2018年08月17日

秋めいた一日 (鷺内の社も障害者の学校が建ち変わる)


 秋めいた一日

 (鷺内の社も障害者の学校が建ち変わる)

 sagiuchiiii123.jpg
この風景も変わる


 駅長の草刈りするや無人駅秋めく風の吹きて淋しも

 鷺内の社に杉の木立かな秋めく陽の山の端に没りゆく

 田植えする女のありしも鷺内の神社に垂れ咲く藤の花かな 



今日は涼しかった、秋めいた風が吹いた、それで駅長がホームで草刈していたことを書いた

夕暮れには菊池の近くの鷺内の社を見て山の端に陽が没る光景が印象に残る
あそこの周りは田んぼだったが障害者の学校が建つ
これも大きく風景が変わることなのだ
前は御田母神のところはダイユーが建ち田んぼはなくなり社だけが残った
ここはまだ近くに田んぼが残るようだが学校だから敷地が広い
良くあそこの鷺内の社は見ていた
女の人が田植えしていた、そこに藤の花が咲いて垂れていた

故郷の光景は長い時間で作られたものである。人の営みがあって作られたものなのであるそれは津波で流された右田の松原でもそうだった
そういうものがなくなることはやはり景観というのはそこに住む人の血肉のよになっている
景観と一体化するのが人間なのである。だから景観が変わるということは実際は相当な影響をする、精神的な影響が大きいのである。

その鷺内の社にしろ長い時間のなかでそこに木のように根付いたものだからである。
そういうことは原発の避難区域で起きた、そこにも神社や社があり人々がそこで営まれ歴史がある、そういうものが失われたのである
神社とか社とか何か信仰とは必ずしも関係ないように思う
ただ豊作を祈るものとしてあるのが多いからだ
それは土地に根付いたものであり土地から離れてありえないものである

何か秋めいたというとき秋になったのか?お盆は終わったから秋だとなる
ただまた暑くなるらしい、残暑がつづくのか?
それでも季節の変わりは早い、前のような暑さはなくなるだろう
日本は季節の変化に敏感でありそれが文化になり俳句短歌が生まれた

ともかく景観が失われることは何か心まで失う感じになる
右田の松原はなくなりここもまた学校が建ち景観が変わる、景観は何百軒もの家が建って変わった、さらに変わるものがまだある,何かこの辺は都会化したのである。その影響のカ?何の影響なのか?あまり揚羽などが見えない、少ない、やはり何か影響で減ったのかもっと飛んでもいいような気がする

駅長が草刈していた (淋しいから一人一人が目立ち記憶される無人駅)


駅長が草刈していた

(淋しいから一人一人が目立ち記憶される無人駅)


駅長の草刈りするや無人駅秋めく風の吹きて淋しも 

原町の駅長が一人草刈り機でホームの草刈りしていた、前は二人で草刈りしていたのを見ている今回は一人で草刈していたのか?
普通駅長が草刈りするだろうか?部下がするものではないか?
あの駅長は前も来ているから知っている、時刻表を自分が置いた時ルールがあるからと断られたのでいい印象がなかった
何かそうであっても言い方があったかもしれないからだ

無人駅は淋しい、それなりに人の出入りがあるのだが一人一人が気になる場所である
それで声をかけて話したりする、駅は意外と話しやすい場所なのである
ちょっとでも話すとそこに何かを記憶する
駅でボランティアして気づいたことは駅は関所でもあり何か記憶する場所なのである
関所にはいいイメージがないが区切りでありそこは記憶する場所となる
関所とか境界がないと人間は記憶できない、関所があることで区切りとなり別の世界の入り口として意識するのである
今になると関所的役割があるのは駅だとなる
なぜなら本当は勝手に出入りできない,改札口があり駅員がいたからである
無人駅は出入り自由だがやはり駅があり改札口があることで外部の人が入る境界になるのである。
だから国境でも今は簡単に通過できるとき国というのも意識できなくなる
ヨ−ロッパではそうなっている、便利なのだが国を意識しにくくなるのである

駅が人が少なく淋しいということでかえって人がそこで一人一人でもそこで意識される空間になっていることに気づいた
まず高速のSAとかなると人を意識できない、群衆が流れてゆくだけだとなる
人が少ないことで人間的になっているのも不思議である
それは何か贅沢なことなのである。

小高の人が厚生病院に母親が入院して通うと聞くと大変だなとみる
なぜなら小高から電車で原町まできてまたのりかえる,原町と小高間は便数が半分くらいになるからだ,そうなると浪江でもそうだけど遠い感じになるのだ
その人は車がないからそうなっている、車がないと電車で来るほかないからである。
車がないと病院に通うとかなると不便なのである。
小高には病院がなくなったことも原因しているのである

ともかく何にもない無人駅だと思っていたがそこには人の営みがある、草刈ることでもそうだからである、誰かが維持するために働いているのである
ロボットがいて自動化してすべてたりるわけではないのである。
駅には鉄道には長い積み重ねられた歴史がある、それで鹿島駅は開通から120年すぎたことで花文字を作ったのである
常磐線でも120年の歴史がある、だから駅で営まれたものは一つの物語りであり歴史がある
昨日聞いた闇米がここから東京へ運ばれた話もそうである
その人は原高に蒸気機機関車で通い見ていたのである

今日は急に涼しくなった、風も秋風になったようである
今は自転車置き場を工事しようとしているから自転車置き場がなくなり無造作に置かれている
駅もこうして常に変化している、毎日一回は寄っている、ただ今は案内でもたいしてすることはない、でも駅は何か人間的な場を演出することを感じたのである。
それは皮肉にも人が少ない淋しいということで人が目立つからそうなる
もし逆ににぎわう駅だったら一人一人のことに関心をもてないのである。

無人駅蕗の葉大きく雨宿り

北海道の無人駅では雨宿りだった、北海道だと無人駅は本当に淋しいとなる
電車が来るのか来ないのかもわからないようになっている
そうなるともう淋しいなどと感傷的になっていられないだろう
いつ廃止になるのかとか深刻な問題となっているからだ
北海道の路線は歯がぬけるように半分は消えたのである。

グロ−バル経済を歴史的にふりかえる (東京に本社があり社長がいる問題)


グロ−バル経済を歴史的にふりかえる

(東京に本社があり社長がいる問題)

Economy"(経済)という言葉の語源を辿ると、"Eco-"はギリシャ語で「家・家庭・家計」などをあらわす"oikos(オイコス)"に由来する接頭語で、"-nomy"はギリシャ語で「法・秩序」をあらわす"nomos(ノモス)"に由来し、秩序や法則性、あるいは学問をあらわす語につく接尾語になります。つまり"Economy"というのは「家計の学問」という意味であり、いわゆる「家計のやりくり」から発展して今日の「経済」という意味になったものと思われます


経済学は家計から家政からはじまった、それがグローバルになり途方もないもう天文学的な世界の経済になった
日本でも働くという語源が端(はた)を楽にするというときそれは家のものが働くことで苦労しているから楽にさせたいいうことが起源になった言葉である
それは極めて狭い範囲で生まれた言葉なのである

グロ−バル経済というときこれを批判すること現代では必須である
ただそれを批判することは簡単にはいかない、グローバル経済とか資本主義とは何かという問題は大きな世界史的視野で見る必要が出てくるからだ
現代のグロ−バル経済はヨ−ロッパの大航海時代からはじまった
大航海できる技術が生まれたとき船が作られたときはじまった
グローバル経済になるにはまず距離を縮めることができないと成立しない
そのためには技術が発達しないとできなかった

大航海時代になりそれができるようになった、その時資本主義も発展した
株式会社の起源がこの船で大航海できるようになったとき生まれたからである。
その航海に投資する時株主が生まれた、その航海が成功すればその見返りが大きかった
ただ遭難して船が沈没したりするからその時は大損になったのである
それは今の株の世界とにている
それはオランダで発達してオランダが大航海時代に大儲けして豊かになったのである。
チューリップバブルが生まれたのもそのためである

距離を縮めるということでは蒸気機関車が発明されたことも大きかった
鉄道は世界に普及して距離を縮めることができたからである。
つまり船の次は鉄道でありその次は飛行機になり車になったのである
船でも帆船の時代から蒸気の時代へと技術は改善された
蒸気機関車でも電気で走るようになったとか改善されてゆく
つまり常に技術は改良されてそれに比例して距離は縮められるのである。

でもそもそもこうして利益を得たのはヨ−ロッパ諸国でありアジアは収奪の対象となったのである、植民地化されたのである
インドでもそうであり中国でも東南アジアでもイギリスの植民地化されたのである
日本だけはヨ−ロッパの植民地にされなかったのである
それが第二次世界大戦の基となったともみれる
ヨ−ロッパの延長としてアメリカがありアメリカに従わないものは征伐されるとなっていたからである
ヨ−ロッパとはインカ文明でもスペインに黄金を収奪されたように略奪者だった側面がある、アフリカから奴隷狩りして売買していたり収奪者だったのである。

ただグロ−バル経済は資本主義は外国から富を収奪するだけでは成り立たない
イギリスで産業革命があり蒸気機関車とか機械が発明されて大量生産ができるようになったこともある、大量画一生産は機械なしではできないからである
機織りでも手織りでしいたらとても大量生産はできない、手織りでしたものはだから高価になる、紡績機械が生まれたことで大量生産が可能になったからだ
現代のグロ−バル経済を作ったのはこうしたヨ−ロッパの距離を縮める交通手段の発達と大量画一生産のできる産業革命の結果である

ただそこから問題が生まれた、何事いい面と悪い面が生まれる
これは大局的な見方だが日本国内にしても距離が縮まることによりグロ−バル経済と同じような問題が起きていたのである。
例えば自分の住んでいる町は一万足らずである、でも工場がある、東北サッシとか友伸エンジニアとかある、その社長は東京に住んでいるのである。
それで社員が駅に迎えにくる、こういうことは全国であるだろう
会社が工場が地方にあっても社長とかは東京に住んでいるのである。
ということは地元に住んでいる人とか土地にそれほど関心をもたない
ただ地方で労働力をまかないそこで得た利益を東京で使うとなる
もし地方に住んでいれば地方で使うから金も地方に回るが回らないのである。
それは何かヨ−ロッパがアジアという遠い地域を植民地化して富を収奪したのとにているのだ、富が地元に還元されないのである

こういうことは原発でもそうだった、東電の本社は東京にあり東京で支持していたのである、それで吉田所長は事故の時独自に判断した、そのことで東京の本社と対立したのである、つまりそれは距離が離れていることで緊急時に対応できなかったのである。
こういうことは距離が離れていると緊急時に何が起こったかわからなくなる
いくら通信が発達しても事情がわからなくなるから対応できなくなるのである
それでローマ帝国でも離れた支配地域と中央のローマの政府の支持に従わない地方官が生まれた、その地方官が権力をもち中央に反乱することも生じた
それは日本だってそういうことが歴史にあったから共通している
遠くからだと統制ができなくなるのだ、満州で関東軍がそうなった
中央の指示に従わないで暴走して中国と戦争になったのである

確かに距離は交通手段の機械で縮めることができても依然として人間の意思疎通とかコミ二ケーションはむずかしいのである。
例えば東京に社長が住んでいると会社でも工場でも地方にあったとしてももし公害を出しても直接被害がないから無関心になる
また地元の人がどういう生活をしているかも関心がない、ただ地方は労働力を供給してくれてそこから利益をあげればいいとしか考えないのである。
それはグローバル的にも遠い外国で大企業の工場があることでも起きていることと同じなのである。

だから原発事故がなぜ起きたのか?東京に原発を作ることが正論だった書いた
もし東京に原発を作っていたらその関心度が全く違っていたからである。
すぐ近くにあるのだから関心度が違う、もし事故があったならじかに影響するからであるでも福島なら離れているからと無関心になる、そしてそこの土地のことはここと関係ないとなる、公害を出しても関係ないとなる
もし東電の幹部が住んでいたならそうはならないだろう、一番事故のことを心配するからである、家族のことを心配するようになるからだ
だから東電の人たちは福島に住むべきだったとなる、一部は住んでいたが幹部でも大勢で住むべきだったとなる、その時真剣に安全を考えるからである
離れていることはヨ−ロッパがアジアを植民地化したように富を得ればいい、その土地のことは二の次三の次になるからである。
これは国内の中央と東京と地方の関係だけどこれもグロ−バル経済の構造とにているのである

人間の生活はやはりその住んでいる場所からはじまる、そこが基なのである
だから経済のエコノミーが家政からはじまっている
そしてエコは循環だとかになるとその土地で循環する経済になる
つまり生活の場がこうして社長は東京に住んで会社や工場が地方にあることは本来の人間の生活からすれば無責任なのである
これは日本でも工場を労働力が安いからと外国に作ったのともにている
それはその土地の人々の富の収奪にもなっていたからである
そこにグロ−バル経済の矛盾がありそのシステムはヨ−ロッパの植民地と同じ構造ともなっていたのである。
つまり東京だったらどういう生活をしているかもうわからない
地元に住んでいれば社長でもその生活を見るし土地の人とかかわらざるをえないからあまり贅沢はできないとなる、社長だからといって貧しい生活をしている人が多くいたら無視できないのである。でも離れていれば土地の人とは関係なくなる
東京でどんな豪勢な生活していも見えないからわからないからである
グロ−バル経済とはそうした矛盾が必ず起きている

株とかで儲ける人は税金も払わずに外国で株を投資してもうけているとかいろいろ抜け穴がある、現実にタックスヘイブンでも日本では一人だけしか追求されていない
後はわからないという、何かその後も追求されていないのである
これもグロ−バル経済の中で富裕層はその抜け穴を知っていてできることである
こういうことは地方に住んでいるとしにくい、その生活が回りから見られるからである
グロ−バル経済とか資本主義はこうしてとびぬけた富裕層には莫大な富をもたらす仕組みなのである。
自分も株をしてみたが必ずリスクがある、ある時ギリシャ危機だとか北朝鮮危機だとか今度はトルコ危機だとかなんだかとこうして世界のことが常に気になり恐怖になりおちおち安心して眠れないともなる
そんな生活は何か変だと気付くべきである。
そんなことを心配していたらきりがないし別に関係ないとして江戸時代までは生きてきたそういう世界市場の中に生きていること自体が問題なのである。
そんなことで一喜一憂していたらきりがないしもう安心して眠れないともなる

いづれにしろグロ−バル経済とか資本主義は限界にきている、金融資本主義とは投資ではない、ただ右から左と金を動かしてその差益でもうけているだけなのである
為替差益でもうけるのと同じなのである。それは本来の投資ではないのである。
それがバブルとなり世界恐慌となる、資本主義はもう限界であり崩壊してゆく
グロ−バル経済資本主義は距離を縮めることからまず生まれた
でも距離を縮めることにも問題が生まれた
身近なことでも起きているのだ、人間は遠くとの関係より近くでの関係で生きるのがいいしそうでないといろいろな問題が起きる

経済でも同じである、それは地域が中央に収奪されることである
原発事故だってそういうことで起きた側面がある、距離を縮めた結果として起きた
交通が発達したことで起きた、江戸時代だったら300キロ離れていたらとてつもなく遠い距離にもなるからだ、そこと関係を保つには住むほかなるからだ
江戸時代にだから江戸に地方の藩の屋敷があったというのは幕府では手元に置いて支配するためである。離れていると支配できない、反乱することがある
人質だったとなるがやはり距離が縮めることができないとういことでそうなった
今なら新幹線と何時間飛行機で数時間とかなればそんなことをしないだろう
それでも距離を縮めることができても離れてしまうと人間の意思疎通とかコミ二ケーションができなくなり問題が生まれるのである。

原発を東京に作れというのは正論だった (人は住んでいる場所に一番関心をもつ)