2018年07月13日

『西日本豪雨の甚大被害増える雨…治水対策は⊶プライムニュース』 (文明化都会化すると災害も巨大化する)


『西日本豪雨の甚大被害増える雨…治水対策は⊶プライムニュース』

(文明化都会化すると災害も巨大化する)

プライムニュースでの話は面白かった、洪水の被害があったけど川は恵みをももたらしていた、田んぼにわざわざ畔を切って大雨になり水害になったあとに泥水を入れていたという、その泥水に有機物があり栄養分があり肥料になったという
これもナイル川が定期的は氾濫して泥が流れて栄養分をもたらしてエジプトはナイルの恵みで栄えた話があり日本でもそういうことがあった
自然は必ず災害があったとしても恵みも同時にもたらしている
海だって津波の被害があっても恵みをもたらすものとしてある

関東平野でも土台を高くして土盛して家を建てていたし倉があり一か月くらい食料を備蓄していて舟まで用意していたのには驚く、それだけの備えがあった
それができなくなったのは日本中が都会化したためだというのはわかる
そもそも文明が発達すると実際は住んではならない所に住むようになる
第一田でも海側に作るの自然に逆らうことである、縄文時代ならそんな技術もないから人は住まない、高台に主に住んでいたのである。
平地は日本ではたいだい湿地帯になっていたからである
台とは高台であり平らという地名も高台にある場合がある
こういう地名が日本には多い、そして野は傾斜地なのである。
日本には山が多いから傾斜地が多いのである

日本はとにかく洪水が多い,自分の家も二回も水害にあっている
街の中で一倍低い土地だったのである。伊勢湾台風の時は一番被害があった
その後も堤防が決壊して水害にあった、その後河川改修して水害が起きていない
川幅を相当広くしたから流れも良くなったのである。
ただそれで安心かというと異常気象とかで今回のような予想しえない雨が降ったらわからない、津波が川が上ってきたときは驚いた
500メートルくらいの下は堤防からあふれていたからである
ただ堤防は決壊していない、決壊したら被害にあった

日本は2000年ころから公共事業費を減らして外国より予算を使っていない
これだけ災害がある国なのにそうなのかと思った
田中首相の日本列島改造論までは公共事業に金を使っていた、それで道路など作りすぎたので減らすことにした、それと同時に治水対策の工事も減らしていたのである。
日本は緊縮財政になり福祉とかに使う金が増えすぎたのである。
国民でもその要請が大きくなったから公共事業に使えなくなったという
広島の倉敷真備町でも工事がはじまるところだったが遅くなって大被害になった
そこは危ないと認識していたのである。

今日のテレビの放送で川は堤防内の河川敷とかに木が生えているのは良くない、水嵩が上がったり流木化したりして下に流れるから良くないという
それで浪江の復興住宅に移り住んだ人が木が茂っているから切ってくれと言っていた
確かに木が茂りすぎている、でもそれを見ていると合歓の花が咲いたり鳥がきてとまったり自然が街の中にあっていいなと見ている
それで木を切るのなと反対運動があり木を切れないとも専門家が言っていた

真野川の岸辺はきもちいいい場所なのである。それは街の中を流れている感じにもなる
そこを散歩すると気持ちいいのである。

葉群に山鳩が来て隠れ
木陰なすところ
テーブルがあり座る
そこで同じ年の旧知の人と
故郷の昔を語る
その人は病が癒えて
散歩しているから良く合う
夜には蛙も鳴いて
田畑も回復した
ここはといい場所だと思う

なんかこんな詩もできる場所なのである。真野川のいい点は街の中を流れているという感じになるからいい、それは盛岡でもそうである、二つの川が北上川と中津川が流れている川の街なのである。仙台でも広瀬川が街中を流れている
浪江では二つの川が街中を流れていたから一番いい場所だったとなる
相馬市の宇多川は細いし貧弱に感じる、川もあまり流れていないのである。
ただ人間は意外と自分の住んでいる場所の良さがわからない、当たり前になりわからないのである。ただ日本でもそうだが外国と比較するとわかるのである
それと他の街と比較するとわかる、真野川は長い川だから大きい川なのである。

それでも土手に堤防に桜の木が良くないという、根が張っているがそこから崩れやすくなるという、これも意外である、美的な観点からばかり自分は見る傾向がある
防災の観点からすれば違っている、でも堤防に桜の木があり春には花が咲きそこが夏には木陰になるのは気持ちいいのである。
でも右田の松原は津波でなくなったがあそこもまた松は根を強く張らないから根こそぎ津波で流された、末は津波に弱かったのである。竹は津波に強かった
竹は強く根を張るからである、防災の観点からすると松はいいものではなかったのであるただ松だけの景色は人間が人工林として作られた風景だったのである。
自然だといろいろな木が生える雑木林になるからである

日本は自然との共生を歴史的に計ってきたがしかし都市化したことが災害を増やしたのである。都市化したことは東京でもゼロメートル地帯があり大災害になる
江戸で大火になったのは人家が密集して空き地がない、それでたちまち延焼したのであるそれも都会化したための大火事であり都市化すると災害が巨大化するのである
だから都会は災害に弱いしそれを防ぐ術がないのである
災害からみたら都会は怖いと思う、でもそこに住む人はそなに危機意識もない、ただ離れられないということもある、それは便利だからだともなる

津波でも便利だからといって海に接した港の回りに住んで大被害にあった
便利だということは自然から見れば危険にもなる、文明は便利なものを追求してゆくがそれが危険なものにもなる、原発もそうだったのである
エネルギーでも炭とか木材でまかなっていればこうはならなかったからである。
都市化することは危険が増すことなのである。
洪水に備えるにも費用がかかる、たいしたこはないといってもやはり大工事になる
洪水でも地震でも津波でも都市化するともうそうした自然災害に限界があるように思う
備えきれない、異常気象になり備えきれないのである。
文明化都会化はそもそも自然に逆らうことでありそれが被害をもたらすのである
だから海側の湿地帯を田んぼを開拓したことは自然に逆らうことであり松原でも根こそぎ津波で流されたし昔は海だった八沢浦などが海に戻ったのである

だから都会は防災するにしても限界がある、地震でも津波でも火事でも防災できない
でも都会から便利だから離れられない、それは津波で被害を受けても港にまた戻ってきたと同じなのである。
でも高台を作りそこに家を作り食料を一か月分備蓄して舟まで用意している昔の方が安全度が高いというのも防災に関しては江戸時代の方が優れていたと感心したのである。
輪中などもそうである、防災に対してそれが有効だったのである。
大都会化すると防災の都市作りといっても限界がある
そこで大被害になってしまうのである。人間は自然に逆らっては生きられないということは今でもいくら文明が発達しても同じだということがあったのである。


posted by 老鶯 at 22:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

駅は野馬追い迫り出入りが多くなるのか? (仮設商店街のはる食堂も閉鎖したのは残念)

駅は野馬追い迫り出入りが多くなるのか?

(仮設商店街のはる食堂も閉鎖したのは残念)

harushoku1.jpg

相馬農業高校の人がトマトを売りに来ていた、いい色をしたトマトである
6個くらいで300円だった
一軒一軒回って売っていた、ス−パーで売るともうからないから直接売りにきたのだろうトマトはとにかく種類が多いし競争も激しい、トマト栽培している人が増えすぎたためだろう
トマト栽培とかでだと農家でもやっていけるからみんなやる,すると生産過剰になり安くなっていると思う、あんなふうにして売りにくるのも生産過剰になっているからかもしれない。

「トマト生産業界」は、現在、飽和状態で糖度の高いフルーツトマトの市場は激しい競争下にあり、世羅町に進出している大手「カゴメケチャップ」が県内の市場を席巻し、県内トマト農家は企業力のある大手企業に太刀打ちできない状況にあるとの情報もあります。水耕栽培トマトは、大量に収穫が可能で生産過剰が常に発生して、商品価値が著しく低下、廃棄されるトマトは相当量になっているとのことです


今日駅にいたのは前に見かけた女性でその人はネパ―ルの人といたからネパ―ルの人だと思ったがフィリピン人だった、なんか田舎でもいろんな外人がいる
ネパ―ル人とかベトナム人が増えたのが最近の特徴である

野馬追いが近づくと駅の出入りが多くなる、それで混んでいたとなるのか?
やはり乗車証明書のことがわからない、初めての人にわからないのだ
外部から来る人が増えると案内の仕事がある
最近は案内の仕事はしていなかった

仮設のはる食堂は閉鎖した
前のあつみ食堂もやめた,工事関係者が減ったし5,6人とかしか来ていなかったようだあそこの仮設商店街は壊すらしい、コインランドリーとかマッサージとか二軒しかやっていない
あそこも終わりなのかと思った

あつみ食堂の次にはる食堂では世話になった
カレーがうまかった、500円で安かった、カレーの味はみんな違う
あとは餃子定食を700円で食べていた、このくらいの値段でないと入りにくい
千円となると入りにくい、この点原町はいろいろあるから便利である
ただ自転車がから気軽には行けないのが残念なのである
 たこ焼き屋もやっているからあそこは継続する、食事には一番困っているので生協に入ってオカズをなんとかしようとしたがこれもあまりいいものではとなかった

はる食堂様お世話になりました


無関心が原発事故の原因にもなった (「安全神話」が無関心にさせて作られた)


無関心が原発事故の原因にもなった

(「安全神話」が無関心にさせて作られた)

原発に関しては 「見ざる、聞かざる、言わざる」だった
見ようともできない、聞くこともできなし言うこともできない
「安全神話」が政治家、官僚、東電とマスコミが一体になり強力に作られていたからである。
原発に勤めていた人も「安全」だと言っていたから常に脅迫的に地元でも安全を言っていたのである、だからそうして原発で働いている人も多いからそういう人たちが身近に回りにいるから地元でも何も言えないし聞くこともできない

自分の住んでいる場所はちょうど30キロ圏外であった、でも30キロ圏外でも放射能の影響はあった、でも遠いから関係ないと関心もなかったのである。
それより福島県全体で関心をもたされなかったのである
それで今になって関心をもたないということが怖いことになることを知った

無関心・無視はやがて罪になり自分に襲い掛かる『なぜナチスを阻止できなかったのか−マルチン・ニーメラー牧師の告白−』

はじめにやつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。 

つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。 

つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。 

そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。 

原発も同じだったのである。関心をもったのは補償金とかそこで働くと金になることしかなかったのである。また関心をもたされなかったのである
誰も警告もしないしただ「安全神話」になり日本の技術者は優秀だから日本では事故にならないとかなっていた、それは津波でもそうである、スマトラであれだけの被害があったのに日本ではスマトラなどでは津波のことわからないからあんなに被害があった
日本だったあんなふうにはならないとか言っていたのである。

国家規模になるとわかりにくいが自治体はいろいろなことで直接関係してくる
だから政治を学ぶには適している、具体的に身近に利害にも関係してわかりやすいのである。
ただ南相馬市でも原発にはほとんどみんな無関心だったのである。
なぜなら東北電力で小高に原発を作られることでも無関心だった、知らない人すらいた、自分も知らなかったのである。ただ家で庭を作ってくれる大工さんが原発できるから景気良くなるよと言っていてそうなのかと思った
でも小高にできるということはかなり危機意識をもつ、いくら原子力のことを知らなくても小高は近いからである。わからないにしても不気味だとなる

ともかく漁業権を東電に売り渡して土地を確保してそれで知事の許可で原発が建てられるということが今になると信じられないとなる
これだけの広範囲な被害になるのが原発事故だという認識がないからそうなった
そんなことを教えられらないそうなった
第一東電では事故の時、スピ−ディで放射能を計ることができた、風向きでもそれで計りどこが放射線量が高くなるか知っていた

しかしそれを浪江町とかに知らせないで浪江町民は一番放射線量が高い対馬に町長の命令で避難したのである。
そのことを教えたのはアメリカだったのである、つまり日本は事故になっても何ら対策できない、アメリカに教えられているだけだったのである。
それで「安全神話」が作られていたのだからそれは権力によって作られたものだった
これは共産主義国家と同じだったのである。
中国の最大の問題は共産党一党独裁であり習近平にさからえば刑務所送りとなる
北朝鮮ではただちに銃殺になる、それと原発に関しては似たようなものだったのである。
民主主義はとにかく賛成と反対がある、一人でも反対する者があれば一応その意見を聞く言わせるというシステムである、なぜなら多数がすべて正しいとはならないからである
反対でもその意見を言わせて判断する,それだけも民主主義になりうる
それすら原発ではなかったのである。
反対意見を聞けばそういうこともあるのかと思う人がいるからだ
でも全くそういう反対意見も言わせないとなるともう民主主義はない、中国や北朝鮮の独裁国家と同じなのである。原発に関してはそうなっていたのである。

それで何もなければいいが事故になり住めなくなったりナチスのように大被害になる
その死者数も膨大なものになるから怖いのである。
ともかく情報でも権力があるものに握られて知らされない、第一権力をもっているのが官僚であり警察でもそうだかそういう人たちとかかわるとき簡単に情報も得られない
それで権力に従うだけだとなる
福島民報は官報と同じである、県で50パ―セント出資しているからである
そういうところに完全に国とか官僚の言いなりになるだけなのであり全く期待できないのである。
だからマスコミとかNHKすらあてにならないのである
みんな「安全神話」に加担したからである、科学者は技術者は御用学者と化していたからである 

いづれにしろ無関心というのは怖いと自分でも思った、原発に無関心だったからである
また無関心にさせられていたともなる、そういうなかで「安全神話」は形成されていた誰も危険を言うものはいなくなっていた、議論すらしない、議論も大事だと思ったが反対を言うこともできないのだからどうにもならなかったのである。
確かに危険を言う人がいたがそれが何か「安全神話」の前に冗談なのか奇異に見られていたことでもわかる,今になると原発は東京に建てるのが筋だったのである
危険だと思っていたからフクシマに建てたのである。
それだけ「安全」というのなら東京に建てても良かった、送電線も作らなくてもいいからコスト面でも良かった、それをしないのは東電でも政府でも危険と思っていたからであるそういうことを議論にすらならなかったのである。
議論もできなかったのである。ただ一方的な安全神話だけが権力によって形成されていただけなのである。

ともかくこの辺は民主主義が何か問われたし自治体とは何かも問われた、政治にかかわらざるをえない場所になった、それは具体的に見えるものとしてかかわらざるをえなくなったのである。
漁業権に疑問を持った人もいなかったし無関心だった,でも今になるとそんな権利があるのとかなる、ただまず漁業権がどうなんだとか言うと漁業組合の人たちににらまれるから事故前はまず言うことすらできない、そこだって権力をもっているからである。
今だから言えるようになったのである。
結局情報も権力によって左右される、操作される、そしてそれが大事故になり後で真実が暴露されるとなるのが人間社会であり人間の歴史だともなってしまう
ともかく無関心だということが大きな罪であり大きな事故につながることは確かだったのである。
posted by 老鶯 at 09:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連