2018年06月27日

意志疎通できない社会の問題 (自然と歴史と社会への意思疎通が欠かせない)


意志疎通できない社会の問題

(自然と歴史と社会への意思疎通が欠かせない)

●自然への意思疎通

●歴史的意思疎通

●社会的意思疎通


駅に毎日行っていた,でも向かい側のホンダにネパ―ル人が三年働いていたとかわからなかった、人間は意外と近くのことがわからないのである。
灯台下暗しなのである。今や外国の方が詳しくても日本のことがわからない人もいる
ニュースはたいがい広域的だし今はグローバルになる

つまりホンダにネパ―ルの人が来て働いています

こういう報道は一切ないのである。
駅でいろいろな人とあったことをプログで書いたがそれもニュースだが報道はされない、人間は何かを知ろうとしているが身近なことすら今では知りえないのである。
駅でボランティアをして外部の人と内部の人と交わり土地のことをある程度理解したが一万の町でも今では複雑だからわからない、隣で何をしているのかわからないことも多い
こういう社会は今までなかったのではないか?
江戸時代だったら長屋だと家のことが筒抜けだし村だったら農家だったらもうその家のことはみんなわかる、     
だから現代というのは江戸時代と比べると異常だともなる

つまり身近に住んでいる人でも何をしているかもわからないということである
そもそもそうして外国人が来ているということは目立つことだがそれすらわからなくなっているのである
そしてただ金があればどこでも暮らしていけるという社会なのである。
ただそこで現代社会で何が起きてくるのか?それは様々な事件として現れてくる
まず通り魔事件などは江戸時代だったら起きないだろう
江戸時代の犯罪はわかりやすいのである。目的もわかりやすいのである
今でも犯罪は動機がわかりやすいものがあるが何か不可解なものもある
それは日ごろから社会が多様化して複雑化しているからである
仕事も無数にありその仕事を理解することが難しいのである。

人間とは生きるときまず自然との意思疎通が否応なくせまられる、自然のことがわからなければ生きていけないからだ、狩猟でも漁労生活でも農耕でも遊牧民生活でもそうである採集生活でも何が毒の植物なのかなど見分けなければ生活できない
そこに自然との意思疎通が不可欠でありそれがまずなければ生活できない
それは今でもつづいているが自然との意思疎通は文明化工業化が高度になるとおろそかになる、なぜならホンダで働いていたネパ―ル人がいたように今は農業社会ではないからだ
でもそこで何が起きてくるのか?
自然との意思疎通ができなくなるとき何が起きてくるのか?
そこに今回のような原発事故なども起きて自然が根こそぎ汚染されて住めなくなったりする、東電とかには自然との意思疎通はない、農民や漁民や林業にあったとしても東電には自然との意思疎通はないのである。
東電とか政府でも地元の人との意思疎通はなされていない、ただ政府とか東電では金さえやればいいとしていたのである。
地元でも意思疎通を望まない、金があればいいとしていたのである。
ただそもそも科学のこと原子力のことなどわからないから意志疎通ができないということもあった
ここも現代の問題なのである。専門家がいてお前たち素人には何もわからないとしたとき意思疎通がなくなるからだ
そして何か現代社会はホンダで30人くらい働いているのは多いなと見る
東北電力で働いていた人が2000人とかいたというのも驚きだった
そういうこともなかなか近くでいつも見ているのだが内部がわからないのである。
人間は今田舎に住んでもそうしてわからないことが多いのである。

もう一つ大事なものとして歴史的意思疎通がある、その土地には長い歴史がありその歴史の上に市町村でも作られている,でもこの歴史的意思疎通もむずかしいのである。
なぜならそれは死んだ人たちとの意思疎通ともなるからだ
もうそこに昔を語る人はいない、みんな死んでいるからわからなくなる
だからまるで江戸時代になると実は外国より異質な理解できない世界になっているのだ
ヨ−ロッパでも古い城が数多くあるが現代の生活はどこでもにたりよったりだからであるでも中世の生活はどうだったのかとなると江戸時代を理解するのと同じようにむずかしくなる、特に外国は理解するのがむずかしくなる

私が古い碑とか墓とかで常に時代を見る、江戸時代だったら貴重だったとなり何度もみるそれは昔の人と意思疎通する手段になる、文書だけではない、その土地を踏んでそこに生きた人たちをイメージするのである、つまりそこに生きたものをただの記録ではないものを感じるからである。墓には何かそうした文書ではないものを感じるから意味があるとはなる
でも日本でも旅行するとその土地のことは歴史を知るのは容易ではない、その土地と意思疎通することがむずかしいのである。
そもそも人間は歴史というとき親が死ぬとまた身近な人でも死ぬと謎になる
その人は死んだとき考えるのだがすぐに忘れてしまうのである。
そしてその人が生きていた実在の人物なのかどうかもわからなくなる
人間は死んだ時点でみんな不可解な謎になるのである
だから歴史上の人物でも明治維新のように吉田松陰などは一人のテロリストにすきなかったなどと言われるのである。歴史はそうしていろいろに解釈されるのは人間は死んだ時点で不可解な謎になるからである。

現代は思うにグロ−バル経済になっても社会になっても実はただそれは物のやりとりだけであり金を媒介にしてつながっているにすぎない、ではグローバルに意思疎通が深まったかというとそういうことでもない
確かに世界を旅行できるからしないよりはいい,ネパ―ルに一回だけでも行けばあんな山の上にどうしてい生活しているのだろうと実感してネパ―ル人とコミ二ケーションできるからだ、まず一回を行っていないとあの山のことは理解できないからだ
つまりそこから意思疎通が始まるからだ

そもそも4000メートル級の所に人間が住めるのか?
そこでどんな暮らしが成り立つのか?

そこからして意思疎通がむずかしくなっているのだ
人間は狭い地域でもは意思疎通することはむずかしい、まず農民と漁民でも職業が違うと意思疎通がむずかしくなる、天狗とか山に怪物が住んでいるとかなるのはそこに誰が住んでいるか意思疎通できてないから神秘化してそうなったのである。
山の人と里の人と海の人があまり交わらないからそうなったのである
江戸時代ではどうしても閉鎖された所で生活しているからそうなる

では現代はこれだけ広域的に交わり世界と交わっているがそれで意思疎通ができるようになっているのか?実際は金を媒介にしてそうなっているだけであり意思疎通できているとは思えないのである。
ただ物が入って来たとしても意思疎通できるとはならないからである。
そこでマルクスが言ったように物だけがありその物にまつわるものは一切省かれるからこそ金を媒介にして流通できるとなる
それで神社とかで無縁化した場所に市場が生まれる、というよりは村ではそうして無縁化したところでしかそうした売り買いはできない
なぜなら村人は濃厚な地縁との結びつきで成り立っている、そこでは簡単に物を売ったり買ったりできないからである。そうすると村社会が破壊されるからである。

現代はそうして金だけを媒介としてグローバル経済となり共同体を破壊してきたのであるそこに意思疎通がなくてもいい、金だけを媒介にする社会である。
そこでまた様々な問題が起きる、金だけが力をもち金だけが媒介にするとき共同体が破壊される、人間の関係も金だけになるとどうなるのか?
人間性すら喪失する、モラルすらなくなる、金が猛威をふるい共同体でも人間のモラルを踏みにじるのである。
要するに社会が共同体があって金があるのではなく金があり社会があるとなる
そういう社会は意思疎通もなくなる、相手から金をとるものとしか見なくなるのである。金持ちがいればその金を盗ることしか考えなくなる
親ですら金をとるものとして見なくなるのである。

歴史でも郷倉に文書を村人の意志で保存していたように歴史すら保存されなくなる
歴史の保存には共同体が必要だからである。
共同の意志がはぐくまれたのはやはり金だけの社会ではなかったからである。
だからなぜ原発事故でこんなに簡単に町も村も崩壊したのか?
確かに放射能汚染がありそうなったとは言える、でもそれだけではないということを追求してきた、それを証明しているのは原発避難民は多額の補償金をもらった、そしてその金のことしか考えなくなった、そこにあった自然と歴史と共同して作られたものはその人達の中になかったのである。
第一先祖がどうのこうのといっても現実そんなことを考えても生活できないとなるからだそれより金さえもらえれば一億もらえればいいとなる
それでその金でいわき市では二万人の人が避難して次々に家を建てた
それを地元で家を建てられない人がうらやましがり事件が起きた
いわきの人と金だけでそうすることが反感をかったのである。

でも現実問題として金があれば別にいわきの人たちが家を建てるのではない
今は会社が外部から来て組み立てるだけなのである。
この辺でも何百軒も家が建ったが地元の大工はほとんど作らない、というよりそんな数をこなせるわけがないからだ、家というものを作るのでも別に地元の人とかかわらなくてもかねさえあれば建てられるしどこでも住める時代なのである。
そこで見逃されたのか無視されたのが目に見えないものである。
先祖とのかかわの歴史とか自然の価値とか金にならないものの価値があったがそれはもともと金にならないから無価値として認識されなかったのである。
だから若い世代は金をもらってみんな散り散りばらばらになったのである

三つの意思疎通が人間には基本的にあるとしてその三つとも今の社会は希薄化している
一見金だけを媒介にしてグローバル経済になってもでは世界との意思疎通が深まったかというとそういうことも必ずしもないだろう
ただ物が自由に出入りしているということなのである。金を媒介にしてそうなっているのである。別にバナナが入ってきたからとこれがどうしてとれるかなど考えることもないからである。何かただ何の苦労もなく実りそれが店頭に並ぶとなるだけである
でもバナナをとるにも苦労だと実際にそこで働いた日本人が報告しているからその現場で働いてみれば違うのである。

意思疎通がなぜむずかしいのか?それはもう歴史的にもむずかしい、なぜ万里長城ができたのか?それが今も同じ問題を起こしていたことに驚いた

ナイジェリア政府は24日、中部プラトー州でキリスト教徒の農民とイスラム教徒の遊牧民が衝突し、多数が殺害されたと発表した。地元メディアは86人が死亡し、50棟以上の家屋が破壊されたと報じた。

 ナイジェリアでは長年、土地の所有権を巡り農民と遊牧民が対立している。農民は、遊牧民が農地で放牧し作物を食い荒らしていると主張。近年は天候不順で農地が減り、衝突が激化している。

こういう衝突はやはり農民と遊牧民が意思疎通することがいかにむずかしいかを示している、遊牧民にすれば食料がなくなると食料のある農耕民を襲うのは当然なのである。
なぜならそうしなければ飢え死にするからである。
でも農耕民にすればそんなことされては困るのである。それで万里の長城ができたのである。農耕民は遊牧民の生活そのものが理解できないから意思疎通できないからそうなったのである,あなたたちは遊牧して食料で困ることはわかります、では食料を分けてやりましょうとはならていからである。ただそこで何らかの交換が貿易が成り立てば争いはなくなる、ただ一方的に武力で食料をとられることになるのは意志疎通がないからである
その意思疎通でもやはり交換する経済があればそれは平和的なものとして争いにはならないということはある、貿易でも摩擦があると貿易戦争になる
確かにグローバル経済は意志疎通する手段ともなるがまた反目するものともなる
ただ近間でも意思疎通ができないように人間にとって意志疎通することはいかにむずかしいかわかる、ましてや外国になると言葉から何から違うからむずかしくなるのである。 

タグ:意思疎通
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老鶯(昔を語る)⊶(梅雨の晴れ間の満月)


老鶯(昔を語る)⊶(梅雨の晴れ間の満月)

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ふるさとの昔語るや木陰かな

老鶯や昔語りて老い二人

老鶯や草深くして霧深し

根を張る木老鶯ここに長く鳴く


病にし倒れ直りぬふるさとになお生きるかな梅雨晴れの日

紫陽花や梅雨の晴れ間の満月の夕べ明るしはや消えにけり


今19時に雲の晴れ間から満月が出ていた、めすらしいと思って写真をとった
うまく写真はとれた、その時近くの家に紫陽花が咲いていた
梅雨の間の一時の満月だった
こうしてリアルタイムでプログにのせるのが本当は醍醐味である
事件でも速報性で新聞よりテレビが勝ったのと同じである。
ただインタ−ネットのプログはまず時間差があってみている
第一そんなに多くの人は見ていないからだ

同級生と川の土手の長い木陰の道で語る、あそこは場所がいい、座る場所もある
何か木陰で昔を語るのが今や向いているとなる
そこに老鶯が鳴く、老鶯は自分の俳号にしている
これは長く鳴くからである。自分も晩年になってやっと短歌でも俳句でもいんいものができたと思う
俳句より短歌の方が表現しやすい、その理由はただ長いからである。
俳句はもう短すぎて限界になったのである。

真野側は草深い、そこに昨日は霧がかかった、その霧も深かったのである。そこから老鶯の鳴き声が聞こえた
それも趣があった、遠くには行かないがこうして日々に日本の天候は変化するのである。

2018年06月28日

抽象画の制作過程の一つの例 (石を題材にして)


抽象画の制作過程の一つの例

(石を題材にして)  

One example of the process of creating an abstract picture

(Using stone as a theme)

stonechange1.jpg

↓↓↓↓ change

rockstabikty1.jpg
↓↓↓↓ change

rocksssss1234455.jpg
stability11111.jpg

lettersss1.jpg

breakrock.jpg

darkholl1.jpg

zeppikii1.jpg

icedtop1.jpg



写真でも絵でも石をソフトで変化させる、すると本物の石よりも石らしくなる不思議がある
それは全く絵の才能がなくてしているのではない、ただソフトで変形させる
完全に技術的な操作なのである。

次に草はただ草のように筆で描く、でもそれでは絵になりにくい、というのは画家だったら絵の才能があればできるがないからこれもソフトで変化させる
すると絵らしくなる、なるべく自分の手を加えないと絵らしくなる
なぜなら絵の才能が全くないから手を加えると絵らしくならないのである。
ただ私はこうして切り取りはりつけ変化させることをしているだけなのである 

無数の写真があり地形を変化させて新たな地形を創造している不思議がある
それは写真の変形で作られる、そういう地形は自然の中にもある
つまりそれだけ自然は多様なのである。
とても実際に自分の眼で見れない自然の景色が無数にあるということなのだ  

次に草は筆で描く、でもその絵は絵らしくない、なぜなら私は絵の才能が全くないから絵らしくならない
そこでソフトウェアで絵らしく変化させると絵らしくなる  
私の詩のテーマは石とか木とか山である。
言葉で表現すると詩は翻訳するのがむずかしい、絵や写真はグローバル化しやすいからアメリカの人たちが常時70人くらい見ているようだ



Whether photographs or pictures do change stone by software, 
there is a wonder that it becomes stone than real stone
It does not have pictorial talent at all, it does not just deform it softly
It is a completely technical operation.

Next I draw the grass with a brush, but the picture is not like a picture, for I do not seem to be a picture because I have no talent for painting
So if you change it in a pictorial way by software, it will become a picture

There are countless photos and there is a wonder that the terrain is changed to create a new topography
It is made of deformation of the picture, such terrain is also in nature
In other words, nature is diverse.
It means that there are countless natural sceneries that you can not really see with your own eyes


My theme is stone, trees, mountains.
Poems are hard to translate when expressed in words, pictures and phots are easy to globalize, so it seems that people in the US are always watching about 70 people

タグ:STONE

人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ! (相馬市は中村でありその由来は)


人名探究バラエティー 日本人のおなまえっ!

(相馬市は中村でありその由来は)

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このNHKの番組は面白かった、ドラマ仕立て姓の由来を追求していた
方角地名は一番多い,だから地名を見るとき方角からみる
でも方角でも東西南北があってもどこが中心か問題になる
中村は最初に人が住んだ古い村だから中心になる

相馬市は中村からはじまった、中村という地名が起こりであり中村市だったし中村城になっていた、相馬市と名付けられたのはまだ新しいのである。
中村という方になじみがある人はもう老人だとなってしまった

中村というのが駅前にあり城の側にも中村とある,これは何なのか?
中村が移動したものなのか?中村の発祥の地ではない、
なぜなら中村の城は中村という地名がある所に後から作られたからだ
だから相馬市は中村から生まれて城が作られた、中村は古いのである。

つまり何でも新旧がありそこから郷土史でも歴史でも見ることが基本なのである。
つまりこの城の側の中村は新中村なのかもしれない、中村の人達が城ができて移り住んだのである。何か城下町として城の側だから仕える仕事があってそうなったのかもしれない古町とか新町がありこれは狭い範囲でそうなる、鹿島区でも新築の家が何百軒と建ったから新町ができたとなる
ただこの見方は違っていた、中村という村の領域が城の近くまであったともなる
田町というとき城ができてそこが町になった、田町は新しいともなる、城ができた後に名付けられたからだ
やはりこれは中村という領域にあり中村はそれだけ広かったとなる

そして面白かったのは村は中村から開墾して広がっていった、分家していった
その時竹村とあるとき竹が生い茂っていてそこを開墾して住んだ
そして竹細工を作り売る村になった、他に樫の木があり樫村になったというときその樫は鍬に固いから使用されていた、つまりその木を鍬にして売る村があっとなる
栗村だったら栗を作り売り梅村だったら梅を作り売りとか様々なものを栽培して生活するそれは農村もただ米を田んぼを作るだけではない多様なものを作るうよになった
それは農村が分業化したことなのである。
百姓というとき百の姓があるということはそれだけの分業が起こりそうなった
分業というとき工業のことを考えるがそうてはなかった,村には多様な職業が生まれたのである。

木村が紀伊の国からきているというのも面白い、木のある村ではない、紀伊の国は古代に有力氏族だったからである。紀伊とは和歌山県でありその人たちが全国に散らばり木村となった、現実に紀伊国に年貢などを収めていたからである。
紀伊というとき和歌山県というとき熊野で有名であり熊野神社が多いのはそのためであるいたるところに熊野神社があり鈴木という姓は熊野から和歌山県から由来しているのである。

毛野国は古代で大きな国であり今の栃木県とかで大きな領域をしめていた
南相馬市の鹿島区の浮田は浮田国造(うきたくにのみやっこ)があり一番古い
それも紀伊国に由来しているともなる、ただ木村のすべてが紀伊国とはならないだろう。ただ古代だけではないクジラがとることで太地とか有名だけどそうした漁民もその後東北に移動しているからだ,漁をする技術を伝えているからだ
万葉集に真熊野の船を歌ったものがあり木が豊富だから船作りを古代からしていたのである。

島隠り 我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上る ま熊野の 船 

こういう番組の作り方はいい、ドラマ仕立てでできるのがNHKとかの強みなのである。
ただ番組は今や無数に作れる、テレビ番組すらyoutubeで作れる
そして番組の作り方は一つではない、無数にある、その説明の仕方も無数にある
説明の仕方で新たな視点を得ることもできる
だから現代は情報化社会なのである。
まずNHKで番組を作ったからといってただ見ているだけだった
今や批判もできるしその説明も即座にしているからだ
もう番組作りに参加しているのである。共同制作になっているのがインタ−ネットである新聞とかテレビだけが番組を作る時代は終わったのである。

posted by 老鶯 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年06月29日

相馬藩内の地名を探る (津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)


相馬藩内の地名を探る

(津波で原始の状態が再現されて地名を理解した)

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八沢浦にこんな広い沼が生まれた
二つも三つも生まれた、それで二ツ沼という万葉集の歌があることを実感した
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荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域 
(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へ)

田の意味に「田畑のように何かをうむ所」があり、古訓に「ところ」があるのです。                       
 黒ノ田は「黒がある所」の意になります。  
 この周辺は金銀銅鉄などの鉱産物が多い地帯ですから、
 黒はくろがねの黒で砂鉄か鉄鉱石を産出した所と推測できます。


 大畠一・大畠二(小字名) 
上坂田集落の南東側の水田の地名です。耕地面積の大きい畑の意の地名です

地名から探る郷土史と歴史のポイント

●原始の自然状態をイメージする

●地名でも新旧を探る

●渡来人の地名は古く多いから要注意

地名学となるとまず日本の自然状態、人の手のはいらない自然状態をイメージすることが不可欠である
津波で驚いたのはその原始の自然状態が再現されたことであった
八沢浦が元の入り江にもどったときほど驚いたことはない、そして塩アまで津波が来ていた
そこに古代の港とされる船着という地名がありその近くまで津波が来ていたことには驚いた、つまり太古の状態が再現されて船着という地名があり確かにここに船が来ていたことが津波によってリアルに証明されたのである。
地名はまるで化石と同じくらい古いのである。船着といってもそれは化石地名となっていた、どうしてあそこに船が来たのかということがイメージできなくなっていたからだ
でもあそこはもともと低い場所でありだから津波が奥までおしよせたのである。

このように原始からの手のはいらない自然状態から考察しないかぎり地名はわからないのである。自然状態というとき一時八沢浦とかでもほかでも大きな沼ができたことにも驚いた、日本の原始状態は湿地帯であり沼が多かった、だから海側には沼とつく地名が多いのである。沼田とか池田となるともともとそこはには沼があり埋め立てて田にしたとなる
田下駄というのがありそうした湿地帯や沼を田にするのに下駄が生まれたのである。
その後でも下駄はぬかるよに強いからである。舗装されていな道では下駄が良かったのである。

ともかく無数の地名があるとしてまず原始の自然状態をイメージすることから地名を知るそれは歴史でもそうである、原始の自然状態から地理から歴史を知ることが不可欠なのである。
例えば芦田というのも多い、そこには芦が茂っていたからその名がついた
ところがアシは悪しきとかになり縁起が悪いとして吉田にしたという
吉田でも葦が茂っていたからの意味もあるが縁起を担いで吉田としたとある
吉原とかは遊郭で有名だけどそこは葦が茂っている原野だったのである。

ともかく相馬郷土史でも地名から探る時人の手の入らない原始状態を見るべきである。
原町だと長野とか深野があり大原がある、それが原始状態としてある
原町は原っぱであり名付けられた、そこは野馬が放し飼いされた広大な牧であり今の街などなかったのである。人も住んでいない原っぱだったのである。
原町の成り立ちは今の街の周辺地域から始まった、まず館とある地名は鎌倉時代とか中世に由来するからそこを注目しておく、深野には館とつく地名が二つもあり古い、大原は相馬市が入ってきて開墾された場所であり新しいのである。
この地名の新旧も大事なのだ、そもそも歴史でも郷土史でも村の新旧でも何か古いのか新しいのかを知ることが基本的にある、これを間違うと歴史を誤解する

新旧というとき朝鮮半島からなどの渡来人がきて地名化したことは要注意である。
例えば末続(すえづく)などは須恵器を作る渡来人の技術集団がきてなづけたし津宮(つのみや)とかあるのもそうだった,ツノとはツノガノアラシトのことだからである。
これは製鉄の技術をもっていた技術集団でありそれが最初に地名化したのである。
朝鮮半島には伽耶とかが百済とか新羅の前にあり日本の天皇が伽耶に由来しているとかの説もある、つまり伽耶(かや)という地名は萱(かや)と混同しやすいが伽耶の国の人たちが移住してきてついた地名がある
そしてこの人たち日本の大和王権成立前から来ていた
それで蝦夷とはこの伽耶族とかが入ってきて大和王権に対抗した人たちなのである。
それだけ日本に来たことが古いのである。

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原始の状態を見るとき地名が解明されることがある、大原から八木沢峠に行く道の薔薇(バラ)坂がある、ここになぜ薔薇なのか?それがわからなっかた、薔薇というとき薔薇の花をイメージするが茨のことであり荊とか棘とかなる,刺(とげ)がある茨(いばら)の原だったのである。
それを実感したのは薔薇坂でそこの家が放射能汚染で避難区域になった
その時そこに入ったら茨があり難儀した、そしてそこにカモシカが出てきたことにも驚いた、茨は茨木になった由来は知られている
なぜここが薔薇坂なのか?薔薇という字ではなく茨にしていればイメージするものが違っていたとなる
これでもわかるように地名は常にその土地の原始状態を人の手のはいらない状態をイメージすることが不可欠なのである。
そして地名でも常に新旧を知ることである。
深野にあった豪倉という地名は昭和十年とかに建てられた新しいものだった、だからそれほど価値ないと見た、歴史では常に古いものが価値があり古いものから歴史を探る

だから相馬市はもともと中村があり城が作られた側まで中村だった、その後に田町とか大町とか町(街)になった、ただ曲田となるともともと田があったとなる
順序的には田町は新しいとなる、城がてきてその後に地名化したとなる
それは中村という大きな村がありその中に後から町(街)ができたからである。
もともと田があったから田町となった

基本的に日本では田と畑の地名が多い,でも田より畑の地名が古い、畠とあり畑とあると火があるから焼き畑地名である。田が作られる前は焼き畑がった
だからこそ焼き畑地名は多いし古いとなる、飯館村の佐須とか比曽とかも焼き畑地名である。山林地帯であり森を焼いて畑にした場所であり狼が祭られていた山津見神社は
焼き畑とか関係し神社なのである。なぜなら狼は作物を荒らすイノシシやサルやシカを食べるからである、狼はだから大神になっていたのである。
焼き畑地名は田のつく地名より古いのである。

ただ黒田が黒の田というときそこに鉱物資源がとれたというのはわかりにくい、鉄生産の地名も多い、そしてその鉄生産に渡来人がかかわっていた
海側だと砂鉄がとれるしそのために海側を伝って移動してきたとなる
ツノガノアラシトの角(つの)とつく地名が小高にある角部(つのべ)なのである。
津軽(つがる)もツノガノアラシトがなまったものでありなぜ棚倉で大和王権軍と戦ったことが伝説化している津軽(ツガル)族がここで一緒に戦っていたのか?
ツノガノアラシト系が東北で離れていても連携していたともなるのである。
ただ渡来人系の地名とか足跡は大和王権になり隠されたことは確かである。
それで不明になったのが多いのである。

ともかく地名の起こりは日本の原始の状態がはじまっている、だから日本の純自然状態を知らないと地名もわからないのである。そこが吉原だったち遊郭とかなればイメージできなくる、都会のビルが林立すればイメージできなくなる
でも津波で原始の状態が再現されたときリアルにイメージできたのである。

南相馬市の大原から八木沢峠へ (バラ坂の地名由来の考察)

荒地化して羚羊がでて猿が増えた原発避難地域

(橲原渓谷からバラ坂、大葦、大古林道から大原へー春の短歌)


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2018年06月30日

回想・大正初期の山村生活誌 (我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む


回想・大正初期の山村生活誌

(我心の奥の伊奈谷)ー武部善人を読む

1912年(明治45年)生まれだから百歳超えているとしたら今は死んでいるだろう
自分の父親も明治生まれであり葛尾村で生まれ育って双葉の新山の酒屋で丁稚奉公したのである。
山村の暮らしとなるとわかりにくいがここにはその暮らしが実感として書いてあるから訴えるものがある。
学問でも実感が大事である、もちろん文学でも自ら体験しないものは訴えない
人の体験談でも自分が経験していなと共感できないのである。
だから職業を同じにしている人は話が合うのが当然なのである。
そして戦前から戦後十年は農業が主体の経済であり日本人の生活は農民が主体であった

ここで語られているようにまず養蚕が盛んでありこれにかかわらない家はないくらいだった、それで今でも近くでも兜型の屋根の家が多く残っている
二階で養蚕していたからである。
その時代を重ね合わせると自分の母の実家は祖父が機織り工場を経営して失敗しとか母が原町の原紡(原町紡績)で十年間糸取りとして働いたとかある
養蚕や絹織物が主な産業であった、自分の家の裏には桑畑があり麦畑もあった
それが今は住宅地になって何もなくなった、今思うと回りが畑であり田んぼだったということなのだ、街中にいてもそこは田んぼや畑に囲まれていたのである。

現実に街でも農家がいて養蚕をしていたし畑を持っている人はいまでも普通にいる
なんらか農業と関係していたのが田舎なのである。
それは一万くらいの町だからそうなっていた
原町になると大きな紡績工場があったりと多少違っていて農家だけではない
でも六号線近辺は農家だったことが今でもわかる、広い庭があり農地があった
原町では原の町駅が機関区になり引き込み線があった、鉄道と直結して荷が運ばれていたのである。鉄道が運送の主役だったからそうなっていたのだ
伊奈でも紡績工場に行く女工哀史があり肺病になって帰ってきた女性がいたとかなる
でもそこは現金収入になる場であり農村では食べられないものが食べられたとかある
今ではネパ―ルから働きに来ている人とにている
その人は四〇〇〇メートル級の所に住んでいたからだ
そこでしきりボールペンをくれと言われたの覚えている,つまり書くものすらないのである、山だらけでありそれも高いからどうして暮らしているのかと思った
ただにたような山の暮らしが日本にかつてあったのである。

この頃の時代と戦後10年の自分の子供時代はだぶる、だから自分は体験しているから共感する、それは団塊の世代まででありその後は急速に高度成長したから体験がないからわからなくなる、つまり戦後十年は戦前とか大正でも明治でも江戸時代まで生活の基本が連続していた、囲炉裏も街中の生活でもあった、みんな炭を利用していたからだ
電気があったとしても裸電球一つであり道は舗装されていない、輸送は馬車の時代でもあった、馬車のうしろに乗って遊んでいたときがあったからだ
馬車屋というのが普通にあった時代である。
その時水道もなく自分の家では井戸がないから近くから水をもらっていたのである。
ただその水は無料だったのである。

この本では肺病のことが書かれているがその時肺病は国民病と言われていてなる人が多かった、母の実家の墓には25歳で死んだ兄が眠っている、その話を聞いている、何か苦しいからキリスト教に入ったみたいだ、だから戒名はない。
啄木も肺病で27歳で死んだとかこの病気は若い人が死ぬから悲惨だったのである。
現代の国民病はアルツハイマーだというとき高齢化社会を象徴しているのだ
肺病が伝染病だということがその時かわらなかったのである。
病気というとき何か原因がわからなくてなるが原因がわかると直ることがある
戦後に伝染病だとわかり肺病はなくなったのである

天竜川沿いとかこの伊奈谷は山深い、そこで生の魚を食べたことがないとここで書いてある、昭和二年に伊奈電が開通するまでは「陸の孤島」で子供の時に海の生魚を食べたことがない、全部塩辛い、塩の吹いた、かちかちの干し魚であった
イカもタコもかちかちの干しものしか知らなかった、後年生きた実物を見てどうしても信じられなかった
そして蛇、マムシ、赤蛙、蝉、イナゴ、蜂、繭の蛹などを食べた

これがやはり山村の生活だった、塩漬けのものの魚を食べていた、でも糸魚川から松本まで長い塩の道があり有名である。牛で塩を運んでいた塩の道である。塩の道は飯館村へもあったから山村では塩は貴重なものだった、ただここはまだ海が近いから松川浦から塩だけではない、生の魚も運ばれたのかとなる、一日くらいで運ばれるから悪くはならないからであり事情が違っていた
ただ塩は山村では貴重なものだった、保存するにも貴重だった
そして何でも食べたというときイナゴはこの辺でも小学校の時、学校でイナゴをとり売っていたのである。みんなでイナゴとりしていたのである。
これは食用にもなっていたから同じだった、こんなこと今はありえないのである。
田植えの時期とか養蚕でも忙しいとき学校が休みになったというときそれは農業中心の社会だからそうなったのである。今は家の仕事が忙しいからと学校を休むことはありえないのである。

この人はまた家で紙漉きをしていた,これは辛い仕事であったことを書いてある
石神で紙漉きしている家に嫁いだ人を知っている、それは戦前までしていた
その家はもともと武家であり野馬追いにも出ていた古い家である
石神では実は紙漉きで有名だったのである。二三〇軒くらい紙漉きをしていた家があったのだ、紙漉きは当時大きな収入源となっていた
ただその様子を知ったらいかに紙が大事なのもか認識したろう
現実にこの著者は紙漉きをしていたからである。でもうまくやれずにいい紙を作れなかったと書いてある 

氷割り楮すすぎて生漉紙(きずきかみ)すく共の手の赤く大きく

冬に紙漉きするから辛い、氷が張っている川でする、伊奈というと寒いからである

いづれにしろこの著者はこうした貧乏な山村が嫌で都会に出た、その事情もわかる
ここには鉄道がまだ通っている、飯田線であり豊橋にでるまで長い,途中何回か乗り換えしたりしてやっとついた、一両の時もあった、相当に辺鄙な山奥である
ただ長篠があり織田信長と武田軍が戦った跡があるから意外と名古屋に近いのである。
飯田までは明治に電車が通ったが伊奈までは通っていなかった
それだけ発展が遅れたのが伊奈だったのである。

ともかく貧乏だった、明治生まれの父は酒の魚でも味噌を焼いたものとかしかない、それは戦後十年はそれだけ何もない貧乏な時代だったからである。
それで病気になりサシミ食えるようになっても食いたくないと言って死んだのである。
この著者は伊奈を出て学者になりあとは贅沢したとなる
戦前生まれは貧乏を体で知っている、ただ団塊の世代は確かに子供時代は貧乏を知っているがその後は豊かな生活であり飽食の時代を経験している
だから骨身に染みる貧乏は経験していないのである

子供時代はみんなそうして貧乏だったのである。だからそこに奇妙だが格差はなかった
なぜなら物自体がないしみんな同じようなもの食べていた
そして自家生産していた農家の方が食べ物に恵まれていたのである。
卵焼きすら食べられない時代だった
強い巨人軍や大鵬、物価の優等生と呼ばれた鶏卵が「時代の象徴」だと冗談で話していたことがきっかけであったという
卵焼きが食べられるようになったのは戦後一四五年くらいだったのである。
これでいかにまともなもの食べていないかわかる,ただ塩びきとかはこの辺では良く食べていた、御馳走だった、この辺の近くでとれる石鰈でも大晦日では食べるのが習わしだったそれは晴れの日にしか食べていないのである。

江戸時代から明治昭和と戦後十年くらいは庶民の暮らしは基本的にそれほど変わっていないのである。鉄道ができたことが大きな変化でもその鉄道を利用するのは貨物輸送のためであり庶民は乗車賃が高いから利用していないのである。
近隣を主体にして生活していたのである。梨農家が相馬市までリヤカーで梨を運んでいたというのも運送には鉄道は利用していないのである。

この著者は母のことも短歌にして残している

この静寂(しじま)生家の部屋に目つむれば憂ひに沈む亡き母の影

囲炉裏に座っている母を偲んでいる、意外と母というのは死んでから偲ぶことが多い
自分も生きているときはうるさいなとか思っていたが死んでから偲ぶようになった
母の存在感が大きいことを知った、人間はありふれてあるものを意識しないのである。
それがなくなったとき意識するのである。
故郷でもそうである、それがなにかわからないし意識しない、でも原発事故で避難したり故郷を離れて帰らないとなると意識するのである。
死後に存在感を増すものがある、失ってみてその大事さを知る
何かこの歌でもずっと母というのは存在している感覚になるのだ
人間は死んでもその存在が消えるものではない、存在し続けるのである。
posted by 老鶯 at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる (向かいの人の死で死を考える)


2004年9月30日の俳句日記を読んでふりかえる

(向かいの人の死で死を考える)

窓開けて隣に古き柿のなる

この辺は前も書いたがまるっきり昔の面影がない町になった。唯一残ったのが隣の古い柿の木である。これは自分の子供時代からあった。ほかは何もなくなった。その隣の家の人が最近死んだ。呆気なく死んだ。時々この窓から見ていたので死ぬとは思っていなかった話すこともなかった。東京の方へでて帰ってきた人だった。おくさんは東京の人だったがそれでもすでにここに長い、でも一言も話すことなく死んでしまった。ただこの柿の木は結局人間の寿命より長い、木の命は人間より長いから人間が死んでも残るのだ。人間がいなくなっても木は昔と同じように存在して柿が今年もなった。

2014−2015年 俳句日記より

隣の家は空家になっている、今は一時的に家を建てるための人が移り住んでいる
その人には息子か娘の夫婦がいて孫がいる
でも家が建ったらまた空家になる
その人の家は夫はこの町の生まれの人だった、嫁は東京の人だった
だから子供の時から知る人ではない、でも長くその家にいて自分の窓からその庭が見えた古い柿の木があり柿が実っていた、犬もいたが最後の三日くらい吠え続けて死んだ
犬も死ぬのが嫌だったのだろう
その女性は体が弱り買い物などを頼んでいたが遂に歩けなくなりいわき市の施設に息子夫婦が入れた、一か月18万とか高いことを言っていた、施設は実際そのくらい金がないと入れないのである。

何か過去をふりかえると不思議である。俳句日記を読んでも忘れている、その時のことが思い出せなくなり日記を読んで記憶をよみがえらす、2005年までは自分の姉は認知症になっていなかった、2006年から認知症になり介護生活がはじまった
その時は自分の家は平和だったのだ
そして自分は以前として家に引きこもっていて隣の家の庭を見ていたのである。
ふりかえると自分の生活は異常だった,なぜこうした生活ができたのか、それは特殊な家の環境のためにそうなったのだ、60年も家にひきこもった生活をしているのは異常だったし普通はできない、最近ニートとかいるから今はめずらしくない
ただ自分の場合は50歳から海外旅行していたからニートとはまた違っていた

この辺は変化はあまりにも激しかった、津波や原発事故の前でも住宅整備があり裏の畑や田んぼは整地されて住宅地になったからだ、その変化も大きかった
子供の時は真野川から水をひく水路がありそこで洗濯もしていたのだから信じられないとなる
人間はこんなに変わるものなのか、特に姉が認知症になりそれからは塗炭の苦しみが延々とつづいた、そのことは今度はプログに書いてきた
そしてなぜまたここに引用して書いたかというと数日前向かいの子供の時から知っている女性が死んだ、一週間前ほどに姿を見かけたので死ぬとは思わなかった
歩ける人が死ぬと思えなかったからだ、でも肺が悪くて血を吐いて死んだのである。

何かそのことが気にかかる、最後に言葉をかければよかったなとつくづく思う
そして近隣の人の死は何なのだろうと考える
何といっていいかわからないのだが死んだ人が何か言いたかった、そしてこの辺をまだ彷徨っていとなる、ただ向かいの人の夫婦は姿も見たこともないから関係ないとなる
でも死んだ女性のことは知っていた、その死が何か気にかかるのだ
家族の死でもないのになぜ気にかかるのか?

おそらく昔の死は村で共有していた、村の中でその死は孤立したものではなく死んでも共有されるものがあった、それで村人みんなで供養したりしたのだろう
そこに寺があり長く供養していた,寺は嫌だがそうして村の共同体が成り立っていた
その村の共同体がなくなると死は個々の死であり家族内とかの死であり近隣ですら関係ないものとなる、孤独死とか無縁社会というのも死者でもそれは近隣でも無縁化した死となる、死には個々の死がある、死ぬということは別に共同体とか社会と関係ないものとしてある、人間が死ぬ、そして灰になり消える,その衝撃は人間が生まれてから変わらないからである。その克服は別に共同体とも関係ないのである。
なぜならもう強固な共同体があったら死をまねがれるということでもないからである。

ただ死には共同体とかかわり社会的な死がある、人間は社会の中で死ぬのである
家族の中で死ぬのである。家族も社会とかかわりあり死がある
何か今回の向かいの人の死が自分にとって何なの考えさせられた
何か言い残したいことがあったのかなと思う、死の謎は個としての死と社会的な死があることは確かである。300万人の死は国家としての社会としての死であり個々の死ではなく社会的死としての問題なのである。

人間がそこに長く住むということは死を共有することになる、村というのは代々つづいているからだ、そこに先祖がいるといか感覚になる、先祖と結ばれるということはそこには村のような共同体があってこそそう感じる,それは理屈でなく一つの宗教にもなる
先祖崇拝がどこの民族でも起きていたからである。

でも現代のように生活が複雑化してそれぞれが孤立化したような社会になると共通の先祖を認識できるだろうか?
春になると御先祖様が山から下りてくるという思想は農業から生まれたのである。
葉(羽、端)山信仰もそうである。山から水が流れてきて春になると田植えがありそれで先祖が里におりてくるというときそれは農耕社会だから起きてきたことである
なぜなら農業社会だとみんな同じような生活をしていたからである
そこに共有するものが実際の生活でもあり精神的にある
そういう社会は死も共有していた、自然と抵抗なく共有できた
村では共同して農業をしていたからである。

だから墓友達などと今は同じ墓地に葬れられたいというけどなかなかなりにくい、つまり生の延長として死もあるからだ、社会的死というときもそうである。
だから現代は田舎でもみんなで死を共有して弔うということがない
葬儀屋にまかせるとはいうのも何か社会的死を専門化させてかたづけるとなるからだ
ただ正直村社会になると葬儀とかが本当にめんどうになるしそこに寺がかかわってきたらさらに金もかかるしめんどうになる、そもそも江戸時代のような社会とはあまりにも変化してそれもそぐほなくなったからだ
ただ死には社会的死がある、それは死というのが個としての死があっても社会的死となるのが人間だからである。動物だったら仲間が死んでも無関心だからである。

いづれにろ現代社会は死も共有できなくなった、その時先祖もなくなる、共通の先祖もなくなる、天皇が稲作の神であり大嘗祭をしていたときは共通の先祖として認識されていたのである。現代のような工業社会ではもう天皇でも共通の先祖として認識できなくなる
その時何が起きるのか?
国家や民族や街や村の解体が起きるのではないか?

津波や原発事故でこの辺が避難して町でも村でも人が住めなくなりもぬけの殻のようになったようになるのではないか?
死が共有できないことは先祖も共有できないことなのである。
つまり現代文明社会は便利さを追求してきたが様々なものを破壊してきた
それは何か目に目見えないものとして心の絆としてあったものも破壊した
金さえあればいいんだということが極端化して共同体でも破壊してきたのである。
それで死にすら意義を与えられなくなった、ただ個として孤立した死となる
孤独死とか無縁化というのは別に特殊な人ではなく社会全般の問題なのである。

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日本社会はすでに壊れているのではないか?
かえって遅れた国だと人と人のつながりが濃くなる
江戸時代がそうだった,長屋とかでもそうだった
ただメキシコが遅れた国とするとき孤立しているのか?
ヨ−ロッパでは先進国でも孤立していなのはなぜか?
宗教のためのなのか?でも宗教は否定されてきたのである。
ただ日本の状態は社会が壊れている、共同体が戦後は高度成長で経済第一主義となり金が第一主義となり破壊された、金があまりにも力をもちすぎた
社会があって金があるのではない、金があって社会があるとなってしまった

だから社会の絆もなくなり解体してゆく、金持ちが外国に貯金して何かあったら日本から出てゆくというときすでに金持ちは責任もなにも自覚していない
ただ金さえあれば世界のどこでも生活すればいいとなる
金だけの社会はそうなる,この辺でももともと一億円もらったら田舎なんか出てゆくのになと若い人が言う時そうだった、そして原発事故で避難民になって多額の補償金をもらったときいち早く出てゆき外に家を建てたのである
共同体の絆もなくなりそれが容易になっていたからではないか?
こんな簡単に村とか町がんくら放射線が怖いとしても簡単になくなってしまうことが理解できないのである