれも大手でもするとなると銀行の信用はどうなるのか?

銀行はそんなものだったのか?

もう銀行は信用できない,地銀とかは何するところなんだ、地域にもいらない
実際に銀行が生き残るのは県で一つくらいとなる、銀行が消えてゆく
それはこんなだましをして悪あがきをしても生き残れなくなったのだ
何かそもそも投資信託は老人をだますために作られた商品だったと思う
次々配当金が入るとか何か利子がついてくる感覚になっていたのである
自分も馬鹿だと言えば馬鹿であり責任があることはある
でもばあちゃんが銀行を最後まで信用していたように銀行とはもともと信頼されていた
地銀となると地域に密着するから信用第一だったのである
それで銀行に就職するには身元調査をしたりと金を扱うからうるさいのである
それがこんなふうに人をだますような投資信託を売るようになったらもう銀行も終わりである、銀行の役目は終わったとなる
ただ害になるだけではないか?地域に何か貢献することがあるのか?
もうないとしたら役割を終えたとなるのか?

もう銀行はいらない、害になるだけだ!

こうなったらもう終わりである






posted by 老鶯 at 21:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年10月10日

時代の変化についていけない老人 (昔の感覚で社会を見ている−銀行もそうだった)


時代の変化についていけない老人

(昔の感覚で社会を見ている−銀行もそうだった)


老人はこれまで生きた感覚で世の中を見ている、それが実は社会が変わっていると違っているのだ、確かにそういうことは昔からあって老人は新しいものに適合できない
もし江戸時代んのように変化してもスピードが遅ければそれほど影響を受けない
現代は変化のスピードが速い、だからついていけなくなる

銀行は何か硬い真面目な職業だと思っていた、それが投資信託のような複雑なものを老人相手に売る、それは金をもっている老人をだますために作られた商品のように思えた
毎月配当金が入るというときそれが今まで貯金していれば利子がつくもののように老人は思うのもわかる、第一株などわからないからである
投資のこともわからないからである
それで悲しいのばあちゃんが2000万とか損しても銀行を信用していたのである
つまり銀行とはそれだけ信用されていた、それを裏切ったともなる

なぜそうなったのか?銀行は地銀などは特に地元に密着して一軒一軒回る
そうして対面的に信用を得ていたのである
その信用を利用して投資信託のような複雑なだましのような詐欺的商品を売りつけるようになった
でもその時その信用というのが一番の財産だったものが失われたのである
もう銀行員が一軒一軒回っても信用できないとなる
そうしたらそもそも銀行業というのが成り立つのだろうか?
だって銀行で一番大事なのは信用だからである
信用こそ財産だった、確かにそれは目に見えないものだがその信用なくして銀行の業務が成り立つのか?

ではなぜそうなったのか?銀行はもうもうけることができない社会になった
高度成長時代なら銀行は会社の業績でもいいし起業しても成功するとかで金を貸してももうかる、だから利子が7パーセントの時代があったのだ
それがバブル崩壊とかから20年日本経済は停滞した、もう銀行もそこで金を貸してもうけることができなくなる、金を借りて起業したりする人もへるとかで投資先がなくなったのである、それで国債とかでもうけていたがこれもできなくなりマイナス金利になった
それで銀行は追い詰められたのである

人間は追い詰められると善悪がなくなる、今日食べるものがないとなれば平気で人を殺したりする、それは追い詰められているからである
追い詰められた人間は善悪はない、だから追い詰められ人間は怖いのである
そういう人に出会ったら最悪だとなる、そうして悲惨に殺された人もいる
それは個人でもそうであり会社でもそうであり銀行だって同じである
きれいごとを言っていられない、銀行を維持するためならなんでもするとなる
そういう時代になったことを老人がわからない、意識しないのである

それはなぜか?老人は昔の感覚で世の中を見るようになる
今までこうだったからこうすればいいという昔の感覚なのである
それをひきづっているのである、銀行と付き合いがある人は昔の銀行を見ているのである銀行員でもそうである、それが急に変化してきて銀行を変貌したときだまされることにもなる、投資とか株とか昔の銀行はしないしそれが業務ではなかった
だから支店長でも株のことなど知らないと言っていたのである

そういうことは他にもいろいろある、スマホがあるとしてそれをできない老人は理解できないのである、一見それは携帯電話のようにも見えるがかなり違っている
パソコンを携帯化したようなものにもみえる、自分はパソコンを20年くらいしているから同じようにやれるとみるがまた違っているのだ
そうして技術も変化しやすい、進歩すると老人はついていけないのである
どうしても昔の感覚で見るからである
昔はこうしていたからこうすればいいとなるがそれが通じないのである
たからばあちゃんは銀行をだまされても信じていたとなる

例えば中国に旅行したのでも20年前とかなる、時間はすぐにすぎさる
20年前の中国はどうなっていたのか?物価は十分の一であり鉄道は最悪である
家畜のようにして人間がぎゅうぎゅうつめで運ばれていた
とにかく人が多いからそうなった、その時都会への出稼ぎ者が多かったからそうなった
今はどうか、日本並みに新幹線が走っている,これも信じられないし、みんなスマホで決済して現金を使わない日本より進んでいる
日本より進んだものが増えてきたのである
だからこんなに変わるものかと驚きついていけない、どうしても中国でも昔の感覚で見てしまうのである
要するにグロ−バル社会というのは世界的に常に変化のスピードが速い、遅れた国だなと思っても10年とかで変化している、いつまでも遅れた国とはならないのだ
だから今タイとか東南アジアからでも金持ちになった人が日本の観光に来ている
それも今までならありえなかったからである

世の中がもともと無常の世界であるというのは変わりない、そもそも人間自体がいつまでも若くいられない、青春などあっというまに過ぎ去る、そして白髪の老人になっている
そして死んでしまう、その変化からまねがれないから無常なのである
世の中自体もまた変わる、特に現代はそのスピードが早すぎるのである
ただそうはいっても老人だと経験したことがありその経験が活きるということはある
何かしら生きて経験しているからである
でも人間はあらゆることを経験できる人はいない、投資の経験している老人は少ないのである、それも経験だったのである、知識ではない経験しないとわからないことが世の中には多すぎるのである
人間が個人で経験するのはほんの一部である、だから老人が社会のことがわかるということはないのである

江戸時代のような村のようなところでは経験したことが活きて長老のようになることはある、でも現代では老人は膨大な数になっているが無用化しているのである
それは社会が変わりすぎているから老人はかえって邪魔になるだけだとなる  
だから現代は長生きしても老人にとっては生きにくい社会である
むしろ江戸時代なら長生きすれば老人にとってはいい社会だったかもしれない
それもわからないにしろそう見えるのである

老人は本当に浦島太郎のようになる、周りの人間も変わり誰も知っている人がなくなったと現実になる、家族で公務員だった人が役所に行っても知らない人ばかりだったとか
近所でも知らない人が多くなり取り残されたような感覚になっていた
そして認知症になって信じられないけど自分の住んでいる町の名とかすら忘れて思い出せないとなる、そして若い時のことは忘れないから延々と千回も同じことをしゃべっていたのである
それは病気もあるが老人はえてしてそうなりやすいのである
認知症は老人の症状が極端化したものなのである,周りが人間でも変わり浦島太郎のようになる、そして昔のことを延々としゃべりつづける、それだけ社会でも人間そのものの変化でも激しいからそうなる
そして残されたのは死があるだけだとなってしまうのである

タグ:老人の感覚