2018年07月07日

夕霧と合歓の花とラベンダ−(幻想的な霧の風景)


夕霧と合歓の花とラベンダ−(幻想的な霧の風景)

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霧つつみ夕べや眠る合歓の花

夕霧に浮かべる母や合歓の花

霧深くつつめる墓地や合歓の花

霧の夕やほのかに匂ふラベンダー

ラベンダーに眠れる蝶や霧深し


草埋もれ霧の深しも鶯の夕べ鳴く声聞こえけるかな

藪萱草一〇輪ほど咲く草深し夕べたちこむ霧のつつむも

たちこめる夕べの霧に我が母の面影浮かび合歓の花咲く


霧は別に四季を通じて起きる自然現象である、だから霧を秋の季語とすることはできないただ秋霧としているから秋の霧は秋になる、夏の霧は夏霧としているし冬の霧もある
ただ霧となれば秋とは限らないのである
ただ霧を秋の霧としているのである。ここで霧の夕としたが夕霧と最初していた
それを霧の夕にした、別に夕霧にしてもいいがそれだと秋を感じさせるから霧の夕とした実際は夕霧でも良かった、季語の解釈はいろいろであり定型は必ずしもないのかもしれない

昨日もそうだったが今日もこの辺は霧が夕べになると深くたちこめた
広島の方は水害で被害が大きかった、つくづく日本は災害の国である
津波という大災害があったらまた西日本では水害の被害になりあんなに人が死ぬのも意外である

ここは雨はほとんど降らず幻想的な霧であり霧の情緒にひたっている
水害とかの被害にあった人はこんなのんきなことをにはならない

霧はこの辺では海から朝にたつことが多い、今回は山からたちこめる、それで雨は少雨である、それで霧の中を自転車で走った、なんとも幻想的な風景になっている
何か霧で自分の母親の面影が浮かびそこに合歓の花が咲いている
母のことは生きている時は家では脇役であり思っていなかった
でも不思議なのは死んでから目立たない母のことを思うようになった
性格的には自分と似ている、外交的ではない内向的だからである

内向的な人を外交的な人は嫌う,一般に好まれるのは外交的性格で陽気な人である。
でも内向的な人の性格もいい面はある、ただそれが認めにくいのである。
だからこたそ死んでからその美点に気づいたのである。
母は霧の中にそれも夕霧の中に浮かぶのがふさわしい、やせていたし細身であり内向的だからである。何か幽霊のように霧の中にそれも夕べに浮かんでくる
それがふさわしいのである。

このような感覚はなんというか死んでから感じたことであり自分でも不思議なのである。死者というのは完全に消え去るのではなくやはり生き続ける、面影として浮かぶというときそうである、万葉者の恋の歌が死者を思うものだというときそうかもしれない、
そうなると恋愛歌でなく深いものになる、恋愛歌だったらうわついたものとしかならないからだ、万葉集は何か深く読まないと鑑賞できないのである。
そもそも俳句でも短歌でも深く読むことがないと鑑賞できないのである
ラベンダーの夕べの霧の中に匂うのも何ともいえない情緒があった
霧は幻想的にする魅力あるものだということを今日は一層感じた

月光のしみる家郷の冬の霧 蛇笏

霧と検索したらこの句がでてきた、これは秀作である、家郷と月光と霧を一体化して表現している、これは家郷に長く土着して住んだから作れた句である
家郷の重さがありこれは名句である、こういう俳句でもやはり鑑賞することがむずかしいのである。これは重厚な俳句である。俳句でもこれだけ表現することができる
霧の中に月光というのも幻想的なのである。

宗教は偶像崇拝との戦いだった (カルトは偶像の教祖のコピ−の大量生産である)


宗教は偶像崇拝との戦いだった

(カルトは偶像の教祖のコピ−の大量生産である)

あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神

神はイスラエルに向かって「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」と偶像礼拝を禁じた。

 すでにこの前で「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と言われている。

(出エジプト記20:5 の一部)

偶像化された麻原
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まさに麻原のコピ−の大量生産だった
カルト宗教団体は教祖のコピ−の大量生産である
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宗教の基本は偶像の禁止である、人間はあらゆるものを神としてきた偶像化してきた、
エジプトでは動物から何から何まで神となった、アミニズムとにている、神像でみちみちていた、出エジプトは偶像の支配するエジプトからの脱出が目的でもあった
その前にも聖書では偶像との戦いが記されている、偶像の拒否ということが宗教の始まりだったのである。
そういう宗教は他にはなかったろう、なぜなら人間はともかく目に見えるものから何かを信じる、目に見えないものは信じにくいのである。

あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神

この言葉も不思議である。なぜねたむのか?人間と同じようにねたむのか?
神がねたんだりするのか?そんて感情があるのかとなる
そしたら人間と同じではないか?
でも実際は神がどういうものか?本当の神を人間に認めさせたいからこそこう言ったのである。なぜなら人間はなんらか目に見えるもの形のあるものを偶像を拝むからである
つまり拝む対象は目に見えないものではない、目に見えて形があるものである
でも目に見えるものは形があるものは神だとすると必ず破壊される

これが神なのか?なんだこんなもの壊してやるとなり仏像でも爆破されたからである。
例えば日蓮宗でも真宗でも御本尊があるとしたらそれはただ紙に字を書いただけではないか?そんなもの神のなのだから燃やせばいいとなる
だから実際に捨てられたり燃やされたりしている
すると頭が七つに割れるとかいうが実際そんなこは起きないのである。
ただ形ある仏像よりそれは偶像崇拝から脱したものだったのである。
イスラム教でも厳格に偶像を拒否しているが文字は許されているからだ

自分も宗教では過ちをおかしている、創価では池田大作を偶像化していた、上野霄里(しょうり)氏でも偶像化していた、何か師というのも偶像になりやすいのである。
師というのはだから危険でもあるのだ、師は弟子を奴隷化するからだ
麻原の仮面をかぶっているのはまさに偶像崇拝化したロボット化された信者である
そこには何の自主性もない、ただ命令通りに殺人でもなんでもするロボット人間とされているのである。
カルト宗教では必ず教祖がいて神となり仏となり偶像化される、師がいて弟子はただロボットとして従う自主性のないものとなる
だから宗教には哲学が必要なのである。でも人は考えるのがめんどうだからただ従うだけのカルトに入る、そして殺人マシーンにもさせられる

現代の偶像の怖さはハイルヒットラーになる、ハイル池田でありハイル麻原である
そしてその死体でも焼かれた骨でも崇拝の対象になる
自分だったらそんな汚れた悪魔のようなものを骨でも触りたくない
でも奴隷化した信者は偶像化してそんなものにまで頼るのである。
それらは悪霊であた悪霊にとりつかれたのが信者なのである。
そして悪霊は死んでも悪霊であり信者にとりついているから怖いとなる
それは池田大作でもそうであり死んだら神格化されるかもしれない、これも悪霊なのだが数が多いから容認されてまだ政治にも力をもち権力をもっているから怖いのである。
そういう人たちは死んだらどうなるのか?
その悪霊にとりつかれて離れられない地獄にいるのである。

でもそこは確実に天国とは隔離されている、この世では隔離されていない、だから悪霊はこの世で依然として権力をもち力がある
そしてその悪霊は世を支配する、悪魔でありサタンとして世を支配する
いろいろ陰謀論を言うがこの世を支配するのはサタンであることには変わりがない
この世の主は闇の主でありサタンである。
実際はオウムは不可解でありその殺人でも闇の中にあり解明されないままのである
その闇がどこから生まれたのか?その闇は解明されないままで死刑にされたのである。
だからこの世がこの世であるかぎり色を変え品を変えサタンはこの世を支配するのである

ともかくカルト宗教に引き入れられないためには偶像を拒否することである。
集団を拒否して自立する精神をもつことである。それに哲学が自ら考えることが必要なのである。なぜ人を殺すことが宗教なのか?
そう疑問に思うのが普通だがカルトでは人を殺すことすら信仰になっていた
ポアするということでそれは宗教の信心の一つであり実践だと教えられ実行した
思考停止しているからそうなったのである。
理系の人間の問題は機械でも思考でもマニア化しやすい、おたくになる
すると他のものは見えなくなる、宗教というものが何かわからないからただ教祖に従うだけのロボット化する、そこに理系の弱点がある
武田邦彦氏のような文系に詳しい総合的な知をもった人はまれなのである。

日本ではキリスト教ではない、何か基本的な宗教の素養がないし教えられていないとなるキリスト教だとやはり聖書を学ぶから偶像崇拝は固く拒否されるからである。
仏教は仏像を拝むからそこに偶像崇拝が日常化しているという危険がある
だから御本尊でも紙でも偶像崇拝を拒否するということで進歩したとはなる
とにかく人間は不安になり苦しむ、すると神仏に頼りたくなり祈りたくなる
するとどうしても偶像崇拝に陥ってくるのである。

自分は禅宗に好感をもっている、それは偶像崇拝拒否を徹底しているからである。
まず仏像を拝んたりしない、

仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。 

ローマ人への手紙8章15節は「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです

師は必要であり学ぶことも必要であるが師と同じのコピ−偶像を拒否するからであるうなってはだめなのである
人間はそもそも師といっても10年くらい違うと世代の差があったり時代の差があったり住む地域も違うし生い立ちも違うから同じになれない、性格も違うしだからこそ個性が生まれる、いろいろな宗派に分かれるのもやはり人間は同じではないからそうなる
だから禅宗は創価であれほかの仏教の宗派と違い集団化組織化しないのである。
日蓮宗とか念仏宗は何か太鼓をたたき練り歩いたり集団化して騒々しいのである。
だから政治化しやすいが禅宗にはそういうことがないのである。
カルト宗教団体には禅宗はなっていないからである。
それは個の自立の精神を禅宗では重んじているからだとなる 
聖書の自由の霊と奴隷の霊にも通じている、カルトは奴隷の霊に支配された人たちなのである。
エホバが絶対唯一の神としてその完全な下僕としてキリストがいてその間に師でも牧師でも教団でも教会でも外国人宣教師でも介在してはならないのである。その介在する人が団体が奴隷の霊を与えることになるからである。
要するに対等の精神でもって接することである。あくまで対等の対話的なものとして師でも接することである。
ソクラテスの弟子との問答のように接することである。ソクラテスは弟子といっても対等に問答形式で答えていたからである。

ただこれは大衆的ではないからあまり受け入れられないということがある
外国でも禅宗が受け入れられたのはやはり個の自立の精神があるから受け入れたのかとなる
宗教は宗教だけでは今や通じない、哲学が必要なのである。ただ大衆化しにくいから普及しにくいとはなる 
偶像化とはコピ−の多数の製造である、そのコピ−に生きる意味はない、なぜなら動物は個性があっても識別できない
犬は犬であり猫は猫であり何か個性を残さない、人間が生きる意味があるとしたらやはり何かしらの個性がありそれを残すことに意味がある、ただ芸術作品でもコピ−していたらそれは盗作であり何の意味もないのである。
同じものの大量生産には価値は生まれないのである。
でもカルト宗教団体ではその人間の教祖の偶像のコピ−でしかない、そこには何の価値もないのである。

そして組織化した集団化したものに入り安い、仲間がいるということで安心する
そして数が多いということで権力をもち社会に恐怖を与える
オウムの場合は武力をもつことでオウム王国を持とうとしたのである。
それは池田大作でも同じである。幸福の科学でも選挙に出ているから目的は同じである。エホバでもなぜあんなに一軒一軒まわり勧誘しているのか?
それは謎のなのだが何か背後に会員をふやして日本を乗っ取ろうとしているのかという疑心が生じる、それは秀吉も感じて遂にとキリシタン弾圧になったのである。無教会の内村鑑三が外国人の宣教師を拒否したのもそのためである。
明治以降外国人の宣教師が入ってきた、すると日本文化を理解していない、内村鑑三は武士の出身だからそのモラルを体得していた
それで武士道からキリスト教も説いたのである。そういうことは外国人の宣教師にはできない
エホバとかも外国の勢力が加担している資金が流れているとしたらやはり日本を乗っ取る工作のためなのかともなる

いづれに宗教は神と直結することである。その中間に介在するもの師でも牧師でもなんでも危険なものになる
偶像化しやすい、集団化した組織化した宗教はすでに権力化して社会を支配しようとする
オウム王国であり創価王国であり幸福の科学王国であり・・・となりその教祖が王になるのである。
そのために必然的に政治化して権力での実質的な支配下を目指すのである
オウムはそれが極端化したのである。武装して権力をとりそれに宗教も一体化するから政教一致になる
仏かかりになり神かかりなる、ヨ−ロッパでカトリックがそうなったからその反発から政教分離が生まれたしルネサンスとかその後のフランス革命は宗教の束縛からの解放だったのである。

いづれにしろオウムとかで人生を消費して有能な理系の若者が死んだということは悲しい、何のために生まれてきたかもわからない
それは戦争で死んだ人にも言えるかもしれない、これとは違っていてもそこでも戦争に費やされて有能な人が才能を発揮せず相当に若くして死んだことの無念があるからだ、ただこの世ではそうして人生とか命とか本当に浪費されやすいのである。
才能があるとかないとかのまえに様々な悪条件で才能が発揮されないのである。
才能というのは生まれつきでもない、なぜ全く絵の才能がない自分が抽象画をパソコンで作っているのか?
そして70人くらいのアメリカ人が見ているということは何かしら認められているという証拠ではないか?
70人となると数が多いなと見るからである。ここは数がわかりやすいのである
第二芸術にしてもやはり価値は認められているともなる
人間は何かしらの才能があっても発見されないし発揮されないのが多いのである。
時代の影響も大きいのである。明治維新のような時代なら英雄が生まれる今はそういう英雄は生まれにくい
ただ平和であるから豊かであるから個々の才能を発揮しやすいということはある
必ずその時代時代の影響を受けてそれから逃れられないのも人間なのである。






posted by 老鶯 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層