2018年08月09日

芭蕉と蕪村の五月雨の俳句の鑑賞

芭蕉と蕪村の五月雨の俳句の鑑賞

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五月雨のふりのこしてや光堂 芭蕉

五月雨や大河前に家二軒 蕪村

この二つの俳句は対象的である、芭蕉の俳句は歴史的時間性の中で金色堂を俳句にしている、

文治元年(1189年)奥州藤原氏滅亡
松尾 芭蕉 寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日

芭蕉が平泉を訪ねたとき500年も過ぎていたのである、それだけの時間の流れがありこの句ができた、現代のように変化が激しくないから時間の感覚は江戸時代前は違う、時間の感覚は鉄道とか自動車社会になると変化する
電車とかでも車でも早く過ぎる,すると時間も早く過ぎるように思うのである
だから車のない所に行くと原発事故で避難区域になった所では時間が止まったように感じた、そこには芙蓉でも車が通らないからゆったりと咲いていたのである
車がひっきりなしに通っていればそう感じないのである
江戸時代までは自然の時間であり文明的人工的空間の時間とは違う中に生きていた
時の鐘でもおおざっぱであり一秒一分刻みではない、それで現代人は常に時間に追われている

江戸時代まで自然の猛威を感じる世界である、芭蕉の五月雨の句も自然の猛威の中で朽ちているはずの金色堂が一つだけ輝き残っていたことに感嘆した
後は堂塔伽藍も焼失したからである、そういう歴史を時間を感じる俳句である
五月雨に自然の猛威に押し流されてもいいはずだが残っていたという感懐である

一方蕪村の五月雨の句は

心細い二軒に住む人間を撮り始めると、次々にカット数がふえて行く。家族全員の表情を描写するだけでも、かなり面白いものになる句の表面には人の気配など全くない。それでいて、人間はどうなっているのだと考えないではいられない。それは蕪村の句にドラマがあるからだ。

この句は芭蕉のように自然に融合するのではなく懸命に大河があふれて流される危険の中で二軒の家が耐えている
自然の猛威に対して抗って存在しようとする二軒の家である
そこの二軒の家の存在の重さを示している、懸命に生き残ろうとする庶民の農民の姿なのである。
二つ谷とかの姓は二つの谷]や)は家のことである。四谷もそうかもしれない、四軒屋とかも地名にあるから
その家の存在は大きなものだったのである。自然の猛威の中で消される流されることに対抗して耐えている存在する二軒なのである。

蕪村の俳句は常に生活感覚がある、市井の人の声がある、だから様々な職業の人を俳句にしているのである、それはもともと農民であった、でも農民でも大阪に近い所で生活していたし京都にも近く文化的な生活も知っていたのである
それが事情があって家が破産して江戸に単身出てきたのである
蕪村の俳句は美的で絵画的なのだけどそこに市井の人々へとかかわるのである
芭蕉の不思議は市井の人々があまり眼中になく天然を優先した天然と禅のように一体化する、何か生活感覚にともしいのである
かといって干し鮭をかみえたりとか貧乏そのものの暮らしをしていたのである
芭蕉は禅の悟道を求めた人のように見える、俗を離れて自然と一体化するのである
蕪村は俗があってもそこに美がある世界を追求したのである。
そこには暗黙のうちに市井の人や農民への深い同感がある、だから様々な職業の人を俳句にしているのである
「しずけさや岩にしみいる蝉の声」などでもそうである
ここには生活感覚はない、ただ蝉の声と岩があるだけだからである
例えば今雨がふっていたので作った小生の俳句がこれである

雨しとと勤めの人や蝉の鳴く

蝉の鳴く定時に来る電車かな

たいした句ではないがここには勤め人とか鉄道で働く人への思いがあり作られた
なぜなら自分はここに二年くらい無人駅でボランティアをしていたからである
それで鉄道をただ乗るだけではなくそこに働く人への思いが生まれたのである。
何か駅員になったような気分になっていたからである
蕪村の俳句もそういうものが多いのである。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉

毛見の衆の 舟さし下せ最上川 蕪村
―――――――――――――――――
秋の季語である「毛見」は「閲・検見」で、
「けみのしゅう」は米の収穫前に出来高を検分する役人たちのこと。
当時は今のような自己申告ではなくて、
お役人が査定して年貢の額を決めていました。
蕪村は農民の側から見ていたようですね。
―――――――――――――――――
○新米の 坂田は早しもがみ河
―――――――――――――――――
「坂田」は最上川河口の町、酒田。
江戸初期から庄内米の積み出し港として発展していました。
芭蕉が『おくのほそ道』に書いたように、
稲船(いなぶね)が最上川を下って酒田港に稲を運んだのです 

この句も対象的である、芭蕉は天然だけを見ている、五月雨を集めて流れる川だけを見ている
毛見の衆となると税金とる役人でありいいものではない、そういうことに同情している
何か常に市井の人々ふ農民に同情しているのが蕪村なのである。
芭蕉にはそういうものがないのも不思議だとなる、芭蕉は武家の出だったからなのか?
天然に没入することを第一としていたのである
別に豊かな時代になればそういうことが普通である、でも貧乏な時代はどうしてもそうした生活が目に留まり同情するようになる
新米に注目しているのもそうである、新米がとれこととかは農民にとってうれしいことなのである
それを食べる人も今でも待ち望んでいる、それが最上川の早い流れにのって酒田まで運ばれる
それは天下の台所の大阪まで運ばれることも見ているのである。

正岡子規がなぜ蕪村を模範にしたのか?それは写生というとき生活実感を重んじた、また写生というとき絵画的になるから蕪村を模範としたとなる、ただ芭蕉の句を否定したのは深く間違っていた、どちらにも良さがあり個性があったからである
要するに何でも対象的に見ると興味深いものとなる、そこで個性が際立って鑑賞を深められるのである。

菖蒲と金色堂 (芭蕉の俳句について)


菖蒲と金色堂

(芭蕉の俳句について)

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夢の跡金色堂に菖蒲かな

雨しとと菖蒲の池をそめにつつみちのくの都の跡をしのびけるかな

芭蕉の奥の細道の俳句は不思議である、「五月雨やふりのこしてや光堂」というのは
雨の時期に来たからである、観光に来たら普通雨だと嫌だとなる
でも日本は雨の国なのである、外国では本当に雨がふらない地域が中東とかである
日本はいつも湿っている、だから湿気で余計に暑く感じる
今年が異常に暑いのは都市砂漠化して暑いということもある
まず平泉を訪れたフランス人とかいたけどこれを理解するのはむずかしい
フランスでも乾いた風土だからである
日本のような雨の情緒にはなりにくい、「夏草やつわものどもが夢の跡」でもそうであるとにかく日本は雑草がすぐに伸びるのである、農家の仕事は毎日草刈りなのである

平泉というとここからは今だと近い,新幹線で近くなった
でもなぜ芭蕉の句が生まれたのか?それは時代背景があった
平泉は江戸から遠い僻地となっていた、そこまで行く過程がありそれがこの句が作られた背景である、はるばる江戸から来てようやくたどりついた昔の都の跡には何もなくかろうじて金色堂だけが五月雨のふりこめられるなかにあったとなる
それはやはりその遠さの感覚からも生まれたのである

平泉は近いから春秋冬に行っているが夏には行っていなかった
今回菖蒲祭りを見に行こうとしたがこれも行けなかった
何か介護が終わっても遠くに行けなくなった、家を留守にすらから行きにくいとなる
ただ平泉となると近いから時々想像でその場を回想したり想像したりする
俳句でも写生だというとき想像する俳句は良くないのである。
どうしても実感がこもらないからである

俳句でも文学でもなんでもそうだがやはり継続したものとしてある
芭蕉の俳句はやはりそれがい300年すぎても深みをましている
それは確かに時代背景もありその時代が作ったものだとはなる
今なら東京から二時間で平泉に来たとなっても何の感懐もなくなるだろう
現代の旅は何か浅薄になっている、どこにでも楽に早く行けるのだが旅になっていない
ただ宿でうまいものを食べるとか温泉にひたるとか保養の旅なのである
ただ現代で有利なのは歴史的な場所に何回も行くことができるからそこでその場のことを深く追及して知ることができる、ある場所でも知るには四季に訪れる必要があるからだ
それで平泉についてもわかるとなる

自分の俳句も『夏草やつわものどもが夢の跡』の夢の跡とをとり作ったとなる
800年過ぎても平泉が鎌倉幕府によって滅ぼされて堂塔伽藍が焼失した記憶は残っている、とにかく芭蕉の俳句は色あせない、普通は時間がたてば色あせてくる
その色あせないことが古典になる、千年でも色あせない深みがあるからそうなる
だから「芸術は長く人生は短し」となっているのである