仮設暮らしは昔の長屋のようにいいものとしても体験した
(かわいそうだけではなかった)
不衛生な環境でしたから、 子供がよく死にました。 統計はありませんが、 長屋では4、 5歳くらいの子供がよく死んだと聞きます。 長屋には年寄りも含めていろんな年代の人が住んでいました。 昼間に両親が働きに出ている間、 子供たちは長屋の老人たちとも自分の家族のように接して遊んでいたのです。 ですから子供が死ぬと、 長屋全体の悲しみとなりました。
死んだ子供のために大家さんが地蔵をつくってくれることも多かったようです。
原発事故では誤解がある、津波と原発事故の避難者が混同されたのである
津波被害者は家族も失い、家も失い、住んでいる村とかさえ失った
その衝撃はあまりにも大きかったのである
そして仮設に住んでいたのは原発事故避難者と津波被害者が交わて住んだのである
原発避難者には手厚い補償金が支払われた
それで仮設で暮らす人を補償金がもらえない人はうらふましく思っていたのである
津波被害者は最も反発していたのである
その待遇の差があまりにも大きかったからである
だから何か外部から見たとき誤解がある、両方が一つのものとして見られた
それは原発避難者が圧倒的に多いということでもそうなった
そして原発避難者と津波被害者は違うのだが同じように見られた
ただ小高でも津波被害者はいたのである
両方の被害にあった人もいた
ここで誤解が生じたのは原発避難者が常にかわいそうだとされたことである
NHKでもマスコミでも原発避難者を応援する立場にたった
だから相馬市のトマト農家が飯館村の人を雇わないということをテレビで訴えさせたのである、全国で見た人は相馬市のトマト農家は冷たいというように見るようになった
これも原発避難者と津波被害者がいることによる誤解を生んだ
飯館村は原発とは関係なかったのだから特別同情があってもしかるべきであった
ただ相馬市には津波被害者が相当にいて苦しんでいたのである
補償金は相馬市では全くもらっていなかったからである
それで働かないで遊んでいる仮設の原発避難者を見て怒っていた人も多かったのである
この辺は複雑になって外からわかりにくくなっていた
でも仮設暮らしというのがそんなにひどいものだったのか?
部屋は確かに狭いし長屋のようになって隣が気になって嫌だということがあった
でも人間の生活は悪いことがあっても同時にいいこともある
仮設で暮らしていた山の奥に住んでいた年配の女性は毎日会えるから楽しいと言っていた仮設に暮らしている人がみんな暗い顔していたのか?
明るい顔をしていた人も多いのである
それはなぜか?
原発避難者の場合かなりの額を補償金をもらった、一か月百万とかもらった人もいる
そこが津波の被害者との大きな差だった
一財産築いたという人もいる、あらゆることで補償金がもらえたからである
そして毎日のようにボランティアがきて炊き出しをしたり娯楽を提供したり何かとしてくれた、これも仮設暮らしをいいものにしたのである
その時仮設を提供した地域では補償金がもらかないから不満になっていたのである
特に津波被害者は同じ仮設に住んでもその差が大きいから怒りにもなっていたのである
私が仮設に住んでいる人と親しくしたわけではないが、暗い感じはない、何か明るい楽しい感じにも見えた、これは住んでいる人でもいろいろあるから誤解がまた生まれる
それは外部の援助とか応援が常にありボランティアが来ていたということも影響しているそこで皮肉なことに仮設暮らしの人は毎日パチンコとかギャンブルになっていてそのことでまた怒っていた
ただこれは行政の問題もあった、本当は地元の人が除染でも復興する仕事を与えてさせるべきだった、毎日ギャンブルをしている人をみたら回りでは不満になるからだ
行政というのも全く良いものとして働かなかったのである
第一働くと給料をもらうと補償金がもらえないというなれば誰も働かないからである
ともかく仮設がすべて悪いとはなっていてかった,外国の難民生活とはまるで違っていたからである
「私たちは消費して金を使って地元の人を助けているよね」と知り合いの女性が言ったときそうである、それは現代社会を反映したものだった
消費者は王様だとなっているから金を持っていればそうなる
だから地元で働く人がいても金をもっていればギャンブルして遊んでいてもいいとなる
でも周りからみればこれはなんなのだとなった
仮設暮らしは経験していないが何かそこにはいいものがあったことは確かである
それはみなんかわいそうな被害者として外部からも扱われたし補償金も多額だったからである
田舎では本当に明日食べるものがないとかガス電気がとめられたとか困窮している人がいた、その人は常に原発避難者をうらやましがって批判していたのである
江戸時代のことを興味がある、それで長屋の暮らしとはどういうものだったのか?
引用したサイトでそのことを書いている
長屋では子供が多く死んだ、それは農村でも子供で死ぬのが多かった
そのために地蔵を作ったとなる、長屋でも京都辺りでも地蔵盆とかあるのはそのためだった、長屋は一つの家のようになり精神的連帯が生まれたから悲しみも共有していたのである、つまり長屋というのでも人間生活には悪い面があってもいい面も必ずある
時代でもそうである、江戸時代が貧乏だからすべて悪いとはならないし現代が豊かだからすべていいものとはななっていないことでもわかる
かえって現代はそうして長屋のような共同がなくなり精神的にも連帯がなくなったからである
長屋には何かそうした精神的連帯が生まれたのである
それで三陸辺りで津波の被害者が老人が仮設に住んで喜んでいたのである
それはそこに長屋の共同生活が生まれて一人暮らしでも気遣ってくれたからである
今老人は孤立化しやすいのである、社会でもそういう社会である
長屋では老人が住んでいるとしてそこに住んでいる子供は家族の一員のようになり老人も孤立しない、それよりその時代は老人といってもまた80歳とかの人はいないから別であるにしてもそこは一種の大家族のようになっていたから子供が死ぬと長屋のものみんなで悲しんでいたのである
だから誤解しているのは仮設の人がみんなかわいそうであり同情すべきだと強制のようにされた、NHKでもマスコミでもそのことでは一致していた
だから仮設を建てて受け入れた地元では批判することはできなくなった
南相馬市では小高と鹿島は反目するようになった
小高の人にすれば全国の人は遠くからかけつけて応援しているのになんなのだ
金の不満ばかり言っているとなり仲たがいするようになり分断されたのである
金になると人間はうるさい、それで飯館村でも補償金のことでもめて二つに分断したのである
外部の人でもボランティアでもかかわるとき地元の事情に通じるのはむずかしい
紛争地域でもそうである、そこに介入するとかえって悪く影響することもある
ボランティアはもともと行政がするものでありそれを無料で仕事させることを批判している人もいる
人間の世界の複雑さは善意をもっていてもその善意が思ったように通らないことである
その善意もは悪く作用することすら普通にある
善意でしたとしても迷惑な場合がある、障害者でも本当は自立したい、だから駅で盲人を手をとって電車に案内したとき嫌がっていた
その人は自分で電車にのれるからだ、ただドアをあけるくらいはしてもよかったが手を取って誘導するのは嫌がっていたのである、自分でできることは自分でしたいのである
ともかく仮設暮らしというのは外部から理解しにくい、でもそれが全部悪いことではなかった、いい面がかなりあった、それは今の社会が失ったものが再現したともなる
長屋暮らしは共同であり精神的連帯が生まれた
ただそれは仮設に暮らしている人たちの連帯であり仮設を提供した人たち地元の人はそういうことはなかった、そこには反目があった
ただ老人問題を考える時長屋暮らしというのが意外といいものだったということである
女性にとってもそうであり一人暮らしの老人にとってもそうである
毎日顔を見合わせて気遣ってくれるということがあったからだ
今の社会は本当に無縁社会とか孤立しやすいのである、そういうシステムの中で生活しているからである
一番の問題は何か物質的経済的にも精神的にも共同するものがない
そこに介在するのは金だけになってしまった、金さえあればいいとなる社会である
そこに人間と人間の関係も金だけの関係となってしまった
それが貧乏であっても江戸時代の長屋には共同生活がありそこで悲しみも共有されたとなる
ただ江戸時代でもこれも必ず誤解してみている、時代があまりにも違うから今からみるから誤解になる、そこで暮らしたら地獄だったともなるからだ
ただ仮設暮らしは悪いことばかりではなかった、いい面も多かったのである
それは特殊な状態が生まれてそうなったとなる
だから何かそこで原発避難者に対して過剰な同情が生まれたのも問題だったのである
でもマスコミでもNHKでも応援したから何も言えなくなったのである
今でもそういうことで反発しているからだ
そして南相馬市などで内部では分断されてしまったのである
それは飯館村でも他でもそうである、行政でも何かかかわり指導して働く必要があったが何もなかったことも問題だったのである