2018年07月10日

グロ−バル経済に生きる人間の心の変化 (小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)


グロ−バル経済に生きる人間の心の変化

(小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)

グロ−バル経済とは何なのか?それを理解することが意外とむずかしい、でも現代はどんな片田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれているのである
田舎とか村とか確かにあるけど実際の生活でもグロ−バル経済の中にある
例えはバナナを食べているとしたらすでにグロ−バル経済の中で恩恵がありバナナを食べられるとなる、葡萄でも安い葡萄を食べるときそれはチリとか地球の裏側からきているのだからどんな片田舎でもグロ−バル経済の中で恩恵とか損とかあっても生活しているとなる

グロ−バル経済とは世界の株式であり普通日常の生活と関係ないと思っている
株なんか特別金のある知識のある人がするものだし特別な人がもうけているのだと思っている、でも株式がグロ−バル経済のシステムとしてありその影響をどんな片田舎でも村でも受けるのである。

それで日常的にどういう気持ちに今なっているのか?
東京のような大都会だとまず食料はすべて買う、その買うにししてもそれが別に外国産でも中国産でも何でも安くて品質が良ければいいというだけなのである。
食料は外国産でもいい、日本の農業は補助金とかばかりかかり税金がかかるだけでやめた方がいいとか限界集落など金がかるだけで維持する価値がないとなりなくした方がいいとなる
そういうことがグロ−バル経済の思考として普通になっているのだ

それを江戸時代とか戦前とか村が自給自足で生活していたような時代なら土地は一番貴重でありその土地を活かして生きるほかないからそんな思考にはならないのである。
森があったらその木材を活かして炭にしたり家を建てたりとするからである
グロ−バル経済とは世界的経済であり世界的競争する資本主義社会なのである。
そういうシステムとしてグロ−バル経済があり世界はそれから逃れられないようになっている

現代というのはだから人々の心情も変わる、漁業とか農業とか林業などが金にならないというとき価値が貶められたのはグロ−バル経済の結果なのである。
実際に林業がだめなになったのは外材に頼るからでありそこにこそグロ−バル経済が具体的に田舎でも影響していることが明確にわかる
米すら今ではいい米が外国でも作れるしそれで日本に米を買ってくれとなる
すると日本の農家はそうした外国と米ですら競争にさらされることになる

そして農家とか漁業でも農家ならハウス栽培であり冬でも石油を使い温度を調節する
電気も使う、農業はもう工業なのだとかなる、土が育てるというより石油が育てているんだよなとか電気が育てているとかにもなるし実際そういう栽培をしている野菜工場もあるそういう社会では何が起きてくるのか?
つまり石油というのが電気でも最も大事なものになる、だから農家でも石油がないと野菜をも作れない売れなくなるとか電気でもそうである

そして石油とか電気を作るのに石油を使っている時、石油がないともう農業もなりたたないと農家の人すら思っている社会なのである。
日本には資源がないというが石油を精製する技術はアメリカとドイツと日本にしかないから心配ないというがではその技術が競争に負けたり失われると日本はお手上げになり貧乏国に転落するのである。
戦争でも特攻隊のゼロ戦とかは片道飛行しかできなかった、燃料の石油がないので帰ることもできないとして突撃したのである。

こういう社会で人々はどういう心で生活しているのか?
石油が入らなくなったら技術が遅れをとったら日本は終わりだと思う
その石油を買うのには例えば日本の技術で生産される、自動車とかその他のもの半導体でもそうだが外国に売れる品質のいいものを作る必要がある
それができなくなれば石油を買えなくなるというとき日本はその技術を最も最重要のものとしてみる、そこに原発でも技術として開発する理由があった
技術先進国の地位を確保するためにそうなったのである

つまりなぜ漁業でも農業でも林業でも重んじられないのか?
それはグロ−バル経済なのかで生きているからそうなった
石油を輸入することでもそうだがバナナを輸入することでもそうなのである。
それを輸入するには対価となる売るものがなければ買えないのである
つまりグロ−バル経済というものを現代では否定して生きることはできないということである
石油がないなら終わりだとか電気がくなると終わりだとかそれは都会の人だけではない田舎の農業している人さえそう思っているのがグロ−バル経済なのである。漁業でも石油がないと船が動かせないから魚がとれないと思っているからだ

現代はグロ−バル経済など田舎で関係ないというけど実際は深く関係している
株なんか関係ないというけど深く関係している、株をしなくても関係している
石油があがれば車のガソリンでも上がるし全体に影響するからである。
もし自給自足のような江戸時代のような生活がつづいていたらグロ−バル経済は関係しないのである。

そしてグロ−バル経済は昔の村のような共同体とか伝統を根こそぎ破壊する
自然の中で自然と共生して生きてきた文化を根こそぎ破壊する
それは自然破壊にも通じる、小規模漁業とかも大会社の大きな船で魚を大量にとると小規模な漁業は破壊される
イオンのような大資本会社が店を開けば小規模な商店は消失してシャッター通りになる
それはグロ−バル経済の中で起きてきたことなのである。

グロ−バル経済でも移民問題が発生した、物の自由な流通から人の自由な出入りが可能になった
飛行機で行き来することが可能になった、ただそこでも物ならいいが生身の人間が入ってくると問題が起きた
生身の人間は言葉も違うことからして意思疎通が簡単ではない、一人の外国人が入ってくることはその国の歴史とか伝統とか文化を背負っているからである、だから物を入れるようにはいかない、そこで文化摩擦とかが起きる
昔の村だったらまずそこは強固な共同体を形成しているから簡単にその村で生活できない
草鞋をぬぐとして村で認められる信頼されるには一代だけでも村では認めないし信頼しないのである。
同じ日本人でも言葉が通じてもそうなっていたのである

グロ−バル経済というのはそういう文化的垣根も取り払おうとするがそこに摩擦が生じてナショナリズムに移民の国のアメリカすら排斥するようになったのである。
グロ−バル経済というのは別に大都会だけの問題ではない、片田舎でもその問題は同じなのである。
みんな農民ではない、会社員でありサラリーマンだからである。
すると田舎でも農業とか漁業でも林業でもその価値は低くみられていたし価値ないものとされていた
それより原発だとなってしまっていたのである。

金の社会になるというのもグロ−バル経済でそうなった、金の力がこれだけ大きくなったのも世界的金が通用するからである
それでドルが世界の金になったということはアメリカが一番力をもっているからそうなる
ドルは一番信用されているからそうなる、中国があんなに経済が発展しても中国の金が世界で通用ししていないことでもわかる
そてし金がこれほど大きな力をもつようになるとそこに摩擦が起きる
原発避難者が多額の補償金をもらっていわき市辺りで次々に家を建てた、二万人も避難したとなればその摩擦も大きなる
土地が値上がりしたり病院が満員になったとかその土地にもともと住んでいた人たちは迷惑になった
これは自分の町でも起きたことである。
そして避難した人たちは「私たちここで消費して鹿島の人を助けているのよ」と言っていた
つまり金をもって金を使う人が一番偉い、消費するものが王様だという社会に生きていたからそうなったのである。
こういう人が特別な人ではない、そういう社会に生きていたからそれが常識ともなっていたのである。
でもそうして小高と鹿島の人たちは金をめぐって分断されたのである。

こういうことは移民にも起きてくる、ただ金が欲しくて日本で金を稼ぎ仕送りする、その目的は移民にすれば金しかない、
受け入れる方でも部品を合わせるように人間を見ているのである。
それで摩擦が起きる、人間は機械の部品のようになれないからである。文化が違うから適合できないとなる
金があればいい、金さえあればどこでもいいとはならないのである。
そこに積み重ねられた生活がありそこに金があるからと入ってきて何でもいいとはならない、金払うからいいじゃないかとはならないのである。

例えば小さな島でもそれなりの生活がある、そこに大金持ちが入ってきて何でも自由になるのか?
その大金があれば島一つくらい買えるし買っている人もいる、でもその金でそこに昔から住んでいた人たちを支配できるのか?
自由にできるのか?観光ならホテルを作り外から客を呼び込む,リゾートホテルにする、そういうことは実際に起きている
島の人たちはホテルで働くようになる、するとその島の支配者はホテルを経営する資本家だとなる
そこに昔からあったその島ならではの生活はは根こそぎ破壊されるとなる
社があっても漁をするにしてもホテルの方が生活になる金になるからだ、それはこの辺で原発を誘致して事故になったのと同じなのである。そして根こそぎ文化や伝統は破壊され共同体も喪失して人が住まない村や町になったからである
そしてもしホテル経営が観光がうまくいかなくなると島には原発事故で起きたように人が住まなくなるということが起きる

ただこういうことは全世界でグロ−バル経済で起きたきたことである。だから別に日本だけの問題ではないのである。
だからこそ原発という技術開発でも日本では必要となるしグロ−バルな技術競争に負ければバナナも買えないし食料すら買えないとみんな思うようになっている、それがグロ−バル経済に生きている人の心の変化なのである
それは農民だろうが同じなのである。そこで一番の価値は技術だとなる、車でも売れなくななればトヨタが衰退して倒産したりしたら日本は終わりだとみんな思っている、江戸時代なら天候不順で米がとれなければ終わりだとなっているのと違った価値観に生きているのがグロ−バル経済社会なのである。原発もそういうものとして作られたのである。
でも本当に大事なもの、価値あるものはと何かということを原発事故で問われたことは確かである。
それでもグロ−バル経済なのかに田舎でも組み入れられていてそこから逃れられな事実を見て対処しなければならない
だから簡単には解決できない問題なのである。

その時代の人間の気持ちがこうして時代によって違ってくる、車社会に生活しているのと徒歩で生活している時代の人の気持ちは違っている、だから人間はその時代を生きるのであり時代を越えて生きられないとなっているのである。
戦争の時は戦争して死ぬことも普通だという気持ちになっていた、その時代によって人の心も違ってきているのである。
ただ現代を知るには過去を歴史を知る必要があることは確かなのである
グロ−バル経済社会では人々の心もそれを拒否したとしてもそのシステムの中で生きているからそうした気持ちは同じなのである。
どうしても漁業でれ農業であれ林業であれそうしたものの価値は低くなり原発でも電気でも車でも技術の価値が高くなる
食料など世界のどこからでも入ってくる、日本の農業などに関心がなくなり価値がないとも見てしまうのである。
それはグロ−バル経済の中で否応なく生きているからそうなっているのである。
だから人間は時代を越えて生きられないのである。

posted by 老鶯 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

土着性が失わた現代の生活 (万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)


土着性が失わた現代の生活

(万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)

あをによし 奈良の山なる 黒木もち造れる室(むろ)は 座(ま)せど飽かぬかも
  〜聖武天皇 『万葉集』 巻8-1638
  
黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず ?大伴家持

人間の生活の充実感というとき金があれば何でも満たされると今ではなるが本当の充実感は得られない、都会だったら田舎でも今は買う暮らしである
何を買うかが暮らしである、その買うということがグローバルになる
例えば庭で葡萄か何か果実でも野菜でも育てわずかでもなるときそこに充実感を覚える
エデンの園ではエデンの園の中に果実でも木の実でもふんだんにあった
それは遠くの外から金で得るものではなかったのである。

それで飯館村の人が山菜などとって暮らしていたがそれができなくなりすべて金で買う生活になった時不安になるというのもわかる
何か生活の充実感がなくなる、それは土着的生活がなくなったからである。
今なぜ故郷とかに愛着がなくなったのか、それはすべて金で買う生活をするようになったこともある、もし農家が8割とかの社会だったらその土地でとれたもので生活していれば
親からその土地でとれたものを与えられて生活していれば親のありがたみとかその土地のありがたみとかを実感して暮らしているから自ずと愛郷心が生まれる
そしてみんなが農業していれば同じ心情になるから連帯感が生まれる

黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず

一方でその時代でも平城宮とか都が生まれるとき農業は軽んじられてきていた
現代は農業や漁業や林業は軽んじられていた、それに従事する人は一割にも満たない
たから親でも農業などやるなとか跡継ぎいなくなっていた
田舎でも土着的生活をしている人は少ないのである。
商業的工業的生活しているのが現実でありみんな会社員なのである。
サラリーマンなのである。だから土着性が薄れている
すると愛郷心でも起きにくい、物は金で買うことでありその土地のもので生活するということでもないからである。

家を建てるにしてもそうである、外材であり大会社が一週間くらいで家を組み立てるだけである、昔は半年くらい普請にかかっていたから一大事業になっていた
大工も土地の人でありその材料もその土地から提供されていたのである
自分の家も柱を橲原(じさばら)からとれたもので作ったといつも姉が自慢していたのである。すると橲原と結びつく土着的なものしとて自覚する
農業でも右田の人は馬車で橲原に入会権として土地をもっていて草を刈り運び肥料にしていた、ここでも右田と橲原は山と結びついていた
水でも山から水が流れてくるから田んぼは山と結びつき葉山(端山、羽山・・・)信仰が生まれた、羽山とは低山なのである。それは田んぼと関係して生まれた稲作と関係して生まれた信仰である。

そういうふうにその土地にあるものをできる限り活かして生活していたとき故郷はありえた、ふるさとの山はありがたきかなという心情で啄木でも一致していたのである
それが失われたときまたふるさとというものはただ一時的に滞在するような感覚になる
それで原発事故で簡単に町でも村でももぬけのからのように人がいなくなったのである。もちろん放射能の影響のためだともなるがそんな簡単に故郷を離れるということはやはりそういう社会になっていたからだともなる

ともかくこの歌のいいのは何かその土地に生活することの充実感が満ちている
それに共感したのは自分の家がそういうふうに作られたことで感じた
自分の家でも広い八畳の間がありそこで寝ていると家は安らぎの場となる
家を建てるその土地に家があるということはやはり土着したことなのである。
その土地に根を張ることなのである、そして家というのは実は人間の寿命より長い
人が死んでも家は残る、家の方がつくづく寿命が長い、古い家は百年とか二百年とかもっている、外国だと石とかなると千年でも存続し続ける
人間の寿命は短い、家の寿命の方が長いから遺産として残るのである。

だから家は一代で終わらない、万代(よろずよ)までとなっている、そのように家の寿命が長いことで充実感がある、そこに住んで飽きることがないとなる
しかし人間は死ぬ、しかしその家は残っているのである、二代目三代目として住んでいるだから家は一代だけではない代々受け継がれるものとして残る
ただ現代の家はそうした重みはなく何か一時的組み立てて後は分解するという感じになっている、土地の材料でもないし土地の大工もかかわらないのである。
そこにどうしてもその土地に暮らす充実感が得られないのである。
そういうことで原発事故を契機に簡単に離散して分散して帰らなくなり誰も住まない土地となってしまったのかとも考察したのである

海でも魚をとっても暮らせない、農業しても生活できない、林業は外材であり金にならない、では何で暮らせばいいのか?
原発がいい、それで漁業者は漁業権を東電に売り渡し金にした、農業でももともと金にならないから農業だけはやるなと子供が親に殴られたという話も極端でもそうなっていたのである。その子供は原発や建築現場で働いたからである。
そして原発事故で漁業も農業も林業も一番痛手受けた、でも前々らかそういう一次産業は金にならないとなり誰も熱心にその生業にたずさわろうとはしなかった
それで生業を返せと抗議するとき矛盾しているものを感じたのである。
あなたたちはどれだけその生業を大事にしてきましたか?
なんとかその生業をやめて金にしようとすることしか考えていなかったでしょう
それを今になって生業を返せというときそれはやはり補償金を欲しいしかない
ちょうどこの際これを口実に金を東電とか政府からむしとればいいとさえ極端になればなる、金をもらうだけもらう、それを堂々と主張できるともなる

人間はともかく何か矛盾した存在なのである。お前は何なのだ、ただ金があるからのんびりとしている、風流とかで旅したりしているが農業とか漁業とかの苦しみをわからない
そうしてし必ず人は責められるところがある、そして矛盾してくるのである
だから三野混沌などは極貧のなかで農業してきたのだからそういうことはない
でも山尾三省になると何か貧乏を売り物にしているというふうに見られるのである
パンが贅沢だとなれば現代生活では何なのだとなるからだ
どうしても共感するものがあっても現代では受け入れられないのである。
三野混沌になるとそういうものではない、農民はそうして生きたのでありリアリティがありその言葉も重いものとなるるのである。
ただそんな厳しいことを習う人は現代では一人も農民ですらありえないのである
それだけの時代の差が生まれてしまったのである。
逆にわずかな土地にしばりつけられて奴隷のように働くしかないとも見れるのである。
農業でも過酷でありそこから脱するために苦労してきたのが人間だともなるからだ
ただ先人の求め苦労したことから現代を対比させて学ぶということは常に必要なのである現代をしるためには歴史を知らねばならないとなる、歴史から学ばねばならないとなるのである。

精神的損害は金では賠償できない (原発事故でも犯罪でも他でも同じ)

三野混沌の土着的生活が現代に問うもの (原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)

我ながら自分の文章を読んで感心しているのも不思議である。
ここから発展して続編として書いていることがわかる
ただ自分の書いたものでも忘れているのである。

われわれの文化を悩ませる、「駆り立てる衝動」は、現代にとどまることへの躊躇となって現れる。より多くを求め、よりよくなるために過去を捨てていかなければならないわれわれには落ち着きだけではなく、根もない、われわれは同じ場所にとどまってはならないのである。それは職業や生活水準だけのことではない、家族や共同体さえも知らぬ間にだが確実にわれわれがとどまってはならない場所になりつつある
上向きの社会移動性とは単に地位的、階級的、物質的な上方移動を意味するのではない、それは地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する。(豊かさの貧困ーポール・L・ワクテル)

この引用文はなるほどと再確認した、

地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する

まさに三野混沌とかの親や祖父母の価値観など受け継ぐ人はいないなのである。
ただ豊かさを求めて金だけを求める価値を求める社会になっているからだ
だからこそこんなに簡単に町でも村でも解体したともとれる
どうしても放射能だけの影響だけこんな簡単に町とか村が解体して荒地と化することが考えられないからである。
現代文明は土着性の失った社会であるから他でもこういうことが何かをきっかけに起こるのではないか?
明治でも三陸津波でも一万人死んだとかあるがその後もそこで漁業して人々は暮らしていた、なぜなら土着した生活だからそこを離れて生活しえようがなかったから危険な港の近くで便利だから生活をつづけたのである。
結果的にはそうして津波の被害があっても元の状態に戻ったということがあるからだ

そしてなぜ原発事故では老人だけが取り残されて若い人が流出したのか?
放射能のためだとなるがそこに若い世代と老人の断絶があったからかもしれない、そもそも今の老人の親の価値観を受け継いでいる人はいない,三野混沌などの言葉など知る人もいないし伝えてもいないだろう
ただ金を求めて原発を積極的に誘致したのである。
結果として今度は金になり豊かになっても原発事故で今度はその親が子供から捨てられたともなる
でも子供は実は原発て親が働いて豊かな暮らしをしたとい矛盾がある
そして親を故郷に残して捨てたというのもまたそうしたカルマがやがてカルマがめぐってくて苦しむかもしれない
カルマの法則が常に人間社会には適用されるのである。カルマから人間は逃れられないのである。
posted by 老鶯 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連