2018年07月01日

小規模漁業と農業の崩壊 (原発事故で漁業権の矛盾が露呈された)


小規模漁業と農業の崩壊

(原発事故で漁業権の矛盾が露呈された)
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管理の分断化と規制の弱体化は、最も身近にある海岸線においてでさえ、共通した課題となっています。そしてその海岸線を越えたところにある公海(海域の70%に相当し、国の管轄を超えて毎年11万トンもの魚が収穫される海域)は「未開拓」のままです。

公海の管理がなされていないという事実は、トロール漁や他の破壊的な漁業手法による、持続”不可能”な搾取を可能にしてしまいます。10億人以上の人々が、魚介類を主要なタンパク源としており、沿岸部に住んでいる数百万人もの人々の食料は、彼らの地域の漁業に完全に依存しています。

しかしながら、破壊的な漁業が原因でそれら沿岸地域の漁業は減少し続けており、地元の人々は食料と生きる術を他で探すことを強いられています。これは既に西アフリカで起こっており、「ヨーロッパへの不法移民」という前代未聞の形で、沿岸漁業が崩壊した結果として現れています。

 Okineの夫はアックラ沿岸の小規模漁業に従事する数千人の漁師のうちの一人だ。彼らは沖合いで操業する近代的な外国漁船にはとてもかなわないのだ。
ジェームスタウンの漁民集落の頭のAto Sartohは「多くの仲間が犯罪やおかしな仕事に手を染めた、政府や関係機関が, 我々を見捨てているからだ」とIRINに語る。


弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行です。
☆ 漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。
主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないでしょうか。


海は理解しにくい、海は境界がない、海をまず所有するということになじまない、土地だと境界を作りやすいし土地でも国として所有できる、海は所有しにくいのである
だから公海の方が多くそこで自由にどこの国でも魚をとっている
それを可能にしたしのが技術の発展だったのである
社会を変えるのが技術だということは歴史で示されてきた
原発事故も技術の発展で起きたことである。

江戸時代でも戦前までも基本的には日本でも自給自足地産地消が基本的な生活であり地元密着型である、その土地からの養分で生きている植物とにていたのである。
だから零細な漁民がいて漁港が日本の海をとりまき点々とあった
それは沿岸漁業であり遠くにはいかないが遠洋漁業とも発展した

漁業というのもその土地に根ざしてあったのはその土地でしか暮らせない、技術がないから暮らせないのである。
でも技術が発展するとそうした小規模の漁業でも農業でも破壊されるのである。
点々と地域に根ざした漁業より大規模な資本と技術で大きな船で大量に魚をとる
遠洋漁業もする方が金になるとなる、小規模な漁業は効率的でないとなる
それは小規模農業が成り立たなくなるのと似ているのである

技術の発展はいいように見えてもまたその反動がある,悪い面を必ずもたらすのである
だから何か技術の発展がなんでもいいように見えても必ず悪い面をもたらすから本当はそれも考慮しなければならないのだが人間はしない、技術はどんな分野でも全面的に肯定されるし推進することを要求されるのである。
核の開発などでも発明などでもそもそもしない方が良かったという判断もありえたが人間はそういうことをしないのである

この漁業の問題も技術の発展と関係していた、大型の船が根こそぎ魚をとり魚が減るということもそうである、技術の発展がなければこうはならなかった
そして海には境界がないから余計にそうなったのである。
つまり地域に根ざした零細な漁業でも資本主義社会では成り立たなくなる
大きな資本で会社を作り大型の船で大量に魚をとる方式になる
農業でも大規模農業しか成り立たなくる、零細な農民はすでに田でも委託している
田舎が農民から成り立っているのかとなると今はそうではない、一割にも満たないのが農家でありそこで成り立つのはトマトをハウスで作るとか花を作るとか果物を梨を作るかとなる、この辺では梨農家は農家として成り立っているのである

漁業でも小規模な零細漁民は後継者がいないとか成り立たなくなっていたのである。
ただわからなかったことはこの辺では港のある所に原発御殿が建っていた
漁業権がありそれを東電に売り渡して補償金をもらっていたからである。
だから別に魚をとれなくてもいい生活ができていたのである。
そして矛盾しているのは原発で汚染水がとまらないと漁業組合が抗議する、すると補償金が増える、だから実際はもっと汚染水を出してくれとまでなるとまで言える
つまり漁業組合でも原発事故でも金には困らないし真っ先に近くでも新築の家を建てた
金には困らないから立派な家を建てたのである。
それは避難区域の人がいわき市に2万人も避難して次々に新しい家を建てたのとにている
そして家の前の海にも権利があるとして主張して補償金をもらおうとしていたのである。

NHKで新地の漁民のことを放送していたが魚が放射能汚染で売れないとかなんとか同情していたがそれがしらじらしいとなる
漁業組合では別に魚がとれなくても補償金がもらえる、それも廃炉まで30年とかなると長いのである。ほかの人は確かに補償金をもらったがすでに打ち切られているからだ
これも元を正せば技術の発展の結果として起きたことである
核の技術がありそれが地域を根こそぎ破壊するようにもなったのである。
でも漁業権というけどそれはもともと漁民がその土地で暮らせるための権利である
東電とかに売る権利などなかったのである。
それを法律的に見たらそんな権利がないのである。
そういう権利が漁業権ではないからだ、だから今になるとなぜそんな権利を漁業組合がもって東電に売り渡したのかと怒りにもなる
それは権利の乱用だったのである。
NHKはいい放送してもここでも真実を報道していない
ただ報道するときもし自分のようなことを報道したら誰も取材してくれないのである

でもNHKの怖さは見る人が多いからそうなのかとなってしまうことである
そのことが誤解を生み危険なものとなる、真実が報道されないことは原発事故につながったからである。「安全神話」が作られて事故につながったからである。
問題は漁業組合だけに漁業権があるとしてそれを乱用されたことである
自治体がその漁業権をもっていたら東電でも政府にノーと言えたからである。
漁業権は自治体のものであって漁民のものではない、そうした権利は時代とともに変わるのである。

法律はルールは絶対ではない、サッカーでフェアプレーの差で日本が最後は攻撃しないでも買ったけどそれこそフェアプレーではなかったという批判にさらされた
これもルールを作ったのはいいが乱用された例である
法律とルールは絶対的なものではない、時と場合によっても変わる
それは警察が一方的に職務質問するのもそうである。時と場合によるがそれも無視されるのである。

いづれにしろ船主などはあまりにも優遇されていた、権利が濫用されていたのである。
ただ大きな視点で見れば技術の発展が社会を変える,技術は常に肯定されるからそれをとめることはできない、零細漁業とか零細農業は資本主義社会では破壊される
つまり巨大会社組織となりイオンが進出して小商店がつぶれてシャッター通りになったとかそういう時代の流れがあり漁業でも農業でも小規模なものは成り立たなくなる
「小良ヶ浜」など双葉にあったけどそこは狭い場所であり港もなく船を海岸にあげていたのである。三陸辺りでも点々と小さな漁港があった、それはその土地に根ざした漁業だったのである。
小良が浜(おらがはま)とはまさに俺の海だという主張だったのである。

原発でも核の発電も小さい原子炉で発電すれば事故になってもこんな大災害にならないというとき何か大きなものは何でもいいという発想は問題なのである。
何か風力発電は自然に作用されたものでありそれほど悪くないなと見た
風景としても風で回るから自然的だなとも見る
ただソーラーパネルは景観とか土地を悪くするから問題である
山だと土砂災害などが起きて危険なのである。
ただ自然エネルギーは恒常的にエネルギーをとれるから尽きることがないからいい面はある、石炭でも石油でも枯渇したりするし値段が高くなったりするからである。

技術の発展が何でもいいということはなかいことを歴史は示している
その反作用がかならずありそれが社会を破壊する、その時今回の原発事故のように甚大な被害をもたらすのが技術である。それはコミニュティや社会そのものを破壊するのであるそして小農主義とか地域主義とかが見直される、地方創生などというのもこうして今まであったものが破壊された結果として志向されるようになったのである。
技術発展が科学がすべて社会に良いものとしてもたらされないのが人間なのである。
その認識が希薄なのである。大規模なものがすべていいともならない
なぜならもともとあったコミニュティが破壊されることは深刻なものとなる
それがこの辺で原発事故で証明されたからである。

posted by 老鶯 at 13:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年07月02日

利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)

  利権ばかり追求する巨大組織会社により歪められる

 (権利はrightであり日本にも中国にもその意味はない)

権利という言葉を意味する西洋語は「権利≒法」として用いられており、そこに「正しさ」を意味する点で「権利」という言葉とは決定的に異なっているようです。

権利という訳は何か本来の意味とは違っていた、権とは力ずくで得るという漢字に由来しているというときもこの漢字をもってきたことは問題があった
ただ訳しようがないのでこの訳にした
権利は権理とも訳されていた、ここにresonableという意味が入れば本来の意味に近づくともなる

ヨ−ロッパの文明が入ってきたとき明治維新に日本人はいろいろとまどった
選挙のことでも札入れとかとして理解した、日本にないものだからあるものからイメージするほかなかったからだ
銀行が日本になかったといってもその前進となるもの無尽とか頼母子講とかの相互互助の組織が作られた、それで近くの人の古い家柄なので親立・・・とかの書類が残っていて
その家は信頼される古い家なので親になっていたのである。

だから今の時代は何でも巨大化して本来それがどういうことで成り立ったのか?
どういう趣旨ではじめられたのか?それもわからない、銀行でも証券会社でもそういうものを理解しにくいのである。
そして今や銀行が窮地に追い込まれるときどうするのかというときその成り立ちから考える必要がある,銀行の前進が頼母子講だというときそれは相互扶助の地域の仲間の集まりから生まれたのである。地銀とか信用組合でもそうである。
それはグローバル化で世界の株式市場に参加するときもう理解できないものとなる

つまり現代文明は巨大化であり巨大組織化である、それは世界的に拡大する組織である
その時その意味を理解することが不可能になる
もうそこには人間的な血と情も通わなくなる、金と数字の世界だけになる
統計の世界になり人間のすべては数値化したものとして見るだけになる
世界的貨幣経済になればそうならざるをえない,物でも食料でもいちいちそれがどうしてできたのか、その苦労を語らせたらきりがなくなる

昔の市場だったらこれは苦労して作ったとか栽培したとか語られる
だから高く買ってくれとなる、そういう人間的な場として市があった
そこに市の面白さがあった、今はスーパ−で無数の商品があっても売る人はそれがどうして作られたかなど知らないのである。
ただ生協の人が回ってきてこの豆腐は特別作ったものだか卵も餌を選んで作ったものですよとか言うとき、生協ではそうして作ることを委託しているから説明てきたのである。
スーパーだとそういうことが一切聞けないのである。

江戸時代だとあらゆるものに人間の情とかが通っていた世界である。
もちろん江戸時代を理想化することは危険でもある
つまり過去は理想化される、死者も一旦死ぬと何なのかわからなくなり神格化しやすくなる、それで歴史も誤解が多くなる、たいしたことがない人物でも祭り上げられる
司馬遼太郎は坂本竜馬や吉田松陰を小説で英雄にしたてたのである。
それは史実ではないのだけど一般の人は史実など調べないし興味ないからそれを信じるのである、でも小説でも物語でも真実はふくまれている
良く時代劇で火事で家族が別れ離れになった子供が孤児になったことなどがドラマにするがそれだけ江戸などは火事が多いからありえたことなのである。
焼け焦げた骨格が掘り出されて生々しいものとして見る

権利というとき明治以降に私的所有権が認められたとき無数に個々人の権利が主張されて細分化されて昔の入会権が消失した、その時逆に公共的なものとして山を管理できなくなったのである。土地の私的所有は土地バブルとして一時東京辺りで大問題になった
土地の公有制が失われた私権の権利化したからである
また権利を反対にすれば利権になる、権利はrightより利権として日本では理解したのである。権利を主張することは利権を主張することになった
そのことが戦後の民主主義でもすべてが権利を利権を主張することになったのである。

大組織となるとそこは巨大な利権が動く場であり利権しか見えなくなる
それが原発でもそうなった、それは何十兆円とかの金が動く想像もできない利権だったのである。その利権のために政治家が動き官僚が動きマスコミが動いたのである。
そして安全神話作られたのである。800億円もの金がマスコミに宣伝費として流れた
その利権が莫大なものとしてありそれによって動かされる、right(正しさ)によっては動かない、ただ利権によって動く、それが権利だとなるからだ
そこにすべての歪める基があった、巨大会社は組織は利権によって権利によって動いている、カルト教団が宗教で信仰で動いているというのではない
そこも数を集めて利権をえ得るための団体なのである。
なぜそれほどに数を集めることにどこも奔走しているのか?
それは民主主義が数が権力だからである。田中首相が政治は金と数だといったときまさにそうだった、宗教でも頭数をそろえれば権利を主張できて利権を得ることになる

そこで何が起きてくるのか?すべてが利権で動き権利を主張するとき何が起きてくるのかrightは無視されて社会は歪められる、医療にしても医者とか病院とか薬業界は利権で動く、そして無駄な薬を飲まされる、利権として結びつきそうなる
それはあらゆるところで起きている
利権だけを主張すれば公正な報道はできない、マスコミも利権で動くから原発では公正な報道すらできないし大事なことを報道すらしなかったのである。

権の意味は

いきおい。ちから。「権威」「権力」 Aおもり。はかりの分銅。「権衡」 Bはかる。はかりごと。もくろみ。「権謀」  Dかり。かりそめ。便宜的な処置。「権化(ゴンゲ)」 Eそえ。正に対する副のもの。「権(ゴン)大納言」

権という意味にはrightという意味がないのである。中国の政治的な横暴の意味が強い
巨大な組織は会社でも政治組織でもカルト宗教団体でも権力をもつから権利をもち主張できる、それは医療業界でもそうであり漁業組合でも農協でもそうである
漁業権の問題を論じたが正当なrightはそこになかった
そもそも漁業権はそういう趣旨で与えられていないなかったからである。
ではなぜそれが法律的に許されたのか?
それは政治家が東電が権力を利権をもっていたからである。その権でもって押し通すことができたからである。

もし法律家でも法律でもって正当性をrightを追求したら漁業権はありえない
漁業権は資源の保護とか別な趣旨で与えられていたからである。
それが通ったのは漁業組合が権力をもって要求できたからだとなる
でも法律でrightをreasonを追求したらありえないことだった
それだけではない、なぜ原発が建てられたかというときそれも原発を建てる土地を提供したものと県の権力で命令で建てられたというのも法律的にもありえないことだった
その時そういう法律はなかったから立法なかったから権力があるものが何でも押し通すことができたとなる
法律とはrightを追求する時理由なき権力の横暴を抑制するものとして成立したのではないか?皮肉なことは弁護士でも検察でも今はそれがないという
99パ―セントが有罪になっているとか検察も利権化して出世争いのためにあるとか
天下りの席をえるためとか学者だと御用学者になるとか利権の追求になる

「権利≒法」としてあるときそれはヨ−ロッパの精神の基本にある
法律はもともとrightを追求して成立した、ところが権利と訳したときその意味は失われた、権利が法を作るというとき権力が法を作るとまでなる
力ある者が正しいのでありそれを実行することが法律だとなってしまう
アジアでは中国でもそうして法の精神が養われていないしそういう文化もなかったのである。そもそも法律を作るものが何かを追求してゆけば権力ではない

それで地震研究者は地震を予知できないのに予知できるようなことを言う
そして全く見当はずれの所に地震が起きている
それはなんのためかというと予算が欲しい利権が欲しいからだという武田邦彦氏の意見は参考になる、なぜならあの人は上流階級と支配階級と直接接しているから指摘できる
下層階級しか知らない自分にはそういうことはわかりにくい、一般の庶民でもそういう上流階級支配階級のことはわかりにくいのである。
大金持ちにじかに接し得るのはやはり大金持ちであり資本家であり経営者でありそこで巨額の金が流通されているとなる、そこに役得があり得する仕組みもできているのである。それは田舎の公務員でそうだったのである。それで家族が公務員だったから自分の家でも得していたことを知っているからだ

前にも悪いことをした会社を罰する法律がないから罰することができないということもそうである、それが巨大だからそれを罰することができない
そこで権利が利権のみが主張される、政治家も官僚もマスコミもすべて利権で動くことになる、地元でもそうである。、その利権だけを追求すると今度は原発事故のようにとりかえしのつかない大被害を国を亡ぼすような大被害になる
この辺では町や村が崩壊したように国も崩壊して滅んでしまうのである。
それは利権を権利ばかりを追求するからそうなるのである


団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく (一人暮らしが増えてゆく)


団塊の世代の親が死に同世代も死んでゆく

(一人暮らしが増えてゆく)

その人は子供の時から家の近くに住んでいた、その親も知っていた
ただその後は言葉も交わさない、でも自分の親が介護になったとき
その人が同じ病院で親を介護していたのである。
脳卒中だった、だからこれから介護が長いなと見ていた
でも今日スーパ−であったら親も88歳で死んで妻も68歳で死んだという
その人も一人暮らしになったのである。
そこにまたいたのが近くの一回脳梗塞で足がマヒした人だった
それは同世代でありその人も親が死んだ、その人の親とは自分の親は親しかった
その人は一人だけで原町に弟がいて一週間に一回見にきている
でもう。まくいってないとこぼししていた
何か世話するのが嫌なのかもしれない

子供の時から知っている人が死ぬとやはりあの人も死んだのかとなる
親戚も多い人は毎月お悔みが増える、それが田舎では大変なのである。
自分はほとんどつきあいがなしお悔みも断った
そのお返しとかめんどうになるのである、葬儀もしないうというとき一人でやるのがめんどうになるからだ、介護でもそうだが一人は家事でも全部やらなければならないから負担なのである。
子供の時知っているということは一応他人でも無関心とはならない
ただ今日スーパ−で会った人は役所に勤めていたことは知っている
ずっとこの地に住んでいたのである
近くの人でここに最近移ってきた人は子供の時からいないから向かいの人が死んでも知らなかった、組にも入っていなかったからだろう
ただおばさんとかいてそっちの方の組に入っていたのだろう
そういう人は死んだことも知らないのである。

ともかく68歳で妻が死ぬということもある、そして一人暮らしになる
近くの子供の時から知っている女性も夫が60代で癌で死んだ
そして大きな家に一人暮らしなのである。
このように一人暮らしが増えてくる、これはどこでもそうだろう
団塊の世代の親でも次々に死んでゆく、向かいの女性は85歳だった
その人の親は88歳だった、姉は85歳で死んだ母は百歳で死んだ、脳梗塞で足が悪い人の母親は93歳くらいで死んだ
やはり85辺りになると死ぬ人が女性でも多いと思った
やはり寿命なのだろう

とにかくこんなに次々に知っている人でも死んでゆく、死の世代だともなる
2025年問題が騒がれているけど実感した、今度は親を介護して看取った団塊の世代が大量に病気になったりする、その数が多いからもう国ではめんどうみきれない、財政的にもめんどうみれないとなる、それが2025年問題である
古い家の郷土史をやはり研究している同級生も脳卒中になったが自転車で運動している
でも一回脳卒中になるとまたなるとか見ると弱って見える
この年だとみんな弱ってくる、そして一人だと心細くなる
ただみんな兄弟とか娘とか息子がいるのとは違ってくる
でも娘が東京にいるとか聞く人が二人いた、必ずしも田舎に住んではいないのである。
それもだから介護になったりすると問題である。
妻でも60代でも死ぬ人がいる、夫でも死ぬ人がいる,するとそこで一人になる人が多いのである

このことで問題にして本を出した人がいた、コンパクトシティを作るべきだというのもわかる、介護にしても福祉にしても離れていると一軒一軒回るのでも手間になるからだ
ともかく親でも知っている人でも次々に死んでゆく
死が日常的に感じる世代になった、そして同世代でも死んでいる人もいるし大量に死んでゆく時代になるのだ、その時都会では火葬場すら満員で利用できないとかの問題も起きている、数が多いからそんなことまで起きているのである。
posted by 老鶯 at 18:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2018年07月03日

介護で亀裂する家族 (義母の介護を嫁はできない)


介護で亀裂する家族

(義母の介護を嫁はできない)

「老親の世話や介護というのは、突き詰めれば『親をとるか、妻をとるか』という究極の選択でもあります。あらかじめ自分自身がどちらをとるべきか考えておいたほうがいいでしょう。いざ、という時になると判断が鈍ってしまうものです。

そしてもし夫が妻ではなく親を選んだ場合、妻にとって夫婦関係を続けていく理由はなくなります。だから、夫は捨てられてしまうのです。

お義母さんは絶対にイヤ。お義母さんをとるか私をとるか、きちんと答えを出して。場合によっては離婚です』、妻からこうつきつけられています


人間は家族でもつくづくうまくいかない、妻がいれば介護でも義母でも助かると思う
なぜなら自分は一人で二人を介護したからである。
その時何の助けもない,ただその弱みにつけこまれて犯罪にあい責められるだけだった
もし妻がいればそうはならなかったのである。
そのことで私は反省した、それも自分のカルマだったと自覚した
しかし一方で妻がいてもうまくいっていない、姑とは結婚してもうまくいかない
そのことが尾を引いて介護もうまくできないのである

義母さんをとるか私をとるか?

こんなことを夫に迫られる、家族なのにむごいと思う
自分の場合は二人とも大事でありそういう選択はなかった
そういうのが家族なのか?
ここに家族が血縁でも結婚しても愛あるものとはならない
人間の家族とはそういう宿命を背負っている
子にとって親であっても嫁ぎ先の親は親ではないのである。
こうなると自分の家族にも平和がなかったが家族というものにそもそも平和がありえないともなる、夫がそう思っても妻はそう思っていない
そして夫の実家の墓に入りたくないという女性が三分の一もいるのである
それは義母と一緒の墓に入りたくないからである
そういうことを自分の家族でも経験したからそれはどこの家族でもありえることなのだと実感した
自分の問題は自分の特赦な家庭問題だと思っていたが特殊ではなく普遍的な家族の問題としてあったともなる

結婚しても義母は嫁にとって母になりえないということが深刻なのである。
また義母にとって娘とはなりえないことが介護とかなると露骨に現れる
介護はやはりそれだけ負担が大きいからそうなってしまう
実の母なら介護するが義母は嫌だとなる

だから結婚とはなになのか?それも自分には結婚していないからわからないが家族にはみんな共通した問題として嫁と姑の問題がある
それとも違うがそれとにたことで60年間共に生活しても苦しんできたのが自分だったからである。

つまり人間の結婚とかそこから形成される家族とか自体に問題がある
それは肉の結合でありだからこそ宗教ではそれを否定して出家していたのである。
家族はどこでもこうした問題があり平和がない、それでは家族がないとするとどうなるのか?身寄りのないものはこの非情な世の中で最大の恐怖を生きることになる
誰も親身になり助けるものいていからだ
妻がいれば助ける、でもいなければいかに人間が非情の世界に突き落とされるか実際に経験した,、他人とは金意外何のつながりもない社会である
あいつ死んだらいくら金残しているのかそれしか関心がないのである

でもまた結婚して妻がいてもこうして何かうまくいかない、人間そもそも何かかにか問題をかかえている、一番多いのは金の問題である。
その他にもみんなそれぞれ問題をかかえている
金があっても病気があると金ですべての問題が解決されないのである。
人間は何かがたりない、あらゆるものが満たされている人は一人もいない
何かしらたりないものがありそのことで苦しんでいる
「俺はなんにも困らない」という人はありえないのだ
そう今言っていても一転してドン底に落ちることがありうるのも人間なのである。

人間は何かが足りない、だから足りないものを補い合うというた態度が必要になる
才能でもなんでもそうである、まずあらゆる能力をもっている人などいないからである。社会はそうして様々な能力を活かして補い合い機能している
男女でもそもそもそうだろう、男にたりないものを女性が補い、女性に足りないものを男性が補っている、人間はなぜそうしてたりないものなのか?
それは人間同士が協力しあうようにするためだともなる、何でも満ち足りていれば弱さもなければ協力しあう必要もないからである。

いづれにしろ介護とかでは家族の問題がどこでも噴出する
それは介護が負担が大きいからである。その負担を負わされるのが嫁でも嫌になるからである。それで私をとるのは義母をとるのとかむごい選択を強いられる
それが家族なのか?でも現実はそうなのである
自分の場合は子であるし良くされたからそうした選択はなかった
だからつくづく人間は家族でもうまくいかない、そもそも家族が何なのか?
それに疑問をもったから宗教では出家したのである。
家族が血縁でもそれが本当に愛があるのかとなるとそうではない
まず私をとるのかと義母をとるのかとなど家族だったら強いたりしないからだ
どっちも掛け替えのない家族だから大事にしますよとなるのからだ
それができないということは結婚でも家族でも本当の家族なのかという疑問になる

結局結婚しても結婚しなくても人間は問題をなにかしら問題をかかえる
子供をもっても問題をかかえる、では独り身がいいとかなるとこれもは過酷だとなる
人間はそれぞれのカルマを背負って生きるとなる
そのカルマは人間が生まれと同時に原罪のように背負わされていて解消できないのであるようやく死んでカルマ解放されるとなる

人間はいいことがあると悪いことがある

結婚はいいものであるがまた悪いものである、このように悪いことももたらす,でも独身がいいわけではない、いいことと悪いことをもたらす、人間はいいと思うことには必ず悪いことがともなっているのである
金があるのはいいことだけど反面金があると金だけをねらいよってくる人がいるし犯罪にもあったりする
それはあらゆるところでそうなのである。ではなぜそうそうなっているのか?
それが人間がいくらいいものを幸福を求めてもそれは達成されないということである
それは科学技術がいくら発展して便利になってもそうなのである。
そういうふうに神が人間を作ったとしかいいようがないのである。

だからキリストが言った、悲しむ者は幸いである 人間はいくら幸福を求めても達成できない、そして必ず悲しむ者となる
むしろ悲しむ者が幸いなのである。それは不幸が幸いだとも言っている理解しがたいものなのである
そして人間は悲劇に終わるようにできている、それは人間はこうして結婚しても親と妻である私をとるのとか選択を強いることでもわかる、家族として一つになりえないのである
それは家族だけではない、絶え間ない国と国の争いでもそうでありそこに日本だと3百万人が死んだとか犠牲になる
まさにその人たちも悲しんで死んだとなるからだ

ただこの悲しむこと人間のドラマが悲劇に終わることに深い意味が与えられている
ドラマにしてもハッピィエンドに終わるドラマは何か深い意味を与えない、それでシェークスピアの作品が悲劇をテーマにしていることもわかる、悲劇によって人間の生きる深い意味を理解する、それによって人間は考えさせられる
ハッピィエンドだったら何も考えないからである、だからこうしてなぜ家族すら和合しない、平和がないのかとなるのだ
posted by 老鶯 at 09:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2018年07月04日

常磐線の乗降客の変化 (高速と鉄道の相違)


常磐線の乗降客の変化

(高速と鉄道の相違)

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1987年からすると原町駅の乗降客は半分に減っている、仙台とかいわき市だとそれほど減っていないがやはり減っている
この30年の間に車社会になっていったからである

震災以後は三倍に増えたというとき外部からの人が入ってきて仙台行きが増えたのだと思う、近間では増えていないのである。

原町の道の駅で年間の収入が2億円で常磐高速の鹿島のSAが8億円である
原町駅の道の駅も結構にぎわっている、あそこの利点は街と直結しているから買い物とか食事とかしやすいのである。
常磐高速の鹿島のセディティは利用者が多くてもあそこだけであり鹿島の街の方にはほとんど来ない、日曜日はトイレにも女性が並んでいたし学生の中学生なのか団体で来ていてレストランがにぎわっていた、8億円の売り上げがあることを納得する

駅は減る一方だった、それで津波や原発事故で大きな打撃を受けた
でもJRては400億円かけて復旧した、乗降客が半分に減ってもまだここは廃線にはできない

ただ亘理駅の乗降客は一日4000人とか多い、通勤圏でありそうなる、浜吉田ですら1200人とかなっている、このように仙台への通勤圏になっているから常磐線はいいのである
それはいわき市周辺の駅でも乗降客が多いのである。
それは仙台の通勤圏となっているのと同じである。

前からいわき市へ行く車両は二両であり途中の駅で乗降客は少なかった
でもいわき市とつながらないと遠くから来る人には不便なのである。

いわき駅11820人/日 (2015年)
泉駅4512人/日 (2015年)
亘理駅4390人/日 (2015年)
湯本駅4212人/日 (2015年)
内郷駅2180人/日 (2015年)
大津港駅2044人/日 (2015年)
小高駅1622人/日 (2012年)
相馬駅1528人/日 (2015年)
浪江駅1468人/日 (2012年)
浜吉田駅1370人/日 (2015年)
四ツ倉駅1276人/日 (2015年)
大野駅1232人/日 (2012年)
原ノ町駅1186人/日 (2015年)
双葉駅1084人/日 (2012年)
富岡駅948人/日 (2012年)
草野駅778人/日 (2015年)
夜ノ森駅718人/日 (2012年)

これでわかるのはいわき市周辺の駅、泉とか湯本がだんとつに多い
離れていても四ツ倉とか大野でも多い
震災前だと2012はあるが2011年震災前の統計だろう
小高駅が多いのは高校があり通学のために多い
ただ浪江でも1468人は多いと思う
双葉でも1084人とか夜ノ森ですら718人とか多いのは原発があったために人の出入りが多かった、この辺の経済では原発関係で人の出入りが多かったのである。
地元でも原発で働いたという人が多いのである。

今は鉄道をみても経済活動は見えない、車社会になっているから高速の方が人の出入りが見える、ただ高速のSAは確かに人の出入りがあっても街の方に経済効果をもたらさない、そこだけお土産を買ったり食事したりするが街の方には来ない、ただ通り過ぎるだけだとなる

佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首) (春の日にたどる,自然の道,歴史の道)

                                                
佐須から霊山から相馬の城下へ(短歌十首)

(春の日にたどる,自然の道,歴史の道)


山の上に桜映えにき朝日さし流れのひびき巌に真向かふ
                                              
山間の磐を伝いて流れかな桜も咲きてさかのぼるかも

佐須により墓地をたずねぬあわれかな住む人なしや春となれども

春の日に佐須によりにきあわれかな人もなしかも花は咲けども

霊山に向かいし道の山間の陰にしなもお雪残るかな

霊山に大岩座してスミレ咲き鳥の鳴く声通りひびきぬ

霊山にこもれる僧や岩固く骨となららむ春となれども

霊山を下りてあわれ村一つ寺の跡かな春の夕ぐれ

碑の古りて文字定かならじ一時を足をとどめて春の日暮れぬ

相馬なる城下へおりてあわれかな老舗の灯し桜の映えぬ


霊山は貞観元(859)年に慈覚大師によって開山された。東北における天台宗布教の拠点となり、3,000以上もの堂塔(勤行の場)や僧坊(生活の場)が山中に造られ、「北の比叡山」とも言われていたそうだ。その後、南北朝時代に寺院の建築物が城として利用されることになり......

ここでも信じられないと書いているけど3000以上の堂塔があったという証拠もなにもないのである。その疎石すらないとしたら史実とは思えないのである。
ただここがもともと僧坊がありそこに南朝の拠点とした,国司館などが作られた
その疎石は残っているのである。

地名として岩が多いから学問岩とあるときそれは僧坊があったとき学問していた僧がいたからだとなる、山岳宗教が古くからあるし日本はもともと三輪山を御神体としてたように山そのものを神とする信仰があった
そういう日本人の自然信仰が仏教と合体したことは理解できる
ただ3000もの僧坊はありえないと思う
そしたら僧坊で山が埋め尽くされるしそんな大きな山でもないからだ
その言い伝えもはっきりしないのである。
何か伝説でも残っていればいいがそういうものも良くわからないし伝えられていないからだ

真野川をさかのぼり飯館村の大倉から佐須に行く道は歴史の道でもある
佐須という地域は奥深いのである。佐須とは焼き畑の地名でありそれで山津見神社がありそこでオオカミを祭っていた、オオカミは畑を荒らすイノシシやシカを食べるから大神とされていた、とにかく農業は畑をもっている人に聞くとキジに食われたとか、モグラに食われたとか虫に食われたとか野生の動物の被害が深刻なのである。
それは万葉集時代からはじまり鹿垣(ししがき)や猪垣を作って防いでいたのである。
今は電流を流して線で囲み防ぐとかその歴史は継続しているのである。
飯館村でも避難区域になったところはイノシシに畑でも何でも掘り起こされて荒れ果てたのである。

飯館村の佐須は霊山に行くとき必ず通るから印象に残る、そこに乳神と畑に碑があったのも記憶している、その時牛乳はない、牛が飼われたのは戦後なのである。
そういう奥深い所に暮らしがあったということが不思議だともなる
ただ今は人は住んでいる気配がなかった、時々帰って家をみていることは確かであるが住んでいる人は一二軒なのかもしれない、あそこで墓地をまた見た
菅野という姓が多い、村長も佐須の出身だったのである。

南朝が滅びたとき今の玉野で二手に分かれた、一つは卒塔婆峠を通って鹿島の真野に逃れた、そこは中館と言われていた、その時只野氏なども逃れておつづら馬というお浜下りで重要な役をになっていた、もう一方は山上に逃れた、そこに山王神社がある
野馬追いの旗印でも南朝の時の逃れた末裔の旗印は明確である。
杉の紋が只野氏だからである、あとは天皇の菊の紋が菊池氏とかなっている
他に桑折氏もそうである、その人たちの先祖は明確にたどれるのである
ただ卒塔婆峠は森に埋もれて消失してしまった 

まぎらわしいのは霊山神社とか山寺の近くにある北畠神社などは明治以降の神社である
明治維新は廃棄物希釈などがあり仏像などが破壊された、それに代わって国家神道が国のイデオロギーとした、それで明治に建てられた神社がある、そもそも靖国神社がそうだったのである。国家神道として明治維新で戦い死んだ人が祭られている
でも西南戦争で死んだ人たちは西郷隆盛でも朝敵となり祭られていなのである。
国家神道と地域の社はもともと成り立ちが違う、国家神道とは関係ないのである。
産土神(うぶなす)神であり土地土地の神なのである。
エジプトでも無数の神は土地の神なのである。何かそういうことでエジプトというのも日本と共通性がありギリシャの神々でもそうである。
それは人間の普遍的なものとしても宗教があったからそうなる

山上で不思議なのは金谷原といのがありそこに寺の跡があり墓地がある、江戸時代のものである。山上の奥でありあそこがどういう謂れなのかわからない、でも霊山から下ると
そこによるから記憶する、相馬市から高速が福島市へと通じたから今までの道は車が通らなくなった、そしたら何か古道となり観光するにはいいと思った
車が通りすぎると景色を良くみれないとかあるからだ
たから真野川からさかのぼり佐須を通り峠を越えて霊山に上ると残雪の吾妻嶺が望まれるからここはやはり景観もいいし歴史の道でもありサイクリングするにはいい所である
それから霊山から下る時もサイクリングに適している、ほとんど車が通らなくなったから安全でもあり静かになったからである。


春の日短歌十首(飯館村の佐須から霊山から山上へ-南朝滅ぶ歴史の道)

この続編です

2018年07月05日

激動する地球(Turbulent earth)

          
激動する地球(Turbulent earth)

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崖と滝の絵はどこかにある写真のように見える、でもオリジナルな写真から変形したのである。でもそのオリジナルなものとはにているようで違っている
こうしたシーンは地球にあるようでそれを写真にはとれないだろう
だから想像された地形だとなる、それが私自身がソフトで変形させて作り出している不思議がある、これを見たら誰でも実際の写真だと見るからである
でもこういう風景は写真にとられてもいないしないと思う

The cliff and waterfall picture looks like a photo somewhere, but it has been transformed from the original photo. But it seems that it is in the original one and it is different
These scenes seem to be on the earth and it will not be possible to take photos of it
So it will be the imagined terrain, it is a wonder that I myself created by deforming with soft, because everyone sees it as an actual photograph when I see it
But I think that such landscape will not be taken by photography

近くの同年代の人は要支援なのだろう (金がなくて援助が頼めない)


近くの同年代の人は要支援なのだろう

(金がなくて援助が頼めない)

介護施設を利用する際にかかる居住費・食費は保険対象外の全額自己負担となり、これを理由に特養への入居をあきらめる人が増えたという。

要介護状態の利用者が、要支援状態の利用者が多すぎて、本来のサービスが受けられなくなることへの対策という部分が強いように思われます。

要支援が要介護に統合されるのではありません。
介護予防サービスが市区町村の自主サービスになり、介護保険サービスから外れるのです

その人は近くで同年代でありその親と自分の親とは親しかった、でも死んだ
その時はヘルパ−がきていた、農協関係なので来ていた
その後その人は脳梗塞になり足が悪くなった、買い物でも車が運転できるので一人で足をひきずりきている
その人も一人暮らしだが弟が隣の市にいてめんどうみている
でもうまくいかないとか言っている

そして自分のことを一人女性に手伝ってもらっているからうらやましがっている
その人はその女性の前の夫とかと仕事をして知っていたのである。
何か手伝ってもらいたいことがある、でも金がないからできないとかいう

でも自分にしても手伝ってもらうにしてもその女性は三日に一回皿を何枚か洗うだけなのである、その他は一切何もしない、でもその人自体が貧乏だから金をせびられる
あんなふうに遠慮なく金をせびる人もいるのかと思う
その人に自分は手伝ってもらう必要はない、家事は今は全部できる
でも誰も来ないよりはいいと思って金を出している
ただ外から見ているとあの人は金があるからお手伝いさんを雇えるなのだとみる
その人はそう見ている
それは足が悪くて苦しいからそう見るようになる

考えてみれば確かにもし市町村から支援を受けるとしたらその人は優先される、家事を多少手伝ってくれる人が派遣される、要支援になっている
でも要支援が廃止されたから援助が受けられない
ただその人には弟がいるとき今はその弟が支援してくれ介護してくれとこれからなる
介護は誰かに押し付けられそれがやはり兄弟となるとそうなる
現実的には誰も他人が介護したりしない
そしておそらく弟もやっかいだからもめているとなるとこれから重症になったらどうなるのか?

「金があればできるのにな」というがその金でも相当な金持ちでないとお手伝いさんすら頼めない、皿二三枚洗って…円も払わなければならないのか?
自分はやめたいと思っている、その女性も年でありいつもどこが痛いとかいい医者通いであり貧乏なのである。障害者もかかえてその世話に追われている
第一金がないのだから金のない所には行かない
その人のことは知っていても声をかけるが行かない、その負担を背負いようがないからだただ自分のしていることくらいはできる、でも金にならないから行かないのである。

こうして金がないと皿二三枚すら洗ってもらいないというが自分の所に来た親戚というものではないがその人たちは自分が苦しい時でも皿二三枚も洗わなかったのである。
なんの援助もしたくない、借金した人は金を要求して脅迫するまでになる
あとは金をとろうとして現実にそうなって大金を失った
そこに金目当てしかないのである。だから金があっても非常に家に入れることは危険極まりないとなる、へたするとその金のために殺されるともなるし現実にそうなっている
和歌山のドンファンが殺されたのもそのためである。
金の恐ろしさがそこにあった

介護保険とは金のあるなしでなく公平に援助するという制度である。つまり金のある人はある程度お手伝いさんを頼める,でもそれは今では大金持ちしかできない
そしてお手伝いさんを頼むにしても現代では危険がつきまとっているのである。
だからこの世は金だけではなんでも解決しない,一見確かに金をやればなんでもしてくれるではないかというがそうでもない,金だけならその金をねらわれるからだ
動機が金だけになるからそうなりやすいのである。
そこに何かそもそもあわれむとか助ける気持ちがないからである。
福祉とは営利だけではやれないことでありそこに問題が生じている
でも貧乏な人は金が欲しいからするのである
それが動機にならざるをえない、金にならなければ貧乏な人は生活に困っているのだから他者を援助できないのである。

つまり福祉とは確かに金ではあるが金だけでは解決しないことがある
でも金だとみんな思っている、介護士がたりないのは給料が安いからだとなる
なんにも得られないなら人はなにもしてくれないというのも現実なのである。
また介護の仕事をしてそこで得られものは何なのか?それも問題になる
仕事がいろいろあり若い内ならスキルを磨く、仕事に生きがいを見出すとかあるが介護にはないとしたら仕事そのものがつまらない得るものがないとしたらやる人もいない
では金をもらえばやるというとき福祉にはその動機だと勤まらないとなる

福祉が金の世界になるとどうなるのか?
極端な話、水一杯やるから10万出せとかにもなる、これを運んでやるから10万やれとかなる、なにかちょっとしたことでもしてもらうのにそうなる、
お前にはそれだけの金があるから払えるだろうと脅迫されるのである。
福祉が金だけが動機だったら極端でもそうなるのである。
そして逆に金の払えない奴はなにもしないとなるのである

ただ別に元気な老人はいくらでもいる、パ‐クゴルフ場ではそうした暇な老人であふれているし復興住宅に入っている避難者でも遊んでいる
仮設の時も自分も介護だったがそんなこと関心がなく毎日パチンコ通いだった
つまり人材がいないわけではない、きつい仕事ができないにしろ元気な老人はいる
でもその人たちはそうして要支援のような人を助けるかといったらしないのである。
介護は誰もしたくないのである。ただ軽い内ならちょっと手伝うことくらいはできるかもしれない、でもそれすらしない、自分の所に来た人たでもそうである
借金しているからパチンコ屋で働いていて余裕がない、自分の家に来てもなにもしない
ただ金をくれというだけである、その人も余裕がないからそうなる
第一他人の家に来て皿を洗うとかなると普通に暮らしている人はしない
特別貧乏な人がやむをえなくしているのである。
だからそういう人は問題あるにしろありがたいともなるのだ
なぜなら誰も他人の家に来て皿二三枚でも洗ってくれないからである。

これまでこんなことは考えもしなかった、なぜなら食事は三食常に用意されていたし
家事もしない、買い物はしていたが後は何もしなかったからである。
だからこれもつくづく自分のカルマだと自覚した
何か自由に旅行したが今は家に誰もいなくなるのでできない、誰も家を守るものもいないからだ、留守にできないからだ、これも何か自分のカルマだったなと思う
楽していることもやがて必ず苦となりカルマを自覚するのである。

ともかく福祉というとき本当は競争社会に生きてきたのとは違うものが要求されている、助け合いとか相互扶助とかが要求される
それを立派な施設に金をかけたりそこで今度は介護士を雇うとか金がかかる、要支援段階くらいだと相互扶助の近隣とかの助け合いでやれるかもしれない、でもそれすら今はない、共同体とかがない、するとすべて金頼みとなる
結果的に国でもそんなに金を払えないとなるのである。国の金はまた国民の税金なのである。
国民もすると税金をそんなに使わないようにするには要支援とかの軽い段階で助け合いした方が節約になる
ただそんなことを考える人はいない、そもそもみんな自分のことしか考えない、そして金の社会だから金を得ればいいとしかない、


posted by 老鶯 at 13:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 認知症半年の記録

2018年07月06日

麻原彰晃死刑囚の死刑執行 ほかの6人も執行見込み オウム事件で初 (現代文明社会から必然的に生まれたカルト宗教団体)


麻原彰晃死刑囚の死刑執行 ほかの6人も執行見込み オウム事件で初

(現代文明社会から必然的に生まれたカルト宗教団体)

浅原が63歳ということに驚いた、1988年ころから事件を起こしていた
地下鉄サリン事件が1995年だった、23年前でありその時生まれた人は知らないようになった、この事件の謎はなぜこれほど凶暴な団体と化したかである

この事件の特徴は優秀な理系の学生とか若者が多かったことである。
だからこそサリン製造工場まで作れたのである。
時代背景として科学者とか科学の問題として事件が起きた
つまり現代は科学の時代であり科学者が技術者が一番社会で重きをなして力をもっている時代だからこそ起きたのである。それは原発事故でもそうである
科学者が神官ともなっている時代だから起きた
医者はお医者様であり一番尊敬されている、僧侶などは坊主は穀潰しとされる
それは病気になってもなんら役にたたないからである。
では逆になぜ歴史で宗教がこれほど力をもったのか?
それは病気に関係していたのである。病気を直してもらいたいという切実な願いがあり
それで宗教に頼ったのである。

江戸時代に山伏、法印が異常に多い、小さな地区で必ず法印が一人いる
その墓もある、小さなけ村でも一人いるとなるとそれを養わなければならない
貧乏な時代になるとそれを生かすために食料を与えねばならないから負担になる
それでもそれだけいたということは病気を直すための加持祈祷をしていたからである
どれだけ病気で苦しんでいたかというと地蔵とかも病気を直すものとして建てられた
腰が痛ければそれに効く地蔵があり耳や目が悪ければそれに効く地蔵がいるとか分業化していたのである。医者に通いないから地蔵でもなんでも神仏に祈る他なかったのである。そして村の中心にあるのは薬師堂なのである。それも病気を直すために祈る御堂なのである、会津でもあれだけ早い時期に仏教が普及したのも加持祈祷宗教でそうなった
なぜ仏教でも歴史をみると興隆して力をもったのか?
奈良とか京都は寺の町となったのか?その原因は病気の加持祈祷をしたからだともなる

そして現代はその病気を直すのは医者であり病院であり科学者である、その人たちがお医者様として崇められるのはやはり同じ原因でそうなっている
人間は一番病気に弱いのである。今でもカルト宗教団体に入るのが病気の場合が多いのである。科学で医者でも直せない病気が依然としてあるからである。
オウムがなぜ力をもったのかといえばやはり科学者の団体だったことなのである。
つまり現代で一番尊敬されて力をもっているのは科学者であり技術者なのである。
するとそこに未熟であっても医者がいるとか科学者がいるとなると庶民でも一目置くのである。政治家とかなどは一見力をもっているようでももっていない、庶民も政治家を医者のように尊敬していない,医者はお医者様として異常に尊敬されているのは病気を直してくれるからでありそれは加持祈祷していて宗教が力をもっていたのと同じである
原因は時代が変わっても変わらなかったのである。

カルト宗教団体なぜ生まれたのか興隆したかというのも現代文明社会から生まれたということがある、個々にはいろいろあって大きな視野でみればそうである
現代文明の科学技術文明や複雑な無数の分業社会でもう社会がどう機能しているかもわからない、江戸時代だったら時代劇でも悪は明確でありわかりやすい社会である。
その基本は村単位の社会で生活していたからである。そこが世界だったからわかりやすいのである。視野は狭いにしろそこで世界になっていたからわかりやすい,社(やしろ)がありそこに会することが社会になっていたのである。
それが社会が今度は逆になり会社になったのである。その会社が様々であり巨大化した
でも今度は人間は会社に属する会社員であり村の社(やしろ)に属する村人ではないのである

宗教の歴史をふりかえれば病気の加持祈祷などから起こるとか山岳宗教が大きな力をもったということもわかる,山がもともと日本では御神体になっていたこともわかる
山が聖なる場だからこそこで修行したこともわかる
自然と結びついて宗教があったことは健全なのである。神道でももともと日本の清らかな自然から生まれたからである。今の東京のような所から生まれ得ようがないものだったのである。清らかな自然の中で浄化する,禊(みそぎ)すると罪も洗い流されるとなっていたのはそれだけ自然が汚されていなかったからなのだ

オウム真理教もそうした自然とは結びついていない、ただオウムでも創価でも富士山に修行の場として本堂とか建てたのはそうした歴史があってのことである
ただオウムでも創価でも幸福の科学でも東京から都会から生まれた宗教なのである。
幸福の科学というとまさに科学によって幸福がもたらされるから現代文明を象徴していたのである。
カルト宗教団体も現代文明が生んだものである、科学者が技術者が崇められる、だからこそ理系の若者でも力をもつ、原発でもそうである
カルト宗教団体でもそこに医者が科学者がいると信じられるのである。
それで宗教も現代を反映して科学から離れられない一体化するのである。

池田大作でも「科学と宗教」という本を出している、それは何かゴーストライターが書いたとかともいわれる、おそらく彼の著作の半分はゴーストライターが書いたのである
何か箔をつけるためにいろいろな知識人を利用するからである。
今でも佐藤優とか茂木健一郎などかぞうである、対談して潮でそういう知識人をとりこむのである。あとは政治で力をもつのである。
こういう人たちをまたマスコミはもちあげる、マスコミは時の権力に従うだけである
それが証明されたのは原発事故のとき朝日新聞の幹部まで東電に中国に招待された時起きたからである
ではなぜ創価もカルトなのだがオウムのような事件を起こさないのか?
それはオウムは理系の知識人であり創価はもともと庶民の団体だからである
庶民にはむずかしいことをいってもわからない、ただ病気が治るとか何でも御利益があるとか商売繁盛するから題目あげろというえばいいからである
それで一日題目をあげている人がいる、それはわかりやすいからである。
それで日蓮宗と真宗がこれほど普及したのである。
つまりこういう宗教は庶民の底辺層から起きているからオウムのようにはならなかったのである。

現代文明でなぜこれほどカルト宗教団体が力をもったのか?
それはいろいろな社会的背景がある、要するに現代文明の病的現象から生まれた
健全なものから生まれたものではない、山岳宗教は何か怪しいと今ではなるが山の空気を吸って心身を六根清浄を唱えて修行するのは健全なのである。
現代はみんな都会で生活しているからだ、創価でもオウムでも幸福の科学でも都会から生まれてまず都会人が信者となったことでもわかる
神道のように清浄な自然の気にふれて修行すればあのようにはならないと思う
自然とアイディンティティ化するとしたらならないのである
科学と技術が現代文明をリードすると起きたものだからである。

いづれにしろ宗教ではモーゼが十戒で戒律とした偶像崇拝に必ずおちいる
麻原とか池田大作とか幸福の科学の教祖とかでも偶像化される、そして浅原が死んだら神格化されることを言う人がいるのもわかる
生前はただの人だったのに欠点がある人だったのに一旦死ぬとその人が神格化されやすいそれも不思議なのだがそれは理屈ではない、最初の宗教が先祖崇拝だということは世界中で同じだからである。
そして宗教が聖書でも偶像崇拝との戦いだったことでもわかる
人間は偶像を拝みやすいのである。見えるものに人は頼るのである。
だから一神教は特殊な宗教だったとつくづく思う
人間も容易に神になるし神格化されるからだ
キリスト教関係だとエホバでも教祖がいない、偶像崇拝は守られているのである。
教祖を異常に崇拝するのは韓国系の統一教会などであるからこれは偶像崇拝的だとなる

いづれにしろオウム真理教事件はなぜこれほど不可解なのか謎なのか?
それはやはり現代文明が起こした事件だからだったのである。
現代文明が何なのかわかる人はいない、グローバル経済でも株のことでもわからない
それで陰謀論になったりする、だから現代文明社会から同じようなものがまた生まれる
文明社会の異様さとか矛盾とか混沌とかから生まれてくる
例えばルネサンスとか生まれ時代をみればわかる、なぜあのような芸術が生まれたのか?そこには調和があり美があり秩序がある

現代文明からそうした芸術でも生まれないことでもわかるのである。現代文明にふさほしいの抽象画なのである。
ピカソのような分裂してしまう人間でありそこで人間の尊厳はないのである。
シュペングラーのように数字化した人間であり経済的統計的数字化した番号化した人間しかいない、政治家でも病院で番号で呼ばれたというのもわかる、人間は番号でしかないのである、カルト宗教団体でも同じである。一人でも会員増やして政治の票にしたり勢力をもち政治的に力を持とうとする
その人がどんな人でもいいのである。頭数をそろえればいいだけである。
罪がどうだとか関係ないのである。そんなことを言っていたら会員が増えないからであるだからその会員は一票として数えら価値しかないし数としてカウントされるだけである
そこから何か個性ある人間など一人生まれない、ロボットとして数として数えられるだけである。現代文明社会でもそうだからそこでも同じなのである。
こういう文明社会からナチスがヒットラーが必然的に生まれと分析する思想家もいるのも当然なのである。
それでまともな人間になろうとしたときアウトサイダー化するのである
文明そのものを激烈に批判する、文明社会から排除された人間になるのである。


オウムとにていた原発事故(専門化した知識人の犯罪だった)

http://musubu.jp/jijimondai42.html#oom(時事問題深層42へ)


http://musubu.jp/jijimondai-41#tunami
のつづきで同じテ-マで書きました。

posted by 老鶯 at 11:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年07月07日

宗教は偶像崇拝との戦いだった (カルトは偶像の教祖のコピ−の大量生産である)


宗教は偶像崇拝との戦いだった

(カルトは偶像の教祖のコピ−の大量生産である)

あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神

神はイスラエルに向かって「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」と偶像礼拝を禁じた。

 すでにこの前で「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と言われている。

(出エジプト記20:5 の一部)

偶像化された麻原
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まさに麻原のコピ−の大量生産だった
カルト宗教団体は教祖のコピ−の大量生産である
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宗教の基本は偶像の禁止である、人間はあらゆるものを神としてきた偶像化してきた、
エジプトでは動物から何から何まで神となった、アミニズムとにている、神像でみちみちていた、出エジプトは偶像の支配するエジプトからの脱出が目的でもあった
その前にも聖書では偶像との戦いが記されている、偶像の拒否ということが宗教の始まりだったのである。
そういう宗教は他にはなかったろう、なぜなら人間はともかく目に見えるものから何かを信じる、目に見えないものは信じにくいのである。

あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神

この言葉も不思議である。なぜねたむのか?人間と同じようにねたむのか?
神がねたんだりするのか?そんて感情があるのかとなる
そしたら人間と同じではないか?
でも実際は神がどういうものか?本当の神を人間に認めさせたいからこそこう言ったのである。なぜなら人間はなんらか目に見えるもの形のあるものを偶像を拝むからである
つまり拝む対象は目に見えないものではない、目に見えて形があるものである
でも目に見えるものは形があるものは神だとすると必ず破壊される

これが神なのか?なんだこんなもの壊してやるとなり仏像でも爆破されたからである。
例えば日蓮宗でも真宗でも御本尊があるとしたらそれはただ紙に字を書いただけではないか?そんなもの神のなのだから燃やせばいいとなる
だから実際に捨てられたり燃やされたりしている
すると頭が七つに割れるとかいうが実際そんなこは起きないのである。
ただ形ある仏像よりそれは偶像崇拝から脱したものだったのである。
イスラム教でも厳格に偶像を拒否しているが文字は許されているからだ

自分も宗教では過ちをおかしている、創価では池田大作を偶像化していた、上野霄里(しょうり)氏でも偶像化していた、何か師というのも偶像になりやすいのである。
師というのはだから危険でもあるのだ、師は弟子を奴隷化するからだ
麻原の仮面をかぶっているのはまさに偶像崇拝化したロボット化された信者である
そこには何の自主性もない、ただ命令通りに殺人でもなんでもするロボット人間とされているのである。
カルト宗教では必ず教祖がいて神となり仏となり偶像化される、師がいて弟子はただロボットとして従う自主性のないものとなる
だから宗教には哲学が必要なのである。でも人は考えるのがめんどうだからただ従うだけのカルトに入る、そして殺人マシーンにもさせられる

現代の偶像の怖さはハイルヒットラーになる、ハイル池田でありハイル麻原である
そしてその死体でも焼かれた骨でも崇拝の対象になる
自分だったらそんな汚れた悪魔のようなものを骨でも触りたくない
でも奴隷化した信者は偶像化してそんなものにまで頼るのである。
それらは悪霊であた悪霊にとりつかれたのが信者なのである。
そして悪霊は死んでも悪霊であり信者にとりついているから怖いとなる
それは池田大作でもそうであり死んだら神格化されるかもしれない、これも悪霊なのだが数が多いから容認されてまだ政治にも力をもち権力をもっているから怖いのである。
そういう人たちは死んだらどうなるのか?
その悪霊にとりつかれて離れられない地獄にいるのである。

でもそこは確実に天国とは隔離されている、この世では隔離されていない、だから悪霊はこの世で依然として権力をもち力がある
そしてその悪霊は世を支配する、悪魔でありサタンとして世を支配する
いろいろ陰謀論を言うがこの世を支配するのはサタンであることには変わりがない
この世の主は闇の主でありサタンである。
実際はオウムは不可解でありその殺人でも闇の中にあり解明されないままのである
その闇がどこから生まれたのか?その闇は解明されないままで死刑にされたのである。
だからこの世がこの世であるかぎり色を変え品を変えサタンはこの世を支配するのである

ともかくカルト宗教に引き入れられないためには偶像を拒否することである。
集団を拒否して自立する精神をもつことである。それに哲学が自ら考えることが必要なのである。なぜ人を殺すことが宗教なのか?
そう疑問に思うのが普通だがカルトでは人を殺すことすら信仰になっていた
ポアするということでそれは宗教の信心の一つであり実践だと教えられ実行した
思考停止しているからそうなったのである。
理系の人間の問題は機械でも思考でもマニア化しやすい、おたくになる
すると他のものは見えなくなる、宗教というものが何かわからないからただ教祖に従うだけのロボット化する、そこに理系の弱点がある
武田邦彦氏のような文系に詳しい総合的な知をもった人はまれなのである。

日本ではキリスト教ではない、何か基本的な宗教の素養がないし教えられていないとなるキリスト教だとやはり聖書を学ぶから偶像崇拝は固く拒否されるからである。
仏教は仏像を拝むからそこに偶像崇拝が日常化しているという危険がある
だから御本尊でも紙でも偶像崇拝を拒否するということで進歩したとはなる
とにかく人間は不安になり苦しむ、すると神仏に頼りたくなり祈りたくなる
するとどうしても偶像崇拝に陥ってくるのである。

自分は禅宗に好感をもっている、それは偶像崇拝拒否を徹底しているからである。
まず仏像を拝んたりしない、

仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん。 

ローマ人への手紙8章15節は「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです

師は必要であり学ぶことも必要であるが師と同じのコピ−偶像を拒否するからであるうなってはだめなのである
人間はそもそも師といっても10年くらい違うと世代の差があったり時代の差があったり住む地域も違うし生い立ちも違うから同じになれない、性格も違うしだからこそ個性が生まれる、いろいろな宗派に分かれるのもやはり人間は同じではないからそうなる
だから禅宗は創価であれほかの仏教の宗派と違い集団化組織化しないのである。
日蓮宗とか念仏宗は何か太鼓をたたき練り歩いたり集団化して騒々しいのである。
だから政治化しやすいが禅宗にはそういうことがないのである。
カルト宗教団体には禅宗はなっていないからである。
それは個の自立の精神を禅宗では重んじているからだとなる 
聖書の自由の霊と奴隷の霊にも通じている、カルトは奴隷の霊に支配された人たちなのである。
エホバが絶対唯一の神としてその完全な下僕としてキリストがいてその間に師でも牧師でも教団でも教会でも外国人宣教師でも介在してはならないのである。その介在する人が団体が奴隷の霊を与えることになるからである。
要するに対等の精神でもって接することである。あくまで対等の対話的なものとして師でも接することである。
ソクラテスの弟子との問答のように接することである。ソクラテスは弟子といっても対等に問答形式で答えていたからである。

ただこれは大衆的ではないからあまり受け入れられないということがある
外国でも禅宗が受け入れられたのはやはり個の自立の精神があるから受け入れたのかとなる
宗教は宗教だけでは今や通じない、哲学が必要なのである。ただ大衆化しにくいから普及しにくいとはなる 
偶像化とはコピ−の多数の製造である、そのコピ−に生きる意味はない、なぜなら動物は個性があっても識別できない
犬は犬であり猫は猫であり何か個性を残さない、人間が生きる意味があるとしたらやはり何かしらの個性がありそれを残すことに意味がある、ただ芸術作品でもコピ−していたらそれは盗作であり何の意味もないのである。
同じものの大量生産には価値は生まれないのである。
でもカルト宗教団体ではその人間の教祖の偶像のコピ−でしかない、そこには何の価値もないのである。

そして組織化した集団化したものに入り安い、仲間がいるということで安心する
そして数が多いということで権力をもち社会に恐怖を与える
オウムの場合は武力をもつことでオウム王国を持とうとしたのである。
それは池田大作でも同じである。幸福の科学でも選挙に出ているから目的は同じである。エホバでもなぜあんなに一軒一軒まわり勧誘しているのか?
それは謎のなのだが何か背後に会員をふやして日本を乗っ取ろうとしているのかという疑心が生じる、それは秀吉も感じて遂にとキリシタン弾圧になったのである。無教会の内村鑑三が外国人の宣教師を拒否したのもそのためである。
明治以降外国人の宣教師が入ってきた、すると日本文化を理解していない、内村鑑三は武士の出身だからそのモラルを体得していた
それで武士道からキリスト教も説いたのである。そういうことは外国人の宣教師にはできない
エホバとかも外国の勢力が加担している資金が流れているとしたらやはり日本を乗っ取る工作のためなのかともなる

いづれに宗教は神と直結することである。その中間に介在するもの師でも牧師でもなんでも危険なものになる
偶像化しやすい、集団化した組織化した宗教はすでに権力化して社会を支配しようとする
オウム王国であり創価王国であり幸福の科学王国であり・・・となりその教祖が王になるのである。
そのために必然的に政治化して権力での実質的な支配下を目指すのである
オウムはそれが極端化したのである。武装して権力をとりそれに宗教も一体化するから政教一致になる
仏かかりになり神かかりなる、ヨ−ロッパでカトリックがそうなったからその反発から政教分離が生まれたしルネサンスとかその後のフランス革命は宗教の束縛からの解放だったのである。

いづれにしろオウムとかで人生を消費して有能な理系の若者が死んだということは悲しい、何のために生まれてきたかもわからない
それは戦争で死んだ人にも言えるかもしれない、これとは違っていてもそこでも戦争に費やされて有能な人が才能を発揮せず相当に若くして死んだことの無念があるからだ、ただこの世ではそうして人生とか命とか本当に浪費されやすいのである。
才能があるとかないとかのまえに様々な悪条件で才能が発揮されないのである。
才能というのは生まれつきでもない、なぜ全く絵の才能がない自分が抽象画をパソコンで作っているのか?
そして70人くらいのアメリカ人が見ているということは何かしら認められているという証拠ではないか?
70人となると数が多いなと見るからである。ここは数がわかりやすいのである
第二芸術にしてもやはり価値は認められているともなる
人間は何かしらの才能があっても発見されないし発揮されないのが多いのである。
時代の影響も大きいのである。明治維新のような時代なら英雄が生まれる今はそういう英雄は生まれにくい
ただ平和であるから豊かであるから個々の才能を発揮しやすいということはある
必ずその時代時代の影響を受けてそれから逃れられないのも人間なのである。






posted by 老鶯 at 11:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層