2018年06月11日

和歌山の野崎氏は鉄くずを売ってもうけた同世代 (朝鮮特需があり復興した日本-そして米朝会談戦後の区切りになるのか?)


和歌山の野崎氏は鉄くずを売ってもうけた同世代

(朝鮮特需があり復興した日本-そして米朝会談戦後の区切りになるのか?)

太平洋戦争時でアメリカのB−29爆撃機から投下された爆弾の破片を回収したり、工場から出る鉄屑を整理したりして、それを鉄屑屋に売却するという仕事です>

 当時、銅線や鉄屑は高く売れ、流行のビジネスだったそう。会社の上司に命令されるのではなく、自分で考えて動き、サボれば収入がなくなるスタイルが野崎氏にハマった。朝から晩まで休むことなく鉄屑を探しまわり、以前よりは高収入に。

鉄屑拾いというのは子供のときしていた,鉄くずを拾って買う所があった
金になっていたのである。鉄くずがその時貴重だったのである。
何か真鍮(しんちゅう)とかあると貴重だと喜んでいたのである。
このことは子供もしていたが大人もしていたのである。

でも年齢的には和歌山ドンファンとは差がないから子供時代からその後もつづいていたのである。
日本は戦争で焼け野原になり疲弊した,物もほとんどなくなっていたのだ
だから鉄は貴重なものとなっていた,鉄くずでも貴重であり金になっていたのだ
これも思い出すと不思議である。

日本が戦争に負けて復興できたのは朝鮮戦争の特需があったからである。
その時物資を日本に頼ったからである。
アメリカに売るものがありそれで鉄くずでも貴重であり集めて何かを作ったとなる
武器でも作ったのかとなる

B−29爆撃機から投下された爆弾の破片を回収したり、

これも生々しい話である。B-29で日本は絨毯爆撃されたからである。防空壕に逃げた原町に住んでいた母の話も聞いている
相馬農業高校の近くでありそれで低空飛行して防空壕の蓋が飛ばされたとか話していたからである。

小学校では脱脂粉乳のミルクを飲まされていた,食料かなくアメリカに援助されていたのである。それは相当にまずいものだったのである。
そんな中で団塊の世代は育った

朝鮮戦争がまだ解決していないというとき米朝会談がシンガポールで行われるのもそうである
シンガポールというときそこは昭南島と言われてイギリスの島だったが日本によって支配された,その時自分の姉は従軍看護婦としてその対岸のジョホールバルの赤十字病院で働いていた
四年間働いていて最後に日本が負けたときジャングル逃げた時が一番苦しかった
食べ物がなかったからである。
自分の姉は死ぬまで戦争のことを語り死んだ,認知症になってから千回も同じことを延々としゃべり遂に死ぬまで直前まで語って死んだ
それが人生で一番印象に残ることだったからそうなったのである。

日本は最初東南アジアで戦争に勝利してイギリス軍を捕虜にしたりした,インパール作戦でもインド軍も一緒に戦っていたことを教えられた
インド軍とは共同で戦っていたのである。
ネパールもビルマもイギリス領になっていた,そこでイギリスと最初日本軍は戦ったのである。その後にアメリカが参戦して戦争に負けたのである。
ネパールで登山の案内したネパール人は英語をしゃべるからガイドとして一緒に行動したネバールでも英語なのかと意外に思う,英語をしゃべる国はイギリスと関係しているし支配された国植民地にされた国なのである。

シンガポールで米朝会談が開かれるというときそこは日本でも戦争と深く関係した場所なのである。
米朝会談でも日本が戦争に負けて朝鮮戦争になりソビエト連邦との冷戦になった
そしてソビエト連邦は崩壊した,そのソビエト連邦時代の時裁縫会社の人がカザフスタンとかに機械を売るために行っていたということを駅で聞いた
その人は日本でも機械を売るために回って歩いていた
これもまた時代を生きた証人だったとなる
ソビエト連邦というのも過去のものになったからだ

何か歴史というとき身近なものから大きな歴史をイメージすることができる
それもやはり経験しているから身近になる
子供の時の遊びが実は朝鮮戦争と結びついていたのである。
和歌山ドンファンの一生もまた戦後の歴史だったことをこれでもわかる
その人が酒屋で働いていたというのも酒屋が働き口になっていた
戦前でも江戸時代でも酒屋が主な職業となっていた
それも時代である。明治生まれの父親は酒屋で丁稚していたのである。

この人はともかく底辺から成り上がった人である。そういう人は同世代にも多いだろう
何もない焼け野原は出発点だったからそうなる
ただ団塊の世代は焼け野原から小学校を卒業する頃テレビがすでに売られていた
自分の家では一番先にテレビを買った,父親が病気になりなぐさめるために買った
テレビはその頃みんな買っていない,裕福になった人が買ったのである。
それでテレビある理髪店とかに子供が集まって見ていたのである。
バナナも高価であり売っていないので仙台まで買いに行って食べさせた
こういう時代があったというのもずいぶん昔になったなと思う

両親から祖父母までは直接話を聞くから歴史でも身近である。
でも次の世代はもう直接戦争を経験した人からの話を聞けないのである。
するとただ映像とか資料とか何か直接語ることで聞けないからそこに歴史が身近にならず誤解することが生まれてくる,江戸時代でもその時代を生きている人がまるで外国に生きていたように不可解にもなるからだ

米朝会談があるけどそれは朝鮮戦争がまだ終わっていないということでもある
朝鮮が二つに分断されているということで終わっていないのである。
でも朝鮮戦争からでも70年とかすぎているのだ,だからそれも長かった
それで米朝会談が朝鮮戦争を終わらせる区切りとなるのか?
そして会談が成功すれば米軍が韓国から撤退するといわれる
その時日本はどうなるのか,韓国中国は共同して日本を攻める,常に反日であるとういときそういう危機が日本に迫る

インターネットではいろいろな情報が出る,もう新聞社とかテレビとかマスコミだけではない,個々の情報が膨大に出る,でもそれを読む解くことがむずかしい
つまりインターネットでは情報を結び関連づけることが大事になる
偶然にこのサイトを発見したので引用した
ともかく野崎氏の一生もまた戦後を象徴していたのである。

posted by 老鶯 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

平成も終わる時に天皇を見送る (戦後からの時代をふりかえる)


平成も終わる時に天皇を見送る

(戦後からの時代をふりかえる)

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昭和時代(戦後) - [1952年 〜 1989年]

高度成長時代(団塊の世代)

平成時代 - [1989年 〜2018 ]

1991年、総量規制や消費税などでバブルが崩壊して失われた10年(失われた20年)となる。

阪神・淡路大震災、東日本大震災(福島第一原子力発電所事故)などが発生する。


時代をどうみるか?昭和の前半は戦争の時代とみる,団塊の世代でも特徴づけられるのは戦後の焼け野原から引揚者などが帰ってきてその時ベビーブームになったからである。
だから今は少子高齢化だけどなぜ日本が焼け野原になったときベビーブームになったか不思議である。
その時と比べると今はいくら高度成長が終わっても電気もないとか毎日食べるのが精一杯とかの時代ではない,燃料は炭だったし水道もなかった
水道ができたのは戦後十年くらいだろう,何か子供時代は原始的な時代にも今になると思えてくる,父親が鰻をとったり鮎をとったりしてそれがいいオカズになっていた時代だし竈(かまど)でご飯を炊いていた時代でもあった
囲炉裏が街に住んでいてもあった,そんな時代から団塊の世代は出発したのである。

あとはオリンピックは高校のときだったけど相当に活気あるものだった,あの頃日本人が一番高揚していたのかもしれない,大学を卒業するときは万博がありあれにも人が集まった,つまりその頃高度成長時代の真っ最中だったとなる
その頃まだ車がそれほど普及していない,道路もインフラも整備されていないが急速に整備されてきた,その時ブルドザーのような田中首相の時代だったのである。
1972年(昭和47年)首相になり日本列島改造論を書いた時だった
それは自分が大学を卒業してまもなくだった、ロッキード事件はその頃に起きた

昭和39年(1964)

(10月1日)東海道新幹線開業
(10月10日)東京オリンピック開催

昭和51年・(2月)ロッキード事件(田中首相の時代)

1989年〈昭和64年〉昭和天皇崩御

昭和天皇が死んでからすでに30年とかなるのか?平成は30年だからそうなる

平成になるとバブルの崩壊とか日本経済は停滞してリストラが社会問題になったりと経済的には暗い時代になった,それが今も継続しているのである。

平成は年号の漢字とは裏腹に災害の時代だった,阪神淡路の震災で5000人死んだとか東日本大震災で二万人近く死んだとか大災害の時代だったのである。
その平成も今年で終わりになろうとしている
自分は団塊の世代は昭和と平成を生きた,戦前生まれの人は戦前の昭和と戦後の昭和を生きて平成も生きたとなる
100歳まで生きている人は大正生まれである。
自分の母親は大正生まれあり父親は明治生まれだった
大正は短かったがそれなりに特徴ある時代だった,その時この辺では原町の無線塔が作られて関東大地震をアメリカに伝えたことで有名である。

年号で不思議なのは江戸時代になるとその時代が年号では良くわからないのだ
元禄とかはわかりやすい,これは今の高度成長時代とにている,新田が全国で開拓されて繁栄した時代である。それは地方にも波及していたのだ
なぜなら葛尾村にも元禄の碑があったし相馬市の新田村にも元禄の碑があった
この辺では元禄の碑はまれである、幕末の碑が多い,墓でもそうである。
元禄時代というと俳句では芭蕉の時代だった、俳句が興隆した時代だとなる
各地で新田が開墾されて開拓されて人口も増えたり高度成長時代とにている
あとは江戸時代では文明が飢饉の時代として記録される
相馬藩では飢饉で人口が流出して三分の一に減ったからだ
そこで越中などの移民が入り立ち直った歴史がある

年号で時代を現すとき江戸時代だと順序が逆になったりする,年号が安政とか安永とかいろいろあっても時代の順序を間違えるのである。古いのか新しいのかわからなくなる
その時代がどういう時代だったかイメージできないのである。
それは江戸時代はあまり変わりないからそうなったのかもしれない。
ただ元禄と文明は一つの区切りのようになった時代である。
まず明治以降は明治という時代があり大正という時代があり大正が先になったり明治が後になることはありえないのだ,江戸時代だとそういうことが普通に起こるのである。

ただ戦後の昭和から平成に変わるがこの変化はどうなのか?
確かに高度成長時代から変わったとしてもそんなに生活自体に変化はなかった
それなりに豊かな時代を過ごしているのである。バブルもあった
低成長時代になっても豊かであり暮らしが貧しくなったとは言えないからである
格差社会となっているのは確かだがそれほどの変化がないとも見ている
文明のように飢饉とかなれば大きな変化だから記録される
平成はやはり阪神淡路大震災や東日本大震災が時代として記録される
そして原発事故だった
そのために今回平成の終わりに天皇と美智子妃が相馬地方を訪れたのである。
それが何か時代の区切りだったのである。
ただ原発事故は終息していない,廃炉に30年かかるとかまだまだなのである。
だから津浪や原発事故の後遺症は十年とかつづきそれ以上つづくのである。

平成天皇というと美智子妃の方が注目されていた,結婚式のときは盛り上がった,それはまだ高度成長の時代の時だったのである。
ただ時代というのは個々人でもどう生きたかで違ったものになる
会社で高度成長時代を生きた人はいい時代を生きたとなる
今は銀行が窮地に追い込まれるとか経済的には後退している時代だからである。

でも自分のように会社勤めもしないで旅ばかりしていた者にとっては会社のこは関係なかった,でも自分はそうして30年間とか旅できたことは今になるとあまりにも恵まれていたとなる
それがわかったのは介護になって十年間苦しんだ,旅もしていない,それで家族もみんな死んだが旅に出る気力もなくなったことでわかった
自分が旅できたのは経済的にもそうだが精神的にも帰る家があり留守してくれる家があったからだと思った
何か家があると旅に出にくい,留守する人もいないから家族が死んで自由になってもしにくいのである。そして何か気力がなくなったのである。

ともかく今回天皇陛下と美智子妃が相馬地方に来たことはそして写真を自らとったことは時代の区切りを自分でも感じた,平成も終わったのか次はどうなるのだろうと思う
平成の終わりを天皇陛下を見送ることで感じたのである。

梅雨入りや天皇去りて燕飛ぶ

雨しとと平成終わるや美智子妃を我が見送りぬ梅雨に入るかな

何か平成は梅雨のような時代だったかもしれない,ぱっとしない時代である。
時々晴れ間があってもぱっと快晴にはならない時代だったような気がする

posted by 老鶯 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層