2018年07月04日

佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首) (春の日にたどる,自然の道,歴史の道)

                                                
佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首)

(春の日にたどる,自然の道,歴史の道)


山の上に桜映えにき朝日さし流れのひびき巌に真向かふ
                                              
山間の磐を伝いて流れかな桜も咲きてさかのぼるかも

佐須により墓地をたずねぬあわれかな住む人なしや春となれども

春の日に佐須によりにきあわれかな人もなしかも花は咲けども

霊山に向かいし道の山間の陰にしなもお雪残るかな

霊山に大岩座してスミレ咲き鳥の鳴く声通りひびきぬ

霊山にこもれる僧や岩固く骨となららむ春となれども

霊山を下りてあわれ村一つ寺の跡かな春の夕ぐれ

碑の古りて文字定かならじ一時を足をとどめて春の日暮れぬ

相馬なる城下へおりてあわれかな老舗の灯し桜の映えぬ


霊山は貞観元(859)年に慈覚大師によって開山された。東北における天台宗布教の拠点となり、3,000以上もの堂塔(勤行の場)や僧坊(生活の場)が山中に造られ、「北の比叡山」とも言われていたそうだ。その後、南北朝時代に寺院の建築物が城として利用されることになり......

ここでも信じられないと書いているけど3000以上の堂塔があったという証拠もなにもないのである。その疎石すらないとしたら史実とは思えないのである。
ただここがもともと僧坊がありそこに南朝の拠点とした,国司館などが作られた
その疎石は残っているのである。

地名として岩が多いから学問岩とあるときそれは僧坊があったとき学問していた僧がいたからだとなる、山岳宗教が古くからあるし日本はもともと三輪山を御神体としてたように山そのものを神とする信仰があった
そういう日本人の自然信仰が仏教と合体したことは理解できる
ただ3000もの僧坊はありえないと思う
そしたら僧坊で山が埋め尽くされるしそんな大きな山でもないからだ
その言い伝えもはっきりしないのである。
何か伝説でも残っていればいいがそういうものも良くわからないし伝えられていないからだ

真野川をさかのぼり飯館村の大倉から佐須に行く道は歴史の道でもある
佐須という地域は奥深いのである。佐須とは焼き畑の地名でありそれで山津見神社がありそこでオオカミを祭っていた、オオカミは畑を荒らすイノシシやシカを食べるから大神とされていた、とにかく農業は畑をもっている人に聞くとキジに食われたとか、モグラに食われたとか虫に食われたとか野生の動物の被害が深刻なのである。
それは万葉集時代からはじまり鹿垣(ししがき)や猪垣を作って防いでいたのである。
今は電流を流して線で囲み防ぐとかその歴史は継続しているのである。
飯館村でも避難区域になったところはイノシシに畑でも何でも掘り起こされて荒れ果てたのである。

飯館村の佐須は霊山に行くとき必ず通るから印象に残る、そこに乳神と畑に碑があったのも記憶している、その時牛乳はない、牛が飼われたのは戦後なのである。
そういう奥深い所に暮らしがあったということが不思議だともなる
ただ今は人は住んでいる気配がなかった、時々帰って家をみていることは確かであるが住んでいる人は一二軒なのかもしれない、あそこで墓地をまた見た
菅野という姓が多い、村長も佐須の出身だったのである。

南朝が滅びたとき今の玉野で二手に分かれた、一つは卒塔婆峠を通って鹿島の真野に逃れた、そこは中館と言われていた、その時只野氏なども逃れておつづら馬というお浜下りで重要な役をになっていた、もう一方は山上に逃れた、そこに山王神社がある
野馬追いの旗印でも南朝の時の逃れた末裔の旗印は明確である。
杉の紋が只野氏だからである、あとは天皇の菊の紋が菊池氏とかなっている
他に桑折氏もそうである、その人たちの先祖は明確にたどれるのである
ただ卒塔婆峠は森に埋もれて消失してしまった 

まぎらわしいのは霊山神社とか山寺の近くにある北畠神社などは明治以降の神社である
明治維新は廃棄物希釈などがあり仏像などが破壊された、それに代わって国家神道が国のイデオロギーとした、それで明治に建てられた神社がある、そもそも靖国神社がそうだったのである。国家神道として明治維新で戦い死んだ人が祭られている
でも西南戦争で死んだ人たちは西郷隆盛でも朝敵となり祭られていなのである。
国家神道と地域の社はもともと成り立ちが違う、国家神道とは関係ないのである。
産土神(うぶなす)神であり土地土地の神なのである。
エジプトでも無数の神は土地の神なのである。何かそういうことでエジプトというのも日本と共通性がありギリシャの神々でもそうである。
それは人間の普遍的なものとしても宗教があったからそうなる

山上で不思議なのは金谷原といのがありそこに寺の跡があり墓地がある、江戸時代のものである。山上の奥でありあそこがどういう謂れなのかわからない、でも霊山から下ると
そこによるから記憶する、相馬市から高速が福島市へと通じたから今までの道は車が通らなくなった、そしたら何か古道となり観光するにはいいと思った
車が通りすぎると景色を良くみれないとかあるからだ
たから真野川からさかのぼり佐須を通り峠を越えて霊山に上ると残雪の吾妻嶺が望まれるからここはやはり景観もいいし歴史の道でもありサイクリングするにはいい所である
それから霊山から下る時もサイクリングに適している、ほとんど車が通らなくなったから安全でもあり静かになったからである。


春の日短歌十首(飯館村の佐須から霊山から山上へ-南朝滅ぶ歴史の道)

この続編です

常磐線の乗降客の変化 (高速と鉄道の相違)


常磐線の乗降客の変化

(高速と鉄道の相違)

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1987年からすると原町駅の乗降客は半分に減っている、仙台とかいわき市だとそれほど減っていないがやはり減っている
この30年の間に車社会になっていったからである

震災以後は三倍に増えたというとき外部からの人が入ってきて仙台行きが増えたのだと思う、近間では増えていないのである。

原町の道の駅で年間の収入が2億円で常磐高速の鹿島のSAが8億円である
原町駅の道の駅も結構にぎわっている、あそこの利点は街と直結しているから買い物とか食事とかしやすいのである。
常磐高速の鹿島のセディティは利用者が多くてもあそこだけであり鹿島の街の方にはほとんど来ない、日曜日はトイレにも女性が並んでいたし学生の中学生なのか団体で来ていてレストランがにぎわっていた、8億円の売り上げがあることを納得する

駅は減る一方だった、それで津波や原発事故で大きな打撃を受けた
でもJRては400億円かけて復旧した、乗降客が半分に減ってもまだここは廃線にはできない

ただ亘理駅の乗降客は一日4000人とか多い、通勤圏でありそうなる、浜吉田ですら1200人とかなっている、このように仙台への通勤圏になっているから常磐線はいいのである
それはいわき市周辺の駅でも乗降客が多いのである。
それは仙台の通勤圏となっているのと同じである。

前からいわき市へ行く車両は二両であり途中の駅で乗降客は少なかった
でもいわき市とつながらないと遠くから来る人には不便なのである。

いわき駅11820人/日 (2015年)
泉駅4512人/日 (2015年)
亘理駅4390人/日 (2015年)
湯本駅4212人/日 (2015年)
内郷駅2180人/日 (2015年)
大津港駅2044人/日 (2015年)
小高駅1622人/日 (2012年)
相馬駅1528人/日 (2015年)
浪江駅1468人/日 (2012年)
浜吉田駅1370人/日 (2015年)
四ツ倉駅1276人/日 (2015年)
大野駅1232人/日 (2012年)
原ノ町駅1186人/日 (2015年)
双葉駅1084人/日 (2012年)
富岡駅948人/日 (2012年)
草野駅778人/日 (2015年)
夜ノ森駅718人/日 (2012年)

これでわかるのはいわき市周辺の駅、泉とか湯本がだんとつに多い
離れていても四ツ倉とか大野でも多い
震災前だと2012はあるが2011年震災前の統計だろう
小高駅が多いのは高校があり通学のために多い
ただ浪江でも1468人は多いと思う
双葉でも1084人とか夜ノ森ですら718人とか多いのは原発があったために人の出入りが多かった、この辺の経済では原発関係で人の出入りが多かったのである。
地元でも原発で働いたという人が多いのである。

今は鉄道をみても経済活動は見えない、車社会になっているから高速の方が人の出入りが見える、ただ高速のSAは確かに人の出入りがあっても街の方に経済効果をもたらさない、そこだけお土産を買ったり食事したりするが街の方には来ない、ただ通り過ぎるだけだとなる