生活形態や地理が異文化交流の障壁となる
(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)
異文化交流というとき何が大きな障害となっているのか?
言葉が一番障害になっていることがわかる、でも言葉の前に何が異文化交流となるとき障害になるのか?
外国人になると何が障害になるのか?それは地理とか天候がわからないということであるそれは別に日本でもそうである、山に囲まれた盆地に住んでいる人も日本では多い
そこでは太陽が山から昇り山に沈むのである
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 (枕草子)
春の夜は 東山よりくると云ふ 寺寺靄(もや)し月のぼるとき
【作者】與謝野晶子
枕草子では東山から昇る太陽を見る、それが山だからこそ見える風景である
この辺では海から太陽が昇るからこの感覚がわからないのである
与謝野晶子の歌は山から月が昇る風景である、こういう光景は海側に面している人たちは見ることができないのである。
ここで文化というときその土地から培われて育まれ養われる、だからその土地の地理を知らなければその土地の人でも理解できないとなるのだ
日本だとなんとかイメージできるが外国となると山が全然ない平坦の土地がつづき大きな河が流れてそこは運河のようになり船が行き来している
その風景も日本ではなじみがない、そこに異文化交流のむずかしさがある
ここに住んでいるネパ―ルの人は4000メートルの所に生まれ育った
これもどういう暮らしをしていたのかイメージできなくなる
それはあまりにも異質だとなるからだ、言葉の前にそんなところに人間が住めるのかという疑問になるからだ
まず今なら都会に住んでいる人は同じような生活をしている、だから特別なものではない都会の人同士だったらかえって外国人でも同じであり理解しやすい、とまどうこともないでもネパ―ルとかモンゴルの平原で生活している遊牧民とかなると理解しがたくなるのである。その生活がイメージできないからである
東南アジアとか中国でも稲作しているとかえって生活が共通しているから理解しやすいのである、田んぼがあって米を食べているとなるからだ
でも二毛作とかであり隣で稲刈りして隣で田植えしている風景には日本になかった
だから言葉とか外国人という前に意思疎通できない、理解しあえないのとむしろその生活形態が違うときなのである。
それで遊牧民と中国の農耕民は理解しがたいものとなり万里長城ができたのである
遊牧民は食べるものがなくなるとき農耕民の中国に押し入り奪ったからである
なぜそうするのか?それは遊牧民にとっては生きる死ぬかになるから食料を確保するために侵入する、それを止めるために万里長城ができたのである
例えば日本でもなぜ蝦夷との戦争となったのか?蝦夷とは何者なのか?
それはアイヌのように狩猟漁労採集民族であり稲作民族でないから対立した
人種的対立でもなかった、人種よりそうした生活形態の相違が意思疎通できないものにする
斉明天皇5年の遣唐使に、道奥の蝦夷男女2人を連れて行かせ、唐の皇帝に会わせることになり、皇帝高宗との謁見は洛陽でなされました。皇帝は蝦夷を見ながら、遣唐使に尋ねました。以下は、遣唐使に随行した外交官的官人である伊吉博徳(いきのはかとこ)の文書によるもので、かなり信頼性が高いと思われます。
「これらの蝦夷の国は、どのあたりにあるのか」と皇帝は尋ね、遣唐使は「国の東北のあたりです」と答えました。
皇帝「蝦夷はどれぐらいの種族からなっているのか」
遣唐使「3つの種族からなります。ここには熟蝦夷(にぎえみし)がまいりました。毎年、朝廷に貢物をもってまいります」
皇帝「その国に五穀が実るのか」
遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております」
皇帝「これらの者が住む家があるのか」
遣唐使「ございません。山深いところで、樹木の下で住まいしております」
皇帝「その国に五穀が実るのか」
遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております
中国人は羊を追う遊牧民に悩まされていた、そこでこの問答が生まれた
五穀が実るのかということは稲作民族なのかどうかということである
それはなく獣の肉を食べて生活していますということで納得したのである
生活形態を知ることの方が異民族を理解する手段なのである
今でもマタギ言葉にアイヌ語が残っているというとき蝦夷とはアイヌと同じ生活形態をしていた人たちだったとなる、稲作民族の相違がそれだけ大きかったから対立したのである言葉が違うから対立したのではない、生活形態が違うから対立したのである
熟蝦夷(にぎえみし)とは
邪馬台国のころには、アイヌ系のエミシ(クマ祭りをする)、縄文系エミシ(狩猟採集の倭人)、弥生系エミシ(農耕の倭人)、海沿いの海人系エミシ、そして少し後には戦乱をさけ日本海を越えてきた大陸系エミシなどの人々が住んでいたと考えられます
蝦夷には朝鮮系統の伽耶族とかも混じっていたしいろいろな人種がいたがその人種で分けるのではなくその生活形態で分けていたのである。
だからアイヌ語が一部残っていたとしても蝦夷語があったとしても一つではなかった
だから蝦夷語は解明できないのである
熟蝦夷(にぎえみし)とは農耕化した稲作を覚えた人たちで大和王権にまつろう人たちとなったがまつろわぬ人たちは依然として稲作になじまずに狩猟をつづけていた人たちでありそれがマタギとして今にも残りそこにアイヌ語が残っていたともなる
いづれにしろ異文化コミ二ケーションとなると言葉の障壁もあるがまずこうして地理とか生活形態が違うと理解するのが極めて困難になるのだ
それで対立して争いになり戦争になるのである。
例えば今でも漁師と農民は違っている、漁師は農民のことがわからないという
米を作ることに理解がないのである。
古代から海彦と山彦神話があるのはそのためなのである。その対立の方が大きいのであり言葉で対立するというわけでもないのである。
つまりこうした地理とが生活形態が違うと理解ができなくなる
天候でもそうである、日本の文化を俳句でも日本の四季を経験しない限りいくら言葉で説明してもできない、なぜならその感覚は風土によって養われたものだからである。
それが大きな障壁となって異文化コミ二ケーションはむずかしいのである
例えば封建制があるのはヨ−ロッパと日本だけである、それでヨ−ロッパにも城がやたらと多い、日本でもそうである、そこに歴史的共通性があるから理解しあえるともなる
でもそういう歴史がなっかたら外国は理解するのがむずかしくなるのだ
それでマヤ文明などはジャングルに謎として埋もれてしまっていた
そこに歴史として共通なものを探るのがむずかしいから孤立した文明となり理解しがたいものなとる、日本はヨ−ロッパと離れていても共通した歴史があったということでそこから理解するとなる
いづれにしろ異文化でも外国を理解することはむずかしい、中国は広すぎて地理からして理解しにくい、モンゴルのような大平原に住んでいる人もネパ―ルのような4000メートルの所に住んでいる人も理解しにくいのである
そこでの地理的感覚とか気候でもイメージできなくなるからだ
モンゴルに住んでいた人は冬は寒く一回りやせるというときそれだけ過酷だとなる
まず暖房自体が粗末なものであり冬は厳しいとなる
ただその生活も日本の文明的生活からイメージできなくなるのだ
だから都会で便利な生活している人は理解しやすい、今は都会だと同じような暮らしをしているからである、電気を使わない人もいないし車にも乗っているからである
でも全く未開の地から都会に来たからその変化にとまどい理解できなとなるのである。
今はグロ−バル化しているからそういうことはない、ドルがどんな奥地でも価値あるものとして認識している、それだけでもグロ−バル化しているから金の重要さを知っている
金で買えるということそして別な世界の暮らしをしるからヨ−ロッパのようにアメリカでも移民問題が生まれる、気軽に越境できるからである
観光は楽しむものだ。旅行者が楽しみ、また受け入れる側も楽しむことが基本だ。なぜなら観光は、産業である前に交流だからである。
交流は楽しくなければならない。楽しんだ結果、経済もまた潤うことになるかもしれないが、基本はあくまで楽しむことにある。
観光とはいろいろあるがもともとは異文化と異人種との交流という側面があった
異質なものにふれて見聞を広め視野を広げることである
観光で利益優先にするのではなく異文化交流を楽しむということにある
ただそうなると小学校の先生のように野馬追いを見に来たフランス人のようにやはり知的興味のある文化人とかだとそうなるが一般人はそういうことはない
でも今は日本に興味をもって外国人がおしよせてくるのである
それでも東京に来てもそれほどめずらしいものがあるとかなると都会に住んでいればたいして変わりないのである。
今までは海外旅行となると学者だとか特別な人しかしていなのである。
今は大衆化したからそんなことに関係なく外国に人は行くのである
観光で交流としても何を交流するのが問題になる
何か目的をもって交流するとなる観光ではないだろう
技術を学ぶとかなるだろう、農作技術もあるからだ、お伊勢参りでは種を仕入れていたことでもわかる、なかなか遠くに行けないからそこで種を仕入れていたのである。
そういう交流は観光とも違うのである、ただ文化交流となれば付随いしていろいろなものがある 観光というときそうしした実利を得るものではなくその国の光を見るとなっている、交流を楽しむというとき何を交流するのかが問題になるのである。