2018年08月31日

人間は自分が困らなければ無関心である (犯罪は関心をもたせるためのなか? 常時監視状態にある姑息な陰険な田舎)


人間は自分が困らなければ無関心である

(犯罪は関心をもたせるためのなか?
常時監視状態にある姑息な陰険な田舎)

シリアカーに乗っている人にスーパーで呼びとめられた
家の周りをうろつくなとか言った
どこの家なのと言ったら何も言わず何か不満げに去って行った
私は良く他の家の庭でも花などの写真をとる、するとそれを見ている人がいるのだ
ただ本当に人の気配も感じないのだ、でも田舎では誰かが見ている
ある人は周りから監視されているような状態になっている
一人暮らしになってから特に女性が入るとうるさいのである
それでも回りのことを気遣い何も言えないのである。
だから田舎では村八分があったことを理解できる
日本の閉鎖された村のマイナス点がそこに如実に現れているからだ

畑をしている女性は隣の畑の人と仲が悪い、だから常にその人のことを気にかけて自分の畑に入ってきて困るとかいうしその人自体の悪口を常に自分に言う
確かにそういう人なのだろう、ただ畑で仲良くしている人もいる
その女性はスーパーで財布をもっていないことで何かナイロンの袋に金を入れていたので警察に通報されたのである。それも誰かが通報したのだから陰険である
自分も駅で案内などしていたが怪しいとして通報された
だから何か家の前でうろついていると警察に通報されるかもしれない
見ていないようで見ているからだ
でもただ家を見ているだけでは犯罪にはならないだろう
それで通報するとなると問題があるだろう
駅は一応公共の場だから通報したともなる

その女性はまた市営住宅でも隣の人とかのことで文句を言う、何か気にさわることをしているからだ、そういう隣人がいると隣り合わせだから嫌になる
それで殺人が起きたりするから怖いことがある
何か田舎は実際は住んでみれば陰険であり姑息な所である
田舎がいいという人は工事関係者でも大阪の人でも長くいない、住んでいないからである人間関係のわずらわしさは田舎にあり嫌になる
何か一人になってからそうした嫌なことを自分も経験している
大阪が外国人に好かれるのもわかる、日本人でもわかる
親しみやすいしおせっかいでも人にかかわってくれるからである
大阪だったら困った人がいたらどうしたのと寄ってきて助けてくれることがあるかもしれない、東京とか他ではなかなかないだろう
田舎の人が情が厚いというのは昔のことである。田舎の人がいいというときそれはそこに住んでいないからそう見えるのである

ただなぜそのシニアカーの人がそんなことを自分に言ったのか?
確かに体が悪くシニアカーに乗っている人を見かける、でも別に声もかけたりしない
そんな人がいても無関心なのである
今回は自分に文句を言われてそのシニアカーの人に注目した
なぜ自分にそんなことを言ったのか?
どこの家の人なのか?なぜ身体障害者になったのか?
何かその人のことを気にかけたという不思議があった
そして田舎だとそういう人がいれば後をつければ別にその人の家のことがわかる
そんなに遠くないからである。
でも警察に通報されたら皆目わからないのである
ただ木陰で休んでいて怪しいとなり警察に通報されたのは与那国島だった
そこはら田舎というよりもう閉鎖された島だから江戸時代だったかもしれない
島暮らしになったらそれこそもういい面は家族のようになるのが悪い面となると監獄に一緒にいるようにもなる、プライバシーは全くなくなる

ともかく人間はつくづく近くにいても無関心なのである
その人はシリアカーで見かけたとしても無関心である
すぐ近くで津波で死んだとしても家族でも被害を受けなければ関心があっても深刻にはならないのが人間である

ではどうしたら人間は関心をもつのか?

犯罪に合ったりしたとき一番その人に関心をもつ、それが家族が殺されたとかなるともうその関心は異常になる、その人を延々と恨み呪いつづける
絶対に簡単に許すことなどできないのだ、そういう経験を自分もしている
大金を盗まれてその人を憎みつづけたのである。
犯罪にあった人は不思議なことだがその人を一番関心をもつようになる
それがマイナスの関心でも憎むことでもそうである
これも人間の心理として不思議である

俺に関心をもて、憎むのでもいい関心をもて!

犯罪にあった人はこうして決して被害者はその人のことを忘れないのである。
関心をもちつづけるのである。
でももし犯罪にあわないなら何の関心ももたない
その人が誰かを傷つけても殺したとしてもそんなことがあったのかとニュースを一回見て終わりなのである。でも被害者は延々と犯罪者を憎み関心をもちつづけるのである

だから犯罪とは何なのだろうとなる、その人に関心をもたせるために犯罪になるのかとまでなる、なぜならそうしなければ全くの無関心だからである
その人が今日食べるものがないとしても何もしなければ無関心だがわずかの金でもとられたり傷つけたりされればその人に関心をもつのである。

今なぜ富裕層でも底辺層とう貧乏人に無関心なのか?
それは直接かかわらないし現代では見えにくくなっているからだ
例えば昔なら乞食になって物乞いに来ればこの人は貧乏でそうなったとわかるからである今は着るものも普通に来ているし貧乏が見えにくいのである。
ただ現代の貧乏の特徴は必ず貧乏な人は水道を止められとか、電気をとめられたとかで表面化するのである。それ以外はなかなか見えにくいのである。

富裕層とかが貧乏人のことをわかるには大きくは富裕層に暴動が起きたり個々人でも貧乏人に犯罪にあうときなのである。この時貧乏人のことを自覚させられる
それ以外は直接交わることもないと無関心なのである。
貧乏人など困った人などどこにいるの?こうなっていて無関心なのである。
自分もそうだったからである、それはあらゆることに言える、相手の困ったことには無関心である、ただ自分が困った時なぜ無関心なのかと不満になるのである。
それは介護の時自分がそうだった、誰も助けないし責められるだけだったからである

ただつくづく原発事故でもそうだったが人間は関心を持つべきものに持たない
そのことが原発事故につながった、もっと関心をもっていればそうはならなかった
でも関心を持つということは意外とむずかしいのである。
いくら貧乏のことでも無関心なのは今は見えないからである。
インド辺りだと子供が乞食してたり障害者が街にいて物乞いしたりしていればわかる
今は日本では見えないから貧乏がわからない
ホームレスはわかるが今はネットカフェとかで寝泊まりしているとまた貧乏は見えないのである。

ただ何でも人間が無関心だということは問題を引き起こすようになる
いつか苦しめられて関心をもたされるようにもなる
それが犯罪の被害者になったり自然災害でもそうである
自然災害でも自分にふりかからないかぎり無関心だからである
でも日本は災害が多いからどこかでまた災害で苦しむ人がいる
だから無関心ではいられないのだが自分の身にふりかからないかぎり人間は依然として
無関心なのである

共同体とは何なのか? (金だけを求めると共同体は分断され破壊される)


共同体とは何なのか?

(金だけを求めると共同体は分断され破壊される)

 我々の住む世界は、共同体なのか、それとも、無機質な集合体、システム、仕組みに過ぎないのか。我々はどの様な社会を望んでいるのか。それを忘れたところで、経済について議論してもはじまらない。無意味である。企業は、機関か、共同体なのか。現代社会は、共同体性を喪失し、唯物主義的に機関化している。つまり、人間性を失いつつある。そして、急速に仮想空間が人間の社会の隅々まで浸透しようとしている。

 共同体の従来の意味は、土地を共有し、地縁、血縁と言った何等かの人間関係で結ばれた集団を指して言うが、ここでは、非貨幣的人間関係によって形成された集団と共同体を定義する。つまり、金銭関係を離れた集団である

 第三の経済

このサイトは参考になるし共感する

共同体とは何かというとき様々なものがあるから一概に言えない、一番わかりやすいのが家族なのである。家族こそ共同体の核でありそれは古来から変わらなかった
経済というとき家政を基にしたいた、

"Economy"(経済)という言葉の語源を辿ると、"Eco-"はギリシャ語で「家・家庭・家計」などをあらわす"oikos(オイコス)"に由来する接頭語で、"-nomy"はギリシャ語で「法・秩序」をあらわす"nomos(ノモス)"に由来し、秩序や法則性

家族というとき一見血のつながりが家族だと思っているがそうではない、家族でも養子制度があり血がつながらなくても家族の一員となるからだ
そもそも家族とは共同体の原型であり共同体は家族から発展拡大したものである。
国並みの共同体でもハウスブル家とかなればやはり家から拡大したし江戸時代の藩は御家中である、やはり家という共同体というのを優先していたのである。
だから御家のためにと尽くしたのである

私の場合は家族のために苦しみ苦闘してきた経過がある、それは結婚して子供をもち家族を形成したというのではない、特殊な事情で家族を形成されていた経過がある
だから家族とはなにかと考えるとき血縁の家族ではないのである。
そのこと故に最後まで死ぬときまで争っていた経過がありその家族もみんな死んで一人になったのである。
本当は自分の家は家族として維持できないものだったのである
夫婦としてあって維持していたものでもないからである
その特殊性は外から理解するのは不可能だとなる
ただ家族というのを共同体としてあったということを今では死んでも深く理解している
つまり争う家族でも家を維持するということで共同体だったのである。
家という共同体があって維持されていたのである。
だから別に血縁でなくても家は家であり共同体なのである。
だから病気の時は看護したり介護したりとそれは自主的なものとしてしたのである

共同体が何かというときまず家族が共同体だということを理解しないと根本的にわからないのである。
なぜならどんなに大きな共同体となってもそこには家族の延長としての共同体をイメージして形成するからである。
国家でも大きな家族だとなり天皇が親であり国民はその子である赤子としてしいたからである
つまり共同体とは家族が基本だとするとき家族は何かということにもなる

だからこのサイトで家族が非貨幣的に結ばれたものだというときそうなる
家事労働でもそれは非貨幣的な労働であり母親の労働は金銭に換算できないものとして愛情をもって子を育てるものとなる
でも一旦それが家族でないとすると家事の外注すると金銭に換算されたものとなる
そうして現代は家事すら外注されて金銭化されるようにもなった
あらゆるものが労働でも金に換算されて金のための労働となったのである。

共同体は家が核になる、村でも核になる草分けの農家がありそこは前田という地名がついている、原町区の大原などでも前田とついた地名は草分けの家で古いのである
そうした核となるも家がそこに雇われる人がいたりして村が形成される
日本では苗字が必ず村の名前から地名からでている
それが村が一つの姓の下に共同体を形成していたからである
村の結束が強かったのである。日本では村という単位で共同体を形成して来たからであるだから江戸時代の村というとき強固な家族のような共同体であるからよそ者は入りにくいということがあった

ただ共同体というときそこに家族のようなものをイメージする、非貨幣的なもので結びついている共同体である、家族は非貨幣的な結びつきの上に成り立つからである
家族にはまた共同体の原型としたとき宗教でも血縁の家族を否定してもやはり天国は愛しあう家族をイメージしているのである。
だから人間の核には家族があり家族なしでは共同体も天国すらイメージできないのである
でも家族がみんな愛しあう家族とかになっているかとなるとそうはならない
家族だから親子だから兄弟だから憎しみ合うことがある
でも家族の場合は愛しているから憎むということがある
愛の反面が憎むという感情になるのだ
だから長い間家族として争っていても実はそれは愛しているからだったともなっている
おそらく家族とは夫婦とでは形成できない、子供がいてまた兄弟がいてとかになり家族になる、兄弟が姉妹がいて家族共同体が形成される
だから大きな国とかの共同体でもみんな兄弟だとか姉妹だとか言うのはそのためなのである、それで一人っ子はそうした共同性が身につかないから問題視されるのである

ともかく人は愛で結ばれた家族を求めている共同体を求めているのである。
その核に家族がある、なぜ宗教団体がこれほど会員を獲得しているのか?
それはそこが家族のように共同体を形成する場だと見ているからである
実際はまるで違ったものでもそうみる、オウムだってそういうふうに見て入った若い人がいたからである、信仰の前にそうした愛の共同体を求めるが故に入る
それはどこの宗教団体でもそうである、現実は愛の共同体などはない
そこも愛の共同体などなっていない、ただ一応外面はそう装っているのである。
でもなぜそんなに会員になるのかとなれば人々がそうした愛の共同体を求めているからであることは確かである

現代の問題は経済の問題はこうした人間の原型としての家族とかをはみだした経済でありグロ−バル経済になるとその規模は地球的になるからもう共同体などはない
ただ人間と分離した物だけが流通する巨大な世界市場の中でに人間はとりこまれる
だから金だけが突出して異常な力をもつ世界なのである。
金というのは本当は共同体があって機能するものでありその共同体がない世界では共同体を破壊するものとして機能するだけになる

世界でどこでもドルが一番通用する時アメリカの支配に世界があるとなるのもそのためである、アフリカの果てでもドルが通用する
エジプトでロバに乗った少年がワンド−ラーくれとなるのもそうである
今でもまだベトナムとかカンボジアとかでは物価が極端に安いのもグロ−バル経済のためである、そこで金があれば王侯気分が味わえる
それはそこに生きている共同体の関係なく、金があることでそうなるのである
逆に今や日本がインバウンドで観光客を受け入れて中国人におもてなししているのもそのためである、それが過酷なグロ−バル経済なのである
経済が駄目になれば金によって奴隷化される過酷な世界なのである
そしてその国であれ共同体は金によって支配されるのである

不思議なのは「消費者が王様だ」というときもそうである、金をもっている人が王様になるというのでは同じなのである。
すべてが金で差別される、その差が明確なのはホテルとか旅館とかである
江戸時代は部屋の差はなかった、みんな貧乏だからみんな相部屋で同じである
侍も庶民も時代劇では一緒である、今は王様クラスからいろいろある
だから私はホテルとか旅館とは嫌いだった
私は旅することが目的だからただ寝れればいいと思っていたからである。
その点外国は安いホテルとか多いから旅しやすかった、私は食べ物はどうでもいい、旅することが目的だからである。
ただ今になると老人になってかえって食べ物にこだわる、料理も文化だということを知ったからである

いづれにしろあらゆることが金で計られる時代がいいのか?
そのことによって何か人間として本来あるべきものが破壊される、共同体も破壊される
田舎でも都会から大金持ちが来て消費すれば王様になる
貧乏人は来るなとなるのもまさにカジノが日本で作ろうとする理由なのである
大金持ちは歓迎で遊んでくれ、貧乏人は来るな、それはそもそも日本がアジアなどでしてきたことなのである。
でもそのことがカルマとなり今度は逆の現象が起きる
外国の金持ちに使われる、そして日本という共同体は金によってそのモラルすら破壊されるのである。
それは原発事故の補償金問題でも書いたことである

共同体がありモラルでも維持されたがグロ−バル経済になれば金が第一でありすべてになるから維持できなくなる
金さえあればなにしてもいいんだ、金が実際の力だとなり歯止めがきかなくなるからだ
そうして原発も作られたのである。原発は金のなる木だからそうなった
莫大な金が動くものだったのである。事故でもそうである
その費用には驚く、何兆円もの予算が湯水のように使われるたからである
結果としてこの辺では補償金をもらうことに血眼になり共同体が分断されて破壊されたのである。金さえもらえば故郷とかの共同体など関係ない
金があれば王様になれる、もうめんどうな故郷の復興などどうでもいいとなったのであるだから金がすべていい方向に働くとはならない、それは人間のモラルも共同体も破壊するそれは金が共同体の中で機能するのであり今やグロ−バル経済になると共同体を破壊する多国籍企業でも小さな昔ながら村落など感嘆に破壊された
そこに公害になって住めなくなったりしている
それは原発事故事故と同じである、放射能汚染ではその環境が根こそぎ破壊されるからである。そして住めなくなったのである。

なぜ原発事故の補償金でもめたのか?
(金のみがすべてとなって共同体が回りが無視されたため)