2018年08月01日

生活形態や地理が異文化交流の障壁となる (蝦夷は狩猟民族だったから対立した)


生活形態や地理が異文化交流の障壁となる

(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)

異文化交流というとき何が大きな障害となっているのか?
言葉が一番障害になっていることがわかる、でも言葉の前に何が異文化交流となるとき障害になるのか?
外国人になると何が障害になるのか?それは地理とか天候がわからないということであるそれは別に日本でもそうである、山に囲まれた盆地に住んでいる人も日本では多い
そこでは太陽が山から昇り山に沈むのである 

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 (枕草子

春の夜は 東山よりくると云ふ 寺寺靄(もや)し月のぼるとき
【作者】與謝野晶子

枕草子では東山から昇る太陽を見る、それが山だからこそ見える風景である
この辺では海から太陽が昇るからこの感覚がわからないのである

与謝野晶子の歌は山から月が昇る風景である、こういう光景は海側に面している人たちは見ることができないのである。

ここで文化というときその土地から培われて育まれ養われる、だからその土地の地理を知らなければその土地の人でも理解できないとなるのだ
日本だとなんとかイメージできるが外国となると山が全然ない平坦の土地がつづき大きな河が流れてそこは運河のようになり船が行き来している
その風景も日本ではなじみがない、そこに異文化交流のむずかしさがある

ここに住んでいるネパ―ルの人は4000メートルの所に生まれ育った
これもどういう暮らしをしていたのかイメージできなくなる
それはあまりにも異質だとなるからだ、言葉の前にそんなところに人間が住めるのかという疑問になるからだ
まず今なら都会に住んでいる人は同じような生活をしている、だから特別なものではない都会の人同士だったらかえって外国人でも同じであり理解しやすい、とまどうこともないでもネパ―ルとかモンゴルの平原で生活している遊牧民とかなると理解しがたくなるのである。その生活がイメージできないからである
東南アジアとか中国でも稲作しているとかえって生活が共通しているから理解しやすいのである、田んぼがあって米を食べているとなるからだ
でも二毛作とかであり隣で稲刈りして隣で田植えしている風景には日本になかった

だから言葉とか外国人という前に意思疎通できない、理解しあえないのとむしろその生活形態が違うときなのである。
それで遊牧民と中国の農耕民は理解しがたいものとなり万里長城ができたのである
遊牧民は食べるものがなくなるとき農耕民の中国に押し入り奪ったからである
なぜそうするのか?それは遊牧民にとっては生きる死ぬかになるから食料を確保するために侵入する、それを止めるために万里長城ができたのである

例えば日本でもなぜ蝦夷との戦争となったのか?蝦夷とは何者なのか?
それはアイヌのように狩猟漁労採集民族であり稲作民族でないから対立した
人種的対立でもなかった、人種よりそうした生活形態の相違が意思疎通できないものにする

斉明天皇5年の遣唐使に、道奥の蝦夷男女2人を連れて行かせ、唐の皇帝に会わせることになり、皇帝高宗との謁見は洛陽でなされました。皇帝は蝦夷を見ながら、遣唐使に尋ねました。以下は、遣唐使に随行した外交官的官人である伊吉博徳(いきのはかとこ)の文書によるもので、かなり信頼性が高いと思われます。

 「これらの蝦夷の国は、どのあたりにあるのか」と皇帝は尋ね、遣唐使は「国の東北のあたりです」と答えました。

 皇帝「蝦夷はどれぐらいの種族からなっているのか」

 遣唐使「3つの種族からなります。ここには熟蝦夷(にぎえみし)がまいりました。毎年、朝廷に貢物をもってまいります」

 皇帝「その国に五穀が実るのか」

 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております」

 皇帝「これらの者が住む家があるのか」

 遣唐使「ございません。山深いところで、樹木の下で住まいしております」
 

 皇帝「その国に五穀が実るのか」

 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております

中国人は羊を追う遊牧民に悩まされていた、そこでこの問答が生まれた
五穀が実るのかということは稲作民族なのかどうかということである
それはなく獣の肉を食べて生活していますということで納得したのである
生活形態を知ることの方が異民族を理解する手段なのである
今でもマタギ言葉にアイヌ語が残っているというとき蝦夷とはアイヌと同じ生活形態をしていた人たちだったとなる、稲作民族の相違がそれだけ大きかったから対立したのである言葉が違うから対立したのではない、生活形態が違うから対立したのである

熟蝦夷(にぎえみし)とは

邪馬台国のころには、アイヌ系のエミシ(クマ祭りをする)、縄文系エミシ(狩猟採集の倭人)、弥生系エミシ(農耕の倭人)、海沿いの海人系エミシ、そして少し後には戦乱をさけ日本海を越えてきた大陸系エミシなどの人々が住んでいたと考えられます

蝦夷には朝鮮系統の伽耶族とかも混じっていたしいろいろな人種がいたがその人種で分けるのではなくその生活形態で分けていたのである。
だからアイヌ語が一部残っていたとしても蝦夷語があったとしても一つではなかった
だから蝦夷語は解明できないのである
熟蝦夷(にぎえみし)とは農耕化した稲作を覚えた人たちで大和王権にまつろう人たちとなったがまつろわぬ人たちは依然として稲作になじまずに狩猟をつづけていた人たちでありそれがマタギとして今にも残りそこにアイヌ語が残っていたともなる

いづれにしろ異文化コミ二ケーションとなると言葉の障壁もあるがまずこうして地理とか生活形態が違うと理解するのが極めて困難になるのだ
それで対立して争いになり戦争になるのである。
例えば今でも漁師と農民は違っている、漁師は農民のことがわからないという
米を作ることに理解がないのである。
古代から海彦と山彦神話があるのはそのためなのである。その対立の方が大きいのであり言葉で対立するというわけでもないのである。
つまりこうした地理とが生活形態が違うと理解ができなくなる
天候でもそうである、日本の文化を俳句でも日本の四季を経験しない限りいくら言葉で説明してもできない、なぜならその感覚は風土によって養われたものだからである。
それが大きな障壁となって異文化コミ二ケーションはむずかしいのである

例えば封建制があるのはヨ−ロッパと日本だけである、それでヨ−ロッパにも城がやたらと多い、日本でもそうである、そこに歴史的共通性があるから理解しあえるともなる
でもそういう歴史がなっかたら外国は理解するのがむずかしくなるのだ
それでマヤ文明などはジャングルに謎として埋もれてしまっていた
そこに歴史として共通なものを探るのがむずかしいから孤立した文明となり理解しがたいものなとる、日本はヨ−ロッパと離れていても共通した歴史があったということでそこから理解するとなる
いづれにしろ異文化でも外国を理解することはむずかしい、中国は広すぎて地理からして理解しにくい、モンゴルのような大平原に住んでいる人もネパ―ルのような4000メートルの所に住んでいる人も理解しにくいのである

そこでの地理的感覚とか気候でもイメージできなくなるからだ
モンゴルに住んでいた人は冬は寒く一回りやせるというときそれだけ過酷だとなる
まず暖房自体が粗末なものであり冬は厳しいとなる
ただその生活も日本の文明的生活からイメージできなくなるのだ
だから都会で便利な生活している人は理解しやすい、今は都会だと同じような暮らしをしているからである、電気を使わない人もいないし車にも乗っているからである
でも全く未開の地から都会に来たからその変化にとまどい理解できなとなるのである。
今はグロ−バル化しているからそういうことはない、ドルがどんな奥地でも価値あるものとして認識している、それだけでもグロ−バル化しているから金の重要さを知っている
金で買えるということそして別な世界の暮らしをしるからヨ−ロッパのようにアメリカでも移民問題が生まれる、気軽に越境できるからである

観光は楽しむものだ。旅行者が楽しみ、また受け入れる側も楽しむことが基本だ。なぜなら観光は、産業である前に交流だからである。
交流は楽しくなければならない。楽しんだ結果、経済もまた潤うことになるかもしれないが、基本はあくまで楽しむことにある。

  
観光とはいろいろあるがもともとは異文化と異人種との交流という側面があった
異質なものにふれて見聞を広め視野を広げることである
観光で利益優先にするのではなく異文化交流を楽しむということにある
ただそうなると小学校の先生のように野馬追いを見に来たフランス人のようにやはり知的興味のある文化人とかだとそうなるが一般人はそういうことはない
でも今は日本に興味をもって外国人がおしよせてくるのである 
それでも東京に来てもそれほどめずらしいものがあるとかなると都会に住んでいればたいして変わりないのである。

今までは海外旅行となると学者だとか特別な人しかしていなのである。
今は大衆化したからそんなことに関係なく外国に人は行くのである
観光で交流としても何を交流するのが問題になる
何か目的をもって交流するとなる観光ではないだろう
技術を学ぶとかなるだろう、農作技術もあるからだ、お伊勢参りでは種を仕入れていたことでもわかる、なかなか遠くに行けないからそこで種を仕入れていたのである。
そういう交流は観光とも違うのである、ただ文化交流となれば付随いしていろいろなものがある 観光というときそうしした実利を得るものではなくその国の光を見るとなっている、交流を楽しむというとき何を交流するのかが問題になるのである。




2018年08月02日

Aabstract Architecture


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日本語と英語の相違の背景を見る (狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)


日本語と英語の相違の背景を見る

(狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)

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言葉の背景にはまず人間の生活があり生まれる、はじめに言葉ありきではない、はじめに生活ありきで人間は始まっている
その生活の相違が文明と文化の大きな相違を産む、それがどうししても相いれないものとなり対立する、それを象徴していたのが遊牧民のモンゴルと農耕民の中国だった
それで万里長城が作られたのである

農耕民からすると狩猟とか牧畜民族は遊牧民はそもそも定住しないで羊を追って生活しているから理解しにくい,ただ日本人でも縄文人とかは狩猟民族だったのである
それでアイヌ語にhaveと同じような使い方があるというのも不思議なのである。
そこに狩猟民として印欧語との共通性があるとなるがこれは簡単には解明できない
アイヌ語はあまりにも未熟な言葉だからである、極端に語彙が少ないからだ

ただ縄文人が狩猟民であるとしたらかえって印欧語族の人たちと生活形態が同じだから通じ合うともなる、それは言葉の前に同じような生活をしていたからそうなる
言葉にもいろいろあるが例えばstraightという言葉は日本語にはない
それは砂漠とか平原とかに合う言葉でありそういう風土から生まれたものである
どこまでも平坦な土地にstraightに道が伸びているとかなる
straightに天に達するとかなる、日本は常に山であり山で遮られるからそういう感覚がない
それを訳すとなおる、直るという言葉である、直るとは修復するとか曲がったものが直るという意味になる、これはストレートとは違った意味である
直るとは立つではなく座る意味だからである。
万葉集にもある「真直なる」まなおなるとは日本人の自然と融合した文化から生まれた
それはストレートとは違ったものである、だから訳しにくいのは世界観が違うから訳せないとなるのだ

語順もまたその国の自然観とか文化とか関係して生まれている、ともかく英語などの印欧語は平原とか砂漠とかで暮らしている人から生まれたのである。
そこで狩猟するとか遊牧するとかしていてその言葉が生まれた
だからイメージできるのは平坦な土地に動くもの、動物が現れるとするとまずその動くものに注目する、そして動くものを捕らえたり追ったりするのだから主語の次に動詞がくる動詞が主語の次に来るのはそれは動くものに即座に反応するためである
もし豹でも迫って来たら即座に行動しないと殺されてしまうからである
素早い反応するということは動詞になるのである

アジアは植物的世界観の上に言葉も成り立っている、そこで最初に見えるのは森とか山であり動物がいたとしても森とか山が迫るからその後に動くものを見る
そして主語が日本語で省かれるのは主語が日本では山とか森になるからである
自然が主体であり自然に主語なる人間は消える、溶け込むからそうなる
だから語順はそうした生活から生み出されたのである
誰かが勝手に作り出したものではないのである。
つまり狩猟や遊牧民の人たちはそういう言葉を使っている必要があったからそうなったのである

言葉にもいろいろあるが日本語と同じような語順をとるのが40パ―セントくらいあるとき半々になる、それは東西の自然と文化の相違からそうなった
東西の文明文化の相違は言葉となれば印欧語族とアジア系統の言葉である
それは自然の相違でそうなったのである。仏教でも草木も成仏するとの思想もアジアの思想なのである、印欧語族だとヨ−ロッパとかになるとそうはならないからだ

文明とか文化をみるとき平原とか砂漠は幾何学的発想が生まれる、なぜならストレ―トがまっすくだというときそれは幾何学的てもの図形的思想が生まれやすい
だから砂漠の平坦な土地のエジプトにピラミッドが生まれともなる
日本のようなアジアで熱帯のような鬱蒼とした森からはそうした図形的立体的幾何学的感覚になりにくいのである。
つまり森とか山にさえぎられてそうした思考が起こりにくいのである

ただなぜ中国は主語の後に動詞が来るのか?中国は最初の始皇帝の国家が西から来た遊牧民によって騎馬民族によって作られたことでわかるように平原地帯の人々が入ってきて作られた国家という側面があった、ただそれが主語の後に動詞が来るのかという説明があたっているかどうかはわからない、でも語順が大事だというとき中国はアジアとは異質だともなる、中国は農耕民であったが遊牧民と商業民族の血が濃くまじっているのである
方向を示す北斗七星や北極星信仰があるのもそうである、それは遊牧民から伝わったのもである
それで野馬追い知られる相馬氏の信仰が妙見信仰になっている、それは北斗七星と北極星の信仰なのである。それは中国から入り韓国経由で伝えられたのである。

haveというときなぜこれほどの多様な意味があるのか?
haveには羊を持つとあれば羊を育て養うという意味がある
それは遊牧民の生活から生まれたのである。
日本語だったらそういうことがありえないからである。
このhaveはとても言語学では理解できない、その生活形態を知る時理解できるものだからである、つまり言葉だけでは異なった文明文化を理解できないのである
haveには日本語にすれば養う、培う、育てる、・・・とかの意味があり日本ではそれは米とか野菜をとかを育てるとか培うとなるが英語では羊を養う、育てる、飼うとなるのである。培う(つちかう)は土が関係しているが英語では羊を育てるとなる
羊文化、牧畜文化がヨ−ロッパ全体にも広がっている、羊はヨ−ロッパのどこでも飼われている
それはやはり平坦な地が多いとかなり地理的特性が平原地帯とにているからである。
日本だと山ばかりだから平坦な地が少ないから牧畜に向いていなかったのである。
日本は海に囲まれているから海の幸にめぐまれて生活したとなるからだ 


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生活形態や地理が異文化交流の障壁となる 
(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)





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2018年08月03日

階級社会と格差社会の相違 (社会をいかに構成するのか?)


階級社会と格差社会の相違

(社会をいかに構成するのか?)

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階級社会とは歴史を見れば常にあった、それは歴史的に経験済みでありヨ−ロッパなどでは継続している、貴族と労働者は英語でも違った使い方をする
英語といってもいろいろある、クイーンズイングリッシュとアメリカの英語は違うというときそうなのである、同じ英語でも違うのである
歴史的伝統的に作られてきたものがありその中で言葉も洗練されて使われる
アメリカ英語が平民的だというとき平等の言葉だというとき王様もいないし貴族もいないからである、そういう歴史もない国では平民的な対等な言葉になる
上の人にへつらう言葉は生まれない、敬語もあってもないとなる

京言葉があんなにやんわりしているのは上の人にへつらうご機嫌をとるためだだんという東北弁になるとぶっきらぼうになる、おめえとか・・・だべえとか敬語を使わないのである。人との関係でもそうなっていたのである
確かに侍という支配階級が生まれて侍言葉が生まれた、平和な江戸時代に階級が作られたからである。
階級社会というとき不平等な社会であり理不尽な社会だと今ならみるがその時代にはその時代の生き方がありそれに適合するからすべてが悪いとはならないのである。
階級社会があって身分制があって社会のモラルとか秩序が形成されていたからである。
日本だと侍で贅沢していたのは極一部でありその他の侍は他の身分の人ととさして変わらなかったのである。極端な格差はなかったのである。

今になると時代劇でもどうして身分の上の人に奴隷のように忠勤する人がいたのか?
時代劇では仕える家と一体化して犠牲になる人すらいた
それは家族のようになっていたのである。でも身分社会で今なら差別されていたとかなる経済的にそう強いられていたのだとかなる
でもその時代にはその時代のモラルがありそれで社会が成り立っていた
だから階級社会の負の面をみればもう暗黒社会だとなるのである。

不思議なのは戦前とかはまだ新しい時代である、その時なぜ女中がいて家で働いていたのか?それも特別金持ちではなくても中流階級でも二人も女中を雇っていたという
自分の母親も東京で女中していた、その頃女性の働く場所が女中とか紡績工場しかなかった、絹織物を生産してアメリカに売り外貨を稼いでいたのである。
紡績は富国強兵の政府の政策で奨励されていたのである。
それで母が言うには紡績工場で働いていても現金をもらったから良かったと言っていた
それは女性が働いて現金になる場が限られていたからである。

そしてなぜ女中という仕事がそれほど求められていたのか?
家事には大きな労力が必要でありそのために人力でするほかないからそうなった
電化製品がゼロというとき洗濯板でごしごし洗っていたらその労働は並大抵のものではないからだ、それは世界で共通していてあのパリのセーヌ川で女性たちが洗濯していたことでもわかる、世界的には洗濯は川でしていたのである。
自分の家では裏に堀があってその流れる水で洗濯していたのである
ご飯をたくのにも竈の時があり手間がかかりすぎていた、ボタン一つで米はたけないのである。すると家事の労働を頼まないと仕事もできないということになっていた

自分も介護から家事労働をしているが電化されていても労力がいる、手間がかかる
だから料理はしていない、買うだけである、最近オカズを得るために生協に入った
簡単にオカズになるものを用意しておくと便利なのである
冷凍とか冷蔵であり長持ちするから一人暮らしには便利なのである。
一人暮らしだと使わないで腐らすものなどが多くなるからだ
戦前辺りだと人間の労働は女性ならほとんど家事に費やされていたのである。
それも妻一人ではできないから女中を頼んでなんとか家を維持していたのである
そういう時代は別に女中になることはさげすむことでもない
女中は女性の仕事として認められていたしそのモラルも要求されていたのである。

もし今のように女中が差別語として使われなくなったように女中という仕事はあってもお手伝いさんとかなる、職業としては家政婦とかなる
しかし女中という仕事はないのである、職業もない、女中という仕事が成り立ったのは戦前までであり後はないのである
その時代は女中は普通の家庭でも中流家庭でも雇えるものだったのである。
その時代の要請で女中がいてそれは普通のことだったのである

今はなぜ女中がいらないのか?それは家事が電化されたりオカズでも買う時代になったからである、ともかく買う種類が多いのに驚く、料理を作ることではない、何を買うかが家事なのである、家事のために便利な道具を買うことなのである。
家事も機械化されやがてはAI化されるてさらに手間が省かれる
そもそも今は誰も女中とかにならない、お手伝いさんにもならない、何か会社で掃除するとき掃除を一時間とかするときそれは会社員であり女中でもお手伝いさんでもない
その人は会社員なのである。

そして昔の女中は家政婦になるがこの家政婦は気軽に雇えるものではない、もう極一部の恵まれた社長とかしかない、給料だって相当に高くなるからもう雇えないのである
ただ家事は機械頼みだということをしてわかった
機械化してなるべく手間をはぶくことなのである。やがてAIで機械化して自動的に料理ができることなのである。それをみんな願っている
なぜなら家事の手間は今でも時間をとるからである
そして今は女性でも外で働いているから家事に時間をかけられないからである。

もともと家事をとりしきる女性は重要な役割を家でもっていた
母刀自というとき墓に刀自と記されてもいるから家事をとりしきったものとしての誇りを記していたのである。 

 真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

 大黒柱というけど女性こそ大黒柱という矜持をもっていたのである。

今は家事は女性でも第二級の低いものとして見られる、価値観は時代によって変わる
時代のモラルも変わるのである。
今はお手伝いさんでも家政婦でもなりたくない、母親が娘を医者にしたくて娘が母を殺したという事件があった、母はどうしても娘を医者にしたかったのである。
看護師にはなったがその後も医者の試験を娘は受けていたのである。
それは母が医者にしたかったからである。女性でも男性のように医者にしたいとなる
その時代の価値観の差は大きい、戦前だったら別に女中になってもはずかしいことではない、そこが働く場所として必要だったし社会が要請されていたからさげすまれるということもない、普通に働く場所だったのである。

いづれにしろ人を雇うこと働いてもらうことにはコストがかかりすぎる
ロボットだったらA地点からB地点に物を運ぶならそれだけ忠実にして文句言わないのである
人間だったらそうはいかない、怪我したときのために保険をかけたり家族がいてそれも考慮しなければならい、そして仕事はA地点からB地点に物を運ぶだけでも人間はそれだけではすまない、なにかやと要求がある、それに答える方が嫌になるのでできないのでAI化であり機械化しようとする、人間が一番効率的ではないのである。
その効率的でないことがまた人間だとなる
でも資本主義社会では効率化が要求される競争に勝たねばならい、そこでジレンマに陥るのである

人間と機械の間では情は生まれない、でも人間と人間の間では情が生まれる
その情を重んじれば効率的でとなくなるのである
そのこと故に人間でありうる、資本家とか経営者からすれば人間は大きなコストになる
だから極力省く方向になる、AIとか機械は文句を言わないからである。
機械にはプライドもないから文句は言わない、うらやましがったりもしないからである
資本主義社会を追求してゆくと非情になる、すでになっている、金だけがすべてになる
何でもあれなんの能力もないものでも何もできないものでも人格的に悪辣だなんだといっても金のある人間は資本主義社会では勝ち組なのである。

だから格差社会と階級社会が違うというとき階級社会とは何か?
それは人間の歴史で階級社会の方が長いのである。格差社会と階級社会は違う
階級社会は簡単に作れない、貴族社会は長い時間の中で作られてきたからである。
その階級を否定するとしても貴族社会には階級社会にはそれなりの価値観とモラルがあり社会を維持してきた、江戸時代がそうである
それがすべて悪いものだった、格差社会であり奴隷社会だったともみる
でも江戸時代全体を見たとき階級社会でも庶民は外人が明治に日本に来たとき幸福そうな顔をしていたというとき今見るものとは違っていたのである。

階級社会より格差社会が悪いというとき階級社会は江戸時代のように侍が支配して身分社会だった、その人たちは階級として共同体を形成してモラルを形成した、武士道でもそうである、そして責任が重かったから責任をとるとき切腹したのである
そういうことを庶民は見ているから侍にはなりたくないと言っていたのである。
今ならそういう責任がないから庶民から見て金持ちはただ楽しているだけだと見るから
階級社会ではなく格差社会なのである。
格差社会はただ収入の金があるかないかだけで判断している社会である
階級社会はヨ−ロッパでも長い歴史の中で生まれたものであり日本の侍でもそうである
今は格差社会であり階級社会ではない、階級社会は簡単に作れない、長い時間の中でしか歴史のなかでしか作れないからである
格差社会より階級社会の方がいいというときその階級社会は歴史の中で長い時間の中で作られたものだから作りようがないのである。江戸時代でも300年ありヨ−ロッパだってそうである

階級社会というとき侍を庶民は認めていた,それは金があるからでなはい、経済的に豊かだからではない、社会の中で重い責任を果たすものとして見ていた
だからこそ侍として庶民は認めて従っていたのである。
今は金持ちを誰も認めていない、あいつらむしろ不正しているからあこぎなやつだから金に汚い奴らだから金持ちになっている
そういうやつは許してはならない、資産でももっと税金をかけるべきだ
むしろ金を奪うべきだともなっている、格差社会ではいづれそうした不満が爆発する
金持ちをそもそも認めていないのだから金持ちは暴動が起こり襲われる
格差社会はこうして深刻な対立を生み国は分断されるのである。
格差社会は金持ちにとっても危険なのであり常におびえていなければならない社会である枕を高くして寝ていられない社会なのである。
そういう社会では金持ちもいいものではないとなる


posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

八戸から来たおばさん (跨線橋(こせんきょう)を渡るのが老人には辛い)


八戸から来たおばさん

(跨線橋(こせんきょう)を渡るのが老人には辛い)

八戸から来たおばさんがいた、その人は鹿島区の出身で前の中学校に通っていたという
そういうふうにここ出身で鉄道で来る人に良くあう
そういう人はたいがい福島市でもそうだが距離があるから鉄道を利用する
八戸までは新幹線で一時間二〇分というときここから仙台に行くより近い
だから距離感覚ではなく時間感覚になると近いとなる

そのおばさんが言っていたのは跨線橋をわたるのが荷物をもっているとき大変なので今までは若い人がおりるとき頼んでいた
この前は誰もいなかったので苦しかった、それで今回は荷物をあらかじめ宅急便で送ったという
スーツケースを階段をひきあげるのは大変だなと見ていた
重いから階段はきついのである
それが田舎駅の不便な所である
田舎駅だけではない、相馬市にはエレベーターがないのも意外だった
相馬市は4万くらい人口があるのにエレベーターがない、原町駅にはある
ここより乗り降りがない新地駅は津波で流されたのでエレベーターがついたのである。
駅のなかもエアコンがついた、でもュツは海から風が吹いてくるからこの辺は涼しいのである

駅が意外と気づかないのがホームが二つあり反対側に行くとき不便だし外から来た人は
その行く先がわからずにホームがどっちなのかわからない、表示するように頼んだらJRでは二か所したがそれでも気づかない人がいて聞かれるのである
ただ仙台行きは待合室からすぐに外に出れるから便利なのである。

駅というのは意外と利用しにくいものがある、駅についてもそこからの足がない、タクシーになると高くなる、これも不便なのである。
跨線橋(こせんきょう)をわたるとき荷物をもっていたりすると辛い
特に老人になると辛いのである
実際に階段から落ちて怪我した老人がいたのである
階段を上ることでも老人になると辛いとなる、階段が意外と急なこともある
高齢化社会で老人が鉄道を利用することが増えるとしてもこうした設備がないと利用しにくいのである、でもJRでは相馬市にもエレベーターを設置しないのだから作らない
そしたらローカル線はみんな赤字なのだからますます費用ばかりかかるとなる
現実に今駐輪場を新しくしている,柵を新しくする
これは市の方で作るのだが市でも金をだしているから金がかかる

JRだけではない、鉄道というのは維持するだけで手間がかかり金がかかるものなのである広島の方で鉄道が洪水で使えなくなったがその復旧にしても金がかかる
只見線でもあれだけ乗る人が少ないのだから維持するのができないとなり福島県で半分費用を負担して復旧することになった
ここで津波の被害があったとき復旧に400億円もかかった
でもそれはJRで負担して復旧した、六年もかかったのである。
その費用は新幹線でもうけているからできたのである。
ローカル線は新幹線につなぐものとして効用がある、ネットワークとして効用があるから維持しているのである。
鉄道はもともと石炭とか木材とか資材を運ぶものとしてはじまり発達した
乗客をのせるためではなかった、この辺でも戦前は乗車賃が高いから普通利用していなかったのである。主に貨物輸送として石炭とか木材とか石材とかを運ぶものとして発達したのである。
だから今でも鉄道は近隣の足ではない、中距離輸送に向いている、この辺だと仙台に行くときなどき便利なのである。近間だと車が便利であり自分でも原町に用事があるときは鉄道を利用しない、鉄道ではイオンとかにも回れないからである。

その八戸からきたおばさんは八戸ではサバとかイカとかなに魚がとれていないという、それで困っているという、水産関係の仕事が八戸では多いから魚がとれないということは困る、サンマもとれないとかも報道されている
こういうふうに生の情報を知るのが駅でもある
だから今は何もしていなくても話かけているのである
野馬追いの時はフランス人の人が来た、これは特別だった
ともかく駅は外との交流の場になっている、そういう効用もある
広場の効用もある、街の玄関口でもある、つまり遠くから来た人を最初に迎える場なのである、駅に降りてその街の第一印象をもつのである
高速のSAのセディティは人が駅より百倍とか出入りがあったとしても何かそういう機能はあまりない,通り過ぎてゆくだけで街の方には来ない
街とつながっていないのである。駅は駅前通りとあったように街とつながっていたのである。

2018年08月04日

三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い (インタ−ネットで読める一連の物語)


三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い

(インタ−ネットで読める一連の物語)


伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置) 

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。


清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

この都路村は、田村領の中でも相馬領に近く、隣接の葛尾村(現双葉郡)田村領内でも治外法権的な要素を持った地域で、田村家旧臣が多数移住して開墾していたのではないかと考えられます。

 清顕には男子がおらず、後継を決める間もなく急死したため、相馬家出身の清顕夫人を中心に重臣たちの合議制がとられます。当初は、政宗に男子が誕生したならこれを田村家の後継にするという清顕の言葉に従い、何事も政宗の意向を受け、さらに伊達・相馬両家の家臣は三春城へは入れないと取り決められました。しかし、政宗夫妻の不仲が清顕夫人に伝わると、夫人は実家の相馬家に頼ろうとし、清顕夫人を中心とする相馬派と、伊達家出身で先代隆顕夫人を中心とする伊達派に家中が二分されます


 天文18年(1549)相馬顕胤の娘が三春領主田村清顕に嫁したが、天正14年(1586)清顕が男子の跡継ぎなく没した。清顕には顕胤の娘との間に娘(愛姫(めごひめ))があったが伊達政宗に嫁いでおり、田村家は断絶。田村領をめぐって伊達政宗と相馬義胤が争ったが、結果は伊達の傘下となった。三春家中で相馬側であった大越・熊耳・阿部・栗崎の諸氏は相馬の臣となった。

 田村郡大越村

第一章 大越氏 


 田村家家臣で伊達家召し抱えの田村家御家門方坂ノ上田母神玄蕃頭が天正十五年に記した「田母神氏旧記」(田村仕置き直前の田村家臣録


 母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。  
 「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。                                     

 神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。

 その他別系の田村氏
武蔵七党に属す“西党”に田村氏がある。多摩川中域を統治していた日奉氏を祖とする地方豪族である。一族には小川氏、立川氏、中野氏、柚木氏、稲毛氏、平山氏、田口氏、西氏、由井氏、高橋氏などがおり、活躍した武将も存在する。



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この書状で寒気節とあるのは寒い時期である、でも朧月とあるのは春なのである。
春だけどまだ寒いということになる、ここでよくわからないが取籠とはとりこむということで相馬氏への味方として取り込むことをお願いした書状なのかとなる

いづれにしろ寺までまきこんで熾烈な争奪戦が三春で行われていたのである。
それは戦国時代は全国でそうだった、家督相続でももめていたらそこにつけ入られて相馬氏と伊達氏などが好機とばかり侵入してきたのである
こういう経験を介護の時したから戦国時代は弱肉強食が露骨だったのである
相手が弱ったらチャンスなのである、その弱みにつけこまれるのである。
ここは大きなドラマにもなる、小説にもなるからめご姫のことが物語となりNHKでもドラマ化したのである
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これとは別に田村氏は相馬氏と関係して田村氏関係の人が相馬氏に移り住んでいるようである
その証拠はダイユーにある(田母神)である、これはダイユーができる前に田の中にあった、その田がダイユーの建物になったがこの社は残されている
これは単純に田の神と思ったがそうではない、田母神村という村が三春にある
これの由来がインタ−ネットに出ているように坂上田村麻呂に由来しているとすると
三春関係の人が相馬氏と関係してここに移ったためだとなる
信仰も人とともに移動するからである
田村という姓を鹿島で身近に知っている、他でもあるにしてもこの三春から移住してきた
それはかなり有力な証拠である
ともかくここに引用したものを一連の物語として読むことをすすめる
小説のように面白い、一部は小説家して語っているからだ


インタ−ネットの優れている点は知識を関連付けられることである
リンクできることである、図書館ではそういう機能がない、本をいちいち取り出して読んでもわからない、郷土史でも知識が膨大だからである
そして介護とか家事に時間をとられるから図書館に6年間でも行っていない
図書館とは意外と使いにくいのである、何か調べたり物を書くときは自宅でできるのがいいのである、そのために自宅にある程度資料となるものを用意するといい
だから南相馬市博物館のテレビのチャンネルで今回放送した伊達氏と相馬氏の関係は面白かったのである。
そういう地元で番組つくりする、それはインタ−ネットでしているのである
テレビだって本当はyoutubeでもできるのである
ただ手間になるから一人で時間がかかりすぎる、でも今回引用したものを連続的に読むとすでに郷土史の物語になっていたのである


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南相馬市鹿島区の姓の考察


南相馬市鹿島区の姓の考察

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岩松氏の伝説

南相馬市鹿島区の歴史で姓がたどれるのは岩松氏からである
それは鎌倉時代にこの地に来た、その家臣が従った者が蒔田、島、中里、日里氏だった
その子孫は継続して生きている、ただ相馬氏と組んでこの家臣が一家を惨殺した
子供まで殺したのでそれが伝説となって残っている
それが500年たっても継続している
なぜなら蒔田、島、中里は姓として残り子孫も残っている
日里はいないがこれはその残虐な行為を恐れて姓を変えたのである
それが郡(こおり)となったのである。
その子孫たちは別に今も身近に生活をつづけている
ただこれが歴史というものなのか?500年とか過ぎてもそれが語られるから子孫にとっては気持ちいいものではないのである
今ではそういう人たちはそのことを語ってくれなともなる

貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。

奥相志には、「往昔、国司源顕家の時、桑折五郎元家伊達郡桑折より来たり、江垂館に住し真野五郎と号す。その後田中塁に移り居ること七世なり。古記にいふ、江垂館は天文中古城と唱ふ。古館の跡なり。」と


南北朝に由来する者では但野氏について前に書いた、お浜下りでおつづら馬という役を担っている、それは重要な役目でありその家の歴史はそこまでさかのぼるから古いとなる
他地菊池氏などもそうなのだろう、野馬追いの旗で天皇の菊の紋を旗印にしているからだ後は山王の旗印がありこれも南北朝の時落ち延びた武士でありその子孫は玉野村で相馬市方面と鹿島に分かれて落ち延びたのである。

次にあまり目立たないが三春藩をめぐって家督相続でも問題が起きて相馬氏と伊達氏が熾烈な争いをした、三春とはもともと相馬氏は婚姻関係を結んでいて親しい仲である
その関係で相馬藩内に三春関係の姓がもたらされた、田村がそうである
田母神村が三春にありそれの基は坂上田村麻呂なのである。
田の神とは別なものでありまぎらしわいとなる
実際田村という姓は鹿島区で古く身近なのである。
鹿島区は人口一万にもみたないから姓にしても身近に感じる
極端なのは末続駅のある末続村である、そこの墓地では9割が新妻の姓だった
つまり新妻一族が住んだ村だったのである。
そういうことは小さな村だとわかりやすいのである
それが原町とかになるともともと5万くらいの人口がありいろいろな人が混じりわからなくなる、相馬市でもそうである、外部から入った人たちが多いからである
それはどこでも市の単位になると人口が多くなるからそうなる

相馬藩で注意しなければならないのは越中から富山県からさ真宗系統の人たちが大量に移住したことである、その理由はさておき相馬藩で飢饉になり天明から移住した
その数が多いのである、相馬藩では三分の一が欠落したが真宗系統の移民によって穴埋めされたのである。
だからその系統の姓が多いのである、墓の三分の一は真宗系統だとなるから多い
五賀は僧であるが南相馬市内に80人もいるのである、これは越中富山県からの移住なのである、他にも中田とか大岩でもそうであり相馬藩内で身近にそういう姓の人が今も住んでいる、だから相馬藩の特徴はともかくこの越中からの移民した子孫が多いのである
それは三分の一もそうなのだから身近にその子孫が生活しているのである
それでこの真宗系統の子孫は見分けやすいのである
宗教も違っているから見分けやすいのである。

相馬氏系統は多様だからここには書かない、でも基本的に南相馬市鹿島区の姓はこのように成り立っている
姓から歴史を見ることは身近だから親しみやすいとなる
それで良く自分の姓についてたずねる人がいる
岡和田氏はここの由来なのだとか荒氏は相馬藩とどういう関係にあるのだとかなる
ただこれはなかなか姓でもわかりにくい、なぜ相馬藩内に荒氏が多いのか?
それは渡来人関係のツノガノアラシトに由来していてここのアラをとって荒になったのかということもある、それは古代に由来しているのである。
全国的にも渡来人関係の姓も残されている、でもどうしてここに荒姓があるのか?
それは古代に関係して名付けられたのか不明なのである。
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2018年08月05日

小高復興の一試案 (牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)


小高復興の一試案

(牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)

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小高に三年ぶりで行った不思議を書いた,前よりは人は帰っているけどやはり通る人が少ない、通りに歩く人も見えない、ただ前からは通りはどこでも歩く人がまれである
車時代になってからそうである
ただ小高で感じたことは車が通らないから江戸時代にもどったような気分になった
やはり車というのがいかに社会に影響しているか実感した
一時大きな街で歩行者天国を作り車をしめだした
小高では別にしめださなくても車が通らない、6号線は通っても通らない所が多い
車が通らないとどうなるのか?江戸時代にというか車ない社会にもどったようになる
それは戦前でも戦後十数年でもそうだった
車が普及したのは高度成長時代になってからである

輸送の手段は遠距離になると蒸気機関車時代があり貨物輸送の貨物列車の時代があった
近間では馬車の時代がありリヤカーがあった、それで梨を売るために相馬市まで鹿島から運んだというのもそのためである、でも今からすると距離があるから苦労だった
ただあまり遠くまでは行かない、近間で用をたしていた
馬頭観世音がこれほどなぜ多いのか?それは馬で荷物を運んでいた輸送の主役だったからである、だから江戸時代の馬頭観世音はまれであり明治時代以降のが多いのである
馬が人間を助けてくれたから供養のために馬頭観世音をいたるところに作ったのである
まず馬車だったら遠くに荷物を運ぶのは無理である。
それで鹿島の右田の農家では肥料となる草を橲原(じさばら)から運んでいたという話を聞いた、橲原に入会権の山を所有していたのである
つまりその頃は近間でなんでもまかなっていたのである
なにか小高ではそういう時代にもどっいたという感覚にったのも不思議である

自分は江戸時代に関心をもつようになった、それは江戸時代には今の時代に失ったものがあるからだ、だから時代劇を良くみている、その風景がなつかしいとなる
江戸でも舟が縦横に行くのはベネチアのようでありその風景にひかれるのである
それはただ過去を美化しているということもあるが江戸時代には旅人でも歩いていた
それがみんな絵になっている、この歩くことを感心してみているのも時代である
今は旅人はいない、歩いて旅している人がいることはいるが車の騒音の中に消されてしまうのである、浮世絵のような絵にはならないのである
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小高の復興というときそれをどうするのか?
これはあくまでも自分の試案でありアイデアでありそんなことできるのかともなる
何か空想的になってしまうのが自分だからである
関わる人、交流する人を増やしその中から住民と「外の人」が精神的な豊かさを分かち合う

ここでどうして「外の人」と精神的な豊かさを分かちあうのか?

夕張で炭鉱がありそれを活かす取り組みをした、その例に習えば小高では野馬掛けの野馬追いの原型の行事があり牧場に向いているともなる
もう田畑は草に埋もれて草原化した、もうそこを田畑にすることは無理だと感じたからである、ではどうするのか?
牧場化して馬を放牧するのがいいのではないか?そして乗馬などをさせるのである
そして回りは車も通らないから車をしめだすから江戸時代にもどるともなる
ただ車で来る人が多いからそうもならないかもしれない、ただ車をしめだして江戸時代にもどる体験をする、車が通らない地域を作るのである
車を通るとしても制限するのである

これはあくまで試案であってそんなことできないということはある
一番の問題は田畑というのがみんなここに所有者がいて牧場にするからと勝手にできないこの辺でも畑の半分が未だに荒地化している、でも所有者がいるから勝手にできない
無料でも貸すと所有者は言っても誰も畑で野菜作りなどしない
その手間と労力が大変であり金もかかる、自分が支援したが一年で10万はかかる
その収穫はこの前太いキュウリをもらったがあとはなかった
田畑を活かすことは楽ではないから前々から高齢化などで受け継ぐ人がいなくなっていたのである。

明治後で失敗したのは私有権を過度に認めたことである
山でも平地でも海でもそうだったのだ、だから土地が細分化されて利用しにくくなったのである。漁業権のことを書いたが補償金を得るために自分の家の前の海にも権利があるとして交渉していたのである
それほど私有権が強固なものとして権利を与えた結果何か公共的な用として利用しにくくなったのである。
江戸時代までは入会権とかあり山でも共有であり村を単位にして土地は共有していたのである
だから荒地があると村では困るので村全体でその荒地をみんなで元の田畑にもどした
草が生えてきて隣り合う畑をもっていると困るからである
田んぼでもそうである、水の共同利用とかありそれは個々人が私的に利用できるものではなかったのである。農業は自然が相手だから土地は共有になっていた

現実に飯館村で補償金をもらって土地を売った方がいいというときそこが放射性物質の廃棄物になっては困るのである。なぜなら土地はつながっていてその放射性物質が現実に保管されないで流れ出したからである、それは南相馬市の方に流れてくるからである
だから過度な私有権を認めたことは失敗だった
現実に荒地化している土地をもっている人はそこは自分の土地だから売らないとなれば貸さないとなれば何もできなくなる
牧場とか大きな土地利用をするにしても一人の地主が反対すればできないのである
ただこの辺ではそうして荒地のままに草ぼうぼうにしていいのかということが切実な問題となっているのだ
だからこれをなんとかしようとするときいい知恵はないかのかとなる
何かそういう知恵を出し合うことも必要なのである
おそらくいくら土地をもっていても無駄でも何か金になると土地をもっている人はかがえているのかもしれない、例えば放射性廃棄物の処理場とかになり金になると考えているのかもしれない、それは私有権があるから自分だけの利益しか考えないからそうなる、後はソーラーパネルが一番有力なのかもしれない、あれだけの土地が空いているとそうしやすいからだ
そのために土地を保有しているかともなる、そうなったら景観は乱されるから江戸時代の街作り構想は消える
ただ土地を有効に生かす方法がないとそうなる可能性が強いとなる
それをするとするとしたら海側であり山側はしないということもある

何かこの辺で問われているのはそうしした共同性の回復だったということもある
それが失われたからそういうことが望まれる、それは江戸時代の村への回帰でもある
そんなも古いものはあてにならないというのもある
でも明治以降の私有権の強固な権利とか共同性の喪失とかが問われている
一方であまりにも大企業の力が強くなりそれが市町村でも自治体でも今回のように東電によって破壊されてしまうことをまざまざと見たのである
江戸時代の村は別に理想的なものではないにしろ自然と共生した共同体だった
でもそれも巨大な大企業によって破壊された、またグロ−バル化社会の影響もありもうそうした世界の中で経済が動くようになった
その時肝心なものが見失われたということ喪失したことがある
結果的に自然は放射能物質で汚染されてとりかえしがつかなくなり家族はばらばらになり共同体は失われてしまった、原発事故前からもそういう状態はあったがここでは拍車がかけられて田畑は草ぼうぼうになり人が住まなくなったのである。

ただ江戸時代にもどれと言っても電気がない世界に住めるのかとなる
エネルギーは炭になるのかとかなる、囲炉裏が復活するのかとかなる
そんなことができるのかとかなる、それは無理だとなる
でも何かそういうことを志向するのも今回の原発事故でありうることなのかとも思った
江戸時代だと夜は真っ暗な世界である
小高などは街まで真っ暗だった、そこにイルミネーションをして電気を使うより提灯でも使えば江戸時代にもどることができる
街全体が江戸時代にするとそこで江戸時代の気分が味わえる
ただこれは他で江戸時代を再現して観光している場はある
ここが違うのが現実に江戸時代にもどったような場なのである
特別な場所が江戸時代になっているのではない、街全体が回りがそうなっているからだ
それがテーマパ-クなどとは違っている、そこに現実に人が生活しているからだ





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2018年08月06日

蝉の声(晩年は時間に追われる)

蝉の声(晩年は時間に追われる)

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晩年やせわしなに蝉鳴き暮れぬ

方角を違えて夕べ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休みけり

夏の夕馬草を食い眠る蝶

親子して草食う馬や夏の牧


同じ年の人と自転車でよくあう、その人は一回脳梗塞をしたからそれ以後体を気にしている、体が弱っている,でも別に自転車でも散歩しているし普通の生活をしている
その人は郷土のことも調べているので時々話する
その人も晩年である、何か晩年になるとせわしい、楽隠居というが何か追われる
それは生きる時間が短くなって追い詰められるという感じになるからである
まだまだ生きる時間が長ければ追われるという感じになはならい
まず50代すぎるともう人生も終盤が見えてくる
すると何か追われるようになるのだ

人間が死ぬまじかになると延々と自分の生きたことを語る、認知症になっても過去を忘れないからそうなる、そして死んでゆく、それはちょうど蝉が短い間でも懸命に鳴いて死ぬのとにているのだ
最後は人間は日暮らしのように鳴いて死んでゆくとなる
終わってみれば蝉のように人間ははかないのである

昨日も暑かった、方角が違って雲の峰が夕べ見えた
今年は雲の峰が見えても雨がふらないのも不思議である
今日は雨がふってすずしい、ここも34度くらいになったが今日は相当にすずしい
ただ体が夏バテになりぐったりしている
40度近くになるともう耐えられない、体が弱い人は死ぬと思う
自分も体が弱いから危険になる、だからここは気候がいいからなんとかしのげるとなっている、老人は意外とこの気候が影響するから住む場所を選ぶべきだとなるが
簡単に人間はどこでも住む訳にはいかないのである
でも山を越えた福島市だったらもう住めない、夏は蒸し風呂になり冬は酷寒になる
だから気候的にここはいいからしのいで生きられるともなる

毎日川の土手の道の木陰で休む、ほとんど同じ道を行ったり来たりしているだけである、それは十年つづいている
それもいいのかなと思う、やはり人間はあまりに変わりすぎると落ち着かない
人は最後は落ち着く場所を求めるからだ、だから同じ木陰でアイスコーヒ−を毎日飲むのが楽しみだとなっていた
今年の体の状態は胃が悪くならなかったのが良かった、冷たい水を飲んでもならなかった
必ず夏には胃を悪くしていたから不思議である
やはり健康であれば冷たいものを飲んでもいいから夏を楽しめる
人間はやはり健康が第一なのだ、健康でなければいくら金があってもうまいものさえ味わえないからだ

夏の夕暮れこの辺には牧場がある、野馬追いのために馬を飼っている、それがこの辺の特徴である、ただ北海道のような広い牧場はない、写真は北海道なのである
それを写真を加工したからまずいと思うが著作権とかで注意されたことがない
インタ−ネットでは広いからわからないのだろう
現代は写真の時代でありその写真を活かすことが必要になる
でも他人の写真を見て俳句を作ったことはない
今回は親子の馬がいたので俳句にした
写真は写生になるのだが写真を見てだけでどうして俳句などでも作れないのか?
それは写真はあくまでも一部だからである
その辺の気候とか全体がわからない、それでいい写真でもそこにいる臨場感をもていなのである、写真はあくまでもきりとった一部だからそうなる

この辺は野馬追いがあるから馬の風景が一応があるが北海道のように雄大にはならない
そこに不満があるが馬と親しむ場所であることは確かである
それで小高復興のために牧場にして馬を放し飼いするのもありかなと思ったのである

2018年08月08日

カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた (金属でないと一年くらいしかもたない)


カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた

(金属でないと一年くらいしかもたない)

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カシオの腕時計を二つ買ったけどバンドが切れた、方角のわかる時計はに三年もった
時刻も狂っていない、次の月の満ち欠けのわかる時計は一年ももたずくらいにハンドがきれた、このバンドが切れたらなおしようがないから使えなくなる
どちらも一万ほどだがこんなのでは買っても損である
何か欠陥がある、このハンドは安物を使っているのだ
こんな簡単に切れてしまうのでは損である

それで今度は2000円で金属のバンドのを買った、これもカシオである
別に時刻がわかればいいと思い買った、これはソーラ−電池ではないが
7年はもつとある、まずバンドがこんな簡単に切れるのは使えものにならない
そしてこのバンドは直すこともできないのである。

この頃買い物では失敗することが多い
これは別に年と関係ないが買い物がうまくできなくなった
それはなぜか?
新しいものが商品として出ていても使えこなせないのである。
そして良く「年寄りの冷や水」というけどその意味がわかった
年寄りでも別に急に年とって変わるわけではない
年よりもこれまで生きてきた延長として生きる
だから今までしていたことができると思う
それで今までしてきたことをやりつづけようとする
買い物でもそうである、今まで買ってできていたから使いこなせると思う
でも技術は進歩しているから追いつかないとなる
パソコンをやっていたからスマホもできると思うがスマホはまた違ったものだから使いこなせないとかなる

また登山しようとしてリュックを買ったがこれも使わない、登山がきつくてできないとかなる、自転車でも電動のロードのいいのが出たから今までのように遠くに行こうとする
でもロードは体にきついとかなる
つまり老人でも年とっても人間は今までしたことの延長としてある
それで年寄りの冷や水となるのである。
人間は年とることがどういうことか理解できないのである。実際に年取ってみないとわからない、年をとることは今までしたことができなくなる、体も頭も追いついていけなくなる、でもそれが実際にそうなってみないと理解できないから依然として今までしていたことをするのである、バイクにのるのも70の人も乗っていた
それは今までも乗っていたし車でも今まで乗っていたから年とって依然として乗ろうとする、それがいつか年よりの冷や水としてとがめられるようになる
車に乗るなというのはまさにそのことなのである。

いづれにしろ買い物がうまくいかない、それも年とることの特徴なのかもしれない
ただこの腕時計のバンドが切れたのは別に年取ることとは関係ないだろう
これはカシオでこのバンドを強くしないからだ、安物で切れやすい作り方あしているだけである、だから年寄りだから買い物に失敗したとはならい
でもこの腕時計でも使い方がめんどうでありそこが問題だったことは確かである
現代の商品は機械などは何か使い方がめんどうなのである
それが老人にとって不利なことは確かである
老人にとってはアナログ的なものが使いやすいのである
それで現代社会は老人にとって不利なものとなっている

2018年08月09日

菖蒲と金色堂 (芭蕉の俳句について)


菖蒲と金色堂

(芭蕉の俳句について)

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夢の跡金色堂に菖蒲かな

雨しとと菖蒲の池をそめにつつみちのくの都の跡をしのびけるかな

芭蕉の奥の細道の俳句は不思議である、「五月雨やふりのこしてや光堂」というのは
雨の時期に来たからである、観光に来たら普通雨だと嫌だとなる
でも日本は雨の国なのである、外国では本当に雨がふらない地域が中東とかである
日本はいつも湿っている、だから湿気で余計に暑く感じる
今年が異常に暑いのは都市砂漠化して暑いということもある
まず平泉を訪れたフランス人とかいたけどこれを理解するのはむずかしい
フランスでも乾いた風土だからである
日本のような雨の情緒にはなりにくい、「夏草やつわものどもが夢の跡」でもそうであるとにかく日本は雑草がすぐに伸びるのである、農家の仕事は毎日草刈りなのである

平泉というとここからは今だと近い,新幹線で近くなった
でもなぜ芭蕉の句が生まれたのか?それは時代背景があった
平泉は江戸から遠い僻地となっていた、そこまで行く過程がありそれがこの句が作られた背景である、はるばる江戸から来てようやくたどりついた昔の都の跡には何もなくかろうじて金色堂だけが五月雨のふりこめられるなかにあったとなる
それはやはりその遠さの感覚からも生まれたのである

平泉は近いから春秋冬に行っているが夏には行っていなかった
今回菖蒲祭りを見に行こうとしたがこれも行けなかった
何か介護が終わっても遠くに行けなくなった、家を留守にすらから行きにくいとなる
ただ平泉となると近いから時々想像でその場を回想したり想像したりする
俳句でも写生だというとき想像する俳句は良くないのである。
どうしても実感がこもらないからである

俳句でも文学でもなんでもそうだがやはり継続したものとしてある
芭蕉の俳句はやはりそれがい300年すぎても深みをましている
それは確かに時代背景もありその時代が作ったものだとはなる
今なら東京から二時間で平泉に来たとなっても何の感懐もなくなるだろう
現代の旅は何か浅薄になっている、どこにでも楽に早く行けるのだが旅になっていない
ただ宿でうまいものを食べるとか温泉にひたるとか保養の旅なのである
ただ現代で有利なのは歴史的な場所に何回も行くことができるからそこでその場のことを深く追及して知ることができる、ある場所でも知るには四季に訪れる必要があるからだ
それで平泉についてもわかるとなる

自分の俳句も『夏草やつわものどもが夢の跡』の夢の跡とをとり作ったとなる
800年過ぎても平泉が鎌倉幕府によって滅ぼされて堂塔伽藍が焼失した記憶は残っている、とにかく芭蕉の俳句は色あせない、普通は時間がたてば色あせてくる
その色あせないことが古典になる、千年でも色あせない深みがあるからそうなる
だから「芸術は長く人生は短し」となっているのである

芭蕉と蕪村の五月雨の俳句の鑑賞

芭蕉と蕪村の五月雨の俳句の鑑賞

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五月雨のふりのこしてや光堂 芭蕉

五月雨や大河前に家二軒 蕪村

この二つの俳句は対象的である、芭蕉の俳句は歴史的時間性の中で金色堂を俳句にしている、

文治元年(1189年)奥州藤原氏滅亡
松尾 芭蕉 寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日

芭蕉が平泉を訪ねたとき500年も過ぎていたのである、それだけの時間の流れがありこの句ができた、現代のように変化が激しくないから時間の感覚は江戸時代前は違う、時間の感覚は鉄道とか自動車社会になると変化する
電車とかでも車でも早く過ぎる,すると時間も早く過ぎるように思うのである
だから車のない所に行くと原発事故で避難区域になった所では時間が止まったように感じた、そこには芙蓉でも車が通らないからゆったりと咲いていたのである
車がひっきりなしに通っていればそう感じないのである
江戸時代までは自然の時間であり文明的人工的空間の時間とは違う中に生きていた
時の鐘でもおおざっぱであり一秒一分刻みではない、それで現代人は常に時間に追われている

江戸時代まで自然の猛威を感じる世界である、芭蕉の五月雨の句も自然の猛威の中で朽ちているはずの金色堂が一つだけ輝き残っていたことに感嘆した
後は堂塔伽藍も焼失したからである、そういう歴史を時間を感じる俳句である
五月雨に自然の猛威に押し流されてもいいはずだが残っていたという感懐である

一方蕪村の五月雨の句は

心細い二軒に住む人間を撮り始めると、次々にカット数がふえて行く。家族全員の表情を描写するだけでも、かなり面白いものになる句の表面には人の気配など全くない。それでいて、人間はどうなっているのだと考えないではいられない。それは蕪村の句にドラマがあるからだ。

この句は芭蕉のように自然に融合するのではなく懸命に大河があふれて流される危険の中で二軒の家が耐えている
自然の猛威に対して抗って存在しようとする二軒の家である
そこの二軒の家の存在の重さを示している、懸命に生き残ろうとする庶民の農民の姿なのである。
二つ谷とかの姓は二つの谷]や)は家のことである。四谷もそうかもしれない、四軒屋とかも地名にあるから
その家の存在は大きなものだったのである。自然の猛威の中で消される流されることに対抗して耐えている存在する二軒なのである。

蕪村の俳句は常に生活感覚がある、市井の人の声がある、だから様々な職業の人を俳句にしているのである、それはもともと農民であった、でも農民でも大阪に近い所で生活していたし京都にも近く文化的な生活も知っていたのである
それが事情があって家が破産して江戸に単身出てきたのである
蕪村の俳句は美的で絵画的なのだけどそこに市井の人々へとかかわるのである
芭蕉の不思議は市井の人々があまり眼中になく天然を優先した天然と禅のように一体化する、何か生活感覚にともしいのである
かといって干し鮭をかみえたりとか貧乏そのものの暮らしをしていたのである
芭蕉は禅の悟道を求めた人のように見える、俗を離れて自然と一体化するのである
蕪村は俗があってもそこに美がある世界を追求したのである。
そこには暗黙のうちに市井の人や農民への深い同感がある、だから様々な職業の人を俳句にしているのである
「しずけさや岩にしみいる蝉の声」などでもそうである
ここには生活感覚はない、ただ蝉の声と岩があるだけだからである
例えば今雨がふっていたので作った小生の俳句がこれである

雨しとと勤めの人や蝉の鳴く

蝉の鳴く定時に来る電車かな

たいした句ではないがここには勤め人とか鉄道で働く人への思いがあり作られた
なぜなら自分はここに二年くらい無人駅でボランティアをしていたからである
それで鉄道をただ乗るだけではなくそこに働く人への思いが生まれたのである。
何か駅員になったような気分になっていたからである
蕪村の俳句もそういうものが多いのである。

五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉

毛見の衆の 舟さし下せ最上川 蕪村
―――――――――――――――――
秋の季語である「毛見」は「閲・検見」で、
「けみのしゅう」は米の収穫前に出来高を検分する役人たちのこと。
当時は今のような自己申告ではなくて、
お役人が査定して年貢の額を決めていました。
蕪村は農民の側から見ていたようですね。
―――――――――――――――――
○新米の 坂田は早しもがみ河
―――――――――――――――――
「坂田」は最上川河口の町、酒田。
江戸初期から庄内米の積み出し港として発展していました。
芭蕉が『おくのほそ道』に書いたように、
稲船(いなぶね)が最上川を下って酒田港に稲を運んだのです 

この句も対象的である、芭蕉は天然だけを見ている、五月雨を集めて流れる川だけを見ている
毛見の衆となると税金とる役人でありいいものではない、そういうことに同情している
何か常に市井の人々ふ農民に同情しているのが蕪村なのである。
芭蕉にはそういうものがないのも不思議だとなる、芭蕉は武家の出だったからなのか?
天然に没入することを第一としていたのである
別に豊かな時代になればそういうことが普通である、でも貧乏な時代はどうしてもそうした生活が目に留まり同情するようになる
新米に注目しているのもそうである、新米がとれこととかは農民にとってうれしいことなのである
それを食べる人も今でも待ち望んでいる、それが最上川の早い流れにのって酒田まで運ばれる
それは天下の台所の大阪まで運ばれることも見ているのである。

正岡子規がなぜ蕪村を模範にしたのか?それは写生というとき生活実感を重んじた、また写生というとき絵画的になるから蕪村を模範としたとなる、ただ芭蕉の句を否定したのは深く間違っていた、どちらにも良さがあり個性があったからである
要するに何でも対象的に見ると興味深いものとなる、そこで個性が際立って鑑賞を深められるのである。

2018年08月10日

河の俳句から歴史をたどる (淀川から外国の河など)

河の俳句から歴史をたどる

(淀川から外国の河など)

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朧月大河をのぼる御舟かな 蕪村

夏の月御舟のぼるや塔の影


商人の河下り来る秋の暮(ドイツのハイデルベルグ)

河曲がり落葉の公園古き都市

石橋の古りし市の門秋深む


交通手段として旅客専用の三十石船が登場しました。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれたこの船は、全長約17m、乗客定員約28人で、曳き船が必要な上りは約12時間、川の流れに乗れる下りは約6時間で大阪と京都・伏見を結びました。


淀川というとき昔の状態がまるでわからない、それは東京でももう江戸をイメージできないと同じである、東北だと平泉などは近いから風土的にも一体感がある
それでイメージしやすいが大阪とかは繁華な都会になっているからほとんどイメージできない、特に離れているからイメージできない、大阪でも江戸でも水の都だったということがイメージできない、だから現代の旅は意外とつまらない、ただ高いビルとか密集した人家を見るだけだとなる

淀川に大きな船が通っていて荷を運んでいたとか人を運んでいたかともイメージできない第一淀川がどう流れているのかもわからない、大阪だと外から来てわかるのは大阪城だけだとなる,生駒山があって高いなとは感じたが大阪の地理は都会化してわからない
だからイメージすらできないのである

だから「朧月大河をのぼる御舟かな」の蕪村の句はいい句だなと思うときそういう実景があって作られたのである。この御舟は荷物を運ぶのとは違う、何か貴族の人が裕福な人が乗っている舟なのだろうか?淀川の昔を彷彿とさせる光景である
淀川は当時運河のようになっていたのである
京都とも通じていたから淀川は交通路としてあった

洗ひ衣(ぎぬ) 取替川(とりかひかは)の 川淀の 淀まむ心 思ひかねつも
  〜作者未詳 『万葉集』 巻12-3019
  
 川で洗濯していた、取替える川にかけてこの歌を作った、この頃すでに淀む川がありそれで淀川になった

日本では何か川というとき船が行き来するのが少ない、外国だと中国でもヨ−ロッパでもどこでも大きな河があり河は運河のようになり交通路となっている
第一ナイル川でもそうだがガンジス河でもドイツの父なる河のラインでもそうだが四大文明が河から生まれていることでもわかる、河を知らないと文明がなぜ起こったかもわからないのである、そこで日本では大きな河がないから外国のことを理解しにくいのである

菜の花や運河に豚を運ぶ舟

これは中国の運河に一夜乗って見た風景である

千里菜花
運河行舟
豚運農民
大陸結河

中国の河は雄大だから想像を絶するものなのである、それは日本にいてとてもイメージできないからだ、ガンジス河でもライン河でもそうである
日本に大きな河が欠落していることが外国を理解できないとなるのだ
地理的に理解できないことが致命的なのである

ただそれでも江戸時代辺りは船運が盛んであり淀川でも利根川でも船運があった
最上川は一番有名である

川上とこの川下や月の友 芭蕉

これは川で結ばれていたことを如実に物語っている、それは経済的にも荷が運ばれて結ばれていたからである。
ヨ−ロッパだと川が運河となり交通路になりその川沿いに都市が生まれた、そしてハンザ同盟とかの商人の連合体が生まれたのも河が運河のようになっていたためである
ハイデルベルグもそうしたネッカー河の河畔に発達した都市である
そこに公園があり落ち葉ししてゲーテがここで瞑想にふけったとかあり納得した

夏の月御舟のぼるや塔の影

これはイメージしてし作ったから良くないがそもそももうそういう景色がないのだからイメージするほかないのである
何かテレビで淀川の岸に百済の五重塔が建っていたというの見たことがある
そこには塔が建っていた跡が残っているが塔はなくなっている
ただ百済寺は現実にありそこは広い場所である   

百済王 敬福(くだらのこにきし きょうふく)
当時、聖武天皇は東大寺大仏の建立を進めており鋳造まで終えていたが、巨大な仏像に鍍金するための黄金が不足し、遣唐使を派遣して調達することも検討されていた。全国にも黄金探索の指令が出されていたが、これまで日本では黄金を産出したことがなかった。天平18年(746年)4月に敬福は陸奥守を石川年足と交替して上総守に転任するが、9月には従五位上へと加叙を受けて陸奥守に再任されている

すめろぎの 御世栄えんと 東なる みちのく山に 黄金花咲く 大伴家持

玉縁のある粘土紐巻の丸瓦に、ヘラ書で「天平」と文字を刻んでいます。これにより「天平」と年号のつく年代(729〜766)に建物が建てられたと考えられます。
宮城県の涌谷が金がとれた場所であり時代が記されているから貴重である

塔の影というとき百済の五重塔だが今はないがその影が見えるということになる
百済をイメージすることは韓国をイメージすることに通じている
百済が滅びた扶余に行ったことがある
百済が滅亡したとき政治的難民として日本に逃れてきたのである。
ただその前に伽耶がありそことの興亡があり伽耶大和は一体であり伽耶は大和の日本の出城的な役目を果たしていたという説もある、伽耶は特殊な立場にあった
つまりこの伽耶であり百済でもいかに日本に影響したかを物語っている

陸奥(みちのく)の真野(まの)の草原(かやはら)遠けども面影(おもかげ)にして見ゆといふものを

この短歌が自分の住んでいる真野だとなり草原(かやはら)は伽耶に由来しているのではないかという説を自分がたてたとき大きな韓半島の歴史を合わせてみると見えるものがある、ただ伽耶(かや)とか百済とか渡来人の歴史は隠されたので不明になったのである。ただこの歴史は一方的に伽耶とか百済が日本を指導したというのではない、何か逆に日本が任那があったように日本府があり伽耶は日本の出張所のようになっていた
伽耶に関しては相互的なものであり一方ではないのである。
そして謎は伽耶はやがて蝦夷と一体化して大和王権と対立するようになったことである

東北は日本の歴史で大阪とか関係ないように見えても深く関係していたのである。
ただ河から見る歴史が日本ではイメージしにくいのである
外国はまず河から見る歴史が現実であり河の役割が大きかった、それはその河がいつも流れているから身近なのである。
河を知らなければ文学でも詩でも絵画でも外国を理解不可能なのである
外国の文明は文化でも川とアイディンティティ化して生まれているからである
この詩でもいかに河と魂が一体化しているかわかる、こういうことが多いのである
ヘルダーリンの詩もライン河なくしてありえないのである。
中国でも河なくして語ることはできないからである。  
  
朧月大河をのぼる御舟かな 蕪村

淀川の舟運は 「日本書紀」にも見 られるように、仁徳天皇30年 の秋 、皇后磐之姫が船 を曳
いて淀川 ・木津川(山 脊川)を へて山城国筒城(綴喜)へ 向か ったことを記 しているように古
くか ら舟運があ ったことがうかがえる 

淀川三十石船は京都と大阪間(約44.8`)を繋ぐ快速船で「早上り三十石」「早舟三十石」と呼ばれ、現代の新幹線のようなもので、多いときには162隻が就航し、一昼夜で上り下りをしたので合計320便、一日9000人が往来したことになります

この句が夜に作られている、淀川を夜に運行していた、それも良くわからない、淀川はまだ自然の河であり危険でもあった
帆掛け船なども運行していた、古代から運行していたので想像上の船かもしれない、蕪村には実景を見たとは限らないからである
ただこの俳句は河と舟と月が一体化してなんともいえぬ情緒をかもしだしている
それは淀川がただ流れている河ではない人間がかかわる河であったからだ、運河のように利用した河だから外国の川と似ているのである。
それで川下に堤が作られたのも早い時期に人工化した河だともなる
春風や堤長(なご)うして家遠し」これは自然の川ではない、人工化した運河のような河になっていたからできた句である
実際にこうした大きな河は氾濫して被害を与えているからだ、堤ができたとき安心して河に向かえる、運行もできるとなるからだ
旅というとき今つまらないのはこうして河の船旅などができないことである
大阪などでも行っても大阪城しかわからない、琵琶湖は残っているからわかる
もう想像するほか見ることはできないのである。



蝉の声、カンナ(小高の街にひびく蝉の声の不思議)


蝉の声、カンナ(小高の街にひびく蝉の声の不思議)

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雨しとと勤めの人や蝉の鳴く

蝉の鳴く定時に来る電車かな

農家の庭の広しも芙蓉かな

街中の古木聞き入る蝉の声

真昼間や高鳴りひびく蝉の声

入り混じり遠く近くや蝉の声

明るしや畑に人なしカンナかな

客よれや6号線にカンナかな

鷺一羽水辺の深く影写す


避難区の街に残りぬ古き木の根を張り聞きぬ蝉の声かな

誰をかに向かいて蝉のひたすらに鳴きにし声聞くべかりけり

人なしに空家にひびく蝉の声聞く人なしも帰らざるかな   

蜘蛛の糸一本なれど揚羽蝶とらえ離さじ巧みなるかな


小高で不思議だったのは街の通りに人はなく蝉の声だけがひびいていたことである
小高の街の通りは歩道もあり駅前から長いから鹿島よりずっと良かった
鹿島の通りは歩道がないしほとんど人が歩いていない
人が減ったのではない、前からそうだったのである
駅前通りも死んでいる感じになる

蝉の声というときこれも誰も住んでいない街に鳴いていたらその声は誰が聞くのだろうとなる
小高の街で目についたのは古い木だったのである
そして帰ったのも老人が多いのである、老人は古木とにている
その古い木が蝉の声を聞いていたのである
ともかく依然として帰った人は増えたが空き家の街である 

知っている人がしている畑があるけどそこに今日は人はなくカンナだけが明るく咲いていた
何か畑でも肥料だ、種だ、農薬だと金がかかりそれで金を要求される
そしてキジに食われた、盗まれた、モグラに食われた、ネズミがでる・・・
こういうことを常に聞かされるので嫌になる
これまでは自分はそういうことにかかわらなかった、でも何か現実の生活にかかわらざるをえなくなったのだ
現実の生活は花ばかりきれいだと見ていられないのである
そこには嫌なことがあり人間関係でも嫌になるのが田舎なのである。
ある人は知っている人と会いたくないからこの道を通っているというとき田舎では常時監視状態にあるからそうなる
四六時中監視されているのである
だからカンナだけ明るく咲いているのが気持ちいいとなる

飯館村などは時々行ったとしてもそこの人間とはかかわらなかった、だからよかったともなる
人間と実際にかかわれば嫌なことが必ずあるからだ
ただ花だけを見て帰るなら嫌なことはないのである。

今日は蒸し暑かった、でも夕方は涼しかった、この辺の暑さは峠を越えたように思う
それでも夏バテになりぐったりしたのである
西のように暑かったら地獄である、住むのも嫌になるだろう
避暑に行きたくなるだろう、35度が連日つづくとしたらもう住む環境でとなくなる
なぜこんなに暑いのか?偶然なのか?地球温暖化でないとしたら何なのだろうとなる
40度近くになるともう住む環境でなくなるからだ
ここは気候だけは暑からず寒からずだから過ごしやすいから助かったとなる

蜘蛛の巣に揚羽が一羽とらえられてばたばたしていた、農家の広い庭である
その蜘蛛の巣は大きいものだった、でも巣の真ん中にひっかかったのではない
はずれた端の方の一本の糸にひっかかっていた
蜘蛛の巣でも何本もの蜘蛛の巣にひっかかるならわかる
一本くらいで動けなくなるのか?
芥川龍之介の蜘蛛の糸という小説があったがそれは一本の蜘蛛の糸をたらしてそこに人間がはいのぼってくる光景だった
つまり蜘蛛の糸は一本でそれだけ強いものがあるということになる
一本の蜘蛛の糸にとらちえられた揚羽はそうだったのかもしれない、それで蜘蛛の巣をとりはらい揚羽を逃がしてやった
これは自然の一つのドラマだったとなる

鷺が水辺に映っていた、増水したから水辺が深くなっていたのである。
自然というのは同じところにいてもつくづく変化する、その変化することで飽きないとなる
同じ所に住んでいると見るものも同じだから飽きる、でも変化するから飽きないとなる    


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震災より7年過ぎた小高の不思議(短歌十首)
(故郷は古里で古きを守る場なのか?)




2018年08月11日

原発を東京に作れというのは正論だった (人は住んでいる場所に一番関心をもつ)


原発を東京に作れというのは正論だった

(人は住んでいる場所に一番関心をもつ)

人間は住んでいる場所に一番関心がある
当然住んでいる場所だといろいろ直接影響するからである
原発でも浪江だと請戸港から原発の煙突が見えるのだから関心をもつ
角のことはからないにしてもそれだけた近くにあれば関心をもつ
もし事故が起きたならどうなるのかなど想像する人もいる
でも離れていると関心をもたないのである

なぜフクシマに原発を東電で建てたのか?
それは300キロ離れていれば東京は安全だと思ったし
とても東京では反対があるから建てられないとなり福島に建てた
すると東京に住んでいる人たちも安全だとなり容認した
そこが間違っていたのである
東京の人たちも離れているからいいや,こっちには関係ないだろうとなる
東京の人たちも無関心になっていたのである。
でも東京に原発が作られたら恐怖で四六時中監視する人もでてくる
東京には科学者とか技術者がいるからさらにうるさくなる
常に原発はそうした人たちの監視にさらされるから安全を完全にしないと運営できなくなっていた

ところが福島とか離れると東京の人たちも関心が薄れる、安全だとなり容認するようになっていた、そこに落とし穴があった
人間は住んでいる場所だとささいなことでも気になる、この辺では土を削りとられた所が多い、それを毎日見ていると景観的に嫌だなとなってしまう
それは毎日見ているからである、見ざるをえないからである
一時的にいるなら通り過ぎるなら嫌でも離れれば見ないからいいのである

人間は住んでいる場所だったら身近だから自分のことのように考える
でも離れてしまうと他人事になってしまうのである
原発事故の避難区域でも故郷から離れて暮らしているとやがて住んでいた故郷のことでも無関心になってしまう、そこが何になろうと関係ないとなってしまう
土地をもっているけど放射性廃棄物になっても金にならからいいやとかなる
もし住んでいたらそんな危険なものは置くなとなるが離れていると関心がなくなるのである

だから人が住まないとどうなるのか?
その住む場所に誰も関心がなくなる、別に放射性廃棄物でもあってもいいやとなる
金になるからいい、どうせそこに住んでいないのだからいいやとなってしまうのである
住んでいれば住みやすいように自ずと努力するが住んでいないなら関心もなくなる
そこはやがて放置され原野化して政府の土地となり放射性廃棄物場になりやすい、現実住んでいないのだから反対する人もいないからである
住んでいないことは実際は権利を失っているのだ、だから土地でも空き家でもそうして利用されていない土地でも家でも所有の権利を失うのが自然なのである。

それにしてもすでに小高に東北電力の原発が建てられる工事まではじまる予定だった
そこに建って事故が起きたら南相馬市とか相馬市とかには住めなくなっていたのである。でもそのことを知っている人も少なかったのが怖い、何か報道でも取り上げないとそうなる、原発を建てる土地を買い知事の許可があれば原発を建てられると法律ではなる
それが異常なことだったのである。
事故になれば南相馬市でも相馬市でも住めなくなる
その時は南相馬市は合併していない、だから小高だけで決められることにもなっていたのも怖い、原発というのはこのようにあまりも建てるにも広域的な議論もなにもなかったのである。ただ地元の大工さんは景気良くなるよとしか言わない
地元では金のことしか関心がなかったのである

人が住まないとそこは無関心地帯となる、それが自然の原始の状態にもどるわけでなはい政府のものになり放射性廃棄物となったり何か他のよからぬものに使用されたりする
そこには誰も住んでいないのだから反対する人もいないからである
そしてそこに住んでいなければもともと住んでいる人も無関心になる
ただ何でもいいから金になればいいとなり土地を売ることになる

例えば無人駅でもそこを管理する人がいない、すると勝手にされるということがある
確かに監視カメラとかついていたり隣の駅で見ていたり連絡はできるが無人駅ということはその駅を管理する人がいないのである。
そうなると許可なしに何かをする人がでてくる
ボランティアで善意でもJRではどうにもならないともなる
いくら自動化しても全部責任を持てない、ロボットは責任を持たないからである。
無人化することはどうしても勝手にされるということをさけられないのである。

いづれにしろ東京に原発を建てろというのは正論だった
それができないなら原発は建てるなともなっていた
でもその正論は正論にもならない、何か風変わりなSF作家が提案していように見られていた、そういう本も出ていたが隅に追いやられて冗談かとまでなっていたのである。
それほど「安全神話」は強固に作られていたのである。
それは核が庶民にはわからないこともありそれ故にさらに強固な安全神話が作られた
日本の技術は優秀なのだといううぬぼれもあった、そもそも核と原発の技術はアメリカが基でありアメリカに指導されて作ったから日本の技術力で作られていなかった

そしてアメリカでは古い型のマーク1の原子炉を商売として売りつけていたのである。
これは明治維新の時古い武器を売りつけられたのと同じだったのである。
つまり自国の技術力でやれればいいのだがアメリカはアメリカで日本は遠いから無関心になり危険なものでも自分に及ばないから古い型の原子炉をうりつけたのである。
自国だったら身に危険を及ぶからそういうことはできないのである
国は国で離れていると無関心になり危険がないから親身にならない
ただ金儲けとして危険なものでも売りつけるとなるのである
ここにグロ−バル化経済の問題がある、自国だとうるさいが外国だと安全は食品でもなおざりにされる、どうせ外国人が食べるのだからいいやともなるからだ 

「遠くの親戚より近くの隣人」というように親戚でも遠くになると何しているわからなくなり無関心になってしまうのである、むしろ日々顔合わせている地元の人の方が頼りだとなってしまうのである
報道でも福島県の福島民報とかあるけど民友もあるけど福島県でも広いから福島の市町村単位でそこに住んでいる人が報道するのがいいとなる、なぜならそこに住んでいる人が一番関心があるからである
真野側で水質検査をいつもしていると放射性物質はどのくらい高いのかと気になるのである
それは近いからそうなるのである。だから福島県でも広いから報道はそこに住んでいる人がすべきだとなる
それがインタ−ネットである程度可能になったから自分も報道のようなことをするようになったのである。

posted by 老鶯 at 09:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年08月12日

無人駅でも管理者がいなと困ることがある (忘れ物ではない、捨てていったバッグ)


無人駅でも管理者がいなと困ることがある

(忘れ物ではない、捨てていったバッグ)
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その女性は大きなスーツケースとバッグとか紙袋とか荷物をたくさん駅に持ち込んだ
とてももちきれない荷物だった、それで今度はスーツケースに入れていた
荷物を小さくするためである、自分はそれを見ていた
その女性は中国人である、中国人はここに裁縫の会社があるのでいつも一定数来ている
来るのは前の満州地域である
だから仙台空港からだと飛行機で意外と近い、北京でも三時間だからである
気軽に行き来できる距離なのである

その女性はホームにでても荷物を整理していた、そして去って行ったのだが
大きなバックを残していった,それはいらろくなって残して去った
中には何も入っていなていからだ
でも駅員が無人駅を回ってきてなぜそこにこのバッグがあるかわからないだろう
忘れたものなのかとも思いとっておく、JRでは忘れ物を管理している
たいがい返ってくる、そういうのは日本だけだろう

でもこのバッグがなぜあるのか?
それが誰もいないからわからないのである
そのことで原町駅に連絡した、すると見回りに来るから理由がわかっているからこれはどうせ誰もとりにこないということで処分できるのである
そうでないといつまでも置いておくほかなくなる
今日見たらそのバックは置いてあった

そのバックは韓国製なのか?
韓国語と中国語の漢字で書いてあった、手に取った感じで相当な安物である
そんなもの日本ではもっていかない、盗みもしない
だから駅舎に置いたままになっているだろう
そして見回りにきた駅員が持ってゆくが事情がわかっているから処分できるのである

こうして無人駅には人がいないと困ることがある
管理者がいないから困るのである
もしかしたら監視カメラに映っているかもしれないがそこは映る場所ではなかった
改札口の方を写しているからだ,ただ大きな荷物をもった中国人らしい女性は映っているとなる、でもその女性がバックを置いていったということはわからないだろう

鹿島駅は結構人の出入りがある、だから誰か管理者がいないと困ることがある
ただ正直金がかかりすぎる、今度は自転車置き場を市の方で直す、トイレは障害者団体に金をだして毎日してもらっている、何かと金がかかりすぎるのである
だから維持するだけで手間と金がかかる
それでローカル線はみんな赤字になるし維持できないとなる
ただ常磐線はそれなりに乗る人がまだいるからいい、それでも赤字である
新幹線に乗る人が多いから新幹線とのつなぎであるとなる
後はこの辺では昨日も大阪に行くとか名取から飛行機で行く人が多くなっている
中国人の女性も名取から飛行機で中国に帰ったのだろう

今はお盆の時期だから多少出入りが増えている、地元に住んでいて嫁に行ったとか墓参りに来る人が多くなるからだ
いづれにしろ何でも無人化できるのか?
それはできないと思う、AIとかロボットで人はいらなくなるというが必ず人は必要なのである、全部を管理はできないからである
ただコスト削減で人が一番金かかるから会社ではそうするのである
でもそこにも問題がある、そういう社会が本当にいいのかどうかはわからないのである。でもコスト第一だからどうしても資本主義社会ではそうなる
民間になったら余計にそうである,だから国鉄時代だったら多少は無駄ができたからその方が良かったという人もでてくるのである

田舎から考えるグローバル経済 (一本一万円のキュウリの味)


田舎から考えるグローバル経済

(一本一万円のキュウリの味)

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キュウリをもらったけどそさが太い、こんなにキュウリが太いのかと驚いた
売っているものは細いからである、味も違う、うまいものだった
硬くなく柔らかいキュウリなのである
今はハウス栽培のを買って食べている、だから天然の露地ものの野菜を知らない場合がある、近くで市が開かれるがそこのトマトは露地ものでありうまいものだった
でも後で一個500円にもなって買わなくなった
近くの市場では何でも高くなる、だからスーパーで買った方が安いのである
それもグロ−バル経済広域経済のためなのである

なぜこの太いキュウリが一万円だとしたのか?
それは実際はもっと高くついている
肥料代と種代と農薬代とが自分が払ったからである
そこでもらったのはこのキュウリだけである
だからもっと高くついているのだ
でもそれが高かったのかというとそうでもない
農業についてじかに知ることができたからである
そういう勉強代に払ったとなる

農業する畑をもつことの意味がどういうものかわかったということがある
自分はちょっと草取りなどしても何もしない
でもその土地でとれるものを食べることその味は格別なものがあると思った
そう思うようになったのはこれまでも書いてきたが畑が例え趣味でしてもどれだけ大変なものか肌で知った
毎日草取りだしキジの被害は大きい、他にもモグラだとかネズミだとか虫に食われるとかの被害も常にある、それから必ず盗まれるのも困る
そういうことを毎日聞かされたから農業がいかに大変なものを肌で知ったからである。
だからこそもらったキュウリは格別なものとなったのである。

スーパーで売っているものはどこでとれたのか?どうしてとれたのか?
そうしたことは一切わからない、ただ金を払えば買える
だから金の方が貴重だとなる、食料がとれる過程が全くわからないからである
苦労なども全くわからない、ただ気にしているのは値段だけだとなるからだ

もらったキュウリはこの土地でとれたものであるということも価値があることだった
この住んでいる場所でこういうものがとれるんだということを実感する
すると買うより豊かな気持ちになる、その富はこの土地から生み出されたからである
戦前とかその後で自給自足的な生活は戦後十年くらいまではつづいていた
何故ならエネルギー炭だったから炭は近くの山の木材だったからである
たいだい周りにあるもの地元にあるもので生活していた
家を建てるにしても地元の木材をとり建てる人も地元の人だった
今は家は外材であり建てる人も外部の人であり地元の人も材料も関係ないのである。
そういうときそこが故郷なのか?
故郷とは何かというときこれもなかなかわからないものだった

故郷とは与えられたものではない、ただあったものではない、それは先祖が田畑でも切り開き作りだしたものである、家があるとしてもそれは先祖が作り残したものだとなっていた、戦後開墾に入った場所が全国で多い、この辺でも浪江の津島辺りでも開墾に入り切り開いた、それで結束が強いというのもわかる
そこは放射能被害で住めなくなった、放射線量が特に高い場所だったのである
そういうふうにして苦労して開墾して住んだ人たちはそこが第二の故郷になる
それはただ与えられたものではない、苦労して切り開いたからこそ故郷なのである
故郷とはただ与えられるだけでは故郷にならないともなる
故郷はそうして作り上げられるものがあって故郷となるのかもしれない
俺たちはここを苦労して切り開き田畑にして住めるようにしたとかなる
それは北海道を開墾して住んだ人たちもそうである

逆にこんなことを自分が言うがそこで働く人はそうはならない
いくら農業しても金にならないとして農業したくないというのが現実だった
それはあまりに過酷だったからそうなった
農業だけはやるな親に殴られたという人は原発で働き工事現場で働いたのである
そこは金になるからである、とても農業だけで生活できない、そして時代が変わったからである

その畑で野菜を作る人にしても実は貧乏であり誰かが援助しなければ畑もできない
畑で野菜を作っても金にはならない、実際は十倍もの金がかかるのである
いくらこの土地でとれたものだから価値がありうまいと言ってももし農業して生活することはできない、,小遣いにもならない、赤字なのである
でも何かその土地でとれるものを食べることは買うのとは違った充実感がある
充足感がある、それがやはり自然だからだろう
みんな普通はその土地の恵みがあり生きていたからである
地球の裏側か食料が入ってくることは異常なことである
グロ−バル経済は何か異常なのことなのだが慣れれば普通になってしまう
飯館村でも山菜を山でとって暮らすのが普通でありただ買うだけの生活になったとき不安になったとかなるのもわかる
飯館村が貧乏でもそこに暮らすもののメリットはあった
それはどこでも何かしらその土地に恵みがあり生きるメリットがあるのだ
だからこそ地球は多様な恵みがあり多様な文化が生まれたのである

畑にはカンナが明るく咲いている、そして実りがあった
その時買うだけの生活ではない、充足感を感じた
それが故郷となるのかもしれない、今のように買ってばかり生活していたら金が一番大事になり別に金さえあればどこにでも住んでいいという感覚になる
だからこそ今は金で買う生活だから一億円もらったらみんな故郷を捨てて簡単に流出したともなる
前から一億円もらったら故郷を出るのだがという若者も多かったからである。
自分でもそうだが金だけにたより金で買うことばかりの生活だそうなってしまう
そこが故郷となるのか?ならないからみんな流出したともなる

ただ正直人間は矛盾した存在である。いくらそうはいってもやはり金がないなら趣味の畑でも故郷の土地からでも実りはないとなる
でも実感として一万したとしてもそのキュウリにはそれだけの価値があったなと思った
それはそれだけその畑と自分もかかわったからだともなる
何か矛盾しているのだけどもその価値を認識した、それは理屈ではない実感である

畑にそカンナの咲きて夏の雲湧きあがかなここに生きなむ

カンナが畑に明るく咲いていた、そして夏の白い雲が湧きあがる、その時この土地に生きることを実感した、農業している人は自然と一体化するからそれを実感するのである
自分の場合はただ花を見ていただけである
だか今回畑で野菜を作る人とかかわりこの土地との一体感を感じたのである
ただ矛盾しているここに生きるとしてもその人自体も金がなくては生きられないのである医者通いもしているし年金ではたりないとか生活できない
それでも畑がもっている意味とか故郷とかその土地の意味とかが何かをじかに知ったということはあった、田舎だと本当は農業を知らないとわからない

ただ今は田舎でも農業を知らない、農家に嫁いだ人は何も知らない、土さえ触ったことはない、夫は会社員だし妻もそうである
田んぼは委託しているし花さえ作っていないからだ
その女性は古い農家に嫁いでも農業のことは何も知らないのである
今はみんな会社員だとすると田舎でも農業のことを知らないのである
一応田畑があるから見ているけど農業を知らないのである。

posted by 老鶯 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年08月13日

コンビニ強盗で逮捕されたのは、南相馬市鹿島区の会社員・小松 悟容疑者(35)。 (原発事故の多額の補償金でモラルが崩壊した)


コンビニ強盗で逮捕されたのは、南相馬市鹿島区の会社員・小松 悟容疑者(35)。

(原発事故の多額の補償金でモラルが崩壊した)

28日未明、福島・南相馬市鹿島区のコンビニエンスストアに包丁を持った男が押し入り、現金を奪おうとする強盗未遂事件があり、35歳の男が逮捕された。

駅で小高の人に話を聞いてびっくりした、新聞とっていないからわからなかった
六号線のコンビニで強盗があったという、その人は双葉の人だと言っていた

なぜ双葉の人が強盗するの?

まだ避難区域になっているから十二分に補償金をもらっているはずである
みんなそれでうらやましがられている、だからなぜなのか?信じられないとなる

実際に鹿島では新築の家が次々に建った、豪華なのは庭が広くて家も大きい
それは船主の家が多いかもしれない、この前あったのは磯部の人であり船主だと思う
二人はそうである、つまり鹿島には相当に外部からの人が移ってきて家を建てている
この前は浪江の人が新しい家を建てていた
まず船主だと金には困らない、事故前も事故後も十分な補償をされているからである
汚染水でも漁業組合が東電と交渉すれば上積みされる
だから魚をとるより補償金で十分に暮らしていけたしそこに原発御殿が建ってうらやましがられていたのである。それは船主であり他の人はもらっていないからだ

その小高の人は鹿島の厚生病院に母親が入院して電車できている
車がないから電車で来る、でも電車だと原町から一時間おきではない、半分以下になるから不便である
その人も補償金のことなのか?兄弟五人いてもめているという、ハンコ押してもらうのに離れているから困っているというのもわかる
何か大きな金が入るともめるのだ
その人が言うには飯館村で酪農家が9億円もらったという、それ本当なの?
双葉辺りでも酪農家はもらっている、牛一頭いくらと補償されているのかもはしれない
大熊の酪農家が5億円もらっていたというのも聞いた
事業している人も多額になる、それで浪江の事業している人が仕事くれと仲間に言ったらお前ら金もらっているから仕事する必要がないだろうと言われたという
何億もの金をもらっているからである

今小高の人は浪江は5000万多くもらっていると不満になっている
まずこの辺ではこうして補償金のことが飛び交うだけなのである
第一酪農していたらもうけることもわずかである
それで飯館村ではまでいな村として県内でも所得が最低だったのである
それがもし本当に9億円も入ったらどうなるのか?
完全にモラル的にも狂い崩壊する
そういうことがあり一時金をもてあました人がいわき市で札びらを切って歓楽街で遊んでいたから顰蹙をかった、新築の家も次々に建てたから地元の人にうらやましがられて事件も起きたのである

何か原発事故以後この辺は多額の補償金をもらいモラルも崩壊した
小高の人が仮設でフィリンピンの女性を引き入れていたとか聞いた
金があまっているからそうなったのである
飯館村では残る人と金をもらって外に出る人たちで争っている
本当かどうかわらないにしても9億円とかもらったらもう完全にモラルは麻痺する
当然補償金もらって村を捨てる、働く気もなくなるのである
それで水俣病の時も補償金をもらうことで堕落して復興もなにもできなくなったと言う人がいたがここも同じである
もうモラルが崩壊しているのである

飯館村は素朴なまでいな村だとかなっていたし実際そこの人とかかわらなくてもそこの雰囲気は何か花が高原の村に映える場所だったのである
それが原発事故以後変わり果てた、土は削りとられむき出しになり放射性廃棄物の山となってしまった、そうして荒地化したのがその心も荒地化した
ただ補償金をむさぼりくらう餓鬼のようにこの辺ではなったのである
今になると小高はそれほどもらえないとも思った
ただその人により財産により額は違っている、だからその額でまたうらやましがり争うことにもなる
一時は小高と鹿島は険悪な状態になったのである

原発はそもそも事故前からそうして金になるものとしてこの辺の人はむさぼりついた
金になればいいしかなかった、それで小高に東北電力が原発を建てるときすぐに賛成した小高の大工さんは金になるからいいといっていた
みんなそうである、金になれば食らいつき何でもいいとなっていたのである
金の亡者となっていたのである
そもそもがここだけではない今の資本主義社会はみんな金を求めてモラルが崩壊している自分が介護して病気して苦しんでいる時も狙うの金しかなかった
それで事業に失敗した人は自分を殺すのではないかとまでなり恐怖になった
金に追い詰められた人しかこなかったからである
もはや他人は人ではない、金でしかないのである。
こいつからいくら金がとれる,金にならないなら関係ないとなる
どうしてそうなるのか?その欲が深いし限りないからである
見栄えもある、俺は成功者だと吹聴していたからである
そして借金してまで豪華の家を建てる人も普通にいたのである
そうなっているから金のためになんでもすると事故前からこの辺ではなっていたし世界的にもそうである、金がすべての世界になっていたのである

いづれにしろ飯館村でもモラルは崩壊した、までいな村とかの村作りどころではない
9億円もらったらそんなものふっとんでしまう、豪勢な浪費家になるのか?
何になるのか?その金で何かもめてくる事件も起きるのかとなる
ただ双葉の人がなぜ強盗までしたのか?
その理由が金がないからだとしたら全く解せないことである
ただ鹿島区にはとにかく外部から入ってきている人が多くなった
それだけは確かでありそこで事件が起きることもある
その外部といっても今は工事関係者ではない、双葉とか大熊とか浪江とかでも入ってきているからである、そこで地元の人と軋轢が生じることもあるかもしれない
ただそういう話はここでは聞いていない
小高の人が仮設に入っていたときは人が多いし補償金を鹿島の人はもらえなかったのであもめていたのである。

その人たちは毎日パチンコでありギャンブルであり遊びほうけていたからである
ただ最近鹿島でも高速は無料になったとかはある
小高、原町、鹿島と南相馬市は合併しても補償金で分断されたのである
ただ補償金でも浪江でも飯館村でも小高でもその内部でも財産に差があり補償金に差がある、酪農家とか事業している人は法外な補償金になっていることは確かである
船主もそうである、だからそういう人は豪勢な家を建てたのである。

いづれにろこの辺は補償金がいくだとかしか話題がなくなった
みんな血眼になって補償気金をもらうとするだけである
その額が大きすぎたこともありそうなったのである
その差もあるからまたそこで内部的もに分裂しているのである
だから人間は金は必要でもそうして法外な金が入ることは危険になる
常識とか平常心とかモラルがなくなる、金にもの言わせるような人も出で来る
その人たち飯館村だったら牛を飼い貧乏だか山で山菜をとり素朴な生活をしていたのである、自分はかかわらないにしてもそういう村だからこそ癒しがあった
こうなるともう癒しもなにもない、ただ光景としても殺伐であり人心も殺伐としたものとなった、までいな村などもうない、ただ補償金をむさぼりくらう人たちしかいないとなってしまった、いくら立派な学校を建てても大人たちの人心は荒廃してしまったのである
そういう場所には花が映えるだろうか?それが残念でしかたがないとなる
それが飯館村の人の責任ではないにしろそうなった事実があり悲しいとなる
posted by 老鶯 at 13:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年08月14日

故郷の失われた風景(実りと松と漁の船)


故郷の失われた風景(実りと松と漁の船)

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故郷は実りと松と漁の船

釣り人や松原の影涼しかな


故郷の原風景がこれだった、松原があり実りがあり海を見れば漁に出る漁船が見えた
これも実際は今になると失われていた
漁の船といっても東電の原発ができてからは漁師は多額の補償金で暮らしていたことがわかったからである
漁業も農業と同じだった、金にならないとか後継者がいないとかなり東電に漁業権を売り渡して生活していたのである

ただこの故郷の原風景は津波と原発事故前は変わりなかった
それが松原は根こそぎ流されて一本も残っていない
風力発電の風車がまわり津波のために土盛りして高くされた
この風景は何なのだろうとなる、それは火力発電者ができたときもそうだった
でもまだこの原風景は残っていた、今はない

右田の松原は江戸時代からの物であり松が古く太いのが多かったからいい松原だったのである、松川浦の松原は新しく細いからいいものではなかった
だからあの松原がなくなったことはショックだった
ともかくあまりにもこの辺は変化が激しかった
これほどの変化があるとはイメージもできなかった

ただ今やその風景は記憶にのみあるだけである
でも津波の後に原発事故の後に生まれた人はもうそこに松原があったこともわからない
つまり原風景として記憶に残っているのはその松原と親しく接していた人なのである。
夏だといつも自分は松原の影で休んでいた、海からの風が涼しかった
釣りの人もいた、釣りの人は今でも来ている
でも松原はなくなった

秋になると実りがあり松を見ていた、松は何か日本人に最も親しい木であり人のように見えるのである
松は質実なものとして人間の友のようにある木なのである
ただ日本の原風景は戦後の高度成長とかから白砂松原の風景は失われていた
コンクリートの防波堤になり失われていた
でも一応松原の風景はあった、それも喪失したのである、そして二度ともどってこないのである。

時代劇をいつも見ているのはそこになごみがある、その風景になにか落ち着き心もとけいるとかなる,それは江戸時代辺りは日本の原風景の中にまだ生活していたからである。
ビルもないし車もないし人々は貧しくても自然と調和して生きていたからである
ただつくづく時代は変わる、そしてその時代をもう生きることは経験することはできないその時代に生きたということはもう再現はできない、同じ経験はできない
だから過去をイメージするとき何か必ず間違ったものになる
それは過去はイメージの想像の世界になってしまっているからである
もう現実にありえない世界となっているからである。
タグ:松原 実り

雲の峰(今日は雷が鳴った)


雲の峰(今日は雷が鳴った)

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玄関に配達の人雲の峰

新築の家の多しや雲の峰

雲の峰高空に飛ぶ夕燕

雲の峰に光放ちて陽は没りぬ

見回せばまた新たに雲の峰

雲の峰崩れてはたつ見回せば

雲の峰50羽ほどの鷺帰る

雷鳴りて四方にひびき夕燕 

隆盛夏雲
生々流動
変幻自在
飛廻燕哉

夏の雲次々に変化する、今日は夕立ちがあり雷が鳴った、一雨ふって終わった
毎日近間をぐるぐる自転車で走っている
同じ場所だが自然には変化がある

鷺の巣が川岸の竹藪にあり50羽ほどが集まる、夕方になると次々に帰ってくる
この辺では一時鷺はいなくなったり減ったがまた増えた
田ん゛が増えたためである、それでも田んぼは前より少ない
ただ50羽ほど鷺がいることはなんらか餌がありここに生きられるためだろう。

写真をとるにしても意外と自然の変化が速いので対応できない
いい景色は瞬間的であり瞬間を逃すと二度ととれない
夏の雲それだけ変化が激しい、今日は今年初めて夏に雷が鳴ったのも不思議である
まだまだ夏はつづくのだろう、暑いしぐったりして疲れる
でも夏らしい夏となり夏を十分に味わおう、それでこそ実りの秋になる
もうすでにお盆なのだから秋にもなっている、でもまだまだ夏なのだろう








タグ:雲の峰