2018年09月17日

愛国心とは何なのか? (利他の精神なくしてありえない)


愛国心とは何なのか?


(利他の精神なくしてありえない)


●経営者と愛国心


利己、己を利するために、利益を追求することから離れて、利他、他人をよくしてあげようという優しい思いやりをベースに経営していきますと、会社は本当に繁栄しますよくなります。


会社経営でもこういうことを必ず言っている、つまり自己の利益だけを求めていたら会社は成り立たない、繁栄しない

でも反面ブラック会社というのがある、それはまず雇う人を社員をただのロボットのように見ている、だから非正規社員として雇う、時間給で人を雇う

それはセブンエレブンとかコンビニとかで雇われる人がそうである

会社ではもうそこに人件費を払いたくないから自動化して無人化したいのである

JRでも無人駅を増やしているのもそのためである

人のコストが一番高いからそうなるのである


そしてセブンエレブンなどではチェーン化して出店するオーナーは会社から搾取されるとある、そこでは会社の利益になることだけを追求してオーナーとかやそこに雇う人はロボットの方がいいと考えているのである

そういうところに愛社精神もロイヤルティも育たないだろう

それが高度成長時代の会社とは違ったものになっている

高度成長時代は企業戦士となり愛社精神が強かったのは会社が終身雇用であり家族のことまでめんどうみる共同体のようになっていたからである

時間給などではない、全人生を考慮して雇っていたのである

ただそれが可能だったのは高度成長という経済が成長して給料が毎年上がっている時だったのである。


経営者になるときただ利益をあげることを至上命令とする、利益があがらなければ社長はやめさせられる、そこに利他の精神などがあるのか?

事業に失敗した人はなぜだったのか?

その人は利他の精神が全くなかったのである。なぜ事業を起こしたのか?、自分が優秀だということを見せたいために事業を起こした

技術的には資格をもっていて優秀だったからである

でも利他の精神など全くなかったのである

ただ金持ちを相手にして金をもうけたいというだけだったのである

だから自分が苦しい時その人は一つの荷物をもつ気がなかった

つまり社長でも何かそうして人に尽くす気持ちがないとできないのではないか?

社長とはただ威張って社員をこきつかい利益をあげるだけを目的として

自分が偉いということを見せるだけなのか?

そんな人が社長だったらどうなるのか?

そこに利他の精神が愛など全くないのである

要するに社員は奴隷であり客は金を得るための道具だとなる


「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」


上に立つものはこうならないと指導できないだろう、ただ威張っていたいという人が経営者になれるのかとなる

モラル的にそうでなければ上に立てるのか?ただ人に仕えさせて威張っていたいとなる人が社長になれるのか?

そんな人に人はついてゆくだろうか?


●格差社会は愛国心を喪失させる


愛社精神と愛国精神でも通じるものがある、国家でも富裕層と貧困層とかに二分すると格差社会になると愛国心は喪失する

みんな自分だけの利を求めるとき国は二分化して分裂する

特に官僚とか政治家とか上に立つものが自分たちだけの利益を求めて社員でも国民でも奴隷のようにみるとき国家でも会社でも忠誠心がなくなり衰退してゆく

ローマ帝国が崩壊したのは貴族が贅沢して奴隷を使っていたからだとなる

そこになぜキリスト教が普及したのか?

それは極端な格差社会だから平等の愛を説くキリスト教が普及したのである

格差社会は国を分裂させる、いづれ国民の不満が爆発してフランス革命のようになる

貴族もギロチンにかけられる、そういう恐ろしい反乱が国民から起きてくる

それは中国などの歴史でもそうだった、極端な格差社会になると金持ちが盗賊に襲われて殺される、そして盗賊が皇帝になったのである


このようなことを自分も経験したので書いてきた

極端な格差社会になるとモラルはなくなる、金持ちはみんな不正でもって金持ちになるとみられる、だから奪ってもいいのだとなる、そこには何の罪の意識もなくなるのである

第一上に立つものが雇う人でも時間給でロボットのように扱う

そこに愛社精神とかは生まれない、奴隷なのである。良く俺たちは社畜なんだよなという時そうである、雇われる社員は奴隷だと思っているからだ


国家にしても国民を政治家とか官僚とかが奴隷のように思い扱えば国家への忠誠心とか愛国心は喪失する、中国では民という漢字は目をつぶすというとき怖いものがある

あれだけ人口が多い大国になると人民とかでも支配者は奴隷とみているのである

そこで皇帝が神のようになり国民から税金をとり酒地肉林とかあくなき欲望に走るのが中国の歴史だった、中国の欲望の強さは地下まで死んでまで自らの権力を誇示して生きようとしていたのである。始皇帝の兵馬俑とかがそうである

それが中国の歴史だったのである、だから中国には愛国心が育ちにくいのである

愛国心といっても国を利用して利己的に私的に欲望を満たすことである

その時国民が犠牲になっても大量に死んでもいいのである

それは共産党国家になっても同じだった、何兆もの富を蓄えた共産党幹部がいたからである、それは昔の王侯と皇帝と変わりないのである。

そういう国家が果たして力をもちえるのか?いくら数が多くても愛国心があるようで実際はもちえないのが中国だとなる


アメリカはどうかとなるとアメリカはホイットマンの詩のように平民の国なのである

そこに王様はいないのである、みんな平民なのである

ただ黒人奴隷はいた、そこに人種差別がある、でも平民の国であるから愛国心もあるとなっていた、そこでも対立争いはあったにしてもやはり愛国心があった

でも今はアメリカでも格差社会になる時愛国心は失われる

アメリカの国家は多国籍企業の言いなりに動く、国家は大企業の使用人のようになる

そして株でも金融でも一部の富裕層に富が集まる、その格差が大きすぎるから国としての統一感がなくなる、何パーセントの富裕層が富を独占する、そういう国になると愛国心は喪失するのである

つまり愛国心とは何かとなるといろいろあるにしても利他の精神が基本になるからだ

それが失われたとき愛国心は失われる、だからアメリカでも中国でも愛国心をもつことはむずかしい、国が巨大すぎるからである。

アメリカで富裕層が愛国心を説くのは矛盾している

なぜならアメリカの貧困層が増大していてわずかの富裕層に富が集中している

まず貧困層に富を分け与えるのが先だからである


●宗教が愛国心の基


日本という国は島国であり一つにまとまりやすい国であった

天皇というのは中国の皇帝とは違う、日本の精神的シンボルのようなものであり地下まで帝国を維持しているような強欲なものはない

そんな権力をもちえなかった、天皇とは逆に飾りだともなっていたのである、実質の権力は侍がもっていて天皇はもっていなかったからだ

ともかく愛国心というとき別に宗教に関係なく宗教者は熱烈な愛国者である

日蓮がそうであり内村鑑三でもそうだし手島郁郎もそうである

キリスト者にもいろいろあっても別に日本文化を否定しない

それは宗教はもともと利他の精神から起きて来たからである

仏教でもそうだし宗教は利他の精神を説くから愛国心も利他の精神から成り立つから共通しているのである

国を愛すとなるとそれは大きなものだから利他の精神なくしてありえないからである


現代は愛国心が失ったという時、上も下も利他の精神がなくなったからである、ただ利己的な利益を求めるだけであり金を求めるだけであり

会社でもそうだし組織団体でもカルト宗教団体でもそうである

自分たちの所属する組織団体の利益をもとめひいては自分の利益になる金になることを求めることになったとき愛国心も喪失したのである

だから戦争はいいものではないにしても国のために死んだ若い人たちには愛国心があった、強制された面もあるが愛国心はあったからできたことである,今はそもそも国は常に否定されている

ただ利己的な利益を求める金だけを求めるだけになっているからだ  


旧約聖書:箴言:15章:17節


野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる


現実はたらふく肉を食べたい、どんなことをしても食べたい、相手を殺しても食べたいとなっている

つまり肥えた牛がいれば奪い合い争いとなり殺し合いになる

この辺でも補償金でもめたのもそうである、原発は金の産むものでありそれで誘致されたのである

危険性などほとんど問題にしていなかった、ただただたらふく肉食べたい、金が欲しいとなっているだけである

そして今度は補償金で争い憎みあっていたのである

野菜を食べて互いに愛し合うことはかえってむずかしいのである

そもそも歴史でも人間の争いはたらふく肉を食べたいということで起きているからである。

互いに肥えた牛を奪い合うことになって争うからである

肥えた牛とは今では石油とかいろいろある、原発でもそうである、それは金になるからである

だから利他の精神を説いても実際はむずかしい、どうしても事故の利益が優先されるからである。

そして富裕層が自分の富を手放したくない、そこで金でいろいろ工作してくる、政治家に働きかける

政治家も肥えた牛を食べたいから富裕層につくとなる、だからこれを実行することは簡単ではないのである。

原発でも地元でもあまりにも欲が前面に出てそういう人がいたからこそ原発は歓迎された

そして事故になりとりかえしのつかないことになったのである。


●日本精神の新たな復活

   

日本精神に再び立つべし



いさおしく御国のために果てにしを今誰か思ふらむ


大和の国にその英霊の浮かぶも悲し認められざるかな


何故に我が死すをかえりみて嘆くらむ              


今民をかえりみる者なし


ただ我が利のみ追いて金のみが力なり


我が社のみの利を求めて民を思わじ


あらゆるものの上から下も求むるは利のみなりき  


心はたやすく金で買われ心は踏みにじられる


すめらぎの誠の道を再び正しうるわしき国を作らむ


日本は再び立たむ正しきを貫く独立の国として


その誇りをとりもどせ、金に計れぬ誇りをとりもどせ


何を恐れむ神の御意の国に宿らば恐ることなし


さらば霊峰富士のさらに映えて国は栄えむ


国を守るは武器にあらじ日本精神なり


誠の道を貫く古来よりの日本精神なり


核兵器にても国は守れざるなり


日本精神と民の力こそ国を守るなり


その民を虐げる者は国を食いものにする者なり


国の富を貪る者よ、民を貪る者よ、呪わるべし


故にこれらを撃つべし一掃すべし


日本の民の力の再びよみがえり立つべし


再び維新の時なり、改める時なり


心ある者は立て、そして戦い、武器を持つにあらじ


大いなる変革の時は再び来たれり  



日本精神とは何なのか?これも今は明確ではない、日本精神は侍精神だという人もいた、何か日本の歴史の中で伝統的に血肉となったものである、それが失われたのは日本が戦争に負けてアメリカ一辺倒になった、そうさせられたということである

金の価値観しかなくなったためである、何か獣のように欲をむきだしにして貪り食らうというだけである

弱者も貪り食らう対象となる、貧困ビジネスもある、弱者とみればつけ入る、もう日本人の良さは消失しているのである

そして核武装が言われるが武器で国が守れるのか?

もう核戦争になると人類滅亡になる、つまり核武装してもそれは自国でも他国でも滅亡なのである

だから今やそんなことしても無益だとなる


ともかく戦後70年で大変革の時が来ている、それはあらゆる方面に及んでいる

結局戦後70年とは明治維新があり70年過ぎて太平洋戦争があり焼野原になり復興してまた70年過ぎた

大きな変革の時になったのである、それは世界的にもそうである

明治維新と戦後の焼け野原を思えばまだその変化は小さいとなる


確かに東日本大震災でもその被害は大きかった、でも戦後の焼け野原を広島の原爆から立ち直ったのを見ればまだましだとも思う

その時は食べるものすらなかったからである。

かえって戦争では既得権者が一掃されて復興したとも言われる、既得権者が居座っていると改革はできないからである。

それが一掃されたので新しい日本になった、ただそれはアメリカ主導でなったのである

だから今度の改革は日本主導でしなけければならない、それは戦争の時のように独立するとなると厳しいものになる

中国が大国化してアメリカがいてロシアがいるからである、その挟間で日本は苦しむからである

ただそういう時期にきているからもう改革は避けられないしもしそれがでなければ日本は衰退して中国であれロシアであれ今度はアメリカが衰退しても属国化することは変わりないのである。


弱者化すると個人的にもそうだが周りの国が攻めてくる、弱者は奴隷化されやすいのである

あからさまに自分が弱者化したとき借金した人が奴隷にしようとしていた

でもその人もまた借金で奴隷になっているのは因果応報である

奴隷として人間を使おうとするものはやがて奴隷として使われるのもカルマなのである

歴史でも弱者と強者は逆転するからである、それも人間の法則なのである


江戸時代でも隣の藩は敵であり助けたりしないのである

弱体化すると好機になり攻めてきて支配されるのである

日本も弱体化するとロシアが攻めてくるし中国も攻めてくる

その前に日本には耕作放棄地とか使用されない土地があり誰が持ち主かもわからない土地が膨大にある、そういうところは中国に買い占められたりしている

空白地というのはそうなりやすいのである

その土地を使用ししても文句を言う人もいなくなるからだ

そのうちに外国人が住んでそこは日本でなくなるということにもなる

だから日本は少子高齢化でそういう危険性も高くなっている

日本の国力が衰退すれば自ずとそうなってしまうのである




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2018年09月18日

月曇る(秋の夜の相馬市) 月曇る(秋の夜の相馬市)


月曇る(秋の夜の相馬市)


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この写真は相馬市のだてやのものではない



家の跡松一本残り落ちし柿

街道の松一本一本秋没陽 

月曇る相馬の城下路地の道

月曇る着物店かな城下町

月曇る着物の柄や衣替え

月曇るスナック一つ路地裏に


残る蝉奥に聞こえて家のあり夕暮れあわれ柚木村かな

ここにある三本の松我知りぬ秋の夜静か月曇るかな   


家の跡が空き地になりそこに一本の松がある、それは家がなくなってもずっとある
何年もある、近くなのだけど誰か住んでいたのだけどそれがわからないのだ
これも不思議である、近くに柿が落ちていた

今日はロードで夕方に相馬市に行った、途中坂になり歩いた、浜街道の日立木の松並木のところである
歩くと確かに景色は違って見えるのだ、つまり一本一本の松を見て歩くのである
自転車でも一本一本の松は見ない、車だと過ぎ去るだけである
街中を歩くときも一軒一軒の店を必ず見るのである、車だと通りすぎるだけなのである

夜の街と昼の街は見え方が違う、夜にしか見えないものがあるのだ
かえって夜だと店でも電気で明るくなり目立つのである
それで相馬市の夜の街を歩いたのである。
そこに着物店があり「だてや」とあった、いかにもこの辺らしいとなる
だてやは伊達氏であり伊達政宗である、仙台屋というのもあるがだてやというのはわからなかった
つまり昼間ではこの着物店はわからなかった、見えなかったともなる
今回デジカメをもっていかなかったので写真はインタ−ネットから拝借した 

衣替えというとき今は夏から秋である、衣替えとかなると女子高校生などは衣替えがある
しかし着物は日常的に着ていない、ハレの日のものとなってしまった
でも江戸時代から明治でも着物は日常的に着ていた
すると衣替えというのはそういう時代のものであり季語になった
現代は着物が日常的なものでないから衣替えという言葉も死語になってしまうこともある

当初は、貴族社会だけの習慣で、年に2回、夏装束と冬装束に替えるだけでしたが、江戸時代の武家社会では年に4回になり、期間も着るものもそれぞれ定められていました。

・4月1日から5月4日までが袷(あわせ)という裏地付きの着物
・5月5日から8月末までは帷子(かたびら)という裏地なしの単衣仕立ての着物を着用
・9月1日から9月8日までの1週間程、また袷を着用
・9月9日から3月末までは綿入れ(表布と裏布の間に綿を入れた着物)を着用

このように細かく定められていたそうです。   

今日は月が曇って光っていた、それがなんとも相馬市の城下町にあっていたのだ
相馬市の不思議は何度もプログで書いているがしんみりしていることである
それはやはり城下町としての歴史がありそれが残ってる
原町市には相馬市に感じる情緒を感じない、だから何でもないようだが店でも城下町にふさわしいなと見る
陶器店でもそこで飾っているものが見るのが楽しいとなる
店とは見せるだったのである、店で見る楽しみがあった

そして相馬市は城下町であり雰囲気的に古風な店があっている、陶器店とか着物店とかお茶屋とかである
原町にもあるのだけど何か相馬市の城下町とは違う、着物店が呉服店があるのだけど相馬市の着物店は街全体の中に調和してあるとなる、ただそれは外部の人には気づきにくい、相馬市は雰囲気が違うのである
それでなんとも月が雲の中に光っているのがにあっていたのである
陰々とした感じなのである

帰りは五本松の脇道を通る、その五本松も日本は枯れてなくなり三本しかなくなった
でも秋の夜にその松は夜でもあることを知っている、闇の中でも知っているから見えるのである。
認知症になると常にもともと知っている人と場所ならなんとかわかるが地理的感覚がわからなくなる
それで知っている人がそばにいないと不安になる、でも闇の中でもこの松のように知っていれば見えるのである
ここに松があることを何度も見ているから知っているから見えるのである

2018年09月19日

東京まで行って医者に診てもらう人


東京まで行って医者に診てもらう人

腰が悪いと前々から医者に行っていた、仙台の医者にも行った、そこは前に小野田病院にいた医者であった、その医者が今度は東京の医者に診てもらいという
その医者は同じ大学で弟子にあたるとかで連絡をとったという
その病院にはこの辺にはない機械があるから良くみてもらいという
それで連絡して薬をだすようにするという

それにしても東京に行くというのは大変である
良く福島医大に通っていた人はいた
それで一番近道を知っていて通っていた
今は高速ができたから早くなる
とにかく病気というのはいろいろあり難病があると仙台でも直せないのか?
わからない病気があるのかとなる
一人は白内障手術したけどもう二か月入院している
それは糖尿病であり手術のうまい医者にみてもらっているからである

その女性の息子は実は今東京の八王子で働いている、でも息子には合わない
援助もしてもらえない、そして常に自分が金を出すことになる
でもそんな人を雇うとどうなるのか?仕事してもらっているのではない
ただ援助しているだけだとなる、へたすると介護までさせられるようになるかもしれないただ仙台の医者は金がないと言ったら一万貸してくれるとまで言っているという
そこまで金の心配までしてくれのかとなる
ただその女性の性格がそうしてめんどうみてもらうようなコミ二ケーションができることには感心している、だからこそそこまでしてくれともなる
自分等は医者でもそんなコミ二ケーションができないからである
そういうコミ二ケーションできる人は助けてもらえることがあるからだ

東京まで行くとなると常磐高速でさくらバスが出ていて5時間くらいで行ける
その人はバスは気にならないらしい、自分も乗りたいと思ったが何か疲れるので東京にも行きたくなくなったのである。
とにかく現代とはもう広域社会である、ええ、金もないのに東京まで行って医者に診てもらうのかとなる
知っている人は東京の親戚を頼り人間ドックに入った
東京だと違うとなるからだ、人間は病気になれば藁をつかむ思いでなんでも頼る
だから東京までも行くとなる
福島医大に仙台の医者から行くなと言われたという、実験材料にされるから行くなと言われたという、それで東京まで行く
ただこれも一面贅沢だなとは思う

ともかく病気の人が高齢化社会では増える、それで医療費とか福祉の負担も増えるのである、何らかの病気になる人が増えてくるからだ
それで昨日のNHKで縁切り自殺のことを放送してい
その人は67歳ですい臓がんになり東京で自殺したのである
それは東京だと行方不明者となり無縁仏として始末されるから迷惑にならないからだという、その人は迷惑になることを相当に気にしていたである
治療費も一か月5万かかるとかで気にしていた
何かそういう考えるのもわかる、ただその人は身寄りがないというのではない
一応内縁の妻とかいたのである、もう一人の人はちゃんと夫もいたのに
突然行方不明となり自殺して消えたのである

人間は最後は介護とかなったら長い、普通に5年くらいはかかる
そしたら身よりがないとなったら誰が世話するのか?
他人は金にしか興味がないからだ
それなら一層死にたいとなる、猫は死ぬ時期になると行方くらますという
人間だってそうなりたい、自殺はすすめられないがあまりにも今は死ぬことが簡単ではない、助けられるのはいいが介護になったら世話する人がいないのだからかえって苦しむだけだからである
おそらく今までは介護といっても一年くらいだったろう
でも戦前でも脳梗塞だと5年生きたとか知っている
その時おむつもなく藁でしていたという、そんなでも5年生きていたとなる

人間は最後はたいがい悲惨である、金があっても直らない病気がある
もし病気が直るなら誰でも金があればいくらでも出すとなってしまう
その人はそもそも東京まで直るのかどうかわからない
ただ医者がそれほど親身になってくれるということで行くという
でも自分にも常に負担になるから困るとなる

銀行とは何なのか? (江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)


銀行とは何なのか?

(江戸時代から明治へ移行するときすべてが変わった)

現代の社会をみるとき江戸時代から明治に変わったときどうなったかを見ないと根本的にあらゆることがわからない
ここの変化が新しい日本を作ったからである
銀行を例にとれば銀行とは何なのだろう?
それはまず銀行はなかった、江戸時代はそれとにたものとして頼母子講とか金貸しとか両替商があった

北イタリアの都市国家は独自貨幣を発行するようになり、都市間の貨幣の交換を行う両替商が生まれた。彼らは都市の広場にバンコ(banco)と呼ばれる台を設置してその上で貨幣の量目を計ったり、交換業務を行った    

三組両替および番組両替には酒屋および質屋などを兼業するものも多かった。

三井は呉服店であり銀行を兼ねた、

三井炭鉱を中心とする石炭事業はやがて三井鉱山会社、三井銀行、旧三井物産となった

銀行は何なのか?それを知るためには江戸時代から知らなければ理解できない
銀行とにたものとして両替屋とか質屋とか頼母子講とかがある
銀行とにたことを酒屋がしていたりしたのは酒屋が当時は主な産業であり金になる会社だったからだとなる 養蚕業でもうけた人も銀行をはじめていたのである。
銀行とは最初そうした事業を起こした会社の中にあったのである

銀行とはもともとこうした多機能なものであった、三井がなぜ銀行業にもなったかというと呉服屋でもうけた、資金が資本が生まれたから銀行業もするようになった
石炭事業でも成功して銀行業もするようになったのである
金融業は銀行はもともとは事業が先にありそこで蓄えた資金が資本となり事業を拡大したのである
ただ頼母子講とか金貸しとか質屋とかにはそうして事業して金を貯えるということはなく銀行の役割とは違うものである
でも銀行だって金の出し入れとかしていた両替もしていた
ただ金を資本としてまた事業を展開するということはなかった
つまり資本主義とはまず資本蓄積があり事業がありそれでもうけてまた新たな事業をはじめる、その役割を担ったのが独立して銀行となったのである

だからもし銀行の役割が何なのかとなると両替屋的機能とか金貸しの機能とかあった
でも近代的資本主義の銀行の役割は事業をして金を貸して投資して利益を出すことにあった
つまり銀行が生まれたのがそもそも事業家からであったことがそれを示している

銀行はその後事業家からではない、一般庶民から金を集めるようになった
それに利子をつけるようになったのである
そして銀行は事業家,会社に金を貸して金をもうけたら利益を出したら利子をとり還元して預金者に利子を払っていたのである
だから高度成長時代は会社がうなぎ上りに成長したから銀行の預金には7パーセントとかの利子がついていた、だから貯金するとそれが十年二十年とかさらにすぎると確実に倍になっていたのである
その時また事業を起こす人が多かったがその事業もまた成功しやすかったのが高度成長時代だったのである

銀行がなぜ今もう必要がないとか利子もつけないしただ金を集めてどうするんだとなっている、ただの貸金庫なのかとかその必要性が問われて銀行員は無駄だとされる
投資信託を売りつけて確実に手数料をとるあこぎな商売となる
それは銀行とはなになのか?銀行の役割が何なのか?それが今問われている
ふりかえると事業家が銀行家にもなったことでわかるように事業するための金を貯える
それが資本となりファンドとなり新たな事業を展開することにあった
地銀だと地元に密着して事業をする人に会社に資金を提供することにあった
それが高度成長時代はできていたのである

銀行はもう前のように会社のことを知り地元のことをしり投資することができない
目利きする人がいない、それで投資信託とかを売るようになる
銀行というのがその役割が喪失したというとき何か事業を起こす人は今はインタ−ネットとかでもクラウドファンディングとかで資金を集めている
それは銀行がしていたことなのである
銀行とはそもそも三井でもそうだが事業家からはじまっていた
他の機能があるにしろ近代的銀行の始まりは資本主義社会では資本を蓄えて金を蓄えてそれによって新たな事業を展開することだったのである
それができなくなったらただ金を集めてどうするのだ、利子もつけない、貸金庫なのか?その役割が失う、そして銀行員はいらない、リストラされるようになる

例えば地銀は津波と原発の復興事業にどうかかわるのか?
地方の産業の衰退にどうかかわるのか、その資金をどう活かすのか?
それが見えないのである、資金がある人は金がある人は金持ちは銀行家にもなる
何かそういう責任が課せられる、金をもってもそれを有効に活かせないとしたら金持ちとしての資格がないと批判されるのである
それと何か銀行も似ているのである
今地域にはいろいろな問題がある、でも地銀がそういう地域の問題にどういうふうにかかわっているのか見えない、だから大手の銀行が農業が成長産業だとして銀行員も派遣されて農作業しているのである
農業も事業だからその事業を開拓しているのである
金を集めて金をどう生かすのか、それが活きた金となるのか死んだ金となるのか?
それは個人的にもそうだが銀行にも問われているのである。

posted by 天華 at 17:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年09月20日

明治政府によって奪われた入会権 (明治維新で農民の生活は楽にならなかった)


明治政府によって奪われた入会権

(明治維新で農民の生活は楽にならなかった)

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土地の所有者がわからないまま放置されている「所有者不明土地」を、公園やイベントなど公共性の高い事業であれば所有者が見つからなくてもNPOなどが、10年間利用できるようにする新たな法律が、6日の参議院本会議で成立しました。 
「所有者不明土地」は、人口減少や高齢化に伴い年々増加していて、その広がりは、民間の研究会の推計で、すでに全国で九州の面積を超えているとされています。 

今の法律では、こうした土地であっても自治体などが買収するには、所有者全員の了解が必要なため、公共事業がストップしたり、荒れた土地が増えるなどの問題が各地で起きています。 

6日参議院本会議で成立した新たな法律は、所有者不明土地を条件付きで所有者が見つからなくても利用できるようにすることが目的です。 

土地とか山林とかの問題でも江戸時代から明治に変わる時、大きく変化した
日本の歴史は江戸時代から明治に変わる時を見ないと根本的に理解できないのだ
江戸時代にあったものが何であったのか?
それは土地とか山林だけではない、武士道があったとしてもそれが何であったのかも明治になった時わからなくなったのである。
武士道とかでも西欧から入った文明は異質なものであり実際は不明になったのである
武士道とかは受け継がれなかったのである。

ところが明治維新の時天皇が異常なほどに持ち上げられた国造りをした
そもそも明治維新は思想的には天皇復古だからそうなった
それで廃仏毀釈とかがあり仏教は弾圧されて神社陣営が優遇された
江戸時代までは寺が幕府の御用寺であり役所ともなり優遇されたことの反発だったとされる、そして神道とかは国家神道となりもともと地域の社は国家神道とは関係しなかったが統合されて国家神道化された、それは太平洋戦争までつづき今度は朝鮮まで神社を作り崇拝させた,つまり日本は極端に変化する
今まであったもの全く否定して新たな世界に適合する、その変わり身が早いのである
太平洋戦争でも鬼畜米英から敗北した結果まるで変ってしまった
これまであったもの否定する、戦争がいいものではないにしろ何かしらそこには日本国民の総意としてあったものでありそれを全否定して今度は民主主義だと戦前にあったものを全否定して戦後がはじまり70年過ぎたのである。
それはGHQとかアメリカの属国になったからそうだというのもわかるが戦前に命をかけてまで3百万人も死んだのにそれを全否定して戦後がはじまったのも解せないのである

江戸時代から明治の変化は大きかった、それは日本を成り立たせていたものが根本的に変わったからである、根こそぎ変えられたからである
それは上が変わっただけではない、幕藩体制で侍がなくなったというだけではない
基本的な社会構造が変えられたのである

江戸時代の村が解体された

これこそ最大の変化だったかもしれない、江戸時代は村を単位にして成り立っていたからである、村単位の幕藩体制が崩壊した、その幕藩体制とは徳川幕府が支配しても地域の藩が中心として支配した体制である
地域地域の藩が政府であり江戸幕府は徳川家がその藩に関与することは基本的にはできない体制である、だから江戸に地方の藩屋敷があったとしてもそこは不可侵の領域であり時代劇でも役人は踏み込めない、逮捕はできないのである
それだけ地域の藩の力が強かったのである。
それが明治になるとそうした藩がなくなくり廃藩置県になり行政も根本的に変わった
天皇を中心とした強力な中央集権制になったのである
その時東京では言葉まで標準語化された、江戸時代までは江戸っ子とかの言葉があってもそれは江戸の方言であり地方の藩から来た人は方言を使っていたからだ
つまり明治維新は極端な中央集権と富国強兵を基本とした国家となったのである

それで江戸時代の村が解体されたということも根本的に社会が変わってしまったことになったのである。
村とか言うとただ侍にお殿様に収奪されるだけのものであり搾取されていただけだという見方がある
でもそうした江戸時代にあったもの社会はその社会なりに別に侍だけが得するシステムではない、村が自立して生活できるシステムがあり機能していたのである
その具体的例として入会権がありそれが明治政府によって奪われたことだったのである
入会権というのは非常に重要な権利であり村を成り立たせる基本にあった
なぜなら農業社会だった江戸時代は入会権というのがないと生活できない
藩でもその重要性を自覚していたから入会権を収奪するようなことはしなかったのである

大名地震が「農民の身代は秣(まぐさ)より上がると昔よりの伝えなり」
つまり農民の生計は牛馬の肥料となる採草地などの草木から成り立つとの昔からの伝えがありそれたそ領主のために年貢として納められることあを知っていたので入会権の確保と保護に対策を講じていた
農業に正義あり−石堂徹生 

特に江戸時代では、下肥(人糞尿)、植物油粕や魚肥を使用していた。
江戸時代の肥料学には、次の事が記載されている
※田畑を肥やすものとして、緑肥、草肥(堆肥)、灰肥(草木灰)、泥肥(池の底に溜まった土)の4種類がある。
※草肥をよく腐らせて細かく切り返し、人糞尿をかけて、天日干しさせた物を元肥として使用す

明治末期になると肥料は化学肥料が使われるようになり膨大な採草労働、入会地からの多量の雑草落ち葉などを集める必要がなくなった、そこで金肥の供給が増え、農地が多く経済的に余裕のある地主層が先に「金肥」を使うようになった
その結果として不要林野の約7百万町の払い下げは地主に周知稀有下
 農業に正義あり−石堂徹生
 
農業の歴史と焼き畑からはじまるように肥料の歴史でもある、灰を肥料として焼き畑がはじまったからである
つまり歴史という時まず政治を考える、そこに英雄とか支配階級の貴族の研究がある、でも文明というとき基本的に農業から成り立ってきたから農業を知らないと下部構造を知らないと理解できないのである。
江戸時代でも農民が八割の時代であり農業中心の社会である、それはヨ−ロッパでも同じである、アメリカももともとは大農業国家であり中国だってそうである、インカでもマヤ文明でも農業国家である、たいがい農業国家として文明があった
20世紀のような高度な産業国家はなかったからである  
明治で肥料が金肥(化学肥料)になったときそれを買うには金がいるから資本がいるから地主に支配されるようになったことでもわかる、まず知っている人でも肥料をわざわざ角田まで行って鶏糞を買う、それは肥料としていいからである
その負担は自分がしたのである、そしてもらったのはキュウリ数本だったとなる、だから一本一万のキュウリだったのである

入会権というとき海の方の右田で橲原(じさばら)とかに入会権をもっていた、それは馬車で運び山の草木を肥料としていたからである
農業は肥料がないと成り立たないからそうなっていた、米は田んぼは水が循環して比較的肥料がなくても成り立っていた
循環する水は泥水であり山から養分が流れてくるからである、エジプト文明がナイルの賜物というとき定期的ナイルが氾濫して
泥水がおおいそれには養分があり肥料となっていたのである 

明治維新というのをふりかえるときその革命は下級武士でありそれには直接農民はかかわっていなかった
だから会津もヤーヤー一揆が明治になると起きた、農民にとって侍は税をとるものとしてありその税をとるものが変わるだけであり別に会津でも侍が薩摩長州と戦い死んでも関係なかったのである
会津というのは侍中心に美化されたものなのである、ドラマばかり見ていると歴史の真実が見えなくなるのである。
NHKのドラマでも意図があって作られているから美化されたものであり歴史の真実はまた違ったものなのである。
明治維新後でも農民は入会権を奪われて明治政府に反乱を起こしていたのである。
明治になると一見農民は領主に税を納めなくて楽になったとはならなかった
かえって地租がかけられて一定化されて貨幣化されて苦しんだとなる、入会権も奪われて苦しくなったのである

そこには天皇の財源として御料林とされたこともあった
明治政府は財源がなかった、それをどこに求めたのか?
農民の基本となる山林とかを入会権を奪い財源とした、それで富国強兵の軍隊を作ったのである
財源がなないからそうなった、官僚の退職金がないからはそのたしにもされた
その構図は官僚が得する構図は今も天下りとかでつづいているのである
国単位では官僚だが市町村単位では公務員となったのである、公務員は何かと得する仕組みがある
そして公務員が常に批判されるときそれは特権となるから侍と同じだ、公務員は身分であり侍と同じだと批判する人が多いのである
地方で安定しているのは公務員だからである。

明治維新というとドラマだと称賛されることばかりを見るがその暗黒面もあった、そこは指摘されないのである
農民が江戸時代よりも国家によって収奪されたということもあったのだ
農民の暮らしは楽にならなかったのである
明治になった時私的所有権が認められたことで大きな権利が国民に付与されて進歩したとされる
でもまず政府が入会権を奪い国有林としてそれを今度は地主や商人に払い下げて財源とした
まず所有したのは国家であり政府だったのである、後は地主だったとなる
山林が私的に分割されて所有されたのは戦後なのだろう、それまではそんなに分割されていない
結果として今度は逆にしまりにも山林でも土地でも細分化して公共的なものとして使用できなくなった

入会権は所有権ではなく利用権だということでもわかる
江戸時代では所有するという観念がないのである。明治以降に所有という観念が強く現れた
それは資本主義では私的所有権を一番重んじるからそうなる
あらゆるものが土地でも売買される債券となる、そのためには私的所有権を確立して土地でも売買できるものとしなければならないからである、ただ結果として過剰に私的所有を言うようになり公共的に利用することもできなくなったのである
だから耕作放棄地が増えたというときその土地でも所有者がいて所有権があるから勝手にできないとなる
それで膨大な耕作放棄地でも利用できないのである  

この辺では原発事故の補償金をもらうために自分の家の前の海まで所有権があるとか主張したのもそのためである
もう細分化された土地の所有者の許可をとるだけで手間であり土地はかえって協同利用できずに放置される
そもそも入会権は所有権ではない、利用権だというとき所有の観念はなかった
利用権の方が大事なのである、利用されなかったら土地でも何の価値もないからである
何かいつか土地を売るとしてもっているだけでいつまでも耕作放棄地として荒地となっている

それは個々に強力な私的所有権が与えられているからそうなっている
土地をもっていればいつかは何でも売れるかもしれない、そこが放射性廃棄物の処理場になるとかでもありうる
そのために利用しないでも荒地としても所有者があり自由には公共的に使用できなくなっているのである。
村があるときは協同で荒地を開墾したりしていた、それは村にとって荒地があることは望ましくないからである。
今だって畑があるとして回りが荒地だと草ぼうぼうになり草取りをしなければならないとか迷惑になるからだ

でも私的所有が強力に認められているから誰も勝手にできなくなったのである。
だからそもそせ土地の私的所有というのは問題がある、権利を与えるのはいいが権利を与えることは責任をともなう
荒地のままにして所有だけしていることが許されるのか?
所有しているなら権利が与えられたならその責任もあることを自覚すべきである
権利には責任が伴っていたのである、それが漁業権ということで海は組合のものだとして東電に売り渡して事故前も多額の補償金
をもらっていた,つまり権利が与えられたのは漁業資源の保護であり東電に売り渡すためのと権利ではなかったのである
権利が与えられるのならまた重い責任が課せられていた
でも金になればいいやとなり東電に売り渡して多額の補償金をもらっていたのである
その時はただ金になればいいと軽く思っていたのである。でも今になると重い責任が自覚させられたのである
ただ現実に船主などはいち早く立派な家を建てたからその責任を果たしていない

ともかく私的所有権が与えられるのはいいとしてまた何でも必ず所有することは責任が課せられているのである
山林を所有しているとしてもそれを活かせないとしたら山は荒れる、すると所有するだけで金がかかるとなる
木材が売れないとしたら今はそうなる、だから山を持っていても所有しても何もならないともなったのである
とせかく原発事故ではいろいろな責任をが問われた
でも政府でも東電でも地元でも責任をとる人はいなっかった
それは太平洋戦争でも同じである、責任は誰もとらない、ただそうしても必ず人間は責任はとらされる、3百万人が死んだというのがその責任である
その責任はあまりにも重かったのである。
原発事故では故郷に住めなくなった、その責任もあまりにも重かったのである。
政府でも東電でも自殺したものはいない、他では会社の不祥事ではちっょとしたとでも自殺しているのが多い、責任を自覚して自殺している

台湾外交部(外務省)は14日、台北駐大阪経済文化弁事処(領事館に相当)の蘇啓誠代表(61)が同日早朝、大阪市内の官舎で自殺したことを明らかにした。台風21号で封鎖された関西空港に取り残された台湾人への対応をめぐり、インターネットなどで在日出先機関を批判する声が出ており、台湾メディアは蘇氏がこれを苦に自殺したと報じているhttps://www.jiji.com/jc/article?k=2018091400757&g=oeq

こんなことで自殺するのか?そういうことは他にもある
しかし原発事故とかの大事故でも責任を感じた人は一人もいないという不思議がある
誰も責任を感じていないのである、だから日本人は無責任国家だというのもわかる
そして無責任だということはもともと責任を自覚しないから原発でも作られるし戦争でもその責任を自覚していないから実行できたともなる
人間はもしそれだけの重い責任を課せられたら誰もいくら金になるとか地位が与えられてもしたくないとなる、だから侍に庶民がなりたくないというとき切腹させられるとかその責任をとりたくなかったらからである
また契約書にこまごまと規定されるのはすべて責任を逃れるためである

ともかく事を始めるなら責任を自覚してはじめるならいい、でもそれができないものは軽く考えて行動すべきではないとなる
事業で何かいいかげんなことで俺の優秀さをみせてやるとかで事業をはじめて失敗して借金して周りに大迷惑をかける、それは家族だけではないのである
だからそんな考えて事業をすべきではなかったとなる
それは大きなこと国家的事業でもそうだったのである
失敗したら誰が責任をとるのか?誰かが必ず責任をとらされる、それだけは確実である
戦争では三百万人が死に原発事故では故郷に住めなくなったという責任をとらされたからである、だから無責任国民とか国家は責任を感じないから安易に事業をはじめる
それが日本人であるとしたらまた同じことが起きるとなるから怖いのである

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2018年09月21日

責任が厳しく問われた原発事故 (責任の重さを自覚しないで行動する危険−戦争も同じだった)


責任が厳しく問われた原発事故

(責任の重さを自覚しないで行動する危険−戦争も同じだった)


戦争始めるときなぜ戦争したのか?
そもそもその原因が未だにはっきりしない
戦争するくらいだから明確な理由があってもいいし説明できるはずである
結局右の見方としては経済封鎖とかで追い詰められたからだとなる
もう戦争するしか道がなかったとそれはアメリカが日本を追い込んだからだ
それが戦争のり理由だったとなるのか?

ではまず戦争を始めるとき誰も3百万人も死ぬとは予想していない
むしろ戦争がはじまったとき日本は勝つと信じていたのである
実際に初戦はシンガポールを落としたり勝っていたしまた日本は必ずしも戦力でも劣っていなかったとされる
その後アメリカが参戦して敗北した
戦争でも予想しないことが起きて敗北した
その時でも3百万人も死ぬということは誰も予想していないのである

最初からそうした犠牲があり覚悟あって戦争したならいいが日本は神国で勝つと国民もおもいこんでいた、思い込まされていたからそんなこと思っていなかったのである
だから戦争をはじめるときもしこれだけの犠牲があるとしたら覚悟したら戦争がはじめられたのか?

「あなたがたの息子は戦争で死にます、犠牲は大きくなります」
「息子が死ぬのが戦争か嫌だな、戦争はどんなことしてもやめるべきだ」

「俺たちが戦争にかりだされて死ぬのか、嫌だ嫌だ、もっと生きたい、20代で死にたくない、恋人もいるし結婚もしたい、子供だっている、死ぬのはいやだいやだ
戦争なってしたくない、国のためとはいい死にたくない死にたくない・・・」

これはあくまでも結果論になるのが戦争を始めるとき3百万人が死ぬということを予想して覚悟して始めてはいない、みんな戦争は勝つとしてはじめたのである
それでいくら特攻隊とか短歌を残しているけどそれを称賛する人がいるけどそこにはなんで死ななければならないのかその苦悶がにじみでている
いくら国のためだ天皇のためだといってもそこに死にたくない、20代では死にたくないという苦悶がにじみでているのだ

結果論から責任を問うことになったが必ず行動の結果として人間は責任を課せられる
責任から逃れられないのである、もしその責任を覚悟して事をはじめるならいい
でも予想外のことが起こり悲惨な結果になった、そして3百万人が死んだ予想外の結果に責任を問われる、それは重い責任をとらされることを覚悟していないからである

原発事故でも同じだったのである

「事故は絶対に起こらない」
「本当ですか」
「百パーセント保証する」
「では事故が起きたらどうするのですか?」
「確率として百万分の一しか事故は起きない」
「それを保証できるのか、もし事故が起きたら責任はどうするのですか
あなたは腹を切れますか」
「起きないから考える必要はない」

数学者が百万分の一の確率でしか事故は起きないと計算していた、でもそうした発言は事故前には多かったのである、それは戦争は絶対に負けない,日本は神国だから絶対に負けないというのと同じだったのである、負けたら事故が起きたらどうなるかなど考えないのである
結果論にはなるが戦争に負けた時どうなるのか?
また原発事故が起きたらどうなるのか?
そのことを考えて行動はしていない、原発の場合は「安全神話」が作られていたから事故が起きたことを想定しないから何の準備もなかった
放射能を測定するスピーディとか機械があってどこに放射性物質が流れるのか知ることができたがそれさえ自治体に知らされなかった
そして浪江では津島とか一番放射能が高い所に山の方に逃げたのである
そしてアメリカにまず連絡して日本人には連絡されなかったのである
つまり事故は絶対に起きないとしてはじめたのだから事故が起きたらどうなるのかは考えていなかったのである

そして事故が起きたことで今度は誰も責任をとらないのである
責任を誰もとらないとしても確実に責任をとらされるのが人間社会である
戦争では三百万人死に原発事故では故郷に住めなくなった
原発事故では一人も死ななかったからたいしたことなかったとか言う人もいる
でも故郷に住めないということは最大の被害だったのである
それは歴史の消失でもありそこに生きるもののアイディンティティでの剥奪でもあったからだ、それは精神的に相当な深刻な被害だったのである

ただ地元でもこうなる結果を予想していないからこそ地元の人も責任も問われた
例えば漁業組合で盛んに汚染水が海に流れて魚がとれないということを主張して補償金をもらうし事故前ももらっていた
ではもし原発を作る前にもし事故が起きたことを想定していたらどうなるのか?

「事故が起きたら魚は放射性物質に汚染されてとれなくなりますよ」
「そんなことはならないと事故は起きない」
「もし起きたら魚はとれなくなります、それでもいいのですか?」

そのことを真剣に考えた漁業組合の人はいない、むしろ補償金だけに目をくらんでいたし地元では金のことしか考えていなかった、個々人でも金をもらえればいいとしか考えないのである
リスクのことを考えないのである。株でもは投資では必ずリスクがある
もうこのリスクだけは逃れられない,国際情勢とかも関係しているから自分も株を知らないで投資して失敗した、でも銀行でも一応リスクのことは言っていたからまた違っていた戦争と原発では本当は始める前から相当なリスクを考えて覚悟してするべきものだった
それは株とも違う命にかかわる危険なことははじめる前から予想できたからである
戦争は人を殺すことだからそもそも危険である
原発は専門家なら放射能がいかに危険なものか知っていた、その覚悟があって原発でも作るならいいがなかった

でも失敗すれば大きな責任が課せられてその責任から逃れられない、確実に誰かが責任をとらされるのである
事業するのはいいとしてもその結果の責任が問われる、借金にりく首が回らなくなり自殺する人も普通にいる、そして親戚でもなんでも周りに多大な迷惑をかけるのである
そうしたら俺は優秀だから事業して優秀なことを示してやるとかで事業を始められたら周りの人は迷惑になるのだ、その人の一存で事業は始められる、でも事業は一人ではできない、周りの賛同が必要になる,でもそんなことを考えないで事業をはじめて失敗したら借金になり周りに迷惑をかけるのである

結果論にしろ誰も重い責任を自覚して事業を戦争でも原発ではじめていない
だから戦争と原発では実際は責任をとった人がいないのである
むしろ戦争はアメリカにしかけられたものであり大義がある戦争だったという論理になりそうなれば責任をとることはないのである
ただ戦争は賛美されるだけである、そうなれば3百万人は英霊となりほめたたえられるだけだとなる、要するに戦争は成功したのであり責任は誰にもないとなるのである
だから戦争という時そこに日本の大義があるとしたらその大義を貫くことが求められる
でも実際は戦後はただただアメリカに服従するだけで戦前にあったもの戦争中にあったものを全否定して70年が過ぎたのである

日本人は責任をとらない、ということは何かするにも始めるにも責任をとらないからはじめられるとなる、責任を厳しく問われる、失敗したら切腹させられるとなったら簡単に事は始められない、でも責任はとらないとなれば安易にはじめる
その結果が重大なものとして被害があってもそうなるのである
責任は確実ぱ誰かがとらされるのである、だから戦争では三百万人が死に原発事故では故郷に住めなくなったのである
プルトニウムは二万年消えないとかなったのである
とりかえしのつかないことになったのである。

だから今なら原発は事故になったらこういうことが起きる、責任をとらされると福島の原原発でわかったのだからこれから原発を作ることは運営することはそれだけのリスクがあるから今回の福島のように手厚い補償はしないと言う人がいるのも一理ある
事故が起きたらどうなるのか福島が示したからである
だからその覚悟をしてやれとなるからだ、事故が起きても今度は補償金は出ませんよ
その覚悟で原発を作ってくださいとなるからだ
故郷に住めなくなることも証明したからである
それでも覚悟してやるとしても原発は事故が起きたら広範囲だから地元だけではないからまた地元のエゴだけで推進してもらうのもこまる
戦争だってそうである,あらゆる人を巻き込むからである

事業するということもそうでありその事業が俺は優秀だから優秀さを示してやるとかで事業を起こされてはみんな迷惑になるのである
でも事業者は失敗すると自殺したりするから責任をとらされるのである
原発事故では一人も責任を感じていないとってもいないのである
科学者から政治家から官僚からマスコミでも誰も責任をとっていない、普通たいしたことがないようでも会社の不祥事とかで自殺したりしているがしていない
そもそもが責任を感じてすらいないからそうなる
ただ利益をえることしか考えていなかったのである
別にリスクがあっても事業することは全部悪いことではない、でもそのリスクの責任はとらされるのだからそれを覚悟してやるならいいがそうではなかったのである
結果としてもうとりかえしのつかないことになり責任を地元ではとらされたとなるのだ

posted by 天華 at 08:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年09月22日

東海道春の俳句二十句 (歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)


東海道春の俳句二十句

(歴史は地歴だから地理の理解が不可欠)

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飛脚行く海風涼し裸かな

飛脚が裸なのは走りやすくするためだった,当時の旅はなるべく荷物を減らすことだった
走っていれば汗かくから裸の方が良かったのである


海望み小田原城や花盛り
春潮のひびき高鳴り小田原城
春の海伊豆半島に富士の峰
駿河湾魚打ちあぐ春の海
陽の昇り海に桜や東海道
東海道通りますぐに燕来る
春風や東海道を飛脚行く
飛脚行く海風涼し裸かな
松古りぬ東海道や春の富士
上方と江戸の行き来や花の春
大井川春の日渡り広しかな
東海道天下の攻防燕飛ぶ
商人の往来盛む燕飛ぶ
長篠を出でて豊橋春の海
豊橋に交わる線や春の月
安宿も東海道や春の月
春の月東海道の旅籠かな
欄干に旅人もたれ日永かな
春の日に舟上り城や橋渡る
残る雪関ケ原出て近江かな
関ケ原越えて近江や春の山
車窓より蓮華畑や近江富士
京に着く春満月やおいでやす
花散るや夕陽に映えし大阪城



歴史は地理がわからないと基本的に理解できない、その地理がわかることは本当にむずかしい、地理は何か錯覚したものとして見ている、地図を見ても実際の実感としての地理はわからない
では地図は無駄かというとそうでもない、地図と実地に歩いた経験があると地図も活きてくる、東海道を知るにはまず地理的にしる
でもここは戦国時代の大きな舞台となったから歴史の知ることも基本的に欠かせない

私が錯覚していたのは信長の尾張と家康の岡崎城が随分近いことだった、隣の感覚である、ということは信長と家康の連合は地理的なものとして納得がいく
家康は後に浜松城へと進出して関東へ進出する
信長の後継者は秀吉となり小田原へ進出する、小田原は要としてある地で進出することができなかった
それから武田軍の勢力が脅威となっていた
それは飯田線で長篠駅がありそこも境界であり地理的に家康の岡崎城や尾張に迫る地点だったのである
飯田線は長い、今はなんとか一両の電車が走っていたり直通ではなく乗り換えたりと不便な所であり廃線路線にもなる
でも豊橋に出るとまるで違ってくる
そこで東海道線と交わるからだ

それは山国から海の国へと出ることなのである
武田は山国であり海に出たいという願望があった
ただそこは信長や家康が支配する領域であり出れなかった
でも騎馬軍団で突破しようとしたが無惨に敗北した
歴史は確実に地理的な要因があり展開している
それは人事だけではどうにもならない、地理の制約を必ず受ける
それは世界史でも同じである
ゲルマンはドイツはライン河で区切られて別な世界だったのと同じである、ローマはライン河に遮られて進出できなかった
そこには強力な民族であるゲルマンが存在したからである

ロシアが海に憧れる、海へ出る拠点を求める、だからウクライナでも黒海がありシリアも地中海の要として勢力下に置こうとする
ウラジオストックは遠すぎるから海へ出る拠点を求めるのである
なぜ信長が天下をとったかというと地理的なものが影響している
とてもいくら優秀でも一人の天才だけで偉業は成し遂げられないのだ
名古屋を見ればわかる、いかに地の利があるかわかる、近江に出れば京都は近い、だから関が原を越えて近江に出て安土桃山城を築いたのである、関ケ原は地理的に東西を分ける場所だった
電車で行くと春でも依然として雪が残っている
でも関ケ原を越えて近江に出ると琵琶湖があり春の山が穏やかに見えたのである
そして近江富士が電車の車窓から見えた、レンゲ畑があり印象的なのである
近江となればすぐに京都なのである、京に上るには支配するにはいい場所なのである

武田軍は山国から出たが病に倒れて上京は果たせなかった
それは騎馬軍団ではあったが山国ということで海に出れなかったからである
信長は鉄の船まで作っている、名古屋湾であれ海に通じていたのである。
東北でも会津は山に閉ざされていて雪に埋もれる、でも伊達政宗が東北を支配したのはやはり海に望み開明的だったともなる
第一メキシコからヨ−ロッパまで船でわたるという壮挙を成し遂げたことでもわかる、それはやはり海に通じていたからである

東海道は日本の幹線でありそこに江戸時代も大阪から京都から江戸との行き来があり大動脈だった、それは今も変わらない
そこに日本の栄えがあった
東海道には長いまっすぐな道路があった
あれもなかなか見れない、それだけ東海道は海側であり平地がありそういう平なまっすぐな道が伸びていたとなる

いづれにしろ歴史は地理を知らずして知りえない
歴史でも文学でも地理と深く関係している
東海道と奥の細道を対比してみるとわかる、みちのくと東海道はまるで違ったものなのである、歴史的にそうである
東海道は上方から大阪から京都から常に往来があり栄えた地域である、日本で一番往来があった道なのである
そこに富士山が見えることでまた日本の中心という感覚に戦国時代以降はなったのである

ただ名古屋に近く吉田城があったがそれは川岸にあり橋がかかっていた、それは浮世絵でも描かれている
でも私が行ったときは春でも城内には枝垂桜が咲き淋しい感じだった、それはなぜなのか?
時代とともに東海道の賑わいは失われた、江戸時代なら旅人が端をたり行き来していた,でも今になると何か車社会になり車が通るが人がにぎわうという感じではない
つまりその時代の感覚は時代が変わるとわからなくなる
一見今では淋しいなとさびれているなと感じても当時は人でにぎわっていたのである、活気ある場所だったのである
鉄道の駅が車社会になる前はにぎわっていた
駅前通りがあり駅が街の中心だったのである
車社会になれば高速のSAとかがにぎわう場所になったのと同じなのである
だから飯田線から豊橋に出て吉田城まで市電で行って吉田城についたとき何かそこは取り残されたような淋しさを感じだのである
ただ今でも別に東海道は繁華な道であるがやはり歩く旅ではないし
車が中心になると吉田城でも江戸時代の東海道の城としてはその当時に見えた風景とは違ってくる

ただ小田原城は花盛りであり大手門が立派でありそして天守があり海を望む、それは当時と変わらないのである
城の魅力はやはり今でもある

大手門威を正して入るかな
天守も臨み春の箱根の山高し
その影おおい海も望みぬ
昔小田原城の栄えかな

城は建築としてやはり侍の精神を現している
建築は精神の象徴なのである、大手門から威を正して入ると天守閣が聳えて主君にまみえるのである
小田原城はいい場所にある、あそこも地理的に要だから秀吉が攻めあぐんだとなる、小田原を突破すれば関東に入るからだ
その時伊達政宗が遅れて参戦したので秀吉にとがめられたが機転をきかして一命をとどめたのである
東海道でも新幹線で行ってはわからない、地理がわからない、だから電車で行くのがいいとなる、歩くのが一番いいがそれも遠くなるとできない、東海道は混んでいるから自転車でも楽ではないからだ
車でこみすぎるところは情緒もなくなるから嫌なのである

俳句にしろ短歌にしろ詩でも文学でも歴史の理解が欠かせない、奥の細道でも平泉の栄華の跡をたずねて芭蕉が名句を残した
自然でも歴史と一体となっているとき自然もさらに映えるとなる
ただ東京はあれだけ栄えているとしても自然か映えない、というよりも自然はないのである
江戸だったら富士山がまだきれいに見えたのである
高層ビルなどがないから見えたのである、それは浮世絵にも残っている

わが庵(いお)は松原つづき海ちかく富士の高嶺を軒端にぞ見る
(太田道灌)

こういう光景になっていた、江戸はいかにも日本の中心としてあった、日本の中心は奈良であり京都であり大阪であったが近江から名古屋から関東へ江戸へ移ったのである
ただ江戸から奥の細道であり発展していないのである
ただいわき市までは複線であた常磐線でも東京と通じているという感じになる、でもいわき市からは単線になり原発事故で途中の双葉大熊はまだ開通していないから閉ざされた感じになる
いわき市から相馬との区間は新幹線もないから遅れた地域に感じるのはやはり地理的なものや歴史的なものでそうなっている






2018年09月23日

激務で疲弊した地方医師が、続々と都会の病院へ? 急成長する「医師エージェント」ビジネスの舞台裏


激務で疲弊した地方医師が、続々と都会の病院へ?
急成長する「医師エージェント」ビジネスの舞台裏



医局制度の崩壊で
大都市を目指す医師が増加

医師は大学を卒業後、研修医として「医局」に入った。「医局」は、教授を頂点とし、診療から研究、教育を担う機関。さらに医局は人事も握り、所属する医師を系列の病院に派遣。教授の意に沿わない医師が不当な待遇を受けたり、過酷な勤務を強要されたりするなど、弊害が指摘されてきた
いま、大都市の医療機関は、利用者からの厳しい評価にさらされている。医師の対応に少しでも不満を持たれると、すぐに悪い評判がネット上で広がる。逆に「いい医者」が来れば患者が増えると、ある病院の事務長は言う。
「いままでだったら、医者は来てあたりまえじゃないけど、でんと構えていた部分もあったけど、いまは、患者様に来ていただく、優しい先生のほうがいいですから。患者さんからしてみれば、結局、病院っていうのもサービス業なんで、各病院気にしていると思います」

仕方なく、総合病院の整形外科を受診すると、専攻医の医師が診てくださいました。
「専攻医」とは後期研修医のことだそうですが、診察は非常に丁寧でレントゲンに異常はなく「使い痛みでしょう」と診断して下さり、「一ヶ月もすれば治るでしょう」ときちんと予後も言って下さいました。
実際にそのとうりの予後になりました。
医学部を卒業して30年も経ってる医師よりも、勤務医の専攻医の方があらゆる面で上なのです、普通に考えるとこれは逆なのです。
改めて開業医のレベルの低さを実感したと同時に、開業医受診の危険性も実感しました。

ここのサイトは介護のことに詳しい、在宅介護すべきだという論には賛成する
それもむずかしいが本来はそうあるべきだというのは理解できる


その人はまず仙台の医者に行った、腰が悪いから整形外科なのか?
その医者は原町の病院で医者をしていたことがあり知っていたので仙台で診てもらった
次にその医者の紹介で東京の設備のいい病院の医者に診てもらった
大学関係で仙台の医者と東京の医者は知り合いであり連絡をとりあう仲だった
そしてわざわざその仙台の医者も東京にきてくれたという
でもその交通費はどうしたのだろうか?
その女性はさくらバスで東京まで行って安い宿泊所に医療関係なのか二日泊まることができて全身を検査した
その医者は親切だったという、あれでははやると言っていた

これでわからないことは仙台ならそれなりにいい医者がいると思う
現実に糖尿病で白内障になった人は仙台の医者で手術した、もう二か月もいる
白内障だから手術かむずかしいからだ
でも仙台から東京まで行って医者に診てもらうというのは普通はあまりないだろう
そして金もかかりすぎる、その人はいつも食べることがやっとしか金がないからだ
でもなぜ仙台の医者が親切にいろいろめんどうみてくれるのだろうか?
それはその女性がとにかくコミ二ケーションに優れているのである
何も取柄がないようでそれだけは感心する、ただ悪い方になるとクレマーになる
底辺層だから下の者にはうるさくなる、鬱憤をはらす対象になるからだ

いづれにしろ開業医は相当に医療の技術が劣っていることは間違いない
医療には医者の腕には相当な差がある、それは必ずしも出身大学では決まらない
職業には常に適性がありそれで決まる、手術がうまいというとき生まれつき器用な人がいてそうなる、一流大学でもそういう器用さがない人はうまくなれないのである
そうして医療技術の差が怖いのは命にかかわるからである
だから江戸時代でも目が悪い人が栄養の関係で多かった
それで優秀な医者を求めて遠くまで行って診てもらっていたのである

とにかく医者の技量の差は大きい、例えば認知症に家族がなったとき頭の写真をとったが三万かかった、その機械ではまず脳の写真はとれないのである
脳の写真をとれる診れる機械は福島県では郡山市とか二か所しかないのである
ではなぜ脳の写真をとれないのにとったのか?
それは金をとるためでしかなかったのである
それで保険料も入るから楽に10万以上は収入となるからである
今病院でも設備とか機械に金がかかるから薬でもいらない薬を飲まされたりしてかえって病気を悪くしたりすることがある
開業医は専門医からすると相当に劣っていることは確かである
でも田舎だとまずそんな設備の整った優れた医者のいる病院ではみてもらえないのである、まず医者自体が選ぶことができないのである
田舎で損なのは十分な医療が受けられないことなのである。

都会ではなんでも競争が激しい、だから新しいもの店でもそれがいいものなら客が入り一躍有名になり金持ちにもなれる、でもその盛衰が激しいのである
だめならもうすぐにつぶれるとなる、だから都会からいいものが生まれる
医者だって山ほどいるのだから選ばれる
それで今なら優しい医者がいいとなれば医者だって威張っていられない、優しい医者が病院でも選ぶともなる
それは田舎と違って医者でも選ぶことができるからである
自分と合わないとなれば別な医者をいくらでも選べるからである

仙台の医者でも熱心である、ドイツにも研修に行っている
前はドイツ語で診断書を書いていたが今は英語になっている
つまり医療の中心は技術はアメリカが上になったからである
開業医ではドイツまで行ったりしないだろう
そこに病院との専門医者との差が大きいのである
そもそもどうしても仙台の病院から東京の病院まで行かねばならないのかわからないからだ
仙台と東京でも医者に関してはそれだけの差があるということになる

地方だと前はもっといろいろなことで損していた、自分の場合は本を買うことができず知識の分野では相当なハンディキャップだったとことを知った
今はアマゾンでボタン一つで古本でもなんでも買えるから知識の分野では差別がなくなったのである
この前ロングパンツを買ったが千円でいいものだった、それはこの辺で売っていないものだった、だから得だったと思う、でも合わないものがあったりしたから着るものは問題がある
でも明らかに田舎では依然として売っていないものがある
衣服関係は種類が多いからそうなる

とにかく東京に医者が集まるというのは待遇でもそうだし医者にとっては地方はいいものではないことはわかる
技術をみがけないし先進医療もできないとなるからだ
でも南相馬市立病院の脳外科の脳出血関係の専門病棟ができたのは手術のうまい優れた医者がいて副医院長になっていて若い医者が習いに集まるからである
だから地方の病院でもそういうことがある
ただ断然東京に優れた医者が集まるし若い医者も集まる
それはまた医局制度が悪いものとされたがそれが廃止されて地方に優秀な医者は来ない、東京に集まるというのが問題なのである。



月明りの里(月影の道を歩く)


月明りの里(月影の道を歩く)

晩年や月満ち明るし心澄む
月ひそか我が部屋のぞき消えにけり
誰知るや人は知らじも月は知る
紗(うすぎぬ)の雲のかかりて秋の星

月影の明るし里や虫の音の澄みてひびきつ夜のふけゆきぬ
いつしかに忘らる人や常なき世彼岸の入りと夜虫の鳴く

月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに(湯原王・万葉集673

夕闇はみちたづたづし 月待ちて行ませ吾が背子その間にも見む
(大宅女・万葉集712) 

月影に明るい道だった、でも自転車のライトをつけると月明りは消えた、電動自転車でそのライトが明るいからだ
だから自然というのは人工的なもの電気の光でも自然状態を消すのである、月光で町全体で明るいから見通しが良かった
つまり月明りでも十分に歩ける、電気がない時、月明りの中を歩くのは幻想的である、この辺はまだいいが都会だとあまりにも電気で明るすぎるのである
自然が消失すると詩も消失するのである
だから夕闇は道たづたづしというのはどういうことなのか?
夕闇の方が暗く月が照らしたとき明るいとなる
これも自然の中で生活していればわかるが今はわからない
夕闇の方が普通はまだ明るいと見ているからだ
いづれにしろ月の光のなかでも十分に通うことはできたのである
それは記憶に残る思い出となる
あまりに今のように電気の光に満ちていると何かそれによってかえって心の印象が散らされるともなるからだ
電気を否定はできないが月明りというのも消失すると何か失うことなのである


吉野に遊ぶ(32) 藤原不比等

    夏身 夏色古り
    秋津 秋気新たなり
    昔 汾后に同じく
    今 吉賓を見る
    霊仙 鶴に駕して去り
    星客 査に乗りて逡る
    清性 流水をくみ
    素心 静仁を開く

  夏身(※)の地は夏景色も深まり
  秋津の辺りは秋の気配が立っている
  昔、堯皇帝が汾の地に籠もられたように
  今、そのような地によき人を迎えている
  鶴に乗ってこの地から去った人や
  筏に乗って星に行った人も帰ってくるだろう
  清を好む性格は清らかな水を汲み
  まじり気のない心性は山の情趣に浸っている
     
※現在の菜摘の地
 ・『懐風藻』講談社学術文庫
  現代語訳は、同書にある江口孝夫のもの

菜摘は山蔭にあり清流が流れる場所にある、そこに行ったことがあった
菜摘は夏身としているからこの字とは関係ないのか?
もともとは夏身だったとなる

 山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも

  式部大倭(しきぶのやまと)が菜摘(なつみ)の川の流れを詠んだ歌です。

この漢詩のような気分になった、むしろ晩年になると心が澄むということがある、若い時はやはり欲がむきだしになるからなかなかこうした心境にはなれない、いろいろなものに惑わされすぎるのである、自然に没入できないのである
おそらく今日は満月になるだろう、わずかに時計を見たら月の満ち欠けを示すものだが完全な満月ではない、明日は完全な満月になる
でも今日は雲がでてきた
そっと月が我が部屋をのぞきそっと消えてゆく、月は自分を知っているともなる
でも今日は暑かった、気候の変動が何かずっと大きい、だから秋なのかともなっていた、夕べは秋らしい、それは月見にふさわしいものだった






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