2018年06月01日

いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)


いわきまで御斎所街道を下る旅(旅の思い出の短歌)


御斎所街道を行く(福島民友)


そはいづこ山中にあり万屋に味噌汁ご飯馳走になりぬ

古殿に市神の碑あり秋の朝我も来たりて街道下る

雷鳴りて雨の打ちふり旅人のしばし休みてまた走りさる

水澄みぬここに死なむや落鮎の今ひとしきり泳ぎけるかも

市街へと我はいぞぎぬ刈田なる遠野を行きて心に残りぬ

旅人のはるか来たりぬ秋の朝海を望みて鴎飛びさる

目覚むればいわきの海や撫子の咲きてひびける波の音かも


元応(げんおう)は、日本の元号の一つ。文保の後、元亨の前。1319年から1320年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時。

古殿の市神の碑がこんなに古いのには驚く,この辺ではこれだけ古いのはめずらしい
古殿の前に鮫川とありその山中に万屋(よろずや)がありそこで味噌汁とご飯をご馳走になった、石川とかいうと何か阿武隈高原を行ってもなじみがない,竹貫とかもあったがなじみがない,そんなところに万屋があった
そんなことがなぜできたのか?今ではありえないことだとふりかえる
そこにはコンビニなどないから万屋(よろずや)があった

万屋とは何でも屋であり田舎でも辺鄙な所にあった店である。
それはどこにでもあった,しかし今はなくなった
そういうところにはまだ人情が残っていたとなる
今は外部の人はみんな警戒しているからそんなことしないだろう
ただ旅をするとき昔だったら歩いてしているからどうしても食料がないと困ることがあるするとおにぎりとかもらった人がいるかもしれない
そうしないと旅自体できないからだ,なぜなら乞食がいたし物乞いして歩いているのを子度のとき普通に見ているからである。
そして意外とそうした乞食に物をあげる習慣があった
みんなではないにしろ物をあげていたのである
ただ頻繁に乞食がきて嫌われたという記憶もある,それだけ乞食が多かったのである。

小高い新地山が見えた。歌枕の「人忘れずの山」として知られ、定信も歌を詠んだ。

 世々へても 心の奥に通(かよ)ふらし 人忘れずの山の嵐は

これは西白河の方である

定信に愛された新地山

この歌はいい歌である。人忘れずの山というのはやはり人が忘れてしまうような山だからこそこの名がついた,そういう奥にも人の心は通うとうなるのか?
人も忘れてくれるなという意味ともなるのか?
そこは秘境のような所だとなる,江戸時代ならどこでも秘境になりうるのである。

街道を下りた所に川が流れていてそこに落ち鮎をとる梁があり落ち鮎を料理する小屋ができていた
その川の水は澄んでいて鮎が死んでいた,最後にそこで泳ぎ死んでゆく

ただそこから遠野に出るが遠野は稲も刈られて淋しい所だった,いわき市街から見て遠野だったのだろうか?遠野というのはいくらでもある地名だからそうともならないだろう
第一地名はそんな広範囲な感覚ではつけられていないだろう。
原町の大原に遠田とあるが大原からはさほど遠くないからである。
でもそこで遠野は何かいわき市街から遠いという感覚になっていた

そして海に出た時,秋の海でさわやかであり気持ちよかった,そこでテントを張り一日泊まった
目覚めると撫子が咲いていた,その撫子がなにかいわきとあっていた
それは山から街道を下りてきて海を見たから感覚的に違ったものとなる
もし海沿いを旅したなら感覚的にこうはならない
山から海に出たということで新鮮な感覚が生まれたのである。
だから旅はその過程で違ったものとなる,海から山へ入るとなるときもそうである。

ここも塩を運び山から薪を運びとか飯館への塩の道とにている,塩の道は全国にあった
そこで山と海との交流が生まれた

塩を運ぶ人を待ちけり山の人その塩貴重に市に求めぬ

要するに物の貴重さはそうして苦労して運ばれたとかにあった,今は物の貴重さがないのは簡単に手に入るからである。いくらでも塩でも砂糖でもあるとなると貴重なものとはならない,だから塩でもなんでもありがたさがなくなったのである。

ともかく何度も言うように旅は意外と記憶されることが大事である。
なぜなら旅は忘れやすいのである。まず車だったら記憶されない
自転車で街道をひたすら下り遠野通りいわきの海に出たということで記憶に残っていた
本当に現代の旅は記憶に残らないことが多いのである
記憶に残る旅がしにくいのである,それはあまりにも便利になってただ通りすぎて遠くに行くというだけになっているからだ
その途中が省かれるのである。記憶から消えるのである。
旅でも人生でも記憶されないことは何も残らないということになる
そしたら旅という経験は無駄ともなりかねないのである。 



2018年06月02日

駅前に電気系統の小屋完成 (駐車場の舗装工事始まる)


駅前に電気系統の小屋完成

(駐車場の舗装工事始まる)

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新しく出来た小屋

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駅前の駐車場の工事


あの小屋は電気系統の信号などを操作するものだろう。
ホームの埋められた電線も工事することになった
水戸から来た人がその電線を通っているのを見ていた
鉄道の保守管理は意外とこの電気系統がめんどうなのである。
車だとかバスにはこういうことがない
だから鉄道を維持することはコストもかかり手間がかかるのである。
電気はまた危険な面があるから保守点検が大事になるからだ

駅前のはずれたところにある駐車場は舗装するらしい,あそこもわかりにくい,
長時間はとめられないが一応駅前よりは長くとめられる
でも知らない人が多いのである。
知っている人は利用しているが遠くから来た人はほとんど知らないのである。
それでキクチスーパーにとめたという人もいた
車をもっている人にとって駐車場は常に問題になる
それで駐車場がない街の通りは不利になったのである。

あとは駐輪場を市の建設課の人が来て調べていた
JRの土地になっているところで問題があり調べていた
新しく駐輪場を広くするらしい
ここでも市がかかわっている
外のトイレは市で運営していて障害者の施設に毎日掃除をしてもらっている
それでぴかぴかなのである。
あのトイレは遠くから来る人や鉄道を利用しない人も車で来て利用している
やはり道の駅がないからそうなる

ホームにあるトイレはJRが他の会社に頼んで掃除してもらっている
あとは商工会の女子部がゴミのかたずけをしている
これも金を払っているのである
このように駅を維持することは金がかかるのである。
だから乗降客が少ないのに減っているのに駅を維持するということは
なんらかJRだけでは維持できない
それでローカル線が廃止となりコスト削減として無人駅にする

ただ常磐線で原町駅と相馬駅は半分くらい減ったのはいわきまでつながらないからだろういわきまでつながれば回復するだろう
乗客が三倍に増えたというのは工事関係者などがきて仙台に行く人が増えたのだろう
また名取から空港を利用する人で増えたのだろう
仙台までの乗客が増えれば収入増にはなる,近くではならないからだ

田舎の少子高齢化 (田舎の生活が逆に見直されることも?)


田舎の少子高齢化

(田舎の生活が逆に見直されることも?)


自分の組の10家族

一人暮らし 4人
老夫婦の二人暮らし二家族
子供のいる家なし
60歳以上 10人

これだと活気がなくなる,一人暮らしの人はやがて大きな家に住んでいるが空家になるかもしれない,子供がいないとなると街から離れた農家の部落では祭りが維持できないとかテレビで放送していた
そこは新地の福田というところであり丸森から神楽が伝わっていたのだ
それは子供だけでする神楽であった
でも後継者がいなくなるとか言っていた,こういうことはもうどこでも起きている
それよりその神楽はあくまでも農業の農家の祭りである
五穀豊穣を祈る祭りだとするとき現代に合わないものとなる
それは昔の村だったら成り立つものである。
今は村でもみんな農業しているわけではないからである。
田んぼも委託して何もしない農家が多いのである。

隣が空家になっていて近くの人が新築するためにそこを借りた
その家には子供がいる,めずらしいなと思った
孫と遊んでいる祖父母がいる,そういう姿も見ていないからだ
その家は若い夫婦がいて祖父母がいるから大家族である。
そういう家族が普通だったのだろう

近くでも知っている人が自転車屋でも娘が東京にいるが後継者はいないからいづれはやめることになる
そうすると町には一軒も自転車屋がなくなるのである。
するとかなり困ることになる
同級生の人も娘は東京にいる,地元に住んでいる息子や娘が少ない
するとどうなるのか?
やがては空家となり墓を守るものもいなくなるのである。
それで墓じまいとかなる

そして田舎に故郷に帰ってくる老人も増えてくる,そういう人と駅でもあったし他でもあった,つまりまた老人が増えるのである。

商工会で街を良くしようとして集まるとしても50以上とか多いだろう
すると将来を考えるより老後を考える,30代まで40代までならなんとか将来を見る
50以上になると無理になる
それで女川とかでは復興するのに老人は口ださないことにしたというのもわかる
老人はどうしても新しいことについていけないのである。
変化に対応できなくなっているのだ

そして老人が求めるのは安定であり安心である
何か例えば土手を毎日歩いている
そこに桜並木がありそこを毎日通る
その桜は太いのである。もう大分前にこの地区の人が植えたものだからである。
その木を見ていると何か心が安定する
そこで求めるのは信頼とか安定とか安心なのである。
それはこの土地に長く根付いて成長したものである。

そうして変化しないものを老人は求める
それは別に悪いことではない,そういう生活もまた現代では求められているからだ
めまぐるしく変わる世界がいいとは限らないのである。
大地にその土地に深くねづいた生活を求める
そういう時代の変化もある,東京などの若者が田舎志向になっているのもそのためであるだから老人の志向するものがすべて悪いとはならないのである。
若い人が志向するのはすべていいとは限らないのである。
結局高度成長時代は若い人向きの社会だった
若い人が多いから一面活力ある社会だったとなる
でもその高度成長が終わったとき今度は成熟社会になる
すると社会のモデルも変わってくるのである。

理念における二つのモダン(近代)なモデル(模型)のモード(流行)があります。ちなみにモダンとモデルとモードとは、語源にあっては同根です。つまり近代とは「最近の時代」などというカレンダー上のことではなく、「模型が流行する時代」ということを指します。

西部邁

モダンとは模型のことであり型にはまった模型的思考のことである。つまりそこに新しさはないのである。誰かの真似ごとがモダンなのである。

西部氏に共感することは古いものが必ずしも古いものではない,新しいものが必ずしも新しいものではない,すべてのものは歴史的生成されたものであり全く新しいもはないという考え方である。

何か自分は自然とアイディンティティ化することをもとめてきた
木があるとき木と一体化する,すると心も安定して安心するとなる
その傾向が年がとると余計深まってくる
人間もやはり自然の中に生きる自然に生きる生物だからそうなるのがまさに自然なのである。

根を張る木

深く深く
強く強く
大地に根を張る
信頼の樹々よ
そこに安らぎがある
木は大地に根を張り
深い影をなして
ここに静かに成長してゆく
その時は長い
そうして信頼を深めてゆく
信頼は時間によって作られてゆく
偽らざる木よ、正直な木よ
そこに安らぎがある
人間はそのように
落ち着く場が必要
精神的に安定する場が必要
そこで仕事も成就する

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こんなふうになってゆくのが自然なのである。
仕事をするにも成すにしてもそうした安定する場がないとできないのである。

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南相馬市では補償金で分断された (他の地区のことは配慮しないのが問題だった)


南相馬市では補償金で分断された

(他の地区のことは配慮しないのが問題だった)


原町の人が鹿島に商売に来ている,鹿島で商売している,鹿島の人に買ってもらっているそれで原町の人は医療費とか高速はまだ無料になっていると言う
それは差別ではないかとか言うとそんなことしりません,私にはどうにもなりませんからなにかそっけない返事である。

それは小高の人達もそうだった,極端なのは私たちは買い物して鹿島の人を助けているのよ,と言っていたのである。
これには驚いたけどみんなそんなものだったのである。
私たちは何か鹿島の人に世話になっているのただ土地を借りてあとは金を使って助けているのよというくらいのものだった
だから小高の人に補償金のことを言うと怒っていたのである。
故郷に住めなくなったのだからそんなこと当然だから鹿島の人が不満を言うのはおかしいとなっていたのである。

それは原町の人が仮払い金と市の予算から財政から100億円を出すというときネットで凄く反対していた人がいるのである。
それはあまり目立たないものだったから知っている人は少ない
でも原町区ではそう思う人が結構いたのかもしれない
なぜなら市の財政となると直接影響するからである。
ただその時仮払金だから後で別に東電とか政府から支払われるものだったからそんなに反対する必要もなかったともいえる
ただ何か仮払金のことが自分はのみこめなかった
ただその時市の財政から金が出るということで反対だったのである。

その後原町区では30キロ圏内なので医療費とか無料であり高速も今まで無料だったのである。それはずいぶん長いものだった
なぜなら医療費など鹿島区では一年もみたないくらいで打ち切られたからである。
これも早かったと思う,高速も無料にならなかった
これも大きな差別だったと思う
それは30キロで区切ったから政府の責任だったともなる
それでここだけではない都路辺りでも30キロで分けられたからそこで補償金で争いになったのである。
だから政府が悪いといえばそうである。

ただなんというか原町でも小高でももらうのは当然でありそのことで文句は言うなとなっていた,そのことを言えば険悪なものとなる
でも鹿島とかで商売したり関係がある,それでなにかしら考慮していいとも思った
ただ一人あった真野川でシジミをとっていたばあちゃんはしきりに鹿島の人はかわいそうだと同情していたのである。
真野川までシジミとりにきていた,真野川は鹿島区に入るから勝手にシジミとっていいのかとも思った,ただその時は震災後まもなくであり何か管理するものがいなくなっていたのだろう
その女性は例外的な人だったろう,普通は鹿島の人が補償金で差別されたことなど考慮しているものはいないのである。

だからそのことはを言うと怒る人が多いのである。
30キロ内でもらうのは当然だということであり鹿島は30キロからはずれたのだからもらえないのはしかたがないとなっていたのである。
でも問題はそうだとしても何か鹿島の人に対して全く配慮しないし原町でも小高でももらって当然でありそれに文句言う奴は許せないとなっていたのである。
だからNHKでも飯館村の人が補償金をもらっているから相馬市のトマト栽培農家で雇わないというときそれはなんなのだと暗にそのトマト農家を批判させていたのである。

でも相馬市のトマト農家では補償金がもらえない津浪被害者を優先しただけなのである。その辺のマスコミの報道でも常に小高の原発避難者でも優遇されていた
だからなんで補償金のことで文句言うのだと怒るのである。
お前らは同じ相馬に住んでいるものなのに冷たいなとなっていたのである。
現実に毎日のようにボランティが原発避難民の仮設に来ていたからである。
すると外から来る人の方が同情してあたたかいなと思っていたのである。
そのこともあって余計に地元の人に不満だったのである。

でも地元の人でも鹿島でも自分でも苦しいことを書いてきた,病気でも介護していて苦しんでいた,でも介護でも小高の人達が優先だったのである。
だから迷惑かけたということもあったがそんなこと関係ないとなっていた
何かそうして鹿島区は除外されたし配慮されなかったのである。
何かそういう気持ちがなかった
自分たちは苦しいのだから鹿島の人達は同情して助けるべきであり補償金もらえるのも当然でありそれをとやかく言うのは許せないとなっていたのである。

小高でも原町でも今では浪江でもそうして原発避難者には何か回りの人への配慮が欠けていたのである。
自分たちは被害者でありかわいそうであり同情されるべきであり補償金もらって当然でありいくらもらっても足りないとまでなっていたのである。
それだけの被害を受けたのだから当然だとなる
でも原町区となると一旦避難したが割と早くもどった
鹿島区でも避難した人達が半分ほどいたのである。
だからそれなりに被害があったし今でも自分は水道の水は飲まないでペットボトルを飲んでいる
それを言えば相馬市でも同じである。原発避難者には常に不満を言っていたからである。現実には毎日バチンコ通いでありギャンブルだったのである。
だからそんなふうにして遊んでいるのが何でかわいそうなのかということになったのはまた当然だったのである。

確かに原町は30キロ内であり小高は避難区域になったのだから補償金をもらっても当然だったしそう政府で決めたのだからどうにもならないということはある
でも原町区のばあちゃんでも鹿島はかわいそうだとよとか配慮していた人はいたのであるだから問題は補償金問題もあるし医療費高速無料とかの問題もある
しかし最も大きな問題は鹿島であれ回りの人への配慮がなかったのである。
それでいわきでは原発避難者を排斥するいたずらなどが起きた
その時は混乱していてもう原発避難者様様になっていたからである。
原発避難者の言い分は何でも通るともなっていたからである。
それに何かを言う奴は非難されたのである,マスコミもそうしたから余計にそうなったのである。

それでも混乱していたから二三年はしょうがなかったかもしれない,でもその後7年間とか同じ状態だったのである。
やっと回りの人に配慮して仮設を出るときモチを配ったというのはよかった
それがたいしたものでくてもそういうことを配慮できるようになったと思ったからだ
鹿島にも金をよこせといわないにしろ何かしら配慮が必要だったのである。
同じ南相馬市民としての配慮が必要だった
そういう気持ちが全くなかったということが問題だったのである。
少しでも原町区の人とか小高でも鹿島の人には補償金などで申し訳ないことです
何かそうした気持ちが少しでもあれば良かったのである。
そういう気持ちが全くなかったことが問題だったのである。

また鹿島の人でもそれを押しつけることは出来ない
だから表立って言う人はいなかった,でも不満が鬱積していたのである。
やはり人間は気持ちが大事でありそれが争いの元になる
他者への配慮がないと人間関係はうまくいかない
これは行政にも問題があった
なぜ鹿島区の議員が仮設の小高の人を応援して選挙の時回って歩いていたのか?
南相馬市だからそうなったが鹿島区の人達の不満をないがしろにしていたのである。
ともかくこれも南相馬市として合併したからこそ生じた問題でもあった
同じ南相馬市民じゃないかとなり協力せねばならないとなっているのだからそうなったのである。

posted by 老鶯 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2018年06月03日

人間は誰のために働いているのか? (自分のため,家族のため,会社のため,地域のため、国のため・・・)


人間は誰のために働いているのか?

(自分のため,家族のため,会社のため,地域のため、国のため・・・)

人間が働くということはそもそもただ金をもらうためのなのか?
月給をもらうためなのか?それが前提条件としてある
でもどこで働くにしても自分のためであり家族があれば家族のためであり会社があれば会社のためである。
そこから地域のためとか故郷のためとか国のためとかまではならない
ただ戦前はみんな国のために働いたのである。
そうでなければいくら強制されたとして3百万人も死ぬということはありえないのである

地銀を例にとればまず自分のために働く,月給もらうから働く,地銀をもうけさせるために働く,それで今利子がつないから客をもうけさせるために投資信託などをすすめるようになった
それにはノルマを課せられている,自分がノルマを果たして成績をあげれば会社で評価される
まずそのことが第一となり客にもうけさせるよりノルマを果たして自分が成績をあげる,会社を地銀をもうけさせる
それでリーマンショクの前からもっていた株を上がっているのに投資信託に回した
それはノルマを果たすのと勤めている地銀をもうけさせるためである。
今地銀は苦しいからである。
でも地銀の役割としては地銀とあるごとくその地に根付いて会社を育成するとかその地域に金融で役立つ地域のためにとかも働く一番の要因としてあった
証券会社とは違うものとして地銀は成り立っていたのである。
地銀でも会社そのものが共同体にもなっている,だからこそ企業戦士として高度成長時代はあった,命をかけても会社に尽くすのである。それは家族と同じだったのである。


働くというとき江戸時代の棒振りで商売している人さえ国のために働くという意識があった,江戸時代なら藩のために働くということである。
地域と密接に結びついて働いていたとなる
なぜなら会社というものがその時はないからである。
・・・屋という屋号をもつものが会社であり丁稚奉公として働いていた
そこでも自分のために屋号をもつもののために地域のために働いていたし家族のためにも働いていた
働くということはだからその範囲は実際は広いのである。

駅でもボランティアしていると駅は街の人のためにまだ案内がある,それから外から来る人の案内があると外から来る人は全国の人だとなると大げさになれば全国の人のために働いているとなる
それは自分のためであり地域のためであり全国の人のためだともなる
働くとはたいがいそういうものであり自分のためにだけ働くのだと言っても実際は働くというとき広い範囲に波及しているのである。
ただ複雑な社会でありあまりにも広いグローバル社会になると意識できないのである。
グローバル社会になれば世界のために働いているということにもなる
働くということはなんらかの共同性があり共同を追及している

例えばバナナを日本に売るとしたらバナナを作ったり売ったりしている人は日本人のためにも働いているとなる
バナナを食べられるのはバナナを作ってとって運送してくれる人がいるからである。
バナナは自動的にとれたりしないのである。バナナをとる経験した若者は苦労があったとするときバナナをとるにも苦労しているのである。
それはあらゆる世界から入ってくる食料に言えることなのである。
でもそこでバナナを作りとる人が日本人のために働いているとは意識していない
ただバナナを売って金にしたい,その金で買いたいものがあるから売っているとなる
日本人のためだとか思わない,第一日本人がいたとしてそういう人とは直接会わないからである。
私の作ったバナナを苦労してとって送った、その人が喜んで食べている役にたってうれしいとかならないのである。
身近に住んでいる人ならそうなっていたが国も違えば遠いしそうはならない

でもバナナは自動的にそこにあるように思える,そして金を出せば買える,そこにそれを作ったりとったり運送したりする人を意識しないのである。
ただ物としてあるだけなのである
狭い市場だったら何か売るにしてもその物を作る苦労を語ったり買うものと売るものの話があった,それが現代では一切ない,ただ金でやりとりするだけなのである。

つまり物と心が分離している経済でありマルクスは疎外としてそのことを言った
日本人は物と心は一体化して考えていた,物はものごごろとかものがつくとか物と心は分離していないのである。
薬でも看護師さんからこの薬は良く効きますよ飲んでくださいとすすめられる,その時感情をこめてすすめられる,どうぞこの薬を飲んで良くなってくださいねとか女性の看護師に言われると何か直るような気分になる,つまり薬に何か人間の気持ち心が願いがのりうつるのである。物に心が憑くのである。
その時薬はただの薬ではない,人の心が願いとかが愛とかでもついたものとなる
母親が子供に出す料理はスーパーで売っている惣菜とは違い母親の愛情がこもっているから心がついているから違ったものなのである。
バナナにしても単なる食料ではない,物ではない,そこにそれを作る人や収穫する人や運送する人がいてようやく食べれるものなのである。
それを意識して食べている人はいない,金があれば食べれるではないか?
問題は金なのだとなる,完全にその時金しか念頭にないのである。
またそうならざるえなくなったのが現代の経済だとなる

ただ物を売るときただ物を売るというのではない,そこに心をこめて売るということがある、その人のために思って売るとういことがある
ただ物を売るとういのではなくこの品物は食品の効能がありそれに心を込めて売る
そこで人の手を介在して渡すとき物に心がつくとなる
胃が悪くて朝鮮人参の飲み物を買うとき薬屋の人が血流を良くするという一語で何か効くように思えたのも不思議である。それはただ効くというだけではない科学的裏付けあって言っていたからである。今は科学的裏付けの方が信用されるのである。
昔はそうではなくただ法印とかに頼み祈ることに効用があるとさたのである。

それで営業力が試されるとなる,何かヤクルトなどの販売はそうして物だけを売るのではなく手渡して売ることによって物を人間味あるものにしているのである。
だから何でも自動化することコンビニすら人がいなくなるということでそれで本当に物が売れるのか?そこに人間が非効率でも人間味ある社会を望みそんなこと嫌だとなる
多少高くても人間味があるのがいいともなるかもしれない
つまりAIとか自動化機械化が人間社会では万能ではないのである。

人間とは常に日常のありふれたことでもささいなことでも考える哲学する
それが人間の人間たる所以なのである。
そんなことを考えるより金になることを考えればいいのだともなるのが普通である。
この社会であれ自然であり考えるのは人間だけである
動物でも植物でも地球にあるものでも自ら考えるものはない
人間だけが考えるのでありだから考える葦だとい言われた
ではなぜ人間は考えるのか?

なぜ働くのか?

毎日人は働いている,だからこそ働くということが一番の関心事になる
自分は若いとき流れ作業とか工事現場でしか働けなかった
だからその時働くということは考えない,ただ日々の糊口を得るためだけに働いていたのである。
奇妙なのはその後働いていない,でも働くというどういうことを考え続けてきたのである働かない人間は働くことを考えつづけるのも奇妙だとなる
でもそういう矛盾は人間に常にある
マルクスも別に働いていない,ただ大英図書館に通って本を読んで調べていただけだとなる

人間は働くということを考えるとき働くことに意味と意義とか価値を見いだしたいのである。そんなこと金によって決まるじゃないか,金をもらえばいい,多くもらえる人はそれだけ価値あることをしている,それだけだよともなる
でも本当にそれだけで人間は納得するのか?
人間は根本的に誰でも哲学者なのである。
金をもらえればいいしそれで食べられればいいあとは何も考えないとはならない
確かに肉体労働者でもそういう人は多数である。
そんなことを考えているのは実は暇人であり働かない人だともなる
学者は実際の現実の場で働かない人である。働くことを分析している人だからである。

人間は何するにしても意味と意義と価値を求める,それは別に金をもらえば価値あることをしているとなる
でも金をもらえなくても価値あること意味あることをしている人はいるのである。
遊ぶということも実は意味があり価値があるのが人間である。
第一いろいろな娯楽があるけどアニメであり映画であれゲームであれ仮想現実で遊んでいる人に莫大な金が使われている,遊びを提供してもうかっているのが現代である。
それが金になっているから遊びも価値あるとなる
でもこの世に金にならなくても価値あるものはいくらでもある。
価値は多様だし無数にあるといっていい,何が価値あるのか?
それは人によって数限りなくあるからだ
これだけの本が出ているとういことそれはみんな自分の価値を認めてもらいたいということである。
プログでもインターネットでも何かを発表しているのは自分の価値を認めてもらいたいからなのだ
金になるならない前に価値を認めてもらいたいのである。

土地も本来の価値、その土地の持つ属性が削ぎ落とされ、地価という価値でしか評価されなくなる。しかし、土地の価値は、その土地の利用価値で決まる物なのである。
 例えば、海に近い土地とか、よく肥えた土地とか、思いでのある土地とか、由緒正しい土地だとか、歴史のある土地とかである。土地は利用目的によって様々な形を持っている

 このように価値は多様なのである。それがすべて価格で金で判断されることが社会をゆがめているのである。このサイトではそのことを追及している
だからベーシックインカムが必要になる,その時本当に価値あるものを追及する人が出てくることは確かである。金だけで使われない価値を追及するのである。
ただ実際にこれが実行したらまた様々な問題が生まれてとりやめになるかもしれない
それでもなにか現代の金だけの経済を見直すことにはなる


















posted by 老鶯 at 09:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

夏の俳句十句(深野から大原から橲原(じさばら)へ)


夏の俳句十句(深野から大原から橲原(じさばら)へ)

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この尖る(とがる)岩が真ん中にあるのは庭作りの基本としてある
その横に石を置くのもそうである。
この庭も良く作られている,でも金がかかったろうなと思う

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夏雲雀鳴きあいロードに朝走る

朝走るロードにとばす夏燕

墓写す植田やここは長野かな

牧に馬真近に迫る夏の山

牧に草夏の小花や馬のいる

岩尖り夏日のさして庭の成る

草深くユッサの湯や夏あざみ

大原に知る人眠る夏木立

山の道車もまれに木蔭かな

清流に滝のひびきてホトトギス

若竹のたちまち伸びぬホトトギス

夏菊の明るさ広がり走り去る


もの静かアイリスを囲み夏菊の白さの映えて今日も暮れにき


原町の新田川の橋を渡り深野の方へ向かった,途中きれいな花畑があった,そこで写真にとった,あそこではいつも花が咲く
今回はロードで走った,やはり自転車はロードが最高なのである。
自転車が本当に好きな人は風をきって風にのって走るロードなのである。
ただロードは疲れることもある,でも何か今回買った自転車は買い物用であり手軽で小回りは聞くのだが自転車の醍醐味はロードにある
走り心地が全然違うからである。
でも別にどんな自転車であれ自分の場合は景色を楽しむということを優先しているからいいとはなる

長野と深野の境はわかりにくい,小学校は石神小学校なのである。
墓が田の中にあったり稲穂の中にあるのが田舎の典型的な風景なのだ
それは先祖が田の中に稲穂の中にいるという感じになる
先祖と結びついて代々の墓がある
ただ原発事故でそれが一時なくなったのである。
つまりそうして綿々とつづいてきた生業が原発事故によって断たれたのである。
今もまだそうして原野化しているところが結構あるからだ

ただそれはもともと後継ぐものがいなくてなっていて原発事故を契機にやめた人が多いのである
近くの小さな畑で野菜を作っている人を知っているがその隣の畑は今や草茫々である
やっと老人が車にのせられて這いながらやっていたのである。
しかし遂に力尽きたのである。
その結果草が生えて広がってくるから困るのである。
また回りが荒地化しているのも困るのである。
畑でもこうして跡継ぎがいないやる人がいなくなっているのだ
それが原発事故を契機に余計に増えたのである。

深野(ふこうの)のユッサは休むのにいい,食事もできるからだ
あそこの問題は庭が貧弱なのである。
個人の庭を紹介したがいい庭が結構多いのである。
自分は庭を見て歩いている,庭は個性があるから面白いのである。
ユッサの湯ならもっといい庭を作ってもらいたい
最近自分は旅館でもいい庭があるところに泊まりたいなと思うことがある
でもそういう旅館は相当に宿泊費が高くなる老舗の旅館だとなる
庭は京都では庭を見ることになるがやはり日本の文化なのである。

それから大原に回った,そこには南相馬市立病院で同じ部屋にいた農家の人と知りあったあの時病院の窓から大原の方が見えていつも大原のことをその人は話していたのである。そして死んでしまったのである。
今は長男は役所に勤め家は空家になっているのである。
その家は古い家である,なぜなら前田という地名の所に住んでいるからだ
前田とは草分けの農家が住んだ所なのである。

この辺は牧場がある,野馬追いのために馬を飼っているから馬を見れるのである。
これはこの辺の独特の風景である。
写真で失敗したのは背景として夏の山をとれば良かったなと思う
写真は意外にむずかしい、簡単なようでとういうふうに一枚の写真に納めるから構図をとるかむずかしい,ただ忙しいから写真をどうとるか考えられないのである。
ただ旅ではないから次は違った角度からとってみようとはなる

大原から橲原(じさばら)へ行く道は車がほとんど通らない,なぜあそこに道を作ったのかわからない,田舎では前から道が必要だから作っているより公共事業として業者に仕事を与えるということが多かったのである。
それで飯館村の大倉を超えた所は小川が流れ森に覆われた神秘的な場所だったが
道にしてその神秘的な自然は壊されたのである。
ただあそこは七曲がりの道で車では不便だから舗装の道にしたのである。

橲原(じさばら)では児童滝のところでホトトギスは身近に鋭く鳴いた
夏らしい,何か家にいて熱中症のようになった
外に出ないのになった,でも外で昨日も今日も自転車で走り汗をかいた
汗をかくと体温調節ができる,だから暑いからと家に籠もっているのも良くないと思った自分はとにかく家にそんなにじっとしていられない性格なのである。
ただ真夏は無理である,今はなんとか行ける

ともかく花も夏らしい花で一杯だし気持ちよく走り汗をかいた
今は写真の時代だから俳句にしても写真がないと映えないのである。
世界中で写真が無数にとられている時代でありインターネットで見れる時代なのである。

2018年06月04日

素人並だった銀行の投資の営業 (投資信託は買うな!)


素人並だった銀行の投資の営業

(投資信託は買うな!)

東邦銀行でもボーナスねらいで投資信託を街頭ですすめていた
東邦銀行は福島県では一番大きい銀行である。
県で一つしか残るとしたら東邦銀行である
近くの人が東邦銀行に孫が入ったと自慢していた
そもそも地方では銀行はエリートが入る公務員よにう見ていたのである。
でも銀行は今や窮地にたたされている

アメリカでは預金量10億ドル以下のコミュニティ銀行が95%を占め、活躍しています。小規模だからこそできるこまやかな地域サービス。その生命線は地元での中小企業融資です。政策的にも重視されており、CRA(地域再投資法)を支える要となっています。(2月5日、3月15日)

 「銀行は国民に奉仕し、預金者保護、信用秩序を守り、適切な資金を配分して地域の中小企業、商店などと密接な関係を保ってこそ信頼が得られるもの」

 地域経済破壊する早期処理 地銀・信金重視して
金融アセスメント法の制定こそ

ここのサイトは詳しくシリーズで地銀や信金の問題を書いている

銀行員が金融商品を扱う際、顧客目線ではなく販売員目線もしくは手数料重視といった考えが根底にあるということは往々にしてありえます。


地銀と大手銀行の成り立ちは違ったものである。だから意外なのはアメリカなら常に大手銀行がありその銀行が世界を支配しているなどの陰謀論で常に言われるがコミュニティ銀行が95%を占めているというのは意外である。
とすると銀行の原点はそうしたコミニュティ銀行なのである。
日本では江戸時代の頼母子講でありそれとにている
コミニュティ銀行とは日本の地銀だったのである。

今でもこれまでは地銀は地元の中小企業を相手の金融だから福島銀行で取り次ぎ騒ぎがあり金融庁から指導されたとき福島銀行は必要だと地元の経済界からの応援があったことでもわかる
福島銀行と大東銀行が合併するとか言われるときもこの二つの銀行は全国レベルでも最下位の銀行になっていた
でもこうした弱小銀行が合併しても力にはならないという指摘がある


彼らは、目の前のお客様がその投資信託によって利益を得なくても、その投資信託を売った時点でノルマを達成し、銀行の利益に貢献することになるため、往々にして“売る”ことに重点を置いてしまいがちなのです。

これは本当である。

なぜ株が上がっていたのに投資信託に回したのか?それはこのことがぴったりだったからである。
その時自分は銀行は金融のプロだから株や投資のことは知っていると思ってまかせたのである。
銀行を医者のように見ていたのである。医者は専門知識があって病気の相談にのる
だからまかせるのである。もし信用できなかったら命にかかわるからまかせないのである金だって今や金は命までなっているか簡単にそんな素人並の知識も経験もないところにまかせないのである。

銀行は証券会社と大手銀行とはそもそもその成り立ちからして違っている
地元中心の金融であり金を都合して地元の発展を金融面で支える役割だったのである。
ただ地元の地方の経済が疲弊して倒産件数が増えて貸し付けてももうからなくなった
高度成長時代は利子が7パーセンの時代があったのだ利子だけでも生活できるような状態だったのである。
だから退職金一千万でも二千万の価値があった,今一千万あってもない,目減りしてゆくのである。
それで投資に回させるのが銀行なのである。そこで失敗する人が多いのである。
まず投資というのは特に投資信託は複雑すぎてわかりにくい,そして毎月配当されるということも何か売る方にとってうまくできているのである。
それも元金から引かれていたりするのが普通であり目減りしているのである。
そして手数料が大きい,まるで手数料をとるための商品に見える

いづれにしろ銀行は今や存続が問われている,でも不思議なのはアメリカの銀行の95パーセンということはそれだけ実は日本で言えば地銀の役割が大きかったとなる
アメリカは大きい国だからそうなったのか?グローバル経済で支配する銀行がアメリカだと思っていたからである。
アメリカにはもともと本当に小さな街のミニコミの新聞があったりして地域に根ざすものがあった,それはアメリカは州単位の政治になっているのは広いからである。
それで報道でも地域中心のものがあったとなる

ともかくこうして銀行は今窮地にたたされその存続すら問われている
そうなるとあこぎなこともする,なりふりかまわなくなる
東邦銀行が街頭で投資信託をすすめのもそのためである。
ただ地銀の強みは一軒一軒営業して信頼を築いてきたことである。
その信頼を逆手にとって投資信託など銀行にとって都合のいい確実にもうける商品を売り込む
だから銀行はもう信用できないとなる
そして地銀などは全く投資に関しての知識が素人並だったのである。
ただ投資信託がノルマを課せられているからすすめているだけだったのである。
投資信託でも何百種類もあり実際にもうけている人は知らない商品だというのも不思議である。
たいがいオリンピックでももうかるからとか今はやりのAIやロボット関係の商品をすすめる,それはわかりやすいから客に理解されやすいからすすめる

でもほんとうにうかる商品は知らないものであり目立たないものだとうときそういう商品を説明することはむずかしいからなのかとなる
それだけ投資というのは複雑であり知識が必要だから素人は簡単に手をだすべきではなかったとなる
ただ株は上がったり下がったりするから仕組みがわかりやすい
それでリーマンショクのとき半分になった株が最近元にもどりさらに上がったのでそのままにしていれば相当な利益になっていた
だから株の方がリスクがあるが下がったとき買って上がった時売ればいいというだけだからわかりやすいのである。
そういうリスクを承知でやれば別にいいとなる

投資信託はまず仕組みからして複雑でありどこでもうかっているのかもうからなのかわからない
そして銀行の営業担当自体が投資信託のことすら知らなかった!
どれくらいもうけて損したのかという報告すらできていなかったのである。
その営業担当にも問題があったとなる,結局営業自体が成功する人としない人がいるとなるがそれだけ営業というのはむずかしいとなる
押しの強いだけではまず営業はできない,商品知識があり顧客第一にしてすすめる
でも銀行側では上司が投資信託をすすめるから営業担当でも顧客側の要求は無視するのである。
投資信託は最初からそういう商品なのだから買うなとなる


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岩沼-仙台間で車両事故で約一時間ほど遅れる


岩沼-仙台間で車両事故で約一時間ほど遅れる

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12時半から一時半頃まで車両事故があり遅れた、それで一時間ばかり駅にいたが今日は忙しかたっ,最近はあまり駅ですることがなかったが今日は忙しかった
東北電力に仕事で来ていた人がいた,なんでも原町駅に行くのが時間をみて鹿島駅に来たという,その人は仙台から新幹線で帰る
そこでなかなか電車が来ないので困っていた

48遅れと出ていたがそれ以上遅れないのかインターホンで原町の駅員に聞いた
そして電車が鹿島駅に来る時間を教えた,だいたい48分遅れで正確だった
12字20分で来ると連絡してきたので乗る人に教えた
四五人乗る人がいたからだ

それで上りの原町行きは48分遅れと出ていたが下りの仙台行きも遅れる時間が伸びていたそれは原町行きの上りの電車が原町駅に来てから折り返しで来るから遅れた
すでに遅れた原町行きの電車は鹿島駅を出発して原町に行ったが
次の電車がまた鹿島駅に来てとまった,それがなかなか発車しなかった
それはここで原町駅の電車が来るのを待って発車するためだったのである。
その時電子の自動掲示板を見たがゲームのように動く車両マークが原町駅に出なかった動くこともなかった
つまり全自動化していてもすべてコンピュターで対応できず表示できなかったのである。
何でも今はAI化機械化自動化しようとしているがこうして緊急の時に困る
ただ便利なのはスマホには随時リアルタイムで遅れの連絡が出てくるのである。
だからすでに遅れることを知っていた人がいたのである。
あれは便利だと思う,でもスマホをもっていない人もいる
スイカとももっていない人がいるから困る、まだまだ切符を使っているからだ
それで急いでいた人が乗車証明書をとらないで乗った
その時自分はインターホンで原町駅の人にそのことを連絡したのである。

最近あまり駅では仕事がないがこうしたとき仕事がある
前は良く風で遅れていてその時いろいろ案内があった
急いでいる人は原町までタクシーで行ったりした
仕事の人がいてそういう人は時間で間にわなくなると困るからだ
つまり何でも自動化機械してもすべてに対応は不可能である。
そこに人間がいないと対応できないことがある

今日はその他農協に行く人を案内した,その人は車で来ていたのである。
鹿島には道の駅がないので車で駅に良く来るのである。
だから駅は駅だけのことではない鹿島区の全体にかかわっているのだ
今日は結構乗り下りする人がいた
一昨日は乗車証明書を知らない人がまだ二人もいた
たいだいもう地元だと知っているはずだがその二人は知らなかったのである。

故障というときこの前は信号の故障があった、今回は車両の故障と出ていた
鉄道はそうした故障も意外と多いのかとなる
それだけ車とバスとかより鉄道の安全走行維持はめんどうなのである。
電気系統がめんどうなのである。
だから信号の管理とか何か新しい小屋が建てられた
ホームの電線が入っている所を工事するとも言っていた

今日はめずらしく忙しい一時間だった
自分はせいぜい一時間くらいしかいない,でも毎日買い物とかの帰りとか必ず寄っていることは寄っているのである。
タグ:車両の故障

2018年06月05日

働くことには誇りが必要 (モチベーションが上がらないと働けない)


働くことには誇りが必要

(モチベーションが上がらないと働けない)

働くことにはいろいろな要素がある,一番は当面の生活するために金が必要だから金のために働くのが普通である。
金になれば資本主義社会では別にどうしてもうけようと評価される
和歌山のドンファンの人はただ女性のために働いていた
金があるところに女性もよってくるからである。
でもそこで働く従業員もいた,その人たちは社長がそうして働くときそれが従業員のモチベーションになるのだろうか?
それはただ金だけが目的の会社になってしまう
そういう会社で働く人はどういう気持ちで働くのかとなる

働くとき誇りが必要だというとき人間にはプライドがある,それが人間の存在意義にまでなっている
なぜなら家族が認知症になってそのことが痛いほどわかったからである。
ただ自分の家族の場合,特別プライドが高かった
だから認知症になっても決して馬鹿になったとは思わないし馬鹿として扱うこともできない,馬鹿にすると怒るし暴力にもなるのだ
それだけプライドをもちつづけていたのである。
それは死ぬまでそうだった,最後は自分は優秀だったと言って死んだのである。
自分の家族の場合は特殊かもしれんがそれだけ人間はプライドは最後までもっている
だから認知症になってもそうだからもし社長だった人なら演技しても社長として持ち上げる必要が治療になるのである。
その時気分を良くしてくれるからである。すると症状も治まるからである

人間がプライドをもつというとき職種によっても違ってくる
自分は若いとき流れ作業しかしていないからそこでこれが人間のする仕事なのか?
これはロボットと全く変わりないということでそれ以後自分は一切仕事がする気がなくなったのである。
だから自分は会社員にもならないし仕事したことがない
そういう自分が働くことをどうのこうのというのも矛盾しているのである。
ただ普通人間は日々働いているからどうしても働くことを考えざるを得ないのである。

働くことに誇りがもていなというとき職種で相当違ってくる
コンビニとかスーパーのレジとか掃除とか無数の職種がある
ではその仕事に誇りをもてるのか?
そんなものやがてAI化して人はいらなくなるとかしきりにいう
ところが人間は働かなくてもいいとなっても誇りはプライドをもつことで生きがいになるそういうものがもてないとき人間はどうなるのか?
それは今のニートとか無職がどれだけ社会から批判の的になっているかを知ればいい
「働かざるもの食うべからず」なのである。

その点医者とか看護師とか技術者とか他でもそういう社会から認められ誇りをもてる職種はいい,社会から認められて尊敬されているからである。
それはもう過剰なほど尊敬されているからである。
だから優秀な人間が医者を目指すというのもわかる
ただ誇りというときこれは職種だとすると専門家のことであり外国ではあなたのプロフェショナルは何ですか?と聞かれる
専門職が何かでその人を見ている
でも日本では会社でその人をみる,どういう会社に所属しているかで人をみる
その人が何のプロフェショナルなのかを必ずしも見ていない
だから大企業に属しているだけでその人は社会の評価が高くなるのである。

でも地銀などを苦しくなり投資信託とかを売るようになった
でもその投資信託を売る銀行員は全く証券とか投資のプロフェショナルではなかった
本当に素人並であり適当にすすめているだけである。
素人でも分散投資とかの理屈はわかる
でも株が上がっていたのに売ったりして投資信託に回した
それはただ銀行側で投資信託がもうかるからである。それしか理由がないのである。
本当の証券とか投資のプロフェショナルは普通の人は知ることもできないものなのだろう
だから仕事というとき会社に所属してしているのとプロフェショナルとして見る仕事がある
医者でも大きな病院に所属していようがテレビドラマで見たが特別天才的に優れた医者がいて若いけど手術がうまいのでその人は横柄でも上の人でも頼り文句が言えないのである医者でも伎倆がすぐさているとまさにプロフェショナルであり有名な大きな病院に所属しているよりその伎倆の高い医者がいるからその病院の評価があがる
それは南相馬市立病院で脳外科が脳出血とか脳梗塞の専門病棟ができた
それは手術がうまい先生がいてそれでそこに習いにくる若い医者が集まるという
そうして優秀な医者がいるから病院の評価も高まっているのである。
そういう先生の下で働くことに誇りをもつということがある

誇りというときいろいろある,故郷を誇りに持とうというとき,何が誇りになるのか?
相馬地域だと野馬追いが有名だからそこに誇りをもつとなる
これは伝統があり誇りをもてるし祭りは故郷の誇りになる
でも今故郷に誇りをもつというとき何を誇りにするのか?
目立った自然があれば高い山でも川でもそうだが自然が誇りになることはある
自然は多様だからその地域地域の特性があり誇りをもつとなる
自分の場合は故郷の歴史とか自然環境を基にして詩を作ったりしているから故郷の誇りをそこに求めているともなる
自然がないところには真善美もないからである。
東京は経済的には富が集中しているがそこに人間として誇りをもてるのか?
ただ田舎ではそうして自然の美より経済的なものが優先するから誇りにしない人も多い
農業でも金にならないからと跡継ぎもいないのである。

だから原発事故があったけど事故の前は東電の社員は地域のエリートだったし技術者は誇りをもっていたのである。
そして地元でも東電で働いていた人が多いから東電に働いて家を建てたとか家族を養ったとかあり誇りをもっていたのである。
でもその誇りも事故で打ち砕かれたのである。でも事故後もあまり東電を批判できないんだよなというときそこで誇りをもって働いていたからだとなる
そこで収入を得ていたからだとなる

人間にとって誇りの問題は大きな問題である。それで人間は経済的動機より誇りをプライドが優先して歴史を動かしてきた,人間の根本的動機がプライドにあるとまでみて歴史を解説した本も出ている
だから会社であれ国家であれ故郷であれそこに所属している人は誇りをもちプライドのために死ぬともなる,国と国の争いは人間のプライドをかけた争いであり経済的要因ではないとしている
戦争に負けることは国が隷属状態になりプライドを失うことだからである。
日本はアメリカに負けてそうなったからである。
アメリカは世界で一番であることにこだわるのはプライドがそれだけ一番高いからそうなっているのである。

では銀行のように今までのようにプライドがもてるのか?
何かプライドがもてる仕事をしているのか,それは他でもそうである。
大学でも一流大学だとプライドがそれだけでもてる
でも別にやはりいろんな人がいるから一流大学でもだめな人はだめなのである。
外国ではプロフェショナルに誇りをもっている
大学でも外国ではそこで何を学んだかを重点にしている
いくら大企業でも一流大学でもそれですべての評価とはならないのである。

歴史の終わり(フランシスフクヤマ)では人間を気概からみている
経済的動機ではなく気概があって人間は動く,民族主義は気概があって他の国との戦争になる,気概が動機であり必ずしも経済が動機ではないと言っている
それだけ気概とか誇りが人間にとって大きな意味をもっているのである。





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大原と橲原(じさばら)を結ぶ道 (森の中の道で車が通らないのでいい-無意識に成長する木(詩)


大原と橲原(じさばら)を結ぶ道

(森の中の道で車が通らないのでいい-無意識に成長する木(詩)

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この道はほとんど車が通らない,田舎ではこういう道はどこでもある
でもあそこは特別通らない,なぜあそこに道を作ったのか?
別に橲原(じさばら)でも小池は近いし道はある
ここを通るのは車ではまれである。

木蔭にずっと休んでいたけどほとんど車が通らないから気持ちが良かった
車が通らないことは癒しになる,今はどこだって車が通る
あそこは車は本当に通らない
そこに森がおおっていて静まり癒しになる
車が通らない道というのは今になると不思議である。
車が通る道で暮らしているからそれが当たり前となってしまっているからだ

だから車が通らない道がもともと当たり前だったのだがそのことがわからなくなっているそれは道が歩いていたのが歩かなくなったのと同じなのである。
あそこは贅沢な道である,何か仕事とかで車もほとんど通らない
ただ残念なのは一部森の中の木がかなり切られていた
そこは土がむきだしになって嫌だった
何かこの辺は原発事故以後そうした土がとられてむき出しになっているところが多いのである。
自分は異常にそうした景観を気にする,音もうるさいのが嫌なのである。
だから自分は現代的環境に向いていないのだ
自分は介護とかで消耗したし年になって余計にそうなり人ごみの中に行きたくなくなったそれで仙台にすら去年は一回しか行っていない

この辺は高い山とかはないからものたりないが森は結構ある,飯館は70パーセント森だからここからも森がつづいている,その森が癒しになる
そして例えば橲原(じさばら)の入り口に立目石がある
それは変わらずある,その変わらないことが今や貴重なのである。
なぜなら右田の松原ですらなくなった,あまりにも変わりすぎたのである。
それは一身上でも家族がみんな死んだとかともり変化が激しすぎて消耗したのである。
だから変わらないでくれ,そこに変わらないものがいつまでもあってくれとなる
それは老人になるとそうなりやすい,変わりることが嫌だし対応できないのである。
若いときは常に変わっていた方が良かったのである。
老人になると変わることに耐えられなくなるのだ

もともと自然は変わらないの普通である。でも自然でも津浪で松原が喪失したとか変わるあとは工事で変わる,飯館村の大倉の坂を越えた所の小川はなくなった
とぎれどきれになた森が切られて道になったからである。
こうして自然も実は喪失したり変化するのである。
ただ自然でももしこの道が森のままだったらこの森を意識しないということがあった
ここに道ができてここに森があったということを意識するようになったからだ
だからこの道は自分にとってはいい道だったと思う,贅沢な道である。
ただ経済的効果からするとただ公共事業としての効果だったのかとなる
田舎では実際に道を作りすぎていたからである。
それは必要というより業者にとって仕事のために必要だったのである。


無意識に成長する木

車の通らない道
車の通らない道
深く影なして
涼しい風が通ってゆく
深い森に木がゆっくりと成長する
大地に根を張り成長する
栄養は尽きることがない
そんな心配をする必要がない
木は確実に時間の中に成長する
一分刻みの時間ではない
一年十年単位の時間である
木はそこにあっても意識しない
でも木は自ら成長する
深い森の中に音もなくゆっくりと
あらゆるものにせかされる
尽きない不満がおおっている
森に成長する木は何の不満もない
大いなる沈黙の中に
無意識に音もなく成長してゆく

自然は常に沈黙している,だから自然に同化するには沈黙が必要である。
自分は特殊な立場で禅僧のように沈黙する一面つづけてきた
そんなことができたのはつくづく環境に恵まれたのである。
自分は学校もそうだが会社勤めでもできない性質だった
体質的にもそうだった,何か規則通りにできない体なのである。
だから一番嫌だったのは学校だった
大学は授業に出なくてもいいから自分にとってはいものだった
その後自分は仕事もせず遂に老人になったのである。
これは恵まれた家庭環境があり自然とそうなっていたのである。

自然は人間のように意識をもたない,無意識なのである
これも不思議だと思う,人間は意識の塊りである。
常に意識して生きている,その意識することに疲れるのである。
自然は木でも岩でも森全体でも地球全体でも自ら意識することはない
それで苦しむということがないともなる
植物が苦しむということはないからである。
動物になると苦しむが植物や木や石でも何か意識しない
その無意識なるが故に無苦痛であり何か不安もない
人間は常に不安にさいなまさているのだ
それは常に何かを意識するからである。

ただ人間は意識するから生きている
意識がなくなることが実は死だったのである。
家族でも意識しているときは相手が誰かを知っている時は意識しているときは生きているその意識がなくなると死になるのである。
ただ人間は意識することで苦しむのである。
自然は無意識の世界だから癒される
あそこの道はそういう点で心を休めるのにはいい道である。
それが山の奥の方でなく近くにあるからいいのである。
結構あそこは森が深い場所だったのである。


木々の道、リスル=アダンの森
画家 : テオドール・ルソー

riverfffttt122.jpg

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この絵も大陸的である。大きな川が流れていて牛が水を飲んでいる
こういう光景は日本にはない,川が大きく広い
日本にはこうした大きな川がないのである。

ここのサイトは絵を紹介している,インターネットとはこうしてリンクして読むのが効果的なのである。
自分の関心からリンクして読む,「森の道」として画像検索してここのサイトを発見したからである。




2018年06月06日

NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感 (マスコミの報道は一方的洗脳報道)


NHKのフェイクニュースの技(武田邦彦)に同感

(マスコミの報道は一方的洗脳報道)


週刊東洋経済%202018年5月26日号

武田邦彦氏の見識には敬服する,共感することも多い,
その見識はどこから来ているのか?
科学者として技術者として指導的な立場で現実に働いてきたことである。
自分などは底辺でしか働かないからそうした上層部のこと指導的立場にある人のことがわかならい,だからそうして上層部が指導的立場にある地位と権力をもつ人たちと現実に接しているから具体的でわかりやすいのである。
人間社会はまず底辺層とばかり接していてもわからない,上層部と指導的立場にある人と接すれば社会がどうなっているのかと具体的にわかるだろう

例えばマスコミというときこれも現代では大きな権力であり社会を左右するものなのである。だからこそマスコミについて批判は常にある
でも批判しようにも一般人は報道できないのだから報道する権利はマスコミにしかなかったのだから不満があっても何も言えなかったのである。
インターネットが生まれて普及するとマスコミが批判されるようになったのである。
その力は弱くてもそうなったことは民主主義を発展させるのには良かった
何か自分が公に発言するということを経験していないからである。
たいして影響力がないのにこうして発言することで主体的なものとして積極的に社会に参加するものとして自覚できるのである。

マスコミの影響がどれだけ大きいのか?
それは戦前でも新聞の影響が大きく朝日新聞が戦争をあおり推進させたということをしきりに言うとそうなのかなと思う
マスコミは左であり左系統の発言に洗脳されることが多かった
インターネットは逆に右に偏っているがそれは今まで右は発言を封じられた反動としてそうなっている
報道することはそれも何百万人とかに報道することはできることは大きな権力である。
それによって判断が決められるからである。
戦争中なら朝日新聞が戦争をあおれば国民も同調するのである。
それは今でも安倍政権を森友学園で執拗に批判しているのもそうである。
マスコミというときどの局も常に同じことを追及している
別なことを追及してもいいはずだがどこの局でも一色になるのもおかしいのである。

報道は明らかに大きな権力である。だからこそ権力をもっているからこそ利権と結びつきそれで利益を得る
原発事故を起きた時,中国に東電からマスコミの幹部が招待されているときだったのである。朝日新聞の幹部も招待されていたのである。
全部のマスコミが招待されていたのである。
「安全神話」は日本の神がかりの戦争はこうして政府とマスコミなど一体化して作られたものだったのである。
そして3百万人が死んだのである。朝日新聞は戦争に負けたら今度はそうして戦争に加担していたのに一転して批判する立場になったのである。

武田邦彦氏がNHKを批判するときNHKは公平に見えるがそこに巧妙な操作があるというのには同感である。
この辺で原発事故の避難者が大量に仮設に住んだ,その時前にも書いてきたが飯館村の人が相馬市のトマト農家に雇ってくれと言ったが断られたと放送した
その時知らない人は何なんだ,その農家は冷たいなと暗黙に批判させていたのである。
もちろん飯館村の人にも言い分はある,それは否定できないががトマト農家にも言い分があったのである。
相馬市で松川浦など津浪の被害が大きかった,相馬市では原発の補償金はもらっていないすると津浪の被害者の方が生活に困る人がいたからそうしただけなのである。
原発避難者は多額の補償金をもらっていたからである。
そうして原発避難者もかわいそうだと常に外からボランティアが来て励ましていたのである。その中には津浪被害者もいたのである。

何か人間の問題はもめごとでも双方の言い分を聞かないと本当のことはわからない
それで失敗したのが親戚の人で母と娘が争っていたとき母が悪いとばかり思っていた
そういうつきあい方を自分の家でもしていたからだ
ところが実は娘がとんでもない悪い人だったのである。
それも双方の言い分を聞かないし先入観がありそうなって誤解して判断を誤っていたのである。
だから何でも争いには双方の言い分があり裁判のように双方の主張を聞くべきなのであるところがマスコミの報道は常に一方的洗脳なのである。
そこで反論などは全く許されないのである。インターネットがでてその批判が出るようになったのはそのためである。
マスコミは自分たちの都合のいいように国民を洗脳する権力機関だったのである。

福島民報でも福島民友でも同じである。
地域の新聞だからマスコミでないと思っているがそうではない,福島県でも広いからである。そして福島民報は出資が県で半分出している
そうしたらとても原発でも反対することはできない,批判できないしほとんどその危険性も事実も報道していないのである。
プルサーマールについて危険について報道したとしても原発そのものについての危険性は報道しなかったのである。
プルサーマルについて佐藤栄佐久前知事が失脚したのもそのためだったともされる
東電については「財界福島」でも最初原発を批判していても二三回で全くやめた
それは東電から金が入ったからだとも言われる
福島県で東電を批判することはなかったのである。権力の圧力でできなかったのである。10メートル以上の津浪を来ると東電の科学者たちは想定していたのである。
その報道すらなかったとように思う
もしそのことを大々的に報道していたら津浪に警戒して今回のような大惨事にならなかったかもしれない,そしたら東電は地元に感謝されるようになっていたろう。
だから何か重大なことを知らせる役目が報道にある
でも知らされなければ知り得ようがないのだから危険も感じないとなるからだ

ともかく人間社会はなんでも権力によって利権によって利益優先でゆがめられてしまうのである。それはあらゆるところでそうなる
そもそも東電でも一時は高い場所に原発を建てたのに電源の設置などでコストがかかるとわざわさ高くしたのを削って低くしたのが最大の失敗だったからである。
それもコストのためだったのである。
安全を追及すると金がかかるためだったのである。

ともかく武田氏も指摘にするように利権と結びついてゆがめられる,NHKでも天下り先を確保するために老人の交通事故を大々的にとりあげて老人の運転を減らそうとしている
でも実際は交通事故が多いのは若者だとういうこと女性が多いということは言わない
交通事故は毎日のように起きている,免許をとりあげるなら若い人だとなる
若い人の保険金が高いというのもそうである。それだけ事故が起きる確率が高いからである。
そのことを知っていて公平に報道しない,そして老人が悪いから免許をとりあげるべきだという世論を形成させる,それはもともと老人が目障りでありそういう風潮があるからNHKでもそうしているとなる
だからフェクニュースだとしている

いづれにしろ利権と結びつくとき報道はゆがめられる,伝えるべきものも伝えられないのである。
東電から800億とかの金を報道機関に流していたらもう悪いことは報道できないのである

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週刊東洋経済%202018年5月26日号

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医療関係でも朝日新聞がかかわっていた,こうして利権と結びつき利益を得る
そこで公平な報道はできなくなる,ただ金儲けのために報道があるとだけなる
だから報道の中立性には公平性には利権と結びつかないことだがどうしても報道には金がかかるので今まではできなかったのである。
インターネットで多少その弊害をなくすことはできるようになった
別に今はマスコミに接しなくてもインターネットで報道でも間に合わせることができるからである。それでもう新聞がなくなるとかテレビも見なくなるとなってきたのである。

タグ:NHK マスコミ

駅の入り口のドアを軽くするために業者が来ていた (駅を維持するには金がかかる)


駅の入り口のドアを軽くするために業者が来ていた

(駅を維持するには金がかかる)

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stationdoor11.JPG

野馬追い列車が走っている,これは宣伝になるが常磐線だけだろうから目立たないだろう仙台辺りでとまると目立つ

駅のドアをまた直す,軽いものにする
錆び付いて重くなり開けるのに難儀していた
それで原町駅に連絡したら開けやすくはしたのだが
もともと重いしレールが錆び付いている古いものだから開けるのが不便だった
それで今度は軽くするというから開けやすく閉じやすくなる
ここはしょっちゅう開けたり閉めたりするから軽いのがいいのである。

ともかく鉄道というのはこうしていろいろ保守とか管理とかある
信号機のための小屋を建ててももそれなりに金がかっている
鉄道を維持するだけで金がかかることをつくづくわかった
そうなるとやはり乗客が少なければとても維持できないのである。

それで無人化することになる,それはどうにもならないとなる
つまり街の人も協力しないかぎり鉄道を維持するのはむずかしいのである。
今度市の方で駐輪場を拡大するから市もかかわっている
市でも金は出しているのである。
トイレでも市で作り掃除は障害者団体に頼んでいる
市でも金をだして鉄道を維持している
ということは市民の税金も出して維持しているともなる
車の人も来てトイレや道を聞きに来たりする
駅はそうした便宜も計っている

だから鉄道をもっと利用しないとJRでも負担が増える
でも常磐線で三倍増えたというのは仙台行きとか名取行きが工事関係者で増えたのだろうそれで収入は増えたとるなのか?
でも乗客は半分とか減っている,でも仙台まで行く人が増えると運賃が高いから収入的には変わりないとか増えることもある
新幹線では距離がみんな遠いから運賃が高くなり利益が出るとなるからだ

未だに時刻を見に来る人がいる
それで今度は時刻表を用意していたので配った
駅にはJRの許可がないと時刻表でも無料で配っても置けないと断られた
でも実は誰かが時刻表を見に来たとき自分が用意していれば配ることができるのである。もし駅員がいたりしたらできない
誰もいないから誰も管理するものもいないから何かそこでしていもJRでは確かに監視カメラで見ているとしても管理はできないのである。
だから無人駅は誰のものなのか?
利用する乗客のものでありJRだけのものではない
世の中考えてみると利用したり消費する者がいなくなるとどうなるのか?
それは不必要なものとなる,金銭的なこと金にならないかなるかもあるが
そもそも誰も利用しないということはいらないということなのだ

つまりこの世のものにあるものは利用者がいて消費するものがいて成り立つ
需要があって供給するものがいる
公共的なものは別に金にならない利益にならなくても利用者がいないと必要ないとしてやめるかもしれない,図書館とかその他の施設でも利用者がないとやめるようになる
なぜなら市で運営しているものでも実は市民が必要だから税金で運営している
もし市民が利用しないとなると税金の無駄だとなってしまうからである
ともかく駐輪場であれトイレであれ市で金を払っている
みんなの税金が使われているのである。


安楽死は是か非か? (千差万別の個々人の事情に答えられない)


安楽死は是か非か?

(千差万別の個々人の事情に答えられない)

安楽死のことをNHKで取り上げていた,その男性は安楽死を望んだのは癌になって直らないし苦しむのが嫌だからだという
その男性は29歳であり若い妻がいて子供もいた
まず安楽死というときこうしたそれぞれの家族の事情が先にある
家族の中で納得した安楽死ならいいのかもしれない
人間の死は一人だけで決められないことがある
家族がいて安楽死などいやだ少しでも長生きしてほしいという家族もある
家族とかその個人の事情がみんな違っているのである。

その家庭の事情とか個人の事情を医者とかはわかることはむずかしい
だからこそ安易に安楽死をさせないのである。
安楽死でも積極的安楽死と延命治療などをしない安楽死がある
この二つの差も大きいのである。
一般にこうして若い人が安楽死するのと老人の延命治療は違ったものである。
延命治療は苦しいしただ意識もないのに植物人間のようにされているのは悲惨だから死なせてやった方がいいともなる
それすら医者はできない,犯罪にも日本ではなる

自分の事情話すと家族の一人はひどい認知症になった介護で苦しんだこと書いてきた
もう本当に馬鹿になったのか、何もわからなくなったのかととまどい苦しんだ
ただ認知症はわけのわからない病気でありどう対処していいかわからなかった
そのことをプログで書いてきた
人間の問題は人間として意思疎通できるかできないかが大事だと思った
それで障害者を意思疎通できないと19人とかを殺害した人がいた
それだけ人間として意思疎通できないことはもう絶望的なのである。

自分も一時はそうなったのかと見た,でも何かわかったようなわからないようなことがつづいた
なぜなら看護婦だったのに病院に行って病院のことがわからないとかそんなことあるのかもう何もわからないのかと思ってショックだった
銀行に行って金も下ろすことができないとかもあった
だから一体どうなったのだろうとわけわからなくなった
でもわかったようなことを言うこともあった
そして最後にいろいろあったのだ自分の家族のことを介護した人のことをわかってくれたそれはただ首を下げてうなづいただけだったのである。
それが最後の意思疎通だったのである。
でもそれで自分は本当に救われた,何か最後に死ぬときありがとうと言う人もいる
それは介護してくれた人の苦労をわかってくれたことなのである。
そうして頭を下げてうなづいたあと意識不明になった
その時はもう死んでいたのである。

なぜならもう意思疎通できなくなっていた

この時はもう強制的に安楽死させても何ら問題なかったのである。
苦しむだけでありもう人間としての意志もなく意思疎通もないからである。
ここで医者が安楽死させても感謝されるとなっていたのである。
でもその前までは脳出血になり手術して胃ろうにもなり苦しんだ
その期間は約二年半くらいだった
そこで安楽死させていたら最後に意思疎通できずに大きな後悔となり自分も救われていなかった
だからその本人がどんなに苦しんでいても意思疎通できる限りは簡単に安楽死させることはできないと自分の事情では思った

もう一人は母であったが孫に思いがあったのか死ぬ一カ月前に金をやれとその金額まで言って死んだ
それも体全体で大きな声で言ったので本当に驚いた
そんな力があったのかと思った,寝たきりで長かったからである。
そして金のことがまるでわからなくなっていたのに金額まで指定てし命令したのには本当に驚いた,つまりこの時も死ぬ一カ月前くらいであり正気にもどったとなる

認知症は死ぬ前に正気にもどる

これは他の人も同じかもしれない,となると認知症とは痴呆になったのとも違うのだろうか?そう考えざるを得ない
生まれつきの知的障害者とは違う,苦しい人生を生き抜いた人達だからである。
だから認知症になっても正気の部分が残っていてそれが死ぬ頃になると正気になる
だから認知症の人はなにもわからない痴呆でありもう意思疎通できない人と見るのは危険だとなる
こういうことがあるから安楽死というのは他者が簡単に決められるべきものではない
ただ認知症であれ意思疎通できるなら人間は生きているのである。
意識があればまた生きている,意識がなくなったら死んでいるのである。

ただ延命治療となるとこれも判断がむずかしいが本人にとってはあまりにも苦痛であり人間の尊厳もなくなる,だから事情によっては安楽死させた方がいいとなる
ただその判断は本当にむずかしい
家族関係とかもかかわりむずかしい,家族関係はみんな違った事情があるからむずかしいのである。
別に今日放送した若い人が癌で死ぬのに安楽死させるのは悪いとはならない
家族が納得しているし家族間問題がないとするといいのかもしれないとなる
だから家族の事情や個々の事情で違ってくるしそれを医者だけでは見れない
その責任もとれないから医者はしたくないのである。

ただ延命治療には問題がありどうしても安楽死させた方がいいなとみる
でも自分の場合はそうではなかった,死ぬ一カ月前に正気にもどったとすると
それまで生き延びて最後に正気にもどってくれたとして生き延びて良かったともなる
ただこの判断は本当にむずかしい
むしろ認知症であれ悲惨だし早い時期に死んだ方が楽だったもみる
ただそうなると家族としては納得いかずに死なせてしまったとなり後悔が残る
自分は二人とも苦しかったけど納得した死に方をしてくれたので死んでも心安らかに供養できる
それは死後まで関係してくるから簡単に判断できないのである。

 

奇跡なのか、いのちの不思議に圧倒されずにはいられない。言語障害があったのに、
必死の思いで「あ・り・が・と」と口を動かし、一粒の涙を流して旅立たれた方。
そうなのだ、旅立つ人も見送る人も、最後に「ありがとう」と言い合える、
在宅医療はそういう別れができるのだ。

 

なんとめでたいご臨終


死ぬ前に若くても納得する死ならいいのかもしれないとなる
いづれにしろその判断は人を裁くなという神の教えと重なる
「悲しむ者は幸いなり」とキリストは言った
その意味を実際の経験でわかった
自分は一人介護で苦しみ泣いていた,その苦しみを知る者はいなかった
でも最後にわかってくれたなと救われた気分になった
そして神は悲しむ者が幸いなりというとき涙をぬぐってくれるという意味を知った
人間の悲しみを神は知りその涙をぬぐってくれる
そういうことが本当にあるんだなと納得した
人間は苦しみ悲しみそして何か尊いをことを人生で学ぶ
楽してばかりいたらそうしたことを学べないのである
実人生で人は学ぶのであり本を読んでも学ぶことはできないのである。
人間は悲しみを通じて悲劇を通じて学ぶのである。
幸福からは必ずしもそうした深いことは学べないのである。

地上が僕らにとって
故郷になるには
血がにじまねばならぬ
あまたの血とあまたの涙が

(ハンス・カロッサ)

この辺では津浪や原発事故で苦しんだ,でもまさにこの言葉があてはまる
故郷でもそこで安楽に暮らしていただけでは故郷とはなりえない
また家族でもそうである。家族とは必ずしも血縁とういだけではない
何かそこで血を流すような苦しいことをありそれを乗り越えたとき家族となる
そういう経験がないとしたら家族とはなりえないとなる
だから悲しむ時ま苦しむ時人間は何か尊いことを体験で学ぶ
だからこそ悲しむ者は幸いなりとキリストは言い神は涙をぬぐってくださると言ったのである。
だから逆にいつも権力や地位があり悲しむこともない人は逆に何も学ばないともなる
悲しむ者はやはり底辺層に多いからである。
この世とはそもそも安楽に過ごす場ではない,悲しみ苦しむ場として神から与えられたともなる
そうでなければ何も人間は学ばないからである。


2018年06月07日

川の抽象画(abstract pictures about river)


川の抽象画(abstract pictures about river)

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frozened river

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Changes from Scotland Quilt


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川の抽象画を変形して作ってみて自分自身が不思議である。
こんなふうに川が多様に流れているのか?
川がこんなふうに表現できるのか?
川には様々な表情がある,それが抽象画に変形して作られる
それも芸術なのか?自分は全く絵の才能がない
だから自分自身こうして抽象画で創作していることも不思議なのである。
それがアメリカで70人くらい見ているとき評価されているのか?
おそらくアメリカでコンピュターが発明されたからこういう電子空間の芸術にも関心をもっているのかもしれない,芸術としてはどうしても本物とは言えないからだ

君に幸あれ、氷のきずなは切れ,流れは君に
河岸もおののくばかり,祝いの歌をかなでる、われは青年は
酔いによろめき,流れが君を讃美する、その方角に歓呼を送る
われはは君の愛の息吹きから
いとしいものよ、火のような胸をあらわにし,そして流れへ
馳せ下り川音と声をあわせて叫び,君を兄弟と呼ぶ

I myself myself trying to transform the abstract picture of the river.
Are rivers flowing diversely like this?
Can the river express such a way?
There are various expressions in the river, it is made by transforming it into an abstract picture
Is it also an art? I do not have any talent for painting at all
So it is strange that he himself creates abstract painting like this.
Is it evaluated when it sees about 70 people in the United States?
Perhaps because the computer was invented in the US it may be interested in the art of such electronic space because it can not be said that it is real as a matter of necessity


the poetry of Helderin about river

Fortunately for you, the bond of ice is broken, the flow is to you
The river banks are also fainted, they celebrate a celebration song, We are a young man
Willing to drunk, flowing to praise you, cheer for that direction
We are from your breath of love
Oh dear, reveal my heart like a fire, and to the flow
Crying out together with the falling river sound and voice, I call you a brother


ヘルダーリンは故国のライン川を詩にした
川と一体化した詩を作った
自己同一化した詩を作った
日本にはライン川のよう長い大きな川がない
だからここまで川と一体化する詩は書けないのである。

Herderlin made poetry on the Rhine of the homeland
I made a poem integrated with the river
I made a self-identical poem
There is no long big river in Japan like the Rhine
So it is impossible to write a poem that unites with the river so far.



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タグ:abstract river

マスコミの報道には目的がある (NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)


マスコミの報道には目的がある

(NHKのニュースがフェイクにならない方法(武田邦彦)



天下りが必要だからそれを推進させるために老人の交通事故を過大にとりあげる
老人ならみんな増えすぎて無駄な奴が多いとかみんな思っているから批判しやすい
でも若い人とか女性となると反発が大きくなる
若い人と女性の方が交通事故が多いという事実を報道しない

なぜ老人が標的にされるのか?

それは天下りが必要でありそのために老人の免許関係で天下りの事務が必要なためにそうさる

その目的は何のか

役人が天下りの職が必要でありそのために老人から免許をとりあげる
そういう明確な目的があって報道している
それを言わないからNHKはフェクニュースになるという
自分はそんなに天下りが関係しているのか?
そういうことがわかりにくが原発事故でも原発ほど巨大な利権は他になかったろう
何兆円とかが湯水のように使われるのに驚いたし東電がこんな巨大な企業だと思わなかった,その辺が自分は社会のことがわからないのである。

その巨大な利権によって原発がゆがめれたのである。
原発自体が天下りの巣窟になっていたのだ,警察官僚から官僚の有力な天下り先になっていた,そこにはマスコミ関係者もいたとかなる

つまりそういう利権を天下り先を確保するために原発が必要だった

武田邦彦氏の論法だとそうなってしまうのである
こういう上層部の構造は一般庶民とかにはわかりにくいのである。
正直な話自分の家族の一人は公務員をしていたので多少そういう利益を得ていたことを知っている
そういう地位とか立場にいると自ずと得するようにできているのである。
結果として自分も得していたとなるのだ
株の世界などでも本当にもうけている人は何かそうした利得にあづかる立場とか地位とか権力をもっている人だとなり陰謀論になっているのである。

とにかく報道はただ事実を報道するのではない

ある明確な目的をもって放送会社がNHKでもしている

その目的は何なのだとなる,その目的を言ってニュースを報道すべきだと武田氏は言う
つまりNHKとか官僚は利権で結びつく,それはマスコミでもそうである。
どっちも得するようになっている

でもNHKなどではどういう目的で報道しているのか?

それがわかりにくい,中立で公平にも見えるからである。
まずこの辺で原発避難者を批判できなくなっていた
それはNHKでもマスコミでも原発避難者側に立って報道していたからである。
原発避難者が実際はパチンコ屋通いでありギャンブルで遊んでいただけだということも報道しない、ただかわいそうだということで応援していた
だから原発避難者を批判するとお前はなんなのだとなる
それで不満があっても言えなかったのである。

ではなぜ原発避難者側にNHKが立ったのか?
それは上層部で決めたことなのである。
あと取材する人はその命令に従っただけだとなる
ただ後から津浪の被害者も考慮して放送するようになった

とにかく放送するということは何か目的があって報道する
放送局でその目的がありその目的にふさわしいように放送するし編集する
そしてその目的にふさわしくないものは放送しないとなる

ではその目的とは何なのか?

それが問題になるのである。

事実だけを報道するといっても重大なことでも報道されないことがあるからだ
それは放送局にとって目的にかなわないからだともなる
森友学園問題にしてもまずマスコミの目的が不正正すということがあっても
今の安倍政権に打撃を与えて政権を倒すことを目的としている
だからともかくなんでもでっちあげても不正にして国民にそれを印象づける

一方で野党側の不祥事とか辻本と深い関係にあった会社が検察の捜査を受けたのを報道しないのである。それはマスコミにとって目的にふさわしくないから報道しないのである。NHKでも報道しなかったからである。
都合の悪いことは目的にかなわないのは報道しないのである。
それで原発事故でも10メートル以上の津浪を来ることを東電では想定していたのである。でもマスコミでは福島民友でも民報でもそれを大々的に報道しない
なぜなら政府と東電の目的に合うようにしか報道しないからだ
福島民報は出資の半分が県で負担しているから官報であり政府とかの不利なことは報道しないのである。
そこにも目的がありその目的にかなうものは報道するがかなわないものは報道すらしないのである。
それが大惨事につながったのである。

いづれにしろ報道でもそうだが利権と結びつくなんでもゆがめられるのである。
でも人間は利益には弱い,でもそのことが戦争で300百万に死んだとか原発事故とかの大惨事につながる
そうなると報道をただ権力をもっているものだけによって操作されたらまたそうした大惨事が起きてその被害は国民が受けねばならないのである。
そういう報道のことを国民が監視しなければ同じことがまた起きる
マスコミが芸能人の馬鹿騒ぎの場にしてはならないし重大なことに関心をもたせないとまた大惨事が起きる,国民がそのために苦しむのである
それは民主主義だと国民の責任であり指導者の上層部の責任ではないとされるのである。現実に政府も東電でも何ら原発事故では責任をとっていないからである。
ただ武田邦彦氏でもこの原発事故には責任がある立場にあった
今頃1ミリシーベルとか言っても何か虚しいとはなる

2018年06月08日

逃れられないカルマ (和歌山ドン・ファン事件もそうなのか?)


逃れられないカルマ

(和歌山ドン・ファン事件もそうなのか?)


この人自体が普通から見たら異常である。でも資本主義の世の中ではとにかく金があれば認められもてはやされる,金の力が露骨に現れる社会である。
江戸時代なら金ではなく身分でありその身分にふさわしいふるまいをしなければならなかった
今は身分など関係ない,金をもっていなかったら身分も地位もなにもない
何の力もないのである。だからどんな悪辣な人でも金さえもっていれば人はよってくる
でもそれはあくまでも金によってくのでありその人がどういう人格などとかそんなこと関係ないのである。
だから今の社会は「金の切れ目は縁の切れ目」ということがどこでも現れる
昔からそういうことがあったとしてもそれがあまりにも露骨になりすぎたのである。

とにかく自分もそうだったが60以降はカルマが具体的に苦しみとなって現れる
若いときの不品行とか別に犯罪として罰せられなくても人間はなにかしら後ろめたいことをしている,それで心の中で責められるのである。
ただ心の中で責められるならいいが具体的に苦しみとなって現れるのがカルマなのである60以降は人生の総決算のようなことが起こるし死ぬときもそうである。

だからこの人の死にざまはそのカルマの総決算として死だったのかとなる
溺愛していた愛犬も殺害されたのか苦しんで死んだ,そしてすぐに自分も殺害されたのか死んだ,なぜ犬まで殺されたのか?
カルマはその回りにいる人に及ぶからである。だから一番かわいがった犬もそのカルマを受けたとなる,そんなことがあるのかというがカルマは親戚と深く関係して影響するから怖いのである
結婚して相手の家のことなど関係しないと思っても結婚すれば相手の家のカルマを受けることになる
ただそのカルマはすぐに現れない,それが60以降とかでも現れるから怖いのである。
そのカルマが身に降りかかったときはじめてその怖さを知るのである。

自分もそういう目にあってきたことを書いてきた,これとにたことを経験してきたからである。
この人は金があっても金の亡者であり女性を物ののように扱う人だった
だから誰からも本当は愛されていない,信頼されていない,愛しているのは犬だけだったとなる
そして金目当てなのかどうか殺害されたともなる
こういう会社に勤める人の気持ちはとをなのか?
そんな人が社長になっている人の気持ちはどうなのかと思う
社長を見習いとなるとなるとそんな社長についていけるのかとなる

ただこの人だけではないカルマはみんなもっている,もたない人はないのである。
では良く通り魔殺人とかいろいろあるけどそれもカルマなのか?
犯罪にあうのもカルマなのか?それはただの偶然ではないか?
強盗に入って殺されるとかあるけどそれもカルマなのかとなる
多分にカルマはそこにある,金があるということでもカルマとなるからだ
カルマは多様なのである。人間が複雑なようにカルマの種類は多様であり計れないくらいある,だから犯罪にあうのもカルマだということはある

ただ例外はある,人間は苦しむのはカルマがかかわっていることが多いのだ
障害者をもってなぜ苦しんでいるのか?
それは前世で誰かを苦しめていた虐待していたためだとかなる
そうでも考えないとどうしてそんなに障害者の子供や病気で障害者となった人を障害世話しなればならなくなったのか?
それはおそらく前世で虐待していたためではないか?
自分が弱者化したとき責めてきたのはそういう前世の宿縁だったのか?
それが一応親戚だからその苦しみを自分も受けることになったともなる

ただこうしてカルマだと考えるとき自業自得だとなり相手を呪ったり恨んだりしない
自分がこうなったのはあいつのせいだとか恨み呪いつづける人がいる
でももしこれも自分のカルマだとすればその人は自分のカルマを自覚しているから自分のせいだとなるから他者を恨んだりしないのである。
でもそれに納得いかない人は今度は他者を責めるのである
ただ殺人までになるとそれはカルマなのかどうかわからない
それは相当に重いカルマとなるから軽々には判断できない
ただこの人の場合そうしたカルマを積んできて最後に総決算としてカルマが具体化して苦しみとなって悲惨なの結果となった
それは自分もにたようなことを経験しているから他者のことは言えない
殺されかかったということでは同じだったのである。
それは金にまつわりそうなった,金はそれだけ今の社会では怖いものでありもめごとの大半は金にまつわるものだからである。

自分の家族の一人は悲惨な死に方をした,それもカルマだったのか?
それも良くわからないにしろ一部は多分そういうことがあった
ただ善行もあり家のために尽くしたのだからすべてがカルマだったとも思えないのであるでもなぜ頭がいいとか最後まで優秀だと言って死んだ
実際は馬鹿になっていたのであるからこれもをと考えていいのか?
何か奢りがあってそういう無惨な死に方になったのだろうか?
カルマは死にざまに現れるのだろうか?
ただ人間は死ぬときはみんな苦しみ悲惨なのだからわからない
カルマは法則のようにあるとしても数式のようには現せないからである。

いづれにしろ今回の事件はわかりやすい,カルマがわかりやすい,誰が見てもあんな死に方するのが当然だとか見ているかもしれない,金の亡者であり金で女性をもてあそびそして死んだのだからまず女性の肉体を愛しても人として見ていないからである。
そういう人がもてはやされるのも金をもっているからなのだ
出版社も金儲けのために自伝を出させたり金が目的でみんな寄ってきているからだ
人間はやはり金があると金を目的でしか寄ってこなくなり金でもめるのが定番である。
金というのは怖いものでありそれで殺されるのが普通にある
今の世の中は特に金をもうければい得ればいいしかない社会となっているからその典型的パターンとしてこの事件が起きたと誰でもわかりりやすいから見ている


















posted by 老鶯 at 08:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

大草原のローラ様とアシオ様のコメントがありました (遅くなりましたがレス(返信)を書きました)


大草原のローラ様とアシオ様のコメントがありました

(遅くなりましたがレス(返信)を書きました)


自分のプログはめったにコメントがないので見ていませんでした

「今日の一句一首」は特にありませんでした

今回コメントがありましたので遅くなりましたが返信しました

コメントがあれば返信をしますが全部にはできません

やはりコメントがないとどういう反響があるのかわからないですから困ることはあります
ただアクセス数を見ているだけですから

アクセス数はページビューは最近かなり減っています

ただ訪問者は増えています,ページはあまり読まれなくなったが

訪問者は増えている、だから必ずしも減ったとはなっていない

おそらく「心の青雲」の読者が多かったということで著者が死んでからこっちにもアクセスがあったのかしれこません

その分析ができませんが・・・コメントが一人でもその関係者だったということでもそうかもしれません

プログは何かリンクされないとなかなか読まれないですから・・・

遅くなっても一カ月後とかでも返信をすることはあります

ですからそういう間隔でも返信があるということは知ってコメントしてください

「今日の一句一首」の方はコメントはほとんどなかったですから・・・

タグ:コメント
posted by 老鶯 at 10:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

下北高平の広い土地の家が壊されていた (その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)


下北高平の広い土地の家が壊されていた

(その人にその辺のことを聞いてみた-7代目であった)

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高平の五輪塔
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ここは藤の花がきれいな家

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この家が壊された 端にその壊された木材が積まれている

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こういう地形から名付けられた地名なのか?



今日いつも通る原町の下高平の広い庭に藤棚がある家が壊されてのに驚いた
なんだろとう思い見たら誰か木を切ってかたづけている
そこは畑になっていてその家の土地だったのである。
それで聞いてみるとシロアリにやられて新しく家を建てるという
壊した家自体は古くない,20年とか言っていた

それでそこの家の人に聞いてみた,前にもその人とは会ったことがある

「新田川のそばに古い墓地があるんですよ,立派な大きな五輪塔があるんです
この辺は西殿といって浜の方の人に聞いたら西殿をニシドンと言っていました
この辺ではニシドンと言っていますか?」
「にしどの,ああにしどん」

何かこう言ったからやはりこの辺で西殿をニシドンといっていたのである。

「この家は古いですか」
「7代目だよ」
「じゃ江戸時代からつづいている」
「この辺の農家はあそこの家で4町でありこっちは7町とかだよ」
「広いな,やっぱりここは古い所なんだ」

近くに金沢の所に墓地がありそこに越中からなどの移民の墓誌がある
でもあそこの墓地はもともとあそこになかった,移動したという
移民の人も高平に入ってきた

「草履をぬいだ話を聞きました」
「それはいつですか」
「戦前のことだったな」
「それでは江戸時代ではない」

何か戦前でも土地を求めて古い農家で働いた人がいたのだろう

「この辺で槍をもっている人がいたよ,そこは古いよ」
「名前は」
「脇本だよ」
「その人は野馬追いに出ていますか」
「・・・・・」

それから村八分のことを語った

「それからこの辺で村八分にされた人知っているよ」
「どうしてされたの」
「その人は変り者で土橋を渡るとき誤って転げて死んだよ」

村八分など聞いたことがないが何かそういうことは村にあった
そういう話は日本の村には良くあったのかもしれない
ともかく狭い土地でいつも暮らしているから何かうまくいかないと出て行くわけにもいかないからそうなったのである

こんな話になったがその家は7代とするとそれなりに古い,確実に江戸時代にさかのぼる
とにかく蔵がありその脇も広い畑なのだから古い土地持ちの農家だったのである。
海からの風通しもいいし気持ちいい場所なのである。
あそこはいつも通っていたからあの家はずっと気になっていたのである。

そもそも高平(たかひら)の地名の由来は何なのか?
タカタイラともありタイラとヒラは違う,ヒラは傾斜地を意味しているという
ヒラはアイヌ語説になればアイヌ語由来なのか?
北海道には高平の姓が一番多い
ヒラタイというときヒラは傾斜地でありタイは平地になる
ヒラタイとういうのは一体として使われた言葉なのである。
日本には山が多いから傾斜地が多いからそういう地形が多いのである。
それで野とは傾斜地の意味だったのである。
すると高平とは傾斜地がありタイラな地形になる
傾斜地とする金沢辺りから傾斜地になっているからそこから地形として名付けられた

なぜそうなったのか?

それはまず原始時代から自然をみるとそこも湿地帯だから高い所からその地形を見て名付けられた、どうしても傾斜地とすると金沢の方の高台の方から見た地形なのかとなる
高平地区はとにかく桜井古墳も近くにあり泉かんが跡もあり古い地域なのである。
原町の歴史地区なのである。
それが具体的にわかりやすいのはあの五輪塔なのである。
あれは南北朝時代のものであり相馬氏が入り西殿となづけられた
あの辺ではニシドンと言っていたのである。

前にもあの辺りだと新田川の橋を渡ったところにも古い家があった
六号線かあってもあそこはもともと農家があった田んぼと畑だったのである。
そこで古い馬頭観音が畑にあったのでそのの由来を聞いた
そしたら火事があって馬が焼けたということで供養したのだと聞いた
あそこの家は升形の紋が蔵にあり古い家である
ただ脇本という姓の人は野馬追いには出ていない
そこがどうして古い家なのかは不明である。

つまり高平一帯で三軒から自分は直接話を聞いたのである。
するとバズルのようにその地域の歴史を編むようにつなぎあわせることができる
ただそれもこの辺では鎌倉時代から南北朝頃からでありその前は歴史的に残っていても何か具体性に欠けるのである。

いづれにしろ郷土史はこうして直接その土地の人に聞かないと具体的にイメージできないのである。
そうして聞く機会がなかなかない,たまたま家が壊されていたので驚いて聞いてみたからできたのである。

posted by 老鶯 at 18:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

夏の桜井古墳(俳句短歌)


夏の桜井古墳(俳句短歌)

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古墳の上しきり飛び交ふ夏燕

夏の日や川海近く古墳かな

夏燕モスバーガーに休みけり

高平(タカヒラ)や桜井古墳に夏の月


我が立ちぬ桜井古墳大なりき燕飛び交いつつじ赤しも

草深く蛍袋の咲きにけり桜井古墳の夕暮れにけり

一軒の農家の古く広しかな庭に畑や夏の日暮れぬ


桜井古墳は東北で4番目に大きい,

東北最大の前方後円墳は宮城県名取市の「雷神山古墳」全長168m。次いで会津坂下町の「亀ヶ森古墳」全長127m。3番目がいわき市の玉山古墳」全長114m。同じく若松市の「会津大塚山古墳」全長114mが続く。

名取の古墳でも海側だしいわき市でも海側である。海側に桜井古墳もある
遠見塚古墳も海側である。
一方で会津はもともと国(くに)として知られていた
万葉集時代にすでに国という認識があった,だからあれだけ大きな古墳もある
その歴史は明治維新の城の落城までつづいていた

不思議なのはなぜ中通りには大きな古墳がないのか?

中通りの方が開けた地方だと見えるからだ,ただ古代に浜通りと会津が開けていた
それに何か訳があるのだろう,ヤマトタケルが海沿いに船で制服したという伝説があるからそれもかかわっているのだろう

桜井古墳の上に立つとそこからは海も見えたろうしまた新田川あり川の側だから立地的に納得する
高平(タカヒラ)というのもヒラが傾斜地という意味だと金沢の山側が傾斜地になっているからそこからなづけられた開けた平坦な土地として最初にこの辺で田んぼとかになったのかもれない
泉かんが跡もあるしそこは原町の歴史地区だったとなる

ともかくあの一軒の農家は広い,風も海側から吹いてくるから涼しいとなる
自分の場合はいつも高平は通って原町市街に入るから関心をもったのである。
あの五輪塔もあって関心をもったのである。

今は螢袋が咲いていた,これは梅雨の時期に咲く花である。

あそこは散歩するにはいい場所である,やはり人間は一番適地を選んで発展したとなる
だからその場を踏むとその土地の歴史が実感としてわかる
それは資料とか本だけ読んではわからないのである。





















2018年06月09日

社会は常に優秀な人を求めてきた (一番優秀なのはAIになるのか?)


社会は常に優秀な人を求めてきた

(一番優秀なのはAIになるのか?)


人間社会は優秀な人間が常にどこでも求められてきた,ただ優秀だというとき時代によって変わる、侍として優秀なのはやはり武道ができる人だったり戦争で力を発揮する人である。
明治以降になると福沢諭吉がでてきて学問に優れた人が出世するとなった
それから理系の技術者がいたるところで必要になりそこで優秀な人が望まれた
戦争も核兵器などのように技術競争になったからである。

人間社会は会社でもそうだが国でもそうだが優秀な人がいるとその人によって会社でも国でも株があがる,アメリカを見ればわかる
コンピュターを発明した人がビルゲイツとかいたからこそアメリカは技術的に情報社会で世界を支配するとなる
そういう天才がいて優秀な人がいて国家でも株が上がり世界を支配する
ただ金融だけでは支配できない,紙を刷っているだけで世界を支配できるとなればこれほど楽なことはないからである。

ヨーロッパが世界を一時支配できたのはヨーロッパには天才が非常に多い,それで発明発見があり産業革命があり豊かになった
イスラムが遅れたのはイスラムから学ぶものが宗教しかないというときほとんどの科学技術でもヨーロッパで発明されたものである。
その差が歴然としているのだ,イスラムになにがある,アラーの神がある,他に何がある石油と砂漠しかないのか?そんなふうになっている
世界レベルでイスラムから学ぶものがない,それは芸術の分野でもイスラムから偉大な天才は出ていないのである
中国でも発展したがパクリ国家であり何も世界をリードするものを発明されていないのである。だから先進国になれないと言われる

なぜ最近AIとかがうるさく言われるのか?
つまり人間は優秀な人材を求めている,でも優秀な人材は簡単に得られないのである。
会社でも国家でもどこでも求めている,その優秀な人材を得られれば会社も国家も株が上がるからだ
例えば医者でも一人の優秀な医者がいると例えば手術がうまい医者がいるとその病院の株は上がる,南相馬市では脳外科で脳出血関係で手術がうまい先生がいてその人がいたから脇に専門病院ができた,その先生に習うために若い医者も来るという
つまり一人の優秀な医者がいれば地域にも医者来るとなっているのだ
他に銀行でも投資に関しては素人並だった,投資には相当な知識と専門性が必要であるが銀行にはそうした優秀な人はいないのである。
もしそういう優秀な人がいれば投資関係でも銀行はもうけられるとなる

人間は簡単に優秀な人は得られない,するとどうするのか?
AIに優秀な人の代わりになってもらいうということになるのだ
いくら優秀な医者でも手術がうまいとしてもその数をこなすのは限られている
優秀な人はものすごく忙しくなる,優秀な手術のうまい医者にみなしてもらいたいからそうなる
するとAIにその代行をしてもらうとなれば好都合なのである。
Aiだと休まず24時間働いても疲れないからである。

自分もプログを三つくら一日アップすると疲れる,家事もしなければならないしそんなに一人の人間ができないのである。助士が欲しいがそれも簡単にはできない
金もないし家政婦も雇いない,やはり一人でやれば忙しくなる
ただインターネットだと知識吸収とか発信のスピードが早くなり効率的になる
これを図書館で調べていたら一冊一冊本で調べると時間がかかってできなくなった
家事があるので余裕がないからだ
図書館に必要なのはアルバイトの司書ではない,本でも情報化したAI化したロボットなのである。
なぜならキーワードで郷土史関係の資料でも調べられれば効率的になるからだ
まずアルバイトとかの司書などはただそこにいるだけで役にたたない,案内役にもならないからだ

ともかく優秀な人間は忙しくなる,やることが多くなる
でも助士が欲しいとかなるとその人だって優秀でないと勤まらない
それは科学者が実験している時でも弟子が助士が優秀でないと役にたたないからだ
だからどこでも優秀な人を望まれているがそんな人は簡単に得られないのである。

ただAIがどういうものか今はわからない,まず翻訳には驚いた,そのレベルが高いから学校の先生に学ぶよりいいとなる,あんなにすらすら翻訳できないからだ
他にも自分のしている抽象画も実はAIとにている,AIが創作しているのではないがソフトで制作しているからにている,これも70から80人のアメリカの人が見ているのである。
だから評価されているのかとなる,これもコンピュターが産み出した芸術でありAIと関係しているのである。
AIは人間の助士になる,知的な分野で助士になる人も簡単に得られないからだ
手術するにもAIロボットを使うのもそのためである。
それは手術の優秀な助士なのである。

AI社会とはどういうう社会なのか?
人間は優秀な人を求めてきた,でも優秀な人は簡単に得られない,するとAIに代行してもらえばいいとなる,労働者でも簡単な仕事はロボットがする
そのロボットを優秀な人が発明すればいいとなるのだ
そして優秀でない人は社会で人類でいらないとなる
なぜなら高度な知的な仕事はAIを使うからである。すべてができないにしろ助士として優秀だからである。
そこでロボットが簡単な機械的にできる仕事をさせると単純労働者はいらないとなる
働く場がなくなるとなり格差社会ちなる
でもまずみんな知的にも技術的にも優秀な人間になれるのは極一部なのである。
その極一部でもAI化すればロボット化すれば社会は回ってゆくとなる
人間はそうして優秀な人間を求めてきた,だから必然的にAI化してゆくとなったのだ

今後の社会の歪みは人工知能を拡大させ、巨大ハイテク企業が世界を制する


posted by 老鶯 at 07:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題