2018年07月07日

夕霧と合歓の花とラベンダ−(幻想的な霧の風景)


夕霧と合歓の花とラベンダ−(幻想的な霧の風景)

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霧つつみ夕べや眠る合歓の花

夕霧に浮かべる母や合歓の花

霧深くつつめる墓地や合歓の花

霧の夕やほのかに匂ふラベンダー

ラベンダーに眠れる蝶や霧深し


草埋もれ霧の深しも鶯の夕べ鳴く声聞こえけるかな

藪萱草一〇輪ほど咲く草深し夕べたちこむ霧のつつむも

たちこめる夕べの霧に我が母の面影浮かび合歓の花咲く


霧は別に四季を通じて起きる自然現象である、だから霧を秋の季語とすることはできないただ秋霧としているから秋の霧は秋になる、夏の霧は夏霧としているし冬の霧もある
ただ霧となれば秋とは限らないのである
ただ霧を秋の霧としているのである。ここで霧の夕としたが夕霧と最初していた
それを霧の夕にした、別に夕霧にしてもいいがそれだと秋を感じさせるから霧の夕とした実際は夕霧でも良かった、季語の解釈はいろいろであり定型は必ずしもないのかもしれない

昨日もそうだったが今日もこの辺は霧が夕べになると深くたちこめた
広島の方は水害で被害が大きかった、つくづく日本は災害の国である
津波という大災害があったらまた西日本では水害の被害になりあんなに人が死ぬのも意外である

ここは雨はほとんど降らず幻想的な霧であり霧の情緒にひたっている
水害とかの被害にあった人はこんなのんきなことをにはならない

霧はこの辺では海から朝にたつことが多い、今回は山からたちこめる、それで雨は少雨である、それで霧の中を自転車で走った、なんとも幻想的な風景になっている
何か霧で自分の母親の面影が浮かびそこに合歓の花が咲いている
母のことは生きている時は家では脇役であり思っていなかった
でも不思議なのは死んでから目立たない母のことを思うようになった
性格的には自分と似ている、外交的ではない内向的だからである

内向的な人を外交的な人は嫌う,一般に好まれるのは外交的性格で陽気な人である。
でも内向的な人の性格もいい面はある、ただそれが認めにくいのである。
だからこたそ死んでからその美点に気づいたのである。
母は霧の中にそれも夕霧の中に浮かぶのがふさわしい、やせていたし細身であり内向的だからである。何か幽霊のように霧の中にそれも夕べに浮かんでくる
それがふさわしいのである。

このような感覚はなんというか死んでから感じたことであり自分でも不思議なのである。死者というのは完全に消え去るのではなくやはり生き続ける、面影として浮かぶというときそうである、万葉者の恋の歌が死者を思うものだというときそうかもしれない、
そうなると恋愛歌でなく深いものになる、恋愛歌だったらうわついたものとしかならないからだ、万葉集は何か深く読まないと鑑賞できないのである。
そもそも俳句でも短歌でも深く読むことがないと鑑賞できないのである
ラベンダーの夕べの霧の中に匂うのも何ともいえない情緒があった
霧は幻想的にする魅力あるものだということを今日は一層感じた

月光のしみる家郷の冬の霧 蛇笏

霧と検索したらこの句がでてきた、これは秀作である、家郷と月光と霧を一体化して表現している、これは家郷に長く土着して住んだから作れた句である
家郷の重さがありこれは名句である、こういう俳句でもやはり鑑賞することがむずかしいのである。これは重厚な俳句である。俳句でもこれだけ表現することができる
霧の中に月光というのも幻想的なのである。

2018年07月08日

夏の霧(北海道俳句) (霧に消えた旅人)


 夏の霧(北海道俳句)

(霧に消えた旅人)

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夏の霧キタキツネ出て古き沼

夏の霧牧場つつみ夕日かな

旅人の去りて消えにし夏の霧

霧流る襟裳岬に菖蒲かな

霧晴れて都草の一面に


旅をふりかえるとそこがどこかわからなくなる、襟裳岬まで行った、その前に寄ったのがどこだったのか?
ただ海岸でありそこに沼がありキタキツネがでてきた
それは思い出している、そこに宿があり一泊している,何か自転車だったら奇異に見られた、バイクなどがとまるライダー宿ならそういうことはない、そういう宿にも泊まったことがあるからだ、そこは町とかで運営している宿のようだった
そこがどこか思い出せないのである。、牧場の丘があったところであるがそういう風景が北海道ではめずらしくない

その時深く霧がかかっていたことは記憶にあるのでこの句ができた
自分自身すらそこがどこかわからず夏の霧の中に消えたとなる
その時自分は旅人であったからだ
今は旅人になることはむずかしい、車とかバイクでも早すぎるのである。
すると景色に溶け込めないのである。
昔は普通の人でも旅人となっていたのは徒歩の旅でありそれで景色に自然と溶け込むようになっていたのである。

今は何かホテルでも泊まると旅人として何かにあわないのである。
立派なホテルだと何か旅人の宿ではない、そこでくつろぐとかうまいものを食べるとかなってしまう、現代はこれだけ観光旅行していても旅人はいなくなったのである。
だから北海道でテント張って旅したときは旅人となっていたのである

人間は死ぬと不可解な謎になる、もう深い霧につつまれる、その存在はみんな謎になる
北海道が夏にふさわしいというときまさに旅人は夏の霧に消えた、謎となったのである。
襟裳岬では霧が流れていた、そこに菖蒲が咲いていた、そして百人浜に出ると都草が一面に咲いていた、そこにもキタキツネが歩いていた、キタキツネは日常的に出会うのであるただ襟裳岬から百人浜まで行ったことは覚えているがそこからどこに行ったのか覚えていないのである。

ともかく霧は幻想的にする、霧がつづいたので北海道のことを思い出したのである。





2018年07月09日

なぜ警察官の犯罪がなくならないのか 飛松 五男. (東電のフクシマ原発には警察もかかわり反対できなかった)


 なぜ警察官の犯罪がなくならないのか 飛松 五男.

(東電のフクシマ原発には警察もかかわり反対できなかった)


東京電力 は 26 日、 中央省庁 や 地方自治体 など 役人 OB の 天下り を 51 人 受け入れ て いる と 明らか に し た。 内訳 は 嘱託 が 48 人、 顧問 3 人。 警察 OB が 32 人 と 最も 多く、 海上保安庁 出身 も 7 人 いる と いう。


前掲 ニュース で 東京電力 に 警察 OB が 32 人 いる と 報道 さ れ て い ます。 東京電力 の グループ 会社( 約 100 社) も 含めれ ば、 さらに 大勢 の 警察官 が 天下り し て い ます。 全国 の 電力 会社 でも 同じ よう な 状況 です。   関西電力 の グループ 会社 に「 きんでん」 という のが あり ます。 電力 インフラ 設備 の 工事 を する 会社 で、 私 の 元 同僚 を はじめ、 警察官 が 何人 も 天下り し て い ます。


警察 を 退職 すれ ば、 年金 が 月額 20 万 〜 30 万 円 支給 さ れ ます。 そもそも、 きちんと 人生設計 を し て い て、 見栄 を 張ら ない 生活 を し て い たら、 不労所得 の よう な 天下り は 必要 ない はず です。

 しかし、 報道 さ れ なかっ た ん です。   事件 でも 事故 でも、 日々、 マスコミ は 警察 から 情報 を もらっ て い ます それ を 止め られ たら、 商売 あがっ たり です。 だから、 基本 的 に 警察 を 批判 する 報道 は でき ない と 考え て ください。 

警察は巨大な実質的力を行使できる力をもっている武装暴力組織である。権力とは何なのか?それが常に自分の課題になった
なぜならカルト宗教団体でも権力を追求している、すると最も権力があるのは実質的権力を持っているのは警察組織にゆきつくのである。だから警察権力を動かせばなんでもできるとまでなる
確かに法律とかがあり勝手にできないことはあってもこの元警察官が警察官が犯罪しているのが日常的だという
それで正義感の強い警察官は自殺するのだという、若い警官が自殺したとかあるのはそのためなのだろうか?
それは警察組織を守るために闇に葬られるという

原発事故がどうして起きたのか?なぜフクシマ原発が作られたのか?
そういうことを追求するとその原因も複合的である、一つにはならない、だから文明そのもののが原因しているとも考察した
ただここに追求していけば原発は国の権力であれあらゆる権力がかかわっていたのである。
そもそもなぜこんなに東電に天下りしているのか?
警察権力が東電や政府の下僕として使われていたのかとまでなる、まず警察となれば庶民でもみんな恐れている、自分も関わりたくないので充てる。
警察とは誰もかかわりたくないからだ、マスコミすら警察から情報を得ているから批判する報道はできないと言っている
マスコミが朝日新聞社でも原発には反対したり報道できなかった

原発の「安全神話」はこうして国家権力であれ様々な組織権力で作られたのである。電事連があるとしたらそれは組合であり原発推進だからその組合には共産党系だって参加しているとしたら野党すら反対できない構造になっていたのである。
原発に反対することはもう不可能になっていたのである。
要するに原発というのは想像を絶する巨大利権の塊りだったのである。
それは原発事故以後でもそうである、巨大ゼネコンに除染とかで何兆円とかの金がつぎこまれる,その金を賠償金にあてた方がいいとも思った、補償金にしてもこんなに莫大なものとなる、そういう巨大な金を動くということに驚いた
百円とか千円の金勘定しかできないものにとっては想像を絶するものだったのである。
東電自体が子会社がありその利権も巨大なものだったのである。

政治家+官僚(検察警察)+マスコミ+東電+電事連(組合)とかの合体した権力が一体となっていたのである。
こういうものにもはや反対も批判もできない構造になっていたのである。
民主主義社会は国民が主権者であり権力は国民のものだというシステムなのだけど実質の権力は官僚機構にあり中でも警察は武装組織であり一番権力の中枢にある,検察や警察を監視したり裁いたりできないからである。
本当は国民が検察や警察を監視したりすることがあって正常に機能する、でもそれができない構造になっているのである。
庶民でも警察は一番怖がっているからである。自衛隊は日常的にはかかわらない、警察は交通事故でもなんでも庶民の生活に深くかかわって存在して権力を振るう立場にあるからだ
警察は庶民を常に監視できる立場にあるからだ
だからカルト教団でもオウムでも警察に会員を入れるとかする、創価でも警察を抑えようと会員を警官にしようとしたりする
権力を操作しようとしたら選挙で議員を増やせばいいともならない、実質の権力は検察や警察がもっているともなるからだ 

そして巨大な権力と権力は結びつく、警察組織が暴力団から上納金のようなものを巻き上げているというときもそうなのだろう
暴力団といっても警察組織には頭があがらないからだ、警察を動かせることは一番大きな権力になる
ただ庶民は警察組織のことはわからない、巨大な組織のことはわからない、それらがどういうふうに動いているのか?
庶民はそうした巨大な警察権力とはかかわりたくない、だから警察に反抗するようなことはしないのである。
ただなぜ原発事故が起きてこんな悲惨な結果になったのかと追及してゆくと何かこうして警察までかかわっていたのかとなる
その証拠がなぜ検察であれ警察であれ海上保安庁まで天下りしていたのかということである。
そもそも東電と海上保安庁がどんな関係にあるのか?これも不可解なのである

原発事故は原因が一つではないにしろこうして巨大組織権力が結託して起こしたものである。
「安全神話」はこうした巨大権力が結託して作られたのである。
これに反対したり批判したものはどうなるのか?
検察でも警察でもかかわるとしたらどうなるのか?
反対して批判する者は公安とか警察の監視に置かれて何でもいいから犯罪者にされて捕らえられとまでなる
実際はそうなっていたのである、その結果としてとりかえしのつかない原発事故となり故郷を失い住むことすらできなくなったのである。その責任者は誰なのか?それは地元の人にあったとなるがやはりこうした巨大権力が結託した犯罪だから誰も罰することはできない,ただ津波がそれを明らかにして罰したともなると私は追求したのである。

人間社会でもこうしてもう罰することはできないものがある
それで天が神が罰せなければもうどうにもならないということがある
原発にはアメリカもかかわっていたとすれば背後にアメリカがあるとしたらまたもう反対は不可能である
原発はそういうものとして作られた、それが津波で崩壊したのである。
とすると津波は人間の悪を正すものだったという見方を出てくるのである。
いづれにしろ戦争であれ人間が個々の悪ではない、国家の悪とか人間社会で正すことはできない、それでこの世の滅びが最後に来る最後の審判が来る、この世そのものが神によって罰せられる裁かれるのである
そもそも検察とか警察とかも悪だというときどうにもならないのである。罰することも正すこともできないのである。
そこに人間の組織の限界がありそれが原発事故につながったのである。

利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる

 (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)


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藪甘草(土着的な花)


藪甘草(土着的な花)

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夏菊のあふれ咲く家よそおいぬ

紫陽花や笑みのこぼれる七色に

夕ぐれや雨ぬれ赤し藪甘草

草深く雨ぬれ赤し藪甘草

田舎なれ田畑をもちて藪甘草

根を張る木藪甘草や田舎かな


のうぜんのあまた咲きしも嵐来て朝風吹きあれ飛び散りにけり

昨日ある人も骨となりにけり隣なる女にしあれば心残りぬ

向かい住む旧知の女(ひと)の死ににけり何か言わむと言わず死ににき

言い残す言しありなむ死ぬ時にその重みの後に残りぬ


この辺は雨は少雨であり今日も少し降ってもすぐやんだ、それで散歩に出た
藪甘草は田舎的な土着的な花だとつくづく見る、それが夕べに雨にぬれて特にそう見えた
この花はもともと田舎の農家で土着的に生活していればよりそう感じた
今は農家といってもみんな会社員だからである。
村といっても別にみんて農家ではないのである。その辺の感覚は昔とは相当違う
田畑を別に持っていない人もいるしみんな農業しているわけではないからだ

ただこの花はそうして暮らしていた農村にふさわしい花と見る
何かどっしりとして土着して生活する,母親のようて感じに見える
この花に泥臭いが何かあったかいものを感じる
俳句はこうして鑑賞することが自体がむずかしい、だから俳句は鑑賞する方が試される
写生俳句が基本でもその意をくみとることがむずかしいからである。
写生俳句の場合,それを深くよみとらないと何がいいのか皆目わからないとなるからだ

向かい子供から知っている女性が死んだ、そのことがなぜ気にかかったかというと一週間前に外にでていた
その時話しかけようと自分はしていた、ただ元気になったから外に出てきて歩いているのかと思った
そのことで心残りになった、何かこの年になると死ぬ人が多くなる
あの人も死んだのかあの人もかとなる、そしてどんな人でも最後に何かを言い残したいものがある
それが重いものとして残る、それは普通の平凡な人でもそうである

認知症の人でも最後に正気にもどる、何もわからなくなったと思っていたらわかっていたとなると怖いものとなる
あなたが私に冷たくしたのを知っている、わかっているとなると怖いのである。
最後に「ひどい娘だわ」と言って死んだ女性を知っている、本当にひどい娘だったのである
あんな人になるとは想像もできなっかた、いろいろそこにはあってもその無念の声を自分に残して帰らぬ人となったのである。
もちろんその人とはうまくいかない仲だったけどそれにしても娘にしても血がつながらないにしても長い間その女性とは一緒に暮らして家族だったのだからひどいと思う

だから最後に言い残す言葉は重いものとなる、なぜならもう死んだら語ることもないからである
最後に交わす言葉となるけど何かそういうことがこの年になると多くなるなと思った
最後に話して死んでゆくようになる、家族でもそうである。そして永遠にもう話すことも聞くこともなくなるのである。
つつり「ひどい娘だわ」ということは最後に自分に言い残されたのだがそれが娘にも呪いのようにふりかかるかもしれない、
だから最後の言葉は重いものとなるから怖いとなるのだ
認知症の人でもそういうことがあるから馬鹿になったから何もわからないとして対処はできないむずかしさがあったのである。




タグ:藪甘草

2018年07月10日

土着性が失わた現代の生活 (万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)


土着性が失わた現代の生活

(万葉集の歌から学ぶー原発事故の原因も)

あをによし 奈良の山なる 黒木もち造れる室(むろ)は 座(ま)せど飽かぬかも
  〜聖武天皇 『万葉集』 巻8-1638
  
黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず ?大伴家持

人間の生活の充実感というとき金があれば何でも満たされると今ではなるが本当の充実感は得られない、都会だったら田舎でも今は買う暮らしである
何を買うかが暮らしである、その買うということがグローバルになる
例えば庭で葡萄か何か果実でも野菜でも育てわずかでもなるときそこに充実感を覚える
エデンの園ではエデンの園の中に果実でも木の実でもふんだんにあった
それは遠くの外から金で得るものではなかったのである。

それで飯館村の人が山菜などとって暮らしていたがそれができなくなりすべて金で買う生活になった時不安になるというのもわかる
何か生活の充実感がなくなる、それは土着的生活がなくなったからである。
今なぜ故郷とかに愛着がなくなったのか、それはすべて金で買う生活をするようになったこともある、もし農家が8割とかの社会だったらその土地でとれたもので生活していれば
親からその土地でとれたものを与えられて生活していれば親のありがたみとかその土地のありがたみとかを実感して暮らしているから自ずと愛郷心が生まれる
そしてみんなが農業していれば同じ心情になるから連帯感が生まれる

黒木取り草(かや)も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず

一方でその時代でも平城宮とか都が生まれるとき農業は軽んじられてきていた
現代は農業や漁業や林業は軽んじられていた、それに従事する人は一割にも満たない
たから親でも農業などやるなとか跡継ぎいなくなっていた
田舎でも土着的生活をしている人は少ないのである。
商業的工業的生活しているのが現実でありみんな会社員なのである。
サラリーマンなのである。だから土着性が薄れている
すると愛郷心でも起きにくい、物は金で買うことでありその土地のもので生活するということでもないからである。

家を建てるにしてもそうである、外材であり大会社が一週間くらいで家を組み立てるだけである、昔は半年くらい普請にかかっていたから一大事業になっていた
大工も土地の人でありその材料もその土地から提供されていたのである
自分の家も柱を橲原(じさばら)からとれたもので作ったといつも姉が自慢していたのである。すると橲原と結びつく土着的なものしとて自覚する
農業でも右田の人は馬車で橲原に入会権として土地をもっていて草を刈り運び肥料にしていた、ここでも右田と橲原は山と結びついていた
水でも山から水が流れてくるから田んぼは山と結びつき葉山(端山、羽山・・・)信仰が生まれた、羽山とは低山なのである。それは田んぼと関係して生まれた稲作と関係して生まれた信仰である。

そういうふうにその土地にあるものをできる限り活かして生活していたとき故郷はありえた、ふるさとの山はありがたきかなという心情で啄木でも一致していたのである
それが失われたときまたふるさとというものはただ一時的に滞在するような感覚になる
それで原発事故で簡単に町でも村でももぬけのからのように人がいなくなったのである。もちろん放射能の影響のためだともなるがそんな簡単に故郷を離れるということはやはりそういう社会になっていたからだともなる

ともかくこの歌のいいのは何かその土地に生活することの充実感が満ちている
それに共感したのは自分の家がそういうふうに作られたことで感じた
自分の家でも広い八畳の間がありそこで寝ていると家は安らぎの場となる
家を建てるその土地に家があるということはやはり土着したことなのである。
その土地に根を張ることなのである、そして家というのは実は人間の寿命より長い
人が死んでも家は残る、家の方がつくづく寿命が長い、古い家は百年とか二百年とかもっている、外国だと石とかなると千年でも存続し続ける
人間の寿命は短い、家の寿命の方が長いから遺産として残るのである。

だから家は一代で終わらない、万代(よろずよ)までとなっている、そのように家の寿命が長いことで充実感がある、そこに住んで飽きることがないとなる
しかし人間は死ぬ、しかしその家は残っているのである、二代目三代目として住んでいるだから家は一代だけではない代々受け継がれるものとして残る
ただ現代の家はそうした重みはなく何か一時的組み立てて後は分解するという感じになっている、土地の材料でもないし土地の大工もかかわらないのである。
そこにどうしてもその土地に暮らす充実感が得られないのである。
そういうことで原発事故を契機に簡単に離散して分散して帰らなくなり誰も住まない土地となってしまったのかとも考察したのである

海でも魚をとっても暮らせない、農業しても生活できない、林業は外材であり金にならない、では何で暮らせばいいのか?
原発がいい、それで漁業者は漁業権を東電に売り渡し金にした、農業でももともと金にならないから農業だけはやるなと子供が親に殴られたという話も極端でもそうなっていたのである。その子供は原発や建築現場で働いたからである。
そして原発事故で漁業も農業も林業も一番痛手受けた、でも前々らかそういう一次産業は金にならないとなり誰も熱心にその生業にたずさわろうとはしなかった
それで生業を返せと抗議するとき矛盾しているものを感じたのである。
あなたたちはどれだけその生業を大事にしてきましたか?
なんとかその生業をやめて金にしようとすることしか考えていなかったでしょう
それを今になって生業を返せというときそれはやはり補償金を欲しいしかない
ちょうどこの際これを口実に金を東電とか政府からむしとればいいとさえ極端になればなる、金をもらうだけもらう、それを堂々と主張できるともなる

人間はともかく何か矛盾した存在なのである。お前は何なのだ、ただ金があるからのんびりとしている、風流とかで旅したりしているが農業とか漁業とかの苦しみをわからない
そうしてし必ず人は責められるところがある、そして矛盾してくるのである
だから三野混沌などは極貧のなかで農業してきたのだからそういうことはない
でも山尾三省になると何か貧乏を売り物にしているというふうに見られるのである
パンが贅沢だとなれば現代生活では何なのだとなるからだ
どうしても共感するものがあっても現代では受け入れられないのである。
三野混沌になるとそういうものではない、農民はそうして生きたのでありリアリティがありその言葉も重いものとなるるのである。
ただそんな厳しいことを習う人は現代では一人も農民ですらありえないのである
それだけの時代の差が生まれてしまったのである。
逆にわずかな土地にしばりつけられて奴隷のように働くしかないとも見れるのである。
農業でも過酷でありそこから脱するために苦労してきたのが人間だともなるからだ
ただ先人の求め苦労したことから現代を対比させて学ぶということは常に必要なのである現代をしるためには歴史を知らねばならないとなる、歴史から学ばねばならないとなるのである。

精神的損害は金では賠償できない (原発事故でも犯罪でも他でも同じ)

三野混沌の土着的生活が現代に問うもの (原発事故で故郷まで失ったものへの教訓)

我ながら自分の文章を読んで感心しているのも不思議である。
ここから発展して続編として書いていることがわかる
ただ自分の書いたものでも忘れているのである。

われわれの文化を悩ませる、「駆り立てる衝動」は、現代にとどまることへの躊躇となって現れる。より多くを求め、よりよくなるために過去を捨てていかなければならないわれわれには落ち着きだけではなく、根もない、われわれは同じ場所にとどまってはならないのである。それは職業や生活水準だけのことではない、家族や共同体さえも知らぬ間にだが確実にわれわれがとどまってはならない場所になりつつある
上向きの社会移動性とは単に地位的、階級的、物質的な上方移動を意味するのではない、それは地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する。(豊かさの貧困ーポール・L・ワクテル)

この引用文はなるほどと再確認した、

地理的な離別、すなわち両親の価値観や趣味からも遠ざかってゆくことも意味する

まさに三野混沌とかの親や祖父母の価値観など受け継ぐ人はいないなのである。
ただ豊かさを求めて金だけを求める価値を求める社会になっているからだ
だからこそこんなに簡単に町でも村でも解体したともとれる
どうしても放射能だけの影響だけこんな簡単に町とか村が解体して荒地と化することが考えられないからである。
現代文明は土着性の失った社会であるから他でもこういうことが何かをきっかけに起こるのではないか?
明治でも三陸津波でも一万人死んだとかあるがその後もそこで漁業して人々は暮らしていた、なぜなら土着した生活だからそこを離れて生活しえようがなかったから危険な港の近くで便利だから生活をつづけたのである。
結果的にはそうして津波の被害があっても元の状態に戻ったということがあるからだ

そしてなぜ原発事故では老人だけが取り残されて若い人が流出したのか?
放射能のためだとなるがそこに若い世代と老人の断絶があったからかもしれない、そもそも今の老人の親の価値観を受け継いでいる人はいない,三野混沌などの言葉など知る人もいないし伝えてもいないだろう
ただ金を求めて原発を積極的に誘致したのである。
結果として今度は金になり豊かになっても原発事故で今度はその親が子供から捨てられたともなる
でも子供は実は原発て親が働いて豊かな暮らしをしたとい矛盾がある
そして親を故郷に残して捨てたというのもまたそうしたカルマがやがてカルマがめぐってくて苦しむかもしれない
カルマの法則が常に人間社会には適用されるのである。カルマから人間は逃れられないのである。
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グロ−バル経済に生きる人間の心の変化 (小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)


グロ−バル経済に生きる人間の心の変化

(小規模共同体の文化や伝統は根こそぎ破壊される)

グロ−バル経済とは何なのか?それを理解することが意外とむずかしい、でも現代はどんな片田舎でもグロ−バル経済の中に組み込まれているのである
田舎とか村とか確かにあるけど実際の生活でもグロ−バル経済の中にある
例えはバナナを食べているとしたらすでにグロ−バル経済の中で恩恵がありバナナを食べられるとなる、葡萄でも安い葡萄を食べるときそれはチリとか地球の裏側からきているのだからどんな片田舎でもグロ−バル経済の中で恩恵とか損とかあっても生活しているとなる

グロ−バル経済とは世界の株式であり普通日常の生活と関係ないと思っている
株なんか特別金のある知識のある人がするものだし特別な人がもうけているのだと思っている、でも株式がグロ−バル経済のシステムとしてありその影響をどんな片田舎でも村でも受けるのである。

それで日常的にどういう気持ちに今なっているのか?
東京のような大都会だとまず食料はすべて買う、その買うにししてもそれが別に外国産でも中国産でも何でも安くて品質が良ければいいというだけなのである。
食料は外国産でもいい、日本の農業は補助金とかばかりかかり税金がかかるだけでやめた方がいいとか限界集落など金がかるだけで維持する価値がないとなりなくした方がいいとなる
そういうことがグロ−バル経済の思考として普通になっているのだ

それを江戸時代とか戦前とか村が自給自足で生活していたような時代なら土地は一番貴重でありその土地を活かして生きるほかないからそんな思考にはならないのである。
森があったらその木材を活かして炭にしたり家を建てたりとするからである
グロ−バル経済とは世界的経済であり世界的競争する資本主義社会なのである。
そういうシステムとしてグロ−バル経済があり世界はそれから逃れられないようになっている

現代というのはだから人々の心情も変わる、漁業とか農業とか林業などが金にならないというとき価値が貶められたのはグロ−バル経済の結果なのである。
実際に林業がだめなになったのは外材に頼るからでありそこにこそグロ−バル経済が具体的に田舎でも影響していることが明確にわかる
米すら今ではいい米が外国でも作れるしそれで日本に米を買ってくれとなる
すると日本の農家はそうした外国と米ですら競争にさらされることになる

そして農家とか漁業でも農家ならハウス栽培であり冬でも石油を使い温度を調節する
電気も使う、農業はもう工業なのだとかなる、土が育てるというより石油が育てているんだよなとか電気が育てているとかにもなるし実際そういう栽培をしている野菜工場もあるそういう社会では何が起きてくるのか?
つまり石油というのが電気でも最も大事なものになる、だから農家でも石油がないと野菜をも作れない売れなくなるとか電気でもそうである

そして石油とか電気を作るのに石油を使っている時、石油がないともう農業もなりたたないと農家の人すら思っている社会なのである。
日本には資源がないというが石油を精製する技術はアメリカとドイツと日本にしかないから心配ないというがではその技術が競争に負けたり失われると日本はお手上げになり貧乏国に転落するのである。
戦争でも特攻隊のゼロ戦とかは片道飛行しかできなかった、燃料の石油がないので帰ることもできないとして突撃したのである。

こういう社会で人々はどういう心で生活しているのか?
石油が入らなくなったら技術が遅れをとったら日本は終わりだと思う
その石油を買うのには例えば日本の技術で生産される、自動車とかその他のもの半導体でもそうだが外国に売れる品質のいいものを作る必要がある
それができなくなれば石油を買えなくなるというとき日本はその技術を最も最重要のものとしてみる、そこに原発でも技術として開発する理由があった
技術先進国の地位を確保するためにそうなったのである

つまりなぜ漁業でも農業でも林業でも重んじられないのか?
それはグロ−バル経済なのかで生きているからそうなった
石油を輸入することでもそうだがバナナを輸入することでもそうなのである。
それを輸入するには対価となる売るものがなければ買えないのである
つまりグロ−バル経済というものを現代では否定して生きることはできないということである
石油がないなら終わりだとか電気がくなると終わりだとかそれは都会の人だけではない田舎の農業している人さえそう思っているのがグロ−バル経済なのである。漁業でも石油がないと船が動かせないから魚がとれないと思っているからだ

現代はグロ−バル経済など田舎で関係ないというけど実際は深く関係している
株なんか関係ないというけど深く関係している、株をしなくても関係している
石油があがれば車のガソリンでも上がるし全体に影響するからである。
もし自給自足のような江戸時代のような生活がつづいていたらグロ−バル経済は関係しないのである。

そしてグロ−バル経済は昔の村のような共同体とか伝統を根こそぎ破壊する
自然の中で自然と共生して生きてきた文化を根こそぎ破壊する
それは自然破壊にも通じる、小規模漁業とかも大会社の大きな船で魚を大量にとると小規模な漁業は破壊される
イオンのような大資本会社が店を開けば小規模な商店は消失してシャッター通りになる
それはグロ−バル経済の中で起きてきたことなのである。

グロ−バル経済でも移民問題が発生した、物の自由な流通から人の自由な出入りが可能になった
飛行機で行き来することが可能になった、ただそこでも物ならいいが生身の人間が入ってくると問題が起きた
生身の人間は言葉も違うことからして意思疎通が簡単ではない、一人の外国人が入ってくることはその国の歴史とか伝統とか文化を背負っているからである、だから物を入れるようにはいかない、そこで文化摩擦とかが起きる
昔の村だったらまずそこは強固な共同体を形成しているから簡単にその村で生活できない
草鞋をぬぐとして村で認められる信頼されるには一代だけでも村では認めないし信頼しないのである。
同じ日本人でも言葉が通じてもそうなっていたのである

グロ−バル経済というのはそういう文化的垣根も取り払おうとするがそこに摩擦が生じてナショナリズムに移民の国のアメリカすら排斥するようになったのである。
グロ−バル経済というのは別に大都会だけの問題ではない、片田舎でもその問題は同じなのである。
みんな農民ではない、会社員でありサラリーマンだからである。
すると田舎でも農業とか漁業でも林業でもその価値は低くみられていたし価値ないものとされていた
それより原発だとなってしまっていたのである。

金の社会になるというのもグロ−バル経済でそうなった、金の力がこれだけ大きくなったのも世界的金が通用するからである
それでドルが世界の金になったということはアメリカが一番力をもっているからそうなる
ドルは一番信用されているからそうなる、中国があんなに経済が発展しても中国の金が世界で通用ししていないことでもわかる
そてし金がこれほど大きな力をもつようになるとそこに摩擦が起きる
原発避難者が多額の補償金をもらっていわき市辺りで次々に家を建てた、二万人も避難したとなればその摩擦も大きなる
土地が値上がりしたり病院が満員になったとかその土地にもともと住んでいた人たちは迷惑になった
これは自分の町でも起きたことである。
そして避難した人たちは「私たちここで消費して鹿島の人を助けているのよ」と言っていた
つまり金をもって金を使う人が一番偉い、消費するものが王様だという社会に生きていたからそうなったのである。
こういう人が特別な人ではない、そういう社会に生きていたからそれが常識ともなっていたのである。
でもそうして小高と鹿島の人たちは金をめぐって分断されたのである。

こういうことは移民にも起きてくる、ただ金が欲しくて日本で金を稼ぎ仕送りする、その目的は移民にすれば金しかない、
受け入れる方でも部品を合わせるように人間を見ているのである。
それで摩擦が起きる、人間は機械の部品のようになれないからである。文化が違うから適合できないとなる
金があればいい、金さえあればどこでもいいとはならないのである。
そこに積み重ねられた生活がありそこに金があるからと入ってきて何でもいいとはならない、金払うからいいじゃないかとはならないのである。

例えば小さな島でもそれなりの生活がある、そこに大金持ちが入ってきて何でも自由になるのか?
その大金があれば島一つくらい買えるし買っている人もいる、でもその金でそこに昔から住んでいた人たちを支配できるのか?
自由にできるのか?観光ならホテルを作り外から客を呼び込む,リゾートホテルにする、そういうことは実際に起きている
島の人たちはホテルで働くようになる、するとその島の支配者はホテルを経営する資本家だとなる
そこに昔からあったその島ならではの生活はは根こそぎ破壊されるとなる
社があっても漁をするにしてもホテルの方が生活になる金になるからだ、それはこの辺で原発を誘致して事故になったのと同じなのである。そして根こそぎ文化や伝統は破壊され共同体も喪失して人が住まない村や町になったからである
そしてもしホテル経営が観光がうまくいかなくなると島には原発事故で起きたように人が住まなくなるということが起きる

ただこういうことは全世界でグロ−バル経済で起きたきたことである。だから別に日本だけの問題ではないのである。
だからこそ原発という技術開発でも日本では必要となるしグロ−バルな技術競争に負ければバナナも買えないし食料すら買えないとみんな思うようになっている、それがグロ−バル経済に生きている人の心の変化なのである
それは農民だろうが同じなのである。そこで一番の価値は技術だとなる、車でも売れなくななればトヨタが衰退して倒産したりしたら日本は終わりだとみんな思っている、江戸時代なら天候不順で米がとれなければ終わりだとなっているのと違った価値観に生きているのがグロ−バル経済社会なのである。原発もそういうものとして作られたのである。
でも本当に大事なもの、価値あるものはと何かということを原発事故で問われたことは確かである。
それでもグロ−バル経済なのかに田舎でも組み入れられていてそこから逃れられな事実を見て対処しなければならない
だから簡単には解決できない問題なのである。

その時代の人間の気持ちがこうして時代によって違ってくる、車社会に生活しているのと徒歩で生活している時代の人の気持ちは違っている、だから人間はその時代を生きるのであり時代を越えて生きられないとなっているのである。
戦争の時は戦争して死ぬことも普通だという気持ちになっていた、その時代によって人の心も違ってきているのである。
ただ現代を知るには過去を歴史を知る必要があることは確かなのである
グロ−バル経済社会では人々の心もそれを拒否したとしてもそのシステムの中で生きているからそうした気持ちは同じなのである。
どうしても漁業でれ農業であれ林業であれそうしたものの価値は低くなり原発でも電気でも車でも技術の価値が高くなる
食料など世界のどこからでも入ってくる、日本の農業などに関心がなくなり価値がないとも見てしまうのである。
それはグロ−バル経済の中で否応なく生きているからそうなっているのである。
だから人間は時代を越えて生きられないのである。

posted by 老鶯 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2018年07月11日

西日本の大雨の被害も津波とにていた (早めに避難することができないで死んだ人もいた)


西日本の大雨の被害も津波とにていた

(早めに避難することができないで死んだ人もいた)

今回の広島などの土砂崩れとか水害と津波の被害はにていたところがあった
まずあんなに大きな被害になるとは内部でも外部でも思っていない
ただ同じ地区で土砂崩れで50人とか死んだ地域では死んだ人はゼロだった
それで教訓が活きたのかとなる

みんなやはりこうした被害を想定していない、ここではそなことが起こりえないとか思っていた、でも必ず想定外のことで被害が大きくなる
実際には200年前に被害があったとか調べるとある
そこに50年とか住んでいた人はここでは被害は聞いたことはないとかなる
でも50年住んでいても人間の時間間隔では大災害に対処できないそれで津波の時はかえって老人はここに津波が来ないということで逃げずに死んだのである

また避難するときむずかしいのは家にはいろいろなものがありそれを置いて逃げるのが簡単にできないのである。命だけ助かればいいとは人間はならない
家は一番安心する場だと思っている、それは理屈ではない、人間は家があって生活している、だから家から簡単に離れられないのである。
それが弱点となる、動物でも鳥でも危険を察知すれば即座に逃げるからである
何ももたないから逃げやすいのである

文明が発達すると何かかえって第六感みたいなものが衰える、こんなに雨が降ったことが今までにないな、これは危険だとならない、みんな天気予報だとかを聞く
そこで避難指示がでて避難する、でも自ら判断して早めに避難した人は助かったという人もいる、その時やはり危険を察知する感を自らもつ必要もあるが今はメデアとか他者に頼る、それで判断が遅れる
文明はそうした様々な外部のものに頼るシステムになっているからである
でも緊急の場合は自ら判断して逃げないと遅くなるのである
一分一秒を争う場合があるからだ、他人のこともかまっていられない

津波ではそうして他人のことを心配して見に行った人が津波にのまれて死んだのである
それは老人だったのである。
今回も老人が多く死んだというとき老人は家にこだわり行動が鈍くなるからそうなる
そして過去の経験にこだわる、ここで50年いるが災害が起きたことはないとかなる
だから老人を見に行って若い人が死んだというのは自然の摂理にも反していた
若い人は助かるべきであり老人が死ぬのが順序だからである
それは何か高齢化社会でもそうなる、老人のために若い人が犠牲になるのはおかしいともなる、自然の摂理に反するともなる

ともかく災害でも人間の時間間隔は短い、百年いたとしても短いのである
家の方が人間より長く残っている,すると家の方が寿命が長いから後世に残る
自分の家を建てた家族も確かに40年くらいは住んだが死んだ
その後に今度は自分が跡を継いで住んでいる、つまり家は二代続いて住める
人間の命は短い、だからその短い間隔で判断にすると間違うのである
百年二百年千年単位でも災害は日本では常に起きてきたからである

緊急時に避難するとき確かに近所の人とかに相談するとかして逃げやすいとかある
でも時間が切泊しているからそれで判断を間違うこともある
逃げなくても大丈夫だよともなるかもしれないからだ
この辺で原発が爆発したとき何が起こったかわからない、そもそせ原発のことが皆目わからなかったのである。放射能がどうのうこうのもわからなかった
だから自分は一番放射線量が高い時外を出歩いていた、他の人は家に籠っていたのである半分は30キロ圏外でも避難したのである。
バスを用意するがたりないとか良く市の人が言っていることものみこめなかったのである回りの人が避難したかどうかもわからなかった
ただ自分の場合介護していたので避難できなかった
でも半分は避難したのである。

ともかくなぜこんなに大きな被害になったのか?
河川改修することは今年に予定されていたが間に合わなかったとかもある
なぜならこの辺は二回水害の被害があり自分の家は街で一番低い所にあり被害が大きかった、でも河川改修して被害がなくなったからだ
津波の時もすぐ近くの堤防から水があふれた、津波は最初に川を上ってくるのである
でも河川改修して土川幅を広く土手を高くしたからここまであふれなかったが危なかったのである。

ただ広島でも砂防ダムができたから安心だとかいってここに住んだという人も被害にあった、それは三陸の方でも津波の防潮堤を高くして安心だとしても想定外の津波が来て大被害にあったのと同じなのである。
人間の技術には必ず限界がありすべてに備えることはできない、なぜなら必ず想定外のことが起きるからである。
だから江戸時代には日本では災害から逃れられないとなるべく早く逃げることに専念した江戸では大火があり長屋のような所でなにももたない生活をして逃げることを優先した
そして火事になったら手早く壊すことに専念した
それも災害に対処する知恵だったというのもわかる

だから技術には限界があるから逃げるということを優先するというのも知恵なのである。
日本は本当に自然災害から逃れられない国である。それもどこで起きるかわからない
東南海地震津波が起きるといっても起きない、別なところで起きているからどこで起きるかわからない、そして意外な場所で甚大な被害になる
そして砂防ダムでも役にたたなかったとなる、200年に一度の大雨に対処できなかったとかなる、そういうことの繰り返しなのである
だから自然災害では命を優先して逃げるのが先決だとなる
ただそのことが一番むずかしいのである、時間が切迫しているから判断を躊躇していると死んでしまうとなるからだ、ここが人間の弱点なのである
津波で助かった人はその後なにもいらないとか言っていたのはやはり命だけでも助かったことでそうなったのである。

今回の大雨で被害にあわれた方々にお悔やみ申し上げます

posted by 老鶯 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

静岡の常葉大学の学生が来る (卒業論文で市町村合併がテーマ)

 静岡の常葉大学の学生が来る

 (卒業論文で市町村合併がテーマ)

 駅でインターホンで話している人がいた、乗車賃を払おうとしたが払えない、それでわからなくてインタ−ホンで原町駅の人に聞いていた
 それでちょうどその分の金がないので一万を自転車屋で交換してもらった
 金が多くても困るし少なくても困る、でも無人駅なのだからそのまま出てもわからないのである、だからこうして通り過ぎてわからないのに金を入れる人がいるから日本人は真面目な人が多いのかなとなる、もし外国だったらそういうことがないかもしれない、自分に何かそういうことがなかったから感心しているのである。
 こういうことで無人の販売店でも金が置かれている商売が日本では成り立つ、外国では成り立たないと思う

 その人は市町村合併をテーマにして卒業論文を書くために来ていた
それでこの辺の事情をいろいろ教えてやった
社会環境学部だという、何か最近環境学部というのがはやりだとなる、これも時代なのだろう

とにかく大学が多いのには驚く、時々自分のプログに来る人を調べる、すると大学から来る人がある、その大学の名前もわからない、なぜそしてこんなに大学あるのだろうと思う
日本には 764 大学あり、そのうち約 8 割が私立大学
日本に存在する60パーセント以上の大学はFランク大学である

456もFランなのか?何かわからない大学が地方にも増えたのである。
大学の価値はすでに50年前から相当に低下していたのである。
私立文系などはそうである、現代の大学の特徴は国際化とか環境学部とか情報学部とか現代にあった学部が生まれたことである。
浜岡原発がありそれでここにも関心をもったのかもしれない。
でも国際とつくと何かFランだとされている
自分もFランとたいして変わりないのである。
大学でほとんど勉強していないからである

正直大学は増えすぎた、だから質も劣る、実際一割くらいしか大学と言えるものであり後はただ名前だけなのである。大学とつくと何か名前で偉そうに見えるのである。
だからこの名前を変えないと時代にそぐわないのである。

駅はこのようにいろんな人が来る出会う場所だということである
最近駅ですることがないが前にはネパ‐ルの人と出会ったり出会いの場所なのである
外部の人を迎える場所でもある、自分が日ごろしていることだったから説明できた
案内もできたとなる
その人は静岡市から来たという、そこで清水市とかがあったがこれも合併で静岡市の清水区になったというから合併の影響があった
静岡市というのがわからない、清水市とか焼津市とか知っているが静岡市というのがわからなかったからである。静岡県があり静岡市があった、福島県があり福島市がある
でも仙台市があっても宮城県なのである。全部がそうはなっていない
合併して元の市町村がわからなくなる、相馬市だってもともと中村だったけど相馬氏が野馬追で知られいるということで相馬市にしたし南相馬市にしたのである。
そうすると前の歴史がわからなくなるのである

その人は鹿島の区役所に行って聞くと駅を去った、一日泊まってとか調べるのかもしれない、そういう人はここにはずいぶん来ているだろう
医者でもここを研究の場にして名をあげるとかそのことが目的で来るから問題だと指摘されていた
この辺は自分でも追求してきたけどあらゆることの問題の場所になったのである。
自治体のありかたを調べるというがそれもここでは問題になた
だから社会環境学部とかでもここは良い教材になってしまうのである

2018年07月12日

温泉の国(many hot springs country)


温泉の国(many hot springs country)

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Mt.Fuji

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地震と火山と温泉と海の国

溶岩の凝固した岩はまだ熱を発しているのか
日本の国土は若々しい
温泉にひたり岩石からのエネルギーを受ける
自然の治癒力が体も心も癒す
日本列島はいかにして生まれたか
連続する火山の爆発で生まれた
故に温泉がいたるところに今も湧く
その効能は様々であり
日本の自然の力をここに受けよ 
 

 日本の国土の生成は大陸と比べると若い、日本は地震が多いとか津波とか災害が多い
それは日本の成り立ちによっている,日本は火山が今も活発に活動している
絶えず地震があるのもそのためである。
それで温泉がいたるところにある,それが日本の国土の特徴なのである。
そして四方を海に洗われている、海の影響も受けやすい国なのである。
岩でも溶岩流が最近火山から噴出して固まったような感じになる
まだ熱を出している感じになる、山でもそうである
それは火山が噴火して最近作らたようであり今でも造山活動をしている感じになるのだ
だから温泉がいたるところに湧いていてそれが体にいいのである
効能が様々にある、だから日本は温泉の国なのである。
 
   
(poem)

Earthquakes and volcanoes, hot springs and the sea country

Is the coagulated rock of lava still generating heat?
The land of Japan is youthful
Receive energy from mountains and rocks from hot springs
The healing power of nature heals body and mind
How was the Japanese Archipelago born?
Born in a series of volcanic explosions
Hot springs still spring now everywhere
Its efficacy is varied
you will accept the power of Japan's nature here


(sentence)

Japanes land is younger than the continent, Japan has many earthquakes and tsunamis and many disasters
It is due to the origins of Japan, Japan is still active volcanoes
That is why  is constant earthquake.
That is why hot springs are everywhere, which is characteristic of Japan's land.
And it is a country that is easily affected by the ocean, which is washed in the sea on all sides.
Even in the rocks, the lava flow has recently erupted from the volcano and it seems to have solidified

It is feeling that I'm still putting on a fever, even on mountains
It seems that the volcano erupted recently and it is still feeling that it is doing orogenic belt for geological mountain-forming 
So it is good for the body that hot springs are sprinkling everywhere
There are various efficacies, so Japan is a hot spring country.




原町の菊池ス−パ−の回りの豪邸は船主 (庭だけで一千万以上かかっている?)


原町の菊池ス−パ−の回りの豪邸は船主

(庭だけで1千万以上かかっている?)

菊池ス−パ−の回りの立派な家は庭が広くそこに置かれた石が大きい
だから石が好きだから自分は感心していつも見ていた
でも今日その家が船主の家であることが分かった
車を見たらその中に・・・丸とか書いてあったからだ
これは船の名前だからである。

それでなるほどこれだけの庭と家を作れるのだなと納得した
この辺では新築の家が次から次と建った、そしてそこはニュータウンとなった
その家を見ていると2500万タイプの建売住宅と5000万クラスに見えるもものがある
でも庭だけであそこう見たら二三千万かもしれない、石が意外と高いからである
一千万は軽く越えているだろう

ただ鹿島区にはあれだたけ立派な庭はない,それなりの家はあるが庭にはあんな大きな石はない、ただそこでも船主の家がある、それはやはり車で・・・・丸と書いたものがあったからだ、ただニュータウンには鹿島区の人が建てた人もいるがどうも外部から来た人たちが建てたらしい、磯部の人が建てたは聞いた、どういう人が住んでいるのかわからないのだ、他にも小高とか浪江でも双葉とかでも建てているかもしれない
補償金を一億とか軽くもらっている人がいるからだ
だからあれだけの庭を作れるとやはり船主だったのだと納得した

とにかく船主とか漁業権の問題は法律的にどうなっているのか疑問である
なにかそこを追求していない、なぜ漁業権を東電に売り渡すことができたのか?
そして事故前も多額の補償金をもらえたのかというのも納得いかないのである。
それで原発御殿が建ち回りからうらましがられていて不満があった
それは何か漁業権というのが本来の権利ではない、東電に売るための漁業組合の利権化していたのである。
そしてそもそも漁業権は資源の保護とかのための権利であり法である
東電に売り渡して多額の補償金を得るためのものではなかった
なぜそんな権利があったのかということ行使できたのかも納得いかないのである
原発は漁業権を得ることと原発を建てる土地を確保するだけで知事の許可で建てられたというのも信じられないとなる

なぜこういうようになったかというと事故が起きてそうなった、事故が起きなければとやかくあまり言わないしわからなかったのである。
ここに全く民主主義が機能していなかったのである。
原発を建てるとき漁業権が漁業組合とか船主のものでなければ自治体のものだったらそれは自治体に属する人たちの賛同が必要になる
議会でも議論することが必要になる、そこには賛否両論があるがともかく議論は議会でする、そして最後は市長選となり原発賛成と反対の政策を主張して決着する
その手続きを踏むことが民主主義なのである。
それがないことは民主主義が全く機能していなかったのである

ただ漁業組合の漁業権が自治体と別に設定されていて自治体から認可されていたわけでもない、そして東電に漁業権を売り渡す権利があったかどうかもわからないのである。
それはいろいろな解釈があったとしてもそれが正当な権利として認められるかは疑問だったのである。一つの過去からの慣習してあったのでありだからといって東電に売り渡す権利があったとは思えないのである。

別に金持ちがいてもは正当なものであれば回りでは何も言わない、それは地元に貢献したとか共同体で認めるものとして金持ちもいるからだ
例えば500万かけて石を組んだ庭を作った人がいた
その人は歩合制でトラック一台分でいくらとかもらっていた、その人は倍もそうして荷物を運んで金をためて若い時に家を建てて庭を作ったのである
そういう人には別に誰も文句は言わないのである。
パソコンを発明したビルゲイツとかジョブスとかそういう人がけた外れの金持ちになってもアメリカにそれだけ貢献したのだから誰も言わないし認められているのである。

でも船主とか漁業組合で漁業権を盾にして金持ちになったとか原発の補償金で金持ちになったというのは納得いかないとなる、他でも被害した人たちがいても大方は何にももらっていない、なぜそれほど手厚くするのかということでもめたからである。
原発御殿から原発長者になったと人がいてそれが回りから承認されるのか?
それは国民からの眼もあり許されるのか?なぜならそれは国民の税金も入っているからである。
相馬市の総合病院でも特等室に入って家を建てると言っていた人もやはりそういう船主だったのである。
請戸の人だったからである。

まず船主とか漁業組合に加入している人でも生活には困らない、魚が一匹もとれなくても困らない、事故前もそうだったし事故後も手厚い補償金をもらいつづける
それは廃炉までとかなるし多分30年とかも継続されるのである。
だからこそ生活は保証されているから豪邸を建てることができたのである。
原町だと鹿島より地価が高い,でも原町だとあれだけの家を建てても目立たないかもしれない、原町は広いし家も多いしいろいろな家が建っているからである

いづれにしろ金になればいいとかしか今は考えなけどそれだけで社会がみんなが認めるのか?そうはならない、自分も石が好きだから庭を見て感心するけど認めることができないその庭でも汚れたものに見えてしまうのである。
この世の中金の世界になっても金ですべてができる通るとはならないのである
回りから共同体からの承認が必要なのである。
共同体というとき大きくは国家でもそうだし小さいと村単位にもある
そういう共同体の承認があって金も許容される、それがなくなると世の中に不満が鬱積していつか爆発する、格差社会と階級社会はだから金持ちにとっては非常に危険になる
下層階級化した人々が襲うようになる、一揆のようなことが起きるからである

タグ:漁業権 船主
posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連