2018年09月24日

資本主義は格差をもともと産む制度 (特別優秀なものを求めるからAIも産まれた ーしかし人間は万能になりえない)


資本主義は格差をもともと産む制度

(特別優秀なものを求めるからAIも産まれた
ーしかし人間は万能になりえない)

●スポーツ選手や芸能人の世界から見る

資本主義とは何か?それはいろいろな側面があるにしろもともと格差をうむ制度なのである
社会主義は平等を目指すが資本主義の理念は違っている、格差を必然的に産みだす制度なのである。
資本主義の欠点としてバブルになるとか恐慌になるとか失業を産むとかマイナスの点は指摘されてきたし現実に起ってきたのである
資本主義とはどういうものかというとプロスポーツ選手とかで芸能人をみるとわかりやすい、野球には何百人も一軍にも入れないやめる人が多い、そして一軍でも収入の多い優秀な人は本当にまれである、でもその一パーセントが興行収入を独りじめするように高額な収入となる
確かに大谷翔平とか注目される、その一人の活躍で野球の人気があがる、みんなアメリカの野球でも見るようになるからだ
つまり一人の天才的な選手が出ることで人気になるからそうなる
ある意味でスポーツでもとびぬけた選手を期待している
その他はどうでもいいとはならないにしても重要視されないのである、芸能人だって吉本興業に6000人いるとか言われ年収が10万だとかなりアルバイトして生計をたてているとかなる
芸能人でもそうして成功する人はまれなのである
タケシくらいになるとプール付きの大豪邸に住んでいる
ただスポーツ選手でも芸能人でも成功る割合は一パーセントくらいであり後は日の眼を見ないのである

●飛びぬけて優秀な人をスーパーマンを求める資本主義

これはスポーツ選手とか芸能人だけに限らないのである
資本主義のルールはこれとにているのである
とびぬけて優秀な人は収入もけたはずれになる
でも平凡な大多数は収入は低くなる、それも格差が拡大してもう底辺層は生きてもいけないという状態になる
つまり資本主義とはそういう極端な格差を産む社会でありそれだからこそ資本主義が普及したともなる
例えばビルゲイツとかジョブスとかパソコンを発明した人は何兆もの収入になる、でもその発明にはそれだけの価値があったからだとなる、毎日同じことを流れ作業のようなことをしている人には価値をおかないのが資本主義なのである

事業するにしても20人に一人くらいしか成功していない
後は事業の失敗者が山ほどいるのである
そういう人が借金とかで苦しんで来て自分を責めてきたことを書いてきた
事業で成功することは極まれであり後は失敗が多いのである
ただ表に出てくるのは成功した人が多い
その成功した人は資本主義社会で富裕層となり大金持ちとなるのが資本主義なのである、株でもうけたとかでもそうである
そとれだって相当な知識と経験がないと株ではもうからない仕組みになっている

それはどこの分野でも職業でもそうである
医者でも優秀な人を手術でもうまい人を求めている
その人のためには多額の金が支払われる、そういう人は社会にとっても価値あるものだからそうなる
病院にとってだけではない、誰でも手術のうまい医者にしてもらいたいのである、でもその医者にかかるとなるなかなかできない
病院でも好待遇で雇わなければならない
それで地方ではできないから東京に集まるというのもわかる

地銀にしても証券にかかわると投資になると今までのやり方ではできない、銀行には投資について投資信託でも全く素人だったのである
でももし一人でも優秀な人がいればいろいろとアドバイスできるからその人に頼み決めてもらえばいいとなる
だからそういう人が簡単に得られないからAIに代わってしてもらうのがいいとなるのだ
人間はいろんな分野でいくら優秀な人を求めても得られないからである。
英語の先生でもネティブのようにしゃべれる先生はいない、とすると翻訳をAIでしてもらうとなる
それは今や相当に優れたものであり詩まで訳していたことに関心する、それだけ進歩しているのである

●人間の願望がAIを産みだす

AIとは何か?それは人間はいろんな分野でスポーツ選手でもス−パーマンも求めているからである。
それだけどこの分野でも優秀な人は限られているし得られないからである
医者であれ技術分野であれその差が大きいからである
芸術だって優れていて後世に残るとなると一パーセントになる
俳句などがそうである、素人のデレタントが膨大にいる
一万人とか軽くいる、でもその中で後世に残るのは江戸時代なら
芭蕉とか蕪村とか一茶とかしか残らないのである
芸術の分野でも優れた人はわずかしか生まれないのである
芸術という時ただ収入が特別多くなるとは必ずしもならない
でもそこでも特別優秀な人を求めても得られないのである
そもそもべートベンのような大作曲が日本に生まれてくれと言っても生まれようがないことでもわかるのだ
そんな人が出てきようがないからだ

資本主義はもともと格差をうむ社会である、それはスポーツ選手や芸能人を例にするとわかりやすいものとなる
資本主義は平凡な人を求めていないのである
特別優れたスーパーマンを求めている
科学技術の分野でもそうである、スタップ細胞が発見されたというとき大騒ぎしたことでもわかる
遂に人間は死ななくなるのかとまで騒いだからである
それは嘘だったがそういうものを期待しているからそうなる

今なぜAIがこれほど騒がれるのか?
それは資本主義では平凡な人はいらない、特別な優秀な人を求めている、それを機械として得られて使用できるならこれほどいいことはないとなるからだ
AIに高額な金を払う必要もないからである。
科学というのも人間の願望から生まれているのである
今や一番の願望は特別頭脳でも優れた人である
でもそういう人は得られないからAIに期待しているのである

●平凡な人は資本主義では無用な者と化す

資本主義は極端な格差を産むということはそういう制度思想の上に成り立っているともなるからだ
まず平凡なその他大勢には価値をおかないのである
そんなこと誰でもできるではないか、コンビニの店員など誰でもできるとなりそうした職業は時給になるのである
後はベーシックインカムが言われるのはそういう大多数の平凡な人は最低限で生活保護のようにすればいいということになる
資本主義では資本家はそういう誰でもできる仕事は機械化するAI化もする、そしてコストを省くようになるからだ

ただAIでもそれはどこまで優秀な人の代わりとなるかは未知数である、創作となるとどこの分野でも簡単にはできないだろう
AIだって創造とすなるとむずかしくなる
何かAIに過剰に期待するのは人間は死ななくなる、スタップ細胞騒ぎとにているのである
奇跡を期待する宗教ともなっているのが現代の科学技術だからである、だから過剰に科学に期待するのである
そこにまた落とし穴がある、矛盾が生まれてくる

人間は結局大多数は平凡でありいくら努力しても天才にはなれない、でも一人の天才の効果はスポーツのように大きい
だからその人が独り占めするような収入を得ることになってもその人を批判できない、それを容認するのが資本主義だとなるからだ
社会主義にはただみんな平等であり才能だって伸ばさないからだ
要するに前提として収入でも待遇でも平等だということから始まってるから資本主義の思想とはルールとは違っているからそうなる

なぜ欧米中心の世界になったのかというとやはりヨ−ロッパには天才がいろいろな分野で多い、それで世界をリードしたということがある、それはなぜなのか?
それはルネサンスにみるように天才を育む土壌があったからだとなる、それが力となって世界をリードしたとなる
中国とかアジアにはそうして世界をリードするような発明などない
日本でも物まねがうまいだけだったとか中国もコピー文化だとかなっているからである
だからアメリカでは著作権とかをうるさく言うようになったのである、ただ自ら発明したものではない作り出したものではないまねして盗んだだけだとしているのである
それで豊かになることは許されないと反発するようになったのである。

資本主義から格差は必ず生まれる、中国だって共産主義の平等を目指してもはあれだけの格差社会になった
その格差でも中国の場合は賄賂社会であり官僚が利権を得ることでそうなった、ただ資本主義でも株式市場でももうけるものはそれとにている、ただ株式市場に通じるにはやはり官僚のように濡れ手で粟のようには金を得られない
そこにはリスクがあり知識や経験がないともうけられないのである
それも一種の特別な才能だともなる
でもそこには何か不正があり一般人は入っていけないのである
不正なギャンブルのようになっているから金融資本主義は批判されるのである

ただ優秀な人が生まれればそれで大衆も大多数の平凡な人も恩恵を受ける、それ医療でも優秀な医者がいたり研究者がいたりすると病気も治るとかなる、パソコンが発明されればそれがどれだけ人類に貢献したかわかる

資本主義はそうして発明と開発とかイノベーションを促進させるからそうなる、そこに格差が生まれてもそれだけ社会に貢献する度合いが大きいから資本主義の方がいいと世界的になっているのである
ただ格差がこれだけ拡大するともう社会自体が分裂して内乱状態になりかねないともなる
要するに株式市場とか金融資本主義はそうして特別優秀な人を作り出しているというわけでもない、それを促進させるにしても世界市場で株が操作されてそこに金が集中することで格差が生まれる
そのことを世界では批判しているのである

●人間はAIでも万能にはなれない

いづれにしろ人間はどんなに能力を尽くして努力しても理想社会など生まれない、作れない、それはなぜか?
人間は万能になりえないからである
神のみが万能でありオールマイティである
だからこそ神なのである、もし人間が全能になったら神を崇めたりしない、人間を崇めることになる、だからもし科学者でもそうしたことを望まれているがなれないのである
なにかしら今回の原発事故のように破綻する
それは人間が万能でありえないからである
だからこそ「安全神話」は崩壊したのである

もし人間が万能になったらどうなるのか?
傲慢になり神を崇めたりしなくなる、神と人間とは同等だとなってしまうからである
そして個々人でも能力は分散しているから万能にはなりえない
あらゆることに通じる人などない、だから謙虚にならざるをえない、そして人間は個々人でも病いあり老いがあり誰でも弱者と化すのである
国でも盛衰があるのは一国がアメリカのように強力になりすぎると傲慢になる、だから必ず世界史を見れば栄枯盛衰がある

AIもまるで万能のように見るが期待するがそうはならない
どんな文明も遂には崩壊する、破綻する、滅亡する、実際に文明は砂に埋もれ森に埋もれ海に沈んだのである
理想の世界は神にのみしか作れらない、それは神によってあたえられるのものなのである

人間はいかに努力しても無益だともなる、なににしろ原発事故のように破綻するのである、それは確実なのである
科学技術がいくら発達しても同じである
むしろこの世は滅びると予言している、欲の社会は滅びると予言している、原発も欲と関係していたのである
原発がそうである、科学というより政治的なものや欲が原発を作らせたからである
地元の人でもそうである、原発で金になるしかなかったのである
その危険性を言う人はいなかったのである
それを言えば地元でも排除されるし住むことさえできなくなっていた

それはなぜか?欲望を抑えろということは誰も同意しないからである
もっとうまいものを食べたい、もっといい家に住みたい、もっといい車が欲しい・・・それは限りないのである
そのためなら不道徳なことでも何でもするとなっていたのである
いかに人間の欲が深いか、それは性にしたってそうである
老人になると無欲になるというのではない、かえって性でも他のことでも欲が異常化してくる、人間の欲は老人になっても死ぬまで消えなということである
だから人間の欲のために滅びると聖書では言っている

そもそも宗教は欲を抑えることではじまったことは共通している
それだけ人間の欲が限りないしそれを抑えないと禍が生じるからそうなった、原発事故でも人間の欲から生まれたのである
資本主義だって欲望を肯定してさらに欲望を刺激していらないものまで宣伝で売らせる、消費は作られるのである
だからそういうことでももう限界にきている
そこで資本主義でも破綻が生じる、人間の欲がこれ以上無制限に拡大したらどうなるのか?
食料でも不足するし環境汚染も増大するしと限界になっているからだ、だからなんらかの歯止めが必要になり天変地異でも起きてくる
そうしないともう地球はもたない、維持できないとまでなっているからである


posted by 老鶯 at 16:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月25日

本当はブラックな江戸時代 (戦後十年までは江戸時代の継続だった)


本当はブラックな江戸時代

(戦後十年までは江戸時代の継続だった)

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●美化される過去と歴史

江戸時代に興味がある、でも江戸時代を知ることは今になるとむずかしい、具体的にわかりにくい、でも人間の歴史は連続性がある、江戸時代から明治になっても全部が変わったわけではない
人間の生活は継続だから変わらないものがある
農民が明治になって楽になったわけではなかった、かえって地租とか貨幣で一定化されて苦しんだとか入会権が奪われて苦しんだとかそこで騒動があり反乱があった
そして歴史を見るとき過去は常に美化されるのである
その時代のことは過去のことでありそこで苦しんで生きていた多数の人たちのことを思わないのである
京都の金閣寺にしてもその時農民は飢えに苦しんでいたが今は金閣寺だけを見て感嘆しているのである
だから歴史は過去は常に美化される、別に人間には悪い面といい面が必ずある

この本でブラックなことばかりを書いているが確実にいい面もあった
何故なら人間社会にはそうして悪い人も必ずいつの時代でもいたからである、ではみんなが悪い人かとなるとそうではない
ただ江戸時代はいい人ばかりでヨ−ロッパの人が来たときいい顔していた幸福そうな顔をしていたというときそれも一面的な見方でありブラックな面はあった
それが人間社会である限りどうにもならない、これだけ豊かな社会でも常にブラックな面があり現実その時代に生きている人はそのブラックな面の方が優先される、テレビでも毎日事件のことが報道されるからである
だから江戸時代でもそうだったのだがもうそのことは遠い過去のことだからいい面だけを見るとなるから過去は人間でも死んだ時点であいまいなものとなりそれぞれの人のイメージの世界になる
肉親の家族の死とかなると現実を知っているからそうはならないが他人だとわからないしまた過去の遠い歴史でもわからないから
非現実的なイメージ、空想の世界になることが多いのである
つまり過去はその人がイメージする世界になりやすいのである

それでドラマが現実ではなくてもそれが現実だと思っている人が多くなるのだ、ただそこにも現実が反映しているが非現実的なことも多いのである
毎日時代劇を見ているから一体それのどこが真実なのか知りたくてこの本を買った、とにかく何か関心があるとき古本でも本が買えるので本は前より読んでいる
何かプログに書くにしても参考になるものが必要だからである
この本を私が良く理解できたのはそういう経験とかじかに親から聞いているとかがあって理解した

●自分の父親は酒屋で丁稚奉公だった
(休日は年に2日しかなかった!)

丁稚奉公が過酷だったという時休みもない絶対服従だったというときもそうである、それが今のブラック会社よりひどいというときもそうだった
それは私の父親が酒屋で丁稚奉公していたからである
葛尾村(かつろうむら)から双葉の新山に出て丁稚奉公して暖簾分けして今の土地に住んだからである
ただ直接話を聞いていないからどういう暮らしをしたのかはわからない、でも不思議なのはどこで字を覚えたのか知らないが良く炭で筆で字を書いていたのである
最後に将棋盤に私の名前を書いた、字を書けるから酒屋で通帳をもって集金していたのである、その通帳が今も残っているからだ
ともかく貧乏であり最後サシミを食えるようになった食いたくないといって死んだのである
酒の肴は味噌を焼いたものだった、何度も言っているが今の団塊の世代は戦後10年は貧乏を経験している
それは江戸時代の続きだったのである

なぜなら燃料は炭だったし街中では囲炉裏があり水道もなかった
電気は裸電球一つでありトイレは外のトイレであり農家ではその糞尿を汲み取りにきて肥料にしていた
風呂は鉄砲風呂とかでその風呂は父親が作ったものだった
燃料は新聞紙にバタをくべるものでそれは子供の時自分の仕事だったのである
それは江戸時代とほとんど変わりなかったのである
ところが風呂というとき江戸時代は下級武士の家でも風呂がなかった、だから銭湯に行ったがそんなにめんどうだから行っていないから不潔だったとかある
一応粗末なものでも戦後でも風呂があったということは恵まれたともなるのである
だから戦前でもそういう生活であり江戸時代の続きだったのである、蒸気機関車が走っていたことなどは違っていたけどほとんど
戦後10年は江戸時代の継続だったのである

●江戸時代でも識字率が高いの嘘

江戸時代の暗黒面になると時代劇では常に遊女がでてくる、遊女にされるのが日常的だからそうなっていた、何か家族が貧乏だから簡単に娘を売りに出してしのいでいるのである
それは時代劇で良く見るからそこは真実だったのである
若い女性がそうして使い捨てにされたというのもわかる

今若い人がブラック会社で使われて問題になり訴えているが江戸時代はもっと過酷だったのである。
丁稚奉公でも休みがとれない、店のいいなりになるほかなかったとかある
一旦悪い噂がたつと他の店でも雇ってくれないとか店の力が強かったからである、それを後押ししたのが役人だとなっていたからである

遊女でも親が困って遊女にするのは普通のことであり世間から批判されない、かえって親孝行者とされていたのである
当時の道徳は親孝行だからである、今のように福祉などないからである、訴えようがないのである
今は貧乏人は生活保護とかを権利と思っているから役所に訴える
それはめぐんでくださいというのではない、権利だと思っているから訴える、権利を実行しているだけだという考えでしている

でも江戸時代は貧乏でも訴えることはできない、だから物乞いになる、生活保護時代が戦後十年とかなかった
だから自分の家の隣では餓死した人がいたのである
家族がいたがその家族が非情だから死んだという事情はあるが生活保護とか何か今なら保護されて救済されていたからである
今でもおにぎり食いたいと餓死した人がいるから豊かな時代でもそういうことはありうる
すると今が過去になり歴史になるときそういう一つの例で貧乏だったのかとも判断される過ちがあるのだ

ただ江戸時代が全般的に貧乏であり家には風呂がないし水道も電気もない、毎日の食事はあまりにも質素だった、魚がついたらいい方であり味噌汁と豆腐と納豆くらいが毎日の食事だった
私の母も大正生まれで原町紡績で糸取りを十年していたがそこのおかずは味噌汁と大根だけだったのである
それで良くわからないのだが昼休みを休みたくて遊びたくて早くいして早死にしたという女性のことを言っていた
そんなことで死んだのかということで理解できなかった
それは丁稚奉公でも年に休みが二三日というときその時代も昼休みもゆっくりとれないからそうなっていたのだとなる
戦前でも労働は過酷だったのである

母の一生も過酷だった、父親の事業が失敗してから過酷になった
糸取り十年してあとは東京に行き女中で働いた
そして子供の時は継母に育てられたからひどいめにあった
弁当を作ってもらったが残したら
俺の作ったものは食えないのかと怒られその弁当を投げられて泣いたという
その継母は最後に施設で目が見えなくなり母に頼ってきて「悪かったな」と言って大学病院で解剖されて骨は私の家に来た
この継母は字が読めなくて良く人に頼んでいたのである
その時なぜか明治生まれでも字を書けない人が読めない人がいたのである

だから自分の父親は字を書けたから丁稚奉公して集金の仕事ができたのである
江戸時代でも小藩では文盲が多かったとか寺子屋でも裕福な家の子供が通っていたのである
おそらく自分の父親は酒屋の丁稚奉公して字を覚えたのかもしれない
教育担当の番頭が入店した丁稚の11歳12歳の丁稚に手習いさせたとか書いてある
ただ大店だとなるとそれもよくわからないがそうだろうとなる
他にも大正生まれだと学校にも通えず小説とかで字を覚えたとかいひ人もいた
明治以降でもなかなか字を全部書けたとか読めたとかでもなかったのである、江戸時代だったら余計に読み書きがみんなできたわけではないのである

●侍は模範的な存在ではなかった

侍というのも相当に美化されている、武士道とかで美化されている、でも侍の実態も違っていた
侍でも若殿様はこれが成人したら馬鹿になると見られていた

大名なる者はとるたらない存在だった、彼らには近代型の立憲君主制の権力もなく、教育の仕方が誤っていたために知能の水準ははるかに下回っていた
その理由は日本が諸外国から孤立したためだったためだった
(一外交官の見た明治維新)

将軍の子供は「大奥」で大名の子供は「奥」でそれで奥女中に囲まれ育てられ長じて側近から
「それはなりませぬ」
などど制止される生活だった、世の中のことは何も知らない
ただ家臣からすれば操るための存在に過ぎなかった
(江戸時代はブラックだった−長井義男)

「それはなりませぬ」というとき会津ではこのことを良くもちだす
首相候補になる政治家がこの言葉を持ち出して辞退した
会津の侍に伝わっていたのが
「ならぬものはならぬ」という言葉だったのである
それはなんでもしてはならないと制止された殿さまへの言葉だったのである
だから会津というのは明治以降悲劇の場としてドラマとして観光として売り出されたのである
その真実はまたわからないまま美化されたのである
事実ヤーヤー一揆が農民から起きたことでもわかる
会津の侍の悲劇など農民にとっては好機となっていただけなのである
なぜあれほど美化されているのか?
もちろん薩摩長州がいいわけではない、薩摩長州は権力をにぎったとき別に農民は生活が楽になったわけでもないからだ
でも会津も異常に美化されることは問題なのである

つまり明治維新が起きたのは必然だったともなる、もう江戸幕藩体制は制度疲労起こし内部的にも崩壊しつつあった
300年の太平の世を経て内部腐敗して崩壊しつつあった
そこに外国からの攻撃にあったからひとたまりもなく崩壊したとなる
その時立ち向かったのは殿さまとか既得権者ではない
貧しい下級武士だったということでもわかる
もともと殿様とかは飾りにすぎないし上層部も堕落していたのである、文武両道などもなかったというのわかる
ただその侍の中でも優秀な人は優秀だったのである
だから全部が全部そうではない、それで侍全部がだめだったとはならないのである

とにかく過去は歴史は美化されやすいのである
江戸時代はイメージの世界でしか今は知り得ようがないからだ
そこで苦労した人のことは見ずにすむからである
もしそこに住んでいたら苦労する人が現実にいるらかのんびり見ていられないのである
でも過去とか歴史は人間の遺産でありそれを様々な視点で見れる
そこに苦労した人ばかりを見るのではない、繁栄したものとしても見ることができる
もし苦労ばかりを見ていたらまさに歴史には暗黒しかないとなるからだ江戸時代の景観は自然が豊かだからすばらしいとかなるときもそうである、そこに暮らす人の苦労を見ないでいるからそうなるのである、別にそれがすべて悪いとはならない、どこの国に行っても悪い面があるがいい面だけを見て帰れというときもそうである
貧民街のような所ばかりみていたら嫌になるからである
だからこの本でも暗黒ばかりを指摘するのは問題なのである
江戸時代にはいい面をあったし全体的にはいいものがあった
ただ部分をとればやはりそこには暗黒があるのは今でも同じなのである

そしてなぜ過去とか歴史でも昔が良かったとなるのか?
それは今の時代は常に暗黒がありそれを感じぜずに生きていけないからである、毎日のように事件がありそれがテレビで報道される、すると過去になった時この時代は暗黒しかなかったとなるのである
つまり何か現代の生活で嫌になると昔は江戸時代はのんびりして良かったなとかなる、昔が良く見えるのである
それは江戸時代はただイメージの世界となっているからそれぞれに解釈できるからである
今は金だけの世界であり人情もないとかなるのもそうである
では江戸時代が人情豊かな世界だったとかなるそうでもないがそう見させるのである

posted by 老鶯 at 10:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年09月26日

姉と母の死してなお生きる(短歌十首) (家族は死んでも愛で継続される)


 姉と母の死してなお生きる(短歌十首)

(家族は死んでも愛で継続される)
  

 姉と母我に添いつつなほありぬ死すともここに離れざるかも

 姉と母生まれ時ゆ我が家にありてすごしぬ我は離れじ

 姉と母最後は悲し我が泣きつ苦しみ耐えて我が家を継ぎぬ

 姉と母死すともなほもこの家に生きむとするや思い出深しも

 その生の終わりてみれば何思ふただなつかしく面影浮かぶ

 六〇年定めに結ばる我が家族死して絆の強められしも

我が家族みな死ににけるも月日たちなお我家には愛を感じぬ

姉と母今もなお我が家にありて争わずここに安かれ 

父もなお我が家にありて見ゆるかな我一人しも家を守らむ

今年また彼岸の入りと我が墓に花挿す人ありうれしきものかな

悲しきは我が兄なれど子はあれど思う人なく墓参りかな

家族は継続である、だから死んでも継続している、愛は継続しているて消えないのである
父が死んで半世紀以上になるけど忘れていたけど父の存在は家にあり続けた
今は家族で残っているのは自分一人だけになった
でも特殊な事情で自分は家で一番良くされたのである
だからこんな生活がてつづけられらてきたとなる
父親は苦労したから上の学校にあげろといって子供のうち死んだ
なにかそこには自分に託す思いがあった
つまり自分は特別愛されたのでありこの家では良くされたから介護でも必死にしたのである

ただ暗黒面として兄は不幸だった、集団就職で結婚したが離婚して交通事故で死んだ
それも不思議なのは今になると娘がいたとして両親にはひどいめにあったとしかないから恨んでいるから墓参りすらしない
何も関心もないのである、恨んでいるだけだとなる
そこで墓を作って墓参りしているのは自分だけだとなった
その自分の墓に花を一杯挿す人がいた
兄の墓に挿していた、これはありがたいなと思った
それは知られない行為だから尊いと思った

いづれにしろ家族は死んだとして継続がある
死んでも愛を自分の場合感じるのである
それだけ特別良くされたためでもある
だから愛というのは消えないものでもある
死んだらなにもなくなり消えて残らないように見えても
愛というのは継続しているし一種の見えないテレパシーとして感じるものがある
実際父はもう先祖のような存在にしてもやはり自分への愛があったし何か期待があった
何か自分はこの家で特別良くされて期待されていたし担うものがあったとなる

特殊な家族だったが今でも家にいると家族の愛を感じる不思議さがある、だから家というのはただの建物ではない、何かそうして
愛を感じたり受け継ぐものがある
だから故郷でも家でも簡単に捨てた原発避難者のことが理解できないともなる
事情があるにしろ家というのはただの建物ではない
建物ならまた別に他に建てればいいとなるが家にはそれだけではないものがある、建物に付随した付加価値がありそれ故に家には価値がある、ただ他の人にはそれがないから家はただの建物だとなってしまう

とにかく人間は死んで終わりではないことは確かである
歴史でも必ず継続されるものがある
それは家という建物とか物質だけではない、何か精神的なものも継続される、愛は継続して活きているともなる
死んでも愛があれば結ばれているともなる
自分の場合特別家族を思うのはやはり独身だったとか関係している、60年とか長い間一緒に生活していたからである
そういう特殊な事情で家族の思いが深くなっていたのである
歳月の長さというのも関係している
家族が死んで一人はもう8年とか過ぎたが早い
もう一人は三年であり父は半世紀もすぎてしまったのである
でも依然として家族としてある、家族の結びつきはそれだけ強いとなる、ただすべてがそうではない、自分の場合は特殊な事情でそうなったなったのである。

家族でも血縁だけではない、一つの共同体である、そして共同体というとき必ず犠牲が強いられる
私の家族でも犠牲があった、母は家で苦労したし姉も家のために苦労したから今度は自分が苦労する番になっただけである
つまり家族でも共同体でも必ず犠牲が強いられる、それが共同体である
国家でも犠牲が強いられる、国を守るために犠牲になる、300百万人が死んだというときも犠牲だったのである
だから移民として働く人はただかねもうけにくるのでありでは戦争とか放射能汚染でもいち早く逃げたことでもわかる
そういう人はただいいときだけきて後は来ない、そういう人は共同体の一員ではないのである
ただ日本人だってそういう人はいる、金持ちはそういう算段をしているということもある
だから中国の金持ちは外国に逃げる用意をしているというとき何か共同体の一員ではないともなる
ともかく家族にはそうして犠牲が強いられるのである
その番が介護とかで回ってきたとなる、それはやむをえないことだったのである
なぜならそれだけ良くされてきたのだからまた犠牲になるのも順番だったとなるからだ



abstract mountains


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Oiran

A kanzashi is a type of hairpin that has been loved by Japanese women for hundreds of years. They are most often used when wearing a kimono, and they draw out a woman's natural beauty.
This delicate kanzashi draws out the beauty of the four seasons, and s a work of art by a skilled craftsman.

2018年09月27日

人間の労働には動機が必要 (金だけが動機になる労働は人間を退廃させた ―資本主義のモラルの崩壊)


 人間の労働には動機が必要

(金だけが動機になる労働は人間を退廃させた
―資本主義のモラルの崩壊)

人間には心がある、人間は心でももって動く、ロボットには心がない、だから例えば荷物でも一定区間を運ぶにしてもこれだけの労働するのだからいくらくれとか金が少ないとかなぜ荷物を運ばなければならないのかとか考える
例えば無料で何か荷物で運ぶことは誰もしない
でも美人の女性だったらそういうことをする男性が出てくる
それも一つの動機があり心が動いてそうする
人間は何かするにも無料ではしない、するにしても動機がある
そこに人間のやっかいさがあり人間を雇うことは働かせることはそれだけむずかしいのである
なぜロボットとかAIにしようとするのか?
それは人間自体がコストだからである
そのコストとなる人間を極力省くために経営者は熱心になることがわかる

人間はそもそも働きたくないのである、何か積極的な動機がなければ働きたくない、怠けるのである
そして問題は金だけでたいがい働かせるがそれだけでは人間を働かせるには無理なのである
お手伝いさんを雇ってわかったことはまず自分のために働く動機がない、金しかないのである
この人のために何かしてあげたいという気持ちが全くないのである
だから一人は泥棒で家探ししたとかある
次でも自分のために何かしてやりたいという動機が全くない
お茶一杯でもあげてやりたいという気持ちがない

だから何も言いつけないと本当に何もしないのである
普通だったら家が汚れていたら主婦だった家の者だったら掃除するからである
そういう気持ちがないから何も言いつけないと何もしない
ただ金が欲しい
というだけでその人はただ金を要求するだけになった、それは事情があったので払っていた
ただ三日一回皿洗うといっても二三枚だからそんなこと自分ですることにした、後は金の要求だけなのである

家族が母親はずっ−と食事の用意をしてくれた、それは家族だったからである、それが当たり前だと思っていた
でも今になると本当に自分のために一杯のお茶を出してくれる人がいないなのである
すべては金である、本当に荷物一つもってもらうのに一万とか十万でも払うようにもなる、なぜなら自分のために何もしたくないからである、そうなると全部金だけになるのである
労働でも無償の行為がある、家族労働は本来無償の行為である
子供を育てるのが将来自分が世話してもらいたい自分のために働かせたいという気持ちはない無償の労働である
ただそうして世話してくれるからこそ後で介護をしてくれるともなる、それは結果論でありそういう動機で子供を育てるわけではない
ただ昔は子供が労働力となるとして農民は育てていたということはある、それは時代でそうなった

いづれにしろ自分の言いたいことは人間は心をもっている
だから何かしら心が動かないと動機がないと働かない、荷物一つすら運ばないのである
不思議なのは好きなことであれば苦労でも人間はする
その人はもともと農家の出だから農業が好きなのである
いろいろ文句は言ってもそうなのである
だから苦労でもしている、文句を言ってもしている
ただそのために金を自分は払っている、だからキュウリ一本一万以上したものなのである
その女性にとにかく農業をする動機があるのだ

それは芸術家ともにている、芸術家が金で動いているのではない
何か内発的な動機であり画家だったら傑作を描きたいという動機が強いのである、金のためより前にそうしした動機が強く働いている
だから別に金にならなくてもゴッホのように異常なほど熱心になる
絵が一枚も売れなくても金にならなくてもそうなっているのである
インタ−ネットとかプログでも何か発言したいと知らせたいとかがありそれで無料でも書いたり写真を出したり動画を出したりする人はいる、それで注目をあびたいということでもしている

金だけではないのである、だから人間はすべてが金だけが動機で働くと限らないのである
もし金があるならば自分のしたいことをする、したくないことはもう金をもらってもしないだろう
その人はまず家事などしたくない、皿洗いでも二三枚でもしたくないのである、でも農業は苦労でもしたいのである
ただボランティアでは別に金にならなくてもすることはある
それは金に余裕があり人のために働くことが生きがいにもなるからである、ただその前提として金に余裕がなければ人はボランティアはしない、だから人間の働く動機はいろいろあるから必ずしも金だけではないのである。

金だけが働く動機になると問題が起きる
介護などは何か動機がないとしにくい、なぜこの赤の他人のために嫌な労働をさせられるのか?
給料が高いなら我慢するが安いのにこの人のために働かせられるのか?そういうことで熱心にはなれない
でも家族のためだったらいろいろ世話してくれたとかなり動機があるから違ってくるのである
自分の場合は特別に世話になったということがありできたのである
苦しかったけどもともと家事などしたことがないのにルーズでもするほかなかったとはなるしそういう動機があったからできたのである、人間苦しいことでも動機があればできる
それが戦争とかなると本当に動機が重要になる
なぜ若くて死ななければならないのか?
そのことに納得するには本当にむずかしい
だからいくら戦争を美化してもあのとき特攻隊でも煩悶して死んでいったのである、国のためだ天皇のためだといっても納得できなかったのである

だから人間はやはり金だけでは動かない、何するにしても動機が大事になる
そうでないと困難になったらすぐやめるとなるからだ
犠牲にされるとなると余計にそうである
介護などでも家でするとなると犠牲になるからだ
だから兄弟でも誰かに押し付けられるのである
まず一杯のお茶でもわかして動機がない人は出さない
後は金でやらせるのだがそこには心がこもらないのである
つまり心がこもって動機があってする労働と金だけの労働の差も大きいのである
だからただ機械的にする労働はロボットとかAI化されるのは必然なのである

人間は荷物一つ運ぶのも動機が必要でありしないからである
労働には動機が必要なのである
だからこそ資本主義がもともとウェバーの言うように修道院で生まれたという時、他社を助けるという宗教的動機からはじまったというときそうである
そうして労働することが神の御意にかなうということではじまったのである
それが今はただ金のためだけの労働となったから腐敗したとなる
ただ宗教的動機で働くことは普通はむずかしい、そんな高邁な動機を人間は普通もてない、だからただ金のためにだけ働いているのである、でも労働には必ず人助けということがある


医者とか介護関係とかには具体的でわかりやすくそうなっている
だからその動機がここで金だけになると問題になる
あとは災害の時などは金だけではない、利害に関係なく人を助けるために人は働いたのである、この辺でも原発事故で物資が入らなくなった、でもその時物を運んでくれなければ死にもつながっていたのである、だからこういうときは利害ぬきでの労働が必要とされたのである。
医者がただ金のためにだけ働くとなると地方では金にならないからと東京でみんな働くようになる
地方だと医者の労働がきついし金にもならないとかなって東京に集まる
医者の働く動機が人助けということが基本にあるとしてそれがなくなればただ医者も金だけで動くとなると社会自体が退廃してくる、地方にはいい医者がいなくなってしまうのである
この問題も働く動機が問題になる、地域医療を志す人がいないなくる、ただ医者は金になることだけが働く動機になればそうなるのである

ともかく自分が家族に恵まれたことを書いてきた
でもそのあまりにも恵まれた結果として今や一人も自分のためにお茶一杯も出してくれる人がいなくなった
これもやはりカルマだったとなる、ただ今は与えるだけだとなる
猫に餌やるのもそうだし何か与えることをしなければならなくったのである、だから人間はいつしか知らない間にカルマを積んでいる
それを必ず払わされる、それがカルマなのである
だから老人になるとそのことが具体的に現れる
いくら子供があったとしても親もいろろいだから親であっても名前ばかりの親もいるし毒親もいるから最後にその結果がカルマとなって現れるのである
おそらく人間は最後はカルマを必ず支払わされる
もしこの世で支払わないとしたら来世でも支払わされる
地獄とは何か?それは地獄とはカルマを支払わされる場所なのである

シーシュポスは神々を二度までも欺いた罰を受けることになった。彼はタルタロスで巨大な岩を山頂まで上げるよう命じられた
シーシュポスがあと少しで山頂に届くというところまで岩を押し上げると、岩はその重みで底まで転がり落ちてしまい、この苦行が永遠に繰り返される

これは何を意味しているのか?
有益な労働をしなかった罰なのである、だから無益な労働を地獄で延々とさせられる羽目に陥ったのである
だからニートとかかなり危険なものである
働かなくていいとしてもカルマを積んでいるから延々と今度は無益な労働をさせられるともなる
地獄とはこの世であれ積んだカルマを支払わされる場なのである
老人はそういうカルマを具体的にすでに感じさせるし負わされるのである

いづれにしろ人間の労働が資本主義が修道院からはじまったというときそれが金だけの消費だけの労働となったとき退廃した
資本主義は社会主義と同じく理想があったがそれも退廃した
中国だって共産主義は幹部でも毛沢東でも人民服だった
みんな平等の精神がありそうなっていたが今や幹部は大金持ちで別荘だってもているだろう、何かこうして堕落したから資本主義も社会主義も失敗したから崩壊するということがある
人間は働くにしても動機が大事になるからそうなったとも言えるのである

そもそも何する労働にしてもこの人から金をとればいいとなったとしたら現実になっている、社会が成り立つのかとなるからだ
医者が患者から金とればいい、いらない薬でも飲まして金をとればいいとかなったり銀行員は客に投資信託をうりつけて手数料だけをとればいい後は関係ないとかお手伝いさんは働くにしても金だけしか動機がないとしたら盗めばいいとなり現実になる
介護でもこんな爺婆は何で生きているのだ、早く死んだ方がいいとなる、金持ちでもなぜこんな奴らに俺は使われているんだ、金のためだとなりその接し方でも愛など持ち得ようがなき
家族とは違うからである、こういう何かもともと家族がしていたような労働は極端になりやすいのである
だから現代は労働倫理が退廃してしまったのである

posted by 老鶯 at 10:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

現代の旅では風景も記憶に残らない (浮世絵から見た江戸時代の風景を俳句にする)


現代の旅では風景も記憶に残らない

(浮世絵から見た江戸時代の風景を俳句にする)

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松の間に残雪の富士野の広し

程ヶ谷から戸塚にかけての松並木はその美しさで有名だったそうです

時間は謎である、時間はないという人もいる、空間はあっても時間はないという、空間があって時間がある、なぜなら空間は宇宙は消滅するということが言う人がいるからだ
だから時間はもともと人間が作り出したものである
時間を感じるのは朝になったり夜になったり太陽の変化で時間を感じる、何か時間を量でも計ることができる
砂時計なら時間を砂の量で計ったりする
水時計なら水の量で計る、時間は空間があって時間がありうる
距離があるとしたその距離を行くのに時間がかかるとなる
だからまず空間がなければ時間はありえないのである

人間の一生でもそれは時間が限られているというとき時間は無限大にはない、生きられる時間は決まっている
ただ空間は地質時代でも原始時代でも同じ空間を生きているのである、その空間は消えたりしていないからである
でも人間が生きる時間の感覚は違っている
時間が早く過ぎたり遅く過ぎたりする
江戸時代は時間が遅く過ぎていたと感じる
その時間の感覚も今のように一分刻みではない
時の鐘があってもそれはおおざっぱであり時間の感覚は今とは相当に違う、一日の感覚も一生の感覚も違う
短命であったからその体験したものが今の人より希薄だったとかならない、時間の密度が違っていたのである
長く生きてもそれではその人はどれだけの体験をしたのか?
それをどうして計るのか?それは一概にできない
いくら長い時間を生きても長生きでもそこで何を体験したのか?
そしてその体験をどう消化したのかとかで違ってくる

旅したことでこれまでプログで書いてきた
今交通手段が発達して新幹線で日本縦断だって一日でできるとする、ではそこで旅をした体験として何が残るのか?
ほとんど何も残らない、景色もまた人との出会いもほとんどない
それは早すぎるためである
もし歩いた旅なら旅も道連れとなりその人でも景色でも記憶される、現代の旅は記憶されないことが多い
車が次々に流れてゆく、でもその車の人と対話はない、誰が乗っているかもわからない、ただ機械が猛スピードで過ぎ去ったという記憶しかない、何も脳裏に記憶されないのである
それは自ら旅する時でもそうである、早く過ぎ去るために記憶に残らないのである

街道の松一本一本や秋陽没る

この時自転車から歩いたから一本一本の松を見て歩いたから記憶する、でももし自転車ですら通り過ぎると記憶に残るのは一本一本の松ではない、自転車でも電車でも見る風景が変わって見えるのである、何かだからこの浮世絵の街道の風景でもそうである
橋の欄干にもたれて川を見ている人がいる
川を帆かけ船が上ってくる、その橋を荷物を背負って行く人もあり侍もわたる、その橋は人を記憶している
何か現代では欄干があるとしても大きな橋であり絶えず車が行き来するからそういう風景をすら失っている
江戸時代なら戦前でも車社会ではないから歩く人と風景は一体となっていたのである
車は何か風景を引き裂くようにして暴走するのである
車と風景は一体となりにくい、電車はその点撮り鉄がいるように風景と一体化することがある、だから鉄道は人間的だから好きだとなる

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欄干にもたれる人や春の暮

こういう橋だともたれたくなる、そういう感覚にさせられる、今はゆっくり橋にとどまり欄干にもたれるという余裕すらもてない、橋はただ車を優先にして通り過ぎる渡るだけのものだとなるからだ

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江の島遊行寺橋

欄干に雪の積もりて下駄に行く

人去りて橋に行き積み夜となる

人去りて雪に消えにし下駄の跡


歌川広重 名所江戸百景


京橋竹河岸

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満月や棹さし行きぬ舟一つ

満月や竹運ぶ舟と知られけり

竹運び今夜は休まむ江戸の月

橋高く満月見ゆや京橋に

それぞれに行く人あれや秋の橋



京橋というとき竹河岸であり竹の集積場になっていた
職人の町でもあった、日本橋の前に京橋があった


竹の多くは、千葉県から高瀬舟に載せて京橋川に入って来たものや、群馬県から筏に組んで送ったものであったという。青竹が連ねられている竹河岸の様子は、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれており、

林と見えたのは竹だった、竹を高くしているのは見た眼とは違って絵にしているからである、竹を強調しているのである
これは提灯をともしているから夕方の風景だろう
ただ満月となると月明りでも明るいとはなる

江戸時代の橋は人間と風景が一体となったものである
橋の役割は今とは違い大きい、江戸だからこそこれだけの大きな高い橋があったが地方では橋は貧弱だったろう
欄干さえないのも多いのである

この風景を見る時でもそこに記憶されたものがある
当時の風景が人間と一体となり浮世絵に記録された、記憶されたのである、写真がない時代だから浮世絵から当時を見るとなる
川を舟がゆっくりと棹さし行く、その時何を積んでいるのかわかる、竹なことは月明りではっきりする
どこから来たのかはわからないが千葉県の下総とか群馬県上州とから竹を積んで江戸に来たとなる
この風景は当時の生活を偲ぶものとなる
江戸は川を利用して物資が運ばれていたのである。

今は日本橋も京橋ももう当時を偲ぶものはないし東京では江戸時代を偲ぶものはほとんど消えた
だから東京はつまらないのである、何か過去を歴史を感じるものがない、特に江戸時代はほとんどないからわからないのである
だからもう江戸時代はイメージの世界であり浮世絵とかからイメージしなければなにもないとなる
ただイメージするとリアルな感覚が消失するから見当違いのことが起きてくるのである

ここで言いたいのは時間の密度は空間と一体となり記憶されていたということである
橋は今ではただ遠すぎる渡るという機能だけである
そこに人間的なものが省かれる、ただ車が通りすぎるわたるといってもその時間が歩くのとは違うから一瞬にして過ぎ去るというだけなのである
風景とも記憶されるのはそこでの時間感覚とか空間感覚があり
それは江戸時代とは今では違うのである

雪のふるなかを笠さして橋を着物姿の女性が下駄をはいて静々とわたる
欄干に雪が積もり女性は去ってゆく、その後にも雪はしんしんと降っている、そこに橋と人間と風景が一体となって記憶されるのである
そういう空間とか密度ある時間が消失した
人間の体験は希薄化しているのである、だから旅してもただそれは空間の移動でありそこで濃密な記憶に残る体験がしにくいのである、それで旅してもどこに行ったのかさえわからないことにもなる、団体旅行だと女性ならおしゃべりで終わりその風景の記憶が残らないのである








2018年09月28日

彼岸に虫の音に秋の野 (7年は過ぎた海老の浜など)

彼岸に虫の音に秋の野

(7年は過ぎた海老の浜など)

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海老村のあった所に松が生えて育つ

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昨夜の分

雨しとと死者を思いぬ白木槿

故郷の木の根元にそ虫の声


今日の分

大海に秋の陽昇り鵜の飛びぬ

陽の昇り残月あわれ秋野かな

雨しとと死者を思いぬ白木槿

故郷の木の根元にそ虫の声


雲隠る月に亡き人思ふかなまた光りいで死すともあらじ

この里にともにしあれとあわれかなひびきあいにし虫の声かも

虫の音を今日もここにし聞き入りて近くに住める人思ふかな

耳澄まし虫の音聞きぬ我一人眠りにつきぬ町にしあるかな

耳澄まし今夜も聞きぬ虫の声草深し里ともしびあわれ
(昨夜の分)


今日の朝

津波より7年半過ぎ生い立ちぬ松も育ちて秋の陽さしぬ

津波にも御刀神社残りけり杉木立にそ秋の陽さしぬ

玄関に大岩構え妻亡くす人の住みける秋となるかな

昨夜も虫の声を聞いていた、夜でも歩いている、運動のためである
彼岸だとやはり墓参りであり死者には白木槿がにあっている
お盆ではない彼岸でもそうである

この町は一万くらいだけど河原は草深い、灯でも何かまだ里の感じがある、ただ震災以後は新築の家が何百件も建ったから都会化したのである、ただ灯あわれというときやはり田舎だとなる
これが隣の原町だとまた違っている、原町はやはり都会になるからだ

順序が逆になったが昨夜から今日の朝にかけての感想である
プログは日付順であり本当はその日その日に読むのがふさわしいとなる、俳句短歌とかはプログに向いていたのである
季語があり日本の季節は刻々変わっているからである
俳句はもともとそうした天候の報告として生まれたともなる
日本人の挨拶は天候になっているからだ

今日の朝は晴れたので海の方に行った、海老村は津波で消失した
そこは枯野になってしまった
そして残月が見え海からは陽が昇ってきた
そこには新しく松が根付いて育っていた、津波から7年半過ぎたのである、もうこれだけ育った、枯れた松もあるが新しく生い立つ松もあった、これは津波で塩水をかぶった松とは違うから枯れない
塩分があっても育つ松である
他に松の苗を植えたがそれは苗である、その苗が育つのは30年とか先になるから見れない
ただ自然に育った松がある程度大きくなったのは見れるもしれない
そのうち寿命になる方が早いとなる

いづれにしろ海老村の跡は秋野になった
そこに残月が出て海からは太陽が昇る
右田浜は風力発電の風車である、こんなに変わることが未だに信じられないのである
右田の御刀(みと)神社は残った、あそこまで津波が来たしあそこの家はかなり津波の泥をかぶった、それで京都辺りから大阪からボランティアが来て泥をかきだす作業をしてくれた
その車のナンバーからわかったのである
まず津波の傷痕はまだ消えていないのである
それだけの災害だった、おそらく十年過ぎてもそうである
原発事故も重なってこの辺では傷跡は消えないのである

北海道の方で地震で被害があったがスーパーとかツルハで募金しているが千円札が結構入っていたのには驚いた
この辺ではやはり助けてもらったしそれなりに金が入っている人があるからお返しとして金を入れているのかもしれない
ボランティアも相当に来たからである

知っている人の家は留守である、白内障の手術で二か月仙台に入院している、今日見たら玄関に大きな岩があった
何か岩のような感じのがっちりした人である
でも妻亡くして淋しいと一人で住んでいるのである
そういう人もまた多くなっている

今日は晴れたが昨日は寒かった
本当に秋らしくなった、今日は晴れたからでかけたいとなる
でも遠くには行かない、仙台にすら今年は一回しか行っていない
何か出かけたくないというのもこれだけ旅したの不思議である
ただ思い出す旅はしている、思い出す旅も実際は旅の継続だったのである、とにかく人間は忘れやすい、だから旅を記憶することが意外と大事である、そのことを書いてきた







ネパールの人が自動車の免許を取得 (おくさんを日本に呼ぶという−日本人になりたいとういう)


ネパールの人が自動車の免許を取得

(おくさんを日本に呼ぶという−日本人になりたいという)

前に駅で会った駅の向かい側のホンダで働くネパール人は今日仙台の方から駅に来て自動車免許をとったと教えてくれた
ではどうししてとれたのか?
まず先進国ならもともと免許をもっいていたら実技試験免除とか試験も免除とかあるみたいだ
でもその人はネパールでありヒマラヤの標高4000メートルに住んでいる人である
そういう人がどうして免許をとるのか?
日本語で日本の試験を受かる他ないだろう
そうすると相当に難関になる
でも合格して免許をとったのである

その人は真面目でありホンダで車の修理とかして仕事しているから仕事もすでにできる、日本語もできる、だから日本人になりたいというのもわかる
永住権はとれるだろう、ただ日本国籍となるとめんどうらしい
ともかく奥さんがいて奥さんを呼ぶと言っていた
まずネパールだとあまりにも生活の差がありすぎる
ネパールはベトナムよりひどい第一4000メートルの高所でどんな生活ができるのか?まともに食べるものもないと思う

その人は日本国籍でも申請すればとれる人である
真面目だし日本語能力も高いし仕事もしている、それも車の修理関係でしている、すると会社で援助してくれる
保証関係でも援助してくれるかもしれない
ただ日本国籍となると何かめんどうになる
でもその人はすでに日本に住んで長い、10年くらい住んでいるのかもしれない、だから国籍でもとれるような人なのである
そういう人なら日本人になってもらいたたいとなるだろう
やはり人によりけりなのである
移民を全部否定はできない状態だけど無制限に入れることはできない、それだと後になって困るからである
でもその人は奥さんを呼んで日本に定住することは間違えない
永住することはもう決定しているのである
ネパールに帰らないし帰りたくないというのがわかるからだ
あまりにも生活条件が厳しすぎるのである

今駅では自転車置き場を作っている
前より半分くらいになる、他にも自転車置き場はあった
駅から離れているがあった
駅前は便利でもやはり車が優先されるから前の自転車置き場は駐車場にしたのである
そこが金を払う地元の人のための駐車場である
たいがい家が空き地になると用途としては駐車場になる
車がそれだけ必要な社会だからそうなっている



JR線路の除草剤で沿線農作物に被害 早場米の出荷自粛も 福岡・みやま市 今夏の猛暑で揮発、飛散か

駅ではこの前ホームを原町の駅長が草取りしていた
駅長もそんなことするのかと見ていた
一人で草取りしていた、前は除草剤を線路にまく人がいた
なぜそうしているのか、見通しが悪くなるから線路でも草取りしている、ともかく日本は雑草がどこでも生えるのである
だからどこでも草取りが仕事になる
ここの線路では専用の除草剤をまく車両を利用していたのである
だから本格的でありそれが畑に飛散したのである
これも鉄道を見ていたからわかったのである

鉄道でもいろいろなことがある、それは鉄道に駅でもかかわることがある、今日も何か走行に邪魔するものがあり一五六分遅れたのである、何かと遅れることはある
これから風が吹くようになるとまた遅れる
これは冬だがこれだけは困るのである、もう定期的に遅れるからである


タグ:ネパール人

2018年09月29日

東と西の方角感覚 (大阪人と関東(東京人)の対立)


東と西の方角感覚

(大阪人と関東(東京人)の対立)

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SAPIO−9−10月号

秋の陽は湖西に没りて淋しかな東(あづま)の方に陽は昇るかも

東の野に炎の立つ見えて
     かへり見すれば月かたぶきぬ  柿本人麿

旅をして一番不思議なのは方角がわからなくなることである
それは会津のことでも書いた、東西南北がありそれが山が多くて方角がわからなくなる、ただ西会津となると何か辺鄙な感覚になるし実際にそうである
ただ方角という時東と西が基本にある
それはなぜなのか?
世界的にみても陽が昇る方角と沈む方角が基本になるからだ

オリエント【Orient】

 ラテン語オリエンスoriens(〈日出ずるところ〉〈東方〉の意)に由来し,同じくラテン語オクキデンスoccidens(〈日没するところ〉〈西方〉の意)から来るオクシデントOccidentに対する語。本来,ローマ帝国内外の東部を指したが,帝国の東西分裂以降,西ヨーロッパが独自の歴史的世界を形成していくに従って,自らとは異質なビザンティンおよびイスラム世界,さらにはインド,中国,日本などもを意味するようになる

世界史的にはオリエントが古い、ヨ−ロッパは西であり西欧文明であり新しいとなる、イスラムの方が文明的に先進国だった
ともかく方向感覚として陽が昇る方向と陽が沈む方向を意識する
エジプトのピラミッドがあるカイロでもナイル河の向こう岸に太陽が輝き沈むときその方角はエジプト人にとって死者の国になる
黄泉の国になる、それは太陽が沈むということでそういう感覚になるのは世界で共通しているのである
西というと西方浄土であり西行とかもいて仏教でもその思想があり共通している

ただ人間が方角を意識するときグローバルに意識することはむずかしい、だから東とか西とか意識するにしてもローマ帝国内で意識したとか柿本人麿の歌は山の原での歌だとすると狭い範囲なのである、人間は地理的に世界を意識することは容易ではない
ただ日本でも
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という日本史の資料などにおいて出てくる聖徳太子の言葉がある
まず日本でも中国でも方角を意識していた
それは陽が昇る方角と陽が沈む方角なのである
韓国では日本海は東海(トンヘ)なのである
だから韓国から日本海を望んだ時不思議な感覚になる
日本海は陽が沈む所として意識しているが韓国から見ると陽が昇る国なのである
そういう感覚は旅すると常にある
アメリカでもカリフォルニアは西部であり西海岸であり陽が沈む海になる
これも方角として日本から来てみると不思議な感覚になるのだ

私の短歌を例にすると湖西という地域があり琵琶湖の西なのである、湖西線が通っていて何か淋しい地域に感じた
西には何か淋しい感覚になるのは陽が沈む方角にあるからだ
でも湖西から見て東の方は関ケ原になる
その感覚がなじめなかった、日本でも東と西に分かれる
地理的にもそうであり歴史的にもそうなのである
当然大阪とか京都とか奈良は古いから西が中心だという意識を今でも持つのは理解できる、関東とか東京は江戸時代までしかさかのぼれない、鎌倉があるとしても狭い地域であり西の京都の方がその時も中心であり天皇がいて室町時代になったことでもわかる
天皇がいるところが日本では中心であり京都が千年天皇がいたから中心だった

東京が中心になったのは江戸時代であり明治以降である
だから東京には愛郷心がないというのもわかる
地方からの寄せ集めでできた都市だからである
東北でも良く墓を見てきて紹介したが相馬藩では元禄となると相当に古いしめったにない、一番古くて慶長時代の墓が相馬藩の殿様の兄弟の墓があった
まず室町時代とかにはとてもさかのぼれないのである
奈良や京都や大阪になると江戸時代前まで普通にさかのぼれる
そこに歴史の厚みが不足しているとなる

ただ東と西の栄枯盛衰はある、それは世界規模でもある
西欧文明が世界を支配したという時そうである
でももともとはオリエントが起源だというときオリエントが東が古い文明の源である
インドでも中国でもイスラムでもヨ−ロッパより西欧より古い文明なのである、日本文明も謎にしても古いのである
東と西の栄枯盛衰は柿本人麿のひんがしから陽が昇り西に月が傾くということで象徴的に歌われている
でもこれは世界的に言えるのである、東西文明は栄枯盛衰を繰り返してきたからである、それは千年とか二千年とかの時間でみるときそうなる

ともかく大阪人が関東に東京に対抗意識があり大阪京都が中心だという意識は歴史的に形成された
だから大阪人はどこでも大阪弁を使って話してくる
その大阪弁が親しみ安いのである、だから私は大阪人には好感を持っている、京都弁になると何かよそよそしい、公家言葉になる
一見やさしいようで冷たいとなる、それが言葉にあらわれている
公家の文化がありそこから言葉が出てくるからだ

東北弁はズーズー弁であり何か言葉としては洗練されていないのである、でも縄文時代以来の言葉であってそこに正直さみたいなのものがある、それは洗練されていないが原始的な言葉だともなる
言葉は古語にその民族の精華となるものがあり古語を知るべきだとされる、ヨ−ロッパではラテン語を知らないと本質的に文化人にはなれないというのもわかる
ラテン語はヨ−ロッパの共通語となっていたからである
ヨ−ロッパでは言葉で明確に歴史的に合体したことがわかる
日本語は漢字を利用しても古い日本語との共通性はない孤立語なのであり謎なのである

そして関ケ原を越えて名古屋になるが名古屋は東と西の交わる場所であり歴史的にも信長が天下を統一した地の利があった
武田氏には地の利がなかったのである、中心の京都に進出しやすい場所にあったからだ

名古屋人の気風について

「名古屋の男女の風俗はもっぱら大阪になまぶなり、えひしりあけ(男の髪型)、おぼこづと(女子の髪型)などがあり人気の闊達は江戸にならうなり、吝嗇は京にまなぶなり、ゆえに江戸の戯作狂文は名古屋まで良く通じるなり」
名古屋の女子顔色美なるも、腰大いに太し、一人として細腰なるはなし」

滝沢馬琴の見た名古屋人である、京都大阪と近いし江戸とも通じている地理にあるからこうなった
そして腰が太しというとき農民的な体形気質もあったのかともなる、名古屋は京都とか大阪の影響を受けるがまだ未開的なものも残していたのかともなる
名古屋弁とかでもそれは大阪弁とか京都弁とかの影響を受けている場所である
名古屋の人にあったが東北人からみると闊達な人が多いともなる
つまり名古屋には大阪の商人的気質とか京都の公家的気質とか関東の武の気質とかが混交した場にもなる
それはヨ−ロッパでもそうでありそうした地域には天才が生まれやすいという分析がある
東西の文化の交わる場所とかはそうなりやすいのである、そういう刺激を受けるからである

いづれにしろこうして人間は地理によって文化でも文明でも作られるのである、だから地理を知らずして世界でも日本でもさらに地域でもわからないのである
私の場合は日本は隈なく旅行したからだいたいその土地が地理がわかるから話を合わせられる
ネパールでも一回行ったからここに住んでいる人がいて4000メートルの所に住んでいたというときでもイメージできる
ただあそこでは卵すらなくインドから買っているとかまず何を食べているのか?そんなところで住めるのかという地域である
そんなところにも人が住んでいるから驚くのである
だから奥さんを呼んで日本人になり暮らしたいという気持ちがわかるとなる







雇うことは雇われるよりずっとむずかしい (雇われる人は雇う人の気持ちがわからない)


雇うことは雇われるよりずっとむずかしい

(雇われる人は雇う人の気持ちがわからない)


人を雇うことは、雇われる人と労働契約を締結することを意味します。
また、雇われる人からみると雇主と労働契約を締結することを意味します。
求人に応募して、採用が決まり、働くようになったならば、それは雇主と働く人の間で労働契約が締結されたことを意味します。
働く人から見るとあまり意識しないかもしれません。
しかし、雇う立場の方は、契約を意識しませんでしたでは全く通用しません。
人を雇う以上は、労働契約を締結するという意識をしっかり持たなければなりません。
契約関係にあるということはお互いに義務を負い、権利をもつことを意味します。

もしもクビだと言われても、応じる必要はありません。

労働法も解雇を簡単には認めていません。職を失うことが死活問題になることを法律も考慮しているのです。

ちなみに労働契約を使用者から解約するのが解雇、働き手から解約するのが辞職、話し合って解約するのが合意解約です。

最初に明確に労働契約していないと賃金もまともに払われなくても法的に訴えることができないのである
その人は食堂で働いたが賃金が支給されないが訴えることもできなかった、なぜなら労働契約を結んでいなかったからである
法律的に文書で契約していなと訴えることもできない、それは他のことでもそうである
法律的に訴えるにはそうした証拠が必ず必要になるからである
だから現代では必ず法律的に有効なものとして文書が領収書などが大事になるのである
人間は口約束だとごまかしたりできるからである



雇う人は、雇われる人のことを考えるべきだし、
雇われる人も、雇ってくれている人のことを考えるべき。

雇う、雇われるの関係性に
上下関係だとか主従関係ていうもが
まったく存在しないとは言わないけれど、
結局のところ、「人」と「人」だから
土台の部分は対等だよね、って思う。

でも、人を雇うって、想像以上に気力も体力もお金も必要なのは事実。


雇われている人にも、雇われている人なりの思いがあるのと同じで、
雇う側の人にも、その人なりの思いがある。

「雇われる人」にはこれが永遠に分からないのである。
 だから「雇う人」が語る言葉を全く理解しないことがある。

─それだけではない。
 永遠に愚痴を言い、座っているだけで、何もしない無為の時を過ごすのだ。

繰り返し言う。
人間には「雇う人」と「雇われる人」の二種類しかいない。

どちらを選ぶのかは個人の自由だ。
「雇う人」は時間を思いのままに出来るが、同時に大きな責任を負う。



人を雇うことがこれほど大変なことを意識しなかった
もともと自分には人を雇う資格もないし経験もないし世事に疎いからできないものだった、ただ家の事情があって人を一時間でも雇うようになったのである
最初に雇ったのは自分ではない、母が雇ったのである
シルバーセンターの関係で手伝ってもらったのでそのまま雇った
しかしシルバーセンターは信用されるようでできない
人物の調査をしていない、ただその時はシルバーセンターは介入していないから責任は自分の家にあった

どんなことでもささいなことでも雇うことは大変なことである
雇う方が雇われるより大変なことだと知った

雇う人を信用できるのか?

これ自体がまず最大の困難である、どうしてその人を信用できるのか?
最初はするシルバーセンターとかで信用した
今は個人ではなくそうした組織が信用機関になっているからだ
その後は個人と個人の関係になっていたのである
シルバーセンターとは関係なくなっていたし別にシルバーセンターを通していないから責任はシルバーセンターにはない
現実にそう契約に書いてあるからだ、勝手にシルバーセンター通さないで雇うなと書いてあるからだ
そこが錯覚しやすいことだった
そして田舎のことだから信用することがあった
小さな領域に住んでいるからである
そこで盗まれて大損失になった

ここで私が意識したことは人を雇うことは本当に雇う側にとっては重大なことである
それは家なら家のことをまかすとまでなるからだ
だから家の中に入れる仕事は本当に信用が一番大事である
ヨ−ロッパなどでは信用をどうして得ているかとなると召使というのは前に雇われた家のことを知りそのことで正直に勤めていれば信用ができていた、それは今の履歴書みたいなものかもしれない
そういうことは雇う方で情報が入っていたからできた
要するにその人となりがわかって雇っていたとなる

雇うとはまずその人を信用しないかぎり本当はできない

そして雇う方では「頼みますよ」という切実な思いがあって頼んでいる、でも雇われる人はそのことを意識しない
いくら金がもらえるのか?それしか頭にないのである
そして二番目の人はただ金だけをもらうために来ているだけになった
なぜなら三日に一回皿を洗うにしても二三枚であり後はなにもしない
何をしにくるのか?金の請求である
契約でいくら払うといって雇ったがその倍以上請求する
払わなくても良かったがいろいろ事情があって雇う側の裁量で払ってきた
その時はまだ金の余裕があったからである
別に雇われる人がどうであれ雇う側でよしとすれば働かなくても払う人はいる、それは自由なのである

ここでの雇う雇われる関係は会社とは違う、個人と個人の関係になる
そうすると一番大事なのはどうして信用するかなのである
これが最高にむずかしい、実は雇うということはその人を信用したということなのである
そのことで決められた金を払うとなる
まず履歴書でも見て面接してその人を見て雇うか決める
雇った時点で給料を支払う時すでにその人を信用したのである
この信用するということがいかに重要か?
雇われる人は感じないのである
ただ時給いくらで働かせるだけでありできれば働きたくないとなっているからだ
でも雇う方は実は切実なのである

特に個人対個人になるとそうである、雇う方では困っている
それで他人に頼むとなるまず信用できるのか、家に入れて大丈夫なのか?そのことが最大の問題になるからだ
でも家に入れた時点で雇った時点で実はその人は信用されたのである
でも雇われた人はそうして信用されたことを意識していない
会社でコンビニとかで雇われる場合でもそうだろう
ただ時給をもらうために雇われたとしか意識しないだろう
ただ他人の家に入ることはまた違っている
そこで一番大事なのは信用なのである

雇う方では「頼みますよ」という切実な思いがある
雇われる人はただ時給として金をもらえばいいとしか考えないのである、これだけの金をもらったからこれだけのことをする
それ以上のことはしないとなる
でもその人は例えば三万で頼んだとすると確実に前借りするしなにかにやと要求する、それも電気がとめられたとか水道とめめらたかとか借金とりがきたとか次から次と切迫したことを言う
それで結局必ず倍以上の金額を要求する
それも事情があったから払っていた

「この金額で頼みますよ」と頼んでもそれでは絶対に終わらない
三万で頼んだら三万以上を要求されることがわかると頼めなくなったのである。
三万は六万になるとなれば頼めないのである
金を払う方になるとそうなる、雇う側になるとそうなる
雇う側でも金が無限にあるわけではないからだ、でも雇う人は何かそういうことを感がない,とにかく多くの金をもらいたいとなるのだ,でも金には常に責任がついてまわっている
金をもらえばそれは責任になる

自分の場合は個人と個人の関係の雇用だから会社ではないからかなり違っているが基本は同じなのかもしれない
まず雇う側としては信用しないと雇えないのである
そして雇うということは信用されたことだが雇われた人はそういう自覚はない、ただ時給をもらえばいい、できるだけ働かなくてももらえばいいしかないのである
そこであまり雇われる人は責任を自覚しないのである
頼まれるということはその人を信頼することだったのである

それでなぜ自分は病院に一か月入院したとき親戚の人に知らせないで頼まなかったのか?
それはその人が事業の失敗をして多額の借金をしているからである
もし頼んだら事業家だからその金が大きくなるからだ
すでに金を貸してもいるからだ、そこで頼まなかったということは信用しなかったことである
でも結果的にそのことで大金を失った
だから自分には頼むという人がなかったとなる、信用して頼む人がいなかったのである

人間は頼むとか頼まれるとかを簡単に考えている
ところが頼むという時切実なことがあり何とか助けてくれとかで頼むことがある
でも頼まれる人はそのことを重大なものと考えないのである
雇用関係が今は対等だということにもなっている
それより雇う側の人が責任があり責任が課せられている
そのことを意識しないのが雇われる側である
こういうことは大きな組織でも国とかの単位になるとそうである
指導する立場になるともきすごい責任が課せられることになる
その決断が判断が誤れば戦争のように3百万人とか死ぬことになるからだ、その決断する立場になったら空恐ろしいことだとなる
もうすでにそれは一人ではできない、だから戦争では国民全員が責任あるとして誰も責任は問われない、原発事故でもみんな責任があるとして誰も責任を問わないのである
国民に責任があるとしたら誰も責任は問われないのである
でも必ず誰かが責任をとらされる、3百万人が死んだということで国民が責任をとらされたのである

人を雇うって、想像以上に気力も体力もお金も必要なのは事実。

これは本当にそうである、もう自分はそうした力もない、もともとなかった、ただ事情と成り行きでそうなっただけである
本当に今は雇うと雇われ関係は対等でありむしろ雇う側の責任の方が大きいから雇うことは普通の人はできない
これは指導する人と指導される人の関係にも似ているかもしれない
指導する方が責任が重大であり疲れる
ただ支持される人は責任もなく楽だとなる
でも何かをまかせられる、たのまれることは雇われる方でも実は「あなたに頼みますよ」ということで信用して頼む切実なものがある、でも頼まれる人はそれを感じないのである

だから人間は雇う人雇われる人がいるというとき雇われるだけではなく雇う人の身にもなってみるべきだとなる
そうすれば両方の気持ちがわかるから責任も感じるとなるからだ
結局こういうことも経験しないとわからないのである
雇う人になることは普通は少ない、みんな雇われる人になっているとすると雇うことがどういうことかわからないのである
雇うことも雇われることも実は個人と個人の信頼関係だということだということは基本にある
それがないかぎり両者が基本的にうまくいかない
ただ会社とかなると組織になるとまた違っているが基本に個人と個人の信頼関係として雇用関係はあるとなる
会社だと個人とか雇う人が誰なのか?それが見えないから現代の雇用関係は集団的相互信頼関係に変わったともなるが基本にはやはり信頼関係は個人と個人にある


文章を引用しているがurlだけではない、文章そのままを検索に入れるとたいがいでてくる
だから著作権違反はすぐに指摘できる
引用でも別に相手が指摘しないとか引用側の文が主になっていれば違反にはならないのである
ただインタ−ネットではどこに引用されているかもわかりにくいからかなり違反があるとはなる



posted by 老鶯 at 11:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題