姉と母の死してなお生きる(短歌十首)
(家族は死んでも愛で継続される)
姉と母我に添いつつなほありぬ死すともここに離れざるかも
姉と母生まれ時ゆ我が家にありてすごしぬ我は離れじ
姉と母最後は悲し我が泣きつ苦しみ耐えて我が家を継ぎぬ
姉と母死すともなほもこの家に生きむとするや思い出深しも
その生の終わりてみれば何思ふただなつかしく面影浮かぶ
六〇年定めに結ばる我が家族死して絆の強められしも
我が家族みな死ににけるも月日たちなお我家には愛を感じぬ
姉と母今もなお我が家にありて争わずここに安かれ
父もなお我が家にありて見ゆるかな我一人しも家を守らむ
今年また彼岸の入りと我が墓に花挿す人ありうれしきものかな
悲しきは我が兄なれど子はあれど思う人なく墓参りかな
家族は継続である、だから死んでも継続している、愛は継続しているて消えないのである
父が死んで半世紀以上になるけど忘れていたけど父の存在は家にあり続けた
今は家族で残っているのは自分一人だけになった
でも特殊な事情で自分は家で一番良くされたのである
だからこんな生活がてつづけられらてきたとなる
父親は苦労したから上の学校にあげろといって子供のうち死んだ
なにかそこには自分に託す思いがあった
つまり自分は特別愛されたのでありこの家では良くされたから介護でも必死にしたのである
ただ暗黒面として兄は不幸だった、集団就職で結婚したが離婚して交通事故で死んだ
それも不思議なのは今になると娘がいたとして両親にはひどいめにあったとしかないから恨んでいるから墓参りすらしない
何も関心もないのである、恨んでいるだけだとなる
そこで墓を作って墓参りしているのは自分だけだとなった
その自分の墓に花を一杯挿す人がいた
兄の墓に挿していた、これはありがたいなと思った
それは知られない行為だから尊いと思った
いづれにしろ家族は死んだとして継続がある
死んでも愛を自分の場合感じるのである
それだけ特別良くされたためでもある
だから愛というのは消えないものでもある
死んだらなにもなくなり消えて残らないように見えても
愛というのは継続しているし一種の見えないテレパシーとして感じるものがある
実際父はもう先祖のような存在にしてもやはり自分への愛があったし何か期待があった
何か自分はこの家で特別良くされて期待されていたし担うものがあったとなる
特殊な家族だったが今でも家にいると家族の愛を感じる不思議さがある、だから家というのはただの建物ではない、何かそうして
愛を感じたり受け継ぐものがある
だから故郷でも家でも簡単に捨てた原発避難者のことが理解できないともなる
事情があるにしろ家というのはただの建物ではない
建物ならまた別に他に建てればいいとなるが家にはそれだけではないものがある、建物に付随した付加価値がありそれ故に家には価値がある、ただ他の人にはそれがないから家はただの建物だとなってしまう
とにかく人間は死んで終わりではないことは確かである
歴史でも必ず継続されるものがある
それは家という建物とか物質だけではない、何か精神的なものも継続される、愛は継続して活きているともなる
死んでも愛があれば結ばれているともなる
自分の場合特別家族を思うのはやはり独身だったとか関係している、60年とか長い間一緒に生活していたからである
そういう特殊な事情で家族の思いが深くなっていたのである
歳月の長さというのも関係している
家族が死んで一人はもう8年とか過ぎたが早い
もう一人は三年であり父は半世紀もすぎてしまったのである
でも依然として家族としてある、家族の結びつきはそれだけ強いとなる、ただすべてがそうではない、自分の場合は特殊な事情でそうなったなったのである。
家族でも血縁だけではない、一つの共同体である、そして共同体というとき必ず犠牲が強いられる
私の家族でも犠牲があった、母は家で苦労したし姉も家のために苦労したから今度は自分が苦労する番になっただけである
つまり家族でも共同体でも必ず犠牲が強いられる、それが共同体である
国家でも犠牲が強いられる、国を守るために犠牲になる、300百万人が死んだというときも犠牲だったのである
だから移民として働く人はただかねもうけにくるのでありでは戦争とか放射能汚染でもいち早く逃げたことでもわかる
そういう人はただいいときだけきて後は来ない、そういう人は共同体の一員ではないのである
ただ日本人だってそういう人はいる、金持ちはそういう算段をしているということもある
だから中国の金持ちは外国に逃げる用意をしているというとき何か共同体の一員ではないともなる
ともかく家族にはそうして犠牲が強いられるのである
その番が介護とかで回ってきたとなる、それはやむをえないことだったのである
なぜならそれだけ良くされてきたのだからまた犠牲になるのも順番だったとなるからだ