2018年06月09日

岩沼-仙台間で車両事故で約一時間ほど遅れる(2) (仙台行きが岩沼行きになっていた)


岩沼-仙台間で車両事故で約一時間ほど遅れる(2)

(仙台行きが岩沼行きになっていた)


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一昨日だった,東北電力に仕事に来た人がタクシーで鹿島駅に来た,その人は前にも来ていた
それでまた自分がいないかと言っていた,待ち合わせ時間に時々話し合える人と話すからである。
その時も自動化した無人駅のことで話していたのである。
その時車両が仙台-岩沼間で故障していたのである。
それで約一時間遅れた

そして今度来たらその人は岩沼でおりて東北線にのりかえたという,仙台-岩沼間は不通になっていたのである。
だから岩沼行きになっていた
でも確かに自動化された電子掲示板に岩沼行きと出ていた
でも自分は毎日その電子掲示板を見ていたのだがそのことに気づかなかった
岩沼行きになることはない,仙台行きなのである。
いつも表示されるのは仙台行きなのである。

英語で行き先はforである toだと途中でおりてまた次の駅に行くとなる
forだと終点なのである。目的地なのである。
だから岩沼行きとあれば岩沼でとまり終点になっていたのだ
だから
これはおかしいと原町駅の人にインターホンで聞けば良かったと後悔している
困らないように自動化しているのだがそれをよめこめないことがある
人間は自動化してもなんでもできるものではないと思った
未だにはじめく来るような人は仙台行きの乗り場と原町行きの乗り場,ホームがわからないのである,そんな簡単なことがわからないのかというがはじめての人にはわからないのだ
なぜなら何度も聞かれたからである。
それで表示するものを作ってもらったが以前としてそれが見ない人もいるし気づかない人もいるのである。
いろいろ案内してあっても気づかない人がいる
タクシーの電話番号は駅を出た所にあるから気づかないのである。

とにかくその人は自分を覚えていたのである。だから駅にまたいると思った
そこに人間がいるということはロボットがいるとか自動化した機械がいるとは違うものとなる
ただ普通駅員がいてあまり話さないかもしれない,でも駅員がいるのといないのとではかなり違ったものとなる
駅に駅員がいるということは安心を与えるものともなる
自分は一時間もいないからいつもいるわけではないからそれほど役ににはたたない
普通はあまり案内はなくなった,ただこうして故障したり風が吹いて遅れたりすると案内が必要になるのである。

高平(タカヒラ)地名と貝餅地名の謎(他に曲田の由来)


高平(タカヒラ)地名と貝餅地名の謎(他に曲田の由来)

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名取(なとり): 「ナ」は古代語で「土地・地盤」のことで、また「トリ」は「洪水や津波などによる欠損や崩壊」を意味し、「ナトリ」とは洪水や津波で土地が削り取られた土地を表す。

平泉(ひらいずみ)

(1)「平」は斜めに平らな土地のことで、北上川氾濫原の平地、泉地 
(2)方言「ひら」泉で、逆芝山の山麓の清泉 
(3)伽羅御所などの奥御館の南隅に湧く平地の湧井


平安時代以降、とりわけ江戸時代以降の新田開発に
関係しているところばかりです

宮古島の平良市を調べて、「宮古島では、ピラは『坂』という意味の言葉だという。」(65頁)、「石垣島のコンピラは、
まさに坂で、 通称コンピラ坂と呼ばれていた。」、「いまはアスファルト舗装
されているが、 舗装される前、この坂を登るのは容易ではなかったと地元の
人はいう。」(同66頁)、石垣島の川平(かびら)は「海に突き出て崖状になった所であった。」(同67頁)、宮古島でも、「ひら」が崖として使われている、
file:///C:/Users/USER/Downloads/j19_05.pdf

名取が津浪と関係した地名なのか?名取の被害も大きかった,そういう地形にあったのか?

平泉は平はやはり傾斜地であるがここでは斜めに平な土地としている,泉があるところは人が住むから多い,ヒライズミというときヒラ+イズミであり一体化しているところが地名としてある,ヒラタイというときまさにそうである。ヒラという地名は一語ではあまりないだろう
なぜならヒラはアイヌ語のピラ(崖)から来たというが本当にそうなのか?
もしそうだとしたら日本中がアイヌ語が基となりアイヌが住んでいてアイヌは縄文人だとなる,それは解明されていないし日本の地名をアイヌ語で解明することは危険なのであるアイヌと縄文人はまた違っているし縄文語とアイヌ語もまた違っているのだ
このヒラにしても日本語でちゃんとヒラク(開く)という動詞がある
日本では山が多いから傾斜地を開いて生活してきたのである。
野が傾斜地を意味しているのもそのためである。日本には大陸のような平坦な土地が少ないのである。
だからこそヒラタイというとき開くとタイ(平)が一体化しているのである。
そこに先人の苦労が言葉に残されているのだ

だから高平とは高いということがまずある,どうしてそこが高いのだろうか。
そこは低い場所としてしか見えないのに高いのだろうか?

高平という地名はまず傾斜地があり斜めに平な所があり開く,開墾する,開拓する,そういうことで名付けられた,順序として金沢の方の高台がありそこから斜めに平らな所を開いて人の住む場所が広がった,何故なら低い場所は日本ではほとんど湿地帯になっていたからである。川の側も氾濫するから住むに適していないのである。
だから新田川付近は住むに適していない,ただ桜井古墳のあるところは一段と高くなった場所だった,古墳があるところは鹿島でも寺内と小池であり高い場所である。
横手の古墳は低い場所にあるがそれは時代的には寺内小池の古墳より新しいのである。

ともかくここで引用した学者でもヒラをアイヌ語のピラ(崖)から解釈するのは危険である。縄文人とアイヌが同一民族だというということは証明されていないからだ
あくまでも推測だからである。


●貝餅地名の謎

「度重なる飢饉や旱(ひでり)の連続で人びとはみな飢え、路傍で餓死するものが続出した。食うものもなく、やせ衰えたわが子のためかい餅三個と先祖伝来の美田一枚を交換した故事を地名とした」(『医王山物語』)。

私が育った越中散居村ではボタモチを「かいもち」と言ってました

高平地区に貝餅とあるのは何なのか?
これも不可解である。貝と餅でありこれは単なる当て字ではない
ここの伝説では貝餅とは単なる餅のことであるという,餅ならわかりやすい
貝餅坂というのはこの伝説から生まれた
ただ貝というときカイがカウ(買う)からきているかもしれない,餅を買うとなればわかりやすいからだ,ここの伝説では餅三個と美田一枚を好感した,買ったということで買った餅が貝餅と当て字になったともなる
なぜここに貝がでてくるかわからないからだ
貝とつく地名は貝戸とかあり場所的にはいい場所ではない,ここで貝餅とあっても貝は関係ないかもしれない

気になるのは

私が育った越中散居村ではボタモチを「かいもち」と言ってました

相馬藩内には三分の一が越中などからの移民で構成されている
天明の飢饉のときに相馬藩に移民として入ってきた人達なのだ
するとボタモチとこの辺では言っていたが越中の移民は貝餅といいそれが地名化したのだろうか?
そこには越中などの移民が住んでいたのかともなる
餅は持ち運びやすいから貨幣の役割もしたかもしれない,交換するものとして持ち運びできるからである。
でも越中の移民が来てそこが地名化したということはほとんど聞かない
ただ言葉は入ってきた,ノバというとき裸という意味であり子供の時使っていた
だから言葉は人とともに移動するのである。
西殿をニシドンというときもその基は京都とかにありやがて九州にも伝播して関東にも伝播する,それで蘇我殿というときソガドンになったとかなる
千葉県は相馬氏の発祥の地だからその一族が西殿に住んだからニシドンという言葉も移動したとなる

原町区の地名については解説した人がまだいないみたいだ,相馬市にはいた
地名は誤解が多いかあてつけが多いから問題がある
人によっていろいろと勝手に解釈しやすいから学問になりにくいのである。
ただ地名はいつも使っているから最も親しみやすいものなのである。
だから当然興味をもっても不思議ではない
自分は全国を旅行して最初鉄道だから駅名に関心をもった
地名から歴史とか郷土史に興味をもったとなり遂に
陸奥の真野の草原(かやはら)の歌の草原(かやはら)は地名だと考察したのである。
それはずっと地名に関心があったからである。

●曲田地名

曲田とあるのは田の形が曲がっているから名付けられた,扇田とか丸田とか三角田とか細田とか田に関する地名が多いのは当然である。
まず正方形と長方形にするのが文明のはじまりである。
でも田でも正方形と長方形に作ることはできない,どうしても曲がる田になってしまう
日本には無数の田がある,その田も小さいのである。わずかの土地を開き(ヒラ)きヒラタイものにして田畑を作ってきた

それで例の家が壊された広い土地をもつ人の話を聞いたらあそこがまっすぐな道路になっているがあれはまっすぐでなかったという,まずまっすぐな道路は日本では作りにくいのだ,いろいろな障害があって作りにくいのである。
それには相当な技術が必要なのである。
だから日本では曲がった道が多いのである。

ともかく最近この辺を見ると金沢へ行く坂もソーラパネルになった,あそこも小さい田が多かったのである。
今やそうした小さい田を維持できない,するとそんな土地をもっていても役に立たない,金にならないからソーラパネルにする,他でもそういう土地が多い
荒地になっている,するとそこはソーラパネルになりやすいのである。
でもそうなると景観が壊されるのである。
家の前が田んぼだったがソーラパネルになっている所をみかける
あれは夏にるなと光りの照り返しがあり暑くなる
環境破壊でもあるのだ,でも何にもならない土地をもっていても無駄だからしかたがないとなる
田畑をやめた人がかなりいるからだ,田畑を維持すること自体後継者もいないとか原発事故前からなっていたからそうした半端な田畑はみんなやめたとなる
ただ菊畑であったところもソーラパネルになったし何かそこで月が出ていい感じだったがソーラパネルになるとそんな風流もなくなったのである。

ともかく自分は相当に地名には興味をもちつづけていた,それは旅行したときから始まっていたのである。
人間は何か興味をもつ,ただそれをもちつづけないと成果がでない
雑学でもだからそれを成果に結びつけるには日頃からずっと継続して勉強していないと成果は出ないのである。
つまり能力がない天才でなくてもそうして継続していると何かしら専門家として通るようになる
「継続は力なのである」だから雑学でも学問であり馬鹿にできない
人間は雑学すらものにしていないからだ,それは継続しないからなのだ

タグ:高平 曲田 貝餅
posted by 老鶯 at 18:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年06月10日

和歌山ドンファン事件(2) (家政婦は家族の一員となり犯罪にもからむ)


和歌山ドンファン事件(2)

(家政婦は家族の一員となり犯罪にもからむ)

推理ドラマでは常に家政婦が疑われるし犯罪でもからむ,それはなぜなのか?
その家のことを家族のように知るからである。
家族の一員のようにさえなる,実際にそうなって人もいる
有名な俳優の家で家政婦になった若い女性はその家の家族の一員のようになっていた
愛されていたのである。ところが夫婦に子供できたら愛されなくなったと子供を殺した事件があった
この事件がまさに家政婦がどういうものになるか象徴しているのである。

家政婦とかはその家の事情に深くからむことになる特殊な仕事だと思う
コンビニとか会社につとめればただ時給いくらだとか払って終わりでありこうしたことは起きない
家政婦はその家と深い関係になり家族のようにもなる
するとどうなるのか?犯罪があれば犯罪に必ずからむものとなるしそう見られるのである

だから和歌山ドンファン事件でも家政婦が一番しゃしゃりでていのことでもわかる
家政婦と妻がいて同格にすらなっているのだ
妻が月に小遣い百万もらっていたというときそれが不満で一万五千円にしてくれと頼んだというときもそうである。家族のようになっているときその差があまりにも大きいからである。金を貸してくれとかくれとかも平気で家政婦が言うこともあるし経験している
そして親戚がきて金をやったときそれを見ているから不満になるのだ
それは家政婦はまるで家族の一員のような立場になるからだ
まして二十年間もつきあいがある家政婦となっていたら余計にそうなのである。
だから妻が百万で自分は一万なのかという不満が大きかったことはわかる
そんなことは会社ではありえないが家に入る家政婦には起きてくる

実際だから家政婦雇うほどやっかいなことはないから普通の人は雇うべきではない
ヨーロッパの貴族とかなるとそういう社会であり伝統があるから執事とかは地位があり社会にも認められているのである。
チップとかが生まれたのもおそらくそうした貴族に雇われる家政婦とか使用人がいてそうなった,それは家族のようにもなるからそうなったのである。
日本でも武家では使用人を雇うがそれも時代劇では家族のようになることがある
そういう身分制社会があって成り立っていたのである。

日本でも家事が電化製品がないとき大きな労働となっていた
中産階級ですら二人の女中を雇っていたというからそれだけ家事が手間だったのである。選択から食事の用意するのが手間だったのである。
ゴシゴシ洗濯板で洗っていたり竈で薪をくべてご飯を炊いたりしているたらそれだけで時間がかかる、だから女中という仕事が普通にあった
自分の母親も東京で女中していたのである。
こういうときは家に普通に入ってくるから危険だとなるがやはりヨーロッパのようにそういう社会だからこそ成り立っていたのである。

現代となると家事は本当に楽になった,一人暮らしでもあらゆるものが備わっているので困らないのである。自分のようなルーズな人間でもできる
問題はどういうものが売っていて買うかである
それが意外とわからないのである。品物の数も多いからわからないのである。
今でもわからない,冷凍食品が腐らないからいいと今になって利用している
他にも何を買うかが問題なのである。
外食もすれば食事でも困らない,都会だったら外食をうまく利用すればさらに楽である。
今でも家政婦を雇う人はいるがそれは特殊であり大金持ちの家になるだろう
そういう家でないと今は家政婦は雇いないと思う
家政婦を雇うのはそれだけ贅沢なものになったのである。
例えば本当の大金持ちは介護でも専用の看護師を雇っているという
それだけの贅沢できるのはもう日本ではわずかの大金持ちしかないだろう

だから普通の人はもう家に入ってくる家政婦などでもどう扱っていいかもわからない
戦前のように女中として雇うことが普通の時代だったらいいのである。
今はこうして家政婦というのはなじみがないのだ
みんな電化製品で家事をしているからだ
このように常に社会は変わる,だから対応がむずかしいのである。

それは家政婦になる人の心構えでもそうである。戦前のように社会に女中が普通にあるときは雇う方も雇われる方も心得ているし中産階級でも二人も雇うということは別に大金持ちだから雇っていたのではないからだ
そうしないと成り立たない社会だったからそうなっていたのである。
犯罪があったとしても少なかったことは確かである。
それだけの人が女中となっていた時代だから犯罪が多くてもいいはずであるからだ

いづれにしろ家政婦はその家のカルマにもかかわる,どこの家でも癖があるというときカルマをもっているからである。
和歌山ドンファン事件でもカルマが如実にあった,するとそのカルマの故に犯罪が起きて回りに及んでくる,最も愛していた犬が死んだのも毒殺だとか言う時そうである。
その家の主のカルマによって犬が苦しみ死んだとなる
犬にはなんの咎(とが)がなくてもその主人のカルマによってそうした無惨な死に方になった,だからカルマというのは恐ろしいのである。
主人も自分が罪深いから業が深いから愛犬まで苦しめて死にいたらせたと反省すべきだったのである。その前に自分も死んだとなる

ともかくカルマはその回りの人に及んでくるから怖いのである。
何の罪もない動物でも人でも苦しむ,それは戦争で馬が戦場を狂気のように走っている
『戦火の馬』という映画でもそうだった,人間の身勝手な戦争で馬も苦しんだのである。原発事故でも飯館村などは原発から四十キロとか離れているから関係ないと思っていたのである。でも被害が一番大きかった
飯館村はまでいなせいかつとか素朴な村として森につつまれてある村だった
それが一番被害が大きかったのである。
つまり人間のカルマにより業により罪により何の罪もないものが自然でも動物でも苦しめられるのだ,そこに人間の業の怖さがある
夫婦でも無邪気な子供がいても争いになり離婚だとか家族のもめごとで苦しむのである。
家政婦はよほど信頼がないと家には受け入れられないだろう
和歌山ドンファン事件の家政婦は二十年来の付き合いだというときまた違っていたのか?
ただ金銭的に不満があったように何か積年の恨みとなっていたのか?
それはわからないにしても家政婦が一番しゃしゃりでていることでもいかに家政婦が家とかかわるかを示している
その家のカルマも受けるし一体化するのである。
いい方に向かえば家族の一員となるのだから愛されるのだからいいとなる

反面家族の一員となるとなぜ妻が百万で自分は一万円なのかという不満が出て当然なのである。そこに配慮するものがないと危険になる
盗むことも簡単にできる,事情を知っているからできるのだ
そういうことを自分も経験している,その家と深くかかわる仕事なのである。
そういう仕事は何か人間的であり今の社会では会社勤めとかでは経験できないものである自分も経験しているし家政婦ではないがそういう人が一時間であれ皿二三枚洗うにしろきているとなるとそうである。
ただその女性は家政婦とは言えない,三日に一回くらいきてそれが仕事なのかとなるからだ,でも現実に家族のようになり家族のように要求しているのである。


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天皇陛下,美智子妃殿下鹿島のローソン前通る (南相馬市の植樹祭で来る)


天皇陛下,美智子妃殿下鹿島のローソン前通る

(南相馬市の植樹祭で来る)

来たのは四時だった

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鹿島ローン前
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並ぶ所が決まっていた,そこは混んでいるのではずれたところ離れた所にいて写真をとった
並んだ所で手をふっていたと思ったがはずれても手をあげていたのである。
そこには人は並んでいなかったのである。
ただ三倍のデジカメだかぼやけていた,それが失敗であった

この写真は貴重かもしれない,なぜなら平成天皇は今年で終わりだし美智子妃も見られないからである。
平成が終わるからである。
ただ平成というとき何か特徴がなかったように思う
昭和と比べるとそうなる

天皇陛下が来るとなると一番張り切っているのは警察である。
警察の紋が菊の紋のだから天皇を護衛するためにあるともなる
私服の警官が来て回っていた,相当な警戒であった

何か狭い地域でも写真をとることがある,だから常時携帯する必要がある
今回の写真はみんなとっているから見られるだろう
ただ自分が平成の記念として撮ったことに意義があった


両陛下、福島県入り=最後の植樹祭出席

posted by 老鶯 at 16:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年06月11日

平成も終わる時に天皇を見送る (戦後からの時代をふりかえる)


平成も終わる時に天皇を見送る

(戦後からの時代をふりかえる)

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昭和時代(戦後) - [1952年 〜 1989年]

高度成長時代(団塊の世代)

平成時代 - [1989年 〜2018 ]

1991年、総量規制や消費税などでバブルが崩壊して失われた10年(失われた20年)となる。

阪神・淡路大震災、東日本大震災(福島第一原子力発電所事故)などが発生する。


時代をどうみるか?昭和の前半は戦争の時代とみる,団塊の世代でも特徴づけられるのは戦後の焼け野原から引揚者などが帰ってきてその時ベビーブームになったからである。
だから今は少子高齢化だけどなぜ日本が焼け野原になったときベビーブームになったか不思議である。
その時と比べると今はいくら高度成長が終わっても電気もないとか毎日食べるのが精一杯とかの時代ではない,燃料は炭だったし水道もなかった
水道ができたのは戦後十年くらいだろう,何か子供時代は原始的な時代にも今になると思えてくる,父親が鰻をとったり鮎をとったりしてそれがいいオカズになっていた時代だし竈(かまど)でご飯を炊いていた時代でもあった
囲炉裏が街に住んでいてもあった,そんな時代から団塊の世代は出発したのである。

あとはオリンピックは高校のときだったけど相当に活気あるものだった,あの頃日本人が一番高揚していたのかもしれない,大学を卒業するときは万博がありあれにも人が集まった,つまりその頃高度成長時代の真っ最中だったとなる
その頃まだ車がそれほど普及していない,道路もインフラも整備されていないが急速に整備されてきた,その時ブルドザーのような田中首相の時代だったのである。
1972年(昭和47年)首相になり日本列島改造論を書いた時だった
それは自分が大学を卒業してまもなくだった、ロッキード事件はその頃に起きた

昭和39年(1964)

(10月1日)東海道新幹線開業
(10月10日)東京オリンピック開催

昭和51年・(2月)ロッキード事件(田中首相の時代)

1989年〈昭和64年〉昭和天皇崩御

昭和天皇が死んでからすでに30年とかなるのか?平成は30年だからそうなる

平成になるとバブルの崩壊とか日本経済は停滞してリストラが社会問題になったりと経済的には暗い時代になった,それが今も継続しているのである。

平成は年号の漢字とは裏腹に災害の時代だった,阪神淡路の震災で5000人死んだとか東日本大震災で二万人近く死んだとか大災害の時代だったのである。
その平成も今年で終わりになろうとしている
自分は団塊の世代は昭和と平成を生きた,戦前生まれの人は戦前の昭和と戦後の昭和を生きて平成も生きたとなる
100歳まで生きている人は大正生まれである。
自分の母親は大正生まれあり父親は明治生まれだった
大正は短かったがそれなりに特徴ある時代だった,その時この辺では原町の無線塔が作られて関東大地震をアメリカに伝えたことで有名である。

年号で不思議なのは江戸時代になるとその時代が年号では良くわからないのだ
元禄とかはわかりやすい,これは今の高度成長時代とにている,新田が全国で開拓されて繁栄した時代である。それは地方にも波及していたのだ
なぜなら葛尾村にも元禄の碑があったし相馬市の新田村にも元禄の碑があった
この辺では元禄の碑はまれである、幕末の碑が多い,墓でもそうである。
元禄時代というと俳句では芭蕉の時代だった、俳句が興隆した時代だとなる
各地で新田が開墾されて開拓されて人口も増えたり高度成長時代とにている
あとは江戸時代では文明が飢饉の時代として記録される
相馬藩では飢饉で人口が流出して三分の一に減ったからだ
そこで越中などの移民が入り立ち直った歴史がある

年号で時代を現すとき江戸時代だと順序が逆になったりする,年号が安政とか安永とかいろいろあっても時代の順序を間違えるのである。古いのか新しいのかわからなくなる
その時代がどういう時代だったかイメージできないのである。
それは江戸時代はあまり変わりないからそうなったのかもしれない。
ただ元禄と文明は一つの区切りのようになった時代である。
まず明治以降は明治という時代があり大正という時代があり大正が先になったり明治が後になることはありえないのだ,江戸時代だとそういうことが普通に起こるのである。

ただ戦後の昭和から平成に変わるがこの変化はどうなのか?
確かに高度成長時代から変わったとしてもそんなに生活自体に変化はなかった
それなりに豊かな時代を過ごしているのである。バブルもあった
低成長時代になっても豊かであり暮らしが貧しくなったとは言えないからである
格差社会となっているのは確かだがそれほどの変化がないとも見ている
文明のように飢饉とかなれば大きな変化だから記録される
平成はやはり阪神淡路大震災や東日本大震災が時代として記録される
そして原発事故だった
そのために今回平成の終わりに天皇と美智子妃が相馬地方を訪れたのである。
それが何か時代の区切りだったのである。
ただ原発事故は終息していない,廃炉に30年かかるとかまだまだなのである。
だから津浪や原発事故の後遺症は十年とかつづきそれ以上つづくのである。

平成天皇というと美智子妃の方が注目されていた,結婚式のときは盛り上がった,それはまだ高度成長の時代の時だったのである。
ただ時代というのは個々人でもどう生きたかで違ったものになる
会社で高度成長時代を生きた人はいい時代を生きたとなる
今は銀行が窮地に追い込まれるとか経済的には後退している時代だからである。

でも自分のように会社勤めもしないで旅ばかりしていた者にとっては会社のこは関係なかった,でも自分はそうして30年間とか旅できたことは今になるとあまりにも恵まれていたとなる
それがわかったのは介護になって十年間苦しんだ,旅もしていない,それで家族もみんな死んだが旅に出る気力もなくなったことでわかった
自分が旅できたのは経済的にもそうだが精神的にも帰る家があり留守してくれる家があったからだと思った
何か家があると旅に出にくい,留守する人もいないから家族が死んで自由になってもしにくいのである。そして何か気力がなくなったのである。

ともかく今回天皇陛下と美智子妃が相馬地方に来たことはそして写真を自らとったことは時代の区切りを自分でも感じた,平成も終わったのか次はどうなるのだろうと思う
平成の終わりを天皇陛下を見送ることで感じたのである。

梅雨入りや天皇去りて燕飛ぶ

雨しとと平成終わるや美智子妃を我が見送りぬ梅雨に入るかな

何か平成は梅雨のような時代だったかもしれない,ぱっとしない時代である。
時々晴れ間があってもぱっと快晴にはならない時代だったような気がする

posted by 老鶯 at 01:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

和歌山の野崎氏は鉄くずを売ってもうけた同世代 (朝鮮特需があり復興した日本-そして米朝会談戦後の区切りになるのか?)


和歌山の野崎氏は鉄くずを売ってもうけた同世代

(朝鮮特需があり復興した日本-そして米朝会談戦後の区切りになるのか?)

太平洋戦争時でアメリカのB−29爆撃機から投下された爆弾の破片を回収したり、工場から出る鉄屑を整理したりして、それを鉄屑屋に売却するという仕事です>

 当時、銅線や鉄屑は高く売れ、流行のビジネスだったそう。会社の上司に命令されるのではなく、自分で考えて動き、サボれば収入がなくなるスタイルが野崎氏にハマった。朝から晩まで休むことなく鉄屑を探しまわり、以前よりは高収入に。

鉄屑拾いというのは子供のときしていた,鉄くずを拾って買う所があった
金になっていたのである。鉄くずがその時貴重だったのである。
何か真鍮(しんちゅう)とかあると貴重だと喜んでいたのである。
このことは子供もしていたが大人もしていたのである。

でも年齢的には和歌山ドンファンとは差がないから子供時代からその後もつづいていたのである。
日本は戦争で焼け野原になり疲弊した,物もほとんどなくなっていたのだ
だから鉄は貴重なものとなっていた,鉄くずでも貴重であり金になっていたのだ
これも思い出すと不思議である。

日本が戦争に負けて復興できたのは朝鮮戦争の特需があったからである。
その時物資を日本に頼ったからである。
アメリカに売るものがありそれで鉄くずでも貴重であり集めて何かを作ったとなる
武器でも作ったのかとなる

B−29爆撃機から投下された爆弾の破片を回収したり、

これも生々しい話である。B-29で日本は絨毯爆撃されたからである。防空壕に逃げた原町に住んでいた母の話も聞いている
相馬農業高校の近くでありそれで低空飛行して防空壕の蓋が飛ばされたとか話していたからである。

小学校では脱脂粉乳のミルクを飲まされていた,食料かなくアメリカに援助されていたのである。それは相当にまずいものだったのである。
そんな中で団塊の世代は育った

朝鮮戦争がまだ解決していないというとき米朝会談がシンガポールで行われるのもそうである
シンガポールというときそこは昭南島と言われてイギリスの島だったが日本によって支配された,その時自分の姉は従軍看護婦としてその対岸のジョホールバルの赤十字病院で働いていた
四年間働いていて最後に日本が負けたときジャングル逃げた時が一番苦しかった
食べ物がなかったからである。
自分の姉は死ぬまで戦争のことを語り死んだ,認知症になってから千回も同じことを延々としゃべり遂に死ぬまで直前まで語って死んだ
それが人生で一番印象に残ることだったからそうなったのである。

日本は最初東南アジアで戦争に勝利してイギリス軍を捕虜にしたりした,インパール作戦でもインド軍も一緒に戦っていたことを教えられた
インド軍とは共同で戦っていたのである。
ネパールもビルマもイギリス領になっていた,そこでイギリスと最初日本軍は戦ったのである。その後にアメリカが参戦して戦争に負けたのである。
ネパールで登山の案内したネパール人は英語をしゃべるからガイドとして一緒に行動したネバールでも英語なのかと意外に思う,英語をしゃべる国はイギリスと関係しているし支配された国植民地にされた国なのである。

シンガポールで米朝会談が開かれるというときそこは日本でも戦争と深く関係した場所なのである。
米朝会談でも日本が戦争に負けて朝鮮戦争になりソビエト連邦との冷戦になった
そしてソビエト連邦は崩壊した,そのソビエト連邦時代の時裁縫会社の人がカザフスタンとかに機械を売るために行っていたということを駅で聞いた
その人は日本でも機械を売るために回って歩いていた
これもまた時代を生きた証人だったとなる
ソビエト連邦というのも過去のものになったからだ

何か歴史というとき身近なものから大きな歴史をイメージすることができる
それもやはり経験しているから身近になる
子供の時の遊びが実は朝鮮戦争と結びついていたのである。
和歌山ドンファンの一生もまた戦後の歴史だったことをこれでもわかる
その人が酒屋で働いていたというのも酒屋が働き口になっていた
戦前でも江戸時代でも酒屋が主な職業となっていた
それも時代である。明治生まれの父親は酒屋で丁稚していたのである。

この人はともかく底辺から成り上がった人である。そういう人は同世代にも多いだろう
何もない焼け野原は出発点だったからそうなる
ただ団塊の世代は焼け野原から小学校を卒業する頃テレビがすでに売られていた
自分の家では一番先にテレビを買った,父親が病気になりなぐさめるために買った
テレビはその頃みんな買っていない,裕福になった人が買ったのである。
それでテレビある理髪店とかに子供が集まって見ていたのである。
バナナも高価であり売っていないので仙台まで買いに行って食べさせた
こういう時代があったというのもずいぶん昔になったなと思う

両親から祖父母までは直接話を聞くから歴史でも身近である。
でも次の世代はもう直接戦争を経験した人からの話を聞けないのである。
するとただ映像とか資料とか何か直接語ることで聞けないからそこに歴史が身近にならず誤解することが生まれてくる,江戸時代でもその時代を生きている人がまるで外国に生きていたように不可解にもなるからだ

米朝会談があるけどそれは朝鮮戦争がまだ終わっていないということでもある
朝鮮が二つに分断されているということで終わっていないのである。
でも朝鮮戦争からでも70年とかすぎているのだ,だからそれも長かった
それで米朝会談が朝鮮戦争を終わらせる区切りとなるのか?
そして会談が成功すれば米軍が韓国から撤退するといわれる
その時日本はどうなるのか,韓国中国は共同して日本を攻める,常に反日であるとういときそういう危機が日本に迫る

インターネットではいろいろな情報が出る,もう新聞社とかテレビとかマスコミだけではない,個々の情報が膨大に出る,でもそれを読む解くことがむずかしい
つまりインターネットでは情報を結び関連づけることが大事になる
偶然にこのサイトを発見したので引用した
ともかく野崎氏の一生もまた戦後を象徴していたのである。

posted by 老鶯 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2018年06月12日

金閣寺の俳句(2)(千年の都の美)


金閣寺の俳句(2)(千年の都の美)

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金の美の極めてここに花の散る

金閣や都に乱も花の宴

金閣寺朝日に輝き散る椿

苔に散る椿の赤し金閣寺

三層に日本の歴史春の京

王眠る金に魅せられる京の春

常盤木の松に金閣夏日映ゆ

移る季(とき)池に金閣松と岩

(銀閣)

月光や砂に銀閣松の影

銀閣に秋の日さして松古りぬ


金閣のまばゆさや
銀閣のしぶさや
対なして千年の都の京都
築地塀古りて
その角をまがりて消えぬ
後ろ姿のその女誰や
優艷に枝垂桜の影
その塀に写りて暮れぬ
街中を流るる水の音
祇園の舞子の下駄の音かな
しずしずと歩みて去りぬ


金閣の美はやはり自然の中に映える美である。室内ではない,金色が自然に映える,それが魅力である。京都は京都が千年の都としてあったことである。
そこが他の都市とは違う,戦乱があったのも京都である。
だから金閣寺でも実際は炎につつまれている感覚になる
動乱の中に金閣が映えている,京都は文化が栄えてもそこは天皇がいて常に政治の場所だったからである。
寺に応仁の乱の争いの傷跡が柱に残っているというのも京都である。
それだけ古いということである。

京都と奈良とではずいぶん違う感覚になる,奈良だともの寂びた古代の感覚である。
それが奈良の大仏に象徴される,平城宮といってもそこは枯野であり何も残っていなかったのである。
京都はずんと千年の都として維持されてきたのである。
だから日本人の美意識は京都と磨かれたとなる
その象徴が金閣なのである。



タグ:金閣寺俳句

団塊の世代の少年青年時代の変化をたどる (戦中派とは違う団塊の世代)


団塊の世代の少年青年時代の変化をたどる

(戦中派とは違う団塊の世代)

90歳くらいの人はまだ戦争を経験していることがある。
18歳だと志願兵になった人がいたからである
それから小学生10歳くらいまでは戦中派である
子供心にも戦争を経験して空襲にあったり疎開したり苦労している
戦中派はギブミーチョコレートの時代でもあった
それは戦後5年くらいが進駐軍がきてそうなっていたが
誤解しやすいのは団塊の世代がそういう時代を生きたと思っていることである。

ギブミーチョコレートの時代は団塊の世代ではないしそういう経験をしていないのであるただ小学校で脱脂粉乳のミルクなどを飲まされた時代である。
何もないときに育ったのである。
家には飯台一つであり裸電球があるだけだった
それはみんな同じでありそこでまず物がそもそもないのだから贅沢しようがないのである買うにもバナナは売っていない,バナナのたたき売りとかあっても秋市とか特別な日にしかないのである。バナナそのものがないのである。

ただ人間は5年違っても生きた時代が違っているのだ
ギブミーチョコレートを言って人が5年違いでも団塊の世代とは違っていたなと思う
だから人間は本当に十年違うとかなると違ったものとして時代を生きている
5年違っても時代感覚が違ってしまうのである。
戦中派は戦争を子供のとき実際に戦場に行かなくても体験している
当時の時代の雰囲気を肌で知っているのである。
団塊の世代は戦争が終わって生まれたから戦争のことを肌で知らない
ただ親が戦争に行ったり経験しているから身近ではある
戦中派には貧乏がしみついている時代である。
飢えていたという時代でもはある

戦争が終わって生まれた団塊の世代は戦争のことを聞いても実際には体験していないのである
ただ中学生になる頃にテレビが入っていきて熱中したのである。
その頃からテレビ時代がとじまったのである。
だからそのときテレビを食い入るようにみんな見ていたのである。
野球も見たし相撲も最盛期であり国民で長嶋だ王だ若乃花だ栃錦だとかのことを知らない人はいなかった、子供では誰を応援するかで喧嘩になっていたのである。
テレビの影響はそれだけ大きかったのである。
その延長として東京リンピックがあった
テレビの前は小学校の時はラジオだったのである
天皇の終戦の玉音放送もラジオだったのである。

中学になると高校にも入れないと大騒ぎだった,そのとき受験戦争になったのは田舎でも中学生だと8クラスもあった、今は30人規模で3クラスとからしい
一クラス50人規模で一クラスだったから数が多かったのである。
自分はそのとき勉強を強いられたからそこでエネルギーを費やして失敗だった
受験戦争は本来の勉強ではなかったからだ、それから学校不適応症になった
自分はそもそも学校にあわなかった、団体生活にあわなかった
椅子にじっと座っていることが苦痛だったし体もそうだった
だから学校にいい思い出はないのである。
勉強そのものに興味をもったこともなかったからである。

中学校を卒業するときクラスの三分の一は集団就職だったのである。
中卒が当たり前だったのである。
大学に行けたのは四五人だったのである。自分は優秀でないし勉強嫌いになっていたから本当は大学に行けるような者ではなかった
わがままでもあり学校になじめなかった
ただそのとき自分は親から離れたいとか東京に行きたいという願望が強いから東京の大学に行くとなっただけである。
それは正解だった、やはり人間は親元から離れることは必要なのである。親から経済的ににだけでなく精神的に必要なのである。
それは集団就職した人たちよりずっと楽だったのである。

自分はでも結構楽でいないものを感じていた
大学は遊びだったけど一年くらい武道部に入って鍛えられたのが良かった
それまでは自分はあまりにも軟弱であり気弱すぎたのである。
もともと体力がないのだがふりかえるとそこで良く耐えたなと思う
一年でもそこで自分は変質したのである。
だから人間は教育でもその性格でも変えられる、弱気な体質でもは性格でも強気の性格に変えられるのである。

そのとき学生運動がはじまっていた、盛りにもなっていた
その一つの原因が大学を変えようと始まった
マンモス大学となり3000人に講堂で講義しているとき勉強に興味を失うということは自然なことである。勉強に熱が入らなくなって学生運動になったという背景もあったのである。そのとき高度成長の時代でありみんな就職できた時代でありそんな時代の不満はない、だからこそあっさりと就職すると企業戦士になったのである。

ただ人間は30までその基礎がつくられる、信仰の求道でも30超えたらできない
30で人間の骨格は決まり変えられなくなる
人生百年だとしてもそれだけ少年青年時代が人間を作る
それをもっと意識させるべきだと思う
いづれにしろ日本はそのとき上り調子だった、ただまだ車に乗っている人は少なかった
これも急速に普及したのかもしれない,まだインフラとして道路が整備されなかったからであるである、もちろん高速道路などもなかったからである。

国鉄が民営化するとき車時代になっていたのである。
国鉄一家とかが存在したし国鉄が社会党を支えていたのである。
その鉄道の国鉄時代も終わりモータリゼーションの波が全国に波及したのである。
そのときトヨタが日本の代表的メーカーとなったのである
時代の変化というとき明治以降は便利な道具が情報でもテレビのように視覚化される時代になった,ラジオで音で聴いているのと新聞で活字で読んでいるのでは相当に違うからである。テレビで視覚化されることの影響が大きかったのである。
それでラジオの時放送していたアナウンサーの出番がなくなったのである。
ラジオでは人気だったがテレビだと人気がなくなったのはメデアか変わるとそさに対応した人が人気になる、女性だったら美人でないと映えない

ラジオだったら声だけだから容姿は男女で関係ない、それより声がいいと人気になる
声優のようなのがいいとなる、容姿は関係ないからである。
そういう時代の変化に対応できないと時代に適応できないと価値もなくなる
つまり時代の変化によって価値観が変わるからである。
映像の時代になるとやはり見栄えがいいものが受けるからである。
映像の時代になるとデジカメで拍車がかかりスマホでもさらに写真投稿が活発になった
テレビの時代から継続して映像の時代は進行したのである。
テレビは放送局でしか放送できないが今度はインターネットでいくらでも放送できる時代になったからである。
もう情報はマスコミの独占ではなくなったのである
これも時代の大きな変化だったのである。









タグ:団塊の世代
posted by 老鶯 at 20:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2018年06月13日

楽で終わらない人生 (苦は楽の元)


楽で終わらない人生

(苦は楽の元)

その女性は5歳まで娘と一緒に生活していた
でもその家に厳しい姑がいて家を出たのである
その事情はわかる、その姑は普通の人ではなかったからである。
それで自分の母親が継母になったからひどいめにあった
ただそれなりに気丈夫で家を支えたということはあった

それで家を出たというのも理解できる、でも家を出て苦労したかというとしていない
金持ちの家の後妻に入ったのでずっと楽していたのである。
そして認知症になったとき頼るものがなくその5歳の時別れた娘に頼ってきたのである。認知症なる前に頼ってきてその後に認知症になった
施設に入れたのは金があったからである。
地位ある人の後妻になったからである

でも長い間5歳の時別れた娘とは会ってもいなかったのである
その後娘は新しく嫁に来た女性に育てられた、その女性はずっと母親になっていたのである。でも何か理由がわからないが反発してその母親にもひどいことをした
病気になったとき放置したのである
ただその病気になってすぐ死んだから良かったのである。
介護などとてもできる女性ではないからだ
その育てた母親は「ひどい娘だわと最後に自分に言って死んだのである。
自分の家でもその娘の母親とは家とはうまくいっていないからそうなっていたことに意外だったのである

それが自分の母親が病気になったとき
「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらへ」
と血相変えて去って行った
それでその女性の異常性に気づいたのである。
自分の家の場合はいい関係でないからしかたがない面があった
でもなぜ一番長く母親としてあった育ての親にそこまでするのか?
別に愛情がないのでもない,ただかわいがりすぎて母親の意のままにしたということで反発したとかはあった
でもあまりにもひどすぎたのである。
何か異常化した人間の心まで失った人に見えたのである。

こうして実の母親は娘に頼ったが後妻に入った家の子供と財産争いになっている
後妻の家でも子供は金にしか関心がないからだ
そういう状態でもう誰も金しか関心がない,それで認知症になっているからしょっちゅう電話来るとこぼしていた、自分は何も介護などしないがそこで苦しんでいる
なら自分は何もしないで施設にあずけて金さえもらえればいいと思っているからだ
実の母親でも全く愛情がないからである。

結局このように人生の最後にその人のカルマ(行為)の総決算を強いられる
それは自分でも書いてきたがそうだった、青年時代は20代は苦しんでいた
それも強いられたのではなく自ら苦しみを求めたともいえる
若いうちは望んでも苦労しろとかかわいい子には旅させろとういのは今もそうである
若いとき楽して高い地位についたりしたら傲慢になってしまう
なんらか傲慢さを打ち砕かれないと人格形成はできないのである。

ただ30以後は旅ばかりしていて楽したのである。
楽することもカルマとなっていたのである。
金あることもないこともカルマとなる、楽することもカルマとなる
社会性の欠如もあり七転八倒したのである。
介護で自分も病気になり誰も助けてくれないという苦境にあった
そういう時来たのは犯罪者とか借金に苦しむ人とかこの女性のような異常な人だったのである。それもつくづく自分のカルマだったのである。
だから自分はそのことについてひどいめにあったが恨んだりしない
人間はなんらかで苦しむのもカルマなのだ、それはもう逃れられないのである。
生きている限りカルマがある、そのカルマの故に苦しむのである。

ともかく人間は楽では終わらない、どんな金持ちでも恵まれていてもその恵まれたことで後で苦しむことになる,金持ちの娘が社会性がないとかで財産をとられたとかあった
それも社会性がない社会でもまれていないからそうなったのである。
自分も社会性が欠如しているから苦しんだのである。
旅ばかりしていては社会性は身につかないからである。

若いときは苦しむのはいい、また肉体的にもきついことは若いときしないとできなくなる登山などは特にそうである。海外旅行だって自分は50歳ではじめたから苦しんだのである。
大学で武道部に入って苦しんだのも良かった、体力がないのに良くやれたなとふりかえるそれは体力なくても若いということでできたのである。
若さはそれだけのことを成すということである。

ともかく苦は楽の元なのだ、苦しまないものは後で必ず苦しむ、それは人生の公式のようなものである。自分の母親は大正生まれで苦労の連続だったけど最後は百歳まで生きて楽に死んだ、眠るように死にたいと口癖のように言っていたが実際にそうして死ぬことができたのである、最後だけは願いがかなったとなる
それは苦労した結果として最後に神様が楽させてくれたともなるのだ

人間はだから楽ばかり求めるのも問題なのである。
原発避難区域とかで復興できないのはもう楽しか求めないからである
それは時代であるがそのために復興などできないのである。
一方であまりに苦労ばかりていると自分の母親のように庭はいらていと何にも興味もない人になってしまう、それも問題なのである。

ともかく人間には時代が変わっても変わらない教訓がある,それはことわざとしても活きつづけている

(鉄は熱い内に打て)(楽は苦の種)なのである


高齢化社会で車に乗らない人が増えている (電車とかバスの利用も必要になる)


高齢化社会で車に乗らない人が増えている

(電車とかバスの利用も必要になる)


その人とは良く駅で会う,この前は仙台の方に温泉巡りに行っていた
その人は大型トラックの運転手だったのである
東京にトラック運送していたのである
でも運転したくないと言ってやめた
そして自転車を買っていたのである

トラック運転手となるとぐったり疲れて一日働くと後二三日働くことができないとか言っていた、前にもトラック運転手にあったことがある
その人も同じようて仕事をしていた、それで水戸街道とかのかとを良く言っていた
標識のことをよく言っていた
その人も今は仕事はしていない,何か孫に金をふるときだけ喜ぶんだとかボケたようなことを言っていた

これでわかることは田舎でもトラック運転手が多い、田舎だと農業のように思うが実際は違う、農業だけで食べている人はわずかである、一割にもみたない、
つまり金にならないからだ、その人は今は温泉とか回りで金回りがいいみたいだ
もうトラック運転手で根詰めて働いたから車にも乗りたくなったとなる
それがやはり老人になると同感する

自分は遊びで旅行していただけだけど何かふりかえると旅行も乗り物は疲れるなと思った電車だって長く乗ると疲れるしバスは一番疲れる、自転車旅行はもう最高に疲れる
それ以上に疲れたのが登山だった、だから登山は早い時期にやめたのである
そして自分も今は乗り物にも乗りたくないとかなった
旅に行きたくないというのも不思議である。
それは介護十年して気力が喪失したのである

だから老人も働けというけどできない、その人は十分に働いたからである
だから老人も働けというのは酷だともなる、それはみんながそうではない、自ら遊んでいるのも良くないとス−パ−で掃除している人もいるからである
ただ事故で死んだ人もいた,やはりなれないところだとどうしても反応が鈍くなるからどうしても危険になる
なぜ原発避難区域で復興できないかというと残るのは老人だけだからである
老人はこの人のように十分働いたからである。

確かに80過ぎても90でも運転する人はいる,でもこの前も80歳の女性が危ないからと運転をやめた
その人も駅に電車を利用してきていた
つまり高齢化社会はこうした車を運転しない人が増えてくる
すると鉄道とかバスなどの交通の便が必要になる
車というのはいくら老人より若者が事故の割合が多いとしても負担になるからだ

老人向きの社会は車社会とは違ったものとなるのだ
老人に向いた社会は住みよいのは田舎であるが田舎は交通の便が悪い
そこが問題なのである。車なしだと暮らしにくいからだ
電車も利用するのだが駅からの足となるものがないことが最大の欠点なのである
ただイオンのように郊外でなく駅の回りにあると便利なのである。
そういう駅中心に老人も住める街を作った市もある
原町クラスの街ならできるが一万くらいだとできない
コンパトシティである

駅は鉄道を利用しなくてもこうして人が集まり情報を交換するのにいい
その人はスマホをもっていてドコモのがいいと言っていたので自分も聞いてみようかと思った
自分はこうしてその人が何をしたかと聞くのが楽しいのである
それが一つの郷土史にもなるからだ
前は馬車の仕事をした人にも出会った、ただなかなか気軽には話せないのである
駅のような場だと外からの人でも話せることがある、それが面白いのである。
何か老後の楽しみとはいろいろあるがこうしていろいろな人と話すことが面白いとなる
ただその人は話しやすい人だからできた、気さくな人だからできた
ともかくあの人とは駅では暇だから会うのである
何かそうして老人は暇でありそういう人が集まる場が必要になる
その一つが駅だともなる