小規模漁業と農業の崩壊
(原発事故で漁業権の矛盾が露呈された)
管理の分断化と規制の弱体化は、最も身近にある海岸線においてでさえ、共通した課題となっています。そしてその海岸線を越えたところにある公海(海域の70%に相当し、国の管轄を超えて毎年11万トンもの魚が収穫される海域)は「未開拓」のままです。
公海の管理がなされていないという事実は、トロール漁や他の破壊的な漁業手法による、持続”不可能”な搾取を可能にしてしまいます。10億人以上の人々が、魚介類を主要なタンパク源としており、沿岸部に住んでいる数百万人もの人々の食料は、彼らの地域の漁業に完全に依存しています。
しかしながら、破壊的な漁業が原因でそれら沿岸地域の漁業は減少し続けており、地元の人々は食料と生きる術を他で探すことを強いられています。これは既に西アフリカで起こっており、「ヨーロッパへの不法移民」という前代未聞の形で、沿岸漁業が崩壊した結果として現れています。
Okineの夫はアックラ沿岸の小規模漁業に従事する数千人の漁師のうちの一人だ。彼らは沖合いで操業する近代的な外国漁船にはとてもかなわないのだ。
ジェームスタウンの漁民集落の頭のAto Sartohは「多くの仲間が犯罪やおかしな仕事に手を染めた、政府や関係機関が, 我々を見捨てているからだ」とIRINに語る。
弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行です。
☆ 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないでしょうか。
海は理解しにくい、海は境界がない、海をまず所有するということになじまない、土地だと境界を作りやすいし土地でも国として所有できる、海は所有しにくいのである
だから公海の方が多くそこで自由にどこの国でも魚をとっている
それを可能にしたしのが技術の発展だったのである
社会を変えるのが技術だということは歴史で示されてきた
原発事故も技術の発展で起きたことである。
江戸時代でも戦前までも基本的には日本でも自給自足地産地消が基本的な生活であり地元密着型である、その土地からの養分で生きている植物とにていたのである。
だから零細な漁民がいて漁港が日本の海をとりまき点々とあった
それは沿岸漁業であり遠くにはいかないが遠洋漁業とも発展した
漁業というのもその土地に根ざしてあったのはその土地でしか暮らせない、技術がないから暮らせないのである。
でも技術が発展するとそうした小規模の漁業でも農業でも破壊されるのである。
点々と地域に根ざした漁業より大規模な資本と技術で大きな船で大量に魚をとる
遠洋漁業もする方が金になるとなる、小規模な漁業は効率的でないとなる
それは小規模農業が成り立たなくなるのと似ているのである
技術の発展はいいように見えてもまたその反動がある,悪い面を必ずもたらすのである
だから何か技術の発展がなんでもいいように見えても必ず悪い面をもたらすから本当はそれも考慮しなければならないのだが人間はしない、技術はどんな分野でも全面的に肯定されるし推進することを要求されるのである。
核の開発などでも発明などでもそもそもしない方が良かったという判断もありえたが人間はそういうことをしないのである
この漁業の問題も技術の発展と関係していた、大型の船が根こそぎ魚をとり魚が減るということもそうである、技術の発展がなければこうはならなかった
そして海には境界がないから余計にそうなったのである。
つまり地域に根ざした零細な漁業でも資本主義社会では成り立たなくなる
大きな資本で会社を作り大型の船で大量に魚をとる方式になる
農業でも大規模農業しか成り立たなくる、零細な農民はすでに田でも委託している
田舎が農民から成り立っているのかとなると今はそうではない、一割にも満たないのが農家でありそこで成り立つのはトマトをハウスで作るとか花を作るとか果物を梨を作るかとなる、この辺では梨農家は農家として成り立っているのである
漁業でも小規模な零細漁民は後継者がいないとか成り立たなくなっていたのである。
ただわからなかったことはこの辺では港のある所に原発御殿が建っていた
漁業権がありそれを東電に売り渡して補償金をもらっていたからである。
だから別に魚をとれなくてもいい生活ができていたのである。
そして矛盾しているのは原発で汚染水がとまらないと漁業組合が抗議する、すると補償金が増える、だから実際はもっと汚染水を出してくれとまでなるとまで言える
つまり漁業組合でも原発事故でも金には困らないし真っ先に近くでも新築の家を建てた
金には困らないから立派な家を建てたのである。
それは避難区域の人がいわき市に2万人も避難して次々に新しい家を建てたのとにている
そして家の前の海にも権利があるとして主張して補償金をもらおうとしていたのである。
NHKで新地の漁民のことを放送していたが魚が放射能汚染で売れないとかなんとか同情していたがそれがしらじらしいとなる
漁業組合では別に魚がとれなくても補償金がもらえる、それも廃炉まで30年とかなると長いのである。ほかの人は確かに補償金をもらったがすでに打ち切られているからだ
これも元を正せば技術の発展の結果として起きたことである
核の技術がありそれが地域を根こそぎ破壊するようにもなったのである。
でも漁業権というけどそれはもともと漁民がその土地で暮らせるための権利である
東電とかに売る権利などなかったのである。
それを法律的に見たらそんな権利がないのである。
そういう権利が漁業権ではないからだ、だから今になるとなぜそんな権利を漁業組合がもって東電に売り渡したのかと怒りにもなる
それは権利の乱用だったのである。
NHKはいい放送してもここでも真実を報道していない
ただ報道するときもし自分のようなことを報道したら誰も取材してくれないのである
でもNHKの怖さは見る人が多いからそうなのかとなってしまうことである
そのことが誤解を生み危険なものとなる、真実が報道されないことは原発事故につながったからである。「安全神話」が作られて事故につながったからである。
問題は漁業組合だけに漁業権があるとしてそれを乱用されたことである
自治体がその漁業権をもっていたら東電でも政府にノーと言えたからである。
漁業権は自治体のものであって漁民のものではない、そうした権利は時代とともに変わるのである。
法律はルールは絶対ではない、サッカーでフェアプレーの差で日本が最後は攻撃しないでも買ったけどそれこそフェアプレーではなかったという批判にさらされた
これもルールを作ったのはいいが乱用された例である
法律とルールは絶対的なものではない、時と場合によっても変わる
それは警察が一方的に職務質問するのもそうである。時と場合によるがそれも無視されるのである。
いづれにしろ船主などはあまりにも優遇されていた、権利が濫用されていたのである。
ただ大きな視点で見れば技術の発展が社会を変える,技術は常に肯定されるからそれをとめることはできない、零細漁業とか零細農業は資本主義社会では破壊される
つまり巨大会社組織となりイオンが進出して小商店がつぶれてシャッター通りになったとかそういう時代の流れがあり漁業でも農業でも小規模なものは成り立たなくなる
「小良ヶ浜」など双葉にあったけどそこは狭い場所であり港もなく船を海岸にあげていたのである。三陸辺りでも点々と小さな漁港があった、それはその土地に根ざした漁業だったのである。
小良が浜(おらがはま)とはまさに俺の海だという主張だったのである。
原発でも核の発電も小さい原子炉で発電すれば事故になってもこんな大災害にならないというとき何か大きなものは何でもいいという発想は問題なのである。
何か風力発電は自然に作用されたものでありそれほど悪くないなと見た
風景としても風で回るから自然的だなとも見る
ただソーラーパネルは景観とか土地を悪くするから問題である
山だと土砂災害などが起きて危険なのである。
ただ自然エネルギーは恒常的にエネルギーをとれるから尽きることがないからいい面はある、石炭でも石油でも枯渇したりするし値段が高くなったりするからである。
技術の発展が何でもいいということはなかいことを歴史は示している
その反作用がかならずありそれが社会を破壊する、その時今回の原発事故のように甚大な被害をもたらすのが技術である。それはコミニュティや社会そのものを破壊するのであるそして小農主義とか地域主義とかが見直される、地方創生などというのもこうして今まであったものが破壊された結果として志向されるようになったのである。
技術発展が科学がすべて社会に良いものとしてもたらされないのが人間なのである。
その認識が希薄なのである。大規模なものがすべていいともならない
なぜならもともとあったコミニュティが破壊されることは深刻なものとなる
それがこの辺で原発事故で証明されたからである。