2018年06月06日

NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感 (マスコミの報道は一方的洗脳報道)


NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感

(マスコミの報道は一方的洗脳報道)


週刊東洋経済%202018年5月26日号

武田邦彦氏の見識には敬服する,共感することも多い,
その見識はどこから来ているのか?
科学者として技術者として指導的な立場で現実に働いてきたことである。
自分などは底辺でしか働かないからそうした上層部のこと指導的立場にある人のことがわかならい,だからそうして上層部が指導的立場にある地位と権力をもつ人たちと現実に接しているから具体的でわかりやすいのである。
人間社会はまず底辺層とばかり接していてもわからない,上層部と指導的立場にある人と接すれば社会がどうなっているのかと具体的にわかるだろう

例えばマスコミというときこれも現代では大きな権力であり社会を左右するものなのである。だからこそマスコミについて批判は常にある
でも批判しようにも一般人は報道できないのだから報道する権利はマスコミにしかなかったのだから不満があっても何も言えなかったのである。
インターネットが生まれて普及するとマスコミが批判されるようになったのである。
その力は弱くてもそうなったことは民主主義を発展させるのには良かった
何か自分が公に発言するということを経験していないからである。
たいして影響力がないのにこうして発言することで主体的なものとして積極的に社会に参加するものとして自覚できるのである。

マスコミの影響がどれだけ大きいのか?
それは戦前でも新聞の影響が大きく朝日新聞が戦争をあおり推進させたということをしきりに言うとそうなのかなと思う
マスコミは左であり左系統の発言に洗脳されることが多かった
インターネットは逆に右に偏っているがそれは今まで右は発言を封じられた反動としてそうなっている
報道することはそれも何百万人とかに報道することはできることは大きな権力である。
それによって判断が決められるからである。
戦争中なら朝日新聞が戦争をあおれば国民も同調するのである。
それは今でも安倍政権を森友学園で執拗に批判しているのもそうである。
マスコミというときどの局も常に同じことを追及している
別なことを追及してもいいはずだがどこの局でも一色になるのもおかしいのである。

報道は明らかに大きな権力である。だからこそ権力をもっているからこそ利権と結びつきそれで利益を得る
原発事故を起きた時,中国に東電からマスコミの幹部が招待されているときだったのである。朝日新聞の幹部も招待されていたのである。
全部のマスコミが招待されていたのである。
「安全神話」は日本の神がかりの戦争はこうして政府とマスコミなど一体化して作られたものだったのである。
そして3百万人が死んだのである。朝日新聞は戦争に負けたら今度はそうして戦争に加担していたのに一転して批判する立場になったのである。

武田邦彦氏がNHKを批判するときNHKは公平に見えるがそこに巧妙な操作があるというのには同感である。
この辺で原発事故の避難者が大量に仮設に住んだ,その時前にも書いてきたが飯館村の人が相馬市のトマト農家に雇ってくれと言ったが断られたと放送した
その時知らない人は何なんだ,その農家は冷たいなと暗黙に批判させていたのである。
もちろん飯館村の人にも言い分はある,それは否定できないががトマト農家にも言い分があったのである。
相馬市で松川浦など津浪の被害が大きかった,相馬市では原発の補償金はもらっていないすると津浪の被害者の方が生活に困る人がいたからそうしただけなのである。
原発避難者は多額の補償金をもらっていたからである。
そうして原発避難者もかわいそうだと常に外からボランティアが来て励ましていたのである。その中には津浪被害者もいたのである。

何か人間の問題はもめごとでも双方の言い分を聞かないと本当のことはわからない
それで失敗したのが親戚の人で母と娘が争っていたとき母が悪いとばかり思っていた
そういうつきあい方を自分の家でもしていたからだ
ところが実は娘がとんでもない悪い人だったのである。
それも双方の言い分を聞かないし先入観がありそうなって誤解して判断を誤っていたのである。
だから何でも争いには双方の言い分があり裁判のように双方の主張を聞くべきなのであるところがマスコミの報道は常に一方的洗脳なのである。
そこで反論などは全く許されないのである。インターネットがでてその批判が出るようになったのはそのためである。
マスコミは自分たちの都合のいいように国民を洗脳する権力機関だったのである。

福島民報でも福島民友でも同じである。
地域の新聞だからマスコミでないと思っているがそうではない,福島県でも広いからである。そして福島民報は出資が県で半分出している
そうしたらとても原発でも反対することはできない,批判できないしほとんどその危険性も事実も報道していないのである。
プルサーマールについて危険について報道したとしても原発そのものについての危険性は報道しなかったのである。
プルサーマルについて佐藤栄佐久前知事が失脚したのもそのためだったともされる
東電については「財界福島」でも最初原発を批判していても二三回で全くやめた
それは東電から金が入ったからだとも言われる
福島県で東電を批判することはなかったのである。権力の圧力でできなかったのである。10メートル以上の津浪を来ると東電の科学者たちは想定していたのである。
その報道すらなかったとように思う
もしそのことを大々的に報道していたら津浪に警戒して今回のような大惨事にならなかったかもしれない,そしたら東電は地元に感謝されるようになっていたろう。
だから何か重大なことを知らせる役目が報道にある
でも知らされなければ知り得ようがないのだから危険も感じないとなるからだ

ともかく人間社会はなんでも権力によって利権によって利益優先でゆがめられてしまうのである。それはあらゆるところでそうなる
そもそも東電でも一時は高い場所に原発を建てたのに電源の設置などでコストがかかるとわざわさ高くしたのを削って低くしたのが最大の失敗だったからである。
それもコストのためだったのである。
安全を追及すると金がかかるためだったのである。

ともかく武田氏も指摘にするように利権と結びついてゆがめられる,NHKでも天下り先を確保するために老人の交通事故を大々的にとりあげて老人の運転を減らそうとしている
でも実際は交通事故が多いのは若者だとういうこと女性が多いということは言わない
交通事故は毎日のように起きている,免許をとりあげるなら若い人だとなる
若い人の保険金が高いというのもそうである。それだけ事故が起きる確率が高いからである。
そのことを知っていて公平に報道しない,そして老人が悪いから免許をとりあげるべきだという世論を形成させる,それはもともと老人が目障りでありそういう風潮があるからNHKでもそうしているとなる
だからフェクニュースだとしている

いづれにしろ利権と結びつくとき報道はゆがめられる,伝えるべきものも伝えられないのである。
東電から800億とかの金を報道機関に流していたらもう悪いことは報道できないのである

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週刊東洋経済%202018年5月26日号

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医療関係でも朝日新聞がかかわっていた,こうして利権と結びつき利益を得る
そこで公平な報道はできなくなる,ただ金儲けのために報道があるとだけなる
だから報道の中立性には公平性には利権と結びつかないことだがどうしても報道には金がかかるので今まではできなかったのである。
インターネットで多少その弊害をなくすことはできるようになった
別に今はマスコミに接しなくてもインターネットで報道でも間に合わせることができるからである。それでもう新聞がなくなるとかテレビも見なくなるとなってきたのである。

タグ:NHK マスコミ

駅の入り口のドアを軽くするために業者が来ていた (駅を維持するには金がかかる)


駅の入り口のドアを軽くするために業者が来ていた

(駅を維持するには金がかかる)

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野馬追い列車が走っている,これは宣伝になるが常磐線だけだろうから目立たないだろう仙台辺りでとまると目立つ

駅のドアをまた直す,軽いものにする
錆び付いて重くなり開けるのに難儀していた
それで原町駅に連絡したら開けやすくはしたのだが
もともと重いしレールが錆び付いている古いものだから開けるのが不便だった
それで今度は軽くするというから開けやすく閉じやすくなる
ここはしょっちゅう開けたり閉めたりするから軽いのがいいのである。

ともかく鉄道というのはこうしていろいろ保守とか管理とかある
信号機のための小屋を建ててももそれなりに金がかっている
鉄道を維持するだけで金がかかることをつくづくわかった
そうなるとやはり乗客が少なければとても維持できないのである。

それで無人化することになる,それはどうにもならないとなる
つまり街の人も協力しないかぎり鉄道を維持するのはむずかしいのである。
今度市の方で駐輪場を拡大するから市もかかわっている
市でも金は出しているのである。
トイレでも市で作り掃除は障害者団体に頼んでいる
市でも金をだして鉄道を維持している
ということは市民の税金も出して維持しているともなる
車の人も来てトイレや道を聞きに来たりする
駅はそうした便宜も計っている

だから鉄道をもっと利用しないとJRでも負担が増える
でも常磐線で三倍増えたというのは仙台行きとか名取行きが工事関係者で増えたのだろうそれで収入は増えたとるなのか?
でも乗客は半分とか減っている,でも仙台まで行く人が増えると運賃が高いから収入的には変わりないとか増えることもある
新幹線では距離がみんな遠いから運賃が高くなり利益が出るとなるからだ

未だに時刻を見に来る人がいる
それで今度は時刻表を用意していたので配った
駅にはJRの許可がないと時刻表でも無料で配っても置けないと断られた
でも実は誰かが時刻表を見に来たとき自分が用意していれば配ることができるのである。もし駅員がいたりしたらできない
誰もいないから誰も管理するものもいないから何かそこでしていもJRでは確かに監視カメラで見ているとしても管理はできないのである。
だから無人駅は誰のものなのか?
利用する乗客のものでありJRだけのものではない
世の中考えてみると利用したり消費する者がいなくなるとどうなるのか?
それは不必要なものとなる,金銭的なこと金にならないかなるかもあるが
そもそも誰も利用しないということはいらないということなのだ

つまりこの世のものにあるものは利用者がいて消費するものがいて成り立つ
需要があって供給するものがいる
公共的なものは別に金にならない利益にならなくても利用者がいないと必要ないとしてやめるかもしれない,図書館とかその他の施設でも利用者がないとやめるようになる
なぜなら市で運営しているものでも実は市民が必要だから税金で運営している
もし市民が利用しないとなると税金の無駄だとなってしまうからである
ともかく駐輪場であれトイレであれ市で金を払っている
みんなの税金が使われているのである。


安楽死は是か非か? (千差万別の個々人の事情に答えられない)


安楽死は是か非か?

(千差万別の個々人の事情に答えられない)

安楽死のことをNHKで取り上げていた,その男性は安楽死を望んだのは癌になって直らないし苦しむのが嫌だからだという
その男性は29歳であり若い妻がいて子供もいた
まず安楽死というときこうしたそれぞれの家族の事情が先にある
家族の中で納得した安楽死ならいいのかもしれない
人間の死は一人だけで決められないことがある
家族がいて安楽死などいやだ少しでも長生きしてほしいという家族もある
家族とかその個人の事情がみんな違っているのである。

その家庭の事情とか個人の事情を医者とかはわかることはむずかしい
だからこそ安易に安楽死をさせないのである。
安楽死でも積極的安楽死と延命治療などをしない安楽死がある
この二つの差も大きいのである。
一般にこうして若い人が安楽死するのと老人の延命治療は違ったものである。
延命治療は苦しいしただ意識もないのに植物人間のようにされているのは悲惨だから死なせてやった方がいいともなる
それすら医者はできない,犯罪にも日本ではなる

自分の事情話すと家族の一人はひどい認知症になった介護で苦しんだこと書いてきた
もう本当に馬鹿になったのか、何もわからなくなったのかととまどい苦しんだ
ただ認知症はわけのわからない病気でありどう対処していいかわからなかった
そのことをプログで書いてきた
人間の問題は人間として意思疎通できるかできないかが大事だと思った
それで障害者を意思疎通できないと19人とかを殺害した人がいた
それだけ人間として意思疎通できないことはもう絶望的なのである。

自分も一時はそうなったのかと見た,でも何かわかったようなわからないようなことがつづいた
なぜなら看護婦だったのに病院に行って病院のことがわからないとかそんなことあるのかもう何もわからないのかと思ってショックだった
銀行に行って金も下ろすことができないとかもあった
だから一体どうなったのだろうとわけわからなくなった
でもわかったようなことを言うこともあった
そして最後にいろいろあったのだ自分の家族のことを介護した人のことをわかってくれたそれはただ首を下げてうなづいただけだったのである。
それが最後の意思疎通だったのである。
でもそれで自分は本当に救われた,何か最後に死ぬときありがとうと言う人もいる
それは介護してくれた人の苦労をわかってくれたことなのである。
そうして頭を下げてうなづいたあと意識不明になった
その時はもう死んでいたのである。

なぜならもう意思疎通できなくなっていた

この時はもう強制的に安楽死させても何ら問題なかったのである。
苦しむだけでありもう人間としての意志もなく意思疎通もないからである。
ここで医者が安楽死させても感謝されるとなっていたのである。
でもその前までは脳出血になり手術して胃ろうにもなり苦しんだ
その期間は約二年半くらいだった
そこで安楽死させていたら最後に意思疎通できずに大きな後悔となり自分も救われていなかった
だからその本人がどんなに苦しんでいても意思疎通できる限りは簡単に安楽死させることはできないと自分の事情では思った

もう一人は母であったが孫に思いがあったのか死ぬ一カ月前に金をやれとその金額まで言って死んだ
それも体全体で大きな声で言ったので本当に驚いた
そんな力があったのかと思った,寝たきりで長かったからである。
そして金のことがまるでわからなくなっていたのに金額まで指定てし命令したのには本当に驚いた,つまりこの時も死ぬ一カ月前くらいであり正気にもどったとなる

認知症は死ぬ前に正気にもどる

これは他の人も同じかもしれない,となると認知症とは痴呆になったのとも違うのだろうか?そう考えざるを得ない
生まれつきの知的障害者とは違う,苦しい人生を生き抜いた人達だからである。
だから認知症になっても正気の部分が残っていてそれが死ぬ頃になると正気になる
だから認知症の人はなにもわからない痴呆でありもう意思疎通できない人と見るのは危険だとなる
こういうことがあるから安楽死というのは他者が簡単に決められるべきものではない
ただ認知症であれ意思疎通できるなら人間は生きているのである。
意識があればまた生きている,意識がなくなったら死んでいるのである。

ただ延命治療となるとこれも判断がむずかしいが本人にとってはあまりにも苦痛であり人間の尊厳もなくなる,だから事情によっては安楽死させた方がいいとなる
ただその判断は本当にむずかしい
家族関係とかもかかわりむずかしい,家族関係はみんな違った事情があるからむずかしいのである。
別に今日放送した若い人が癌で死ぬのに安楽死させるのは悪いとはならない
家族が納得しているし家族間問題がないとするといいのかもしれないとなる
だから家族の事情や個々の事情で違ってくるしそれを医者だけでは見れない
その責任もとれないから医者はしたくないのである。

ただ延命治療には問題がありどうしても安楽死させた方がいいなとみる
でも自分の場合はそうではなかった,死ぬ一カ月前に正気にもどったとすると
それまで生き延びて最後に正気にもどってくれたとして生き延びて良かったともなる
ただこの判断は本当にむずかしい
むしろ認知症であれ悲惨だし早い時期に死んだ方が楽だったもみる
ただそうなると家族としては納得いかずに死なせてしまったとなり後悔が残る
自分は二人とも苦しかったけど納得した死に方をしてくれたので死んでも心安らかに供養できる
それは死後まで関係してくるから簡単に判断できないのである。

 

奇跡なのか、いのちの不思議に圧倒されずにはいられない。言語障害があったのに、
必死の思いで「あ・り・が・と」と口を動かし、一粒の涙を流して旅立たれた方。
そうなのだ、旅立つ人も見送る人も、最後に「ありがとう」と言い合える、
在宅医療はそういう別れができるのだ。

 

なんとめでたいご臨終


死ぬ前に若くても納得する死ならいいのかもしれないとなる
いづれにしろその判断は人を裁くなという神の教えと重なる
「悲しむ者は幸いなり」とキリストは言った
その意味を実際の経験でわかった
自分は一人介護で苦しみ泣いていた,その苦しみを知る者はいなかった
でも最後にわかってくれたなと救われた気分になった
そして神は悲しむ者が幸いなりというとき涙をぬぐってくれるという意味を知った
人間の悲しみを神は知りその涙をぬぐってくれる
そういうことが本当にあるんだなと納得した
人間は苦しみ悲しみそして何か尊いをことを人生で学ぶ
楽してばかりいたらそうしたことを学べないのである
実人生で人は学ぶのであり本を読んでも学ぶことはできないのである。
人間は悲しみを通じて悲劇を通じて学ぶのである。
幸福からは必ずしもそうした深いことは学べないのである。

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

この辺では津浪や原発事故で苦しんだ,でもまさにこの言葉があてはまる
故郷でもそこで安楽に暮らしていただけでは故郷とはなりえない
また家族でもそうである。家族とは必ずしも血縁とういだけではない
何かそこで血を流すような苦しいことをありそれを乗り越えたとき家族となる
そういう経験がないとしたら家族とはなりえないとなる
だから悲しむ時ま苦しむ時人間は何か尊いことを体験で学ぶ
だからこそ悲しむ者は幸いなりとキリストは言い神は涙をぬぐってくださると言ったのである。
だから逆にいつも権力や地位があり悲しむこともない人は逆に何も学ばないともなる
悲しむ者はやはり底辺層に多いからである。
この世とはそもそも安楽に過ごす場ではない,悲しみ苦しむ場として神から与えられたともなる
そうでなければ何も人間は学ばないからである。


2018年06月07日

川の抽象画(abstract pictures about river)


川の抽象画(abstract pictures about river)

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frozened river

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Changes from Scotland Quilt


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川の抽象画を変形して作ってみて自分自身が不思議である。
こんなふうに川が多様に流れているのか?
川がこんなふうに表現できるのか?
川には様々な表情がある,それが抽象画に変形して作られる
それも芸術なのか?自分は全く絵の才能がない
だから自分自身こうして抽象画で創作していることも不思議なのである。
それがアメリカで70人くらい見ているとき評価されているのか?
おそらくアメリカでコンピュターが発明されたからこういう電子空間の芸術にも関心をもっているのかもしれない,芸術としてはどうしても本物とは言えないからだ

君に幸あれ、氷のきずなは切れ,流れは君に
河岸もおののくばかり,祝いの歌をかなでる、われは青年は
酔いによろめき,流れが君を讃美する、その方角に歓呼を送る
われはは君の愛の息吹きから
いとしいものよ、火のような胸をあらわにし,そして流れへ
馳せ下り川音と声をあわせて叫び,君を兄弟と呼ぶ

I myself myself trying to transform the abstract picture of the river.
Are rivers flowing diversely like this?
Can the river express such a way?
There are various expressions in the river, it is made by transforming it into an abstract picture
Is it also an art? I do not have any talent for painting at all
So it is strange that he himself creates abstract painting like this.
Is it evaluated when it sees about 70 people in the United States?
Perhaps because the computer was invented in the US it may be interested in the art of such electronic space because it can not be said that it is real as a matter of necessity


the poetry of Helderin about river

Fortunately for you, the bond of ice is broken, the flow is to you
The river banks are also fainted, they celebrate a celebration song, We are a young man
Willing to drunk, flowing to praise you, cheer for that direction
We are from your breath of love
Oh dear, reveal my heart like a fire, and to the flow
Crying out together with the falling river sound and voice, I call you a brother


ヘルダーリンは故国のライン川を詩にした
川と一体化した詩を作った
自己同一化した詩を作った
日本にはライン川のよう長い大きな川がない
だからここまで川と一体化する詩は書けないのである。

Herderlin made poetry on the Rhine of the homeland
I made a poem integrated with the river
I made a self-identical poem
There is no long big river in Japan like the Rhine
So it is impossible to write a poem that unites with the river so far.



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タグ:abstract river

マスコミの報道には目的がある (NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)


マスコミの報道には目的がある

(NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)



天下りが必要だからそれを推進させるために老人の交通事故を過大にとりあげる
老人ならみんな増えすぎて無駄な奴が多いとかみんな思っているから批判しやすい
でも若い人とか女性となると反発が大きくなる
若い人と女性の方が交通事故が多いという事実を報道しない

なぜ老人が標的にされるのか?

それは天下りが必要でありそのために老人の免許関係で天下りの事務が必要なためにそうさる

その目的は何のか

役人が天下りの職が必要でありそのために老人から免許をとりあげる
そういう明確な目的があって報道している
それを言わないからNHKはフェクニュースになるという
自分はそんなに天下りが関係しているのか?
そういうことがわかりにくが原発事故でも原発ほど巨大な利権は他になかったろう
何兆円とかが湯水のように使われるのに驚いたし東電がこんな巨大な企業だと思わなかった,その辺が自分は社会のことがわからないのである。

その巨大な利権によって原発がゆがめれたのである。
原発自体が天下りの巣窟になっていたのだ,警察官僚から官僚の有力な天下り先になっていた,そこにはマスコミ関係者もいたとかなる

つまりそういう利権を天下り先を確保するために原発が必要だった

武田邦彦氏の論法だとそうなってしまうのである
こういう上層部の構造は一般庶民とかにはわかりにくいのである。
正直な話自分の家族の一人は公務員をしていたので多少そういう利益を得ていたことを知っている
そういう地位とか立場にいると自ずと得するようにできているのである。
結果として自分も得していたとなるのだ
株の世界などでも本当にもうけている人は何かそうした利得にあづかる立場とか地位とか権力をもっている人だとなり陰謀論になっているのである。

とにかく報道はただ事実を報道するのではない

ある明確な目的をもって放送会社がNHKでもしている

その目的は何なのだとなる,その目的を言ってニュースを報道すべきだと武田氏は言う
つまりNHKとか官僚は利権で結びつく,それはマスコミでもそうである。
どっちも得するようになっている

でもNHKなどではどういう目的で報道しているのか?

それがわかりにくい,中立で公平にも見えるからである。
まずこの辺で原発避難者を批判できなくなっていた
それはNHKでもマスコミでも原発避難者側に立って報道していたからである。
原発避難者が実際はパチンコ屋通いでありギャンブルで遊んでいただけだということも報道しない、ただかわいそうだということで応援していた
だから原発避難者を批判するとお前はなんなのだとなる
それで不満があっても言えなかったのである。

ではなぜ原発避難者側にNHKが立ったのか?
それは上層部で決めたことなのである。
あと取材する人はその命令に従っただけだとなる
ただ後から津浪の被害者も考慮して放送するようになった

とにかく放送するということは何か目的があって報道する
放送局でその目的がありその目的にふさわしいように放送するし編集する
そしてその目的にふさわしくないものは放送しないとなる

ではその目的とは何なのか?

それが問題になるのである。

事実だけを報道するといっても重大なことでも報道されないことがあるからだ
それは放送局にとって目的にかなわないからだともなる
森友学園問題にしてもまずマスコミの目的が不正正すということがあっても
今の安倍政権に打撃を与えて政権を倒すことを目的としている
だからともかくなんでもでっちあげても不正にして国民にそれを印象づける

一方で野党側の不祥事とか辻本と深い関係にあった会社が検察の捜査を受けたのを報道しないのである。それはマスコミにとって目的にふさわしくないから報道しないのである。NHKでも報道しなかったからである。
都合の悪いことは目的にかなわないのは報道しないのである。
それで原発事故でも10メートル以上の津浪を来ることを東電では想定していたのである。でもマスコミでは福島民友でも民報でもそれを大々的に報道しない
なぜなら政府と東電の目的に合うようにしか報道しないからだ
福島民報は出資の半分が県で負担しているから官報であり政府とかの不利なことは報道しないのである。
そこにも目的がありその目的にかなうものは報道するがかなわないものは報道すらしないのである。
それが大惨事につながったのである。

いづれにしろ報道でもそうだが利権と結びつくなんでもゆがめられるのである。
でも人間は利益には弱い,でもそのことが戦争で300百万に死んだとか原発事故とかの大惨事につながる
そうなると報道をただ権力をもっているものだけによって操作されたらまたそうした大惨事が起きてその被害は国民が受けねばならないのである。
そういう報道のことを国民が監視しなければ同じことがまた起きる
マスコミが芸能人の馬鹿騒ぎの場にしてはならないし重大なことに関心をもたせないとまた大惨事が起きる,国民がそのために苦しむのである
それは民主主義だと国民の責任であり指導者の上層部の責任ではないとされるのである。現実に政府も東電でも何ら原発事故では責任をとっていないからである。
ただ武田邦彦氏でもこの原発事故には責任がある立場にあった
今頃1ミリシーベルとか言っても何か虚しいとはなる

2018年06月08日

逃れられないカルマ (和歌山ドン・ファン事件もそうなのか?)


逃れられないカルマ

(和歌山ドン・ファン事件もそうなのか?)


この人自体が普通から見たら異常である。でも資本主義の世の中ではとにかく金があれば認められもてはやされる,金の力が露骨に現れる社会である。
江戸時代なら金ではなく身分でありその身分にふさわしいふるまいをしなければならなかった
今は身分など関係ない,金をもっていなかったら身分も地位もなにもない
何の力もないのである。だからどんな悪辣な人でも金さえもっていれば人はよってくる
でもそれはあくまでも金によってくのでありその人がどういう人格などとかそんなこと関係ないのである。
だから今の社会は「金の切れ目は縁の切れ目」ということがどこでも現れる
昔からそういうことがあったとしてもそれがあまりにも露骨になりすぎたのである。

とにかく自分もそうだったが60以降はカルマが具体的に苦しみとなって現れる
若いときの不品行とか別に犯罪として罰せられなくても人間はなにかしら後ろめたいことをしている,それで心の中で責められるのである。
ただ心の中で責められるならいいが具体的に苦しみとなって現れるのがカルマなのである60以降は人生の総決算のようなことが起こるし死ぬときもそうである。

だからこの人の死にざまはそのカルマの総決算として死だったのかとなる
溺愛していた愛犬も殺害されたのか苦しんで死んだ,そしてすぐに自分も殺害されたのか死んだ,なぜ犬まで殺されたのか?
カルマはその回りにいる人に及ぶからである。だから一番かわいがった犬もそのカルマを受けたとなる,そんなことがあるのかというがカルマは親戚と深く関係して影響するから怖いのである
結婚して相手の家のことなど関係しないと思っても結婚すれば相手の家のカルマを受けることになる
ただそのカルマはすぐに現れない,それが60以降とかでも現れるから怖いのである。
そのカルマが身に降りかかったときはじめてその怖さを知るのである。

自分もそういう目にあってきたことを書いてきた,これとにたことを経験してきたからである。
この人は金があっても金の亡者であり女性を物ののように扱う人だった
だから誰からも本当は愛されていない,信頼されていない,愛しているのは犬だけだったとなる
そして金目当てなのかどうか殺害されたともなる
こういう会社に勤める人の気持ちはとをなのか?
そんな人が社長になっている人の気持ちはどうなのかと思う
社長を見習いとなるとなるとそんな社長についていけるのかとなる

ただこの人だけではないカルマはみんなもっている,もたない人はないのである。
では良く通り魔殺人とかいろいろあるけどそれもカルマなのか?
犯罪にあうのもカルマなのか?それはただの偶然ではないか?
強盗に入って殺されるとかあるけどそれもカルマなのかとなる
多分にカルマはそこにある,金があるということでもカルマとなるからだ
カルマは多様なのである。人間が複雑なようにカルマの種類は多様であり計れないくらいある,だから犯罪にあうのもカルマだということはある

ただ例外はある,人間は苦しむのはカルマがかかわっていることが多いのだ
障害者をもってなぜ苦しんでいるのか?
それは前世で誰かを苦しめていた虐待していたためだとかなる
そうでも考えないとどうしてそんなに障害者の子供や病気で障害者となった人を障害世話しなればならなくなったのか?
それはおそらく前世で虐待していたためではないか?
自分が弱者化したとき責めてきたのはそういう前世の宿縁だったのか?
それが一応親戚だからその苦しみを自分も受けることになったともなる

ただこうしてカルマだと考えるとき自業自得だとなり相手を呪ったり恨んだりしない
自分がこうなったのはあいつのせいだとか恨み呪いつづける人がいる
でももしこれも自分のカルマだとすればその人は自分のカルマを自覚しているから自分のせいだとなるから他者を恨んだりしないのである。
でもそれに納得いかない人は今度は他者を責めるのである
ただ殺人までになるとそれはカルマなのかどうかわからない
それは相当に重いカルマとなるから軽々には判断できない
ただこの人の場合そうしたカルマを積んできて最後に総決算としてカルマが具体化して苦しみとなって悲惨なの結果となった
それは自分もにたようなことを経験しているから他者のことは言えない
殺されかかったということでは同じだったのである。
それは金にまつわりそうなった,金はそれだけ今の社会では怖いものでありもめごとの大半は金にまつわるものだからである。

自分の家族の一人は悲惨な死に方をした,それもカルマだったのか?
それも良くわからないにしろ一部は多分そういうことがあった
ただ善行もあり家のために尽くしたのだからすべてがカルマだったとも思えないのであるでもなぜ頭がいいとか最後まで優秀だと言って死んだ
実際は馬鹿になっていたのであるからこれもをと考えていいのか?
何か奢りがあってそういう無惨な死に方になったのだろうか?
カルマは死にざまに現れるのだろうか?
ただ人間は死ぬときはみんな苦しみ悲惨なのだからわからない
カルマは法則のようにあるとしても数式のようには現せないからである。

いづれにしろ今回の事件はわかりやすい,カルマがわかりやすい,誰が見てもあんな死に方するのが当然だとか見ているかもしれない,金の亡者であり金で女性をもてあそびそして死んだのだからまず女性の肉体を愛しても人として見ていないからである。
そういう人がもてはやされるのも金をもっているからなのだ
出版社も金儲けのために自伝を出させたり金が目的でみんな寄ってきているからだ
人間はやはり金があると金を目的でしか寄ってこなくなり金でもめるのが定番である。
金というのは怖いものでありそれで殺されるのが普通にある
今の世の中は特に金をもうければい得ればいいしかない社会となっているからその典型的パターンとしてこの事件が起きたと誰でもわかりりやすいから見ている


















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大草原のローラ様とアシオ様のコメントがありました (遅くなりましたがレス(返信)を書きました)


大草原のローラ様とアシオ様のコメントがありました

(遅くなりましたがレス(返信)を書きました)


自分のプログはめったにコメントがないので見ていませんでした

「今日の一句一首」は特にありませんでした

今回コメントがありましたので遅くなりましたが返信しました

コメントがあれば返信をしますが全部にはできません

やはりコメントがないとどういう反響があるのかわからないですから困ることはあります
ただアクセス数を見ているだけですから

アクセス数はページビューは最近かなり減っています

ただ訪問者は増えています,ページはあまり読まれなくなったが

訪問者は増えている、だから必ずしも減ったとはなっていない

おそらく「心の青雲」の読者が多かったということで著者が死んでからこっちにもアクセスがあったのかしれこません

その分析ができませんが・・・コメントが一人でもその関係者だったということでもそうかもしれません

プログは何かリンクされないとなかなか読まれないですから・・・

遅くなっても一カ月後とかでも返信をすることはあります

ですからそういう間隔でも返信があるということは知ってコメントしてください

「今日の一句一首」の方はコメントはほとんどなかったですから・・・

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posted by 天華 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

下北高平の広い土地の家が壊されていた (その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)


下北高平の広い土地の家が壊されていた

(その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)

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高平の五輪塔
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ここは藤の花がきれいな家

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この家が壊された 端にその壊された木材が積まれている

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こういう地形から名付けられた地名なのか?



今日いつも通る原町の下高平の広い庭に藤棚がある家が壊されてのに驚いた
なんだろとう思い見たら誰か木を切ってかたづけている
そこは畑になっていてその家の土地だったのである。
それで聞いてみるとシロアリにやられて新しく家を建てるという
壊した家自体は古くない,20年とか言っていた

それでそこの家の人に聞いてみた,前にもその人とは会ったことがある

「新田川のそばに古い墓地があるんですよ,立派な大きな五輪塔があるんです
この辺は西殿といって浜の方の人に聞いたら西殿をニシドンと言っていました
この辺ではニシドンと言っていますか?」
「にしどの,ああにしどん」

何かこう言ったからやはりこの辺で西殿をニシドンといっていたのである。

「この家は古いですか」
「7代目だよ」
「じゃ江戸時代からつづいている」
「この辺の農家はあそこの家で4町でありこっちは7町とかだよ」
「広いな,やっぱりここは古い所なんだ」

近くに金沢の所に墓地がありそこに越中からなどの移民の墓誌がある
でもあそこの墓地はもともとあそこになかった,移動したという
移民の人も高平に入ってきた

「草履をぬいだ話を聞きました」
「それはいつですか」
「戦前のことだったな」
「それでは江戸時代ではない」

何か戦前でも土地を求めて古い農家で働いた人がいたのだろう

「この辺で槍をもっている人がいたよ,そこは古いよ」
「名前は」
「脇本だよ」
「その人は野馬追いに出ていますか」
「・・・・・」

それから村八分のことを語った

「それからこの辺で村八分にされた人知っているよ」
「どうしてされたの」
「その人は変り者で土橋を渡るとき誤って転げて死んだよ」

村八分など聞いたことがないが何かそういうことは村にあった
そういう話は日本の村には良くあったのかもしれない
ともかく狭い土地でいつも暮らしているから何かうまくいかないと出て行くわけにもいかないからそうなったのである

こんな話になったがその家は7代とするとそれなりに古い,確実に江戸時代にさかのぼる
とにかく蔵がありその脇も広い畑なのだから古い土地持ちの農家だったのである。
海からの風通しもいいし気持ちいい場所なのである。
あそこはいつも通っていたからあの家はずっと気になっていたのである。

そもそも高平(たかひら)の地名の由来は何なのか?
タカタイラともありタイラとヒラは違う,ヒラは傾斜地を意味しているという
ヒラはアイヌ語説になればアイヌ語由来なのか?
北海道には高平の姓が一番多い
ヒラタイというときヒラは傾斜地でありタイは平地になる
ヒラタイとういうのは一体として使われた言葉なのである。
日本には山が多いから傾斜地が多いからそういう地形が多いのである。
それで野とは傾斜地の意味だったのである。
すると高平とは傾斜地がありタイラな地形になる
傾斜地とする金沢辺りから傾斜地になっているからそこから地形として名付けられた

なぜそうなったのか?

それはまず原始時代から自然をみるとそこも湿地帯だから高い所からその地形を見て名付けられた、どうしても傾斜地とすると金沢の方の高台の方から見た地形なのかとなる
高平地区はとにかく桜井古墳も近くにあり泉かんが跡もあり古い地域なのである。
原町の歴史地区なのである。
それが具体的にわかりやすいのはあの五輪塔なのである。
あれは南北朝時代のものであり相馬氏が入り西殿となづけられた
あの辺ではニシドンと言っていたのである。

前にもあの辺りだと新田川の橋を渡ったところにも古い家があった
六号線かあってもあそこはもともと農家があった田んぼと畑だったのである。
そこで古い馬頭観音が畑にあったのでそのの由来を聞いた
そしたら火事があって馬が焼けたということで供養したのだと聞いた
あそこの家は升形の紋が蔵にあり古い家である
ただ脇本という姓の人は野馬追いには出ていない
そこがどうして古い家なのかは不明である。

つまり高平一帯で三軒から自分は直接話を聞いたのである。
するとバズルのようにその地域の歴史を編むようにつなぎあわせることができる
ただそれもこの辺では鎌倉時代から南北朝頃からでありその前は歴史的に残っていても何か具体性に欠けるのである。

いづれにしろ郷土史はこうして直接その土地の人に聞かないと具体的にイメージできないのである。
そうして聞く機会がなかなかない,たまたま家が壊されていたので驚いて聞いてみたからできたのである。

posted by 天華 at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

夏の桜井古墳(俳句短歌)


夏の桜井古墳(俳句短歌)

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古墳の上しきり飛び交ふ夏燕

夏の日や川海近く古墳かな

夏燕モスバーガーに休みけり

高平(タカヒラ)や桜井古墳に夏の月


我が立ちぬ桜井古墳大なりき燕飛び交いつつじ赤しも

草深く蛍袋の咲きにけり桜井古墳の夕暮れにけり

一軒の農家の古く広しかな庭に畑や夏の日暮れぬ


桜井古墳は東北で4番目に大きい,

東北最大の前方後円墳は宮城県名取市の「雷神山古墳」全長168m。次いで会津坂下町の「亀ヶ森古墳」全長127m。3番目がいわき市の玉山古墳」全長114m。同じく若松市の「会津大塚山古墳」全長114mが続く。

名取の古墳でも海側だしいわき市でも海側である。海側に桜井古墳もある
遠見塚古墳も海側である。
一方で会津はもともと国(くに)として知られていた
万葉集時代にすでに国という認識があった,だからあれだけ大きな古墳もある
その歴史は明治維新の城の落城までつづいていた

不思議なのはなぜ中通りには大きな古墳がないのか?

中通りの方が開けた地方だと見えるからだ,ただ古代に浜通りと会津が開けていた
それに何か訳があるのだろう,ヤマトタケルが海沿いに船で制服したという伝説があるからそれもかかわっているのだろう

桜井古墳の上に立つとそこからは海も見えたろうしまた新田川あり川の側だから立地的に納得する
高平(タカヒラ)というのもヒラが傾斜地という意味だと金沢の山側が傾斜地になっているからそこからなづけられた開けた平坦な土地として最初にこの辺で田んぼとかになったのかもれない
泉かんが跡もあるしそこは原町の歴史地区だったとなる

ともかくあの一軒の農家は広い,風も海側から吹いてくるから涼しいとなる
自分の場合はいつも高平は通って原町市街に入るから関心をもったのである。
あの五輪塔もあって関心をもったのである。

今は螢袋が咲いていた,これは梅雨の時期に咲く花である。

あそこは散歩するにはいい場所である,やはり人間は一番適地を選んで発展したとなる
だからその場を踏むとその土地の歴史が実感としてわかる
それは資料とか本だけ読んではわからないのである。





















2018年06月09日

社会は常に優秀な人を求めてきた (一番優秀なのはAIになるのか?)


社会は常に優秀な人を求めてきた

(一番優秀なのはAIになるのか?)


人間社会は優秀な人間が常にどこでも求められてきた,ただ優秀だというとき時代によって変わる、侍として優秀なのはやはり武道ができる人だったり戦争で力を発揮する人である。
明治以降になると福沢諭吉がでてきて学問に優れた人が出世するとなった
それから理系の技術者がいたるところで必要になりそこで優秀な人が望まれた
戦争も核兵器などのように技術競争になったからである。

人間社会は会社でもそうだが国でもそうだが優秀な人がいるとその人によって会社でも国でも株があがる,アメリカを見ればわかる
コンピュターを発明した人がビルゲイツとかいたからこそアメリカは技術的に情報社会で世界を支配するとなる
そういう天才がいて優秀な人がいて国家でも株が上がり世界を支配する
ただ金融だけでは支配できない,紙を刷っているだけで世界を支配できるとなればこれほど楽なことはないからである。

ヨーロッパが世界を一時支配できたのはヨーロッパには天才が非常に多い,それで発明発見があり産業革命があり豊かになった
イスラムが遅れたのはイスラムから学ぶものが宗教しかないというときほとんどの科学技術でもヨーロッパで発明されたものである。
その差が歴然としているのだ,イスラムになにがある,アラーの神がある,他に何がある石油と砂漠しかないのか?そんなふうになっている
世界レベルでイスラムから学ぶものがない,それは芸術の分野でもイスラムから偉大な天才は出ていないのである
中国でも発展したがパクリ国家であり何も世界をリードするものを発明されていないのである。だから先進国になれないと言われる

なぜ最近AIとかがうるさく言われるのか?
つまり人間は優秀な人材を求めている,でも優秀な人材は簡単に得られないのである。
会社でも国家でもどこでも求めている,その優秀な人材を得られれば会社も国家も株が上がるからだ
例えば医者でも一人の優秀な医者がいると例えば手術がうまい医者がいるとその病院の株は上がる,南相馬市では脳外科で脳出血関係で手術がうまい先生がいてその人がいたから脇に専門病院ができた,その先生に習うために若い医者も来るという
つまり一人の優秀な医者がいれば地域にも医者来るとなっているのだ
他に銀行でも投資に関しては素人並だった,投資には相当な知識と専門性が必要であるが銀行にはそうした優秀な人はいないのである。
もしそういう優秀な人がいれば投資関係でも銀行はもうけられるとなる

人間は簡単に優秀な人は得られない,するとどうするのか?
AIに優秀な人の代わりになってもらいうということになるのだ
いくら優秀な医者でも手術がうまいとしてもその数をこなすのは限られている
優秀な人はものすごく忙しくなる,優秀な手術のうまい医者にみなしてもらいたいからそうなる
するとAIにその代行をしてもらうとなれば好都合なのである。
Aiだと休まず24時間働いても疲れないからである。

自分もプログを三つくら一日アップすると疲れる,家事もしなければならないしそんなに一人の人間ができないのである。助士が欲しいがそれも簡単にはできない
金もないし家政婦も雇いない,やはり一人でやれば忙しくなる
ただインターネットだと知識吸収とか発信のスピードが早くなり効率的になる
これを図書館で調べていたら一冊一冊本で調べると時間がかかってできなくなった
家事があるので余裕がないからだ
図書館に必要なのはアルバイトの司書ではない,本でも情報化したAI化したロボットなのである。
なぜならキーワードで郷土史関係の資料でも調べられれば効率的になるからだ
まずアルバイトとかの司書などはただそこにいるだけで役にたたない,案内役にもならないからだ

ともかく優秀な人間は忙しくなる,やることが多くなる
でも助士が欲しいとかなるとその人だって優秀でないと勤まらない
それは科学者が実験している時でも弟子が助士が優秀でないと役にたたないからだ
だからどこでも優秀な人を望まれているがそんな人は簡単に得られないのである。

ただAIがどういうものか今はわからない,まず翻訳には驚いた,そのレベルが高いから学校の先生に学ぶよりいいとなる,あんなにすらすら翻訳できないからだ
他にも自分のしている抽象画も実はAIとにている,AIが創作しているのではないがソフトで制作しているからにている,これも70から80人のアメリカの人が見ているのである。
だから評価されているのかとなる,これもコンピュターが産み出した芸術でありAIと関係しているのである。
AIは人間の助士になる,知的な分野で助士になる人も簡単に得られないからだ
手術するにもAIロボットを使うのもそのためである。
それは手術の優秀な助士なのである。

AI社会とはどういうう社会なのか?
人間は優秀な人を求めてきた,でも優秀な人は簡単に得られない,するとAIに代行してもらえばいいとなる,労働者でも簡単な仕事はロボットがする
そのロボットを優秀な人が発明すればいいとなるのだ
そして優秀でない人は社会で人類でいらないとなる
なぜなら高度な知的な仕事はAIを使うからである。すべてができないにしろ助士として優秀だからである。
そこでロボットが簡単な機械的にできる仕事をさせると単純労働者はいらないとなる
働く場がなくなるとなり格差社会ちなる
でもまずみんな知的にも技術的にも優秀な人間になれるのは極一部なのである。
その極一部でもAI化すればロボット化すれば社会は回ってゆくとなる
人間はそうして優秀な人間を求めてきた,だから必然的にAI化してゆくとなったのだ

今後の社会の歪みは人工知能を拡大させ、巨大ハイテク企業が世界を制する


posted by 天華 at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題