2018年08月16日

津波で流された海老の隣の湊が実家だった人


津波で流された海老の隣の湊が実家だった人

(闇米の話)

闇米田購入拒否で判事

日本は戦争中、「配給制度」をとっていました。米、味噌、醤油、砂糖などの食料、調味料からマッチ、石鹸、ちり紙などの日常品までが、配給されていました。各家庭に、あらかじめ人数分だけの引換券(切符)が配布され、これを商品と引き換える方式です。こうした商品を配給以外の手段で手に入れることは法律違反でした。

  敗戦とともに、この配給制度はマヒしました。米の配給はわずかで、さつまいもやとうもろこしなどの「代用食」が配給になりましたが、それも遅配や欠配が続きました。
 人々は配給を頼っていては、食べるものを手に入れることができなかったのです。配給に頼れない国民は、法律違反とわかっていても、「闇市」と呼ばれる市場で食料などを手に入れるしかありませんでした。

 特に都会の住民が食料を手に入れるのは困難で、しばしば農村に買い出しに行くことになりました。それでも現金を持っている人はいいのですが、現金がない人は、衣類を売って現金を手に入れ、その金で生活物資を買いました。着ているものを次々に脱いで食べ物に換えていく様子が、まるで食用のタケノコの皮を一枚一枚はがしていくようだったので、「タケノコ生活」と呼ばれました。
 このころ、日本の国民にショックを与える事件が起きました。1947年(昭和22年)10月、東京地方裁判所の山口良忠判事(34歳)が、栄養失調のために死亡したのです。法律違反の闇市で食料を買うことを拒否し、正式な配給の食料だけで生きようとしたためでした。
 山口判事本人は、闇市で食料を売ったり買ったりしている庶民を「食糧管理法」違反で裁く立場にありました。
 法律を守る立場から、法律違反のヤミの食料に手を出すわけにはいかないと考えたのです。
 逆に言えば、当時の日本人は配給だけでは生きてゆけず、ヤミの食料に手を出さなければ死んでいたのです。  

951(昭和26)年7月3日、東京・上野駅で警察官による闇米の一斉手入れ。乗客は手荷物に隠し持っていた米を没収された。食糧統制下の戦後は配給米だけでは足りず、都会の人々は農家で闇米を手に入れてしのいでいた。組織的な運び屋を乗せた「闇米列車」まであり、取り締まる側とのいたちごっこが繰り返された。
<あのころ>闇米の一斉手入れ 上野駅で乗客を急襲

共同通信2018年07月03日08時00分

 闇米を買う列車の写真


その人は駅でおくさんの写真を鹿島駅を背景にしてとっていた
その人は「私は原高に通っていたんですよ、そこでね向かい側のホームの方が田んぼになっていて闇米を積んで運んでいたんですよ,日暮里に運んでいたんですよ」
「闇米の話は聞きましたよ、家の人も仙台まで買い出しにとか行った話聞きましたし」

その人は原高だというとき戦後原高に通っていた、自分よりは年上である
なぜなら闇米のことを実際に見ているとなると戦後まもなく物がないときの話である
だからその時配給米でたりなくて盛んに闇の流通があった
ただ米を東京まで運んだとすると相当な時間がかかるし金をもかかる
蒸気機関車の時代だったからである、時間でも八時間かかる 
ただ金になるから東京まで闇米を運んだとなる

その時農家では食料がありかえって豊かだった、第一農家では納豆まで作っていたとか鶏がいて卵を食べていた、卵はその頃食べらなかった、卵が食べられるようになったのは戦後十年以上たってからなのである。
それで自分の家では店をしていたがその卵を農家に買うことをさせられていた
それは自転車でしていた、箱に糠をつめて割れないようにして運んだが必ず一つ二つ割れるのである、それは道が舗装されていなかったからである
真野川の橋でも木の橋でありゆれるから怖かった
その頃は何も物がないから物があれば売れた時代だったのである

まず戦争が終わったとき食料不足が深刻だった、だからそういうとき子供が団塊の世代が爆発的に増えたのに良く育ったとふりかえれば思う
食料もないのにそんなに大勢の子供が育ったことの不思議である
アメリカからの食料援助はあった、脱脂粉乳などが学校で配られたがまずかった
戦後十年は貧乏だった、炭がエネルギーであり囲炉裏が街内でもあった
過去をふりかえるとなぜそんな極貧の食料もない時代に子供が爆発的増えて育つことができたのか?それが今少子化になっていることと比べると不可解だとなる
なぜなら今なら食料はあふれているし捨ててもいるからだ、子供に食べるものがないということはありえていからである。

その人は湊出身でありその湊の40軒くらいあった家は全部流されて何もなくなった
その人の話を聞けば面白かった、駅にはそうしたここに住んで老人になった人が結構来る今日来た人の話を聞けばこれも郷土史の一端を語るものだった
戦争の話は姉がシンガポ―ルに従軍看護婦として四年間いたから嫌というほど聞かされたそれは認知症になってもからもそうであり死ぬ間際まで語って死んだ

その人はその闇米のことを知っているということは自分より十年くらいの年の差があるのか?それにしても自分だって蒸気機関車の時代を経験しているのだから年とっている
ただ記憶があいまいになっている、
残念だったのはその人ととは数分も話できなかった、すぐに電車が来たからである

いづれにしろ時代を象徴する事件というものがある、判事が闇米を拒否して餓死して死んだのもそうである

渇しても盗泉とうせんの水を飲まず・・・とはこのことである

戦争とか戦後でもその話が無数にある、でも戦争を経験している人も死んでゆく
現実に今戦争を経験している人はその頃小学生とか中学生の人である
戦後の食糧難の時代を経験している、つまりギブミーチョコレートの時代の人である
その時アメリカに負けてなんでも食べ物が欲しいからそうなった
そのことが日本人の精神を退廃させた、アメリカに負けて貧困化して何でもいいから食べ物をもらえばいいとなったのである
その後経済でアメリカに追いつこうとした、高度成長時代になり団塊の世代はただ経済的豊かさを求めて企業戦士となって働いたのである

戦後70年で一時代がつくづく終わった、団塊の世代は豊かな時代を生きた
ただこれからは日本は厳しくなる、すでになっている、貧困化している
ただ時代はこれからの人が作るのでありではこの後の50年はどうなるのか?
それは世界情勢にしてもわからないのである
戦後の焼け野原から高度成長時代になることはその時予想もつかなかったからだ

戦後70年で津波とか原発事故があったのも大きな時代の区切りだった
何か日本はいろいろな方面で疲弊したのである、だから改革がまた望まれるのである
戦争が終わった時はかえって既得権者とか今までの組織などが財閥などでも解体して
発展したとなるからだ、戦争は大きな破壊だったがその後に新たな日本が生まれた
それは明治維新ともにているのだ、明治維新から70年で戦争になりアメリカに敗れた
そしてまた70年すぎて大きな変革が迫られているのである
70年が時代の節目であり何かその時規制のものが崩壊してゆく、制度疲労をしてくる
だから改革しないと日本は衰退して後進国並みになる
その兆候として観光立国とかカジノとかを作り売りこむのはまさに後進国的発想なのである

ともかく駅はいろいろな人がくる、それでちょっとで話すと面白いし郷土史を知る場にもなる、お盆だからそういう人も来る、ただ高速のSAのセデッティの数とは比べようがない千倍もの人間の数の差があるかもしれない、ひっきりなしにお盆で来ている
どちかとういと高速は家族連れが子供連れが多い、それで子供の遊び場まで用意してあるでも高速は人が多すぎてそこが会話することはできないからつまらないとなる
どういう人が来ているから全くわからないからである
でも高速と鉄道の差はあまりにも大きいと思う、それだけ車社会になっているのである
ただ東京辺りから来るのだったら新幹線できて鉄道でも便利だとなる
でも実際は車で来る人が多いのである

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