人間は誰のために働いているのか?
(自分のため,家族のため,会社のため,地域のため、国のため・・・)
人間が働くということはそもそもただ金をもらうためのなのか?
月給をもらうためなのか?それが前提条件としてある
でもどこで働くにしても自分のためであり家族があれば家族のためであり会社があれば会社のためである。
そこから地域のためとか故郷のためとか国のためとかまではならない
ただ戦前はみんな国のために働いたのである。
そうでなければいくら強制されたとして3百万人も死ぬということはありえないのである
地銀を例にとればまず自分のために働く,月給もらうから働く,地銀をもうけさせるために働く,それで今利子がつないから客をもうけさせるために投資信託などをすすめるようになった
それにはノルマを課せられている,自分がノルマを果たして成績をあげれば会社で評価される
まずそのことが第一となり客にもうけさせるよりノルマを果たして自分が成績をあげる,会社を地銀をもうけさせる
それでリーマンショクの前からもっていた株を上がっているのに投資信託に回した
それはノルマを果たすのと勤めている地銀をもうけさせるためである。
今地銀は苦しいからである。
でも地銀の役割としては地銀とあるごとくその地に根付いて会社を育成するとかその地域に金融で役立つ地域のためにとかも働く一番の要因としてあった
証券会社とは違うものとして地銀は成り立っていたのである。
地銀でも会社そのものが共同体にもなっている,だからこそ企業戦士として高度成長時代はあった,命をかけても会社に尽くすのである。それは家族と同じだったのである。
働くというとき江戸時代の棒振りで商売している人さえ国のために働くという意識があった,江戸時代なら藩のために働くということである。
地域と密接に結びついて働いていたとなる
なぜなら会社というものがその時はないからである。
・・・屋という屋号をもつものが会社であり丁稚奉公として働いていた
そこでも自分のために屋号をもつもののために地域のために働いていたし家族のためにも働いていた
働くということはだからその範囲は実際は広いのである。
駅でもボランティアしていると駅は街の人のためにまだ案内がある,それから外から来る人の案内があると外から来る人は全国の人だとなると大げさになれば全国の人のために働いているとなる
それは自分のためであり地域のためであり全国の人のためだともなる
働くとはたいがいそういうものであり自分のためにだけ働くのだと言っても実際は働くというとき広い範囲に波及しているのである。
ただ複雑な社会でありあまりにも広いグローバル社会になると意識できないのである。
グローバル社会になれば世界のために働いているということにもなる
働くということはなんらかの共同性があり共同を追及している
例えばバナナを日本に売るとしたらバナナを作ったり売ったりしている人は日本人のためにも働いているとなる
バナナを食べられるのはバナナを作ってとって運送してくれる人がいるからである。
バナナは自動的にとれたりしないのである。バナナをとる経験した若者は苦労があったとするときバナナをとるにも苦労しているのである。
それはあらゆる世界から入ってくる食料に言えることなのである。
でもそこでバナナを作りとる人が日本人のために働いているとは意識していない
ただバナナを売って金にしたい,その金で買いたいものがあるから売っているとなる
日本人のためだとか思わない,第一日本人がいたとしてそういう人とは直接会わないからである。
私の作ったバナナを苦労してとって送った、その人が喜んで食べている役にたってうれしいとかならないのである。
身近に住んでいる人ならそうなっていたが国も違えば遠いしそうはならない
でもバナナは自動的にそこにあるように思える,そして金を出せば買える,そこにそれを作ったりとったり運送したりする人を意識しないのである。
ただ物としてあるだけなのである
狭い市場だったら何か売るにしてもその物を作る苦労を語ったり買うものと売るものの話があった,それが現代では一切ない,ただ金でやりとりするだけなのである。
つまり物と心が分離している経済でありマルクスは疎外としてそのことを言った
日本人は物と心は一体化して考えていた,物はものごごろとかものがつくとか物と心は分離していないのである。
薬でも看護師さんからこの薬は良く効きますよ飲んでくださいとすすめられる,その時感情をこめてすすめられる,どうぞこの薬を飲んで良くなってくださいねとか女性の看護師に言われると何か直るような気分になる,つまり薬に何か人間の気持ち心が願いがのりうつるのである。物に心が憑くのである。
その時薬はただの薬ではない,人の心が願いとかが愛とかでもついたものとなる
母親が子供に出す料理はスーパーで売っている惣菜とは違い母親の愛情がこもっているから心がついているから違ったものなのである。
バナナにしても単なる食料ではない,物ではない,そこにそれを作る人や収穫する人や運送する人がいてようやく食べれるものなのである。
それを意識して食べている人はいない,金があれば食べれるではないか?
問題は金なのだとなる,完全にその時金しか念頭にないのである。
またそうならざるえなくなったのが現代の経済だとなる
ただ物を売るときただ物を売るというのではない,そこに心をこめて売るということがある、その人のために思って売るとういことがある
ただ物を売るとういのではなくこの品物は食品の効能がありそれに心を込めて売る
そこで人の手を介在して渡すとき物に心がつくとなる
胃が悪くて朝鮮人参の飲み物を買うとき薬屋の人が血流を良くするという一語で何か効くように思えたのも不思議である。それはただ効くというだけではない科学的裏付けあって言っていたからである。今は科学的裏付けの方が信用されるのである。
昔はそうではなくただ法印とかに頼み祈ることに効用があるとさたのである。
それで営業力が試されるとなる,何かヤクルトなどの販売はそうして物だけを売るのではなく手渡して売ることによって物を人間味あるものにしているのである。
だから何でも自動化することコンビニすら人がいなくなるということでそれで本当に物が売れるのか?そこに人間が非効率でも人間味ある社会を望みそんなこと嫌だとなる
多少高くても人間味があるのがいいともなるかもしれない
つまりAIとか自動化機械化が人間社会では万能ではないのである。
人間とは常に日常のありふれたことでもささいなことでも考える哲学する
それが人間の人間たる所以なのである。
そんなことを考えるより金になることを考えればいいのだともなるのが普通である。
この社会であれ自然であり考えるのは人間だけである
動物でも植物でも地球にあるものでも自ら考えるものはない
人間だけが考えるのでありだから考える葦だとい言われた
ではなぜ人間は考えるのか?
なぜ働くのか?
毎日人は働いている,だからこそ働くということが一番の関心事になる
自分は若いとき流れ作業とか工事現場でしか働けなかった
だからその時働くということは考えない,ただ日々の糊口を得るためだけに働いていたのである。
奇妙なのはその後働いていない,でも働くというどういうことを考え続けてきたのである働かない人間は働くことを考えつづけるのも奇妙だとなる
でもそういう矛盾は人間に常にある
マルクスも別に働いていない,ただ大英図書館に通って本を読んで調べていただけだとなる
人間は働くということを考えるとき働くことに意味と意義とか価値を見いだしたいのである。そんなこと金によって決まるじゃないか,金をもらえばいい,多くもらえる人はそれだけ価値あることをしている,それだけだよともなる
でも本当にそれだけで人間は納得するのか?
人間は根本的に誰でも哲学者なのである。
金をもらえればいいしそれで食べられればいいあとは何も考えないとはならない
確かに肉体労働者でもそういう人は多数である。
そんなことを考えているのは実は暇人であり働かない人だともなる
学者は実際の現実の場で働かない人である。働くことを分析している人だからである。
人間は何するにしても意味と意義と価値を求める,それは別に金をもらえば価値あることをしているとなる
でも金をもらえなくても価値あること意味あることをしている人はいるのである。
遊ぶということも実は意味があり価値があるのが人間である。
第一いろいろな娯楽があるけどアニメであり映画であれゲームであれ仮想現実で遊んでいる人に莫大な金が使われている,遊びを提供してもうかっているのが現代である。
それが金になっているから遊びも価値あるとなる
でもこの世に金にならなくても価値あるものはいくらでもある。
価値は多様だし無数にあるといっていい,何が価値あるのか?
それは人によって数限りなくあるからだ
これだけの本が出ているとういことそれはみんな自分の価値を認めてもらいたいということである。
プログでもインターネットでも何かを発表しているのは自分の価値を認めてもらいたいからなのだ
金になるならない前に価値を認めてもらいたいのである。
土地も本来の価値、その土地の持つ属性が削ぎ落とされ、地価という価値でしか評価されなくなる。しかし、土地の価値は、その土地の利用価値で決まる物なのである。
例えば、海に近い土地とか、よく肥えた土地とか、思いでのある土地とか、由緒正しい土地だとか、歴史のある土地とかである。土地は利用目的によって様々な形を持っている
このように価値は多様なのである。それがすべて価格で金で判断されることが社会をゆがめているのである。このサイトではそのことを追及している
だからベーシックインカムが必要になる,その時本当に価値あるものを追及する人が出てくることは確かである。金だけで使われない価値を追及するのである。
ただ実際にこれが実行したらまた様々な問題が生まれてとりやめになるかもしれない
それでもなにか現代の金だけの経済を見直すことにはなる