2018年09月06日

2018年8月から9月に起きた地震のマップから予測できた北海道地震


2018年8月から9月に起きた地震のマップから予測できた北海道地震


このサイトの地図を是非見てください

この一か月間の地震が起きたのを地図で示している
すると東北の太平洋岸の地域、沖に集中していたのである
ここから安平町の方へ地震が起きることがつながっている
この一か月間の地震は良く見ていれば予想できたかもしれない

十勝沖地震と津波はまた違った方向なのである
そこにも確かにこの一か月間で何度か起きている
しかし東北沖の地震の頻度が多かった

これは何か法則性がある
西日本の方は熊本で起きても太平洋の沖のようには起きていないのである
すると西日本の方には法則性が感じられないのである

東日本大震災の時も実は震源地でこのように一か月前辺りから地震が頻発していたが
注意していなかった、それで失敗したということがあった
この地図は一日感覚で動画として見せる地図である
一か月間を見ていればここに法則性がある

この地図は見ておくべきだったとなる
その他いろいろ地震予測があるがこの地図はわかりやすいのである
posted by 老鶯 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

自然災害もカルマなのか? (カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)


自然災害もカルマなのか?

(カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)

なぜこんなに地震であれ洪水であれ起きてくるのだろうか?
自分自身の災難についも延々と書いてきた
なぜこんなひどい目に合うのか?
それの答えはないがやはり自分のカルマだったとしか言いようがない
カルマが意識しないうちに自分自身にも家にもたまっていたのだ
何か自分は他者と社会と遊離してしまっていたことも原因だったのだろう

個人的にも必ず誰でもカルマが蓄積されている、もう人間はカルマから誰しも逃れらなない、60以後には総決算が強いられる
カルマは必ず苦しみとなって現れるのである
それを隠すことができない、借金を隠してもそれが必ず現れる
そして家族にも周りにも多大な迷惑をかける
そのカルマは決して一人にはとどまらない、家族でも周りでも巻き込むのである。

では自然災害とは何なのか?
これもカルマなのだ、カルマというときその土地に関係している
その土地にカルマがたまっているときそれを放出する時、自然災害が起きる
地震でもそうである、カルマが放出されると苦しみは一応治まる
苦しみとなってカルマが現れるがそれが放出されると一応治まる
ただりその苦しみは相当なものになる
犠牲者も死人も続出してカルマは放出されてその土地はまた安定期に入る

地震の謎は一つの場所に連続して起こらないことが特徴ではないか?
何か熊本にあったら北海道にあるとか予想のつかない所で起きているのだ
十勝沖地震は津波でも予想されていたが今回の安平町などの地震はそれと違ったものだったからである
たいがい予想した地震が起きるとは限らないし的外れになり意外な所で起きているのが地震なのである

いづれにしろ現代はもう仏教でいう末世なのではないか?
世界的にもキリスト教だと終末が近いのではないかともなる
それはカルマが日本でもそうだが世界でも蓄積されてもう放出しないと耐えられなくなっているのかもしれない
そういう時にノアの箱舟とかあったり自然災害が連続して起きる
日本は科学的にもそうした時期にきている
地殻の活動期でありそれは周期的にやってきてエネルギーを放出するときまた安定した時期がやってくる

2018年から何年かは危険な時なのかもしれない
こんなとき東京五輪などやるべきではなかった
なぜなら東京五輪にはやる意義もなくなっていたからである
ここに予算をつぎ込むのは日本をかえって衰退させる
それからカジノも中止になる、日本にまた大きな災害が来たら地震がくるとなれば
外国人も来ないからだ、外国人をいくら金もうけでも際限なく受け入れるのは問題だからである
北海道でも外国人が多いがこういう地震があると外国人も来るのを控えることになる
それでは観光で困るとなるがやはりあまりにも外国人に頼りすぎるのはどうかと思う
日本人が自分の国土でゆっくり観光ができないのもおかしいと思うからだ

ともかくカルマが放出されると安定期に入る、だから何かこの辺は原発事故でも大被害だった、そして住めなくなった
だからこの辺はそんなにこれから何であれかえって大事故とか大災害があるとは思えない大災害が起こるのは東京だと思う、南海トラフとかの大災害が来るかもしれない
そして日本国土の再編成が始まるかもしれない
東京には今度は住めないと地方へ分散する
もう放射能汚染された福島でもいいやとかもなるかもしれない
遷都のことが言われたがそれが大災害で実現するかもしれない
大災害でも起こらないととても大変革は無理だからである
日本が戦争に負けて焼野原になったとき復興したエネルギーのように日本は変わるかもしれない、何かそういう時期に来ている
天変地異はそういう時期に起きて日本の国土を一新するということもあるからだ
それはもういろいろ言っても決断できない
天変地異が人間を決断させるのである

世界史を見てもそうして気候変動とか自然災害で民族移動が起こり世界が変わったとういことがあり気候変動とか自然災害が世界を変えてしまったからである
日本がそういう時期にきていてまた世界もそういう変わり目にきている
だから経済恐慌とかも起きる、もう資本主義は少数者が悪魔のように金を集めている
それを正すためにもそうした世界恐慌とかが起きてくるし資本主義の宿命として起きる
個人的にも金がだまりすぎることもカルマなのである。
その時泥棒が入ったり何かその金をめぐって事件が起きるのである。
だから2018年から何年になるのか変動の時期であり大きなことが自然災害でも起きるし経済的にもそうだし大きなことが起きてくる
そこで極端な富の偏りとかが是正されてゆく、その時アメリカ一辺等の支配も終わる
もちろん中国が次の支配者になるのでもない、世界がまた変動して国産関係も変動してくるからである、そういう国際関係も変動する時代になったのである
タグ:北海道地震
posted by 老鶯 at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

山形の大学生が折り畳み自転車で来る (駅前のドアと盲人の標識のタイルは完成)


 山形の大学生が折り畳み自転車で来る

 (駅前のドアと盲人の標識のタイルは完成)

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ここにある八重桜の根っこもなくなる



 折り畳み自転車で来た人がパンクで駅前の自転車屋で直してもらった
 それが古いものでさびついていたしタイヤを交換したり
 ブレーキを直したり大変な作業になった
 タイヤが古くて癖になっていてもどらないのが苦労だった
 それでもなんとか直した
 一万で買ったというがもう使えないようなものだった

 駅前の自転車屋は何か好感がもてる、接客がいいのである
 普通は自転車は愛想が悪いのでとっつきにくい
 あの人はそうではない、だからいつも人がいて話しているのである
 この前は駅で電車賃のこまかがないと交換してもらったりした
 あの自転車屋は駅前の案内所にもなっている
 津波で死んだ人の碑をその学生は見に来たというので説明した
その学生は大船渡出身だったのである
だから津波に関心があったとなる

 駅前の半自動ドアは入り口も直した
 冬になると閉めれるからいい
 盲人用の標識の黄色タイルも直した
 今は一人が浜吉田から通っている

 今工事しているのは駐車場と自転車置き場である
 写真の所が駐車場でありその脇に自転車置き場を作る
 駐車場の所が自転車置き場になると思ったが
 金を払って駐車する場だった
 駐車場は鹿島駅ではたりないのである
 駅舎の前は一時的にしかとめられないからだ
 それが駅の問題なのである

 あそこには八重桜が咲いていたが根っこが残ったがそれもなくなるだろう
 すると思い出の桜は何の痕跡もなくなる
 一本あった八重桜も切ったからである
 それも淋しい、何かこの辺ではそうして思い出になるものが消えてゆく
 津波で右田の松原は消えたしいつもゆく原町への金沢への道もソーラーパネルになったりして変わった
 ただ池の所の松一本は残っている
 でもまたそこには廃棄物を処理する会社ができたから風致は乱された
 ともかく思い出の場がなくなるのは淋しい

 変わらずに松一本や秋の蝉

 何か駅前でも木があったりとするいいのだ、それは思い出の風景として記憶されるからである、駅は高速のSAとは違って自然でも映える場所だとなるからだ
 それで鉄道が好きなのである。鉄道が写真になるのはそのためである
鉄道には情感がある、それは鉄道には人間の長い時間の中で人間の情はしみこんでいるからである、そこが高速とかとは違っているのである。




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安平町の位置 (北海道地震の被害の地域の地図)


 安平町の位置

 (北海道地震の被害の地域の地図)

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 苫小牧には何度も行っている、電車だと三つに分かれていた、一つは千歳空港のある千歳線である、意外なのは安平町は苫小牧から近い、そこにも電車が通っていた
 それから高山植物が小高い山で見れるアポイ岳へ行く様似駅までの日高本線が台風の大雨の被害で不通になった

 日高本線・鵡川〜様似間の復旧を断念 JR北海道、地元と協議へ

 私は千歳線と日高線には乗ったが安平町に行くのには乗っていない、ただ室蘭本線には乗っている、苫小牧から線路がいくつかに分かれていたから三つの路線が出ていた
ただ日高本線は復旧不可能となった
苫小牧からは本当に景色は北海道になる、湖もあり原始的なものが残っている

今回起きた地震は室蘭まで影響したことも地理的にわかる、でも室蘭は遠いとも感じる
苫小牧には相当に近い、隣の街の感覚である、ただ北海道の距離感覚は本州の二倍くらいの感覚になる

北海道ではたいがい千歳空港から回る人が多いからなじみのある場所である
ただ安平町には寄っていないしなじみがなかった
ても苫小牧の隣だったのである

北広島とかも近い、そこは広い地域である、そこは自転車で通過した
北海道はほとんど全部回ったから地理的にわかる
ただ安平町は小さな町でありわからなかった
でも苫小牧の隣だからあの辺だったのかとなる

今回の地震では結構被害があった、札幌もあったし室蘭まであったということはやはり安平町からそれなりに近いということがあった
室蘭は遠いようにも感じるがやはりそれくらいの距離までは震度が高かった

ともかくあの辺はなじみの場所であり思い出す、あの辺のほとんどは回っているからイメージできる、湖とかも多くいい場所だった

何か今日本列島は自然災害が多くなった、もともと日本は自然災害が多い
でもこれほど東日本大震災から災害が多い国だということを知らしめられたことはない
それで日本には無常観が生まれたことを実感した
いつでもどこでも常に自然災害があり死んだり家が壊されたり流されたりするのが日本だったのである。

自分の家も床上までに二回洪水で浸水被害にあっている、今回の津波の被害はまねがれた北海道の泊原発も電源がとまって予備の電源になったから心配した
原発は地震でも怖いものなのである。
大規模な停電もあり停電になるとその影響は大きい
ごはんがたけなくなったり料理ができなくなるとその影響が大きい
今の社会は電気がなくなるパニックになる
通信網もたたれたりするからだ

コンビニに行列ができたのもわかる、電気がとまり暗い中で買いだめしているのはここと同じだった、ただすぐに品物はなくなった
ここでは二週間外から物資が入らなかった
その時丁度米も一週間分があり電気も通っていたからなんとかしのげた
あとで古米を町で配ってくれたのでも助かった
それにしても東日本震災以降は日本列島は災害が多くなった
みなさんも気をつけて備蓄はしていてください

早めの復旧を願います
posted by 老鶯 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

人間の道の回復(詩) (現代文明批判)


人間の道の回復(詩)

(現代文明批判)

道の辺に芙蓉の咲きぬ
ゆったりと大らかに咲きぬ
その道は田んぼの中を
農家につづく
農家の庭は広い
あなたはその道を歩くがよい
今はここに車が通っていない
昔のようにその道を歩くがいい
歩けばその家までは遠い
その道を歩いてやっとつく
そして人は近くでも
道で結ばれていたことをしる
車の通過するだけの道ではない
人と人を結ぶ道なるを知る
芙蓉がゆったりと咲いている
時間と空間をその道を通じて
人は体得する
人は道を記憶して
道も人を記憶している
その時その場所は切り離せない
永続する場所となる

この詩をイメージしたのは小高に行ったときだった、そこはまだ人が住んでいるのが少ない、だから車も通るのが少ない、田んぼはないが草ぼうぼうである
すると芙蓉が咲いている、するとそこは江戸時代にもどったような気分になった
これも変なのだけど街中でも不思議だった
江戸時代に戻りたい知りたいなら車がないと江戸時代になるのだ
感覚的にそうなる、江戸時代に戻れないのだが車がないと空間も時間も違って見えるのだだからどうして時間感覚が空間感覚が作られるのかというとそれは環境が影響していたのである、現代では明治から機関車が走りやがて電車となり特急となり新幹線となる

それからモータリゼーションの時代になる
車時代になると何か常に車が猛スピードで走りぬけてゆくから時間が早く過ぎる感覚になる、そしてキレル感覚になるのだ
道にしても歩いてい行けばそこは人間に空間を体に刻むとか記憶するとかなるが車で突っ走る時体にも脳にも記憶されないのである
つまり空間を体験するというか記憶することができないのである。
だから現代の旅は浅薄なものになりあとでふりかえると記憶するものがなくなるのである
現代の人間は没場所性の中で生きている、都会を歩いていてもそこに何か記憶しない
記憶に残るのがどういう場所なのか?
例えば原町に行く道は自分にとっては日々の生活道路である
そこに一本の松がある、それは変わらずある、そこに秋になり蝉の声がひびく

一本の松の変わらず秋の蝉

そんな句ができる、その松はここに変わらずあったからである
ただそれも回りは相当に変化した、新しい家が建ったりソーラーパネルになり変わった
労務者の仮設も建っていた、この辺はそうして自然すら変わった
右田の松原は永続的な自然だと思っていたが津波で根こそぎ消失したのには驚いた
だから本当に変わる、無常をこの辺では経験したのである。
変わらないものかあるというとき安心するとなったのである

道も人を記憶している
その時その場所は切り離せない

記憶するというとき場所が記憶するのである、場所がないと記憶されないのである
都会では没場所性だから記憶されない、なんか茫漠たる雑然性の中に人工空間のなかに人は埋没して群衆として記憶からも消えてゆく
群衆とか大衆という概念は明治以降生まれたものである
江戸時代には群衆でも大衆でも存在しない、民衆というのはまた違ったものである
大衆化が現代の特徴だというとき大衆はマスコミなどによって新たに作り出されたものである、大衆というとき何百万とかが単位になる
テレビではその何百万を対象として放送する、番組編成する
テレビによってマスメデアによって作り出されたのが大衆だともなる
テレビがなければ大衆はまた存在しないからである。

NHKの大河ドラマでもそうである、NHKがかって歴史像をドラマで作る
そこで歴史の歪曲が起きる、でも見る人が多いからそれで歴史が誤認されるのである
つまり歴史番組でも何の番組でも多様な作り方があるからだ
報道でもそうである、今ではインタ−ネットで自由に報道番組も作れる
すると多様な見方が生まれる、これまではテレビを通じてマスコミが大衆を導く
テレビが判断したものを大衆が受け入れるようになっていたのである。
その中でもNHKが一番影響力が大きいからNHKが言っているかじゃないかということで大衆の権威となっていたのである
それに反逆する者が今度はyoutubeで放送するようになった
それで相対化される、今ではマスコミのマスメデアの報道が絶対化されていたのである

汽車が通るようになり電車でもそして車時代になってもそういう機械は道具はまた人間性を奪うものとして働く、つまりそういう機械によって空間でも時間でも切り取られという感覚になる、電車でも歩く時代からすると空間をきりとることである
歩く経験とは相当に違うのである、車でもそうである、車は空間を切り裂くように走るからである、そこでの空間の体験は記憶に残らないのである。
また空間の体験は電車でも車でもあまりにも早く距離を短縮することは距離感覚がなくなる、すると空間の体験も浅薄になり記憶されないものとなる
だから現代は便利な機械によって人間的な深い体験ができないということにもなる
だから旅でもその場所の体験ができない、ただ空間をきりとり一過性に過ぎてゆくだけだとなる 

だから短い距離でも歩いた方が空間を体験して記憶に残るとなる
何か今や歩くことが新鮮な体験であり人間発見であり自然発見にも通じているのである
それだけ人間の原体験となる歩くことすらしなくなったからだとなる
自分も歩く旅はしていない、自転車の旅が主だからである
ただ自転車で名古屋から伊勢から奈良に行き飛鳥に行ったとき伊勢と奈良が空間的に通じたという感覚になった、それは相当な距離だったが自転車で行った結果結びついたという感覚になった、これは電車で行ったらそうはならないのである

昔の道は一つの場所であり、他の場所をつなぐ一片の土地だった

昔の道は基本的に場所の延長だから、それはその道を通るすべての場所の性質を拾い集めて道そのものや終着地の地理だけではなく道の傍らの地理にも結びついている
現代の道は乗り物の延長でありそれは場所を結びつけることをしない
周囲の景観とも結びつかない

現代の道はどこからでも始まるけどどこへもつながらない・・・
(場所の現象学)

現代の道はただ物資の輸送の距離の短縮なのである
だから高速道路とかなるとただ車が流れ作業のように流れてゆくだけで景観とは切り離されるのである。一種の長いベルトコンベアーなのである
その場所の風景と切り離されてただ距離を縮めるものとしてある
それは物資を車で運ぶベルトコンベアーなのである
それはやがて自動運転で現実に本当に人が乗らない車が物資でも運ぶベルトコンベアーになる、それは近い将来にそうなる
ただそこでは物資を運ぶのであり人間的体験は省かれるのである