2018年09月13日

北海道地震でも災害に文明社会の弱さを露呈 (電気も水道もとまればパニックに)


北海道地震でも災害に文明社会の弱さを露呈

(電気も水道もとまればパニックに)

北海道地震では電気がとまったことの影響が大きかった
東日本大震災でも牡鹿半島とかの集落では津波の被害があり裏山の清水を利用して
木をとり米を炊いて部落で協力してしのいでいた

それができたのはまだ清水が裏山に流れていたとか燃やす木があったとかしたからであるもし東京のような所で電気が止まり水道が止まったらどうなるのか?
幸い東日本大震災ではこの辺も津波の被害があったが電気も水道も私の住んでいる地区は止まらなかった
それでご飯を炊いてオカズは味噌汁とかノリがあり一週間ほどすごして二週間目に米がなくなり町で古米を支給して助かった
二週間たち隣の市に自転車で買い出しに行った
その時ガソリン不足で車が並んでいてガソリンが手に入らなかった
そうなると自転車の方が有利だとなっていたのである

現代社会は便利すぎて災害に弱い、不思議なのは災害に強いということはどういうことなのか?それを江戸時代にふりかえると江戸で火事が多いから何ももたない、家も長屋でありただ家事になったら逃げる、長屋は焼けてもいい、延焼しないように火消しは壊すだけである、まず命が大事ということでそういう生活を日ごろからしていたのである
物をもたない、家もないから身一つで火事になったらいち早く逃げる算段をしていた
そうなると津波が来ても身一つとにかくいち早く逃げる、とりあえず何ももたず命を先にして逃げる、すると助かる度合いが大きくなる

つまり不思議なのは災害に強いということは何もなければ身一つ逃げるなら命は助かる
別に命があればまた長屋は建てられるし道具もわずかだからそろえれば同じ生活を開始できるとなる
電気も水道も使うわけでもい、井戸水を使えばいいとなる
だから災害に強いということはその災害に備えるということでも考え方が江戸では違っていたのである。
とにかくできるだけ早く身一つで逃げる算段をしていた
それは津波の時だとそういう日ごろの生活が生きてくる
家とか物に執着すると命が助からないのである

電気とか水道とかガスとか交通でも電車から車からと今は便利である
でも災害になると違ってくる、車は道路に対する占有率が高くなるから渋滞になりそれで逃げ遅れて津波で死んだ人が多い、むしろ歩いたり走ったりして逃げた方が良かったとなっていたのである。特に都会では渋滞になりそれが命とりになったのである
江戸の火事でもそうだが津波に対してもまず身一つでもできるだけ早く逃げることが命を守ることだったのである

現代文明生活は便利である、その便利さがかえって災害に弱くしているのである
つまり電気がなくなったら何もできない、米すらたくこともできない、水道が止められたら水も飲めないとかなる、その時井戸があれば水が利用できるともなる
裏山に木があれば燃料として利用できるとかなる
それは戦前までとか江戸時代になるとそうして自給自足生活だった
だから電気もないし水道もない、でも日ごろからそういう生活しているのだから困ることもないとなる
車だってないのだから身近にあるもので生活しているから困らないとなる

現代文明社会は災害とか一旦原発でも事故になったら壊滅的な被害になる
電気はあまりにも便利なものであり電気なしではありえない社会になっているからだ
原発もまた石油もいらない、石炭もいらない、安上りにできるとかで始められた
しかし一旦事故になったら住めなくなる壊滅的被害になる
そういう怖さが現代文明社会にはある、それは皮肉なのはあまりにも便利な社会だからその便利さが奪われたときもうお手上げになり打つ手がなくなるのである

それで東京とか大都会では電気も水もとめられたらもう何もできない
いかに東京を脱出するかが問題になる、でもその時道路も破損したりして車で避難できなくなる、渋滞にもなる、それでその時自転車が有効だと言われたのである。
自転車でとにかく都会を脱出することが生き伸びることに通じる
東京のような大都会は地震でも災害に弱い、八方塞がりになる
逃げ場がなくなるのである、だから被害が大きくなる

東京のような所だとあれだけ家が密集しているのだからその家がビルが凶器となってくる高層ビルが倒壊したりしたら被害が大きくなる、それは神戸地震を見ればかわる
5000人も心死んだけどそんなに死ぬこともなかったかもしれない
都会だと被害が大きくなるのだ

いづれにしろ日本は自然災害の国だということを東日本大震災より自覚させられた
でもその対策はかえって文明化して脆弱になっている
電気が水道がとまればもう打つ手がなくなる、井戸水もないし備蓄しているとしてもそれだもたりないとかなる、燃料がなくて米もたけなくなる
現代文明生活は意外とあまりにも便利な生活ゆえに災害に弱いのである
電気に頼り水道に頼り車に頼りとなるが車だってガソリンがなくなったり使いものにならなくなったり渋滞で障害物となり津波では多数死んだからである。

だから鴨長明の方丈記に記されたように簡素な生活ならかえって地震にも強いとなる

大きな家を所有するためにあくせく働いたり心を悩ませたりするのは無意味ではないか。最小限の物と住まいで、好きなことに静かに打ち込める環境があればそれでいいじゃないか。そう言って、自らが実践している

これは江戸の長屋と同じである、つまり日本はつくづく地震洪水から災害の国でありそれでそうした生活方法の方がいいともなっていたのである
だから井戸とかも利用していた方が良かったなとも思う
井戸は東京ですらいたるところにあったからである。
つまりあまりにも便利な生活になれて今まであった生活をすべて捨てたことにも問題があった、便利すぎることは危険にもなっていたのだ
原発などもその最たるものである、そんな危険なものを地震国日本に50基も作ったということは災いの種を作ったとなる

だから今の便利すぎる現代文明社会は日本だと地震とか津波で崩壊してしまう
東南海地震がきて津波が来るとそれが現実化してしまう恐怖になる
ただではもう江戸時代にも戦前にも戻ることはできない,するとどうなるのか?
もう死んでも仕方がないという諦観の悟りに生きるほかないともなる
なぜ日本では無常観が生まれかというと本当に自然災害で津波で一瞬にしてなにもかもなくなりという恐るべきことを経験してきたからだと思った
日本と国がどういう国か東日本大震災で自覚させられたのである。


電動自転車だと充電が必要である
でもノーパンクタイヤの災害用自転車だと脱出用にはいい
3万くらいで買えるとしたら用意していた方がいいかもしれない



posted by 老鶯 at 22:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

岡和田から横浜に移り住んだ老人 (都会で増える “呼び寄せ高齢者)


岡和田から横浜に移り住んだ老人 

(都会で増える “呼び寄せ高齢者)

そもそも兄弟の数が減っているので、地方にすら子どもが残っていないから、都市に出ている子どもが世話をしなきゃいけなくなるという。
また一方で、遠距離介護とは違って、Uターンをして介護をするということも、これまであったと思うんですけれども、特にここ10年ぐらい、地方の経済が非常に疲弊していまして、Uターンをして介護をしようにも仕事が見つからない。


その人は電車で来たのではない、車で駅に来たのである、駅には車の人も来るのである
男が二人に老女が一人だった
その老女は私は岡和田に住んでいたんですよと言った
横浜の息子の所に移住したのである
誰もめんどうみるものがなく故郷に住んでいられないで娘や息子の住んでいる場所に引き取られる老人も増えている
逆に老親が故郷に住んでいて横浜から娘が移り住んだ人もいた
それは特別な事情があったからである

なぜこういうことが起きるのか?
知っている人で二人とも娘がいるのだが東京に住んでいる
すると老夫婦でも取り残されたり一方が死んだりすると一人になる
するとめんどうみる人がいなくなる
すると娘とか息子の住んでいる所にひきとられるのである

そうなる人も多いのである、それは結婚は広域的になっているからだ
それで息子であれ娘であれ遠くに住む、ばらばらになっているのが多いのである
昔は実家が長男が継ぐとか実家を守る人がいたが今はいない
それで跡継ぎがいなくて墓じまいしたとかなる
墓も実家があって守られるがそれがなくなると墓も守る人がいなくなるのである
この前は駅前の老女も日立市の甥子の所にひきとられた
そこは空き家になった、そういう人も増えているのだ

広域社会というのはグロ−バル社会でもそうだが物資の流通は盛んになる
でも人間の交流は離れた時点で疎遠になるのである
それは家族でも血縁でも同じなのである
では地元で故郷で誰か周りでめんどうみるかとなると田舎でもいないのである
隣近所で助け合うなど今はない、田舎でも金の世の中になればそうなる

何かこの辺で原発事故以後家族がばらばらになったというとき飯館村の人が嫁の実家の京都に移り住んだとか普通にある、結婚も広域的だからそうなる
そして住み慣れたところを離れてゆくのはつらいともなる
そして農村社会であり田舎なら人のつながりがあると思うがなくなっているのだ
盛んに絆が言われたがむしろ外部との絆は生まれたのである
内部の絆はこの辺は補償金問題とかで分断された
それは広域社会になると外部とのつながりは交通の発達で生まれた
でも内部でのつながりは希薄化したのである

ただ遠くの親戚より近くの他人という諺は今でも生きている
何か困ったことがあったら遠くになると簡単に来ることはできない
結局老親でも近くに息子娘の住んでいる場所に引き取る他ないとなるのである
遠くにいてはめんどうみれないからである
つまり広域社会であれグロ−バル社会であれ矛盾を生んでいる
田舎に住んでいた人が東京とかで暮らすのは年取ってからは嫌だしそれで精神を病むということもあるだろう
これも現代社会の矛盾なのである

abstract river and mountain


abstract river and mountain

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bigriver54321.jpgbudda211.jpgearlyearth1.jpgredmountain34321.jpg
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私の抽象画が無限に作れるのはインタ−ネットでも雑誌の写真でも無限に映像があるためである
それを変化させるから無限になる
でもそれが創作品となるのか?著作権違反になるのか?
そこに微妙なものがある、でも原画とにてもにつかないものならもうわからないから著作権違反にはならない、その元の画像と似ているなとなると問題が生まれるだろう
ただ別にインタ−ネット上で指摘されたことはない
というよりインタ−ネットではそうした著作権違反がわかりにくいのである
世界的になると余計にそうである
私はこれで金銭的利益を得ているわげではないから指摘されないということもある

It is because there are infinite images in Internet and magazine pictures that my abstract painting can be created indefinitely
It changes infinitely because it changes it
But is it a creative item? Will it be a copyright violation?
There is a subtle thing there, but it will not be a copyright violation since it does not know if it does not matter with the original picture, so it will be a problem if it becomes similar to its original image
I have never been pointed out on the Internet separately
Instead, it is hard to understand such copyright violations on the Internet
It becomes unnecessary when it becomes worldwide
Sometimes I am not pointed out because I am not getting monetary benefits by this