2018年08月01日

生活形態や地理が異文化交流の障壁となる (蝦夷は狩猟民族だったから対立した)


生活形態や地理が異文化交流の障壁となる

(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)

異文化交流というとき何が大きな障害となっているのか?
言葉が一番障害になっていることがわかる、でも言葉の前に何が異文化交流となるとき障害になるのか?
外国人になると何が障害になるのか?それは地理とか天候がわからないということであるそれは別に日本でもそうである、山に囲まれた盆地に住んでいる人も日本では多い
そこでは太陽が山から昇り山に沈むのである 

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 (枕草子

春の夜は 東山よりくると云ふ 寺寺靄(もや)し月のぼるとき
【作者】與謝野晶子

枕草子では東山から昇る太陽を見る、それが山だからこそ見える風景である
この辺では海から太陽が昇るからこの感覚がわからないのである

与謝野晶子の歌は山から月が昇る風景である、こういう光景は海側に面している人たちは見ることができないのである。

ここで文化というときその土地から培われて育まれ養われる、だからその土地の地理を知らなければその土地の人でも理解できないとなるのだ
日本だとなんとかイメージできるが外国となると山が全然ない平坦の土地がつづき大きな河が流れてそこは運河のようになり船が行き来している
その風景も日本ではなじみがない、そこに異文化交流のむずかしさがある

ここに住んでいるネパ―ルの人は4000メートルの所に生まれ育った
これもどういう暮らしをしていたのかイメージできなくなる
それはあまりにも異質だとなるからだ、言葉の前にそんなところに人間が住めるのかという疑問になるからだ
まず今なら都会に住んでいる人は同じような生活をしている、だから特別なものではない都会の人同士だったらかえって外国人でも同じであり理解しやすい、とまどうこともないでもネパ―ルとかモンゴルの平原で生活している遊牧民とかなると理解しがたくなるのである。その生活がイメージできないからである
東南アジアとか中国でも稲作しているとかえって生活が共通しているから理解しやすいのである、田んぼがあって米を食べているとなるからだ
でも二毛作とかであり隣で稲刈りして隣で田植えしている風景には日本になかった

だから言葉とか外国人という前に意思疎通できない、理解しあえないのとむしろその生活形態が違うときなのである。
それで遊牧民と中国の農耕民は理解しがたいものとなり万里長城ができたのである
遊牧民は食べるものがなくなるとき農耕民の中国に押し入り奪ったからである
なぜそうするのか?それは遊牧民にとっては生きる死ぬかになるから食料を確保するために侵入する、それを止めるために万里長城ができたのである

例えば日本でもなぜ蝦夷との戦争となったのか?蝦夷とは何者なのか?
それはアイヌのように狩猟漁労採集民族であり稲作民族でないから対立した
人種的対立でもなかった、人種よりそうした生活形態の相違が意思疎通できないものにする

斉明天皇5年の遣唐使に、道奥の蝦夷男女2人を連れて行かせ、唐の皇帝に会わせることになり、皇帝高宗との謁見は洛陽でなされました。皇帝は蝦夷を見ながら、遣唐使に尋ねました。以下は、遣唐使に随行した外交官的官人である伊吉博徳(いきのはかとこ)の文書によるもので、かなり信頼性が高いと思われます。

 「これらの蝦夷の国は、どのあたりにあるのか」と皇帝は尋ね、遣唐使は「国の東北のあたりです」と答えました。

 皇帝「蝦夷はどれぐらいの種族からなっているのか」

 遣唐使「3つの種族からなります。ここには熟蝦夷(にぎえみし)がまいりました。毎年、朝廷に貢物をもってまいります」

 皇帝「その国に五穀が実るのか」

 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております」

 皇帝「これらの者が住む家があるのか」

 遣唐使「ございません。山深いところで、樹木の下で住まいしております」
 

 皇帝「その国に五穀が実るのか」

 遣唐使「ございません。獣の肉を食べて生活しております

中国人は羊を追う遊牧民に悩まされていた、そこでこの問答が生まれた
五穀が実るのかということは稲作民族なのかどうかということである
それはなく獣の肉を食べて生活していますということで納得したのである
生活形態を知ることの方が異民族を理解する手段なのである
今でもマタギ言葉にアイヌ語が残っているというとき蝦夷とはアイヌと同じ生活形態をしていた人たちだったとなる、稲作民族の相違がそれだけ大きかったから対立したのである言葉が違うから対立したのではない、生活形態が違うから対立したのである

熟蝦夷(にぎえみし)とは

邪馬台国のころには、アイヌ系のエミシ(クマ祭りをする)、縄文系エミシ(狩猟採集の倭人)、弥生系エミシ(農耕の倭人)、海沿いの海人系エミシ、そして少し後には戦乱をさけ日本海を越えてきた大陸系エミシなどの人々が住んでいたと考えられます

蝦夷には朝鮮系統の伽耶族とかも混じっていたしいろいろな人種がいたがその人種で分けるのではなくその生活形態で分けていたのである。
だからアイヌ語が一部残っていたとしても蝦夷語があったとしても一つではなかった
だから蝦夷語は解明できないのである
熟蝦夷(にぎえみし)とは農耕化した稲作を覚えた人たちで大和王権にまつろう人たちとなったがまつろわぬ人たちは依然として稲作になじまずに狩猟をつづけていた人たちでありそれがマタギとして今にも残りそこにアイヌ語が残っていたともなる

いづれにしろ異文化コミ二ケーションとなると言葉の障壁もあるがまずこうして地理とか生活形態が違うと理解するのが極めて困難になるのだ
それで対立して争いになり戦争になるのである。
例えば今でも漁師と農民は違っている、漁師は農民のことがわからないという
米を作ることに理解がないのである。
古代から海彦と山彦神話があるのはそのためなのである。その対立の方が大きいのであり言葉で対立するというわけでもないのである。
つまりこうした地理とが生活形態が違うと理解ができなくなる
天候でもそうである、日本の文化を俳句でも日本の四季を経験しない限りいくら言葉で説明してもできない、なぜならその感覚は風土によって養われたものだからである。
それが大きな障壁となって異文化コミ二ケーションはむずかしいのである

例えば封建制があるのはヨ−ロッパと日本だけである、それでヨ−ロッパにも城がやたらと多い、日本でもそうである、そこに歴史的共通性があるから理解しあえるともなる
でもそういう歴史がなっかたら外国は理解するのがむずかしくなるのだ
それでマヤ文明などはジャングルに謎として埋もれてしまっていた
そこに歴史として共通なものを探るのがむずかしいから孤立した文明となり理解しがたいものなとる、日本はヨ−ロッパと離れていても共通した歴史があったということでそこから理解するとなる
いづれにしろ異文化でも外国を理解することはむずかしい、中国は広すぎて地理からして理解しにくい、モンゴルのような大平原に住んでいる人もネパ―ルのような4000メートルの所に住んでいる人も理解しにくいのである

そこでの地理的感覚とか気候でもイメージできなくなるからだ
モンゴルに住んでいた人は冬は寒く一回りやせるというときそれだけ過酷だとなる
まず暖房自体が粗末なものであり冬は厳しいとなる
ただその生活も日本の文明的生活からイメージできなくなるのだ
だから都会で便利な生活している人は理解しやすい、今は都会だと同じような暮らしをしているからである、電気を使わない人もいないし車にも乗っているからである
でも全く未開の地から都会に来たからその変化にとまどい理解できなとなるのである。
今はグロ−バル化しているからそういうことはない、ドルがどんな奥地でも価値あるものとして認識している、それだけでもグロ−バル化しているから金の重要さを知っている
金で買えるということそして別な世界の暮らしをしるからヨ−ロッパのようにアメリカでも移民問題が生まれる、気軽に越境できるからである

観光は楽しむものだ。旅行者が楽しみ、また受け入れる側も楽しむことが基本だ。なぜなら観光は、産業である前に交流だからである。
交流は楽しくなければならない。楽しんだ結果、経済もまた潤うことになるかもしれないが、基本はあくまで楽しむことにある。

  
観光とはいろいろあるがもともとは異文化と異人種との交流という側面があった
異質なものにふれて見聞を広め視野を広げることである
観光で利益優先にするのではなく異文化交流を楽しむということにある
ただそうなると小学校の先生のように野馬追いを見に来たフランス人のようにやはり知的興味のある文化人とかだとそうなるが一般人はそういうことはない
でも今は日本に興味をもって外国人がおしよせてくるのである 
それでも東京に来てもそれほどめずらしいものがあるとかなると都会に住んでいればたいして変わりないのである。

今までは海外旅行となると学者だとか特別な人しかしていなのである。
今は大衆化したからそんなことに関係なく外国に人は行くのである
観光で交流としても何を交流するのが問題になる
何か目的をもって交流するとなる観光ではないだろう
技術を学ぶとかなるだろう、農作技術もあるからだ、お伊勢参りでは種を仕入れていたことでもわかる、なかなか遠くに行けないからそこで種を仕入れていたのである。
そういう交流は観光とも違うのである、ただ文化交流となれば付随いしていろいろなものがある 観光というときそうしした実利を得るものではなくその国の光を見るとなっている、交流を楽しむというとき何を交流するのかが問題になるのである。




2018年08月02日

Aabstract Architecture


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日本語と英語の相違の背景を見る (狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)


日本語と英語の相違の背景を見る

(狩猟牧畜民とアジア的農耕民の相違がある)

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言葉の背景にはまず人間の生活があり生まれる、はじめに言葉ありきではない、はじめに生活ありきで人間は始まっている
その生活の相違が文明と文化の大きな相違を産む、それがどうししても相いれないものとなり対立する、それを象徴していたのが遊牧民のモンゴルと農耕民の中国だった
それで万里長城が作られたのである

農耕民からすると狩猟とか牧畜民族は遊牧民はそもそも定住しないで羊を追って生活しているから理解しにくい,ただ日本人でも縄文人とかは狩猟民族だったのである
それでアイヌ語にhaveと同じような使い方があるというのも不思議なのである。
そこに狩猟民として印欧語との共通性があるとなるがこれは簡単には解明できない
アイヌ語はあまりにも未熟な言葉だからである、極端に語彙が少ないからだ

ただ縄文人が狩猟民であるとしたらかえって印欧語族の人たちと生活形態が同じだから通じ合うともなる、それは言葉の前に同じような生活をしていたからそうなる
言葉にもいろいろあるが例えばstraightという言葉は日本語にはない
それは砂漠とか平原とかに合う言葉でありそういう風土から生まれたものである
どこまでも平坦な土地にstraightに道が伸びているとかなる
straightに天に達するとかなる、日本は常に山であり山で遮られるからそういう感覚がない
それを訳すとなおる、直るという言葉である、直るとは修復するとか曲がったものが直るという意味になる、これはストレートとは違った意味である
直るとは立つではなく座る意味だからである。
万葉集にもある「真直なる」まなおなるとは日本人の自然と融合した文化から生まれた
それはストレートとは違ったものである、だから訳しにくいのは世界観が違うから訳せないとなるのだ

語順もまたその国の自然観とか文化とか関係して生まれている、ともかく英語などの印欧語は平原とか砂漠とかで暮らしている人から生まれたのである。
そこで狩猟するとか遊牧するとかしていてその言葉が生まれた
だからイメージできるのは平坦な土地に動くもの、動物が現れるとするとまずその動くものに注目する、そして動くものを捕らえたり追ったりするのだから主語の次に動詞がくる動詞が主語の次に来るのはそれは動くものに即座に反応するためである
もし豹でも迫って来たら即座に行動しないと殺されてしまうからである
素早い反応するということは動詞になるのである

アジアは植物的世界観の上に言葉も成り立っている、そこで最初に見えるのは森とか山であり動物がいたとしても森とか山が迫るからその後に動くものを見る
そして主語が日本語で省かれるのは主語が日本では山とか森になるからである
自然が主体であり自然に主語なる人間は消える、溶け込むからそうなる
だから語順はそうした生活から生み出されたのである
誰かが勝手に作り出したものではないのである。
つまり狩猟や遊牧民の人たちはそういう言葉を使っている必要があったからそうなったのである

言葉にもいろいろあるが日本語と同じような語順をとるのが40パ―セントくらいあるとき半々になる、それは東西の自然と文化の相違からそうなった
東西の文明文化の相違は言葉となれば印欧語族とアジア系統の言葉である
それは自然の相違でそうなったのである。仏教でも草木も成仏するとの思想もアジアの思想なのである、印欧語族だとヨ−ロッパとかになるとそうはならないからだ

文明とか文化をみるとき平原とか砂漠は幾何学的発想が生まれる、なぜならストレ―トがまっすくだというときそれは幾何学的てもの図形的思想が生まれやすい
だから砂漠の平坦な土地のエジプトにピラミッドが生まれともなる
日本のようなアジアで熱帯のような鬱蒼とした森からはそうした図形的立体的幾何学的感覚になりにくいのである。
つまり森とか山にさえぎられてそうした思考が起こりにくいのである

ただなぜ中国は主語の後に動詞が来るのか?中国は最初の始皇帝の国家が西から来た遊牧民によって騎馬民族によって作られたことでわかるように平原地帯の人々が入ってきて作られた国家という側面があった、ただそれが主語の後に動詞が来るのかという説明があたっているかどうかはわからない、でも語順が大事だというとき中国はアジアとは異質だともなる、中国は農耕民であったが遊牧民と商業民族の血が濃くまじっているのである
方向を示す北斗七星や北極星信仰があるのもそうである、それは遊牧民から伝わったのもである
それで野馬追い知られる相馬氏の信仰が妙見信仰になっている、それは北斗七星と北極星の信仰なのである。それは中国から入り韓国経由で伝えられたのである。

haveというときなぜこれほどの多様な意味があるのか?
haveには羊を持つとあれば羊を育て養うという意味がある
それは遊牧民の生活から生まれたのである。
日本語だったらそういうことがありえないからである。
このhaveはとても言語学では理解できない、その生活形態を知る時理解できるものだからである、つまり言葉だけでは異なった文明文化を理解できないのである
haveには日本語にすれば養う、培う、育てる、・・・とかの意味があり日本ではそれは米とか野菜をとかを育てるとか培うとなるが英語では羊を養う、育てる、飼うとなるのである。培う(つちかう)は土が関係しているが英語では羊を育てるとなる
羊文化、牧畜文化がヨ−ロッパ全体にも広がっている、羊はヨ−ロッパのどこでも飼われている
それはやはり平坦な地が多いとかなり地理的特性が平原地帯とにているからである。
日本だと山ばかりだから平坦な地が少ないから牧畜に向いていなかったのである。
日本は海に囲まれているから海の幸にめぐまれて生活したとなるからだ 


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生活形態や地理が異文化交流の障壁となる 
(蝦夷は狩猟民族だったから対立した)





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2018年08月03日

階級社会と格差社会の相違 (社会をいかに構成するのか?)


階級社会と格差社会の相違

(社会をいかに構成するのか?)

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階級社会とは歴史を見れば常にあった、それは歴史的に経験済みでありヨ−ロッパなどでは継続している、貴族と労働者は英語でも違った使い方をする
英語といってもいろいろある、クイーンズイングリッシュとアメリカの英語は違うというときそうなのである、同じ英語でも違うのである
歴史的伝統的に作られてきたものがありその中で言葉も洗練されて使われる
アメリカ英語が平民的だというとき平等の言葉だというとき王様もいないし貴族もいないからである、そういう歴史もない国では平民的な対等な言葉になる
上の人にへつらう言葉は生まれない、敬語もあってもないとなる

京言葉があんなにやんわりしているのは上の人にへつらうご機嫌をとるためだだんという東北弁になるとぶっきらぼうになる、おめえとか・・・だべえとか敬語を使わないのである。人との関係でもそうなっていたのである
確かに侍という支配階級が生まれて侍言葉が生まれた、平和な江戸時代に階級が作られたからである。
階級社会というとき不平等な社会であり理不尽な社会だと今ならみるがその時代にはその時代の生き方がありそれに適合するからすべてが悪いとはならないのである。
階級社会があって身分制があって社会のモラルとか秩序が形成されていたからである。
日本だと侍で贅沢していたのは極一部でありその他の侍は他の身分の人ととさして変わらなかったのである。極端な格差はなかったのである。

今になると時代劇でもどうして身分の上の人に奴隷のように忠勤する人がいたのか?
時代劇では仕える家と一体化して犠牲になる人すらいた
それは家族のようになっていたのである。でも身分社会で今なら差別されていたとかなる経済的にそう強いられていたのだとかなる
でもその時代にはその時代のモラルがありそれで社会が成り立っていた
だから階級社会の負の面をみればもう暗黒社会だとなるのである。

不思議なのは戦前とかはまだ新しい時代である、その時なぜ女中がいて家で働いていたのか?それも特別金持ちではなくても中流階級でも二人も女中を雇っていたという
自分の母親も東京で女中していた、その頃女性の働く場所が女中とか紡績工場しかなかった、絹織物を生産してアメリカに売り外貨を稼いでいたのである。
紡績は富国強兵の政府の政策で奨励されていたのである。
それで母が言うには紡績工場で働いていても現金をもらったから良かったと言っていた
それは女性が働いて現金になる場が限られていたからである。

そしてなぜ女中という仕事がそれほど求められていたのか?
家事には大きな労力が必要でありそのために人力でするほかないからそうなった
電化製品がゼロというとき洗濯板でごしごし洗っていたらその労働は並大抵のものではないからだ、それは世界で共通していてあのパリのセーヌ川で女性たちが洗濯していたことでもわかる、世界的には洗濯は川でしていたのである。
自分の家では裏に堀があってその流れる水で洗濯していたのである
ご飯をたくのにも竈の時があり手間がかかりすぎていた、ボタン一つで米はたけないのである。すると家事の労働を頼まないと仕事もできないということになっていた

自分も介護から家事労働をしているが電化されていても労力がいる、手間がかかる
だから料理はしていない、買うだけである、最近オカズを得るために生協に入った
簡単にオカズになるものを用意しておくと便利なのである
冷凍とか冷蔵であり長持ちするから一人暮らしには便利なのである。
一人暮らしだと使わないで腐らすものなどが多くなるからだ
戦前辺りだと人間の労働は女性ならほとんど家事に費やされていたのである。
それも妻一人ではできないから女中を頼んでなんとか家を維持していたのである
そういう時代は別に女中になることはさげすむことでもない
女中は女性の仕事として認められていたしそのモラルも要求されていたのである。

もし今のように女中が差別語として使われなくなったように女中という仕事はあってもお手伝いさんとかなる、職業としては家政婦とかなる
しかし女中という仕事はないのである、職業もない、女中という仕事が成り立ったのは戦前までであり後はないのである
その時代は女中は普通の家庭でも中流家庭でも雇えるものだったのである。
その時代の要請で女中がいてそれは普通のことだったのである

今はなぜ女中がいらないのか?それは家事が電化されたりオカズでも買う時代になったからである、ともかく買う種類が多いのに驚く、料理を作ることではない、何を買うかが家事なのである、家事のために便利な道具を買うことなのである。
家事も機械化されやがてはAI化されるてさらに手間が省かれる
そもそも今は誰も女中とかにならない、お手伝いさんにもならない、何か会社で掃除するとき掃除を一時間とかするときそれは会社員であり女中でもお手伝いさんでもない
その人は会社員なのである。

そして昔の女中は家政婦になるがこの家政婦は気軽に雇えるものではない、もう極一部の恵まれた社長とかしかない、給料だって相当に高くなるからもう雇えないのである
ただ家事は機械頼みだということをしてわかった
機械化してなるべく手間をはぶくことなのである。やがてAIで機械化して自動的に料理ができることなのである。それをみんな願っている
なぜなら家事の手間は今でも時間をとるからである
そして今は女性でも外で働いているから家事に時間をかけられないからである。

もともと家事をとりしきる女性は重要な役割を家でもっていた
母刀自というとき墓に刀自と記されてもいるから家事をとりしきったものとしての誇りを記していたのである。 

 真木柱(まけばしら)、ほめて造れる、殿(との)のごと、いませ母刀自(ははとじ)、面(おめ)変(か)はりせず

 大黒柱というけど女性こそ大黒柱という矜持をもっていたのである。

今は家事は女性でも第二級の低いものとして見られる、価値観は時代によって変わる
時代のモラルも変わるのである。
今はお手伝いさんでも家政婦でもなりたくない、母親が娘を医者にしたくて娘が母を殺したという事件があった、母はどうしても娘を医者にしたかったのである。
看護師にはなったがその後も医者の試験を娘は受けていたのである。
それは母が医者にしたかったからである。女性でも男性のように医者にしたいとなる
その時代の価値観の差は大きい、戦前だったら別に女中になってもはずかしいことではない、そこが働く場所として必要だったし社会が要請されていたからさげすまれるということもない、普通に働く場所だったのである。

いづれにしろ人を雇うこと働いてもらうことにはコストがかかりすぎる
ロボットだったらA地点からB地点に物を運ぶならそれだけ忠実にして文句言わないのである
人間だったらそうはいかない、怪我したときのために保険をかけたり家族がいてそれも考慮しなければならい、そして仕事はA地点からB地点に物を運ぶだけでも人間はそれだけではすまない、なにかやと要求がある、それに答える方が嫌になるのでできないのでAI化であり機械化しようとする、人間が一番効率的ではないのである。
その効率的でないことがまた人間だとなる
でも資本主義社会では効率化が要求される競争に勝たねばならい、そこでジレンマに陥るのである

人間と機械の間では情は生まれない、でも人間と人間の間では情が生まれる
その情を重んじれば効率的でとなくなるのである
そのこと故に人間でありうる、資本家とか経営者からすれば人間は大きなコストになる
だから極力省く方向になる、AIとか機械は文句を言わないからである。
機械にはプライドもないから文句は言わない、うらやましがったりもしないからである
資本主義社会を追求してゆくと非情になる、すでになっている、金だけがすべてになる
何でもあれなんの能力もないものでも何もできないものでも人格的に悪辣だなんだといっても金のある人間は資本主義社会では勝ち組なのである。

だから格差社会と階級社会が違うというとき階級社会とは何か?
それは人間の歴史で階級社会の方が長いのである。格差社会と階級社会は違う
階級社会は簡単に作れない、貴族社会は長い時間の中で作られてきたからである。
その階級を否定するとしても貴族社会には階級社会にはそれなりの価値観とモラルがあり社会を維持してきた、江戸時代がそうである
それがすべて悪いものだった、格差社会であり奴隷社会だったともみる
でも江戸時代全体を見たとき階級社会でも庶民は外人が明治に日本に来たとき幸福そうな顔をしていたというとき今見るものとは違っていたのである。

階級社会より格差社会が悪いというとき階級社会は江戸時代のように侍が支配して身分社会だった、その人たちは階級として共同体を形成してモラルを形成した、武士道でもそうである、そして責任が重かったから責任をとるとき切腹したのである
そういうことを庶民は見ているから侍にはなりたくないと言っていたのである。
今ならそういう責任がないから庶民から見て金持ちはただ楽しているだけだと見るから
階級社会ではなく格差社会なのである。
格差社会はただ収入の金があるかないかだけで判断している社会である
階級社会はヨ−ロッパでも長い歴史の中で生まれたものであり日本の侍でもそうである
今は格差社会であり階級社会ではない、階級社会は簡単に作れない、長い時間の中でしか歴史のなかでしか作れないからである
格差社会より階級社会の方がいいというときその階級社会は歴史の中で長い時間の中で作られたものだから作りようがないのである。江戸時代でも300年ありヨ−ロッパだってそうである

階級社会というとき侍を庶民は認めていた,それは金があるからでなはい、経済的に豊かだからではない、社会の中で重い責任を果たすものとして見ていた
だからこそ侍として庶民は認めて従っていたのである。
今は金持ちを誰も認めていない、あいつらむしろ不正しているからあこぎなやつだから金に汚い奴らだから金持ちになっている
そういうやつは許してはならない、資産でももっと税金をかけるべきだ
むしろ金を奪うべきだともなっている、格差社会ではいづれそうした不満が爆発する
金持ちをそもそも認めていないのだから金持ちは暴動が起こり襲われる
格差社会はこうして深刻な対立を生み国は分断されるのである。
格差社会は金持ちにとっても危険なのであり常におびえていなければならない社会である枕を高くして寝ていられない社会なのである。
そういう社会では金持ちもいいものではないとなる


posted by 老鶯 at 09:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

八戸から来たおばさん (跨線橋(こせんきょう)を渡るのが老人には辛い)


八戸から来たおばさん

(跨線橋(こせんきょう)を渡るのが老人には辛い)

八戸から来たおばさんがいた、その人は鹿島区の出身で前の中学校に通っていたという
そういうふうにここ出身で鉄道で来る人に良くあう
そういう人はたいがい福島市でもそうだが距離があるから鉄道を利用する
八戸までは新幹線で一時間二〇分というときここから仙台に行くより近い
だから距離感覚ではなく時間感覚になると近いとなる

そのおばさんが言っていたのは跨線橋をわたるのが荷物をもっているとき大変なので今までは若い人がおりるとき頼んでいた
この前は誰もいなかったので苦しかった、それで今回は荷物をあらかじめ宅急便で送ったという
スーツケースを階段をひきあげるのは大変だなと見ていた
重いから階段はきついのである
それが田舎駅の不便な所である
田舎駅だけではない、相馬市にはエレベーターがないのも意外だった
相馬市は4万くらい人口があるのにエレベーターがない、原町駅にはある
ここより乗り降りがない新地駅は津波で流されたのでエレベーターがついたのである。
駅のなかもエアコンがついた、でもュツは海から風が吹いてくるからこの辺は涼しいのである

駅が意外と気づかないのがホームが二つあり反対側に行くとき不便だし外から来た人は
その行く先がわからずにホームがどっちなのかわからない、表示するように頼んだらJRでは二か所したがそれでも気づかない人がいて聞かれるのである
ただ仙台行きは待合室からすぐに外に出れるから便利なのである。

駅というのは意外と利用しにくいものがある、駅についてもそこからの足がない、タクシーになると高くなる、これも不便なのである。
跨線橋(こせんきょう)をわたるとき荷物をもっていたりすると辛い
特に老人になると辛いのである
実際に階段から落ちて怪我した老人がいたのである
階段を上ることでも老人になると辛いとなる、階段が意外と急なこともある
高齢化社会で老人が鉄道を利用することが増えるとしてもこうした設備がないと利用しにくいのである、でもJRでは相馬市にもエレベーターを設置しないのだから作らない
そしたらローカル線はみんな赤字なのだからますます費用ばかりかかるとなる
現実に今駐輪場を新しくしている,柵を新しくする
これは市の方で作るのだが市でも金をだしているから金がかかる

JRだけではない、鉄道というのは維持するだけで手間がかかり金がかかるものなのである広島の方で鉄道が洪水で使えなくなったがその復旧にしても金がかかる
只見線でもあれだけ乗る人が少ないのだから維持するのができないとなり福島県で半分費用を負担して復旧することになった
ここで津波の被害があったとき復旧に400億円もかかった
でもそれはJRで負担して復旧した、六年もかかったのである。
その費用は新幹線でもうけているからできたのである。
ローカル線は新幹線につなぐものとして効用がある、ネットワークとして効用があるから維持しているのである。
鉄道はもともと石炭とか木材とか資材を運ぶものとしてはじまり発達した
乗客をのせるためではなかった、この辺でも戦前は乗車賃が高いから普通利用していなかったのである。主に貨物輸送として石炭とか木材とか石材とかを運ぶものとして発達したのである。
だから今でも鉄道は近隣の足ではない、中距離輸送に向いている、この辺だと仙台に行くときなどき便利なのである。近間だと車が便利であり自分でも原町に用事があるときは鉄道を利用しない、鉄道ではイオンとかにも回れないからである。

その八戸からきたおばさんは八戸ではサバとかイカとかなに魚がとれていないという、それで困っているという、水産関係の仕事が八戸では多いから魚がとれないということは困る、サンマもとれないとかも報道されている
こういうふうに生の情報を知るのが駅でもある
だから今は何もしていなくても話かけているのである
野馬追いの時はフランス人の人が来た、これは特別だった
ともかく駅は外との交流の場になっている、そういう効用もある
広場の効用もある、街の玄関口でもある、つまり遠くから来た人を最初に迎える場なのである、駅に降りてその街の第一印象をもつのである
高速のSAのセディティは人が駅より百倍とか出入りがあったとしても何かそういう機能はあまりない,通り過ぎてゆくだけで街の方には来ない
街とつながっていないのである。駅は駅前通りとあったように街とつながっていたのである。

2018年08月04日

三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い (インタ−ネットで読める一連の物語)


三春で相馬氏と伊達氏が熾烈な争い

(インタ−ネットで読める一連の物語)


伊達政宗の夫人愛姫の父田村清顕は三春城主でしたが、天正14(1586)年に亡くなりました。清顕には男子がいなかったため、相馬派と伊達派で家督を巡り争いがおきましたが、故清顕の婿である伊達政宗が調停に乗り出し、跡継ぎを清顕の甥であり伊達家の血も引く宗顕に定めました。(田村仕置) 

しかし、当主・田村宗顕が小田原北条攻めに参陣しなかった事を理由に、豊臣秀吉によって田村家は改易されてしまいます。(奥州仕置)
  このとき、田村宗顕をあえて参陣させなかったのは、他でもない政宗でした。 
 そして、結果的に田村領は伊達政宗に与えられてしまい、事実上の領地乗っ取りとなり、改易された宗顕をはじめ田村家中は 「政宗にしてやられた!」 と大いに憤慨したと記録されています。


清顕は、相馬高胤(たかたね)の娘を室として迎えます。
政略としての婚儀の意味合いもありますが、古道、岩井澤、葛尾、南津島はその時の化粧料として田村氏の領土として授けられたとされています。

この都路村は、田村領の中でも相馬領に近く、隣接の葛尾村(現双葉郡)田村領内でも治外法権的な要素を持った地域で、田村家旧臣が多数移住して開墾していたのではないかと考えられます。

 清顕には男子がおらず、後継を決める間もなく急死したため、相馬家出身の清顕夫人を中心に重臣たちの合議制がとられます。当初は、政宗に男子が誕生したならこれを田村家の後継にするという清顕の言葉に従い、何事も政宗の意向を受け、さらに伊達・相馬両家の家臣は三春城へは入れないと取り決められました。しかし、政宗夫妻の不仲が清顕夫人に伝わると、夫人は実家の相馬家に頼ろうとし、清顕夫人を中心とする相馬派と、伊達家出身で先代隆顕夫人を中心とする伊達派に家中が二分されます


 天文18年(1549)相馬顕胤の娘が三春領主田村清顕に嫁したが、天正14年(1586)清顕が男子の跡継ぎなく没した。清顕には顕胤の娘との間に娘(愛姫(めごひめ))があったが伊達政宗に嫁いでおり、田村家は断絶。田村領をめぐって伊達政宗と相馬義胤が争ったが、結果は伊達の傘下となった。三春家中で相馬側であった大越・熊耳・阿部・栗崎の諸氏は相馬の臣となった。

 田村郡大越村

第一章 大越氏 


 田村家家臣で伊達家召し抱えの田村家御家門方坂ノ上田母神玄蕃頭が天正十五年に記した「田母神氏旧記」(田村仕置き直前の田村家臣録


 母野家の墓碑の写しの一つ[故祠掌田母野坂上衛之墓]と、石に彫るための準備であったと思われる墨書[田母野坂上家之奥津城]を奥から持ってきてくれた。  
 「ウチは田村郡田母神村(現・郡山市田村町田母神)出身で、元の姓は田母野ではなく田母神だった。田母神は田村麻呂と関係があると言われている。                                     

 神社明細書]を見せてくれた。それには、(田村大元神社が)[小山田村今明王壇より移され]と記されてあった。

 その他別系の田村氏
武蔵七党に属す“西党”に田村氏がある。多摩川中域を統治していた日奉氏を祖とする地方豪族である。一族には小川氏、立川氏、中野氏、柚木氏、稲毛氏、平山氏、田口氏、西氏、由井氏、高橋氏などがおり、活躍した武将も存在する。



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この書状で寒気節とあるのは寒い時期である、でも朧月とあるのは春なのである。
春だけどまだ寒いということになる、ここでよくわからないが取籠とはとりこむということで相馬氏への味方として取り込むことをお願いした書状なのかとなる

いづれにしろ寺までまきこんで熾烈な争奪戦が三春で行われていたのである。
それは戦国時代は全国でそうだった、家督相続でももめていたらそこにつけ入られて相馬氏と伊達氏などが好機とばかり侵入してきたのである
こういう経験を介護の時したから戦国時代は弱肉強食が露骨だったのである
相手が弱ったらチャンスなのである、その弱みにつけこまれるのである。
ここは大きなドラマにもなる、小説にもなるからめご姫のことが物語となりNHKでもドラマ化したのである
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これとは別に田村氏は相馬氏と関係して田村氏関係の人が相馬氏に移り住んでいるようである
その証拠はダイユーにある(田母神)である、これはダイユーができる前に田の中にあった、その田がダイユーの建物になったがこの社は残されている
これは単純に田の神と思ったがそうではない、田母神村という村が三春にある
これの由来がインタ−ネットに出ているように坂上田村麻呂に由来しているとすると
三春関係の人が相馬氏と関係してここに移ったためだとなる
信仰も人とともに移動するからである
田村という姓を鹿島で身近に知っている、他でもあるにしてもこの三春から移住してきた
それはかなり有力な証拠である
ともかくここに引用したものを一連の物語として読むことをすすめる
小説のように面白い、一部は小説家して語っているからだ


インタ−ネットの優れている点は知識を関連付けられることである
リンクできることである、図書館ではそういう機能がない、本をいちいち取り出して読んでもわからない、郷土史でも知識が膨大だからである
そして介護とか家事に時間をとられるから図書館に6年間でも行っていない
図書館とは意外と使いにくいのである、何か調べたり物を書くときは自宅でできるのがいいのである、そのために自宅にある程度資料となるものを用意するといい
だから南相馬市博物館のテレビのチャンネルで今回放送した伊達氏と相馬氏の関係は面白かったのである。
そういう地元で番組つくりする、それはインタ−ネットでしているのである
テレビだって本当はyoutubeでもできるのである
ただ手間になるから一人で時間がかかりすぎる、でも今回引用したものを連続的に読むとすでに郷土史の物語になっていたのである


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南相馬市鹿島区の姓の考察


南相馬市鹿島区の姓の考察

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岩松氏の伝説

南相馬市鹿島区の歴史で姓がたどれるのは岩松氏からである
それは鎌倉時代にこの地に来た、その家臣が従った者が蒔田、島、中里、日里氏だった
その子孫は継続して生きている、ただ相馬氏と組んでこの家臣が一家を惨殺した
子供まで殺したのでそれが伝説となって残っている
それが500年たっても継続している
なぜなら蒔田、島、中里は姓として残り子孫も残っている
日里はいないがこれはその残虐な行為を恐れて姓を変えたのである
それが郡(こおり)となったのである。
その子孫たちは別に今も身近に生活をつづけている
ただこれが歴史というものなのか?500年とか過ぎてもそれが語られるから子孫にとっては気持ちいいものではないのである
今ではそういう人たちはそのことを語ってくれなともなる

貞治5年(1366年)桑折五郎元家は伊達郡桑折より真野郷に移り中館を居城として真野五郎と名乗った。

奥相志には、「往昔、国司源顕家の時、桑折五郎元家伊達郡桑折より来たり、江垂館に住し真野五郎と号す。その後田中塁に移り居ること七世なり。古記にいふ、江垂館は天文中古城と唱ふ。古館の跡なり。」と


南北朝に由来する者では但野氏について前に書いた、お浜下りでおつづら馬という役を担っている、それは重要な役目でありその家の歴史はそこまでさかのぼるから古いとなる
他地菊池氏などもそうなのだろう、野馬追いの旗で天皇の菊の紋を旗印にしているからだ後は山王の旗印がありこれも南北朝の時落ち延びた武士でありその子孫は玉野村で相馬市方面と鹿島に分かれて落ち延びたのである。

次にあまり目立たないが三春藩をめぐって家督相続でも問題が起きて相馬氏と伊達氏が熾烈な争いをした、三春とはもともと相馬氏は婚姻関係を結んでいて親しい仲である
その関係で相馬藩内に三春関係の姓がもたらされた、田村がそうである
田母神村が三春にありそれの基は坂上田村麻呂なのである。
田の神とは別なものでありまぎらしわいとなる
実際田村という姓は鹿島区で古く身近なのである。
鹿島区は人口一万にもみたないから姓にしても身近に感じる
極端なのは末続駅のある末続村である、そこの墓地では9割が新妻の姓だった
つまり新妻一族が住んだ村だったのである。
そういうことは小さな村だとわかりやすいのである
それが原町とかになるともともと5万くらいの人口がありいろいろな人が混じりわからなくなる、相馬市でもそうである、外部から入った人たちが多いからである
それはどこでも市の単位になると人口が多くなるからそうなる

相馬藩で注意しなければならないのは越中から富山県からさ真宗系統の人たちが大量に移住したことである、その理由はさておき相馬藩で飢饉になり天明から移住した
その数が多いのである、相馬藩では三分の一が欠落したが真宗系統の移民によって穴埋めされたのである。
だからその系統の姓が多いのである、墓の三分の一は真宗系統だとなるから多い
五賀は僧であるが南相馬市内に80人もいるのである、これは越中富山県からの移住なのである、他にも中田とか大岩でもそうであり相馬藩内で身近にそういう姓の人が今も住んでいる、だから相馬藩の特徴はともかくこの越中からの移民した子孫が多いのである
それは三分の一もそうなのだから身近にその子孫が生活しているのである
それでこの真宗系統の子孫は見分けやすいのである
宗教も違っているから見分けやすいのである。

相馬氏系統は多様だからここには書かない、でも基本的に南相馬市鹿島区の姓はこのように成り立っている
姓から歴史を見ることは身近だから親しみやすいとなる
それで良く自分の姓についてたずねる人がいる
岡和田氏はここの由来なのだとか荒氏は相馬藩とどういう関係にあるのだとかなる
ただこれはなかなか姓でもわかりにくい、なぜ相馬藩内に荒氏が多いのか?
それは渡来人関係のツノガノアラシトに由来していてここのアラをとって荒になったのかということもある、それは古代に由来しているのである。
全国的にも渡来人関係の姓も残されている、でもどうしてここに荒姓があるのか?
それは古代に関係して名付けられたのか不明なのである。
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2018年08月05日

小高復興の一試案 (牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)


小高復興の一試案

(牧場などを作り車の通行禁止で江戸時代にもどる)

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小高に三年ぶりで行った不思議を書いた,前よりは人は帰っているけどやはり通る人が少ない、通りに歩く人も見えない、ただ前からは通りはどこでも歩く人がまれである
車時代になってからそうである
ただ小高で感じたことは車が通らないから江戸時代にもどったような気分になった
やはり車というのがいかに社会に影響しているか実感した
一時大きな街で歩行者天国を作り車をしめだした
小高では別にしめださなくても車が通らない、6号線は通っても通らない所が多い
車が通らないとどうなるのか?江戸時代にというか車ない社会にもどったようになる
それは戦前でも戦後十数年でもそうだった
車が普及したのは高度成長時代になってからである

輸送の手段は遠距離になると蒸気機関車時代があり貨物輸送の貨物列車の時代があった
近間では馬車の時代がありリヤカーがあった、それで梨を売るために相馬市まで鹿島から運んだというのもそのためである、でも今からすると距離があるから苦労だった
ただあまり遠くまでは行かない、近間で用をたしていた
馬頭観世音がこれほどなぜ多いのか?それは馬で荷物を運んでいた輸送の主役だったからである、だから江戸時代の馬頭観世音はまれであり明治時代以降のが多いのである
馬が人間を助けてくれたから供養のために馬頭観世音をいたるところに作ったのである
まず馬車だったら遠くに荷物を運ぶのは無理である。
それで鹿島の右田の農家では肥料となる草を橲原(じさばら)から運んでいたという話を聞いた、橲原に入会権の山を所有していたのである
つまりその頃は近間でなんでもまかなっていたのである
なにか小高ではそういう時代にもどっいたという感覚にったのも不思議である

自分は江戸時代に関心をもつようになった、それは江戸時代には今の時代に失ったものがあるからだ、だから時代劇を良くみている、その風景がなつかしいとなる
江戸でも舟が縦横に行くのはベネチアのようでありその風景にひかれるのである
それはただ過去を美化しているということもあるが江戸時代には旅人でも歩いていた
それがみんな絵になっている、この歩くことを感心してみているのも時代である
今は旅人はいない、歩いて旅している人がいることはいるが車の騒音の中に消されてしまうのである、浮世絵のような絵にはならないのである
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小高の復興というときそれをどうするのか?
これはあくまでも自分の試案でありアイデアでありそんなことできるのかともなる
何か空想的になってしまうのが自分だからである
関わる人、交流する人を増やしその中から住民と「外の人」が精神的な豊かさを分かち合う

ここでどうして「外の人」と精神的な豊かさを分かちあうのか?

夕張で炭鉱がありそれを活かす取り組みをした、その例に習えば小高では野馬掛けの野馬追いの原型の行事があり牧場に向いているともなる
もう田畑は草に埋もれて草原化した、もうそこを田畑にすることは無理だと感じたからである、ではどうするのか?
牧場化して馬を放牧するのがいいのではないか?そして乗馬などをさせるのである
そして回りは車も通らないから車をしめだすから江戸時代にもどるともなる
ただ車で来る人が多いからそうもならないかもしれない、ただ車をしめだして江戸時代にもどる体験をする、車が通らない地域を作るのである
車を通るとしても制限するのである

これはあくまで試案であってそんなことできないということはある
一番の問題は田畑というのがみんなここに所有者がいて牧場にするからと勝手にできないこの辺でも畑の半分が未だに荒地化している、でも所有者がいるから勝手にできない
無料でも貸すと所有者は言っても誰も畑で野菜作りなどしない
その手間と労力が大変であり金もかかる、自分が支援したが一年で10万はかかる
その収穫はこの前太いキュウリをもらったがあとはなかった
田畑を活かすことは楽ではないから前々から高齢化などで受け継ぐ人がいなくなっていたのである。

明治後で失敗したのは私有権を過度に認めたことである
山でも平地でも海でもそうだったのだ、だから土地が細分化されて利用しにくくなったのである。漁業権のことを書いたが補償金を得るために自分の家の前の海にも権利があるとして交渉していたのである
それほど私有権が強固なものとして権利を与えた結果何か公共的な用として利用しにくくなったのである。
江戸時代までは入会権とかあり山でも共有であり村を単位にして土地は共有していたのである
だから荒地があると村では困るので村全体でその荒地をみんなで元の田畑にもどした
草が生えてきて隣り合う畑をもっていると困るからである
田んぼでもそうである、水の共同利用とかありそれは個々人が私的に利用できるものではなかったのである。農業は自然が相手だから土地は共有になっていた

現実に飯館村で補償金をもらって土地を売った方がいいというときそこが放射性物質の廃棄物になっては困るのである。なぜなら土地はつながっていてその放射性物質が現実に保管されないで流れ出したからである、それは南相馬市の方に流れてくるからである
だから過度な私有権を認めたことは失敗だった
現実に荒地化している土地をもっている人はそこは自分の土地だから売らないとなれば貸さないとなれば何もできなくなる
牧場とか大きな土地利用をするにしても一人の地主が反対すればできないのである
ただこの辺ではそうして荒地のままに草ぼうぼうにしていいのかということが切実な問題となっているのだ
だからこれをなんとかしようとするときいい知恵はないかのかとなる
何かそういう知恵を出し合うことも必要なのである
おそらくいくら土地をもっていても無駄でも何か金になると土地をもっている人はかがえているのかもしれない、例えば放射性廃棄物の処理場とかになり金になると考えているのかもしれない、それは私有権があるから自分だけの利益しか考えないからそうなる、後はソーラーパネルが一番有力なのかもしれない、あれだけの土地が空いているとそうしやすいからだ
そのために土地を保有しているかともなる、そうなったら景観は乱されるから江戸時代の街作り構想は消える
ただ土地を有効に生かす方法がないとそうなる可能性が強いとなる
それをするとするとしたら海側であり山側はしないということもある

何かこの辺で問われているのはそうしした共同性の回復だったということもある
それが失われたからそういうことが望まれる、それは江戸時代の村への回帰でもある
そんなも古いものはあてにならないというのもある
でも明治以降の私有権の強固な権利とか共同性の喪失とかが問われている
一方であまりにも大企業の力が強くなりそれが市町村でも自治体でも今回のように東電によって破壊されてしまうことをまざまざと見たのである
江戸時代の村は別に理想的なものではないにしろ自然と共生した共同体だった
でもそれも巨大な大企業によって破壊された、またグロ−バル化社会の影響もありもうそうした世界の中で経済が動くようになった
その時肝心なものが見失われたということ喪失したことがある
結果的に自然は放射能物質で汚染されてとりかえしがつかなくなり家族はばらばらになり共同体は失われてしまった、原発事故前からもそういう状態はあったがここでは拍車がかけられて田畑は草ぼうぼうになり人が住まなくなったのである。

ただ江戸時代にもどれと言っても電気がない世界に住めるのかとなる
エネルギーは炭になるのかとかなる、囲炉裏が復活するのかとかなる
そんなことができるのかとかなる、それは無理だとなる
でも何かそういうことを志向するのも今回の原発事故でありうることなのかとも思った
江戸時代だと夜は真っ暗な世界である
小高などは街まで真っ暗だった、そこにイルミネーションをして電気を使うより提灯でも使えば江戸時代にもどることができる
街全体が江戸時代にするとそこで江戸時代の気分が味わえる
ただこれは他で江戸時代を再現して観光している場はある
ここが違うのが現実に江戸時代にもどったような場なのである
特別な場所が江戸時代になっているのではない、街全体が回りがそうなっているからだ
それがテーマパ-クなどとは違っている、そこに現実に人が生活しているからだ





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2018年08月06日

蝉の声(晩年は時間に追われる)

蝉の声(晩年は時間に追われる)

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晩年やせわしなに蝉鳴き暮れぬ

方角を違えて夕べ雲の峰

今日もまた同じ木陰に休みけり

夏の夕馬草を食い眠る蝶

親子して草食う馬や夏の牧


同じ年の人と自転車でよくあう、その人は一回脳梗塞をしたからそれ以後体を気にしている、体が弱っている,でも別に自転車でも散歩しているし普通の生活をしている
その人は郷土のことも調べているので時々話する
その人も晩年である、何か晩年になるとせわしい、楽隠居というが何か追われる
それは生きる時間が短くなって追い詰められるという感じになるからである
まだまだ生きる時間が長ければ追われるという感じになはならい
まず50代すぎるともう人生も終盤が見えてくる
すると何か追われるようになるのだ

人間が死ぬまじかになると延々と自分の生きたことを語る、認知症になっても過去を忘れないからそうなる、そして死んでゆく、それはちょうど蝉が短い間でも懸命に鳴いて死ぬのとにているのだ
最後は人間は日暮らしのように鳴いて死んでゆくとなる
終わってみれば蝉のように人間ははかないのである

昨日も暑かった、方角が違って雲の峰が夕べ見えた
今年は雲の峰が見えても雨がふらないのも不思議である
今日は雨がふってすずしい、ここも34度くらいになったが今日は相当にすずしい
ただ体が夏バテになりぐったりしている
40度近くになるともう耐えられない、体が弱い人は死ぬと思う
自分も体が弱いから危険になる、だからここは気候がいいからなんとかしのげるとなっている、老人は意外とこの気候が影響するから住む場所を選ぶべきだとなるが
簡単に人間はどこでも住む訳にはいかないのである
でも山を越えた福島市だったらもう住めない、夏は蒸し風呂になり冬は酷寒になる
だから気候的にここはいいからしのいで生きられるともなる

毎日川の土手の道の木陰で休む、ほとんど同じ道を行ったり来たりしているだけである、それは十年つづいている
それもいいのかなと思う、やはり人間はあまりに変わりすぎると落ち着かない
人は最後は落ち着く場所を求めるからだ、だから同じ木陰でアイスコーヒ−を毎日飲むのが楽しみだとなっていた
今年の体の状態は胃が悪くならなかったのが良かった、冷たい水を飲んでもならなかった
必ず夏には胃を悪くしていたから不思議である
やはり健康であれば冷たいものを飲んでもいいから夏を楽しめる
人間はやはり健康が第一なのだ、健康でなければいくら金があってもうまいものさえ味わえないからだ

夏の夕暮れこの辺には牧場がある、野馬追いのために馬を飼っている、それがこの辺の特徴である、ただ北海道のような広い牧場はない、写真は北海道なのである
それを写真を加工したからまずいと思うが著作権とかで注意されたことがない
インタ−ネットでは広いからわからないのだろう
現代は写真の時代でありその写真を活かすことが必要になる
でも他人の写真を見て俳句を作ったことはない
今回は親子の馬がいたので俳句にした
写真は写生になるのだが写真を見てだけでどうして俳句などでも作れないのか?
それは写真はあくまでも一部だからである
その辺の気候とか全体がわからない、それでいい写真でもそこにいる臨場感をもていなのである、写真はあくまでもきりとった一部だからそうなる

この辺は野馬追いがあるから馬の風景が一応があるが北海道のように雄大にはならない
そこに不満があるが馬と親しむ場所であることは確かである
それで小高復興のために牧場にして馬を放し飼いするのもありかなと思ったのである

2018年08月08日

カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた (金属でないと一年くらいしかもたない)


カシオの腕時計のバンドが二つとも切れた

(金属でないと一年くらいしかもたない)

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カシオの腕時計を二つ買ったけどバンドが切れた、方角のわかる時計はに三年もった
時刻も狂っていない、次の月の満ち欠けのわかる時計は一年ももたずくらいにハンドがきれた、このバンドが切れたらなおしようがないから使えなくなる
どちらも一万ほどだがこんなのでは買っても損である
何か欠陥がある、このハンドは安物を使っているのだ
こんな簡単に切れてしまうのでは損である

それで今度は2000円で金属のバンドのを買った、これもカシオである
別に時刻がわかればいいと思い買った、これはソーラ−電池ではないが
7年はもつとある、まずバンドがこんな簡単に切れるのは使えものにならない
そしてこのバンドは直すこともできないのである。

この頃買い物では失敗することが多い
これは別に年と関係ないが買い物がうまくできなくなった
それはなぜか?
新しいものが商品として出ていても使えこなせないのである。
そして良く「年寄りの冷や水」というけどその意味がわかった
年寄りでも別に急に年とって変わるわけではない
年よりもこれまで生きてきた延長として生きる
だから今までしていたことができると思う
それで今までしてきたことをやりつづけようとする
買い物でもそうである、今まで買ってできていたから使いこなせると思う
でも技術は進歩しているから追いつかないとなる
パソコンをやっていたからスマホもできると思うがスマホはまた違ったものだから使いこなせないとかなる

また登山しようとしてリュックを買ったがこれも使わない、登山がきつくてできないとかなる、自転車でも電動のロードのいいのが出たから今までのように遠くに行こうとする
でもロードは体にきついとかなる
つまり老人でも年とっても人間は今までしたことの延長としてある
それで年寄りの冷や水となるのである。
人間は年とることがどういうことか理解できないのである。実際に年取ってみないとわからない、年をとることは今までしたことができなくなる、体も頭も追いついていけなくなる、でもそれが実際にそうなってみないと理解できないから依然として今までしていたことをするのである、バイクにのるのも70の人も乗っていた
それは今までも乗っていたし車でも今まで乗っていたから年とって依然として乗ろうとする、それがいつか年よりの冷や水としてとがめられるようになる
車に乗るなというのはまさにそのことなのである。

いづれにしろ買い物がうまくいかない、それも年とることの特徴なのかもしれない
ただこの腕時計のバンドが切れたのは別に年取ることとは関係ないだろう
これはカシオでこのバンドを強くしないからだ、安物で切れやすい作り方あしているだけである、だから年寄りだから買い物に失敗したとはならい
でもこの腕時計でも使い方がめんどうでありそこが問題だったことは確かである
現代の商品は機械などは何か使い方がめんどうなのである
それが老人にとって不利なことは確かである
老人にとってはアナログ的なものが使いやすいのである
それで現代社会は老人にとって不利なものとなっている