2018年06月05日

大原と橲原(じさばら)を結ぶ道 (森の中の道で車が通らないのでいい-無意識に成長する木(詩)


大原と橲原(じさばら)を結ぶ道

(森の中の道で車が通らないのでいい-無意識に成長する木(詩)

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この道はほとんど車が通らない,田舎ではこういう道はどこでもある
でもあそこは特別通らない,なぜあそこに道を作ったのか?
別に橲原(じさばら)でも小池は近いし道はある
ここを通るのは車ではまれである。

木蔭にずっと休んでいたけどほとんど車が通らないから気持ちが良かった
車が通らないことは癒しになる,今はどこだって車が通る
あそこは車は本当に通らない
そこに森がおおっていて静まり癒しになる
車が通らない道というのは今になると不思議である。
車が通る道で暮らしているからそれが当たり前となってしまっているからだ

だから車が通らない道がもともと当たり前だったのだがそのことがわからなくなっているそれは道が歩いていたのが歩かなくなったのと同じなのである。
あそこは贅沢な道である,何か仕事とかで車もほとんど通らない
ただ残念なのは一部森の中の木がかなり切られていた
そこは土がむきだしになって嫌だった
何かこの辺は原発事故以後そうした土がとられてむき出しになっているところが多いのである。
自分は異常にそうした景観を気にする,音もうるさいのが嫌なのである。
だから自分は現代的環境に向いていないのだ
自分は介護とかで消耗したし年になって余計にそうなり人ごみの中に行きたくなくなったそれで仙台にすら去年は一回しか行っていない

この辺は高い山とかはないからものたりないが森は結構ある,飯館は70パーセント森だからここからも森がつづいている,その森が癒しになる
そして例えば橲原(じさばら)の入り口に立目石がある
それは変わらずある,その変わらないことが今や貴重なのである。
なぜなら右田の松原ですらなくなった,あまりにも変わりすぎたのである。
それは一身上でも家族がみんな死んだとかともり変化が激しすぎて消耗したのである。
だから変わらないでくれ,そこに変わらないものがいつまでもあってくれとなる
それは老人になるとそうなりやすい,変わりることが嫌だし対応できないのである。
若いときは常に変わっていた方が良かったのである。
老人になると変わることに耐えられなくなるのだ

もともと自然は変わらないの普通である。でも自然でも津浪で松原が喪失したとか変わるあとは工事で変わる,飯館村の大倉の坂を越えた所の小川はなくなった
とぎれどきれになた森が切られて道になったからである。
こうして自然も実は喪失したり変化するのである。
ただ自然でももしこの道が森のままだったらこの森を意識しないということがあった
ここに道ができてここに森があったということを意識するようになったからだ
だからこの道は自分にとってはいい道だったと思う,贅沢な道である。
ただ経済的効果からするとただ公共事業としての効果だったのかとなる
田舎では実際に道を作りすぎていたからである。
それは必要というより業者にとって仕事のために必要だったのである。


無意識に成長する木

車の通らない道
車の通らない道
深く影なして
涼しい風が通ってゆく
深い森に木がゆっくりと成長する
大地に根を張り成長する
栄養は尽きることがない
そんな心配をする必要がない
木は確実に時間の中に成長する
一分刻みの時間ではない
一年十年単位の時間である
木はそこにあっても意識しない
でも木は自ら成長する
深い森の中に音もなくゆっくりと
あらゆるものにせかされる
尽きない不満がおおっている
森に成長する木は何の不満もない
大いなる沈黙の中に
無意識に音もなく成長してゆく

自然は常に沈黙している,だから自然に同化するには沈黙が必要である。
自分は特殊な立場で禅僧のように沈黙する一面つづけてきた
そんなことができたのはつくづく環境に恵まれたのである。
自分は学校もそうだが会社勤めでもできない性質だった
体質的にもそうだった,何か規則通りにできない体なのである。
だから一番嫌だったのは学校だった
大学は授業に出なくてもいいから自分にとってはいものだった
その後自分は仕事もせず遂に老人になったのである。
これは恵まれた家庭環境があり自然とそうなっていたのである。

自然は人間のように意識をもたない,無意識なのである
これも不思議だと思う,人間は意識の塊りである。
常に意識して生きている,その意識することに疲れるのである。
自然は木でも岩でも森全体でも地球全体でも自ら意識することはない
それで苦しむということがないともなる
植物が苦しむということはないからである。
動物になると苦しむが植物や木や石でも何か意識しない
その無意識なるが故に無苦痛であり何か不安もない
人間は常に不安にさいなまさているのだ
それは常に何かを意識するからである。

ただ人間は意識するから生きている
意識がなくなることが実は死だったのである。
家族でも意識しているときは相手が誰かを知っている時は意識しているときは生きているその意識がなくなると死になるのである。
ただ人間は意識することで苦しむのである。
自然は無意識の世界だから癒される
あそこの道はそういう点で心を休めるのにはいい道である。
それが山の奥の方でなく近くにあるからいいのである。
結構あそこは森が深い場所だったのである。


木々の道、リスル=アダンの森
画家 : テオドール・ルソー

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この絵も大陸的である。大きな川が流れていて牛が水を飲んでいる
こういう光景は日本にはない,川が大きく広い
日本にはこうした大きな川がないのである。

ここのサイトは絵を紹介している,インターネットとはこうしてリンクして読むのが効果的なのである。
自分の関心からリンクして読む,「森の道」として画像検索してここのサイトを発見したからである。




働くことには誇りが必要 (モチベーションが上がらないと働けない)


働くことには誇りが必要

(モチベーションが上がらないと働けない)

働くことにはいろいろな要素がある,一番は当面の生活するために金が必要だから金のために働くのが普通である。
金になれば資本主義社会では別にどうしてもうけようと評価される
和歌山のドンファンの人はただ女性のために働いていた
金があるところに女性もよってくるからである。
でもそこで働く従業員もいた,その人たちは社長がそうして働くときそれが従業員のモチベーションになるのだろうか?
それはただ金だけが目的の会社になってしまう
そういう会社で働く人はどういう気持ちで働くのかとなる

働くとき誇りが必要だというとき人間にはプライドがある,それが人間の存在意義にまでなっている
なぜなら家族が認知症になってそのことが痛いほどわかったからである。
ただ自分の家族の場合,特別プライドが高かった
だから認知症になっても決して馬鹿になったとは思わないし馬鹿として扱うこともできない,馬鹿にすると怒るし暴力にもなるのだ
それだけプライドをもちつづけていたのである。
それは死ぬまでそうだった,最後は自分は優秀だったと言って死んだのである。
自分の家族の場合は特殊かもしれんがそれだけ人間はプライドは最後までもっている
だから認知症になってもそうだからもし社長だった人なら演技しても社長として持ち上げる必要が治療になるのである。
その時気分を良くしてくれるからである。すると症状も治まるからである

人間がプライドをもつというとき職種によっても違ってくる
自分は若いとき流れ作業しかしていないからそこでこれが人間のする仕事なのか?
これはロボットと全く変わりないということでそれ以後自分は一切仕事がする気がなくなったのである。
だから自分は会社員にもならないし仕事したことがない
そういう自分が働くことをどうのこうのというのも矛盾しているのである。
ただ普通人間は日々働いているからどうしても働くことを考えざるを得ないのである。

働くことに誇りがもていなというとき職種で相当違ってくる
コンビニとかスーパーのレジとか掃除とか無数の職種がある
ではその仕事に誇りをもてるのか?
そんなものやがてAI化して人はいらなくなるとかしきりにいう
ところが人間は働かなくてもいいとなっても誇りはプライドをもつことで生きがいになるそういうものがもてないとき人間はどうなるのか?
それは今のニートとか無職がどれだけ社会から批判の的になっているかを知ればいい
「働かざるもの食うべからず」なのである。

その点医者とか看護師とか技術者とか他でもそういう社会から認められ誇りをもてる職種はいい,社会から認められて尊敬されているからである。
それはもう過剰なほど尊敬されているからである。
だから優秀な人間が医者を目指すというのもわかる
ただ誇りというときこれは職種だとすると専門家のことであり外国ではあなたのプロフェショナルは何ですか?と聞かれる
専門職が何かでその人を見ている
でも日本では会社でその人をみる,どういう会社に所属しているかで人をみる
その人が何のプロフェショナルなのかを必ずしも見ていない
だから大企業に属しているだけでその人は社会の評価が高くなるのである。

でも地銀などを苦しくなり投資信託とかを売るようになった
でもその投資信託を売る銀行員は全く証券とか投資のプロフェショナルではなかった
本当に素人並であり適当にすすめているだけである。
素人でも分散投資とかの理屈はわかる
でも株が上がっていたのに売ったりして投資信託に回した
それはただ銀行側で投資信託がもうかるからである。それしか理由がないのである。
本当の証券とか投資のプロフェショナルは普通の人は知ることもできないものなのだろう
だから仕事というとき会社に所属してしているのとプロフェショナルとして見る仕事がある
医者でも大きな病院に所属していようがテレビドラマで見たが特別天才的に優れた医者がいて若いけど手術がうまいのでその人は横柄でも上の人でも頼り文句が言えないのである医者でも伎倆がすぐさているとまさにプロフェショナルであり有名な大きな病院に所属しているよりその伎倆の高い医者がいるからその病院の評価があがる
それは南相馬市立病院で脳外科が脳出血とか脳梗塞の専門病棟ができた
それは手術がうまい先生がいてそれでそこに習いにくる若い医者が集まるという
そうして優秀な医者がいるから病院の評価も高まっているのである。
そういう先生の下で働くことに誇りをもつということがある

誇りというときいろいろある,故郷を誇りに持とうというとき,何が誇りになるのか?
相馬地域だと野馬追いが有名だからそこに誇りをもつとなる
これは伝統があり誇りをもてるし祭りは故郷の誇りになる
でも今故郷に誇りをもつというとき何を誇りにするのか?
目立った自然があれば高い山でも川でもそうだが自然が誇りになることはある
自然は多様だからその地域地域の特性があり誇りをもつとなる
自分の場合は故郷の歴史とか自然環境を基にして詩を作ったりしているから故郷の誇りをそこに求めているともなる
自然がないところには真善美もないからである。
東京は経済的には富が集中しているがそこに人間として誇りをもてるのか?
ただ田舎ではそうして自然の美より経済的なものが優先するから誇りにしない人も多い
農業でも金にならないからと跡継ぎもいないのである。

だから原発事故があったけど事故の前は東電の社員は地域のエリートだったし技術者は誇りをもっていたのである。
そして地元でも東電で働いていた人が多いから東電に働いて家を建てたとか家族を養ったとかあり誇りをもっていたのである。
でもその誇りも事故で打ち砕かれたのである。でも事故後もあまり東電を批判できないんだよなというときそこで誇りをもって働いていたからだとなる
そこで収入を得ていたからだとなる

人間にとって誇りの問題は大きな問題である。それで人間は経済的動機より誇りをプライドが優先して歴史を動かしてきた,人間の根本的動機がプライドにあるとまでみて歴史を解説した本も出ている
だから会社であれ国家であれ故郷であれそこに所属している人は誇りをもちプライドのために死ぬともなる,国と国の争いは人間のプライドをかけた争いであり経済的要因ではないとしている
戦争に負けることは国が隷属状態になりプライドを失うことだからである。
日本はアメリカに負けてそうなったからである。
アメリカは世界で一番であることにこだわるのはプライドがそれだけ一番高いからそうなっているのである。

では銀行のように今までのようにプライドがもてるのか?
何かプライドがもてる仕事をしているのか,それは他でもそうである。
大学でも一流大学だとプライドがそれだけでもてる
でも別にやはりいろんな人がいるから一流大学でもだめな人はだめなのである。
外国ではプロフェショナルに誇りをもっている
大学でも外国ではそこで何を学んだかを重点にしている
いくら大企業でも一流大学でもそれですべての評価とはならないのである。

歴史の終わり(フランシスフクヤマ)では人間を気概からみている
経済的動機ではなく気概があって人間は動く,民族主義は気概があって他の国との戦争になる,気概が動機であり必ずしも経済が動機ではないと言っている
それだけ気概とか誇りが人間にとって大きな意味をもっているのである。





posted by 老鶯 at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題