2018年06月17日

誰かが悪さをして自分が苦しむ (猫の尻尾が焼かれまた血が出ていた)


誰かが悪さをして自分が苦しむ

(猫の尻尾が焼かれまた血が出ていた)

誰かが猫にいたずらして尻尾を焼いた、一か月くらいいなくなったので帰らないと思ったそれが尻尾が焼かれて帰ってきた、血が点々とついて汚れる
一時収まったがまた血が出ている、そして家を汚すので嫌になった
何かこの猫は飼うつもりでなかったがいついたのである。

家族が介護になってから何かこうしてめんをとなことが次々に起きてきた
犯罪にもあい、事業に失敗した人が来て金を要求される
自分が苦しいときそうして次々に問題をかかえた人が来た
自分自身のことで精一杯なのに問題をかかえた人が来る

ある人は飲食店で賃金を払われなかったといいその分を自分が払った
その後畑をしていてもキジに食われた、モグラに食われた、虫に食われたとその度に
肥料だとか薬に金をくれといい、払う羽目になる

要するにこの災難つづきは自分が起こしたことではない、でも自分のカルマがあってそうなっているとあきらめた
でもそもそも猫の尻尾を焼いた人こそ重いカルマを負うべきだし猫を世話すべきなのである。
でもいつかその人もカルマを背負わされる運命にある
カルマとは行為であり悪い行為は必ず苦しみとなって現れるからだ

ともかく自分だけではない、なぜこうして家族でも親戚でも災いとなる人が必ずいて苦しむ、それはなぜなのか?
そういう事件は日常的に起きている,家族にそうした人がいると終わりだというのもそのためである。へたすると殺されたりするからだ
実際に兄弟姉妹でもそういうことあった、姉が優秀でも妹はだめだ、弟がだめだとなり殺人までになった
障害者をもって苦しんでいる人もいる

だからこの理不尽は何なのだろう?
悪いのは猫の尻尾を焼いた人であり自分ではない、賃金を払わなかった人が悪いのであり自分ではない,でも自分が払うことになった
猫の尻尾を焼いた人は誰かにそのカルマ(行為)を負わせたとなるのだ
借金した人もまたカルマだけど他者に負わせるのである。
実際他者のカルマによって何の罪もないのに殺されるという事件がある
なぜそうなるのか?それが不可解になる
それもやはり本人にカルマがあってそうなっているのか?

自分は家族がいたとき何かそうした災いとかにあっていないのである。
家族が介護になってからそうした災いが次々に起きてきた
それも終わったかと思ったら猫に苦しんでいるとなる
それはたいしたことがないにしろやっかいだなと思う
自分はペットを世話できる人ではない、ルーズだし自分のことをやるだけで精一杯だからである
家事もやらなければならないしいろんなことができないのである。

いづれにしろ人間は誰かのカルマ(行為)は必ず他者に及ぶ、悪るいことしたら当然だし善の行為でもそうである。
でも悪い行為は誰かが負い償わさせられるというのもどうしてなのだろうとなる
その行為をした本人こそ償わねばならないのだ
それはただいづれ否応なく償わさせられる、それがカルマだからである。
でも何の罪もない人がなぜ償わさせられるのか?
結局キリストが人々の罪をになった死んだというとき犠牲になったというときそのことかもしれない、何か猫とキリストは関係ないにしろそうかもしれない
人々の罪を背負って死んだとされるからだ

この世の災いはどこから生まれてくるのか?
誰かが悪をなす、それでその周りもカルマを負わされて苦しむ
だからこの世でいくら一人が罪を犯さないにしても災いを受けるのである。
災いから逃れようがないのである。
原発事故だって関係ないと所で飯館村とかで一番被害が大きかった
全然関係ないと思っても災いによって苦しみが与えられる
それにしても30年間はこうした災いが自分にはなかった
それは奇跡的なことだったかもしれない,ただその楽なことがカルマになっていたのである。

人間は生きている限り楽していても金をもちすぎてもカルマになる
つまりどう転んでもカルマから逃れられないのである。
それは死ぬことによってしかカルマから逃れられない
たかちいづれこの世は大きなカルマによって滅びるのである。
この世に天国など出現しない、なぜなら自分が罪がないように生きても回りがそうではない、そのために他者のカルマを受けて苦しむのである。
最悪はそのために殺されるとまでなっているのだ
〈地獄の道連れにしてやる)とか言う人がいるからだ
この世に災いは限りなくあり消えることはないのである。


失われた共同体を考える−(家族が共同体の基) (第3の経済を読む)


失われた共同体を考える−(家族が共同体の基)

(第3の経済を読む)

第3の経済

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金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている

今の事業、経営で一番問題なのは、志がないことである。志を失った原因の一つは、共同体、コミュニティの一員としての自覚がなくなったことである。

優秀な人材があれば、資金を出し合って中央の学校へも出したのである。また、有為な人材は、故郷に錦を飾る、あるいは、郷土に戻って働くことを誉れとした。医学などその典型である。

誰も他人のことを思いやらなくなった。そして、思いやるゆとりさえなくしてしまった。そして、他人と関わり合うのさえ厭(いや)になってしまった。親は子の世話をしなくなり、子は、親の面倒を見なくなった。それで足りなくなったところを教育制度や介護制度、福祉制度に求めるようになった。会社は、会社の都合だけで社員を雇い。社員にとって会社は、生活費を稼ぐだけの場でしか過ぎなくなった。国に、国民は、要求だけをして国に尽くす事を忘れた。


このサイトで語られることに共感する、なぜ自分がこんなに今になり家族にこだわるのか?
現代ではもう共同体というのはないとこの著者も指摘している、家族も人間の基本的な共同体でありそこから故郷でも江戸時代の藩でも明治維新以降の国でも天皇を親として国民は赤子という国家を家として意識させたのである。
そして家制度を国家の根幹にしたのである。

なぜなら墓のことで考察したように江戸時代ではみんな個人墓なのである。
墓を持った人は侍であり侍でも特別な人なのである、後は僧侶であり上流階級しか墓をもてない、経済的にも墓を作ることは金がかかるからできない
でも不思議なのは明治以降に家というのもに共同体の基とした
しかし江戸時代の共同体は家族があったとしても村が共同体だったのである。
だから一見墓もないことは家族共同体もないのかとも見える
むしろ村という共同体があったから個々の家族の墓も必要なかったのである。
村の共同墓地がありこの辺ではホトケッポという所に埋められたからである。
個々の家族が墓になると墓は増えるばかりだが今になると跡継ぎとがいなとか墓じまいするようになる、江戸時代の村だったら村全体で供養するからかえっていいとなる
個々の家族だったら後継ぐ人がいなくなると供養もできなくなる、墓は維持できなくなるからだ、墓にも家族としての共同性とか村の共同性とかが関係しているのである。

現代は共同体がない限り生きていけない、自分がなぜ共同体のことを考えるようになったかというと家族がみんな死んだとき一人取り残されてしまった結果である
家族という共同体があって自分は守られて楽していたのである。
だから自分は何か社会の非情さを感じなかったし社会はいいものだと思っていたのであるそれが親の病気や介護や自分の病気で今の世の非情さを身をもって知った
そのことを延々と書いてきた、人間がこんなに非情なのか結局金しかないのかということだった、そんなことはみんなわかっているということはあった
しかし現実に自分がそういう苦しみを受けたとき具体的に理解した

今はどんな田舎だろうが都会と同じである。共同体は喪失しているのである。
拠(よ)り所となる共同体はもうない、その代わりにあるのは金だけである
金をすべての拠り所としている、だから金の切れ目が縁の切れ目になる
現代社会ではより冷徹に貫かれている
共同体とは何か?それはいろいろあっても家がその根幹にある、家族が根幹にある、
その波及したものとして会社があり国家もある、国家も家なのである。
だから江戸時代では会社がないにしろ店があったとしたらそこは家族形態として経営したとなる

家族共同体というとき血縁とばかり思っているが違う、血縁を基礎にしても結婚自体が別に血縁ではない、他人同士が共同生活することであり子供をもつことで共同体を形成することである。子供でも養子とかもあり養子でも家族共同体になる
ただ家族共同体になるとどうしても排他的になる、自分の家族のことしか思わない、他者の家族は敵対するものにもなる、家族の利益だけを考えればそうなる
だから実は家族共同体だけでは共同体は維持できないようになっている
会社に勤めればそこがやはり共同体ともなるからである
江戸時代の侍社会では御家大事でありその共同体を維持するために人柱となり死ぬ人もいたし強制もされたのである。

共同体というときそれがある期間を共同することではない、学校でも会社でもそれは会社でも長いにしても一期間になる、でも家族は祖父母がいて両親がいて子供がいてと世代の継続がある、そこにまた家の重み生じる、それは故郷とか江戸時代の藩とかでもそうである。先祖がいて死んだ先祖はその家に死んでも生き続けることがある
そこに家の重みがある、そのことは死んで母を思うということで短歌俳句の部に書いた
家族がみんな死んでそのことを痛切に感じたからである。
家族の共同性は時間軸でも継承されている,事業を起こしても会社でもそうして何か継続されものがない、トヨタでもあれだけ大きくても車が売れなくなればそれでなくなる
でも家族はなくならないのだ、それは物による紐帯ではない、精神的なものだからであるもちろん物質的なものとしても経済的なものしとても家族はありうる
経済的破綻すると家族も崩壊する、事業に失敗したりすると家族が崩壊する
それでも家族のつながりは依然として維持されるのである。

いづれにしろ今は家族でも共同性を失い、ただ金だけだとなる
それで原発事故で避難区域になった所はなぜあんな簡単に住むことが放棄されて残されたのは老人だけになったのか?
それは放射能も確かに原因しているがそれだけではないものを感じていた
なぜなら今一億円もらうならこんな田舎を出て暮らすとかいう若者が普通にいる社会である
それは若者だけではない、そういう人はやはり多くなっている
だからこそ多額の補償金をもらった人はなんの抵抗もなく故郷を出てほかの土地で新しい生活をはじめたのである。何か未練もないとなる、そのことは何を意味しているのか?
それももともと田舎でも共同性は失っている,昔のような村もないし共同体はない
ただ金だけを求める社会になっていたのである。

それでみなんで共同して復興しようとする意志もないのである。
一番働いたのは地元の人ではない、外から来た労働者でありボランティアだったのである地元の人は毎日パチンコでありギャンブルしていたのである。
それは現代を象徴している奇妙な光景だったのである。
身近な共同体は喪失しているが広域的な経済でありそれで外部からの援助があって生活していたのである。
地元の人が復興するのに働かない、その意志もなくなりただ外部の人にまかせきりになったのである。
そして地元の人は補償金をもらうことしか頭になくなったのである。
これもやはり現代社会でもともと共同体が失っていたからそうなったのではないかと考察した 

人間はいづれにしろ共同体無くしては生きられない、上野霄里(しょうり)氏でもあれだけ家族にこだわっているのもそのためである
社会から離脱する強烈なアウトサイダーでも家族という共同体にこだわりそこに自分の最後の砦としているのである。
現代はとにかくグローバル経済になってもそこには共同体はない、共同性はない、ただ金が動く非情な市場があるだけだとなる、共同体の中で金は動いていない
非情な金の市場の論理だけが支配しているのである。
家族共同体であれその延長したものに波及した社会で情が通うことはある
それは家族の延長として見るからである。
手伝いさんが家族の一員になると書いてきた
でもまた金だけの関係となりそれも一期間でその関係も切れる
金持ちの家でもお手伝いさんに家族のようにやさしくしてもそれを感じない
要するに金さえもらえばいい,もっと金が欲しいとなり盗めばいいとなるだけである。
そうして関係は簡単に切れてしまう、同じ田舎に住んでいてもそうである
そこには共同性がない、共同体ではないからである。
ただ金をやりとりする関係に過ぎないからそうなってしまう

金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている 

つまり侍の共同体は全人格としてかかわっている,だから白虎隊が城が燃えたというときもう終わりだとして自刀したのもそのためである。
侍共同体は全人格的なものとして一体だったからそうなった
金だけをもらう関係とは違うからである、そういう関係はやはり戦国時代から江戸時代を通じて社会が作られたのでありそういう社会を明治以降日本では喪失したから理解できないものとなったのである
今は全人格的にかかわり生きる場も共同体もないのである。
ただ個々人は金を求め金がすべてとなる、金をより多く持ったもの稼いだものが勝者でありそれ以外の価値は認めない社会である。
金でも共同体の中で稼ぎ使われるのとただ個々人が金を求めて使うことには大きな落差がある。
共同体の中で人格を育成すること共同体を維持して発展させることになると金だけがこれほど突出して猛威をふることはない、もっと高い価値にあるべき価値に金はただ下僕のように使われるが今はみんな金の下僕になっているから殺伐としているのである。
こいつから金をとればいい、後は関係ないという社会なのである。

posted by 老鶯 at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題