公益を目指すべきが個益になり社会は分裂分断
(原発事故でもそうであった、ただ公益共益が何かは決まっていない)
人間の経済活動でも社会活動でもそもそもは公益を目指すべきものだった
ところが資本主義であれ民主主義であれ私有権とか個人の権利のみを主張して認めるものとして明治以降変えられた
だから今になると江戸時代が遅れた封建制で民はただ税を納める搾取する対象として見られていた
入会権でも山で採れるも山菜でもまた木材でも共有する共益になるものであり個益は許されない、だから何か古いものが常に遅れたものとして西欧化されたとき見るようになった入会権とは別に遅れたものではなくその当時の人がみんなで仲良く生活するために考えた知恵から生み出されたものである
人間はそもそも公益とか共益なしでは生活できないからである。
資本主義が自由市場主義で市場の原理にまかせる、見えざる手にまかせるというとき私有の追求になった、公益とか共益は自ずから個々の私有とか利益を求めるとき達成されるとしたルールだったのである
でもそれがうまくいっているかとなると公正な世界市場などありえなかったのである。
それはアメリカを中心にして金融で支配される世界支配のための金融になっていた
第一ドルがアフリカの奥地まで通用することがアメリカが支配していることなのである。実体経済と関係なくドルという紙幣をすれば世界を支配できるとなるからだ
なぜこの辺で原発事故でいろいろもめたのか?
それはやはり公益とか共益とかなくなりみんな個々人の利益を求めるだけになったからである、補償金でも個々人に与えられたからである
本当は自治体に与えられたものなのだが個々人に与えられたから個々人はその金で自分の勝手に使うとなりそうならめんどうな苦しい避難区域に住みたくないとなり外に出たのである、それだけの資金があったし金さえあればどこでも住めるとなるから外に出た
もうばらばらになってしまったのである
いわき市に二万人も双葉や大熊や富岡の人たちが避難して次々に家を建てたというとき地元では不満になった、そこで家など建てられない人たちも多いからである
なんてあの人たちはよそから来たのに家を建てられるのかとなった
その家も建て売り住宅の会社だからできた、そんなに多くの家を地元の大工では建てられない、ほとんど外部の会社が一週間くらいで組み立てて建てたからできたことである
でもいわき市の人たちから見れば双葉とか大熊とかの人たちが公益共益として原発を積極的に誘致したのである
それが事故になって住めないとなっていわき市に避難したときあなたたちはあなたたちで原発を誘致して決めたのだから放射能汚染してもそこに住めともなる
それがあなたたちの責任だともなる、何か今回の原発事故は距離に比例して責任が課せられていたのである。飯館村をのぞいてはそうである
20キロ内は避難区域になり30キロ内までは補償金がもらえた、ただ30キロからはずれても鹿島とか久ノ浜は多くはないが一応補償金はもらえたのである
例えば公益とか共益というとき漁業権でもそうである
それは漁業者だけが持つ権利になっていたとき漁業者は漁業権を東電に売り渡して原発御殿を建てていたとなる
今でも原町でもこの辺でも立派な家を建てているのは船主であり漁業関係者だとなる
原町で大きな石の庭を作ったのを見たがそこは船主の家だった
トリチウムを海に流すな魚が汚染されるというけどテレビで死活問題などと放送しているけど漁業関係者は特に船主は生活には全く困らないのである
まず30年とか楽に補償金で生活できる、それだけ原発事故の後の処理はつづくからである
魚を一匹もとれなくても困らない、むしろトリチウムを流すなと交渉して補償金をつり上げることができるのだ、これも矛盾しているのである
それはこうして他でもそうだが組合も一見労働者のためのように見えて私益を追求しているからである。利権獲得のために動くからである
電気関係の電事連も原発で働き収入を得るのだから原発に反対はできない
そこは労働者も利益共同体となっているから電事連からマスコミに巨額の宣伝費が出ていたのである゜
山でも私有権をが明治以降認められた結果無数に分割されて共同で何か利用できなくなった、共益というときグロ−バリゼーションでもそうである
自由市場競争が公正な世界を作るというのもそうではなかった
結局アメリカ一極の金融支配でありそれに対抗しているのがロシアとかだったが排斥される、シリアの問題も実はシリアではIMFに加入していない、ドルが通用しない社会主義国家だったのである
それにアメリカでは不満がありロシアに対抗して反政府運動が自由の旗印のもとに行われた、その結果はいいものではなかった、ロシアの支配下にあった方が良かったのである
なぜならシリアに行った人がシリアの人は素朴だとと何度も言っていたからである
それなりに貧乏でも平和に暮らしていたのである。
それが欧米とロシアの対立で壊された、クリミアでもアメリカ側の金融支配がありそれが対立の原因になるし中国でもそうである
グロ−バリゼーションによって後進国でも利することはあるが金融でも支配するためにある
公益など世界レベルにはない、アメリカとかに利するものとしてグロ−バル社会があるとなるからだ
この辺でもなぜ地域社会が破壊されたのか、それは何度も書いてきたけど公益の共益の共同体を越えて金だけがばらまかれたためである
漁業関係者がそうであり原発事故の補償金でもそうである
地域共同体を越えて金がばらまかれた、すると一億円とか以上もらえればも自治体のことなど考えない、その金で外にでて楽して暮らした方がいいとなったのである
それも放射能汚染があるから悪いとはされないからである。
そうして自治体は破壊されて崩壊したともなる
補償される権利があるとしても自治体の復興のために使われたわけではないのである。
いづれにしろ公益とか共益といってもそれが何なのか?
原発でも別に金になればいいとしか考えない人もいる
原発は金になるものとして受け入れて賛成していたのである
それは市町村でも公益的な共益となるものとして賛成していたのである。
例えばソーラーパネルでも最近自然を景観でも破壊する抑制するべきだというときもそうである、
ソーラーパネルは原発事故のために安全な電源として奨励された
それは公益にかなうものとしていたるところに設置された
でもそれが公害にもなりつつある、だから公益共益とはなにかということが実際はわからないのである、一般的には便利なものが公益共益的なものとなる
民主主義だからみんなが多数のものが決めたことは公益になるとしても結果的にならないこともある
いづれにしろ会社でも会社の利益のみを求めたらそれが社会に認められて成功するとはならない、事業を始める人でも失敗したがその人の経営理念は自分が優秀だと認められたいということからはじまり田舎では金にならないから金持ち相手に全国相手に事業を起こしたのである。
そこに共益とか公益はなかった、自分の利己的エゴから始まったともなる
だからその事業が失敗しても同情しにくいのである
公益的とは何か共益は何かはまた共生とは共存とは何かにも通じている
自分は景観を大事にしてもそれは金にならないから金になるなら公害があってもいいとかなる人がそれなりに多いからである。
だから公益とは何かというとき多数がいいと思うものが公益なのかとなる
多数であれば何でも許されるのか?
その公益を決めるのはどうして決められるのか?
それが結構むずかしい問題なのである。
例えば小さな畑で野菜を作っている人は農業はそれが利益を産まないにしても公益性がある、環境の保存とか景観の維持とかがある、それはこの辺では原発事故以後荒地化しているのが多いからである。農業は自然と深く関係しているから公益性がある
荒地になっているよりはそこに野菜を作り花でも咲かせると景観的にいいとなるのであるそれは公益であり共益になっているのである。
でも利益を生まないものには投資しない、銀行でも金を貸さないのである。
どうしても経済優先だから原発だって誘致された、それは公益共益でもあったからである
だから公益共益とか共生とか共存とかは思想的問題であるのかもしれない
一つの価値観を共有することで公益とか共益は何か決まる
もし車などいらなくてもいいとして暮らすこともできなる
その為の不自由があまりにも大きいからそうならないだけでありもしみんながそう決意すれば車がない生活が公益に共益になるのである
原発だってみんながいらない決意すればそれはできる
でも原発とかなると国と関係して国際関係とも関係してくる
アメリカには逆らえないとかなり日本ではやめることができないとなる
ともかく共益とか公益がどうして決められるのか?
それをよくよく考えてみるべきであり人は公益共益を優先して生きるべきものであり
それがなくなりただ私有とか私権とか私益のみの追求となるとき共同体でも破壊されてしまうのである、金だけでもそうしたことは解決しないのである
かえってこの辺の補償金で分断されたように公益共益を損なうものとなる
ただ人間は便利なものぜいたくを追求する、それが公益出り共益になりやすい
人間の欲は限りない、それを抑えろといっても反対されるだろう
なぜ原発が金のなる木だったからこそ積極的に地元でも誘致されたのである
小高の腕のいい大工さんでもそうである、家を建てて借金していたから原発を作れば金になるからいいと言っていた、その息子でもいい車に乗っていたりした
つまり人間の欲を抑(おさ)えろということは共益にならない、共益になるのは人間の欲を満たすものだとなってしまう
そんならお前は寺で肉も食べない最低限の生活をする出家僧になれ、修道院に入り世俗的欲をたつ生活をしろとなる、それは共益とはならない、便利なこと豊かな贅沢な暮らしができることが共益だからである
ただいくら欲を抑えられないにしても限度があった
人間の欲は切ないからである。いい家が欲しい、いい車が欲しい、いいものを身につけたいとかうまいものを食べたいとか今はきりなく欲望が拡大する
欲望はさらに高い地位につきたいとか自分を優秀にみせたくて事業した人もいる
人間の欲望は経済的なもののに加えて地位が欲しい名誉が欲しい、優秀であると認めさせる、そのためにしのぎをけずっているともなる
ただ公益共益というときそうした利己的動機を否定するものが公益共益にもなる
利己的なもの個益を否定して公共のために共同体のために尽くすということもある
実は共同体にはそうして公共のために全体のために共同体のために犠牲が強いられることがあるのだ、人柱伝説などでもそうである、公益事業のために犠牲が強いられる
戦争で3百万人が死んだというときもその戦争は共同体の命運を賭けたものであり犠牲が強いられたとなる、それはその時はみんなが戦争に積極的に公益と思って参加したとなるからだ、だからただ便利になるからとか欲望を満たすためにだけではない、他の理由でも人間は死ぬまでの犠牲を払うともなる
戦後はギブミチョコレートとなりただ日本人は欲望の追求となりなりふりかまわず世界にトランジスターを売りに行ったとなる、そして高度成長になったのである。
資本主義ではその欲望が肯定される、欲望があった方がいいとされるからである
今の若者は常に欲望がかえってたりないから駄目だともなっているのである
そのために人は働くとなるからである、でも何が間違ったのか?
その欲望も限度を越えたとき危険な原発も積極的に誘致されたとなる
もう欲望の故になんでもいい金になればいいとなっていたからである
現代ではみんな金の亡者になっているからである
何かそこに歯止めがなくなっているからである、それで原発は積極的に誘致されたからである、そして事故になってからは補償金をもらえばいい、もうそれがすべてだともなる
何か復興とかは関係なくなっていた、何か公益とかではない、自分たちがどれだけ補償金をもらえるかもらうかしか関心がなくなったのである
それも共同すれば共益になる、だから共益というのは何なのか?
それが問題だからみんなで考えねばならないのである。