2018年09月06日

自然災害もカルマなのか? (カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)


自然災害もカルマなのか?

(カルマは蓄積されたものが放出すると安定する?)

なぜこんなに地震であれ洪水であれ起きてくるのだろうか?
自分自身の災難についも延々と書いてきた
なぜこんなひどい目に合うのか?
それの答えはないがやはり自分のカルマだったとしか言いようがない
カルマが意識しないうちに自分自身にも家にもたまっていたのだ
何か自分は他者と社会と遊離してしまっていたことも原因だったのだろう

個人的にも必ず誰でもカルマが蓄積されている、もう人間はカルマから誰しも逃れらなない、60以後には総決算が強いられる
カルマは必ず苦しみとなって現れるのである
それを隠すことができない、借金を隠してもそれが必ず現れる
そして家族にも周りにも多大な迷惑をかける
そのカルマは決して一人にはとどまらない、家族でも周りでも巻き込むのである。

では自然災害とは何なのか?
これもカルマなのだ、カルマというときその土地に関係している
その土地にカルマがたまっているときそれを放出する時、自然災害が起きる
地震でもそうである、カルマが放出されると苦しみは一応治まる
苦しみとなってカルマが現れるがそれが放出されると一応治まる
ただりその苦しみは相当なものになる
犠牲者も死人も続出してカルマは放出されてその土地はまた安定期に入る

地震の謎は一つの場所に連続して起こらないことが特徴ではないか?
何か熊本にあったら北海道にあるとか予想のつかない所で起きているのだ
十勝沖地震は津波でも予想されていたが今回の安平町などの地震はそれと違ったものだったからである
たいがい予想した地震が起きるとは限らないし的外れになり意外な所で起きているのが地震なのである

いづれにしろ現代はもう仏教でいう末世なのではないか?
世界的にもキリスト教だと終末が近いのではないかともなる
それはカルマが日本でもそうだが世界でも蓄積されてもう放出しないと耐えられなくなっているのかもしれない
そういう時にノアの箱舟とかあったり自然災害が連続して起きる
日本は科学的にもそうした時期にきている
地殻の活動期でありそれは周期的にやってきてエネルギーを放出するときまた安定した時期がやってくる

2018年から何年かは危険な時なのかもしれない
こんなとき東京五輪などやるべきではなかった
なぜなら東京五輪にはやる意義もなくなっていたからである
ここに予算をつぎ込むのは日本をかえって衰退させる
それからカジノも中止になる、日本にまた大きな災害が来たら地震がくるとなれば
外国人も来ないからだ、外国人をいくら金もうけでも際限なく受け入れるのは問題だからである
北海道でも外国人が多いがこういう地震があると外国人も来るのを控えることになる
それでは観光で困るとなるがやはりあまりにも外国人に頼りすぎるのはどうかと思う
日本人が自分の国土でゆっくり観光ができないのもおかしいと思うからだ

ともかくカルマが放出されると安定期に入る、だから何かこの辺は原発事故でも大被害だった、そして住めなくなった
だからこの辺はそんなにこれから何であれかえって大事故とか大災害があるとは思えない大災害が起こるのは東京だと思う、南海トラフとかの大災害が来るかもしれない
そして日本国土の再編成が始まるかもしれない
東京には今度は住めないと地方へ分散する
もう放射能汚染された福島でもいいやとかもなるかもしれない
遷都のことが言われたがそれが大災害で実現するかもしれない
大災害でも起こらないととても大変革は無理だからである
日本が戦争に負けて焼野原になったとき復興したエネルギーのように日本は変わるかもしれない、何かそういう時期に来ている
天変地異はそういう時期に起きて日本の国土を一新するということもあるからだ
それはもういろいろ言っても決断できない
天変地異が人間を決断させるのである

世界史を見てもそうして気候変動とか自然災害で民族移動が起こり世界が変わったとういことがあり気候変動とか自然災害が世界を変えてしまったからである
日本がそういう時期にきていてまた世界もそういう変わり目にきている
だから経済恐慌とかも起きる、もう資本主義は少数者が悪魔のように金を集めている
それを正すためにもそうした世界恐慌とかが起きてくるし資本主義の宿命として起きる
個人的にも金がだまりすぎることもカルマなのである。
その時泥棒が入ったり何かその金をめぐって事件が起きるのである。
だから2018年から何年になるのか変動の時期であり大きなことが自然災害でも起きるし経済的にもそうだし大きなことが起きてくる
そこで極端な富の偏りとかが是正されてゆく、その時アメリカ一辺等の支配も終わる
もちろん中国が次の支配者になるのでもない、世界がまた変動して国産関係も変動してくるからである、そういう国際関係も変動する時代になったのである
タグ:北海道地震
posted by 老鶯 at 20:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年8月から9月に起きた地震のマップから予測できた北海道地震


2018年8月から9月に起きた地震のマップから予測できた北海道地震


このサイトの地図を是非見てください

この一か月間の地震が起きたのを地図で示している
すると東北の太平洋岸の地域、沖に集中していたのである
ここから安平町の方へ地震が起きることがつながっている
この一か月間の地震は良く見ていれば予想できたかもしれない

十勝沖地震と津波はまた違った方向なのである
そこにも確かにこの一か月間で何度か起きている
しかし東北沖の地震の頻度が多かった

これは何か法則性がある
西日本の方は熊本で起きても太平洋の沖のようには起きていないのである
すると西日本の方には法則性が感じられないのである

東日本大震災の時も実は震源地でこのように一か月前辺りから地震が頻発していたが
注意していなかった、それで失敗したということがあった
この地図は一日感覚で動画として見せる地図である
一か月間を見ていればここに法則性がある

この地図は見ておくべきだったとなる
その他いろいろ地震予測があるがこの地図はわかりやすいのである
posted by 老鶯 at 22:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年09月07日

実り(近間を回る)


実り(近間を回る)

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朝風に風車の回り実りかな

墓もうで深野に休み実りかな

めぐれるや長野深野の実りかな

珍しき蝶のとまるや森の道

前畑に落ち着く菊や古りし蔵

一本の松の変わらず秋の蝉

森に鳴く蝉の余韻や夕暮れぬ


右田の風景は変わった、前は「故郷は実りに松に漁の船」となっていた
松と実りと海に漁師の船がでているという風景だった
それが今や風力発電の風車が回っている
これもこの辺の風景としてなじむのか?
風で回るから自然の影響があって電気が起きていることは意識する
すると何か自然と融和しているのかとも感じる

風車はここだけではない、どこでも設置された、そして台風で倒れたのもあった
だから意外と日本では災害が多いからソーラーパネルでも壊されるということがある
日本は災害の国である、原発でも地震とかで北海道で電源が予備の電源になったり怖いのである、東日本震災以来本当に日本は災害の国だということをみんな意識したのである
だから原発など日本に向いていなかったのである

今日は深野(ふこうの)の方をまわり橲原に出て帰ってきた
大原から橲原の道は森の道である、あそこは車がまれにしか通らない
考えてみるとあそこになぜ道を作ったのかともなる
飯館村でも前にも書いたが大倉から坂を越えた共栄橋があるところの道は森に隠された秘境の道だった、それも原発事故前に道にして消えた
何か公共事業として必要でなくても道を作ることがある

なぜそうなのか?田舎では土木建築関係の会社が多いからである
それで今回の津波原発事故では特需のようになり仕事が生まれて土木建築関係は豊かになった、一時は仕事がないと倒産するとか減っていたが持ち直したのである
相当に金が入った土木建築関係者がいる
補償金をもらってさらに仕事で収入があった人もいたからである 

田舎だと蔵ある家は普通にある、蔵があると何か違っている
それは古い家だと見るからである。そして蔵があると落ち着くということがある
ただ今は蔵はそんなに利用していない、原町で見せてくれた蔵には孫の写真が飾ってあるだけだった、ただ蔵には古い農家だと郷土史の資料になるようなものが埋もれている場合がある

一本の松というとき小島田から金沢へ坂を上る所の池の岸にある
でもそこも池あるとしても変わってしまった
ソーラーパネルになったり廃棄物の処理場とか家も建ったので変わってしまった
あそこはいつも通るので気になる場所だったのである
ともかくこの辺は変わりすぎたのである
だから変わらないものが貴重になったのである

深野(ふこうの)はこれも実際はありふれた名だけど地名の名の影響もある
長野と深野はつづいているからどこが境かわからない
ただ大原にはソーラーパネルになったり田んぼも荒地になっているのがほとんどである
長野深野は実りがあった、この辺は放射性廃棄物の置き場になったところがまだある
それはいつかたづけられるのか?景観として良くないのである
荒地になっているのが良くないのである、田んぼにしなくても何か荒地を利用する方法があってもいいと思う
ただソーラーパネルになるのは土地を貸しているだけで金がもらえるとなるからもう田んぼでもめんどうで金にもならないとなると土地利用のためにそうなる
それは土地をもっていれば所有権があり何に使ってもいいとなるからだ
だからこの辺では荒地化したところはソーラーパネルになりやすいのである

まだ夏のかもしれない、今日だって蒸し暑い、だから秋になっているのだが秋の蝉という感じでもない、やはり気候がおかしくなっているから俳句が季語の芸術だという時それが狂ってしまうのである



タグ:風車 実り

ミャンマーが中国人に席巻される (マレーシアのジョホールバルは姉が従軍看護婦で4年過ごした地)


ミャンマーが中国人に席巻される

(マレーシアのジョホールバルは姉が従軍看護婦で4年過ごした地)


大陸・中国からの大量移民が、ミャンマーの伝統文化、歴史的価値観を軽視し、中国の文化、伝統を押し付ける事態に発展しているからだ。

 今では、毎朝、旧王宮の美しい壮大な堀のある街の中心部で、太極拳の練習をする中国人が大挙し、大音量の中国の音楽が鳴り響く。天空のミンドン王におかれては、さぞかしお悩みのことだろうとお察しする。

 結局、古の王都は、現在人口120万人ほどだが、その半数以上に相当する約60万から70万人(中国人

前回、「ついに頓挫か 中国人100万人マレーシア移住計画」(http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/53936)で、マレーシア第2の都市、ジョホールバルに移住計画を企ててきた中国が、マハティール首相の誕生で苦境に立たされている様子をお伝えした。


東南アジアの歴史は戦争の時日本が深くかかわった
この記事で注目したのがジョホールバルである
シンガポールの対岸にありシンガポールは昭南島と戦時中言われていた
イギリスが支配していたときジョホールバルには赤十字の病院がありそこを日本軍が落としたことは大きな戦績であり西欧列強に勝ったことで記念すべき戦いだったと評価するのもわかる
東南アジアへの日本軍の拠点となったからである
ビルマへのインパール作戦などもイギリス軍を日本軍が追いやった結果としてビルマが最前線になった、日本はビルマまで侵攻することはできなかった

そのことをジョホールバルで四年間従軍看護婦として姉が死に物狂いで青春時代を過ごしたのでそのことが認知症になっても忘れることができなかった
そして死ぬ間際までその戦場のことを語りうなされるようにして死んだのである
最後は千回くらい同じことをしゃべりつづけたのである

東南アジアというときカンボジアに行ったがアンコールワットの壁には中国人の兵隊が彫られている、その時から中国人は関係していたのである。
カンボジアでは中国人がバイクを貸してカンボジア人を使っている
格安で5ドルくらいで雇っている、なぜならバイクを貸しているからである
つまりそこで中国人は資本家となっているからである
その時経営がわからなくてももし金があれば資本があればバイク十台くらいでもそれを貸せば安く地元の人を雇って経営者になれるとも思った
それくらい物価が安いのである。カンボジアは今でも十分の一くらいで安いのである
そしてそこの宿にもビルマ人がヤンマー人がいたのである

ともかくジョホールバルというとき日本が戦争でイギリス人を追い出したことから始まっている、イギリス人でもオーストリア人でも捕虜になったから今でも恨んでいる
日本はアメリカと戦争しなければ負けることはなかったのである
そして今は中国人が経済的に発展して東南アジアを席巻する、もともとベトナムでも漢字を利用していたとかあり中国は常に影響していた地域である

それにしてもミュンマーでも

古の王都は、現在人口120万人ほどだが、その半数以上に相当する約60万から70万人(中国人

それにしても多すぎるのではないか?
中国人に国がのっとられるてしまうのか?それだけ中国の力が強くなっているのだ
日本だって沖縄辺りが中国人にのっとられるとかなる
それを沖縄人は望んでいるのだとかも言う
中国がこのまま巨大化するとどうなるのか?それは日本でも大きな問題となる
アメリカは衰退しているから中国が次の支配者となるとか騒がれる
ただインドが経済成長してくると対抗する勢力となる

いづれにしろネパールも一時イギリスに支配されたから英語を話す人がいる
東南アジアでは英語が話す国が多いのはイギリスに支配されたからである。
インド自体がそうだったからである

今日本の企業がベトナムに進出している、中国は物価や人件費が高くなりすぎたからである、つまりまだ遅れているのはミャンマーとかネパールは最貧国なのである
ベトナムもそうだったがだんだん豊かになってゆくだろう
貧乏な国とはグローバル経済では工業化できない国なのである。
中国は工業化に成功したからこそ経済成長して巨大化したのである

東南アジアではタイとカンボジアには行ったがマレーシアのジョホールバルには行っていない、それが失敗だった、それから介護十年とかで海外も日本でも旅ができなくなったからだ
だからジョホールバルには姉があれほど語っていたから行ってみる義務があるようにも思えるから行きたいのだがなかなか今度は前のような気力がでてこないのである
そして暑い所が苦手になったのだ
でも短い期間で行けば行けないことはないかもしれない、それは何か自分の義務のように感じているからである
姉の場合戦争に負けてからもジャングルに逃げたとき最も辛酸をなめたのである
食べるものないとか苦しんた、ジャングルに逃げて日本兵が生き延びた
その苦しみはもう想像を超えているのである
posted by 老鶯 at 22:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年09月08日

タイの画家に会う (原町の高倉に住んでいる人の友達)


タイの画家に会う

(原町の高倉に住んでいる人の友達)

今日駅で会った人は変わっていた、私は芸術家です、ア―ティストですというから何のか最初のみこめなかった
出身はというとタイだという、タイからアーティスト?
確かにスケッチブックをもっていて絵を描いていた
それはタイの古い家だった、それから飯館村の山津見神社に行って狼の彫刻を作っていたその写真を見せてくれた

その人を案内した人がまた変わっていた、そんな人がなぜここに来たのか?
その人がどこかで知り合い訪ねてきたのである
その人は芸術家でも有名ではない、貧乏芸術家だという、自称芸術家なのかもしれない
でもヨ−ロッパ辺りも回っているという、放浪の芸術家となるのか?
それなりに彫刻までできるのだから技量はあるのだろう

でもその人を案内した人は震災以後高倉に住み着いたのである
六年もたつという、結構長い、その人は郷土史に興味をもっている
それが相当に詳しい、たいがいこの辺のことを知っている
岩松氏のことも知っていた、基本的なこの辺の歴史を知っている
南朝の落ち武者がこの辺に住んでいることも知っていた

その人は何をしているのか?高倉のあやめ園に住んでいるという
あの辺を通ったらプレハブとかあったからそこに住んでいるのかもしれない
何かこの辺ではそうした変わった人も移住して住んでいることがある
震災以後いろんな人が入ってきたからである
そういう人も受け入れやすくなっているからである
第一小高などは空家だらけだから誰でもいいかち住んでもらいたいということがあるからだ

ただあの人もタイの放浪画家芸術家とにていて定職を持たない人だろう
第一タイにそんな放浪画家みたいな人がいるのかとなる
タイなら今ならいるとも思った、なぜならタイは東南アジアでは一番豊かになっているからである、物価も高くなっているから豊かになるとそういう人も出てくる
駅とはいろんな人が来るということを知る
田舎でも国際化している、この辺は震災以後いろんな人が入ってきたからである
そのことをここで紹介した、駅はやはり街の玄関であり出会いの場なのである
特に小さい駅だとかえってこうして話したりできるからである

この前来たフランス人も小学校の教師であり日本の文化に興味をもっているから平泉まで行ったのである、その人ともちょっと話しただけだが日本文化に興味をもつ人がふえてくるようになる、中国人だって最初は買い物だけど今は日本文化に興味をもつ
つまり観光でも日本文化に触れたいという人がふえてくるのである
芸術家なら余計にそうなる、そのタイの放浪芸術家も日本に長いのか?
日本文化に興味があってきている、スケッチしり彫刻したりしているからである
ただこの人は今まであった中では一番めずらしい人だったとなる

その人は英語がしゃべれる、それもどれくらいの能力なのかわからない
でもちょっとした話は英語で通じる、ただむずかしくなると通じない
英語ができるということはやはり知識人でもあるのだ
タイには行っている、タイは東南アジアでは最も発展した国である
だからそうした人がいても不思議ではない
普通はベトナムとかネパールとかフィリンピン人とかとも会っている
その人たちは観光には来る人はまれこである
金稼ぎにくる、タイの人は観光に結構今は来ているからだ
だからタイにはそういう人がいても不思議ではないとパ思ったが
それにしてもやはり変わった人も日本に来ているなとつくづく思った
都会ではそういう人もたくさん今は来ている、田舎ではなかなか会えないが
駅であったということがやはり田舎でも国際化しているのである

砂の川、砂の回廊 (Sand River A sand corridor)


砂の川、砂の回廊 (Sand River A sand corridor)

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Water permeates the earth

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最近抽象画を休んでいた、これは二次三次の加工作品だから実際はいくらでもできる
それはなぜか?
ビッグデーターがインタ−ネットになるからである
きりなく写真もある、絵もあるとしたらその変化するのも無限だとなるからだ
ただ常にパソコンの操作することで疲れるのである
何十回も操作してやっとできたとかなるからだ
しかしこの変化の芸術は無限である


Recently I was absent from the abstract painting, this is a secondary tertiary processed work so I can do as much as I can
Why is that?
The big data will become the Internet
Because there are pictures as well, if there are pictures, that change is infinite
Just being always tired by operating a PC
It is because it got to do it by doing dozens of times
But the art of this change is infinite

仙台が下りで東京が上りの違和感 (震災以後は中心は仙台、東京から地方都市へ中核が移る)


仙台が下りで東京が上りの違和感

(震災以後は中心は仙台、東京から地方都市へ中核が移る)

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中央集権ではない国では、ありえない表記であり、一般にはnorthern-bound(北行き)、western-bound(西行き)といった方角や、大阪方面、仙台方面といった主要都市を示す言い方しかない。ついでに、東海道線、奥羽本線といった路線名を付けない国もあるので、説明が必要かもしれない。

東日本震災以後、この辺で双葉や大熊や富岡区間などが不通になっている
それで仙台行きが出ているがそれが下りになっているからなにか感覚的にぴったりしなくなったのだ
東京方面が不通になり余計にそうなったが今はそうでなくても違和感が生まれてきている

それはなぜなのか?

仙台行きが中心でありあとは名取から仙台空港行きがある
だから相馬地域では常磐線は仙台が上りの感覚になる
仙台からは新幹線も出ているし新幹線に乗る人が多い
ここでは常磐線はそのつなぎのようになっている
3倍に収入が増えたというとき外部から入ってきた人が多くなり利用したからだろう
ともかく仙台は東北の中心であり東京のような感覚になる
だから震災以後仙台が下りになっているのは合わないのである

それらのものが、江戸に運ばれると、都から江戸に下ってくるという意味で「くだりもの」と呼ばれるようになったのです。

 茶は「くだり茶」、酒は「くだり酒」、そのほか「くだり醤油」や「くだり傘」など様々な生活用品が江戸に入ってきた。
 上方のものは、とても上等でしたので、江戸の人たちからも人気がありました。
 しかし、上方以外の品物は質が良くなかったので、江戸にはあまり入ってきませんでした。

「くだりもの」に対して「くだらないもの」とよぶようになりました。
 質が良くないために、江戸には、「くだってこない」という意味です

これは京都中心にまだなっていたからこうなった、京都から下ってくるものはいいものなのである
東京が中心なら東京から下ってくるものがいいものだとなる
東京中心の中央集権になればそうなる

ただ電車は上りというときそれは中心に向かっているのだ
下りは中心から離れることである
だから東京から西でも東京行きになると上りになるのである
その感覚は明治の東京中心の社会から生まれた方向感覚なのである
地方からお上ぼりさんというように中心に上ってゆく
それが東京だったのである。京都にも使われていた

でも今になるとすべてが東京中心の社会ではなくなっている
今は東北では仙台が中心だから仙台に行くことが上る感覚なのである
そこは交通の中心地でもあるし東北の中心になるからである
そもそもだから時代とともにこうした方向感覚も変わる
地方の中核都市がありそこが中心となるべきなのである
東京一極集中の時代は終わっているからである

外国にはパリがありロンドンがあっても電車では東京のような中心へ向かうという感覚はない、ただ方向をさしているだけなのである
こっちの方が合理的であり合っているのだ
だからこの辺では特に常磐線の双葉とか大熊で途切れたから中心は仙台になった
そこへの往来が一番多いからである。 
タグ:上りと下り

2018年09月10日

金には責任がつきまとっている (補償金問題でもめた原発事故周辺−権利には責任が課せられていた)


金には責任がつきまとっている

(補償金問題でもめた原発事故周辺−権利には責任が課せられていた)


資本主義とは金の世の中である、金であらゆる価値が決められる、江戸時代だったら身分社会だから金ですべてが決められるのではない
いくら金があっても商人でも侍にはなれないのである
でも幕末になると侍が貧乏になり侍の身分も売られたりしていた
金が実質的に力を持つようになった

金とはなになのか?金にはいろいろなものがまとわりついている
ここでは金とは明らかに責任なのである
江戸時代でも十両盗んだら打ち首にされたとか厳しい
それは金の額で責任を問われていたのである。

時代劇で金をもらったからと殺人をする、金をもらった分を返さなければならないから嫌でもしたというときもそうである
金をもらうことは責任が生じるのである
それが悪い金でもそうである、資本主義社会になったらもう金ですべての価値が計られる金で計られないものは価値がないものとされる
人間でもそうである、いくら地位があっても収入が低ければその人には価値がないのである、江戸時代の身分社会ではないからである

金というのはもらえばいい、高くもらえばそれだけいいと考える
盗むにしても多ければ多いほどいいと考える、でもその額によって責任も本当は違ってくる、でも少額でも高額でも差別がないということがあるが本当はそうではないと思う
金の額によって責任が課せられているのだ

ある人は墓を守ってくれと3百万円を受け取った、跡継ぎがいないからそうなった
でも自分も関係していたが自分は知らなかった
だけど自分も関係した実家の墓だったが今になるとそんなものを引き受けないで良かったとなる、墓を守るということは簡単なようで簡単ではない
そこには死人が埋まっていて簡単に墓を廃棄もできないからだ
その家の持っているカルマすら背負うかもしれないからだ
実家ばどうも何か悪いカルマを背負っている、それを前に書いた
だから前は墓参りしていたしかかわっていたが今は一応兄である死んだ人の墓を自分の墓の脇に作って供養している
金はなんでももらえばいいと思うが何か必ず責任か課せられているのである

この辺で起きた原発事故の補償金でもそうだった
一番もらったのは船主である、漁業組合関係である
この補償は手厚かった、事故前も原発を建てるとき漁業権を東電に売り渡したから
補償金をもらん魚などとれなくても生活できていたのである。
そして原発御殿が建っていたと今では言われる
このことは追求してきたが何が問題だったのか?

そもそも漁業権は海は誰のものなのか?
そのことから問われる問題だったのである。

補償金をもらえばいい、高ければ高いほどいい

こう船主であれ漁業組合関係は思って補償金をもらっていたのである
だけど今になるとなぜ漁業組合は東電に漁業権を売り渡して金をもらっていたのか?
そのことが批判される、それはなぜなのか?

金をもらっていたからだ

そこに責任が課せられていたのである。漁業権の権利はあるが権利にはまた責任が課せられていたのである
そしてその権利をたてに補償金をもらっていたことに大きな責任が生まれていたのである海は誰のものか?漁業組合のものだとなっていたからだ
ではもし漁業権とか海を自治体で協議していたらどうなるのか?
例えば漁業権を東電に売り渡すにしても自治体で議会でも協議して漁業組合に7割とか補償金を配分してあとの3割を自治体でもらうとなっていたらどなっていたのか?
自治体にも責任が生まれ自治体となれば市民全員にも責任があったとなる
でもすべて補償金は漁業組合でもらうことになった
だから原発事故が起きたときその責任が重く問われた

なぜ勝手に漁業権を東電に売り渡したのだ

権利をあるのがわかるがその責任はどうするのだ

だから金には必ず責任が課せられているのである
大工さんに頼んで雨漏りの修理をしてもらったが実際は全く直っていなかった
でも金はあとからあとから足りないととられた
そして結構な金が無駄になった、でも責任は全くとらない
金を損したというだけである

資本主義社会では金の社会である。金をみんなできるだけ欲しい何でも欲しいとなる
でも金の額によって責任が課せられている
金のある人が資本主義社会では責任を課せられている、身分ではない,社会の責任というとき金を持っている人、富裕層になればなるほど責任が課せられているのだ
だから富裕層がタックスヘイブンとか税金逃れしたりすることは許されないのである
金があるからとそれを浪費することも許されない、社会のために使うことを要求される
だからいくら金があっても有効に使えない者は金をもつ資格がないのである
銀行も何かわからなっかったが大金持ちでありその金を今は貸付先もなくうまく使えないつまり銀行は金をもっていてもその金を有効に使えないのだから不要だとなってしまうのである

ともかく原発事故の補償金でもなぜこれほどもめたのか?
双葉とか大熊とかは多額の補償金をもらった、億の補償金をもらった人が多いだろう
その人たちがいわき市に2万人とか移住して家を次々に建てたとき地元の人が不満になった、なんであの人たちは家を建てられるのか?
こっちにはそんな金などないのにうらやましいとなりその不満で事件も起きたのである
つまり双葉でも大熊でも実際は金をもらえるということで積極的に原発を誘致した
そして事故後も補償金をもらい新しい家を次々に建てている
でもいわき市の人は補償金はもらっていないのである
そして双葉とか大熊とかは積極的原発を誘致して金をもらったのではないか?
その責任はあるのではないか?
それは全国的にもそれを言う人たちはいた
事故前も事故後でも原発では勝ち組なんだよとか盛んに言われたのである。

つまり金には何であれ責任がつきまとっている
自分の住む所でも原発の補償金をもらっている、正直一人70万はもらったのである
隣の相馬市は6万くらいしかもらっていない、いわき市でもそうである
だからもし自分の住んでいる所でもっともらっていたらお前も責任があるのにそんなことが言えるのかと責めらても仕方がないのである
金にはこうして常に責任が課せられているのである
ただ原町になると3倍もらっているとか言われる、それは30キロ圏内であり強制避難区域になったからである、だから原町の人は文句を言わないのである。
そして南相馬市は補償金によって分断されたのである


posted by 老鶯 at 10:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

さくらレンタルサーバーで警告メール (レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)


さくらレンタルサーバーで警告メール

(レンタルサーバーとかプロバイダーは検閲しているのか?)

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2009.04.24 Friday 

アクセス解析を見ていたら「osnfw.sakura.ad.jp」というホスト名のアクセスがあった。
これは、さくらのレンタルサーバーの中の人だと思う。

理由は、以前もこのアクセスがあって、その後に警告メールをもらった経験があるから。
第三者に通報されると即座にチェックされて、【重要・要返信】というタイトルのメールが送られてくる。

でも、今回は利用規約には違反していないだろうから、警告メールは送られてこなかった。
普通にサイトを運営しているのだから、大丈夫だろう。

以前はすぐに該当ページを削除したら、許してくれたけど。

そんなに悪いことはしていないのに…。

osnfw.sakura.ad.jpからのアクセスが最近あった、忍者のアクセス解析に出ていた
ただこの解析は全部は出ない、アメリカからなぜ70人もアクセスがあったのに
最近は二三人しかない、一人だけは熱心な人がいるのも不思議である
抽象画の部にアクセスしているのだと思う

ただアメリカから私のホームページにアクセスしている
これもわからないが日本語だアメリカの人が詠むのか?
古代関係にアクセスしている、これは日本人としか思えないのである

最近私はホームページでもプログでも整理している、時間ができたので整理しているが
量が膨大になったので整理するにしても作業が大変になる
自分自身が書いたものが本当にわからなくなった
こんなこと書いていたとか不思議になる
人間は自分で書いたものすら忘れている、忘れやすいのである

いろいろ詩とか俳句と短歌でも整理する必要がある
詩では別にプログを作ったがこれも忙しくなるのでアップしていない
量が多すぎるから整理できないのだ

たださくらのレンタルサーバーからのアクセスで気になるのは警告メールが来たりしたのはなぜなのか?
その理由がはっきりしない、著作権違反とかもある
そんなにフログなどを見ているのか?
なかなか見れないだろう、なにしろさくらは安かったからである
だから最初数が多かったのである
何かこういうことがあると不安になる

インタ−ネットは不安である、一番の不安は何かの調子で一瞬にして消えることである

またレンタルサーバーとかプロバイダーによって削除された消されたいう報告もある
都築詠一氏の(心に青雲)のフログはそういうことがあったらしい
過激な思想と批判があったからだ、でも死んでしまったのである
そしてログは10分の一くらいしか残されなかったのである
それでふりかえり考察することができくなったのである

だから私もいつ消されるのかと不安になるし一瞬に消されるのではないかという不安がある
例えば創価など批判するとここは組織的に力をもっている
するとそういう団体からさくらのレンタルサーバーに批判が来るかもしれない
そして一方的に消されるという不安があるのだ
なにかここにインタ−ネットの問題もがある
ただ著作権違反だとかしやすいし過激な思想の団体もプロパガンダしやすい
実際にテロがインタ−ネットのサイトを通じてイスラム国などからあったからである
つまりあらゆるものの自由はまた危険なのである

でもレンタルサーバーでもフログを提供する会社でもどういう責任があるのか明確ではない、勝手に会社の都合で消されたり削除したりされるとしたらどうなるのか?
そのルール―が何なのかもわからないのである
インタ−ネットの法律はない無法地帯だともなるからだ
でも会社の意向で消すときは連絡してもらいたいとなる
その理由を言い警告した後にこちらでも処置するとなる

ともかく一回さくらのプログで機械の故障かなにかで消えたことがあった
でもバックアップしてあったので回復した
それから手続きができなくてせ電話で連絡して料金を払い消されないですんだ
それは一日も余裕がなかった
入院していて見ていなかったからだ
そういうふうにインタ−ネットでの手続きはめんどうだからそういうことが起きる
つまりインタ−ネットには様々な危険がひそんでいるのだ
それは操作がめんどうでありわからないことが多いからだ
技術的障壁が大きすぎるからである

ただ最近はめったに通信ができなくなることはないから安心ではある
通信は安定したからである
でもhttpsのsslの認証のことがわからないからまた困るのである
感嘆に移行すると不具合ができているから困るのである
さくらは意外と大きな会社で今は北海道辺りにデーターセンターがある
だからバックアップがあるから記録が簡単には消えない、それが安心なのだが
それでも理由もなく一方的に削除されたり消されるのが怖いという不安が依然として残るのである。

個人は弱者である、だから巨大なの組織団体の力がインタ−ネットでも働いたらどうにもならない
国自体が中国では関与しているから自由な発言は中国にはない、そうなるとインタ−ネットでも規制されて
真実は報道されなくなるのだ
経済活動ならレンタルサーバーでも大勢を組織団体を優先する
それで経済的にしめあげられれば組織団体からの圧力に屈する
それでマスコミには真実は報道されなくなったのである
それがインタ−ネットでもありえる
インタ−ネットでも今は多数がしているのだから影響力がでてきているからだ
でもそうしたフログは極一部である、まずインタ−ネットでは読まれることが至難だからである
不思議なのはくだらないものでもyoutubeになると見られているなと思った
気楽に見れるからである、それで個人が放送局になっているからマスコミに個人で対抗しているのである


2018年09月11日

人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる (責任から逃れられない、カルマから逃れられない)


人間は自由である、でも行為には必ず責任が課せられる

(責任から逃れられない、カルマから逃れられない)

人間以外の被造物が世界(被造物同士)にたいして責任をもたず、人間だけが世界にたいして責任をもつ。それは、人間だけが神を前にして責任を釈明し、責任をとらされる存在だから、つまり超越と人間との独自の関係ゆえである。

キリスト教と生命科学ー責任概念を中心にして

人間の謎はいろいろあるが人間のみが責任をもち責任を負わされ責任を果たすことを要求される、人間は生まれた時点ですでに重い責任(カルマ)を背負ってくるからだともなる人間はこの世に生きることは責任があるというときもう存在するだけでもそうである
空気を吸い水を飲み動物を植物を食わねば生きていけない、存在ふることは他の生命があって生きられるのである、だから何かを食べるだけで責任が生じている
食べ物でも食料でも大事にせねばならない責任が生まれるている

一体動物であれ植物であれ鉱物であれそれらが何であれ責任を問われることはない、
残酷に他の動物の肉を食べるからとそんな残酷なことをするものは死刑だとはならない、犬猫を飼うものでも犬や猫が勝手に子供を生んでも
そのために野良犬になり野良猫になってもその親に責任があるとはならない、むしろそれを飼う人間の方が責任を社会から問われるのである、生物で責任をとらされるのは人間だけである
それはなぜなのか?その答えはかなりむずかしいものとなる

これまでも原発事故のことで責任のことを書いてきた
一体原発事故の責任は誰にあるのか?
それを追求してきた、また責任をもちうるのは誰なのか?
責任をもちしるのは問われるのは資本主義では金をより多くもっている者であり
金の額に比例して責任が重くなる
だから江戸時代では十両盗むと打ち首になった
金はわかりやすい責任の具体的な指標とるからである

なぜあらゆることに人間は責任を問われるのか?また責任を課せられてそれを負うのか?それはカルマ論ともなり不可解だとなる、それは神学的哲学的問題にになるからだ
人間はあらゆることに責任があるというとき責任をとらされる
借金することは自由である、でも必ず返すことを要求される、責任が借りたときに生じていたのである。返さなければそれ相応の責任を負い江戸時代に遊女に売られたとか現代でも過酷なとりたてにあう
人間は何するにしても責任が問われる、恋愛なら好き嫌いで別れたとしても子供ができれば責任をとらされる、結婚は大きな責任の上に成り立つ、財産があれば離婚すれば金で支払うことになる

人間はあらゆることに責任が課せられ責任を負うことが定めである
人間は極端になれば何でもする自由がある
親鸞のように千人殺してみなさい、それであなたの罪深さを知りなさいともなる
つまり千人を殺す自由がある、でもその責任もある
その責任を果たせる人はそうしてもいいとなるのだ
要するに人間にだけまた自由が与えられているのだ
動物はただ本能的に生きるだけであり自由はない、自らの意志で決断するとかはない
ただ本能に導かれて行動するのであり動物には人間のような自主的に決断するものはない
人間は自由であるから何をしてもいい→人間には責任がある→責任を負わされる

例えばカルト教団に入るのも自由である、ではそのカルト教団がどういうものなのか?
入る人はただみんなが入っているからと容易に入る
でもカルト教団に入った人は必ずその責任を課せられる
自分はそんな責任を負うことはないと思っても課せられる
オウムでもそうだった、そこに入った人は高学歴の優秀な学生であり優秀な人たちだったでも結果的には麻原にだまされたとか逮捕されてからは言うようになった
そして最近幹部がみんな死刑になった
その死刑になる時責任の重さを知らしめられたのである。
その時後悔してもどうにもならなくなっていたのである
だから行為の結果というのはカルマは厳しいものになる
そうしたら安易な行為はできないとなるのだ

人間は自由である、何するにしてもカルトだろうが何だろうがその教義を勝手に解釈して殺人集団になってもいいとなっていたのである
しかし人を闇雲に殺した結果としてみんな幹部は死刑になったのである。
その時その過ちを悔いてもその責任を負わされたのである。
もちろん死刑には疑問があるにしろ実際にそうなったときその責任の重さを自覚したことは確かである、世の中はやはり外から見ても厳しいものだと自覚する
目に目を歯には歯をであり殺したものは殺されて当然だともなる

江戸時代には庶民は侍になりたくなかったという、それは侍は責任のために切腹させられたからである,それが責任の取り方だから庶民はそんなことは嫌だとなり侍になりたくなかったのである。
侍がなぜそれほど責任を課せられていたかというと今のような民主主義などない
身分社会だから侍が模範となる社会でありその模範となるべきものが悪を成したら厳しい処罰として切腹させられたのである
責任者がはっきりしていたのが江戸時代だったとなる

責任というときいろいろある,あらゆることに責任が問われ負わされるのである
原発事故では漁業組合とか船主の責任が問われた、それはそれだけの金を事故前も事故後ももらっていたからである
つまり漁業権をもつ権利があったのだがその権利を行使したのはいいとしてでは原発事故になったら責任が問われた
なぜ漁業権を東電に売り渡したのだ、その責任はどうするのだ
事故後もなぜ手厚い補償金をもらいつづけているのだと問われる
このことは双葉や大熊の町民にも問われたのである。
他にもいろいろな責任が問われた、政府でも官僚でもマスコミでもあらゆるものの責任が問われた、それはなぜなのか?

権力を持っても権利をもつものは責任が問われる負わされる

責任をもつものはまたそれだけのことを行使できる権力をもつものなのである
江戸時代には庶民は何の権力もないから侍が政治を行うのだからその結果の責任は侍がとらされていたのである
だから権力がないものは責任もないのである
報道でもそもそも江戸時代には報道などない、瓦版などがあったとしても報道に値しないだろう、とすると情報でも侍がすべてもっているのだから庶民は何もできない
でも明治以降は新聞でもなんでも報道する権利を与えられた
だからこそ今度は報道する権利をもち権力をもったものには責任が問われる
マスコミに風当たりが強くなったのはテレビでも六局しか報道の権利を与えられなかったからである、出版でも必ずしも自由とはならなかったからである
情報は報道はマスコミが独占していたからである

となれば権力をもつのだから責任が問われ負わされるのである。
でもそういう自覚をもって報道していたマスコミはない
だからこそ政府と官僚とマスコミなどが一体となり強固な安全神話は作られたのである。
責任が誰にあるのか?それはまず権力をもったのもが問われてしかるべきなのである
報道もできないとか何も言う権利もないとかなればその人に責任はないのである
それは江戸時代と同じであり責任をとるべきは侍となりその侍になっていたのが政府であり官僚でありマスコミでありまた電事連とかの労働組合でもあり権力をもつものがみんな一致して安全神話を作ったのである
だから今はこうして権力は団体になり組織になり会社になりその責任が分散されてあいまいになり結局誰も責任はとらないとなったのである。
侍のようになっていたら切腹するべきものだったのである。
でも東電の社長であれ誰も責任はとらなかったのである

責任とは権力ももつものが一番責任がある、その地位にある人が普通は一番責任がある
でも誰も責任はとらないのである
責任はとらなくても必ず人間社会では責任をとらされるのである
原発事故後は人は住めなくなった、荒れ放題になりゴーストタウンになった
その責任はそこに住む人もとらされたのである。
誰かが必ず責任はとらされる、それが人間の宿命である、カルマだとなる 

自己決定権の対極として有している。それは、自ら決定することのできない「偶有性」(contingency)に起因する責任である。ここでは、さしあたりこの責任概念を「偶有的責任」と呼ぶことにする4。自己決定権が、行為者が自らの行為結果の責任を負う、という意味での因果法則あるいは応報主義に強く規定されているのに対し、偶有的責任は因果法則に拘束されていない。なぜなら偶有的責任は、自己決定に基づく責任とは反対に、自分で選ぶことのできなかった、あるいは決定することのできなかった状況から生ずる責任概念だからである

自己決定権というけど銀行で投資信託をうりつける、確実に手数料が入る
でも営業の銀行マンは私たちは金融のプロですからまかせてくださいと言った
そうか、プロならまかせていいのかと思いまかせて失敗だった
地銀などまず証券のことなど素人並みであり知らなかったのである。
適当に選んで投資したのだが分散投資とかするのは方法として間違っていないしそのことを言っていた、でも株が上がったとき投資信託に回した、Jリートに回した
その株をもっていればリ−マンショック以来もっていた株だからかなり利益を出したのである、分散投資のルールを自ら守らなかった
そして責任を問われるのは決めたのは自分であり自分がとることになった
自己決定するにしてもそれが専門でもないし知識がないし経験もないからプロに頼むのである、結局自己決定権を銀行は自らの利益のために奪って他者の金を投資した
その責任はとらない、手数料だけはとるというだけだったのである

ここにも誰が責任あるのか?それが問われる,どこでも責任問題がある
だから契約がこまかく規定しているのは責任を逃れるためなのである
家が雨漏りして直してもらって結構な金をとられた
でも雨漏りは全然直っていなかった
そうならば最初から直らない場合は金は払わないとして仕事させる契約すべきだったとなる、無駄な金を払っただけだとなってしまったからである
それはどこきょ分野でも医者でも常に人間は責任を問われる、そうなると何でも簡単には引き受けられないとと普通はなる、でも原発は恐ろしいものでありそんなものが事故を起こしたらその責任は誰がとるのだとなっていた
現実に補償金は払ったとしても誰もなんらか罰せられることはなかったのである

人間は何かするにも常に責任が問われるとき責任を自覚して仕事をしないと後で責任が問われるから慎重にもなるし真剣にもなる、何でも簡単に引き受けられないともなる
戦争でもどうして起こしたのか?結果として3百万人死んだ、その責任は誰がとるのか?もしそうなら戦争をするには相当な深慮遠謀が必要だったとなる
その結果の重大性を考えれば戦争が強いられとしても簡単にはできない
その犠牲をみれば戦争をしない、もう苦しくても戦争はしないという選択もあったと思うからである、男は戦争で死ぬのが当たり前だという理屈は成り立たない
ともかく行為の結果として必ず責任が問われる、だからこそ簡単に行為に踏み切ることはできないともなる

家族でも何か困りごとがあれば災いがあるとしたら家族の誰かがその責任を問われ負わされる、自分はその責任を負わされたことを介護とかで苦しみそのことを書いてきた
自分はただただ病気になっていても責められるだけだったのである
それも自分のカルマとしてその責任を負わされたのである。
でもそれが宿命でありカルマだったとなるからどうにもならなかったのである。
人間は責任からカルマからのがれられないのである
自由である、権利を主張してもいい、でもそれには責任が課せられる
自由や権利ばかり主張しても重い責任があるということを知るべきである

それはあらゆるところにある、明治以降私有権が認められたが結果として私有する権利はある、でも山でも土地でも所有することには責任が生じる
山は入会権として村人がみんなで管理していた
でも私有権が認められると山は無数に分割される
でもその分割した所有した山の一部分を守るかとなると守れない
なぜなら山とは全体のことでありそうした私的所有だけで守れないものだからである

この辺では荒地になっている所がまだ多い、また全国的に耕作放棄地が増えている
ではそのままにしていいのか?そんな土地を所有していることができるのか?
それは美観的にもいいものではない、何もできずに荒地にしている人には私有する権利があるのかとなる、それは空き家の増大でも言えた
それで法律が変わりそうした放置された空き家には税金が高く課せられることになった
つまりただ放置しておくと税金を高く払わなければならなくなったのである
私有権が与えられたからとそれで何でも自分の利益にしようとするができないのである
疎の私有する権利が与えられてもではその土地を有効に活かして利用できないものは土地をもつ権利がないとなるのだ

ともかく人間はあらゆることに責任が課せられる、負わされる
インタ−ネットとかでも発言が自由になれば責任を負わされる
何を言ってもいい自由である、でもその発言には責任をもてよとなる、負わされるのである、そう自覚しなくても今やそうなりつつある
それは誰でも発言できるようになっから権力を与えられたからだとなる
ただでは無数にあるプログで発言してどれだけの責任があるのかともなる
マスコミだとテレビでは真実が報道されないのは必ず様々な団体から抗議が来るからである、盲人のことを言えば盲人団体から抗議されるしカルト宗教団体を批判すればその団体から抗議がくる、こうしてもう何も真実は報道されなくなったのである
それぞれの団体が権力をもっているからである

でもそれぞれの団体にもただ権力をもつだけではない責任が課せられ負わされているのである、数が多いからとあらゆることが通るのかとなるとそうはならないからだ
だからその団体組織でもあなたたちは誰が責任をとるのかと問われるのである。
あなたたちは数が多いからと責任が免責になることはないのである。 
今は江戸時代と違うから庶民でも民主主義の社会では責任をとらされる
庶民にも権利が与えられれば一票でもそうだし権力をもたさればそれを行使したものには責任が問われるのである。責任が課せられて責任を負わされる社会なのである。
ただ数が多いと責任が分散されるのである
戦争でも国民に責任があったとなると国民全部に責任があるとなる
結果的には誰も責任がないとなっている

原発事故でもそうである、原発を誘致した地元の人にも責任があり原発を選んだのは国民だとなり国民全部に責任があるとなり結果的には誰も責任がないとなる
そういうことは日本では多い、責任の所在を明確にしないのである。
そして日本ではまた同じようなことが起きてくる
どうしても責任あるものとはその権限がある者でありすべての人に等しくあるとは思えないからである。、そして情報でも正しい情報を与えらなければ判断しようがないからである。複雑な社会になればもう自己決定権があるとしてもできないのである
原子力のこと放射能のことがわかるのかと言われればわからないとなりどうにもならないすると専門家にまかせる、まかせられた専門家が責任をとるとなる
でも実際は専門家も責任はとらなかったのである


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