2018年08月21日

みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く


みちのくの真野の草原の歌を日本の古代史と伽耶の関係で解く

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インドと仏教でこの金銅双魚佩は関係していたのか?


●草原(かや)原は萱(かや)のことではない

みちのくの真野の草原(かやはら)遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この万葉集の歌は邪馬台国の成立から中国と韓半島の国際情勢とか歴史から見ないとわからない、この歌はみちのくの辺境の一地域の歌ではない
古代国家成立の歴史の関係の中で作られたのである。
その場所は二つある、石巻に萱原という地名があるからそこが江戸時代までは真野の草原となっていた
現実に真野と記された木簡も発見されたりしている
でも地理から見るとどうしても真野があり多賀城がありその線の中に黄金が発見された涌谷がありその歌は万葉集に記されている
だからみちのくの真野は考古学的にも古墳が多く前方後円墳がありそこから金銅双魚佩とかが発見されたことでここは中央の奈良の大和政権と関係かある場として認識された

これまで書いてきたようにこの歌の謎を解き明かすにはそうした中国とか韓半島の情勢が深く関係していている、一地域のことではないのである
古代国家成立と深く関係している,すると大和王権成立までの過程も知らなければならないとなる、それは骨の折れる作業なのである。
古代史は複雑怪奇になっているからだ
これまで伽耶(かや)について度々書いてきた
それはなぜか?それは福島県の海岸線にその跡があるからだ
伽耶は鉄を生産して技術をもった国であり韓半島で新羅とか内部でも争いがありその一団が福島県の海岸線をさかのぼりその跡を記したからである

末続の地名は須恵のことであり須恵器を作る渡来人が移動して移住して名付けられた
それが鳥取の末続神社と関係しているのは出雲由来で渡来人が伽耶の国の人たちが日本に移民となって入ってきたからである
天皇が伽耶から来たというとき伽耶は日本の国の大和王権の発祥の地となっている
大和王権の前の邪馬台国でもそうである


金=kasi(カシ)  宮=palli(ハル) 
駕洛国(任那)の王姓である金官-金海 のことである。

26代の継体天皇(507〜531)の後、27代安閑天皇は在位2年、宣化天皇が4年で崩御、そして29代が欽明天皇(539年即位)である。
そして、この時代に「仏教伝来」となる,,,,,,,,,,,,,。
https://tokatu1.at.webry.info/201009/article_1.html                             

ここでも橿原(かしはら)とあっても原はは韓国語でハルであり宮だとある
つまり草原はカヤハラは誰も人が住んでいない草原ではないのである
そこには宮なのある、むしろ新しく人が移り住んで宮を作った所なのである。
それは橿原と草原は同じなのである。カシというとき木をあてていてもそうではないからだ カシはカサでありそれは韓国語になる、ここでもまきらわしいものとなる

駕洛国(任那)の王姓である金官-金海 のことである

カラとは伽耶国のことであり唐神と真野にも地名があるが実は伽耶の神のことである
それは仏様になる
伽耶というのはなじみがないというか正史に記されない、それは伽耶は史実から消されたからである。何か不都合があって消されたのである。
でも地名をたどるとそれが記されているのである
飛鳥とかもスカヤとか伽耶国にありその名からとったのである。
だからそうして伽耶がかかわったとすると飛鳥王朝時代までは伽耶が深く関係していたのかとなる
その後の藤原宮から平城宮の奈良時代となるとそうした伽耶とか渡来人勢力は大和王権にとりこまれて伽耶は消滅したのである。

ツノガノアラシトとは伽耶の王子のことである、そのツノガノアラシトの角(つの)のつく地名が小高にある、角部(つのべ)がそうである
他に津神社とあるときツノミヤ神社でありツノガノアラシト神社のことである。
それは伽耶の王子のことなのである。
相馬市の松川浦にも津神社(ツノミヤ)神社があるがこれはツノガノアラシトからきている、他にも津神社はこの辺の海岸線とか他にも多いのである。
津軽(つがる)もツノガノアラシトがなまったものである
正史から伽耶は消されたが地名に日本の大地に地名として記したとなる
その地名は消すことができなかったのである。

草原(かやはら)の歌はただの萱が茂っている場所ではないことは間違いない
ただ不思議なのは萱浜と原町にありこれはカイ浜と呼ばれていた
それで甲斐と関係していてその伝説が残された、それはもともとここがカイと呼ばれていたからだろう
甲斐とあるとき武田信玄だがこの甲斐もカイに由来している、すると二つの説があることになる

●草原(かやはら)はカイでありこれは蝦夷とアイヌと関係している

●草原(かやはら)は伽耶(かや)と関係している

この二つの説になる、北海道の海はカイのことでありアイヌ族のことである
でもこの二つの説を考えるともしカイであればそれは蝦夷とかアイヌに由来している
ところが蝦夷には伽耶(かや)が関係していた
出雲は伽耶が二分した勢力があり九州と出雲に分かれたという説がある
出雲は縄文人が形成したのであり出雲は大和王権と対立した大きな勢力だった
その出雲は縄文人の勢力として残った、その勢力が強力だったのは伽耶がその中に入っていたからである、伽耶の人たちは鉄を作る技術をもっていたから強力な敵となったのである。

ずーずー弁が出雲地方で鳥取とかで聞かれるというときもそうである
なまえとか方言はなかなか消えないのである。
それで面白かったのは丸森の金山城の麓に住んでいる人が病院で一緒になった
その人はんだちゃと言っていた、相馬弁では語尾はんだになる
でも伊達藩とか宮城県になるとだっちゃになる
新地は伊達藩でありその人がだっちゃと言っていたのはそのためかもしれない
新地は相馬藩ではないからだ
つまり相馬藩内の方言と伊達藩の方言が合体した言葉になる
それは金山城では一時相馬藩が支配していたからその影響でそうなった
伽耶というのは出雲にも縄文人とも関係していた、出雲は蝦夷であり大和王権と対立した勢力だからである。
長野県でも諏訪神社が多いがこれは出雲と関係している、タケミナカタの神とは出雲の神だからである。

いづれにしろこの伽耶が関係していることで古代史は複雑怪奇になっている
ただ真野の草原をただ萱(かや)がなびいている場として見るのは間違っていることは確かである
真野の草原は遠いけど開かれた場所として奈良の人たち知られていたのである。
遠い場所にある知られた場所だったのである。
だから地名なことは確かである。
それは遠い場所にあるということで恋の歌として喩えになったのである。
真野の草原は遠い地だけど恋するあなたを私は偲びます、あなたは大伴家持は面影に見えますという意味なのである。
これは単なる恋の歌ではない、その背景を考えると中国や韓半島の歴史と日本の大和王権成立する過程の中で作られた歌なのである。

天皇(すめろき)の 御代栄(さか)えむと 東(あづま)なる 
陸奥山(みちのくやま)に 金(くがね)花咲く
(大伴家持)

みちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを(笠女郎)

この二つの歌は多賀城への経路にあり関係ないとも言えない、ここの真野と黄金が発掘された涌谷はそれほど遠くない、ただ石巻に萱原の地名があっても遠いのである。
だから江戸時代までは石巻の萱原だったが考古学が発展してここがこの歌の地域だとなったのである。
ただここに伽耶がからんでくると複雑になる、それは中国や韓半島とかの情勢と深く関係して大和王権成立を読み込まなければならないからだ



謎の出雲伽耶王朝(天皇家朝鮮渡来の妄説を撃つ)関祐二

この本は面白かった、伽耶が何だったのかわかりやすい、本元は出雲であり大和であり縄文人であったことを解き明かしている
伽耶はそこにかかわったとしても主勢力ではない、日本ではすでに大きな勢力が出雲を中心とした縄文人の勢力や奈良を中心とした勢力があった、それが日本の基であり伽耶は外来の渡来人であり主勢力ではなかったのである。
ただ伽耶が二分されたということは複雑である、大和王権が成立する過程でそうなった






posted by 老鶯 at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

なぜ地理がわからないのか? (鉄道ではなく城と城を結びつける地理)


 なぜ地理がわからないのか?

 (鉄道ではなく城と城を結びつける地理)

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 なぜ地理がわかりにくいのか?
それは鉄道を利用した地理は本来の地理と異なるからである。
例えば相馬から岩沼に行き福島市に行くことは本来ありえないことである
鉄道がなければ阿武隈高原を越えねばならない、江戸時代までは街道があり宿場町があり宿場と宿場を結ぶ道としてあった
その街道が鉄道によってすたれたのである
白河街道は会津と結ぶ道だが鉄道ができたらそこを通らないから忘れられた道となる
そこは芒の原の中に街道があり埋もれていたのである
七ヶ宿街道でもそうである、鉄道で行けばそこは通らなしいからだ
つまり鉄道からはずれた所は廃れたのである
それによって本来の地理がわからなくなったのである。

まず地理を知るにはもともとの地形があるが歴史としての道がありそこから知る必要がある,だから城があったところを結ぶことで地理と歴史の感覚を身につける
丸森には金山城がありそこで伊達と相馬氏の領地争いがあったからである
それから地理を知るには川とかの役割も大きい、阿武隈川をたどり地理を知る
川が目安として地理を把握する,外国だと川が地理の中心になる
川が国境にもなり運河の役割があるから交通路になっていたからである
日本の場合は川が交通路になりにくかったから川が地理の目印になりにくい
でも阿武隈川は大きい長い川だから目安になりやすいのである
丸森から亘理の荒浜までは大きな川であり交通路になる
ただ福島市からでも米が船で運ばれていた、でも途中難所がありむずかしかった

とにかく江戸時代の街道が主要な交通路として知ることが地理を知るには大事である
七ヶ宿街道もわかりにくいしさびれていた
それがどうして上山城に通じているのかわかりにくかった
それはかなりの急峻な山を越えるからである、そこはもう幹線道路からも鉄道からも隔離されたような所になったからである。
みんな東北本線とか東北高速道路とかから地理を意識する
確かにそこが奥の細道の幹線道路だった
でも白河街道とか七ヶ宿街道も幹線道路だったが忘れられたのである。

旅する時自転車などだとどうしても今の幹線道路を行く、浜通りだったら6号線を行く
でも本当は城と城を結びつける昔の街道を行くと歴史の道と自然の道が合体してイメージできるようになる、でも遠くからだとめんどうになるから行けない、近くだとなんとか行けるとなり自転車で自分は行った
ただふりかえると上山城とかに行った経路は七ヶ宿街道だけどどういうふうな経路をたどって行ったのかわからなくなる
旅は意外と記憶が大事だと言ってきたけど記憶するというのは鉄道になると線路をあるところしか行けない、でも江戸時代は鉄道がないのだから道をたどる旅になる
道は山の中でも通じている、それで何か昔の街道はさびれたものになった
でもまたそれで地理がわかりにくくなったのである。
地理というのは一部分を切り取るように見るとわかりにくい
全体としてみる、全体として知ることが必要である
この辺だと相馬藩を基点として丸森とか白石城とか上山城とかと結びつける
すると地理が具体的に全体としてとらえることができる
江戸時代は城と城とを結ぶのが道でありそこで交流があったからである

いづれにしろ地理が具体的にわかるのはこの辺ではこの地図に記した範囲になる
福島県は広すぎるからわからない、まず会津は広すぎて山が多いからわからなかった
ただふりかえると自分は自転車で相当に回った、それで地理的感覚が身についたとはなるある意味でそれが仕事だったのである。その時家族が留守を守ってくれたとかしたからできたと今では思う
今になると介護十年とかなり今度は家族がみんな死んだが留守する人がいないということで出かけられない体力的にもきついとなってしまった
ただ記憶をたどる旅ができるのはこうして自転車で旅したことによっていたのである
鉄道の旅はそれなりに役にたつにしても決められたルートしか行けないし地理感覚は身につかないのである